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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

鳥工生、裏山を行く

 先週、「7月10日に鳥取工業高校の生徒が大学を視察にくるので、ツリーハウスと茶室を案内してほしい」と東樋口教授に依頼され、二つ返事で了承した。詳細を聞くと「総勢38名」という。これは大変だ。なんたって、環境大の裏山の中ですよ。獣道同然の山径を登るし、広い場所に建ってる訳ではないのだから。
 来たる当日(本日)、空は雨模様。ますます条件は悪化した。鳥工生には本当に悪いことをしたなと思っています。ただ、汚れても良いようにズボンが作業服だったのが救いです。時間的、場所的余裕から、2班に分かれてもらうことになった。茶室へは出席番号前半(案内役:吉田)。ツリーハウスへは出席番号後半(案内役:岡野)であります。
 さて、ツリーハウスに行くには、ヤギ小屋の前を通らなくてはなりません。やはり、万人に対して「やぎ子♀」はインパクトが大きいようです。山道は幸いぬかるんでおらず、無事にツリーハウスに到着した。ツリーハウス自体は懸造(かけづくり)風のヒョロリとした小さな小屋だから、インパクトはヤギにかなわなかったみたい。築後1年ほったらかしに近く、傷みも進んでいるから、「あがってみれば」と薦めるものの、高校生たちはあまり乗り気ではないようだった。それでも、何人かが竹の床にあがってくれました。そんなこんなで、案内は無事に終わり。高校生には少なからず影響を与えることを願いながら、この後に予定されていた北原教授による木材の曲げ応力度実験をお手伝いしていた。[岡野]
  1. 2005/07/11(月) 23:31:54|
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なにをいまさら講義と高座

 週末に何をしているのか、というと、授業の準備である。開学5年目にもなれば、教材も揃っているだろうから、いまさら授業の準備でもあるまいと思われるかもしれないが、相変わらず授業の準備をしている。前年のパワーポイントと資料をそのまま使って講義すると、しばしば、「すべって」しまうからだ。わたしは芸人ではないから高座にあがった経験はないけれど、芸人たちの話を聞くと、講義と高座はよく似ていると思う。同じネタをしゃべっても、その日の具合で受け方がまったく変わってしまうからだ。だから、講義は恐ろしい。正直、苦手である。
 その講義で、わたしは60~70分しかしゃべらない。残りの時間には「理解度チェック」レポートを毎回書いてもらう。準備では、前年の反省を踏まえ、パワーポイントのスライド枚数を調整する。しばしば新しいデータを補足するので、枚数は増えがちだが、いたずらに枚数を増やすと、学生のレポート執筆時間が減ってしまう。要は、肝心なスライドを残し、よけいな情報を与えないようにすることだ。資料はパワーポイントの出力だが、講義で使うスライド枚数よりも少なくしたほうがよい。さらに、各スライドにはブランクを設ける。こうしておくと、学生は必死でメモをとる。メモをとらないと、「理解度チェック」レポートが書けないからだ。したがって、居眠りする学生はほとんどいない。
 同じような講義をしている先生は少なくないであろう。しかし、レクチュア後の課題に「感想」レポートを求める場合が多いと聞く。感想の場合、学生は好き放題書けばよい。漫画を書いて喜んでいる学生もいる。こういうレポートでは、学生が授業内容をどの程度理解したのかわからない。したがって、採点のしようがない。「理解度チェック」レポートの場合、レクチュア後、講義内容に関する質問をするから、学生のレポート内容の優劣がはっきりあらわれる。
 こういう授業方式を自力で開発してきたわけだが、一ヶ月ほど前、企業出身の某教授が教育心理学会の出店で「BRD方式」講義の指南書をみつけて衝撃をうけたと、全教員にメールを送ってきた。BRDとは、Brief Report of the Day (日々のミニ・レポート)の略であって、なんだ、要するに、わたしのやってる方式じゃないのか、と直感した。ネット販売でその指南書を取り寄せたところ、はたして、本質的にわたしの講義と変わるところはなかった。BRDを紹介した某教授は、BRDを実践したことがないらしく、実験的に講義でやってみたらどうだった、こうだったとメールで報告してくる。わたしのような新人教員でも気づいているのだから、ベテランの先生方は「なにをいまさら」と思っているのかもしれない。

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  1. 2005/07/10(日) 13:06:38|
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村松研究会と兼松江商ビル

