LABLOGマニアなら、2006年末~2007年初に連載した童話『雪の夜』のことを覚えているでしょう。今の季節にぴったりのお話ですね。長い夜のお伴に、メアリとヴィオレットのお伽噺を、どうぞ。
「雪の夜」(Ⅰ) 「雪の夜」(Ⅱ) 「雪の夜」(Ⅲ) 「雪の夜」(Ⅳ) 「雪の夜」(Ⅴ) 「雪の夜」(Ⅵ) 「雪の夜」(Ⅶ) 「雪の夜」(Ⅷ) 「雪の夜」(Ⅸ) 「雪の夜」(Ⅹ) 「雪の夜」(ⅩⅠ) 「雪の夜」(ⅩⅡ) 「雪の夜」(ⅩⅢ) ・童話『雪の夜』初版は2006年2月17日にqutucoより発行されました。
この童話の著作権は作者のKAさんとqutucoに属します。
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- 2011/12/15(木) 00:00:24|
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夕方からサティにでかけて映画をみようということになった。「ヤマト」が第1候補だが、「相棒」もわるくない。ワーナー・マイカル・シネマズのチケット売り場に行くと、「相棒」は年末からでまだ上映していなかった。代わって、「ノルウェイの森」の初演日であることを知った。
もちろん「ノルウェイの森」をみた。ベトナム系フランス人の奇才、トラン・アン・ユン監督が村上春樹の原作をどのように仕上げているのか、気になってしかたなく、ヤマトなどどうでもよくなった。「夏至」や「青いパパイヤの香り」でわたしたちを唸らせたのは、ベトナムの日常世界を見事に映像化したその手腕だとわたしは思っている。日常的でありふれた生活空間を視覚芸術に昇華させるその凄腕が、日本を -厳密にいうならば、1960年代後半から70年代前半の日本を- どう映像化しているのか、ただそれを視たいと思った。
村上春樹の原作本は読んだことがない。正直、村上春樹は得意な作家でない。ほんのわずかな数だけ短編集を読んだ。その短編集のなかに「ノルウェイの森」の習作を含んでいたように記憶している。わたしには「ノルウェイの森」が何を言いたいのか、よく分からない。おそらく「愛とはなにか」を問う小説なのだろう。愛に一途な女と愛よりも性に溺れる男が対照的に描かれているようにも思ったが、まったく的はずれのことをわたしは言っているのかもしれない。
主人公の最後のひとこと、「ここはどこなんだ?」が耳に残っている。ニール・ヤングの2枚めのアルバムタイトル(Everybody Knows This Is Nowhere)をおもいおこした。たしか、「ここはどこでもない」と日本語訳されていたはずだ。
あいかわらず監督は「水」を好んで描写する。人物の向こうの窓外に雨(や雪)が降っている。そういうシーンがなんどもあった。人間の心情を映し出す鏡のように、雨が降り、雪が舞う。泥沼のような蓮池をのたりのたりと泳ぐ鯉の描写にも懐かしさを覚えた。ベトナム難民の監督がハノイの日常を描くとき、わたしたち異文化の人間が視覚の外におしのけてしまう細部の要素が光と影の彩のなかにあらわれては消える。その映像をみるたびに、なんどもベトナムに足を運び「文化」を学んだはずの自分が恥ずかしくなったものだ。今回は立場が逆転している。監督が文化の外にいて、わたしたちはその内(なか)にいる。わたしたちは細部に至るまで、日本の -厳密にいうならば、1960年代後半から70年代前半の日本の- 生活風景を知っている。ベトナム系フランス人の監督はそれを体験していない。ただし、1960年代後半から70年代前半の日本もすでに遠い過去になっており、その時代を正確に映像化しようとする場合、一定の復原的操作が必要になる。大道具・小道具ともよくできていた。日本人スタッフのサポートを得ているのだろうが、時代考証は完璧だった。しかし、ベトナムの生活空間ほどのエロスを日本の生活空間に感じることができなかったのが残念だ。クロサワほか日本の監督も、生活世界の描写に長けており、おそらくトラン・アン・ユン監督はそれら先達の影響を受けているだろうから、日本人の先達たちを超えることができるのかどうか、あるいはできたのかどうかで悩んだにちがいない。かなうならば、舞台をベトナムに移し、ベトナム版の「ノルウェイの森」に変換してしまえば、監督の力量をもっと発揮できただろう。ただ、そうなると、村上春樹が映画化を許可しなかったかもしれない。
