
ぼくは河原町の出身なので、牛ノ戸焼の名はよく知っている。窯元がどこにあるのかも分かっているし、なにを隠そう、ぼくと窯元のお嬢さんは中学校の同級生だった。美人でしたよ。
ただ、窯元を訪ねるのは初めてのことだ。同級生の彼女がいたらどうしようか、なんて、少しだけ考えたりした。
牛ノ戸は久能寺ほどの古い歴史をもたない。天保8年(1837)、石見国江津の小林梅五郎によって開窯した。初代梅五郎から2代熊三郎、3代秀之助までは主として日用陶器(水壺、徳利、すり鉢等)を製作していたが、次第に衰微し、4代秀晴になって窯の維持も困難になった。昭和6年(1931)、柳宗悦、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司、吉田璋也らの激励と指導を受け、4代と5代栄一が新作民芸に取り組むようになり、現在の6代に至る。ちなみに、六代孝男さんは、同級生の姉婿とのことである。

吉田と柳が指導した緑釉と黒釉を半々に塗る作品が牛ノ戸の代名詞になっている。わたしは、どうもこの、半割色分けの器を好きになれない。なにか、一つのモノが引き裂かれたように感じるし、自分の日常の食器として使う場合、落ち着きを得ることができないような気がする。だから、いつものように、素朴で単純なデザインの器を選ぶことにした。ここでの狙いは「茶漬け」と「紅茶」である。
「美味しい茶漬けを食べる器」はすでに皿山で仕入れている。少し大きめの飯碗と壺だ。壺には、梅干しや奈良漬け、佃煮を入れる。蓋付きの壺に納めると、それらの食材はとても引き立ってみえる。大きめのお椀に飯を控えめに盛り、壺から梅干しや昆布を取り出して飯にのせ、急須から熱い茶を注ぐ。これでなにも言うことはない。これらの器は奈良に置いている。鳥取にも欲しいと思ったのだ。飯とみそ汁さえ作っておけば、壺になにかありさえすれば、それで十分食膳が完成する。これでよい、と思うのである。壺は3000円ぐらいしたが、緑色の渋い器をみつけた。飯碗はキズ物(↓)のなかから、比較的出来のよいものを拾い出し、安くしてもらった。
[牛ノ戸焼]の続きを読む
- 2012/04/07(土) 23:08:35|
- 民芸|
-
トラックバック:1|
-
コメント:0

2日は快晴で、よく動いた。皿山ですっかり陶芸の魅力にとりつかれたぼくたちは、地元の窯元をめぐりたいという欲望にかられていた。
灯台もと暗し。郡家の因久山焼の窯元は、大学から車で10分ばかりのところにある。八頭高に近い。かつては田園中にあったようにも思うのだが、いまは周辺が市街地化しており、老婆心ながら、登り窯に火を点けると、消防局が大騒ぎになるのではないか・・・なんて余計なお世話だわね。
登り窯から販売場にのぼっていく緩い石段に丸い陶器が埋め込まれている。それは、サヤをひっくり返したものだという。陶芸ど素人のぼくは、そのときはじめて「サヤ」という存在を知った。サヤとは焼成時に窯内で器物を保護するための粘土製容器のことである。丸と四角の両方があり、主屋の軒下や窯の屋根の下に積み上げてある。これがしばしば割れてしまうのだが、それを捨てるともったいないので、階段のぺイブに再利用しているのだ。風情がある。

年2回窯出しがあるとのことで、販売場にはたくさんの器が展示してあった。歴史をさかのぼると、貞享5年(元禄元年)の『因幡民談記』に「久能寺焼」の記載があり、明和元年(1764)に「因久山焼」に改名。その後まもなく鳥取藩御用達の窯元になった。旧郡家町の久能寺は古墳が多い地域として知られており、古代には八上郡土師郷と称し、「唐津場」という字名を残している。そもそも郡家(こうげ)とは古代の郡役所を意味し、そういう役所のバックグラウンドとなる窯場が古くからあったということであろう。その歴史が江戸時代の藩御用達となって華開いたのであり、老舗としてのブランド力を反映しているからか、値段が高い。値段が高いこともあり、クレジットカードが使用できる。鳥取という地域は不思議なところで、今でも、カードの使えるレストランが非常に少ない。だから、カードを使えること自体に驚いた。しかし、カードがないと、器を買いあさるのは難しいだろう。

↑軒下のサヤ。 ↓窯の中のサヤ。
[因久山焼]の続きを読む
- 2012/04/06(金) 23:23:13|
- 民芸|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0