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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

テイ湖の畔で  -スコットランドの寒い夏(Ⅷ)

8月31日 グラスゴー→テイ湖→グラスゴー: ダンケルド、アバーフェルディ、スコットランド・クラノグ・センター

 今日はまる12時間かけて、テイ湖Loch Tayの畔にあるスコットランド・クラノグ・センターに行ってきた。クラノグCrannogとは、スコットランドとアイルランドにみられる湖上住居のことで、紀元前3000年から17世紀まで存続してきたという。クラノグに関する考古学的研究は非常に進んでいる。それは、水中考古学による多大な成果を示すものだ。建築的にも圧倒的な魅力がある。部材が水中に沈んだまま残存しており、杭柱、垂木、片欠き仕口をもつ梁などが多数出土(出水?)しているのだ。これをもとにすれば、かなり実証的な復元が可能となるわけで、テイ湖においても、ケルト青銅器時代の水上ラウンドハウスが復元されている。ちょうど一年前に視察したフラグ・フェンは低湿地遺跡で、杭や柱などをたくさん残していたが、それはラウンドハウスの部材ではないから、復元されたラウンドハウスの実証性はあまり高いとはいえない。一方、テイ湖の水上ラウンドハウスは、わたしが手がけた御所野や妻木晩田の焼失住居を上まわる実証性に裏付けられているものかもしれない。
 センターには、3人の女性スタッフがいて、
  「わたしは日本で、こういう復元の仕事をしているんです。ラウンドハウス(竪穴住居とは敢えて言わなかった)なら、もう10棟以上建てましたよ」
と言うと、途端に目を輝かせて、
  「E-MAILアドレスを教えてくれませんか? 情報交換しましょうよ!」
とのお言葉を頂戴し、大喜びで名刺をさしあげた。
 気になったのは、ブロッホ(石造円塔)との親縁性である。材料は石と木で異なるが、立地と形態に限ってみれば、ブロッホとクラノグはあまりにもよく似ている。スコットランド滞在わずか1週間の日本人ですらそう思うのだから、これに関する論文はすでに多々発表されていることだろう。

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 それにしても、長旅であった。グラスゴーからダンケルドまで、列車で1時間半。ここで昼食をとりながら、1時間半バスを待った。バスに乗って40分、アバーフェルディという町に着いて、湖までわずか3マイルまで迫ったのだが、交通手段がない。町にタクシーは1台しかないそうで、インフォメーション・センターで予約してもらったものの、先約がいっぱいいて、ここでも1時間半待たなければならなかった。いや、待ったと言うべきではない。
  「待つのではない。なにかをするのですよ、この町で!」
とインフォメーションの青年に諭された。
 たしかに、そのとおりだ。時間に追われてあくせくせずに、イギリスの田舎町を楽しむ余裕すらないなら、なんのためにこの国に来たのかわからない。そもそも、わたしはなぜイギリスに来ているのだろうか。それは、イギリスの田舎と自然と遺産の魅力に憑かれてしまったからではないのか。
 青年のアドバイスにしたがって、町のウォーター・ミル・ハウスに行ってみた。そこは2階がブックショップ、1階がカフェとギャラリーに改装され、大勢の客で賑わっている。このカフェのキャロット・ケーキと紅茶が絶品だった。あらためて記憶を辿れば、本物の茶葉で入れた紅茶を飲んだのはイギリスにいてはじめてのような気がする。ティーバッグの紅茶にもおいしいものはある。しかし、本物の茶葉に叶うはずはない。
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  1. 2005/08/31(水) 23:49:35|
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廃墟の力  -スコットランドの寒い夏(Ⅶ)

8月30日 シェトランド諸島→グラスゴー: ブロッホ・オブ・バーランド、クロフト・ハウス・ミュージアム

 今日は打ってかわって、快晴。まさに極楽だ。島には悪魔と女神が同居している。
 農家のB&B(民宿)をチェックアウトして、ただちにサンウィックのはずれにあるフェリーポートに向かったのだが、モウサ島への便は午後しかないと知って、がっくりきた。しかし、ターミナルの展示パネルをみると、歩いて1.5kmのところに、ブロッホ・オブ・バーランドという廃墟があると書いてある。その案内板をたよりに、フィヨルド地形の波打ち際を歩いて、歩いて、また歩いた。片道35分は歩いたから、1.5kmというのはあきらかに間違いで、おそらく1.5マイルが正しい。要するに、昨晩とほぼ同じ距離を、また今日も歩いたのである。
 ブロッホ・オブ・バーランドは、モウサ島のブロッホの対岸にあって、両者は意識して計画された可能性が非常に高い。モウサ島のほうが残りがよくて有名だが、バーランドも素晴らしいブロッホの遺跡である。バーランドのブロッホは、おそらく本格的な発掘調査がなされていない。円筒形構造物の内側に石板材の破片が散乱している。調査していないのだから、整備をするわけもなく、それが、このブロッホにとてつもない迫力を与えている。後世の人間がさわっていない遺跡、つまり、修復整備がなされていない廃墟や廃屋をみてしまうと、整備された遺跡がどこか嘘くさく映る。
 廃墟の迫力を、いったいどうしたら、後世の人びとに伝えられるのか。放置しておけば、モニュメントの劣化は進む。劣化を恐れるから、整備を試行錯誤する。ところが、その整備によって、モニュメントの迫力が失われる。だから、劣化そのものをみせるという視点が必要となる。そうすると、最後にモニュメントは塵埃と化すのだが、それでもよいという意見だってあることを日本人は知るべきではないだろうか。

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  1. 2005/08/30(火) 23:46:53|
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ある外国人

夕方、鳥取市内を車で走行中、どの国の出身者か定かでは無かったが、あるひとりの外国人が目にはいった。左手の親指をしっかりと上げ、右手でぎこちない漢字で「岡山」(しかも蛍光ピンクで・・・)と書いた紙を掲げており、見事なヒッチハイカーだった。見かけたのは国道53号線沿いで、そのまま岡山に行けることを知っていたのだろうか?

こういう機会はめったに無いので、「乗せてあげてもいいかなぁ」と思ったと同時に、彼を乗せた途端ナイフを突きつけられ、流暢な日本語で「金出せ」と襲われるところまで頭の中で勝手に想像してしまった。
親切と危険は紙一重なものだなぁとつくづく感じた。

彼は無事に岡山までたどり着けたのだろうか?