 8日、竹中大工道具館で年に1度の「村松研究会」が開催された。、「村松」とは、いうまでもなく、故村松貞次郎先生のことである。講演は布野修司教授(滋賀県立大学)で、題目は「アジア都市建築史」。司会は太田邦夫先生(東洋大学名誉教授)、事務局長は渡邉晶さん(竹中大工道具館)。わたしは大学での授業後、三宮に向かったので、懇親会からの参加となった。レセプションの席に足を踏み入れると、大学同窓の竹中組幹部が笑いながら近づいてきて、まずは軽いジャブ。
 「なんだよ、その格好は?」
 「ジャワ更紗さ、・・・高いのよ、これ。」
 「クールビズ??」
 「あのね、・・・インドネシアでは、これが正装なの。」
その後、渡邉さんから二人の新人を紹介された。公募を突破した植村昌子さんと坂本忠規くんなのだが、二人とも顔見知り。植村さんは文建協大極殿事務所でバイト(非常勤職員?)をしていた奈良女子大卒業生。坂本君は早稲田大学中川門下で、昨年の松江シンポジウムでお世話になった。鳥取県に採用された松本絵里さんと同年代の研究者(の卵)が各地でデビューしつつある。
 2次会で元町の「Maurice」という店に行った。明治45年に建設された兼松江商の石造ビルを改装したショット・バーである。いるか設計集団の事務所がすぐ隣にあって、酒宴の途中、代表取締役の有村桂子さんが店に立ち寄り、ビルの裏側で進む改装工事の現場をみせてくださった。
 さてさて、はじめから予想されていたことだが、10時をすぎて奈良に帰宅するのを諦めた。ズブロッカを飲み過ぎてしまい、店の壁に頭をあずけて眠ってしまったのだ。魚崎に住んでいる姉に電話したら、泊めてくれるという。姉は彫刻家で、京都の美山にもアトリエをもっているのだが、幸か不幸か、この日は神戸にいた。わたしと渡邉さんは姉のアトリエで雑魚寝したのであった。
 9日、姉は伊勢の金剛証寺に行って、虚空菩薩坐像をスケッチするのだという。奈良は途中だからと、車で自宅まで送ってくれた。いろいろ申し訳ありません。

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  1. 2005/07/09(土) 15:38:02|
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だって七夕なんだから

 昨夜はノビタの就職内定祝いをダシにして、弥生町にくりだした。弥生町にボトルをおいている店は2軒しかない。1軒めは飛鳥。因幡にあって飛鳥とは、これ如何に? 何回も理由を訊いたはずだが、思い出せない。酒菜を注文すると女将さんに叱られる変な居酒屋だが、ともかくその味が素晴らしい。「任せときなさい」と言われるままに食べるだけ。昨晩は、茄子の揚げ物と白烏賊が極上だった。旦那のほうは、巨人軍のあまりの弱さに元気がない。2軒めはMOM。スコッチをすこっちだけ飲んだ。じつは、七夕イブなので、もう浴衣に変わっているだろうと期待して乗り込んだのだが、いつもと同じ。ただ、みんなで短冊を書いた。だって、七夕なんだから。
 一夜あけて、今日は、雨が降ったりやんだり。ダンボールハウス班は室内で作業したが、他は屋外へ。仮組していたカマドを茶室の裏に移設。すごくいい感じでおさまった。平瓦を壁材として重ねたので、焚き口の開閉が可能になった。あまりに出来がいいから、来週さっそく肉を焼いてみよう、と提案した(懐具合が心配だが)。茶室は主人口の化粧材と欄間で悩んだ。主人口は太鼓襖にしたいのだけれども、なかなか難しい。適当な材料がみあたらない。壁とおなじ簾を貼ることになりそう。欄間はブリキの廃材利用を決めた。主人口と欄間の責任者は、そうだな・・・・利蔵と西山にしよう!
 吉田と城間さんは、深夜まで、修復建築スタジオでステンドグラスの準備。岡野がスクラッチ・ペーパーを切って短冊を作った。4人で短冊に願いをこめた。だって、七夕なんだから。

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  1. 2005/07/08(金) 00:45:07|
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天球丸の衝撃

