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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

ブータン 山の教室




 バンコクの時事通信によると、アウンサン・スーチー女史が国軍政府特別法廷より、禁固4年の有罪判決を申し渡された。判決直後、国軍の総司令官は恩赦を与え、禁錮2年に減刑された。特別法廷は、スーチー氏がクーデターで権力を握った国軍の政権ではなく、国軍と対立する民主派が樹立を宣言した政権を承認するよう国際社会に呼び掛け、社会不安をあおる行為を禁じた刑法に違反したと判断。また、新型コロナウイルス対策を怠ったとして、自然災害管理法違反でも有罪と認定した。刑務所には送らず、軟禁状態が続くとみられる。恩赦が与えられたとはいえ、スーチー氏は10件以上の罪で訴追されており、刑期が長期に及ぶ可能性が高い。他人事とは思えない権力の暴挙である。
 この秋から菅原遺跡の記者発表等で多忙な日々を送っていたが、不可思議な行為が頻発し、少々くたびれている。それも少し落ち着いてきたので、明るい未来を感じさせる報せをお届けしよう。





 いま3年次以上の学生を対象に講じている「歴史遺産保全論」の最終講義用に予約注文していた映画『ブータン-山の教室』のDVDが届いた。さっそく視聴した。はやく彼の地に戻りたいと思った。問題はオミクロン株である。昨年のように、年末から年度末にかけて感染が蔓延することになれば、受講生に視せることができないので、年内のスケジュールと入れ替えることにした。最終講義で動画を視てもらうのは、前期の2講義で「カールさんとティーナさんの古民家村便り」が奏功したことに味をしめたからである。多くの学生が感動してくれて、なかには「人生観が変わった」とまで言い切る学生がいた。「ブータン 山の教室」にも、そうした影響力があると確信しての教材活用である。日程・会場は以下のとおり。

12月23日(木)3限~ @本学13講義室

 もちろん教材として授業で視聴するものであり、学外者等には公開しないが、ゼミの関係者にはぜひ視聴し、卒論等に反映してほしいと思っている。なお、この映画の上映時間は110分だが、講義時間にあわせて90分に短縮してお視せする。前半の村に向かう行程が長すぎるので、その部分を20分ばかりカットする予定である。




  1. 2021/12/07(火) 02:24:20|
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終わりの季節

 コロナがおさまった10~11月がフィールドワークの勝負だと思っています。新政権の選挙前倒しに予定変更を強いられていますが、予定をメモしておきます。

0.大杉ツアー
10/19(火) カールさんとティーナさん(冬春)
10/26(火) 大杉バスツアー

1.北陸行
10/29(金) 鳥取→佛師園本部(石川本部) 金沢泊
10/30(土) 金沢→上越  上越泊
10/31(日) 十日町市    上越泊
11/01(月) 上越→(上田)→駒ヶ根泊
11/02(火) 駒ヶ根→鳥取

2.そばゼミ(1)
11/04(木) 講義→摩尼寺門前

3.奈良行・記者発表
11/05(金) 鳥取→堺(土塔) 奈良泊
11/06(土) 法隆寺・栄山寺  奈良泊
11/07(日) 興福寺・頭塔・東大寺  奈良泊
11/08(月) 11時記者発表

4.そばゼミ(2)
11/11(木) 講義→みちくさの駅




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  1. 2021/10/07(木) 18:29:39|
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大学院受験に係る問題

 ある近しい人物から本学大学院の社会人入学に関する質問を受けた。はるか昔、大学院研究科長をやっていた時期があったので、だいたいのことはわかっているつもりだが、少し調べ直したのでメモを残しておく。大学院修士課程の入学条件に係る本学と文科省のサイトは以下の通りである。

公立鳥取環境大学
https://www.kankyo-u.ac.jp/exam/r3/in/

文科省
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shikaku/07111316.htm

 大学院受験以前に計16年の修学履歴があれば、何も問題はないが、たとえば大学を出ていない社会人が大学院修士課程を受験する場合、環境大学の6および文科省の10の条件をクリアする必要がある。環境大学の6には以下のように記載されている。

