檳榔の木陰で 檳榔子を噛む習俗にはじめて接したのは、1983年のヤップ諸島においてであった。褌一丁で生活するヤップの男たちは、気分転換に檳榔子を噛む。煙草も吸う。檳榔子と煙草は交替交代のナルコティックスだ。檳榔子を噛むと、歯茎や唇は真っ赤になる。常習者はひとめで分かる。
その後、どこかで、檳榔子を噛む男たちをみた。あれは、どこだっただろうか。忘れてしまった・・・東南アジアか、スリランカか・・・ペナン島の名の由来がビンロウジ(檳榔子)だというから、マレーシアなのかもしれない。

ミャンマーの市場で、まずキンマをみつけた。その横に乾燥した檳榔子をおいている。もちろんどちらも売り物だ。材料だけ売っている場合もあれば、キンマの葉に石灰を塗り、檳榔子をくるんで売るのもみた(↑)。男たちがそれを買って、ただちに口に含む。「噛み煙草」という表現を案内人は口にした。噛んでいると、煙草とおなじように、軽い酩酊感に酔うというが、書いている本人は噛んだ経験がないので、どんな快楽なのかは分からない。
煙草と同じく、発癌性のある成分を含んでおり、健康によいはずはないのだが、檳榔子を噛んでも(あるいは煙草を吸っても)、酒とちがって、「地獄には堕ちない」と教えられた。仏教信仰心の篤いミャンマーでは、「・・・すると、地獄に堕ちる」という禁忌が少なくない。耳に痛いお説教ばかり聞かされた感なきにしもあらず。
昨日の記事の最後に中川イサトの「蘇州夜曲」を貼り付けたことに気づいている読者は少ないかもしれない。「蘇州夜曲」の次に「檳榔の木陰で」という曲がでてくる。イサトさんも、「檳榔」という特殊な椰子のことを知っているのだ。かれには「
茴香」という曲もあった。やはり特殊なハーブだ。こういう知識のあるギタリストは、いい曲を書くよね(関係ないか?)
昨夜と重複するけれども、上にはりつけておく。

↑キンマの葉 ↓檳榔子
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- 2011/09/28(水) 03:28:37|
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青木遺跡神社建築復原設計も大詰めが近くなり、土曜日の夕方、大学へ。アシガル君とヒノッキーの指導をした後、まる1週間手をつけていないミャンマーの連載を再開しようとしたのだが、1週間ばかり「けんびき」症状に悩まされていて、教員室のミニベッドで横になると、そのまま眠りに落ち、気がつけば深夜になっていた。5時間ばかり睡眠をとったおかげで、いくぶん肩が軽くなっている。
昼に蕎麦をたぐっただけで、お腹がすいていたので、久しぶりにココスに行って、竹蔵が好きだった包み焼きハンバーグを食べた。じつは食欲もずっとなかったのだが、今夜はおいしくいただけた。
アマゾンで注文していたミャンマー関係の文献が少しずつ届いている。もう少し待てば、結構な量になる。それまで待とう。ラオスとちがって、ミャンマーは王朝の歴史-文明の歴史と言い換えてもいい-が深いので、歴史の大枠を理解するにも時間を要する。本格的な連載の再開はそれからでもよいだろう。
タナカ 今夜はサービスショット掲載をかねて、「タナカ」について簡単に話しておこう。
上下の写真は、バガン2日のレストランでのディナーショー。民族舞踊を少女と女形が踊っているシーンだが、少女たちの頬に注目していただきたい。白い粉を無造作に塗っている。これはタナカという木をすり下ろした粉だ。タナカは白檀の一種で匂いもよく、皮膚を日射から守る効力がある。生薬なので、肌を痛めることもない。こういう舞踊家たちが専門に使う化粧品というわけではなく、ミャンマーの女性にあまねく使用されている。
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- 2011/09/25(日) 05:07:43|
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以下はミャンマー訪問の4日め、14日深夜にマンダレーのホテルで書いたものである。ロビーでは無線LANが通じるということなので挑戦したのだが、「下書」の保存時に接続が切断した。ミャンマーにおけるネット接続は不安定きわまりなく、メールは送受信ともできない。
撮影したデジカメのデータ容量は20ギガに達した。ルアンプラバンの4倍である。夜は写真データの整理だけで相当な時間を浪費し、ブログの記事を書く余裕がない。毎朝6時にモーニングコールがある。そんなこんなで、ブログに久しぶりの穴をあけ続けることになった。よい休養だったかもしれない。
ウーペイン橋の風に吹かれて バガンにはやられてしまった。
「仏教聖地の3大遺産」という高い評価を得ていることだけは知っていたが、ここまでのレベルだとは思いもよらず、唖然・呆然・絶句の連続にわれながらあきれている。アンコール遺跡群やスリランカの仏教遺跡群に比肩しうる文化遺産に接しつつ、ミャンマーの政情が世界遺産への登録を妨げてきたことを残念に思うと同時に、諸外国の手がつけられていないモニュメントと景観に抱かれて幸せだった。
いま、ネットに接続できるかどうか微妙な状態にあり、また、本気でバガンのことを書くエネルギーも残っていない。バガンはとっておくことにして、昨日訪問したアマラプラの話から始めることにしよう。