 ようやく晴間がのぞいたので、鳥取城跡の石垣視察にでかけた。前にも報告した天球丸下層の石垣である。案内役は鳥取市の佐々木さんと山田さん、途中から鳥大地域学部にトレードされた高田健一くんが合流した。研究室からは岡野とキム・ドク(別名タイガー戸口)が参加したが、この二人はどちらかというとおまけで、本日の主役はまたしてもノビタである。わたしたち3人は上月さん(石工)のプレハブ(築後54年)で缶コーヒーをいただき、だべっている時間が長かったが、ノビタはずっと佐々木さんにマンツーマンの指導を受けていた。「もう、後戻りできない。たまらない」と言う。
 ノビタはのびた。完全にのびてしまった。

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  1. 2005/07/06(水) 17:06:50|
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矢部勇さんの描く「河本家門前」

 火曜日の日課は校正だ。年度末に入稿した3冊の報告書のうち、2冊は先週刊行したのだが、『河本家住宅』だけは5校に及んで未だ校了に至らない。本文の直しも多かったが、グラビアや図版の差し替えが尋常ではなかった。富士印刷の西上さんには、頭があがりません。下は最後になってグラビアにすべりこんだ矢部勇さんの水彩画(昭和23年)。河本家のご主人によると、矢部勇さんは明治36年、赤碕の生まれで、阪急百貨店図案課に勤務していたが、父の死亡により赤碕の祖父母をたよって戦中、赤崎に帰郷した。昭和27年、50歳で赤碕にて没す。赤崎にあっては、赤碕の風景をたくさん描いたというが、遺族すらその絵を目にすることはなかった。それが数年前、河本家の蔵で発見された。輪ゴムで丸められた状態であったが、いまは河本家により額装されている。
 伯耆街道の拡幅によって取り壊された供部屋や塀を描く貴重な画像資料である。

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  1. 2005/07/05(火) 19:58:01|
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鳥取県近代和風建築総合調査の参加 2005

鳥取県の行う近代和風建築総合調査に、昨年に引き続きアルバイトという形で参加した。(浅川研究室はこれまでに3度調査に参加し、一期生・二期生は全員調査に参加)鳥取県はその調査を奈良文化財研究所(以下奈文研)に依頼しており、私達は奈文研の方々の補助をする。補助といっても野帳を書く場合もあれば、スケールを読んだり、写真撮影の補助と様々である。今回は旧気高町:大井家住宅、旧鳥取市内立川:門脇家住宅、旧船岡町:森田家住宅を順に調査した。それぞれ異なった特徴があり、やはり民家はおもしろいと感じる。

この調査では常に奈文研の方々の仕事のスピードと様々な近代和風建築の意匠に驚かされる。特に民家は普段、公開することも無いので、この調査で触れることができるのはとても貴重な体験である。こういった雰囲気の中で調査することは自分にとって実測に力を養う何よりも良い経験になっている。また機会があればぜひ参加したいと思う。
(ミヤモト マサタカ)
  1. 2005/07/04(月) 20:09:35|
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ステンドグラスの図柄コンペ

 吉田がステンドグラスの図柄を3案送信してきた。以下、かれのメールを抜粋(一部改変)。
 「僕と城間さんとノビタ君の案を送ります。僕の作品はトーテムポールをイメージして描いてみました。城間さんの作品はだまし絵の魚をイメージして描いたものです。透明の所はガラスを細かく砕き散りばめるという案みたいです。2枚をつなぎます(下の2枚)。ノビタ君の作品はべしみのお面をデフォルメしたものです。みんなの意見としては城間さんの案がいいみたいです。感想聞かせてください。」
 吉田の原案を活かして、だまし絵にしたところは見事というほかない。

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  1. 2005/07/04(月) 19:45:24|
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『文文日記』Ⅲ