(ミヤモト マサタカ)
  1. 2005/08/30(火) 19:59:14|
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風は激しく  -スコットランドの寒い夏(Ⅵ)

8月29日 オークニー諸島→シェトランド諸島: ヤールショフ・セトルメント、スキャロウェイ城、フォート・シャーロッテ、クリックヒミン・ブロッホ、スタニーデイル神殿跡

 みんな笑っている。だれもかれもが笑っているのだ。笑わずにはいられないほど、風が激しいのである。27㎏のスーツケースが手もとを離れて滑り出し、レンタカーのドアが閉まらなくなり、自分の体も思った方向に進まない。写真を撮ろうとしても、腕の横揺で手ぶれしてしまう。
 朝早くから、イーストバンクハウスのマスターが大騒ぎしていた。
 「風が強くて、シェトランドからの船が欠航さ。おかげで、注文していた食料品が届かないよ。でも、飛行機は飛ぶんだ、安心して!」
 たしかにプロペラ機は空を飛んだ。わずか20分あまりの飛行で、シェトランドのサンバラ空港に着陸したのだが、離着陸時の揺れはそうとうなもので、あれがもう少し続いたら酔っていただろう。着陸して、ただちにレンタカーをチャーターした。今日の車は、ホンダのクリオである。最初にめざしたヤールショフ・セトルメントは、空港の隣の波打ち際にあって、すぐに着いたのだが、そこで北緯60度の風の洗礼をまともに受けた。オークニーの雨と同じで、シェトランドの風も、最初は「これで風土を体感できる」ぐらいに思うのだが、それがいつまでたっても変わらないから、気がつけば、心身ともにぐったり来ている。今日はまる1日、この強風と戦った。

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↑↓ヤールショフ。下は鉄骨補強。
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 ヤールショフの次に目指したのは、モウサ島のブロッホ。サンウィックにフェリー乗場があると聞いていたのだが、全然みつからない。たまたま、町の小学校から綺麗な女性が出てきたので、「ブロッホに行きたいんです」と声をかけてみた。彼女は即座に「付いてきて!」と答え、フェリー乗場まで誘導してくれたのだが、ターミナルは閉まっていた。
 「風が強いから欠航だわ、明日にして!」

 疲れがピークに達していた夕暮れ、最後の視察地として選んだスタニーデイル神殿跡の看板前に辿り着いた。その看板には、1.5マイルと書いてある。草原を2.4キロ歩け、という指令である。風に刃向かいながら、その草原をてくてく歩いていくのだけれども、なんだか足下がじくじくしている。野地坊主だ。北海道や興安嶺とおなじ湿原が、草地の下に隠れているのである。はたして、靴は沼地に埋まり、靴下と足だけが宙に浮いた。靴も靴下もべとべとである。
 いまB&B(民宿)の暖房パネルの上に革靴をのせて乾かしているところだ。

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↑↓スタニーデイル円形神殿跡
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  1. 2005/08/29(月) 23:43:35|
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ポンチョとレインコート  -スコットランドの寒い夏(Ⅴ)

8月28日 オークニー諸島: ブロッホ・オブ・バーセイ、ブロッホ・オブ・ガーネス、メーズ・ハウ石室古墳、バーン・ハウス、ストロムネス、ラウンド・カーク・アンド・アールズ・ブー、グレイン・ハウス、イタリアン・チャペル、セント・マーガレットホール

 雨にやられた一日だった。
 最初に訪れたのは、島の北端バーセイにあるブロッホ(円塔)。昨日訪れたバーセイの宮殿遺跡で、係員の青年が引き潮の時間を教えてくれていた。このブロッホは、岬に連続する小島上にあるのだが、島と岬をつなぐ通路は、潮が満ちると海の底に隠れる。昨日の午後、この岬に辿りついたら、満ち潮で通路は波の下に埋もれていた。その係員の青年が、こんどはブロッホの小屋にいて、チケットを切ってくれた。聞けば、イングランドに生まれ、カナダで育ったという。いまはHistoric Scotlandのスタッフとして、「世界遺産の島」オークニーの文化財管理に携わっている。
 「雨で生憎ですね」
とかれは言うのだが、
 「雨と強風もオークニーの特徴ですよ」
と答える余裕がそのときはまだあった。

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↑満ち潮で通路は海の底。↓引き潮。ブロッホのある島から対岸をみる。
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 バーセイからガーネスに移動して、もう一つブロッホを見た。絶壁にたつ大きな円塔で、板石を直立させたり、中空に横たえるため、ボルト締めの金具を使っている。当初の石材であるとはいえ、整備・展示のためには、本場でも材料に孔を穿っているわけだ。

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↑↓ガーネスのブロッホ。↓石板の構造補強。ボルト締めしている。
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 雨は降り続いていた。昨日、スカラブレーで買った使い捨てのポンチョが役に立っていた。傘はだれもさしていない。風が強すぎるからだ。みんな、フード付きの防寒具を身にまとっている。スキーでも出来そうな格好である。
 ストーン・オブ・ステネスの近くにあるバーン・ハウス(新石器時代集落)にやって来て、雨が止んだ。ここでポンチョを脱ぎ、遺跡に歩いて行ったら、また雨が降り出して、上から下までしっとり濡れてしまった。これで決心がついた。行く先はスカラ・ブレーのビジティング・センター。昨日、買おうとして買わなかったフリーズの防寒ジャケットと黄色いレインコートを購入し、その場で着替えた。ところが、しばらくして雨は止み、晴れ間がみえてきた。イタリアン・チャペルに着くころには、夕暮れの快晴。スカンジナビアに近い離島だから、日は長い。そのまま南に下り、セント・マーガレットホールという漁港にあるホテルで、スカロッグ(貝)とハドック(白身魚)を食べた。
 スコットランドに来てからいちばん美味しい料理だったのだが、レンタカーを運転しているので、ギネスもワインも飲めなかったのが悔やまれる。捲土重来!


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  1. 2005/08/28(日) 23:39:50|
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伊志 かずは。

某日、友達と晩御飯を食べに行った日の事でした。
辺りはもう暗くなっていたため、はじめはわからなかったのですが、
明々と照らしだされた看板に、ふと、違和感をいだきました。
帰り道、同じ道を通ったので、今度はじっくりみてみると
玉遊びをする遊技場の看板でした。
私は、店内を流れる大音量のBGMに絶えられず
ほとんど行ったことがないのですが、なぜどの店も「パ」
の文字だけ電球が切れるのか、と、思いました。
もしかしたら、ある種宣伝となっているのかも知れません・・・。

  1. 2005/08/28(日) 01:24:30|
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ワゴンRで  -スコットランドの寒い夏(Ⅳ)

8月27日  エジンバラ→オークニー諸島: ストーン・オブ・スタネス、リング・オブ・ブロッガー、スカラ・ブレー、アールズ・パレス・アット・バーセイ、アース・ハウス、アールズ・アンド・ビショップズ・パレス、セント・マグヌス大聖堂