 6 本学大学院において、個別の入学資格審査により、大学を卒業した者と同等以上の学力があると認めた者で、令和3年(次年度の場合、4年)3月31日までに22歳に達する者
 ※なお、上記6により出願する場合は、あらかじめ資格審査を実施しますので、各期の出願締切日の1ヶ月前までに入試広報課へお問い合わせください。

 入試のスケジュールは、今年度の場合、以下のようになっている(すでに終了)

【出願期間】
令和3年1月12日(火)~1月21日(木)
【試験日】
令和3年2月9日(火)

 次年度以降もこれに近い日程になると思われる。

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  1. 2021/04/05(月) 04:14:45|
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河合事件の旗本たち -鳥取藩史を中心に-

1.はじめに

 仇討は、仇(かたき)を討つ者と討たれる者とに焦点が当てられ語られることがほとんどである。今回取り上げる「伊賀上野仇討」も、同様に渡辺数馬とそれを助ける荒木又右衛門、仇である河合又五郎を中心として語られることが多いが、この仇討の特徴として仇討に至るまでの経緯に河合又五郎の身柄を巡る大名である池田家と旗本と交渉がある。この交渉は当事者である渡辺数馬が関与していないという特徴があり、池田家と旗本との間で行われた。その過程で外様大名と旗本との激突になったとされる大きな出来事となり(1)(2)、多くの人物が関係したとされる。池田家側では伊達家や蜂須賀家が関与したとされ、旗本は安藤次右衛門・阿倍四郎五郎・久世三四郎といった主要の三名の名前は挙がるものの、それ以外の人物は一定せず(3)、また実際にどのような行動をとったかは定かではない。今回はその旗本たちに注目し、簡潔であるが整理を試みた。なお、便宜的に河合又五郎の源太夫殺害から交渉までを「河合事件」と呼称し、紹介する旗本たちの表記は『寛政重修諸家譜』に従っている。
 今回中心とする資料は『鳥取藩史』第6巻事変志所収の「渡辺数馬及荒木又右衛門を鳥取に引取る事 事変志 附伊賀上野仇討始末」(以下、伊賀上野仇討始末)を参考とした。鳥取藩史において伊賀上野仇討は第一巻「藩士列伝」において渡辺数馬と荒木又右衛門の項で紹介されているものの、第六巻において「事変志」において改めて記載している。これは、藩史編纂の過程で荒尾男爵家から発見された史料され、同書の編纂委員をして「忠雄公と旗本との交渉は従来の伝説相違せるを発見したるを以て」記載している。この「伊賀上野仇討始末」は特徴として、荒木又右衛門の遺品の一つであり一次資料とされる『渡邊数馬於伊賀上野敵討之節荒木又右衛門助太刀討候始末』(以下、仇討助太刀始末)に記載されている安藤次右衛門・阿倍四郎五郎・久世三四郎といった主要の三人の旗本との交渉に加え多くの旗本の名が登場し、老中との交渉が詳細に記載しているということが挙げられる。