もっと日常世界にこだわればよいと思った。たとえば、恋人が自殺したあとの日本海?の風景は不要ではなかったか(原作に含まれているのかどうかは知らない)。そう思うのは、わたしが日本人だからだろうか。「夏至」のハロン湾のような扱いで海を使っているのだが、日本海の断崖絶壁は船越英二の刑事物でみなれてしまっているから、非日常性の舞台としてもうひとつピンとこないところがある。日本海の洞窟に野宿して哀しみを晴らすのではなく、日常性のなかで哀しみを乗りこえるような設定のほうが小説の流れにあっているように思うのだが、外国人がみると、あのような景観こそがエキゾチックで良いのかもしれない。
音楽はあいかわらず秀逸だ。映画の時代の音楽を安易に導入するのではなく、新たなカヴァーで聴かせてくれる。その媒体となるのがエレクトリック・ギターなのだが、演奏の方法はアコギそのもので、しかしエレキはアコギではないから、そのシンプルな音色に得たいのしれない色気が生まれている。まだみていないかたは、「夏至」のヴェルベット・アンダーグラウンドを思い起こしていただければ、と・・・
良い映画だったと思う。客席には30人ばかりしかいなかった。しかし、みな映画好きなのだろう、物語が終わっても席をたつことなく、エンドロールをじっと眺めていた。
- 2010/12/12(日) 03:50:30|
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第17章 孔雀の外套p.102-107:小山訳
1.晴雯の母親の病状が重く、彼女は家に帰り、世話をするほかなかった。宝玉の日常
生活の世話は、女中の晴雯と麝月が責任を負っていた。この日の夜、麝月は宝玉に
湯冷ましの水を飲ませた後で外を見た。月が明るく綺麗だったにで、すぐに出て
行った。
2.晴雯は、ちょっとした羽織ものを着て出て行くと、麝月を脅かそうと思いついた。
宝玉は「用心しなさい。風邪をひくと冗談じゃ済みませんよ」と言った。
3.晴雯が、麝月を脅かそうと出て行ったときに、宝玉が部屋の中から
「麝月、晴雯が出て行ったよ」と叫ぶ声が聞こえた。
4.晴雯は身を翻し、部屋に入って来て、「何も彼女が死んでしまうほど脅かすわけ
じゃありませんよ。宝玉さまは、なんでもないことで大げさに騒ぎすぎですよ」
と言った。すると、麝月も部屋に入って来た。
5.翌日、晴雯は頭痛と鼻づまりになった。宝玉は、王夫人がこのことを知って彼女が追
い出され家に帰されてしまうことを恐れ、すぐに、こっそりと医者を呼び彼女の看病
をさせた。
6.宝玉は賈母のお供をして食事をした後、戻ってきて晴雯の看病をした。彼女が炕
(ベッド状のオンドル)の上に臥せっているのを見ると、顔が真っ赤で、部屋の中
には誰一人としていなかった。
7.「麝月はどこに行ったの?」と宝玉は尋ねた。晴雯は「女中の平児が彼女を探しに
出て行きましたよ。私のことを追い出そうかとでも話しているんでしょうよ」と
答えた
8.宝玉はこれを聴いて、すぐに窓の傍へ行って、平児と麝月が会話しているのを盗み
聞きした。彼女たちは、平児がなくした腕輪のことについて話していたのだ。
9.平児は、「私のあの腕輪は、あなたたちの部屋の女中の墜児が盗んでいたようです。
あなたはくれぐれも言いふらさないように、宝玉さまのメンツをつぶさないように
ね」と言っていた。
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- 2010/02/12(金) 00:00:18|
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第16章 蘆雪庵の詩会p.96-101:小山訳
1. ある日、栄国府執事である頼氏の、年をとった祖母、つまり頼おばあさんが、鳳姐
(王煕鳳)に会って言った。
「旦那さまにとっても大きな幸福になりますように、私の孫を役人として
