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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

立川~樗溪の町並み調査(3+)

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東照宮石橋の実測

 7日、学生たちは樗溪参道で町並みスケッチ、わたし一人、東照宮中門前の石橋を再実測しました。そこで、石垣に絡みつく蛇の抜け殻を発見。まる1匹分のなが~い抜け殻で、ほいほいと持ち帰り、カフェのお姉さんなどに配ったのであります。40代以上の場合、みな歓迎するね。お願いだから分けて頂戴・・・20代は反応が真逆です。蛇の皮を忌み嫌う。でも、財布にお金が貯まるから、と諭せば落とせます。3人にひとりは・・・
 シュガー・ナックル・ボクシング・ジムでも大量にばらまきました。ジムの繁栄を願うわけです。プール付き、サウナ付きの大きなジムにならんことを!


0706石橋01


  1. 2016/07/10(日) 13:12:55|
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金輪御造営差図の原図(Ⅱ)

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出雲大社宝物殿へ

 4月10日(火)。深夜のゼミ室で内職をしていたところ、教授からある資料を手渡されました。例の「金輪御造営差図」(原図)の特別公開に関する記者発表資料ですね。教授は「いちはやく現物を見たい」と言われるも、出雲での「原図」公開は報道発表からわずか3日後、そして3日間のみということで、スケジュールの調整ができないご様子。熟慮の末、ご自身は被災地訪問を兼ねて東北(宮城県多賀城市)での公開に行くことで落ち着き、ゼミを代表して私が視察に行くこととなった次第です。
 私自身、「金輪御造営差図」には思い入れがあるんですね。出雲古代歴史博物館で展示されている、出雲大社境内遺跡で出土した大型本殿跡の復元模型のひとつが教授によるものであり、その復元プロジェクトに私自身かかわらせていただいたのです。当時はまだ3年生で、正式に浅川ゼミへの所属が決まってから初めてのプロジェクトだったでしょうか。教授の指導のもと「金輪御造営差図」をはじめ、遺構図や文献と睨めっこしてああでもない、こうでもないと検討した日が懐かしいな・・・。推理小説を読み解くようで、楽しくてしょうがなかったと記憶しております。
 昔話は置いておいて、『金輪御造営差図』(原図)です。「原図」の視察にあわせて、木綿街道の追加調査および、おぎんの卒業研究テーマである「斐川平野の築地松」の視察なども含めて行程を調整したため、出雲大社を訪れたのは、15日の日曜日。公開の最終日となってしまいました。
 鳥取と違い、出雲はまさにお花見日和。黒松の千歳緑とソメイヨシノの桜色で彩られた参道には、透き通るような晴天も手伝って多くの観光客。参道のベンチでオニギリでも頬張りたいところではありましたが、なにより「原図」の公開を見なければいけませんからね。花より原図ということで、桜吹雪とお花見客を掻き分けて、出雲大社の宝物殿である「神祜殿」へ向いました。

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  1. 2012/04/20(金) 23:51:10|
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金輪御造営差図の原図

 10日の環境学フィールド演習のガイダンスで教壇に立っていたころ、島根県から一通のメールが届いており、その直後に新聞社から研究室に電話があったらしい。初授業を終えて少しリラックスした私は、シュープリーズでバウムクーヘンと菓子パンを買い、トスクで食材を仕入れて帰宅した。久しぶりに下宿で料理を作る。これは趣味に近いものだ。メールや取材依頼のことなど何も知らないまま時が過ぎ、食事を終えてパソコンを開き、ことの次第を知った。夕方7時をすぎている。メールは、以下のような書き出しから始まっていた。

   「金輪御造営差図」の(現在公開されている写図の)「原本」が、この度、
   公開されることになりましたので、取り急ぎ情報提供させていただきます。

 受信メールの転載は「厳禁」状態にある。が、すでに新聞報道がなされているので、その枠を超えない範囲で要点を述べておこう。
 平安~鎌倉時代の出雲大社本殿の平面を描く可能性のある「金輪御造営差図」は近世のものと思われる写図がこれまで公開されていたが、遷宮ならびに東北歴史博物館特別展「東日本大震災復興祈念特別展 神々への祈り」の開催にあわせて、「原本」が公開されることになった。その記者発表が突然10日午前におこなわれ、地元の研究者らも右往左往している。
 県からのメールに驚きはしたが、授業準備にかまけて放置しておいたところに山陰中央新報紙から携帯に電話があり、取材を受けることになった。そこでまたパソコンの画面を開き、何がなんだか分からないまま、質問に答えた次第である。正直なところ、「これからしっかり研究するしかない」と述べるにとどまった。そのときの発言が昨日の1面に掲載されている(↓)。


 120411出雲大社記事(上) 120411出雲大社記事(下)
山陰中央新報 20121年4月11日(1)面  クリックすると拡大します(左=上、右=下)

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  1. 2012/04/12(木) 23:35:03|
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「邸閣」再考

 インド出張の直前、『税』という雑誌が届いた。わたしの専門領域とはあまりにかけ離れた媒体であるが、付箋のついた頁をめくると、「特別学術論文」として、以下の論考が掲載されている。雑誌の性格上、まったく異色の、孤高の論文のようにみえる。

  田中章介「魏志倭人伝『収租賦有邸閣』の解釈」
        『税』67巻3号:p.156-180、2012年3月

 田中先生は本学の開学に携わった環境政策学科教授で、専門は「税制」であり、歴史学者ではない。同僚であった時間は短かったが、いくつかの大学で教鞭をとるかたわら、公認会計士事務所を経営されている。そんな先生が、魏志倭人伝の「収租賦有邸閣」の六字に注目されたのは、日本における税制の起源をさぐるためである。2010年の夏、そのお気持ちを伝えられ、いちどお目にかかって意見を交換し、その翌日、発掘調査中の摩尼寺「奥の院」遺跡をご案内した。先生はなお健脚で、真夏の摩尼山を奥の院から立岩まで登り切り、本堂まで下りていかれた。
 あれから1年半が経ち、発掘報告書の刊行とほぼ同時に上の論文が発表された。税制の起源に係わる日本古代史の稀有な論考の完成をお祝い申し上げます。

