サランコットの丘
13日も朝からトレッキング。もちろんただのトレッキングではなく、ヒマラヤを遙拝できる展望台をめざすものなのだが、ごらんのとおり、この日からポカラ周辺の靄がひどくなった。不思議な靄だ。晴れているのに、視界が狭い。湿った靄ではなく、黄砂のように乾いた靄。翌日、フライトに重大な影響を与える気候現象であることを知った。
サランコットの道は険しかった。ルムレは等高線と平行に石畳の道が通り、道と集落もまた平行関係にあったが、サランコットの道は等高線と直交し集落を貫く。サランコットの展望台からはマナスルが見えるはずだった。しかし、マナスルをはじめとするヒマラヤの連邦を靄のスクリーンが遮蔽してしまった。
サランコットの道沿いには土産物屋が軒を連ねていた。観光客ずれした人たちと接しても、若いころの自分に戻れない。ルムレとは少なからず趣きがちがった。ヒマラヤはみえないし、民家集落もいまひとつ。いつしか植生に目を凝らしていた。
「民族建築」に没頭していた1980~90年代前半、日本人の高名な地理学者や植物学者が「照葉樹林文化論」を提唱し一世を風靡していた。西日本の原生林ともいうべき照葉樹林帯は、植生分布図をみる限り、長江流域以南から雲南・アッサム方面にまでひろがりをもっている。ここに共通の文化圏がある、という発想で、中尾佐助が最初にこの仮説を唱えたのは1960年代の終盤だったはずである。その後、佐々木高明が中尾の理論を実証的に裏付けようと、論著を連発する。かれらの仮説は単純きわまりない。稲作も稲作以前の雑穀栽培も、みな雲南・アッサム地域の「東亜半月弧」に起源すると言いたいのである。

1982年の夏から中国に留学し、いま帝国大学の大教授になってしまった博士課程の考古青年と何度か旅をした。かれはよく口にしたものだ。
「照葉樹林文化なんてことは言えない。考古学の物証とまったく一致しない」
後にかれの指導教官になる北京大学考古系の厳文明教授は、その前年に中国全土で出土した新石器時代の栽培イネの痕跡を丁寧にひろい集め、東アジアにおける栽培イネは長江中下流域に起源し、それが雲南方面に向かって漣(さざなみ)のように拡散していくプロセスをあきらかにしていた。照葉樹林文化論の全盛期に、中国の考古学者は照葉樹林文化論を根底から揺るがす大論文を発表していたのである。
おもしろかったのは、中尾・佐々木の兄貴分にあたる今西錦司が、晩年に「混合樹林考」という論文を著して照葉樹林文化論を痛烈に批判したこと。たしか80年代の終わりごろだったと思う。西日本にも、江南にも、雲南にも、アッサムにも「照葉樹林帯」などという植生域は存在しない。あるのは「混合樹林」だと今西は説いた。その舌鋒は鋭く、「照葉樹林帯が存在しないのだから、照葉樹林文化などというものは架空の産物」だと結論づけた。痛快だった!
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- 2009/03/19(木) 13:19:36|
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ルムレ村の民族誌(下) 1980年代から90年代にかけて、中国の貴州省、雲南省、黒龍江省によく足を運んだ。とりわけ、雲南と貴州の農村地帯は感動的だった。高山の棚田や段畑に囲まれるようにして、少数民族の集落が点在する。どの集落に行っても、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定できるほどの民家建築群が残っていた。わたしたちは夢中になって民家を実測し、集落を測量し、ヒアリングを続けていった。あれからずいぶん時間が流れてしまったけれども、ルムレというカス族の集落をゆっくりゆっくり歩き、休む暇なくシャッターを押しながら、心だけ懐かしい30代に戻っていくような錯覚をおぼえた。
-わたしの居るべき場所はここだ。
なんていうと大袈裟だが、自分らしい自分がルムレにいる。鳥取で「限界集落」に惹かれるのも無理はないのかもしれない。


ルムレのような村落にいると、「建築」が人を圧して疎外することはない。建築は自然や田畑と一体化した日常の「環境」になりきっている。屋根は頁岩の板石葺き、壁は板石の平積み。軸部と小屋組は木造で、軒の出をネパール特有の筋交状持ち送りが支える。この持ち送り技法を除けば、貴州プイ族の「石の家」が最も近く(目を遠くにひろげればオークニーともそっくり)、さらに屋根は対馬、壁は済州島とも似ている。済州島といえば、閂をつかう屋敷の門もよく似ている。これには驚いた。ただし、閂の数がちがう。済州島は3本、ルムレは2本である。