2.旗本との交渉について

 河合事件における旗本との交渉を「伊賀上野仇討始末」から概略的に解説する。
 寛永七年(1630)七月二十一日に河合又五郎が渡辺数馬の弟・源太夫を殺害、捕まることなく江戸へ逃れ、旗本の安藤次右衛門に匿われる。当時の藩主・池田忠雄は又五郎の父・半左衛門に期日を設け又五郎を捜索し切腹させることと、期日は過ぎれば半左衛門に切腹させることを命じ江戸へ参勤する。
 寛永八年(1631)一月三日には家老の荒尾志摩に旗本の阿倍四郎五郎・久世三四郎が面会しており、この頃に交渉が開始されたようである。この交渉においては又五郎の切腹が決まるが、半左衛門が備前にいる内に又五郎が切腹すれば本人も切腹する覚悟であったので、阿倍・久世から佐用に移す事が忠雄に提案されるが、半左衛門が拒否。二人は病と称して一時中断した。この周旋には加々爪民部少輔と太田采女正が周旋を行なった。
 交渉は五月十二日ごろから再開されており、半左衛門を備前からどこへでも立ち退かせることに決まる。忠雄ははじめ難色を示したが、賀爪民部少輔と太田采女正に加え水野河内守・榊原左衛門佐らから周旋や、阿倍・久世らが加々爪や太田に請合状を出しそれを呈示することで承諾している。九月に半左衛門が備前立ち退いた報が忠雄に入り、又五郎引き渡しの交渉を行おうとするが、旗本側は派遣した塚田勘右衛門が帰ってきていないとして引き渡し延期申し入れる。しかし間もなく旗本側は又五郎の逐電を発表、閏十月二十日に阿倍・久世らは谷中感応寺に謹慎する。同時に二人は安藤帯刀や堀丹後、青山大蔵少輔らに忠雄の怒りを解くよう周旋依頼しているが効果はなく、忠雄は江戸城登城を控え河合父子どちらか一人の引き渡しを主張した。これにより老中はひとまず半左衛門を一族の池田備中守の邸宅に預けること決め十一月十七日夜に送られた。これにより事件は一先ずの落着を見せる。
 しかし、加々爪は半左衛門の救うため天海に周旋を依頼し、老中からはこれで忠雄を目的は一部達成となるので半左衛門を許してはどうかなどと問われる。忠雄は老中に対して半左衛門を許せば面目にも関わるとして拒否。老中は忠雄に半左衛門を渡すことにし池田備中守の領地に移されることとなった。しかし、移送の準備やその申し合わせに時間を要していると寛永九年(1632)一月二十四日に徳川秀忠が死去し一旦沙汰止みとなる。その後も加々爪は老中の土井を介し、秀忠死去の恩赦や忌中を理由に半左衛門の救解や移送の引き延ばしを行い、移送が実行されぬまま四月になると三日に忠雄が、七日に備中守が死去した。
 忠雄の死後は弟の輝澄と輝興が交渉を引き継ぎ、二人は老中からの半左衛門を許してはという問いを退け、将軍の直裁を仰ぐことに決めたるも尾張大納言に諭され断念している。半左衛門は蜂須賀阿波守に預け替えとなり、護送中に死亡した。阿倍・久世・安藤の三名は不首尾により公儀を憚ったとして百日の寺入りとなり、又五郎は旗本庇護を受けることができなくなった。
 多少長くなったが、以上が「伊賀上野仇討」での河合又五郎の身柄を巡る経過である。又五郎に関する直接の交渉では阿倍四郎五郎・久世三四郎・安藤次右衛門の他、旗本では加々爪民部少輔・太田采女正・水野河内守・榊原左衛門佐の名が記されており、他に松平式部大輔・掘丹後・安藤帯刀といった大名の名も見える。

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  1. 2021/03/04(木) 00:39:50|
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修士論文アブストラクト

Comparative study on the stupas of the Middle esoteric Buddhism and Tibetan Buddhism
-Basic consideration about their structure and placement -
                                    OKAZAKI Kohei

