ホカノです。
まだ、痛むんです。
昨晩、また30分のミニ・ゲームをしました。白組は、わたしと利蔵くんとピエールと宮本くん。黒組は先生、西河くん、吉田くん、キタノさん。まず、吉田くんのオウンゴールで、白組が先行したのですが、西河くんのセンタリングからキタノさんのゴールが決まり、同点。さらに西河くんの決勝点で黒組が逆転しました。先生は、西河くんの動きがとても良い、と誉めていました。西河くんが前線で横方向左右に動くと、そこに先生のスルーパスが飛んでくるのです。1点めの同点弾は、スルーパスのあと西河くんがセンタリングして生まれました。西河くんは、
「バスケットボールで、よくやる動きなんです」
としたり顔でした。
で、まだ疼くんです。キタノさんの蹴ったボールがセンターにあたってしまって、わたしは駐車場にうずくまり、大の字になってしまいました。割れちゃったのかもしれません。
ハマタマダ、タマタマダ・・・・
- 2005/09/30(金) 21:12:33|
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先日、青谷町の尾崎家住宅を訪問したが、本日は湯梨浜町にある尾崎家住宅を訪れた。
鳥取県教育委員会の中原さんが尾崎家住宅に訪問するということだったので、それに同行させてもらうかたちで参加した。実は浅川先生を通じて、無理を言って同行させてもらったものでとても感謝しています。
尾崎家住宅は代々大庄屋を勤めてきたこともあり、その屋敷構は集落のなかで際立つ。一度、門前までは見に行ったことがあったのだが、屋敷内に入るのは初めてで、予想以上の規模だった。昨年、調査をおこなった河本家住宅に匹敵するのではないかと思われる。青谷町の尾崎家住宅も十分な規模をもつ民家だったのだが、やはり、重要文化財に匹敵する屋敷構にはかなわない。
また庭園(松圃園)が国指定名勝に指定されており、書院座敷と庭園が一体化した空間はやはり心地よく感じる。また手入れがちゃんと行き届いており、とても良い空間になっている。借景となっている山々も庭園の一部として、文化財に指定されており、人工物の全くない美しい景観を保持している。中原さんもおっしゃていたのですが、近頃、多く建設されている風力発電がこの山にも進出してくるのではないかと心配になった。このような景観はぜひ残していってほしいと思う。


同行を許してくださった中原さんと、おじゃまさせていただいたご主人・ご夫人には感謝しています。ありがとうございました。今後の調査等でご迷惑をかけるとは思いますが、その節はよろしくおねがいいたします。(ミヤモト)
- 2005/09/29(木) 17:14:10|
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私の卒業研究 「歴史的建造物の保存活用計画」(仮)の対象となる建築物がはっきりと定まっていない。筆頭候補として湯梨浜町 尾崎家住宅を挙げていたのだが、江戸中期の茅葺き民家ということもあり歴史的価値が高く、容易には介入できないこともあり、留まり今に至った。
そうこう模索しているうちに、ある日突然、浅川先生を通じて倉吉の建築家の方から連絡があり青谷町に解体する古民家があることを伺った。またその古民家も尾崎家らしく、「尾崎さん」に縁があるのかなと思いつつ、一度見てみたいと思い、管理人さんに頼み込み、見学させていただくことになった。
初めて訪れる所だと思っていたが、実は西河さんの歴史的建造物デジタル・マップ作成の運転手として、一度訪れていた。尾崎家は鳥取市青谷町澄水の集落に位置する。管理人さん曰く、明治7年のものでその雰囲気は十分に感じ取れる。しかし今は空き家になっており、床が抜け落ち、人が住める状態ではなく、解体の話が持ち上がっている。現段階では解体は保留の状態らしいが、人が住まない民家は朽ち果てる一方。


この尾崎家が健在するためには修復のための費用と住まい手がいないという大きな課題をクリアしていかなければならないのだけれど、このような古民家の数が減っていく現在にとっては、とても大きなものを失うようにも思われる。
このような問題も踏まえ、卒業研究で取り組みたいと思っています。
ちなみに明日は湯梨浜町の尾崎家を訪れます。
(ミヤモト)
[もうひとつの尾崎家]の続きを読む
- 2005/09/28(水) 20:03:56|
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ノビタです。
以前から鳥取市教育委員会文化財課山田さんから天球丸の石垣のCG作成を依頼されており、そのCGがある程度出来上がったので、現在調査しておられる鳥取西高の三の丸試掘調査現場(以前ブログに掲載)に行きました。
そして、CGを見てもらい、制作するうえで知っておきたい、高い天球丸の石垣の下を支えるようにある腰巻石垣の天端の高さ等を聞きました。
そして、8月20日に試掘調査の現地説明会があったのですが僕は行けなかったので、今日、試掘調査の状況を教えてもらいました。初めての間近に見る発掘現場に感動しました。
お忙しい中ありがとうございました。
- 2005/09/27(火) 18:01:52|
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先日、24日に史跡 鳥取藩主池田家墓所(鳥取市国府町奥谷)で開催された「池田家墓所 燈籠会」に行ってきました。池田家墓所 燈籠会は、昨年、第一回が開催されてから、今年で二回目となります。池田家墓所には、藩主墓のほかにも約270基の燈籠があります。燈籠会では、それら270基の燈籠に一斉に灯を入れていくのです。池田家墓所では、光仲墓の解体、唐破風の調査などでもお世話になっていたため、24日に燈籠会を開催するという話を聞いていた私は、ぜひ見に行きたいと思っていました。実は、昨年の燈籠会の日には、予定がはいり見ることができなかったためです。
燈籠会では、会場にきた方から燈籠に灯を入れることができるため、開始時間だった午後六時半から参加するつもりでした。しかし、先週から実家のある京都に帰っており、鳥取へ向け出発したのが当日になってしまいました。連休中ということもあってか、京都市内には観光に来ている方の車が多く、なかなか先に進むことができず、予想よりも時間がかかってしまいました。やっとの思いで鳥取市内に着いたころには、もう日も暮れ、開始時間を約一時間も過ぎていました。慌てて、会場の池田家墓所へむかったところ、墓所はいくつものロウソクの灯りで照らしだされていました。燈籠から漏れる灯りによって、映し出された鳥取藩歴代の藩主墓は、昼間見る光景とはまた違った魅力を持っており、まるで違う場所のようでした。