 鈴木成文先生の『文文日記 日々是好日Ⅲ』(建築資料研究社、2005)が奈良の自宅に送られてきた。鈴木先生は、言わずとしれた前神戸芸術工科大学長。学長時代から大学のホームページに「学長日記 日々是好日」を掲載されていたのだが、退任後も卒業生たちの要請をうけて「文文日記 日々是好日」http://www.s-suzuki.comを発信され、それを出版され続けている。大変なエネルギーと、その持続力に感嘆するほかない。そして、わたしのような者にまでいつもご高著をお送りいただき、感謝の念にたえません。
 こうして単行本化した日記はともかく、ホームページ上の日記をいったい誰が読むのだろうか、とパソコン音痴のわたしはかつて思っていた。2001~2003年、『建築雑誌』の編集委員を務めた際、布野修司委員長がHPに「編集長日誌」を立ち上げて人気を博していると知らされたのだが、ここで懺悔してしまうと、わたしはとうとう一度もその日誌を読まなかった。ところが、今年から研究室のホームページを立ちあげることになり、各所に案内のメールを流したところ、人間環境大学の青井哲人助教授から返信があり、青井ゼミの日誌サイトが記されていた。それをクリックして驚いた。ブログの日誌とはこういうものか、と感じ入り、「世代の違いを感じました」というお礼のメールを返信したのである。さっそく研究室のメンバーに青井ゼミのブログを紹介したところ、4年のキム・ドク(別名タイガー戸口)は動揺することもなく、「これならすぐできますよ」と言ってフォーマットを用意してくれた。
 以来、このとおりである。わたしはどっぷりブログ日誌にはまってしまった。もともと短文を書くのが好きだから、こんなに楽しい日課もない。わたしのブログ日誌も、いつか鈴木先生のように出版の運びとなればこの上ないが、なにせ人望と品格を欠いているので、とうぶん実現することはないだろう。

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  1. 2005/07/04(月) 03:26:43|
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ひむろ蕎麦

 鳥取と奈良の往復には、もっぱら参勤交代路の「上方往来」(国道53号-373号)を使っていたのだが、3週間ほど前、奈良から鳥取へ向かう中国縦貫道で、突然、国道29号線を走ってみようとひらめいた。とくに理由もないのだけれど、天気がよくて、体調もよかったからだろう。久しぶりに戸倉峠の景色を満喫し、ドライブインでプラスチック製容器の「回転流し素麺」を食べてから、屋外のデッキでコーヒーを飲んだら、なんだか随分いやされてしまった。猛暑の空梅雨が続くこともあって、以来、涼しい戸倉峠を越える国道29号線が上方往来にとって代わったのだが、南波賀「道の駅」の隣に新築されていた木造建築が目にとまった。その建物は水車まで併設していて、看板をみると「ひむろ」と書いてある。手打ち蕎麦の店であった。2度目の帰路、暖簾をくぐって、ざるそばの大盛を注文した。蕎麦粉は北海道産の二八蕎麦。壁に貼り付けられた新聞の切り抜きを読むと、材木商のご主人が「国道29号線沿いには蕎麦屋が1軒もないから」始めた店だという。開業3年目。趣味半分の店らしく、お客が多いとはいえないが、味はしっかりしている。ご夫妻のほうも、めざとく奈良ナンバーの車を発見し、「遠いところから」と声をかけてくださった。おかげさまで、2回目の訪問から「常連」の顔をして、わたしはいろいろお話を伺っている。
 「この近くに氷室(ひむろ)があったんですか?」
 「いえいえ、ヒムロというのはね、木材の種類なんですよ」
 「針葉樹?」
 「ヒノキの親戚やから、針葉樹やろうね」
 「あの、・・・・店の外に埴えてる大きな樹ですか?」
 「いえいえ、あれはケヤキ。ヒムロはこれですよ」
と言って、室内の真ん中にどかんと立っている磨き材を指さした。流石、材木屋さんが作った蕎麦屋だけのことはある。
 今日は雨だった。雨が降ったのに、うねりくねりの激しい戸倉峠を走ったのは、もちろん、ざるそばの大盛が食べたかったからである。じつは、わたくし、知る人ぞ知る無類の蕎麦好き。参勤交代路に蕎麦屋はないので、雪が降り積もる12月まで、毎週、戸倉峠を越えることになりそうだ。

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  1. 2005/07/02(土) 20:30:21|
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ステンドグラスへの途