 昨晩読んだシェトランド諸島の資料に衝撃を受けてしまい、オークニーを一日短縮して、シェトランドに飛ぶしかないと決意した。朝の8時半にはエジンバラ空港に着いていて、チェックインを済ませるや否や、ブリティッシュ・エアウァイズのカウンターに方向転換、チケットの変更手続きに臨んだ。幸い、29日午前の便でオークニー→シェトランド、翌30日午後の便でシェトランド→グラスゴーのチケットが予約できた。差額は140ポンド、3万円余りである。
 エジンバラからオークニーにむかう飛行機はプロペラ機だった。数年前、シアトルからバンクーバーに飛んだ時もそうだった。プロペラ機は小さいが、安定感は抜群で、低空飛行のため地上の景色がよく見える。
 11時半にカークウォール空港に着陸。昨晩、イーストバンク・ハウスというB&B(古い医院を改装した民宿)のマスターに電話していて、段取りは決めていた。まずはタクシーでB&Bへ、そしてマスターに連れられて街のレンタカー屋へ。道すがら、かれは言う。
 「今日と明日、隣町のストロムネスでビール祭りさ!」
 「どのビールが一番好きなんですか?」
 「それはね、次のビール。いま飲んでいる次のビールさ。ストロムネスの祭りではね、世界中のビールが勢揃いするんだけど、いちばん美味いのは、やっぱり次のビールだよ!」
 レンタカー屋で、1日28ポンドのワゴンRを2日借りることにした。いま、わたしが日本で乗っているスウィフトと同じスズキの車で、ついでに言うと、ワイフの車はワゴンRそのもの。なにやら因縁めいてラッキーだと思ったのは束の間、クラッチがマニュアル式で、思うように動かない。どうも左足を上げるタイミングが早すぎるようだ。

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↑↓ステネスの立石(前3000~2500年頃)
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↑↓ブロッガーの環状列石(前2500~2000年頃)
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 オークニーは美しい島だ。なだらかな地形に石造りの民家が点在し、畑地と放牧地が入れ替わるように連続する。リアス式の海岸線は波に洗われた絶壁の下に短い砂浜をつくる。余計なものは何もない。昔から「島」と聞けば疼く質で、数年前まで日本の島めぐりを続けていた。いま自分がいるのは、スコットランドとノールウェイの境にある離島であって、おまけに、この島は遺跡だらけ、廃墟だらけ、古民家だらけ。今日半日でみたものをまともに紹介すると、朝までかかりそうだ。
 今日はなにより当初の目標であった3つの世界遺産をあっさり踏破した。ストーン・オブ・ステネス、リング・オブ・ブロッガー、スカラ・ブレーである。前2者は先史時代のストーン・サークル、スカラ・ブレーはゴードン・チャイルドの発掘調査で知られる青銅器時代の石造集落である。
 スカラブレーの集落を構成する住居の壁面と、オークニーに現存する古民家の壁は、いずれも板石の横積みで、基本的に変わるところがない。ヴィジター・センターの脇に原寸大の遺構を復元していて、テント状の円錐形屋根をかけている。おそらく屋根材が遺構面に散乱していないので、植物質の屋根に復元したのだろう。しかし、そのテント風屋根は壁から下の構造と大きく乖離している。古民家にみるように、板石葺きにすれば趣きも変わるだろうに、と思うのだが、板石葺きならば、その葺材が出土するはずだから、研究者たちは植物質の屋根を選択したのだろう。こういう復元住居を、遺跡の外側に築くのは悪くない。けれども、レプリカはレプリカであって、これでもまだ無粋だと非難する人がいると聞く。
 昔のスカラブレーを知る人たちは、ヴィジター・センターも復元レプリカもないころのほうが良かったと懐かしんでいるそうだ。素朴な整備がなによりだから。
 
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↑↓ご存じ、スカラ・ブレ(前3000~2500年頃)。下は復元。遺跡外に原寸大のレプリカを展示している。
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  1. 2005/08/27(土) 23:32:16|
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ケルトとアイヌと台湾先住民  -スコットランドの寒い夏(Ⅲ)

8月26日 エジンバラ: スコットランド博物館、エジンバラ博物館(ハントリー邸)、ホリルードハウス宮殿、ホリルード公園

 寒い夜はサムソナイト、なんてふざけたなこと書いている奴がどこかにいたが、今朝はサムソモーニング娘が窓外で踊っていた。この寒さは、8月末の北海道を上回っている。スコットランドの気候は北海道と似ていると、たしか『地球の歩き方』に書いてあったが、似ているのは気候ばかりでない。先住民族のケルトが、わたしにはどうしてもアイヌとだぶってみえてしまう。ついでに言うと、スコットランドのハイランド(丘陵・山間地域)に住むケルトは、台湾先住民のなかの高砂族(中国語では「高山族」)ともイメージが重なりあう。おなじ被征服民ながら、ロウランド(低地)のケルトは「熟蕃」と呼ばれた平甫族と似て文明を受容し、ハイランドのケルトは「生蕃」と呼ばれた高砂族と似てそれを拒絶した。さらにこんがらがるけれども、スコットランドが北海道ならば、オークニーは千島、シェトランドは樺太のようにも映る。オークニーが壱岐で、シェトランドが対馬と言えないこともないか。
 今日はハイ・ストリートのケルト・ショップに入って、久しぶりにケルトの図柄と再会したのだが、やはり、アイヌの紋様とよく似ていると思った。寒いからマフラーを買ったところ、ますます気温は下がり、ホリルード公園の急峻な山道を登るにあたって、大変役にたった。
 本日いちばんの収穫は、ホリルードハウス宮殿の背面に残るアビー(修道院)の廃墟。イギリスでは、こういうアビーを絶対復原しない。崩れ落ちた部分は撤去し、廃墟のまま公開しているのだが、この廃墟と化した建物にわたしはめっぽう弱い。豪壮華麗な宮殿建築や教会建築に出くわしても、どうってことはないのだが、崩れ去った建築物がその状態のまま屹立している姿をみると、身も心も震えてしまう。遺跡整備の立場から言えば、残っている構造物を固めて、まわりに芝生を張るだけだから、これほどシンプルな仕事はないわけだが、よく考えると、壊れつつある石造建造物をそれ以上壊れないようにするのはやっかいな作業である。
 崩れおちてくる石を崩れないようにするにはどうしたらよいのだろうか?

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↑アビーの窓。鉄筋で補強している。

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  1. 2005/08/26(金) 23:27:01|
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夜中の集い

鳥取環境大学デザイン学科の学生用フリースペース(ゼミ室)は教育研究棟の四階にあります。別棟に行くには1・2階の出入口を使わなければいけませんし、もちろん外に出るには1階の出入口を使わなければいけません。
大学を出ようと、4階から1階へ降りると、私の行く先を阻むものが
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これでもかと言うくらいに「椅子、イス、いす!」と群がり、出入口周辺を占拠しています。その理由は、床のワックスがけのために、1階のデザイン演習室(製図の演習などに使う)に推定200脚はある椅子の一部が室外へとどかされているためです。決して、バリケードとかではないです。
という、環境大学の夏の1コマでした。(ホカノ)
  1. 2005/08/26(金) 14:49:13|
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ロイヤル・マイル・スマイルズ  -スコットランドの寒い夏(Ⅱ)