私が到着したころは、閉会間近だったにもかかわらず、燈籠の灯りを携帯電話におさめようとしている方も多数おられました。私も、持参したデジカメに、この幻想的な光景を残そうとシャッターを切ったのですが、やはり、肉眼で見る光景にはかないません・・・。

この、燈籠会は今年で二回目ですが、主催されている(財)史跡鳥取藩主池田家墓所保存会の方をはじめ、鳥取県や市の方、奥谷自治会の方々には、このような幻想的な光景を見せて頂けた事に、感謝すると共に、これからも第三回、四回、・・・と燈籠会を続けていって頂ければ、と思います。 (ぴえーる)
[第二回 池田家墓所燈籠会]の続きを読む
- 2005/09/26(月) 12:30:15|
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昼食 日替り定食をごちそうになりました。ありがとうございました。
島根県立八雲立つ風土記の丘資料館 (島根県松江市大庭町) 「神と人との交差点」(10月30日まで)と題された企画展を閲覧した。弥生・古墳時代を中心に古代の人々が何を祈り、どう生きたかを探ろうとする企画展で、田和山遺跡・青谷上寺地遺跡などの様々な遺跡の出土品が展示されていました。銅鐸や土笛・琴といった音に関する出土品も展示されており、現代にも共通するものが垣間見られ、古代の人々がどういう生活をしていたのかと率直に興味を抱いた。
青木遺跡 (島根県出雲市東林木町) 青木遺跡は、道路改築事業により遺跡の存在が明らかになった遺跡で、扇状地形の微高地上に形成されており、中近世の建物郡や、弥生時代の墳墓郡が重複する複合遺跡である。
シンポジウムでも話題になった青木遺跡の復元案もそうですが、遺跡がどのようなもので、どのような建物があったのかということは建物遺構・周辺の木柱跡や礎石・石敷跡・その他の出土品など、多くの史料から考察し矛盾点をクリアしていく様が、このシンポジウムを通してよく分かった。難しさもあり、またそこにおもしろさが詰まっているのだなぁと感じた。
こういう仕事も一度はしてみたいなぁという自分に少々驚いた。


-復元された石敷井戸-
出雲大社 (島根県大社町) 率直な感想は「でかいなぁ・・・」の一言だった。現在の本殿(1744)ですらこの規模なのだから、本来の姿が想像しがたかった。本来の3本の柱を束ねたモニュメントのようなものがあったが、想像以上だった。さすがは雲太、という感じだった。


-出雲大社 本殿-

-遺構から検出された柱跡-
シンポジウムでは浅川先生を含めた3氏の復元案が話されたが、遺構・金輪御造営指図・神郷図などの復元のための資料はほぼ同じにも関わらず、復元案は共通する点もあるが、全くもって異なる。人の感性と考え方は様々だなぁとつくづく感じた。これはシンポジウムを通して、おもしろいなぁと感じたことの一つであり、こういう話合いの場を設けることはとても大切なことだと感じた。
エクスカーションで見た神社・遺跡にはグッときたミヤモトですが、浅川先生にグッとくる写真が撮れたかどうかはわかりません。デジカメ世代の我々にとって、F4での写真撮影は少し荷が重すぎたのかもしれません。
最後に案内をしてくれた錦田さんと岩橋さんの両氏に感謝の意を示したいと思います。ありがとうございました。(ミヤモト)
- 2005/09/25(日) 00:20:55|
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降水確率80%UPの雨男こと利蔵です。
22日の大社造エクスカーションについて、宮本君と2回に分けて連載ということを仰せつかりましたので、僕は前半の佐太神社、神魂神社、田和山遺跡までを担当します。
起床7:00。起きた時は曇りでしたが、その後天候は回復。晴れのなか、参加することができました。
8時半過ぎに古代文化センターの錦田さん、岩橋さんと合流。その後ホテルで高田さん(鳥大)、ダイフミ棟梁と合流、計6名でまず佐太神社へ向かいました。佐太神社は国の重要文化財に指定されており、その本殿は3つ。いずれも大社造で並立しているという他に類をみない形式の神社でした。

