東大寺転害(てがい)門に野良猫が50匹ばかり住みついて、お寺が困っているという話題を、昼間のワイドショーが取りあげていた。最近のワイドショーやバラエティは、ネオコン系の文化人をレギュラーに迎えて視聴率を稼ごうとする傾向が顕著だ。「中国も韓国も黙っとれ!」というたぐいの発言を平気で繰り返す人たちで、こういう主張が一般国民に受けているのは困ったものである。この番組でも、強気の評論家が「ホームレスだって強制退去させられるのに、野良猫をどうして追い払ってはいけないのか。国宝で世界遺産の建造物を守るのは当たり前で、動物愛護がそれに優先されるなんて、本末転倒もはなはだしい」と激昂していた。
わたしは文化財保存の専門家のはしくれなのだが、野良猫にも愛着がある。若いころは、犬も猫も好きではなかった。ところが、今では奈良の自宅にも、鳥取の下宿にも野良猫が住みついていて、わたしはその猫たちを可愛いと思っている。というか、わたしと家族は日々、猫たちに癒されている。ところで、文化財は野良猫よりもほんとうに大切なものなのだろうか。東大寺転害門は天平創建の単層三間門だが、鎌倉時代の改修が少なくなく、細部に大仏様の要素を散見できる。単独で世界遺産の価値があるかといえばあやしい限りだけれども、文化財価値の高い建物であることに疑いはない。だから、人類や地球にとって、野良猫よりも大切な存在なのだろうか。
かつて坂口安吾は「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺を取り壊して停車場をつくるがいい」(『日本文化私観』)と随想し物議を醸したが、安吾の主張が間違っているとだれが咎められよう。かりに全世界の文化遺産がすべて消滅したとしても、地球は自転し、人類は生き続ける。一方、野良猫はどうだろう。野良猫の元祖は人類のペットであり、ペットがいなくても人類は生きていける。とすれば、文化財とペット猫の存在意義はほぼ等価ということになるではないか。問題は猫に生命があるということで、かりに転害門を保護するために、野良猫の生命を奪ったとすれば、その人物は動物虐待の誹りを免れえないだろう。転害門に猫を近づけたくないなら、門の周囲に矢来をめぐらせれば済むだけのことではないのか。
要するに、文化財は愛玩動物としての猫と似たような存在であって、これを保存するために、われわれの同業者は、日夜、艱難辛苦の途を歩んでいるということである。
- 2005/06/28(火) 02:54:36|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:2