8月25日 エジンバラ: エジンバラ城、聖ジャイルズ教会、ジョン・ノックス邸

 日本時間の24日18時に関空を飛び立ち、スコットランドの首都エジンバラに降り立ったのが、イギリス時間の25日午前9時すぎ。日本とイギリスとの時間差は16時間だから、31時間も費やしたことになる。なぜ、こうまでして、香港経由の便を選んだのかというと、ただただ運賃が安いから。関空からJALで直接ロンドンに飛ぶと、往復で数万円も値段が跳ね上がる。
 空港でオークニー諸島のB&B(民宿)を予約し、レンタカー会社の情報を集めてから、リムジンに乗った。ホテルにチェックインしたのは11時半で、少しだけ休もうとベッドに横になったらぐったりきた。目覚めたときには、午後1時半になっていた。
 今日は、ともかくロイヤル・マイルを歩こう、と決めていた。エジンバラ城とホリルードハウス宮殿をつなぐオールド・タウンの中心ゾーンである。なんだか知らないが、ストリートはイベントだらけで、人は多いし、ゴミは散らかっている。昨年のイングランド南部の田舎町の静けさが懐かしかった。しかし、エジンバラは世界遺産の町である。歴史的建造物には事欠かない。その代表は、いうまでもなく、エジンバラ城。入場券が10ポンドもするので、紫禁城のように馬鹿でかい宮殿かと想像していたのだが、なんともこぢんまりしている。火山岩の急峻な岩山の山頂に造られた城で、山頂を造成することなく、岩山の地形に建築をあわせているから、建築と岩の接点があちこちでずれていて、ときに建築の基礎部分から岩石がはみ出ているようにもみえる。一部で修復中のところもあり、気になるのは目地ばかり。いったいどうして石と石をくっつけるのか。これが、今回の視察の一大目標である。

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↑↓エジンバラ城
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 城から下りてマーチャント・ストリートに戻り、聖ジャイルズ教会とジョン・ノックスの家に入った。聖ジャイルズ教会も修復中。ジョン・ノックスの家は内部に450年前の木造部材が残る。とくに最上階には、彩色の痕跡を鮮明に残す天井板がいまも張ってある。今日はここまで。ともかく疲れているので、ウェイバリー駅を通ってニュータウン側にあるホテルに戻った。
 余談ながら、聖ジャイルズ教会からジョン・ノックスの家に移動する途中、画家たちが似顔絵を5ポンドで描いてくれるコーナーがあり、みているとあまりにもおもしろいので、自らモデルになった。すると、台湾のご婦人たちや英国の紳士・貴婦人がぞろぞろ集まってきて、くすくす笑っている。わたしとわたしの似顔絵をみて、笑っているのである。
 帰国したら、研究室の窓ガラスにこの似顔絵を飾る予定です。

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↑ロイヤル・マイルのストリートからみた聖ジャイルズ教会


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  1. 2005/08/25(木) 23:22:06|
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西班牙の小さな町で  -スコットランドの寒い夏(Ⅰ)

8月24日~25日: 関西空港→香港→ロンドン→エジンバラ

 香港で英国航空公司(British Airways)の28便に乗り換えてから、もう11時間経過したのだが、まだ機内は真っ暗で、大半の乗客が眠っている。わたしの席のまわりに陣取るのは、台湾の女子大生20人。
 ボーディングの時、彼女たちはなかなかうるさかった。
  「あんたの席は、そこじゃないよ、反対側だよ」
  「だって、こっちから行けない。遠回りしないと・・・」
とてもきれいな北京語をしゃべるので、隣に座った一人に、
  「大陸の方ですか?」
と尋ねた。すこし不審そうに、わたしをみつめた後、彼女は答えた。
  「台湾です。」
そうか、台湾人はたしかにきれいな中国語をしゃべる。
 香港人は、香港が中国に返還される以前、北京語を話すのをとても嫌がった。広東語をしゃべるかれらにとって、北京語は外国語でしかなかったのである。だから、北京語で質問すると、とても嫌な顔をして、英語で返事をくれたものだ。
 ところが、香港返還後、中国政府は香港人に北京語の使用を強制した。だから、香港でもごく普通に北京語が通用するようになったのだが、香港人のしゃべる北京語には広東語訛りが強く、大陸の人ではないことがすぐに分かってしまう。一方、台湾人の北京語は美しい。長かった国民党支配の申し子である。

 隣に座っている学生と話がはずんだ。
  「倫敦(ロンドン)に行くの?」
  「いいえ、西班牙(スペイン)です。ロンドンは乗り換えだけ。あなたは?」
  「わたしも乗り換えでね、蘇格蘭(スコットランド)に行くんです。」
  「なんのために?」
  「仕事ですよ。あなたは?」
  「スペイン語を学ぶんです。」
  「巴塞隆納(バルセロナ)、それとも、馬徳里(マドリード)?」
  「いえ、Valladolid(バリャドリッド)という小さな町です。」
  「あぁ、知ってる、サッカーのチームがなかなか強いんだよ。」
  「サッカーは見ないけど・・・」
  「期間は?」
  「1年間」
  「へぇ、そりゃ帰りたくなくなるよ。」
  「いえ、もう帰りたいの。家族が恋しい。台北の空港で泣いたんです。」
 
 彼女たちは、台中にある静宜大学西班牙語系の3年生。話をした学生さんは徐さんという。アイマスクをして、熟睡中。

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  1. 2005/08/25(木) 12:10:00|
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ケルト人のマフラー

 とうとう時計の針は12時をまわって、24日になってしまった。まだ、荷物は全然パッキングできていない。
 今日、夕方6時の飛行機で日本を離れ、イギリスに向かう。昨年は、高田健一くんと二人でイングランドを旅したが、今年は単身スコットランドに乗り込む。めざすはオークニー諸島。ケルトどころか、バイキングの文化が支配する北の離島である。ゴードン・チャイルドの発掘で知られる新石器時代の石造集落スカラブレー、謎のストーンサークル“リング・オブ・ブロッカー”“スタンディング・ストーン・オブ・ステネス”などがお目当て。現在、断裂した石造マグサ等で困難に直面している池田家墓所の修復整備に役立てるような情報を、少しでも多く集めることを願っての旅立ちだ。
 ところで、今年の夏の視察地をスコットランドに選んだのは、中村俊輔のせいではない。わたしは5月頃からスコットランド行きを決めていて、俊輔がそれを追うようにして、セルティック移籍を決意したのである。そうこうしていると、中田英俊までがボルトンへ移籍することになった。要するに、みんなイギリスの地をめざしたのだが、同じisekiでも、わたしは遺跡、かれらは移籍に関心があったのです、フフフ。
 今回、ロンドンは、飛行機の乗り換えでヒースロー空港に降りるだけ。だから、ボルトンのグッズを買うのは、まず不可能でしょう。しかし、グラスゴーには2泊します。したがって、当然、俊輔グッズは手に入る。おみやげには、セルティックのマフラーを10本用意しようと思っているのですが、このおみやげを欲しい人は、ブログにコメントを送ってください。

 研究室に残った4年生の諸君! わたしがいない10日間、できれば、毎日ブログを書いてほしい。最初はグー、ジャンケンポン、アイコデショ。いつもやっている通りに、執筆者を決めればよいのです。デジタル・マッピングや加藤家土蔵の調査なんていう業務上の記録にとどまらず、日常のなかに潜むトピックをみつけて、愉快な話を書いてほしい。そうそう、ノビタは一人隠れてMOMに行きそうだな。わたしのボトルを勝手にあけないように!!
 