これはうろ覚えなのですが、神の依り代として龍蛇(海蛇)を使うする事などから、注連縄のことを「くちなわ」と呼ぶこともあるそうです。よくみると、門や手水舎のしめ縄も蛇に似せてありました。この24、25日に御座替神事、例祭が行われます。また、すぐ近くに鹿島歴史民族資料館があり、付近の遺跡等で出土した土器や、船の構造材などが展示されています。

次に向かったのは神魂神社でした。神魂神社は現存する最古の大社造の建物で、内殿、心御柱は国宝に指定されています。スケールが自分の想像していたものよりかなり大きく、その存在感と荘厳さに少々圧倒されました。ここでは、シンポジウムでも何度も出てきた宇豆柱にばかり目がいってしまいました。また、階段が結構急なので、帰り際に踏み外してヒヤッとしました。自分の身ではなくカメラに対してですが・・・。

その後、昼前に田和山遺跡につきました。こちらには以前(昨年の12月)、復元住居に茅を葺く時に一度お邪魔した事がありましたが、整備が終了した状態で来たことがなかったので、今回見学させていただいた時は新鮮な感じをうけました。山頂からの景色は大変よくて、宍道湖方面から吹く風が気持ちよかったです。ただ、すぐ横に大きな病院が建っていてそちらの方向の景色は全く見えず残念です。ただ、一日に来場する人の大半がこの病院の患者さんのようだという事だそうですので、結果オーライ。
このあと、昼食を取り、青木遺跡、出雲大社に行きましたが、それはバトンタッチして宮本君にお任せします。とりあえず雨も降らず、いい天気の中でゆっくり見学ができ、大変勉強になりました。古代文化センターの方々には、3日間大変にお世話になりました。ありがとうございました!雨男の汚名も返上したいと思います。
帰りに米子あたりから鳥取までぱらぱらと何かしら水滴が降ったことは、この際見なかったことにして・・・。
- 2005/09/24(土) 02:26:18|
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松江シンポジウムから帰った翌日、本学最初の大学院一般入試がおこなわれ、面接と採点に追われた。そのまま車で戸倉峠を越えたい、とも思ったのだが、疲労の累積は尋常でなく、いちど宿舎に帰って仮眠をとった。これで、いくぶん体力は回復したのだが、長時間の運転には、まだ危険な体調だと判断し、スーパーはくとから近鉄特急に乗り継いで、深夜、奈良の自宅に辿り着いた。這うようにして、ようやく、家族のもとに戻ってきたのである。
そして、今朝、電話のベルが鳴った。
S社からの原稿催促である。〆切は9月末日。文字数は原稿用紙にして80枚。いつものわたしなら、
「たかが80枚、気合いがのれば一気に書けますよ」
と強気に答弁するところだが、どうにもこうにも、弱気になっている。気力、体力がどうあがいても上向きにならないからで、これはもう、ビシバシ催促してもらったほうがいい、と思ったから、そうお願いした。
ともかく時間を作らなくてはならない。要するに、こういうブログをねちねち書いている場合ではないのであって、わたしは、ここに断筆宣言します。S社の仕事が一段落するまで、ブログは書きません。
代わって、学生諸君が日替わりでブログを書いてくれるはずです。まずは、利蔵と宮本が22日の大社造エクスカーションの報告を2回にわけて連載しますので、読んでやってください。
ハマダバダ。
- 2005/09/23(金) 12:42:57|
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松江出張関係の書類を総務課に届けに行くと、いきなり、
「先生、新聞に出てましたね!」
と言われた。
「えっ、どの新聞?」
と聞くと、
「日本海です」
という。
そんな、バナナ。だって、松江のシンポジウムを日本海新聞が取材するなんてことはありえない。共同通信など他の新聞社にしても、会場に入ってきた記憶がないからである。
それで、記事のコピーをみせてもらったら、9月9日に鳥取県民文化会館でおこなわれた「日本木材学会中国・四国支部2005年度研究発表会 公開講座」の報道であった。なんでまた、9月22日の新聞に9月9日の講演会の記事が掲載されるのか訳わかならないが、下のコピーにみるように、公開講座がいつおこなわれたのかを記していない。報道の原則が5W1Hであるのはだれでも知っていることだが、その5Wのうちの When を示していないのである。これは意図的な操作としか考えられない。
たぶん紙面を埋める記事が足りなかったのだろう。
それにしても、である。
- 2005/09/22(木) 11:43:22|
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第2回大社造シンポジウムは終わった。
不安は的中。というか、よくあることだが、1日めの夜の懇親会で飲み過ぎ、体調を崩してしまった。2日めは朝からソルマックを2本続けて注入した。ソルマックはよく効く。きっちり吐き気を治めてくれるのだが、胃腸に残る汚物は口腔からではなく、下腹部から排泄されることになる。おかげで、自分の発表前を含め、3度もトイレに駆け込んだ。
こういう体調管理のできないホストでは、会をうまく運営できるはずもなく、最後の総合討論などは、やらないほうが良かったのかもしれない。みんな疲れていたし、人数そのものががた減りしていたこともあるから、総合討論の前に、会を閉めてしまえばよかったと、正直、反省している。
しかし、おかげさまで、シンポジウムを大過なく終えることができた。お忙しいなか、松江に駆けつけていただいた発表者&コメンテータ&オブザーバーの皆さん、事務局として会を支えてくださった島根県古代文化センターのみなさん、あらゆる雑用をこなしてくれた環境大学の学生諸君、ほんとうにありがとうございました。
これから2年度にわたるシンポジウムの成果を出版物にするべく動いていくことになると思いますので、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