 さて、論旨である。一言でいうならば、これまで「租賦を収むに邸閣あり」と訓読されることの多かった「収租賦有邸閣」の六字は、「租賦を収む。邸閣あり。」と読むべきだというのが要点の第一。わたしは「租賦を収むに邸閣あり」という通説に従ってきたが、漢文の原典代わりに使ってきた中華書局版『三国志』は、たしかに「収租賦。有邸閣。国国有市、交易有無、使大倭監之」という句読点を打ち、福永光司、小南一郎、石原道博らも「収租賦」と「有邸閣」を独立した二文として扱っている。その理由は「租賦」が「租」と「賦」という異なる税を一括する言葉であるからだ。この場合の「租」は穀物などの上納税であるのに対して、「賦」は兵役や労役を包含する人頭税とみなしうる。そして、穀物は邸閣(倉庫)に納められるが、人頭税は納められないので、「租賦を収むに邸閣あり」とは言えないという見解である。
 なるほど。そう言われれば、その通りだ。わたしはこれまで「邸閣」を「大倉庫」と訳してきた。「邸閣」は東夷伝の十ヵ所において「軍用倉庫」の意で用いられているが、ひとり倭人伝のみ用法が異なり、古代史研究者の多くは「倉庫」と訳し、わたしは高句麗伝にみえる家々の小倉「桴京」と対比すべき共同体の「大倉庫」とみなしていた。かりに倭人伝の「邸閣」をも「軍用倉庫」と解すべきだとしても、字義的には「邸」にも「閣」にも軍事と係わる要素はなく、あくまで「大倉庫」が原意であり、それが状況に応じて「軍用倉庫」になったり、「税倉」になったりする、と考えており、田中先生も拙論に賛意を示されている。
 しかし、いまこうして田中先生の御論文に接し、自分の考えが間違っているのではないか、と思うに至っている。田中先生が租・賦の二字の意味の違いにこだわられたように、わたしも倭人伝にみえる建築表現として、「宮室」の宮と室、「楼観」の楼と観の微妙な違いを抉りだして自らの解釈を示した。しかし、「邸閣」に限っていうならば、日野開三郎の旧説に盲従するばかりで、邸・閣の二文字の意味差を軽視し、ただ「大きな倉庫」と理解するにとどまった。いま手元にある字書を使って殴り書きしておく。ブログは学術雑誌ではないので、気楽に書いておこうと思うのである。

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  1. 2012/04/01(日) 22:25:38|
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摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅩⅠ)

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宝珠山岩屋神社・熊野神社

 竹棚田は福岡県朝倉郡の宝珠山村にある。県境を越えれば、大分の日田皿山だ。棚田のすぐそばに宝珠山が聳える。その山が仏界であることを示す名称だが、そこにあるのは寺ではなく、神社であった。これを岩屋神社という。ただし、岩屋権現という別名ももっている。「権現」とは「(仏が)仮の姿で現れた」神であることを意味する。いわゆる本地垂迹思想による神仏習合のあり方を示すものである。
 宝珠山村は、九州修験道の中心地「英彦山」に近接することから、修験道と密接にかかわり、ほぼ全域が英彦山権現の神領とされていた。『岩屋神社来歴略記』によると、起源は継体天皇25年(531)にまで遡る。後魏の僧、善正が渡来して彦山を開創し、翌年、宝珠山で宝泉寺大宝院を開基したと伝える。また、役行者も岩屋に入峰したと記す。六郷満山と同様、神仏習合が著しく進んでおり、宝珠山という「仏界」に岩屋神社(岩屋権現)がある。そこには権現岩、熊野岩、重ね岩、貝吹岩、鳥帽子岩、見晴岩、馬の首根岩と呼ばれる7つの「大岩」が聳え、その一部に社殿が付随する。

02宝珠山岩屋神社02


 山麓の鳥居をくぐり石段を上がるとまずは天然記念物の「岩屋の大椿」があり、さらに上がると琴平宮に至る。巨巌に穿つ隧道(トンネル↑)をぬけて、またしばらく上がると、権現岩の岩陰に建つ岩屋神社本殿(重要文化財)に至る。岩屋神社本殿は元禄11年(1689)の再建で、茅杉皮重ね葺き一重(ひとえ)入母屋造の外殿と厚板葺き片流見世棚造の内殿からなる。内殿の前には薦(こも)で包まれたご神体の宝珠石が祀られているという。
 岩屋神社から左上手の熊野崖の中間あたりに熊野神社(重要文化財)がみえる。伝承によれば、そこは天狗が蹴って穴をあけた熊野岩のくぼみであるという。貞享3年(1686)に村民が建立した板葺き三間社流見世棚造の社殿は、まるで「小型の投入堂」のようにみえる懸造の建物である。彦山は養和元年(1181)、京都の新熊野社(いまくまのしゃ)の荘園として後白河法皇によって寄進され、以後、熊野修験道の影響下に入った。岩壁や岩盤には柱穴などの部材を納める痕跡と思われるピットが複数残っており、中世の熊野社は現在よりもはるかに大きかったと推察されている。

02宝珠山岩屋神社08熊野神社
↑岩屋神社(右)と熊野神社(左)の全景。↓岩屋神社の外殿と内殿
02宝珠山岩屋神社04

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  1. 2012/03/22(木) 12:23:07|
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