  1. 2005/08/24(水) 01:03:09|
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佐治のガウディ

 過日、笹尾神社の祈祷札外しと棟札探しをお願いした西尾棟梁は、奥さんと二人で工務店を営んでいる。調査が終わるころ、棟梁のほうからわたしに寄って来られ、
 「ちょっとみてむらいたいもんがあるですけどなぁ・・・」
とおっしゃる。このご夫婦が、いま一番熱中している仕事は、藤原家住宅の新築工事である。笹尾神社から旧道におりると、奥さんが待機されていて、森坪にある藤原家までご案内いただいた。
 棟梁の言を借りると、藤原さんはふつうのお百姓さんなのだが、山持ちでいい木材をいっぱいもっている。その木材を伐り出して家をつくるのが道楽で、仕事を任された。木材は伐り出してから十分乾燥させる。だから、何年もまつ。そういう材で、家を建てる。木材の接合には、金物をいっさい用いない。ぜんぶ込み栓。
 1階をみると、ほとんどの柱がケヤキで、まれにヒノキを含む。流通材なら1本200万円。そういう材が裏山でとれるので、材料費はタダ。胴差の成も50㎝ぐらいある。2階にあがると、さらにびっくり。ぶっとい小屋梁が縦横に飛んでいるのだが、これがまたケヤキなのである。ふつうはマツを使うが、ここではケヤキ。ケヤキの野物の梁である。
 奥さんはいう。自分の夫ながら、こういう仕事をみていると惚れぼれする。素晴らしい言葉だ。
 「この住宅は、いつ完成するんですか?」
と聞いたら、あっけらかんとして棟梁は答えた。
 「わからん。どんな材がとれるか、その乾燥がどいだけかかるか、わからんから、完成もいつかわからん。」
 こういう棟梁の言葉を聞いて、「佐治のガウディだ」と思った。


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  1. 2005/08/23(火) 20:19:16|
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日本木材学会中国・四国支部2005年度公開シンポジウムのお知らせ

 9月9日13:00~15:00、日本木材学会中国・四国支部2005年度研究発表会の公開シンポジウムが、県立鳥取県民文化会館で開催されます。

◆公開講座「歴史の知恵に学ぶ木の使い方」

講演Ⅰ 「古代住居建築に用いられる樹種」
      講師 古川郁夫(鳥取大学農学部教授)

講演Ⅱ 「弥生時代の住まいと建築技術~妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡~」
      講師 浅川滋男(鳥取環境大学環境デザイン学科教授)

講演Ⅲ 「伝統構法に学ぶ木造建築の耐震性」
       講師 北原昭男(鳥取環境大学環境デザイン学科教授)

  1. 2005/08/22(月) 21:11:04|
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録画でみたイラン戦

 宮本が就職活動のため帰省するというので、車にのせてもらって奈良に戻ってきた。宮本の実家は京都府相楽郡加茂町にあって、わたしの住む平城ニュータウンから車で10分あまりしか離れていない。宮本とピエールはともに加茂町の出身で、中学校から今までずっと同じ学校に在籍した同級生。おまけに、二人とも木津高校野球部で、ピエールは6番レフトのレギュラー、宮本はファーストの控え選手であった。控えであるにも拘わらず、宮本は3年間野球を続けたものだから、センター試験で失敗してしまい、環境大学に転がり込んできた逸材である。
 国道29号線の帰途、5週間ぶりに、南波賀の「ひむろ蕎麦」に立ち寄った。今日もまた、ざるそばの大盛りを注文したのだが、薬味のオプションとして「辛み大根」が加わっていたので、ちょっと高いのだが、これを注文した。地元・山崎産の辛み大根である。
 帰宅して、17日におこなわれたW杯第2次予選の最終戦、日本対イランの録画をみている。例の、ライブではみる気になれない日本代表、ガンバの補欠がキャプテンを務める日本代表チームである。この試合で、ジーコはまたしても評価を下げた。アウェーで韓国を下した若い代表メンバーを一人として先発に使っていない。対するイランは、カリミもマハダビキアもいないチームで、新聞報道によれば、「旅行気分」なのだそうである。すでに両チームともW杯出場を決めているのだから、勝利よりも、若手に経験を積ませることを最優先すべき試合だとわたしは思う。
 もうスイッチを切ろう。「ゆららの湯」に使って、のんびりしたいから。

 data: 8月17日 W杯アジア最終予選 日本2-1イラン 
 
 
  1. 2005/08/21(日) 22:50:32|
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ムキ・パンダ

 夕方4時すぎに大学に戻ると、妻木晩田事務所の久保所長、馬路くん、岡野くんが演習室で待っていた。今年度から2年がかりで遺跡整備全体の基本設計に入るということで、その説明のためである。さきの青谷建築部材検討会のさい、岡野が「基本設計」という言葉を使うので、わたしは復元建物の基本設計だと思っていたら、それは復元建物を含む遺跡整備全体の基本設計のことであった。これは、ますますシビアな事態である。
 まぁ、はっきり言うと、岡野は頼りない。頼りないから、ついついいじめてしまうのだが、昨秋、現場事務所で岡野を叱った直後、車の接触事故をおこしてしまった。岡野は、それを聞いて、鬼の首をとったように喜んだらしい。で、今日も言うのだ。
 「先生、あんまりいじめると、また事故ですよ、事故・・・」
ほんま、どついたろか、と思った。
 というわけで、初期整備を終えて2年目、とうとう妻木晩田本整備がスタートする。わが研究室も、総力をあげて支援いたします。

 ところで、今日はあまりに多くの出来事がありすぎて、疲れは極限に達していたから、ちょっと美味しいものが食べたくなった。マンナというレストランで、ニンニクたっぷりのイタリア料理を食べ、アルゼンチンのワインを飲んでいたところ、MOMから3度も営業のメールが鳴り、とうとう電話までかかってきた。で、馬鹿だから、ノビタと利蔵をつれて、また行ったのです。
 話が妻木晩田に及んで、I子さんが言うには、
 「わたし、あれムキ・パンダって、ずっと読んでたんですよ。ムキ・パンダ・・・いいでしょ、こっちのほうがカワイイ。」
 一瞬、岡野の顔が頭をよぎった。


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  1. 2005/08/19(金) 23:50:23|
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旧町村指定建造物調査Ⅲ -東井神社

 佐治にある旧村指定建造物の笹尾神社薬師堂と林泉寺山門の再調査の後、用瀬(もちがせ)にある東井(とうい)神社に行きました。明治元年、周囲にある六社を合祀して成立した神社で、やはり旧町指定(現市指定)の文化財建造物です。
 東井神社で、歴史的建造物のデジタルマッピング作り(参照:8月19非歴史的建造物のデジタル・マッピング 中間報告その1)の資料となる写真と調書をとりました。拝殿と本殿が対象です。
 浅川教授も同行していただいていたので、記入後の調書を確認していただき、その折に、組物の名前を説明・指導していただきました。勉強不足を痛感。
 今までの調査においては、寺院物件の調書に組物の記載をしていなかったので、次回の調査からは組物の名称も加えられるよう、努力しようとおもいます。[西河の、河のほう]

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↑拝殿は正面が入母屋、背面が切妻。鳥取には、この形式が少なくない。向拝の組物は三斗組。大斗に皿斗がつく。