 Abstract  Esoteric Buddhism is the final form of Mahayana which was concurrently established with the rise of Hinduism in India. It developed and divided into three stages; early, middle and late, and spread to the neighboring countries. The Shin-gon sect founded by Kukai in the early 9th century inherited the middle-aged Esoteric Buddhism that had been introduced from India to China in 7th century and matured in China through 8th century. On the other hand, Tibetan and Bhutanese Buddhism, which is the object of our recent investigation, is a metamorphosis of the late-aged Esoteric Buddhism established in India at 7th century and preached there after the late 8th century. It is generally considered to hardly have the relation with Middle Esoteric Buddhism in Japan. This report aims at comparing Japanese stupas(〝Hoto〟and〝Tahoto〟) as the symbol of Esoteric Buddhism with the Tibetan Buddhism heritages never noticed before, and trying to close up the relativity of their history and characteristics. According to the chapter of Treasure Pagoda(〝Hoto〟) in the Lotus Sutra, the original meaning of Treasure Pagoda is "the beautiful great Tower where Prabhutaratna lives", and there was no strict distinction between〝Hoto〟(one-storied stupa) and〝Tahoto〟(two- storied stupa). In Japanese Esoteric Buddhism after 9th century, 〝Hoto〟is not the pagoda for Buddha's ashes, but the pagoda for enshrining the images of Vairocana, Prabhutaratna and so on. The Tibetan stupa is also not for Buddha's ashes, but a kind of〝Hoto〟where various deities are worshiped. In the case of Japan, such〝Hoto〟as the buildings only have remained after the Momoyama period(16 th century). Besides〝Tahoto〟 as the buildings only after the Kamakura period(12 th century).
 Hence it is not possible to know the ancient appearance before and after the Esoteric Buddhism transmission. However, there are still some miniatures of 〝Hoto〟on the palm of the Vaisravana images before and through Heian period(9-12 th century). The oldest example is the one with Vaisravana image in the Golden Hall of Horyu-ji Buddhist monasteries dating back to the Mid 7th century. The five metal pinnacles on the roof make us remind of Mahabodi great pagoda(5th or 6th century) in Buttagaya where Sakyamuni had enlightened. Small stupa with Vaisravana images after 9th century is certainly a〝Hoto〟type. But a lot of them have bulging walls and present the shape of the urn (Buddha's bones container). It might be presumed to have gradually gotten the architectural details. By the way, ancient India's Vaisravana did not have a pagoda on their palm. When Mahayana was preached on the way from India to China, it is supposed that stupa was placed on his palm around the Kingdom of Khotan. And such figures were drawn in the mural paintings of some Grottoes during the period of Northern and Southern Dynasties. According to Chinese literature in 7th century, there is Buddha’s ashes inside the stupa on the palm of Vaisravana . So, it could be understood that stupa with Vaisravana was the pagoda for Buddha's ashes. And author can not but agree to the idea that as the〝Hoto〟with Vaisravana in the Heian period is Buddha's bones container, it was similar to the shape of the urn, but the total figure presenting the shape of 〝Hoto〟shuoud be considered to have received the influence from esoteric Buddhism.
 In the case of Japan, 〝Hoto〟is the dome-shaped one story pagoda set up on the low foundation, and〝Tahoto〟is the two-story pagoda attaching the pent roof to the wall of〝Hoto〟. On the other hand, Tibetan stupa is two-storied brick-masonry building of “Upper-round / Lower- square”, in which the lower terrace are piled high like the ordination platform, and upper stupa is built up on the lower terraces. The structural principle of both Japan and Tibet is different at all. Paying attention to the structural principle, Japanese“Hokyoin-to”, which is the translated term of the pagoda for Guhyadhatu-karandamudra dharani-sutra and is the small stone-built pagoda imitating the stupas of King Asoka, resembles the Tibetan stupa. “Hokyoin-to” is an extremely minor entity in the academia of Japanese architectural history. However, as there are not a little common points between it and ancient Chinese and Tibetan stupas, author recognizes it as the architectural heritage that should be re-evaluated from Asian perspective.
 Finally, Author re-considers the time when the Middle esoteric Buddhism was introduced to Japan. As the climax of it in China was the 8th century, envoy monks to the Tang Dynasty would have heard the information of it before Kukai. Such knowledge, of course, should have been given to Japan during the Nara period (8th century), it is possible the great Buddha image built in the Golden hall of Todaiji-monasteries as the head of Avatamska denomination received the proper influence from its information. It is estimated from the fact that the principal image of both Avatamska and Shin-gon sect is Vairocana. Zuto-site located at the place about 1km south from South gate of Todai-ji precinct could be reconstructed to such large stupa as three-dimensional mandala found in some districts in Tibet. Besides, the placement that stupa was built away in front of the precinct may have been the two-dimensional representation of the far-off distance of the vertical direction to the Pure Land.

 Keyword  Esoteric Buddhism Tibetan Stupa 〝Hoto〟〝Tahoto〟〝Hokyoin-to〟
        Three-dimensional Mandala Vaisravana

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  1. 2020/03/27(金) 02:11:03|
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