ラオスで街のあちこちをうろついていた猫がミャンマーにはいない。街を徘徊しているのは、頼りない犬たちばかりなのであまり嬉しくなく、猫について問うと、みな「猫は家の中にいるのよ」と答える。バガン郊外の農家には、たしかに猫がいた。スコールの日、猫は暖かい炉端でぐたぁっと寝そべったままほとんど動かない。猫のぐうたらぶりに、ひどく満足な気分になったものである。猫は、こうでなくてはいけない。
昨日アマラプラに移動して、僧院の托鉢を見学した。
ミャンマーにおける最後の王都はマンダレーで、19世紀の中頃にアマラプラから遷都された。アマラプラはマンダレーから車で20分ばかりしか離れていない。要するに隣町である。アマラプラは「僧院の都市」として知られる。古くから僧院があって、若い僧侶はアマラプラで学ぶことがなにより栄誉とされる。マハーガンダー僧院がその代表格で、じつに全国から1700名以上の僧侶が集まって修行生活を送っている。僧侶は日に2度食事する。一度目は早朝未明、二度めは午前10:30ごろからで、後者の托鉢を見学した。托鉢に使う食材は信者が寄進する。いちどの寄進に500ドルが必要であり、寄進がない日は高位の僧侶がその額を負担する。この日は数名の主婦が寄進し、托鉢に参加していた。僧侶は鉢をもって列をなし、大量の米飯(ウルチ米)とバナナ2本をわたされる。そのまま食堂に入って、オカズとともに食事をとる。食事を許されるのは12時までで、以後、眠るまで何も食べてはいけない。
その過程を撮影し続けていたら、いくつもの僧房で猫があらわれた。猫も犬も食べ残しの食材を待っている。ミャンマーでは、食材を食べ尽くすのは恥ずかしいことだとされている。僧侶も必ず食べ残す。僧院は、犬猫にとって恩恵の固まりであり、托鉢の直後に動きが活発になる。いろんな猫をみた。全体に細身である点は、ラオスと変わらない。
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- 2011/09/19(月) 02:19:59|
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モン族の光と影 南方中国の山岳焼畑民、ミャオ(苗)族が東南アジアのモン族であることはよく知られている。ところが、やっかいなことに、ミャオとは関係ないもう一つのモンがいる。
昨夕、ミャンマーのヤンゴンまでやってきた。ミャンマーには135を超える民族がいるが、南部のモン州はモン族を中心とする行政区であって、ミャンマーのモンは東南アジア最古の先住民族とまで呼ばれる集団なのである。紀元前から活動歴があり、前300年ごろにスワンナプーム王国を建国し、前200年ごろから上座部仏教を信仰し始めたという。清朝時代に南下してきたミャオ=モン族とはまったく異なる集団なのである。
ラオスのモン族は「ミャオ」と呼ばれることを嫌う。「ルアンプラバンの夢」シリーズ(Ⅰ)で述べたように、「ミャオ」とは「猫(の鳴き声)」と同音であり、モン族はこれを蔑称として毛嫌いしている(中国において「苗」の呼称を苗族が嫌っているという話は寡聞にして知らない)。

ラオスのモンはベトナム戦争における米軍の傭兵集団だった。ベトコンと一体になって、ラオスの社会主義国家建設をめざしたパテト・ラオと戦うだけでなく、特殊部隊としてベトナムに乗りこみ米軍の最前線として大活躍し、大量の戦死者を出した。1975年のサイゴン陥落、ラオス人民共和国成立後、多くのモンは難民と化して、米・仏・豪・中などに亡命したが、ラオス国内に残る傭兵とその一族を対象に「モン狩り」が執拗に続けられた。合衆国がタリバンを永遠に憎み続けるように、モンに対するラオス政府の怨念が晴れることはないようで、旧傭兵としてのモンの掃討作戦はいまも止んでいない。
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- 2011/09/12(月) 01:51:37|
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6月6日、昭和堂の編集部から「世界住居誌:重版のお知らせ」メールが届いたばかで、こんどはその中国語版が日本語版の編者から送られてきた。
『世界住居誌』の新刊を伝える記事をアップしたのは、2005年
12月15日のことである。5年半の歳月が流れて重版され、ほぼ同時に『世界住居』と題する中国語翻訳版が中国建築工業出版社から出たわけで、編者や出版社は喜びひとしおであろう。
原著でわたしが担当したのは、コラム5「トンレサップ湖の家船と筏住居-東南アジア内水面の水上居住-」(p.124-125)であり、中国語版でも同じ124~125ページに以下の題目で翻訳されている。
洞里薩湖的家船和筏宅
-東南亜内河流上的水上居住
書籍データ 書名: 世界住居
原著者: 布野修司(編)
訳者: 胡 恵琴
出版社: 中国建築工業出版社
出版年: 2011年1月
定価: 39.00元
ISBN: 978-7-112-12476-3
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- 2011/06/17(金) 00:00:36|
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