 「廃材でつくるステンドグラス」の図案がなかなか決まらない。昨年の茶室プロジェクトで掛軸を描いてくれた2年の城間さんと吉田(4年)にチームを組んでもらって図案を考えてきたのだが、城間さんによると「自分の書道・日本画風のタッチをステンドグラスで表現するのは不可能」だと判断し、吉田にデザインをゆだねたという。吉田の図案はというと、風と波と緑を抽象化したもので、悪いとは決していえないけれども、正直、わたしにはものたらない。なぜものたらないのか、というと、まず第1に森や自然を抽象化しているからだ。裏山の自然に囲まれた茶室には、その自然から隔絶した宇宙を創りあげたい。数寄屋や書院ならば、庭の緑や水を屋内の視界に取り入れるのが常道だけれども、茶室は外界を遮断する。その切り取られた空間のなかで、茶を味わう者だけが「一座」を建立する。その「一座」が共有する秘密のシンボルが、この茶室の場合、側窓のステンドグラスであってほしい。だから、ステンドグラスに「和」や自然の要素は必要ない。むしろエキゾチックで色気のある図案がいいとわたしは思う。アンディ・ウォーホールのマリリンとかモンドリアンの幾何学図案とか、花鳥風月などの常識的な脈絡から断絶したモチーフのほうが、まちがいなく、訪問者をどきりとさせるだろう。にじり口からもぐりこんで中に入ると、周辺の自然とは隔絶した世界がそこに展開している。その中心が、エキゾチックでポップでセクシーな側窓のステンドグラスであってほしい。このデザインにはセンスが要る。だから、4年全員に公募することにした。一人一枚、来週月曜日までに仕上げてくること。吉田には欄間のアイデアも考えてくることを指示した。吉田は風邪をひいていて、顔がまっ蒼。少し震えがきている。ユンケルがよく効くとアドバイスした。

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  1. 2005/07/01(金) 23:52:40|
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雨の若桜鬼ヶ城

 晴の日には晴を愛し、雨の日には雨を愛す・・・・・
 昨夜、ネットで天気予報を確認すると、鳥取県東部の降水確率は70%。今日の3・4年ゼミをどうしようかと悩んだのだが、中国山脈の雨の風情も捨てがたいので、深夜、学生たちに「雨天決行、車と傘を準備せよ!」という指令を発した。
 今日の案内役はノビタ。いまや研究室に住み着いた野良猫のように、存在感を増し続けるノビタである。なぜ、ノビタを案内役に指名したのかというと、いうまでもなく、中近世の城と城下町にとても詳しいからだ。以下、かれが作った資料から抜粋する。
 若桜の鬼ヶ城は、正治二年(1200)、駿河国矢部氏によって開かれた。天正三年、尼子勝久・山中鹿助らの尼子軍に矢部氏は滅ぼされたが、同年七月、毛利氏の尼子軍一掃が始まり、最終的には吉川元治により落城。その後、羽柴秀吉の因幡侵攻によって吉川勢も敗走、荒木氏が城主となるが、関ヶ原戦で西軍に与してしまい、自害。以後、山崎家盛が入封し、城の大改修と城下町の整備に着手したが、元和二年(1615)の「一国一城令」により、翌三年に廃城となった。
 問題は、「一国一城令」以前にどの程度の城下町が形成されていたのか、そして現在の若桜の町がどれほどその骨組を継承しているか、なのだが、現状では城下町の痕跡を明快に看取できるわけではない。若桜の街並みは、街道に沿う近世の「宿場町」の姿をとどめるものであり、中世的な鬼ヶ城と無縁ではないにせよ、どこまで「中世城下町」の姿をとどめるのかは微妙であり、注意を要する。2週間前に訪問した倉吉もこれと同じで、中世城郭としての打吹城と「陣屋町」として発展した現在の市街地には連続性もあるだろうが、一定の懸隔を読みとらなければならない。
 大学出発後、まず「若桜駅」を訪れた。奈文研時代に調査した、懐かしい近代化遺産である。それから蔵通り=寺通りを散策。寺の境内から鬼ヶ城を望む(写真上)。小路をすり抜けて街道にまわり、町家の軒下を徘徊した。そして、車で不動院岩屋堂に移動(写真下)。学生諸君は「天気が良ければ・・・」と思ったことだろうが、わたしには雨の鬼ヶ城と岩屋堂のほうが新鮮だった。雨に濡れた重たい肌合いから、歴史の深層が滲みでてくるような幻覚をおぼえるからだろうか。

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キムラャさんの感想

 若桜に行くときはの確率が高い。でも今回の雨は許します。

 城について考えた事はあまり無いように思う。大まかに考える事はあるが。「コグチ?コグチって材の断面?これしか知らないんだよ。」音でしか理解できなかったので仕方ない。ノビタ氏の回答で納得した。虎の口で虎口(コグチ)と言って、城の出入り口のことなのですね。なるほどね。若桜鬼ヶ城には行き止まり虎口があったそうです。なかなか敵にとっては迷惑なトラップだったと思いますが。

 不動院岩屋堂も久しぶりに訪れた。最近、高欄から下の部分に目が行く。なぜでしょうか。思い当たる節はあるのですが言いません。何でも、ある特定の物に着目するとおもしろい。

  1. 2005/07/01(金) 17:57:03|
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本家魯班13世

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