あずけたい。そのためにも三日三晩、舞台と酒宴を設けることを謹んで
お願い申し上げたい。未婚の女子たちにとっても気晴らしになるでしょう」
鳳姐王はそれを聞き入れた。
2.頼府がこの日、宴席を設け、薛おばさまの一家も来た。薛蟠は、相手の令息である
柳湘蓬を気に入り、すぐにつきまとった。
3.柳湘蓬は薛蟠を城壁の外に連れ出して立ち止まり、徹底的に殴った。
召使いがやってきて、なんとか薛蟠を運んで連れ戻った。
4.まだ幾日も経たないのに、薛蟠は商売を口実にして、薛家のある店の番頭について
故郷へ帰っていき、この一連の事件に終止符を打った。
5.この日、賈府にはとても多くの来客があり、その中に、李絹の兄嫁とその娘二人、
そして薛蟠の従弟の薛蝌と、同じく従妹の薛宝琴がいた。
6.探春は会って大喜びし、賈宝玉を探し出した。賈母にこれらの人たちをみなこのまま
残し、何人かの子女を海棠社という詩の会に参加できるようお願いができないか、
という相談をもちかけた。
7.賈母の甥っ子たちは、家族をもって、よその土地で役人になっていた。
賈母の家は、湘云を家で引き取って薛宝釵を同居させてはならないとした。
(気性の荒い者も多いし、頼る人は他にもいるので、別の所で同居させましょう)
8.翌日、雪が降り、李絹は皆を集めて、「今日は雪が降っていることだし、海棠社の
メンバーで集まって、姪っ子たちの歓迎会を開きませんか」と持ちかけた。
9.皆はその提案に賛成した。翌日、宝玉は王煕鳳について蘆雪庵へ行き、鹿肉を貰い
受けて、湘云と炙り焼き、皆にふるまった。
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- 2010/02/11(木) 00:00:41|
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第15章 鏡の内側p.88-95:岡垣訳
1.賈母は体に疲れを感じたので、休息をとるため稲香村に行って休みたいと思った。
鳳姐(王熙鳳)はあわてて人を呼び、竹の椅子を持ってきて賈母がその上に
座るのを手助けするように命じた。二人の侍女が賈母を担ぎ、鳳姐、鴛鴦たちは
その後をついて行った。賈母の面倒をしおえると、鴛鴦はまた劉ばあさんを
訪ねて来た。
2.鴛鴦は劉ばあさんを連れていろんなところを歩き回った。一同もみな、
後について冗談を言った。しばらくして「省親別墅」という牌坊の下に到着した。
3.劉ばあさんは寺廟だと思い、腹ばいになって叩頭の礼をし、さらにまことしや
かに言った。
「この牌楼の上の字ぐらい、私もすべてわかりますよ。」
4.続けて劉ばあさんは、自信満々に言った。
「これは、まぎれもなく「玉皇宝殿」の四文字ですよ。」
一同は、手をたたき足を踏み鳴らして笑った。
5.突然、劉ばあさんは腹が痛みだしたので、すぐに侍女を探して彼女を連れて
お手洗いに行った。侍女は、劉ばあさんにその場所を教えると、すぐに戻って
行った。
6.劉ばあさんは少し腹を下し、長い間しゃがんでいたが、やっと終わったので、
やおら立ち上がると、頭がくらくらして目が眩み、帰り道がわからなくなった。
7.劉ばあさんは道なりに歩いて行った。やっとのことで一つの入口にたどり着き、
ただ頭に花を挿した老婆が部屋に入るのが見えた。
8.劉ばあさんは笑って言った。
「あなた世間を知らないにもほどがあるでしょ、頭に花を挿すなんて。」
その老婆は笑うばかりで返事をしなかった。
9.劉ばあさんは、富貴な家柄には姿見の鏡があることをとっさに思いつき、
心の中で考えた。
「鏡の中にいるのは私かもしれない!」
10.劉ばあさんが触れると、やはり鏡だった。まさか鏡の上にスイッチがあるとは
誰が知ろうか、劉ばあさんは無意識のうちにそれを押し、別の部屋に入って
いった。
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- 2010/01/05(火) 00:01:12|
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