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↑本殿は一間社流造。組物は出組。
  1. 2005/08/19(金) 22:18:20|
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旧町村指定建造物調査Ⅱ -林泉寺

 朝早くから倭文に行き、文化庁の方の視察に同行。その後、河田、宮本、西山の3名で、佐治の旧村指定文化財、林泉寺山門の補足調査をしました。まず、ご住職の家族の方に、挨拶をし、調査開始! このまえ採った平面と断面図の漏れを補い、屋根伏配置図を書き足しました。みんなで作業を分担して、3時間くらいで補足調査を終了した。F4の使い方がわからず、浅川先生に上がってきてもらいました。みなさん、お疲れ様でした。(西山)

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  1. 2005/08/19(金) 20:10:33|
  2. 建築|
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旧町村指定建造物調査Ⅰ -笹尾神社薬師堂祈祷札

 7月25日に佐治町の旧村指定(現市指定)文化財である「笹尾神社薬師堂」の第2次調査をおこなった際にみつかった棟札・祈祷札の調査に行きました。浅川先生、氏子総代の木村さん、学生4名(西垣・北野・利蔵・ノビタ)の立会いのもと、地元の大工さんである西尾棟梁の手によって、小壁に打ち付けられていた3枚の札がはずされました。残念ながら、外された札はすべてが祈祷札で、裏に建築年代を示すものは皆無でした。大きな1枚の表には「天皇陛下」の4文字もみえ、戦前の祈祷札と思われます。したがって、薬師堂の再建年代が分からないままとなってしまいました。また、西尾棟梁に屋根裏に登っていただき、棟札が打ち付けられていないのかの確認をしていただいのですが、こちらも見つからないまま終わってしまいました。(西垣)

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↑祈祷札を外す西尾棟梁

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↑祈祷札の実測
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  1. 2005/08/19(金) 20:06:35|
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倭文・旧加藤家、登録文化財をめざす

 昨日、近代和風建築調査委員会に出席された文化庁建造物課の江面主任文化財調査官は登録部門の担当で、本日、県東部の登録有形文化財を視察されるということを聞いていた。そこで、県の濱くんに無理を言ってスケジュールを調整してもらい、江面調査官に倭文の旧加藤家住宅をご視察いただいた。というのも、旧加藤家を管理するKさんが保存に熱心であり、とりあえず国の登録有形文化財をめざそうということで合意を得ていたからである。
 くりかえすことになるが、旧加藤家は、1)鳥取藩の御殿医が住み続けた旧宅であり、2)建築年代が18世紀に遡る可能性が十分あり、3)座敷飾りや庭などの芸術性も高く、わたしとしては、県指定もしくは市指定に値する建造物であることを確信しているが、平川参事をはじめとする市の担当者は、「指定」という言葉を聞くだけで顔をこわばらせるので、とりあえず登録文化財をめざそうと考えたのである。これについては、県教委で建造物を担当する濱くんや松本さんも理解があり、迅速な対応によって、江面調査官の視察を実現してくださったことに感謝している。江面調査官からは、この建物を登録文化財にすることに、なんら問題はないというコメントを頂戴した。さらにありがたいことに、加藤家の敷地から近隣に移築されている土蔵も調査し、一括して登録に申請するのがよいだろうというアドバイスもいただいた。
 濱くん、松本さんと協力し、迅速に登録文化財の手続きを進めようと思っている。

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↑近隣に移築された旧加藤家の土蔵。江戸時代に遡る?
  1. 2005/08/19(金) 19:25:00|
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吉田くん、茶室の屋根にのぼる

ノビタです。
今日は、茶室の屋根の補修を手伝ってほしいと吉田君から依頼されたので、宮本君と一緒に手伝いました。

ノビタです。
なぜ屋根に補修をしなければならないかというと、板葺き屋根の節の部分から雨がうっすら漏ってきたからなんです。このまま放っておくと、雨水で畳が腐って、床が抜けてしまいます。

ノビタです。
吉田くんが持ってきたトタン板を、屋根寸法に合わせて切ってから屋根に上げ、吉田君が目地の上から釘打ちして、固定していきました。

ノビタです。
吉田くん、お疲れさまでした。
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  1. 2005/08/18(木) 22:07:56|
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第4回 鳥取県近代和風建築調査委員会

 午後2時から県庁第21会議室で、第4回「鳥取県近代和風建築調査委員会」が開催された。ハマダバダの一角、濱くんがこの調査の担当技師で、6月に採用された松本さんも補佐役で出席。また、新任の小林文化課長も責任者として列席された。西田さんをリーダとする奈良文化財研究所の調査は順調で、すでに89ヶ所の近代和風建築が実測調査されている。ただ、第1~2回の調査委員会で江戸時代後期~明治・大正期の一般民家を調査しようという合意が得られていたにも拘わらず、対象がいくぶん「大物」(地主クラスの大型住宅等)に偏向している点が気になった。今後は、佐治町、日南町など残された地域だけでも、一般民家を調査対象として拾い上げていただきたい。
 このほか、漁業・漁村関係の建築が欠落しているということなので、白兎海岸の舟小屋(5月26日ブログ参照)を推薦しておいた。舟小屋は砂浜にたつ掘立柱の建物で、古い建物ではない。しかし、おそらく戦前まで、山陰の海岸線には、数え切れないほど多くの舟小屋が建ち並んでいただろう。そのほとんどが、港湾整備などの開発行為によって消え失せてしまった。白兎海岸は名勝地なので、砂浜が広範囲に残り、舟小屋も姿をとどめているのである。もっとも、昔の建物が今まで残っているわけではなくて、朽ちては建て、朽ちては建ての連続であったろう。いわば「式年造替」をくりかえしてきたわけで、有形文化財としての価値は乏しくとも、民俗文化財としての価値をもつ建物といえるのではないか(わたしは昔から伊勢神宮を無形文化財扱いすべきだと思っている)。かつて隠岐の舟小屋を調べてまわり、浜辺に群集するその姿に感銘をうけた。それが最近、隠岐を訪れるたびに数を減らしている。鳥取では、白兎海岸以外では中海の近辺にわずかに舟小屋をみる程度になった。
 報告書の刊行〆切は本年度末。残された時間は多くない。調査と編集作業を併行して進めるほかなく、西田さんの踏ん張りに期待したい。

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*9号線沿いのファミリーマート対面に、たくさんの舟小屋が建っていて、いまも動力船を収納している。

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  1. 2005/08/18(木) 19:52:46|
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ハイウェイ・カード全面廃止