- 2005/09/21(水) 23:28:42|
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ノビタです。
ブログに告知してあるので、みなさんご存知かと思いますが、9月20日に大社造シンポジウムがあり、打ち合わせや用意などのため、前日19日に松江入りしました。会場近くの島根県立博物館に着き、打ち合わせを終え、チェックインをする前に少し松江城下を見てまわりました。
松江と言えば、松江城です。車から眺める天守や櫓、石垣は何とも言えませんでした。また、松江は城だけでなく、武家屋敷も保存されており、城下町としての街並みが色濃く残っていていたことが一番感動しました。今度来たときはじっくり巡ってみたいと思います。
その後、ホテルへのチェックインを済ませ、夕食の後、浅川先生以下6名で街に繰り出し、ホテルより少し離れた飲み屋に入りました。カラオケを歌い、お酒を嗜み、みんなで楽しんでいたときのことです。先生が十八番の「伊勢崎町ブルース」を唱いはじめて、アッハーン、ウッフーンと唸っていると、カウンターの隅で飲んでいた中年の客が、突如、先生に抱きついて離れなくなり、みんなで引き離すのに苦労しました。聞けば、松江出身の京都のお医者さんで、独身の同性愛嗜好者らしい。先生は、僕を壁にしつつ、宮本君や利蔵君を推薦するのですが、
「若ければいいってもんじゃ、ないのよん。あなたのような、ふくよかな人がタイプなの・・・アハン・・・」
どうやら先生のことを30代だと勘違いしていたようで、先生が「48歳」と告白しても、ボルテージが下がることもなく、なんとお寿司屋から上にぎりを2桶、カッパ巻き&シンコ巻きを1桶頼んでくれて、先生も学生もパクパク食べてました。
一生忘れられない、衝撃的な夜になりました。
ノビタです。
- 2005/09/20(火) 23:58:27|
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前回の中間報告から約一ヶ月が経過し、調査の方も進んできております。今回は、今現在データ整理がきちんと出来ている分の調査概要を報告させていただきます。以下が、第一回目の中間報告以降の調査概要になります。
8月13日 青谷町(小畑・河原・山根・蔵内・早牛・大坪) 18件
8月14日 青谷町(露谷・奥崎) 7件
8月22日 佐治町(栃原・余戸・つく谷) 13件
8月24日 佐治町(畑・加茂・福園・加瀬木・高山) 15件
8月25日 佐治町(葛谷・刈地・大井・高山・津野) 11件
8月28日 気高町(姫路・下原・会下・郡家・高江・睦逢・山宮) 20件
8月29日 気高町(浜村・勝見・八幡・上原・飯里・殿) 10件
8月31日 気高町(酒津・宝木・日光) 11件
9月1日 気高町(宝木・常松・下坂本・下光元・上光) 15件
9月3日 気高町(奥沢見・下坂本・重高・宿・土居) 15件
前回同様、調査日の物件数に差が出てきております。調査に行く地域にもよりますが、その日の天候によってGPSで座標をとるのに時間がかかってしまったりする事も要因に考えられます。(注1)また、データ整理をしていて座標データがおかしい箇所が出てきているので、もう一度その場所に赴き正確なデータを取り直さなければなりません。これからは、時間を上手く調整してこういったデータを修正しながら調査にのぞみたいと思います。(西河)
注1:GPSは衛星から座標データを受信します。そのため、使用するにはひらけた空や天候を選びます。雲があるところでも受信することが出来ますが、位置精度が悪かったり、雲が重いと受信が出来ないときもあります。
- 2005/09/19(月) 10:08:29|
- 建築|
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グラスゴー空港には、セルティックスとレンジャーズのショップが隣あわせで並んでいて、もちろん両方ひやかしたのだが、正直なところ、レンジャーズのグッズのほうが充実していると感じた。わたしが気にいったのはバッグパック。うしろに水筒付き、中にボールとコーン(4枚)が入っている。これで15ポンド(3100円)。バッグパックと水筒は息子のお土産にして、ボールとコーンだけ大学に持ってきた。じつは、セルティックスのミニ・ボールも市内のショップで買っていて、いつでもミニ・サッカーができる体制を整えている。
シンポジウムの荷造りを終え、たくさんの荷物を利蔵とノビタの車に積み込んだ。もうやることはない。人影のない夕暮れの駐車場、ミニ・ゲームには打ってつけだ。ボールは、普通サイズのレンジャーズの方。コーンをゴールの位置に並べた。今日は3対3。Aチームは浅川、宮本、西垣。Bチームはノビタ、ピエール、利蔵。結果は2-0で、Aチームの圧勝であった。得点は宮本1、西垣1のはずだが、一部にノビタのオウンゴールとの声あり。
いや、汗だくです。みんなふうふう言っている。若いのに、48歳の教師よりへとへとにみえるのだが、教師のほうも瞬時の動きに反応できなくなっている。もし、今でも奈文研にいたなら、もう少しまともな動きができただろうし、体重も今ほど増えていなかったであろう。だから、もうちっともててただろう、なんてことはないだろうな。
今日はビアンキにのって、サッカーをした。あとは体に良い物を食べて、〆切の迫る某原稿に立ち向かうのみ。
そう言えば、今夜、タクオが帰ってくるというので、セルティックスのマフラーを手渡すことになっている。
- 2005/09/18(日) 18:30:50|
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いよいよ第2回大社造シンポジウム(9月20日~21日)が近づいてきて、隣の演習室では、学生たちが準備に追われている。シンポジウムをいちばん楽しみにしていたのはキム・ドク(別名タイガー戸口)だが、22日に大学院入試を控えており、松江行きを断念した。ホカノもまた大学院入試なのだが、あまりに勉強しないので、いまカツを入れたところ。ピエールは、先週予定していた就職内定先での研修が1週間遅れで開かれるため、やはり松江には行かない。しかし、いま隣の部屋で、せっせと準備を手伝っている。
松江に行くのは、宮本、利蔵、西河(2名)、ノビタの5名。これに吉田も加わっていたのだが、今日になって、
「ぼくもメンバーに入ってるんですかぁ・・??」
とくるから困ったものだ。まぁ、経費的には一人分助かるが。
正直、不安である。いつになく不安になっている。たぶん、スコットランドから帰ってきて休む暇なく、体調が芳しくないからだろうと思う。頭が冴えてくる気配がまったくない。
大過なく、終わってくれればよい、という弱気な自分が心配だ。
- 2005/09/17(土) 20:20:58|
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今日は素晴らしい快晴!
久しぶりにビアンキに乗って、颯爽と通学した。一昨日の教授会では、後期から採用される自家用車の駐車場制限システムが話題になったので、自転車通学の立場を力説した。駐車場代金をどうしても取りたいのなら、日割りシステムにして欲しい、と要求したのである。天気が良ければ自転車に乗り、雨が降れば車を使う。これが、わたしの通勤スタイルであり、自家用車をもつ大半の学生も、これに似た行動様式をとっているはずだ。
古澤学長は、
「わたしも天気が良ければ自転車で通っているんですが、最近は腰が痛くて車に乗っているんです・・・」
とのご回答。
どうして、歩いてくださらないのでしょうか?
学生たちには、通学距離で自動車(駐車場)の利用を制限しているのに、ほとんどの教員は大学のあるニュータウンに暮らしながら、毎日、車で通勤している。こんなことで、炭酸ガスが減るのであろうか。
ニュータウンを、みんなで歩きませんか? もちろん、自転車もいいですよ。人間にとっても、地球にとっても、これがいちばんいいことです。
肩こりも腰痛もふっとんじゃうから。
- 2005/09/16(金) 20:10:00|
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計測機材が故障するという、予想外の事態が発生した池田家墓所初代藩主池田光仲墓唐破風と清弥墓(光仲七男)の立体測量ですが、本日、計測作業が終了しました。
最終日となった今日の作業ですが、今朝9時に配達されてきた測量機材の働きにより、途中で中断することもなく、スムーズに作業が行われました。本日の参加メンバーは、東京大学生産技術研究所池内研究室の大石さんと角田さん、浅川研究室からは吉田君と私の四人でした。途中、浅川研のタイガー戸口ことキム・ドクが参加し、県教育委員会文化課の濱田さんも見学にこられました。文化課の方は、昨日も見学に来られるという事だったのですが、残念ながら昨日の作業は中止、さらに、本日は会議などの予定が入っているということで、他の職員の方が参加できず、少し残念でした。