シュリさんは、これまで案内してくれた海外のガイドのなかで、最も聡明な男だった。33歳のかれはなんでも知っている。
「この村に住むカス民族はちょっと複雑でしてね・・・ブラーミンと呼ばれる人たちが
自分たちを偉いと思っています。それから、チェトリという人たちがいます。かれらは
戦士です。いちばん身分が低いのはダマイという人たちでして、衣服を縫ったりする
職人さんたちです」
シュリさんはカーストについて触れたかったのだろう。道を歩いていくと、制服を着た中学生と何人もすれ違った。みな、インド・アーリア系の美しい顔をしている。しかし、そのなかにモンゴルかツングースではないか、と思わせる少女も混じっていた。インド・アーリア系とチベット・ビルマ系が入り乱れており、それがカーストを反映しているのか、という憶測を働かせていたところ、シュリさんはミニバスのなかで付け加えた。
「民家の形に階層があらわれています」
民家にそれほど大きなバリエーションがあるようにはみえなかったが、午後訪問した山岳博物館の野外(↓)に民家が展示してあり、そこでの説明にしたがうならば、どうやら裳階(もこし)状の四面庇をもつ建物がブラーミンの住まいであり、庇のない素朴な平屋の建物が下層階級の住まいであるらしい。(続)
- 2009/03/18(水) 14:34:09|
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ルムレ村の民族誌(上)
チャンドラコットから下る林道がY字に枝分かれする三叉路を左に折れると、骨董品のような艶光のする石畳の道がのびている。しばらく進むと、上下の段畑でサンドイッチ状に挟まれた石壁・石屋根の民家集落が視界に納まり、まもなくその内部にわたしたちは入り込んでいった。
上りはつらかったトレッキングが、一転、極楽に変わった。苦しさは微塵も感じない。それは重力に逆らうことのない下り道だから、という理由にもよるのだろうが、そこに懐かしいの自分を発見したからだ。
京都の大学にいた4年間、わたしは建築学科にいることをずっと後悔していた。理学部を志望していたはずなのに、6歳年上の兄が何気なく口から漏らした「理学部なんか行っても就職はない。行くなら工学部」というアドバイスに惑わされた。兄が悪いわけではない。惑わされた自分が悪いのだ。工学部が向いていないことぐらい百も承知していたはずなのに、「建築」には芸術の匂いがする。これに騙されてしまった。入学してまもなく文学部への転学を考えたが、入試の点が思いの外よくなく、叶わなかった。そのまま4年が過ぎてしまい、時は流れて、いま「建築」を生業にしているけれども、「建築を専門にするのではなかった」という思いはずっと消えない。できれば自分の人生を18歳にリセットしたいとしばしば思う。

転機が訪れたのは修士課程1年次の夏。南太平洋ミクロネシアのトラック環礁で2ヶ月間のフィールドワークをほぼ一人でおこなうことになった。トルという島の頂に500年ばかり前の山城跡が残っていて、その整備にともない伝統的な集会所を復元建設するという計画がもちあがった。その記録をとってこい、と教官に命じられた。これがわたしの研究人生における処女航海であり、不思議なことに、その後の方向を決定づける「民族学」と「考古学」という二つの要素が含まれている。もっとも、後者については、好きな学問分野であったわけではない。平城宮で14年間発掘調査に携わったけれども「楽しい」と感じたことはほとんどなく、発掘調査の技術に至っては下手くそを絵に描いたようなもので、こういう自分が各地の遺跡調査の指導をしていることをとても恥ずかしく思っている。
だから再び宣言します。しばらく遺跡の調査や整備に係わる仕事を控えますので。とくに「復元」については慎重に構えざるをえません。以前からそうなんだけど、復元「研究」を否定するつもりはないけれども、復元「事業」に係わる自分にしばしば嫌悪を覚えるので、少しく距離をおきたいと。しばらくわたしに時間をください。