 ハイウェイ・カードが、9月で販売中止になるという。回数券も同様だ。2年前だったか、5万円(58000円相当)と3万円(33000円相当)のハイウェイ・カードが廃止され、単身赴任者として、猛烈な傷手をうけた。鳥取と奈良の往復をくりかえしているので、当然のことながら、毎回5万円のカードを買っていた。高速代は、普通車だと1往復で約1万円、軽自動車だと約8000円。5万円のカードが、いまも恋しい。今回の措置で、1万円(10500円相当)、5千円(5200円相当)、3千円(3000円相当)のカードも使えなくなる。
 料金所で、おじさんに聞いてみた。
  「なんで、こういうことするんですか?」
  「偽造カードが多いんですよ・・・」
  「これから先は現金だけですか?」
  「現金か、・・・ETCだね。」
 偽造カードは、たしかに5万円や3万円のハイウェイ・カードに多かったと聞く。しかし、3千円~1万円の時代に、偽造カードを警告する公告を目にした記憶はない。
 だれがどうみても、これはETCに対する保護措置だ。裏返せば、ETCの普及が伸び悩んでいるということだろう。長距離通勤を続けるわれわれは、ETCを取り付けるしかない。
 いやな時代になったものだ。
  1. 2005/08/17(水) 23:11:25|
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出雲大社本殿模型の制作工房

 5人の建築史家が、出雲大社境内遺跡で出土した巨大本殿跡の復元で競い合っている。平成19年春に開館する島根県立古代出雲歴史博物館に、5つの復元模型(1/50)が並列展示されるのである。この夏は、一人ひとりが中間検査をおこなっていて、わたしは5人のなかのラストバッターとして、本日、京都市右京区の株式会社さんけいを訪れた。島根県古代文化センターの錦田くん、丹青社東京の榛沢さんの立ち会いのもと、垂木までのった模型をみた。わたしたちの案の細部設計は、ほとんどキム・ドク(別名タイガー戸口)に任せていたのだが、キムは大学院受験の準備で鳥取に残ったまま。ときどき電話で連絡をとりながら、検査を進めた。制作は順調に進んでいる。扉口、高欄などの細部修正以外、とくにおおきな問題はなかった。
 出雲大社の場合、
  1)かつてはものすごく大きかったという総高48m説
  2)大きいことは大きかっただろうが、高さ40m前後にどまるだろうという説
  3)現状と同じ総高24m説
に分かれている。今回の模型では、1)と2)が2名、3)が1名で、わたしは2)の立場をとる。こういう仕事をしていると、奈文研時代を思い出す。奈文研で過ごした後半の7年間、平城宮跡の復元事業に明けくれていた。当時は、こうして複数の復元案を検討したあと、大勢で議論して一つの方向性に収斂させ、最終的には原寸大の建物を建てた。今回はあくまで5案併列である。
 他の4案も順調に制作が進んでいるので、じっくり拝見させていただいた。聞けば、みなさん自信満々なのだそうである。わたしも自信がないわけではない。裏返せば、みんな他の案はダメだと思っているのであろう。人間と同じで、他人のアラはみえても、自分のアラには気づかない。復元模型は、まさに作者の分身である。

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  1. 2005/08/16(火) 21:46:21|
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鳥取環境大学環境デザイン学科助手の公募

 鳥取環境大学環境デザイン学科では、孫喜山助手が中国の大学にご栄転となり、あいたポストの公募をおこなっています。以下に、建築学会に提出した募集要項を転載します。

1.募集人員: 助手1名(任期付き3年、再任1回可能)
2.専門分野: 建築学もしくはインテリア、ランドスケープ関係分野の大学等高等教育機関を卒業している者ならば、専門分野を問わない。
3.主要業務: ①教育補助業務:環境デザイン演習、その他演習・実習科目の補助 ②プロジェクト研究1~4 ③学科運営上の連絡・調整・事務等
4.応募資格: ①原則として、大学院修士課程(もしくは博士前期課程)修了の者、又はこれと同等の実績・能力を有する者 ②24歳から40歳まで[平成17年11月1日現在] ③採用後は、鳥取市もしくはその近郊に居住できる者 ④計画・設計等の実務経験を有する人材が望ましい。ここにいう計画・設計等の実務経験とは、住宅・建築設計に限らず、構造設計、設備設計、家具・インテリア設計、都市設計、ランドスケープ等の分野であってもよい
5.任用予定: 2005年11月1日(予定)
6.応募〆切: 2005年9月22日(必着)
7.提出書類(すべてA4サイズ): ①履歴書[様式自由/顔写真貼付]  ②研究業績一覧 ③教育歴[非常勤講師等で担当した講義内容やTAとして担当した内容等も含む] ④着任後の教育研究および学生指導についての抱負[1000~2000字]
8.選考方法: 第1次選考(書類審査)・第2次選考(面接審査)
9.提出先/問い合わせ先:
 〒689-1111 鳥取市若葉台北1-1-1鳥取環境大学 環境情報学部 環境デザイン学科 教授・学科長 村上 太佳子
  電話番号: 0857-38-6774、FAX番号: 0857-38-6774
  e-mail: takako-m@kankyo-u.ac.jp
 (封筒に「環境デザイン学科教員応募書類」と朱書の上、簡易書留またはエクスパックで郵送のこと)

*さらに詳しい情報を、研究者人材データベースのホームページ(http://jrecin.jst.go.jp/)に掲載しています。


  1. 2005/08/15(月) 13:57:10|
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ASローマのユニフォーム

 お盆になって、温泉大浴場「ゆららの湯」は一段と盛況。家族連れを中心に、お客を増やしている。おじいちゃんとおとうさんとお孫さんが一緒になって、サウナに入ってくるのだ。風呂上がりのレストランでは、3世代8人連れの家族が食事を楽しんでいる。そのグループはレストランからマッサージ・チェアーに移動して、椅子数台を占領し、キャァキャァ騒ぎながら遊んでいたが、その光景はけっして不快なものではなかった。ほほえましく、羨ましいとさえ思えた。小さな子どもたちは家庭を明るくする。
 風呂から上がって、畳敷きの広間でテレビをみてくつろいでいた。すると、目の前にASローマのユニフォームを着た少女が腰掛けた。青色のユニフォームで、背番号は10、背番号の上にTOTTIの5文字がみえる。しばらくして、別のユニフォームを着た少女がブルーのユニフォームの少女に歩み寄ってきて隣に腰掛けた。こちらはエンジ色をしていて、どこのユニフォームかと思ったら、やはり背番号は10、TOTTIと書いてある。あぁ、そうか、エンジはホーム、ブルーはアウェーのユニフォームなのだ。
 少女たちは、たぶんサッカーのファンでもなければ、ASローマのファンというわけでもなく、トッティ個人が好きなのだろう。それにしても、サッカーはメジャーなスポーツになっている。野球の視聴率が落ちるわけだ。

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  1. 2005/08/14(日) 18:43:43|
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歴史的建造物のデジタル・マッピング 中間報告その1

 昨年度、1期生を中心に旧鳥取市内に分布する歴史的建造物のデジタル・マップを作成しました。その成果をまとめつつあった平成16年11月に、旧鳥取市と旧町村(青谷町・鹿野町・用瀬町・佐治村・河原町・国府町・福部村・気高町)の大合併が行なわれ、今年度は、合併後の新鳥取市旧郡部のマップ作りを進めています。マップ作成の前提として、まずは、社寺・民家等のリストを各旧町村ごとに作りました。そのデータに従い、現地へ赴きデジカメとGPSを使って、マップ作りに必要なデータを集める作業をしています。今年からは、建造物の基礎調査票も併用しています。以下が、今までの調査の概要です。