さて、測量のほうは、池内研究室のお二人が搭乗予定となっている飛行機の時間に間に合うよう、午後2時までと限られた時間での作業となりました。そのため、まだ不足していた唐破風の上面と側面の計測をはじめにおこない、残りの時間を使い「清弥墓」を作業終了予定の午後2時直前まで、上から下からと、さまざまな方向から測量をしました。これは、多くの場所からの計測データを、測量データを補正するさい用いることで、最終的な成果物となる三次元データをより正確なものとするためです。より多くの場所からの測量データを得る必要があったため、時間を無駄にしないよう、昼食も計測をおこないながら食べることになってしまい、いそいそと時が過ぎていったのですが、その甲斐もありたくさんのデータが得られました。鳥取滞在の最終日ということもあり、池内研究室のお二人には、少しくらい観光をしていただければという思いもあったのですが、昨日の妻木晩田遺跡と上淀廃寺跡、そして、鳥取砂丘でのスピード観光でしたが、今回は勘弁していただければ・・・と、思います。
三日間おこなった、立体測量作業を通して、大石さん、角田さん、また、池内研究室の皆さんには、本当に感謝しています。近々、海外での測量作業も控えているとお聞きし、お忙しい日々を送られているのではないかと思いますが、また鳥取にこられることがあった際には、鳥取を満喫していただくとともに、14日に行ったBBQのような研究室同士の交流も再び開催する事ができれば幸いです。(ぴえーる)
[池田家墓所立体写真測量(Ⅲ)]の続きを読む
- 2005/09/15(木) 23:32:46|
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動かないのだそうである。4000万円もするセンサーが動かないのである。この知らせをうけて、ただちに現場に向かった。といいつつ、じつはコンビニに寄り道して、昨日、取材を受けた山陰中央新報を2部購入した。みれば、山陰ワイド面に、きっちりカラー記事が載っている。これを大石助手にわたすと、
「やばい、池内研ってどこにも書いてない」
と即座の反応。
たしかに、記事をよく読むと、東大生産技術研究所と大石特任助手という記載はあるが、「池内研究室」という固有名称はどこにも出ていない。
池内先生、まことに申し訳ございません。取材したO記者を厳しく注意しておきます。これは決して、大石さんのせいではございません。(下の画像をクリックして下さい)