もうひとつ付け加えておくと、わたしの正真正銘の専門分野は「建築史」ではない。日本建築史でもないし、中国建築史でもない。「民族建築」がわたしの専門分野である。「建築史」と「民族建築」はいったい何がちがうのか。前者は時間軸とモノを重視するのに対して、後者はいわゆる民族誌的「現在」を対象とし、モノの背後にある「知識」を記述するものである。
B.マリノフスキーやE.プリチャードの仕事を思い起こしていただければよいだろう。辞書もない未開民族の地に入り、何年もそこに滞在して言葉を覚え、かれらの文化を記述していく。ここにいう「文化」とはモノではない。モノの背後にある「知識」の総体である。「民族誌」を書くという作業は、すなわち、この「知識」の総体たる文化を記述することにほかならない。こういう仕事にあこがれていた。やはり理学部か農学部が向いていたのだ。「辺境」にある「未開」社会は豊かな生態系を背景に素朴な農耕や遊牧や狩猟を生業としている。生物学・生態学や農学の知識が必要不可欠であり、これに言語学の基礎が伴えばなおよいだろう。しかし、わたしの専門は「建築」だ。だから、「建築」というモノを通して文化を見通す、というスタンスをとるしかない。そういう学問領域が「民族建築」なのだけれども、残念なことに、未だほとんど認知されていない分野だという自覚はもちろんある。
- 2009/03/17(火) 17:59:05|
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みなさん、17日ぶりに鳥取に帰ってきましたよ。今日は早くも入試でしてね。まぁまぁのスタートを切っております、学科も、大学も。
昨日までは「けんびき」症状に悩み、2日連続ホームドクターに診てもらいました。オホーツクからハノイにワープするような旅を続けてきたわけだから、疲れもたまるわね。それよりなにより、諸悪の根源は某出版社からの原稿の催促であります。縄文の校正(大直し)と図版揃えをようやく終えたと思ったら、
「で、弥生の原稿はいついただけますか?」
だって。少しは休ませろってんだ!!
じつは、わたしはベトナム滞在中、正式に「
辞退」を申し出たんですよ。「縄文も弥生も辞退したい」とお願いしたの。その返信は「必死の慰留」でして、「じつはまだ原稿の集まり具合は7割程度ですので、猶予があります」なんて書きながら、縄文を仕上げた瞬間に「弥生はいつ?」だかんね。
こういう編集者では書く気にならんわ。そもそも考古系の文章ってのは書いてて楽しくないんだ(薬研堀慕情は楽しかったな!)。で、週明けにはもう一つ催促がくるんですよ。それもまた弥生で、そのあともう一つ弥生がある。あぁぁぁぁ、生まれてくるんじゃなかった・・・・おれは弥生のために生まれてきたんじゃないぞ。
弥生のことは、ハマダバダが書けばいいんだ。やつは弥生しか書けないんだから、弥生だけ書けばいいのであって、わたしのように他に書くものがいろいろ溜まっている人間は他の原稿に専念させとくれ・・・
さてさて、愚痴もいい加減にしておいて、17日間も留守をしていたもので、郵便物はたんとたまっておりました。郵便物の処理に昨夜は時間を費やしましたが、そのなかに二つの学位請求論文が含まれています。一つは『水上人と呼ばれる人々-広東珠江デルタの漢族エスニシティとその変容-』、もう一つは『アイヌ文化成立期から近世期末におけるアイヌ民族の建築に関する研究』という論文。本ブログの熱心な愛読者なら前者の執筆がどなたかおわかりでしょうね。ヒントはわたしの学生だったことがある人で、ここ3年ばかり続けているハロン湾水上集落の調査研究とも間接的に係わっている方です。
後者の執筆者とは面識がありません。ただ、まったくつながりがないか、といえば、そうでもない。研究者同士は、赤い糸、じゃなかった、細い糸で結ばれてますからね。それにしても、この論文は絶妙のタイミングで送られてきたというほかありません。なんたって、今年度はオホーツク文化住居の基本設計を委託されており、当然のことながら、北海道アイヌの住居を避けて通れるはずはないからです。建築物や絵画資料だけでなく、近世アイヌ住居の発掘調査遺構についても1章を割いており、後期の復元設計におおいに貢献してくれるでしょう。
さっそくお二人には御礼のメールを送信しました。ここで、もういちど感謝もうしあげます。ありがとうございました!
こうして若い世代がどんどん新しい研究を発表してくれると、わたしたちにも刺激になりますね。正直、「研究なんか、もうや~めた」と捨鉢になることもしばしばありますけれども、まぁしばらくふんばらないといけません。
でも、頭をよぎるよな、老子の言葉が・・・「学を絶てば憂いなし」。
- 2008/09/15(月) 00:26:57|
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2006年度に住宅総合研究財団の助成をうけた「
蛋民の家船居住と陸上がりに関する文化人類学的研究」の成果論文が『住宅総合研究財団研究論文集』№34(2007年度版、全488頁)に掲載されました。研究助成採択時にはタイトルに「蛋民」という用語を使っていましたが、実際の調査研究では広東の「蛋民」よりもベトナム漂海民のデータが多くなり、査読者から全体を総括する概念として「水上居民」という用語を用いるほうが適切であるとの指示があり、タイトルを下のように変更してます。
以下、文献の基礎情報を記しておきます。( )内は執筆者を示します。
長沼・張・浅川 「水上居民の家船居住と陸上がりに関する
文化人類学的研究 -中国両広とベトナムを中心に-」
1.はじめに (長沼)
2.ハロン湾水上集落の調査
2.1 ベトナム水上集落調査の概要 (浅川)
2.2 ハロン湾と水上集落 (浅川)
2.3 クアヴァン水上集落と筏住居 (張)
2.4 居住動態に関する予察 (張)
3.「蛋民」の陸上がりと社会変容 (長沼)
3.1 両広の「蛋民」
3.2 蛋民から職業集団へ
3.3 陸上がりにともなう水上人の変容
3.4 創られる水上人
4.水上居民の居住動態に関する比較検討 (長沼・浅川)
出典: 『住宅総合研究財団研究論文集』№34 : p.65-76
発行年: 2008年3月31日
発行所: 住宅総合研究財団
発売所: 丸善株式会社 出版事業部
印刷所: 株式会社 七映
ISSN 1880-2702
定価: 2,520円(税込み)
本論文には2006年度のチャック、エアポートの「
越南浮游」、2007年度の某院生、ハルさん、エアポートの「
越南浮浪」の成果がふんだんに盛り込まれております。
いまとなっては懐かしい想い出ですが、某院生くんにとっては想い出でもなんでもなく、修士論文のテーマそのものですね。まずはこの論文をよく読んでください!
- 2008/04/17(木) 08:17:31|
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