8月2日  鹿野町(鹿野・今市) 19件
8月4日  鹿野町(寺内・今市) 8件
8月8日  青谷町(桑原・澄水・紙屋・田原谷・北河原・山田) 20件
8月9日  青谷町(絹見・夏泊・長和瀬・青谷) 9件
8月10日  鹿野町(鹿野・今市・鷲峰・河内・末広・岡木) 10件
8月12日  青谷町(青谷) 20件

 調査対象物件が、密集しているか、していないかの違いによって、その日の調査達成件数に大きな差が出てきています。総調査対象物件数(約600)に対して、今のペースでは補足調査のための時間がなくなってしまうので、密集している地区では30物件、密集していない地区では20物件を達成できるように今後は取り組んでいきたいです。(西河)

*左上に国土座標が書き込まれているのがわかりますか?
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[歴史的建造物のデジタル・マッピング 中間報告その1]の続きを読む
  1. 2005/08/13(土) 08:45:59|
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同窓会の日

 お盆休み前の週末だから、歩いて3分のところにあるホームドクターを訪れ、問診をうけて、いつもの薬をたくさんいただいた。「血圧が少し上がってますね」とのこと。上が148、下が98。たしかに普段より10前後高くなっている。そのあと昼寝をしたから体が軽くなるかと思ったのだが、しだいに頭が痛くなってきた。これは、あきらかに高血圧の症状だ。仕方ないから、もらったばかりの薬を飲んで、ずっと横になっていた。いま、ようやく落ち着いてきたところである。
 今日は鳥取西高卒業30周年の同窓会が鳥取のホテル・ニューオータニで開かれていて、往復はがきの返事は「出席」としていたのだが、2日前にドタキャンした。鳥取に3週間以上も滞在して、奈良に戻ってきたら、もう鳥取に帰る気力がなくなってしまったのだ。昨日の甲子園行きは、ワイフの熱望によるもので、行って楽しんできたのは間違いないのだが、疲れがたまって今日は体調がよくない。
 じつは、14日には河原中学校の同窓会も予定されている。これには返事すら出さなかった。お盆休みに同窓会をセットするのは、まことに常識的なスケジューリングだが、わたしの場合、お盆にまで鳥取にいると、いったいいつ家族との時間をすごすのか、という大問題に発展してしまう。もっとも、夏の奈良の熱さは異常だから、鳥取にいるほうが仕事はよく進む。その意味では、奈良に長居はできないのだけれど。
  1. 2005/08/12(金) 23:01:46|
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甲子園でみた鳥取西高

 鳥取西高校が12年ぶり、22回目の「夏の甲子園」出場を果たした。なにを隠そう、わたしは西高の卒業生である。創立100周年だった2年生のとき、野球部は18回目(17回目だったかも?)の「夏の甲子園」出場を果たした。今回と同じ2回戦からの出場で、その初戦は仙台育英に 3-1 の勝利。続く3回戦は富山商業?に 0-1 で惜敗した。2戦とも応援に行って、じつに楽しかった。
 大学に進んでからも、たまに西高は甲子園に出場したので、しばしば応援にかけつけた。まだ小さい子供をつれての家族のレクリエーションだったから、クーラーボックスにビールやジュースをぱんぱんにつめて甲子園に行く。「西高の卒業生です」と言えば、家族の分だけアルプス席のチケットがもらえる。子供たちは、甲子園に入れるというだけで、喜んでいた。

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 しばらくして、西高の野球部は弱くなり、甲子園の出場権を得ることはなくなった。代わって台頭してきたのが八頭高である。じつは、わたしのワイフは八頭高の卒業生だから、これも大歓迎。八頭高がはじめて「夏の甲子園」に出場したのは、1996年だったと記憶している。キーワードは前園真聖。そう、あれはアトランタ・オリンピックが終わった直後の夏休みだった。家族全員で八頭高の試合を観戦したのだが、たしか宇部商業を相手に 0-8(1-8?)の大敗だった。フォア・ボールが多く、送りバントは失敗ばかり、打ったヒットは1~2本。締まりのない負け方に呆れかえった我が家の面々は、梅田まで戻ったあと、欲求不満を解消するために、長居競技場をめざしたのであった。
 お目当てはJリーグ公式戦の横浜フリューゲルス対セレッソ大阪。凱旋した前園は、オリンピックでこなしたトップ下ではなく、前線に残る2トップのうちの一方として得点したはずである。当時のフリューゲルスは、セレソンのメンバーでもあったジーニョがトップ下だった。前園はオリンピックから帰ってきた筍の時期で、移籍が噂されていたが、まだフリューゲルスでプレーしていた。このシーズンを終えてからヴェルディに移籍し、かれの人生は下降曲線を描き始める。
 八頭高は弱いチームだったが、甲子園に出ると聞くと、その後も毎回、応援に駆けつけた。だから、緑色の帽子がたくさん溜まっている。で、今日の西高は強かったかといえば、やはり弱かった。弱かった、という表現は不適切だと非難されそうだから、言い方を変えよう。鳥取県代表と千葉県代表の実力差は 1-7 というスコアに的確にあらわれている。31年前、仙台育英を 3-1 で下したチームはもっと強かった。ピッチャーのコントロールは正確でフォアボールは少なく、打者に長打が多かった。クローザーだった加藤くんは、唯一人の2年生で、卒業後、法政大学に進学。江川につぐ法政№2のピッチャーになり、日本生命野球部時代には日本代表にも選ばれた逸材である。そんな西高を知っているだけに、残念なことは残念だったのだが、甲子園のアルプス・スタンドで久しぶりに「校歌」を2回も歌わせていただいて、とても感謝している。
 銚子商業の校歌よりも、鳥取西高の校歌のほうが品があって、ずっといい曲だ。間違いない。

  data: 第87回全国高校野球選手権大会 第6日(8月11日)第4試合
       銚子商業 7-1 鳥取西高

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[甲子園でみた鳥取西高]の続きを読む
  1. 2005/08/11(木) 23:55:35|
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報道ステーションでみた亀井静香

 昨夕、奈良に戻ってきて、久しぶりに「ゆららの湯」でくつろいだ。いまは報道ステーションをみている。おもしろいのは政局だ。今日の特別ゲストは亀井静香前衆議院議員。「仲間に刺客を送る極悪非情な総理総裁」だと言って、小泉純一郎を非難しているが、こうなったのは、ほかでもない、自分のせいである。小泉の行政手法が正しいかどうかは別にして、兵法からみれば、小泉の攻め方は定石通り。
 目の前の敵を潰さなければ、自分が潰される。
 それだけのことだ。

 亀井静香の映像をみるたびに、敗走する戦国武将の姿が目に浮かぶ。もとは権力の中枢にいた人だから、源氏に滅ぼされた平家の落武者と言うのがふさわしいかもしれない。敗軍の将から兵は離散していく。新党結成など、夢のまた夢。ただ、息の根をとめておかないと、源頼朝のように復権する輩がでてくるかもしれない。だから、刺客を送って首をねらう。武家の習いである。

 
 
  1. 2005/08/10(水) 23:11:03|
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