動かなかったセンサーの代替器が、九州だったかどこだったか、ただちに準備され、明朝鳥取に届くことになった。残された作業は、明日にまわすしかない。補助を任せた利蔵のせいだろうか、小雨も降りやまず、センサーが機能していても、しっかりしたスキャンができたかどうか疑わしい。
さて、余った時間でどこに行っていただこうか、思案したのだが、角田さんが取り組んでいる飛鳥の川原寺仮想(拡張?)現実プロジェクトといちばん関わりの深い上淀廃寺までご案内することにした。
さっそく、妻木晩田事務所の馬路くんに連絡をとると、向こうも雨だそうで、お隣の上淀廃寺の現場はシートをかけたり、めくったりの状態だという。ということならば、妻木晩田をベースにして、うまく行けば上淀廃寺も視察というにして、とりいそぎ出発したが、まだ帰ってこない。
これからバーベQ。またしても、茶室でのバーベQなのだが、雨がひどいようなら、修復建築スタジオのまわりで焼くしかない。

↑雨男を補助につけたのが間違いであった!
[池田家墓所立体写真測量(Ⅱ)]の続きを読む
- 2005/09/14(水) 18:05:54|
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昨日、鳥取へ到着された、東京大学生産技術研究所池内研究室の大石さん・角田さんと早朝、ビジネスホテルで待ち合わせをしていた私は、久し振りの早起きのせいかまだ、眠たかった・・・。二人を乗せ、大学生の多くは夜型だといった話をしながら、研究室に既に届いている測量機材を取るため大学へ向かった。
「面白い形の建物ですね。」
お二人から、そんな声があがったのは大学についてまもなくだった。鳥取環境大学のメディアセンターである。円筒形の一階部分の上に直方体の2階が乗った形であるが、詳しくは、大学のHPを見ていただければ幸いです。
宮本君の車と計測機材を積んだ軽トラックの2台で池田家墓所に行きました。現場に到着すると、県教育委員会文化課の濱田さんもこられ、本日の計画を立ていよいよ計測を開始することになりました。


さて、今回使用した測量機器は、Cyraxといい、レーザーを使用して測量を行うものです。その原理は、
1)対象物にレーザーを照射し、反射に要する時間から対象物までの距離を計測する。
2)これにより、対象物を立体的に認識することが可能になる。
とのことです。計測器により、一度に計測可能な範囲や精度がまちまちだということもお聞きしました。今回の作業では、1度の計測に10~15分程度の時間がかかりました。約10分間の撮影作業を数ヶ所でおこない、それら1枚1枚画像の歪みを調整していくことで、非常に精密な立体計測ができるそうです。
とはいえ、計測が始まると特にすることもなく日常会話を楽しんだり、日陰で休んだりしていました。途中、池田家墓所で浅川研究室が行ってきた作業・研究の話になり、池田光仲墓の立面図や唐破風の図面(こちらは、現場でのスケッチに寸法を書いていき、それを用いて図面にしたものですが)を見ていただいたところ、実測はあまり行われないということで、その点では、まだ負けていないかなと思ったりしていました。
計測は午前中からおこなっていたのですが、10時を過ぎた辺りから陽も高くなり、以前、唐破風の実測をした日ほどではなかったにしろ、暑さの厳しい一日でした。私たち学生は、前回の教訓を活かして、スポーツドリンクやお茶をクーラーボックスに入れて持って行き、水分補給を行っていたのですが、直射日光の中フル稼働していた測量機材やコンピュータは、暑さに悲鳴をあげたのか調子を崩してしまい、動作不良を起こしてしまいました。初めて見る機材を前に、もしや故障してしまったのでは・・・と内心ハラハラしていた私をよそに、冷静に原因を解明していく大石さん・角田さんには脱帽といった感じでした。

今回、立体測量をしていただいた対象は、池田家墓所初代藩主 池田光仲墓の割れていた唐破風(上の写真)と池田光仲の七男にあたる「清弥墓」(下の写真)でした。「清弥墓」は、柱に墓所内で見られる典型的な破損をしているため、光仲墓の唐破風と同様に立体的な計測を行うことで、それらを補修する際のデータとして必要だろうということで測量していただきました。

測量の際、全方向から撮影をおこなう必要があり、唐破風を横倒しの状態にする作業が行われました。私も、実際に唐破風の底面を見るのは初めてで、とてもいい機会となりました。
明日も測量作業を行うので、私たちも大石さん、角田さんを補助して作業をスムーズに行う手助けができればと思います。(ぴえーる)
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- 2005/09/13(火) 23:41:46|
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明日から始まる池田家墓所立体写真測量調査が、朝8時半スタートなので、それにあわせて早起きしたのだけど、乳酸が血液に充満しているのだろうか、なにやら体がぼぉ~としている。心配だったのは、14日夜のバーベキューのこと。ノビタの車で、佐治のワイフの実家まで梨と野菜をもらいに行き、鳥取に戻ってから飲料類を買いそろえた。
東京大学生産技術研究所池内研究室のお二人は、夜7時すぎの飛行機で空港に到着。ピエールとノビタが出迎え、JR鳥取駅にほど近いビジネス・ホテルにまもなくチェック・イン。8時からわたしと濱田くん(県教委)が合流して、「匠」で会食しながら、測量の打ち合わせをした。
池内研究室から来鳥された二人は、大石さん(助手)と角田さん(D1)。角田さんは、飛鳥の川原寺についての仮想(拡張?)現実を修士論文とした関係で、昨年から知己がある。じつは、大学の後輩で、かの高松伸の研究室で設計を学んでいたのだが、修士から情報系の専攻に転身した。大石さんは、なんと、サッカーの古豪、藤枝東高校の出身。ただし、バスケットボールが得意だそうだ。
じつはじつは、夕方、「飛鳥」のおかみさんから、栗おこわを炊くのでいらっしゃい、というお誘いを受けていた。いちどは了承したものの、カウンターの居酒屋で打ち合わせはできないと思い直し、食事の場所を変えたい、と伝えた。これに、彼女は困ったようで、「栗おこわは炊いたので持って返って」と言われていた。一人で食べるのも不可能だし、濱田をのぞく5名で「飛鳥」に足を運んだ。で、みんなで栗おこわを食べた。秋の風の匂いがする初物ではあったが、すでにお腹がいっぱいだったので、腹にこたえた。
明日の朝ごはんは必要ない。
- 2005/09/12(月) 23:16:09|
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昨年のイングランド旅行では、B&Bという宿泊システムにすっかり感心してしまった。B&BとはBed and Breakfast(寝室と朝食)の略語で、日本の民宿に近い宿泊施設だが、夕食の提供はいっさいない。昨年は、最初に泊まったウィンチェスター郊外チリコムのB&Bが17世紀の古民家だったものだから、衝撃の度合いが大きく、日本で調査した琴浦町河本家住宅の保存活用計画に「B&B構想」をもりこんだのであった。
今回のスコットランド視察では、オークニーとシェトランドでB&Bを利用した。オークニーのB&B(2泊)はエジンバラ空港で予約、シェトランドのB&B(1泊)は島にわたってからラーウィックのツーリスト・インフォメーションで当日予約した。料金はいずれも、1泊30ポンド(6600円)。自分で電話予約すると、30ポンド全額がB&Bのものとなるが、ツーリスト・インフォメーション等を通すと、予約料と手付け金が引かれるので、B&B の手取りは25ポンドほどになる。
◆イースト・バンク・ハウス(オークニー諸島カークウォール、en suite)
島の中心市街地カークウォールにあるB&B。医院を改装してB&Bとした。改装はマスターが自ら手がけたという。アン・スウィートen suite というのは、部屋にトイレ&シャワールームがついていることを示す。ご主人はたいへん愛想がよい。日本人を迎えるのははじめてだと言って、えらく歓迎してくださった。


◆スタニブレーB&B(シェトランド諸島ダンロスネス、suite)
サンバラ空港に近い農村にあるB&B。クロフト・ハウス・ミュージアムと同じ集落にある。農家だが、施設は近代化している。ただし、スウィートsuite、すなわちトイレ&シャワールームは別室。やはり、日本人を迎えるのははじめてらしい。息子さんが11歳でセルティックスのファンだというので、中村俊輔の話をしたら、盛り上がった(グラスゴーの場合、レンジャーズのファンも多いので、中村の話をしても盛り上がるとは限らない)。食堂が豪華で、リビングのソファは自由に使っていい、と言われた。このお言葉にしたがい、夕食はリビングで食べた。スーパーで買った地物の黒ビールとサンドウィッチを2パック。


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- 2005/09/10(土) 01:05:59|
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いやはや、深夜に飲むユンケルの効果たるや、絶大そのもの。
ずっと体調が悪く、木材学会公開講座の資料づくりもままならなかったので、9日当日の午前2時すぎ、青谷上寺地遺跡出土建築部材の新しいデータでも補足しようとしたあたりから、おメメがギンギンランラン。これではいけないと床に着くも、まったく眠れる気配がなく、朝を迎えた。
かつて「韓の居酒屋」で、マッコリを飲みながらニンニク爆弾を食したキム・ドク(別名タイガー戸口)は、その翌日、
「先生、一睡もできませんでした。マッコリでモッコリです・・・」
などという訳のわからんことを宣まわっていたが、わたしはユンケルにやられてしまった。ユンケルだけなら2本目、ゼナもあわせると3本目の栄養強精剤に一夜の睡眠時間を奪われてしまったのである。
という状態で、木材学会中国・四国支部公開講座を迎えることになったのだが、ユンケルで失った体力を補うのはユンケルしかないと見極め、講演直前に3本目(ゼナをあわせると4本目)のユンケルの蓋を開けた。
結果は最悪。スピーチの最中、あぶら汗と冷や汗が出っぱなし。自分でも、何をしゃべってるのか、よく分からなかった。
講座終了後、仙台の山田上ノ台の整備関係者が来ていて、喫茶店で打ち合わせした。夜は「飛鳥」に行こう、という。行くべきではない、と思いつつ、スコットランドから持ち帰った石と香港で買ったお茶を手渡したいと思っていたところだったから、了承した。
はたして、体調は最悪。ビールの小グラス1杯と焼酎の水割り少々でダウン。ひとりカウンターの片隅で40分ほど眠らせていただいた。目ざめると、オークニーとシェトランドの遺跡や波打ち際でひろってきた小石が、きれいに洗われて、平篭の上に並べられている。まさか、こんなに綺麗な石だとは思わなかった。石の表面には、ラメのように光る金属の粒子が散りばめられている。これまであちこちで拾ってきて箸置き篭に積み上げられた小石とは、形も色も、なにもかもが違った。
考えてみれば、大学の研究室には、この何倍もの石がおいてあって、茶室の炉の底に埋めることにしていた。これはまずい。まず洗ってみなければいけない。綺麗な石ならば、イロリの灰床とはせずに、もっと違った用法を考えなければならない。
灰床にする石なら、千代川原にいくらでもころがっている。
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- 2005/09/09(金) 23:49:14|
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とうとう鳥取に移動する日になってしまったのだが、まだ体熱があり、喉は痛く、頭に神経痛が一定間隔で走る。大急ぎで医者からもらった薬を何錠も飲んだら、少しだけ症状が軽くなったので、近所の薬局まで行き、ユンケル1本とゼナも1本買った。ユンケルは神様です。さすがイチローも愛用しているだけのことはある。おかげで体力が上向きになり、なんとか出発しようという気力が芽生えた。眠たそうにしている娘を叩きおこして高の原駅まで送らせ、近鉄で京都に移動。京都で少し待ち時間があったので、こんどはゼナを飲んだ。ゼナを飲むと、やっぱりユンケルの方が美味しいな、と思う。だからというわけでもないのだが、ポルタの薬局でユンケルを2本買い足した。
スーパーはくとは8時前に郡家駅についた。歴史的建造物デジタル・マップ作成のための調査に使えと、愛車スウィフトを西垣に貸していて、その西垣がスウィフトで迎えに来てくれた。20日ほどのあいだに2000kmを走行し、調査棟数は300をこえたという。
研究室では5~6名ほどの学生が待機していた。いろいろ問題を抱えていたのだが、池田家墓所の立体測量を東京大学生産技術研究所池内研究室にお願いしていて、その日取りが来週13日(火)・14日(水)に確定したばかりで、担当のピエールはもとより、常時2~3名の学生が測量を補佐することとし、12日の迎え(ノビタ)、14日の茶室宴会(吉田)などの役割分担を決めた。このほか、20日~21日の第2回大社造シンポも近づいており、就職活動、集中講義、大学院入試とだぶらない5名を松江まで派遣することを決めた。
日付が変わる深夜になって、・・・どうやらユンケルとゼナの効用が薄れはじめた。また、体熱と喉の痛みを感じ始めたのである。
「おま~らさ、おれにはさ、切り札があんのよ、・・・」
学生たちは、なんのことやら分からず、きょとんとしている。そこで、カバンの中からユンケルを1本取り出し、蓋を開ける。
「こんな時間に飲んじゃうとさ、眠れなくなっちゃうかもしんないな、ダハハハァ」(続)
- 2005/09/08(木) 23:58:27|
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ごらんのとおりの試合であった。ホームの親善試合で、4失点するような代表チームの監督は、即刻、辞任すべきではないか。
まず、なにが良くないのかというと、最後のほうで堀池巧が指摘していたように、ボランチと4バックの距離。ここにスペースができて、相手の選手がなだれ込んでくる。前半、とくにひどかった。これはまさしくライン・コントロールの問題であり、その責は宮本にある。宮本がバックラインとボランチの距離を適度に保つように、他のメンバーに適切な指示を出さなければならないのだが、かれはそういう仕事をきちんとしていない。もっと言うと、宮本にはライン・コントロールのセンスがないように思われてならない。今日の場合、ホームなのだから、ボランチを下げるのではなく、自ら4バックラインを高めに押し上げる必要があった。
失点は、このスペースを基点に4バックの裏をつかれて生まれた。アレックスの裏、宮本の裏、加治の裏。われらがジーコJAPANの欠点をみごとに突く戦術で、ホンジュラスは日本代表を奈落の底に突き落としたのだ。5点取ったからといって、4点とられたのだから、この試合は負けに等しい。今日の試合は負けである。
以下、わたしの改善案。
1)中田英は不調だったが、前寄りのMFではなく、ボランチに置いておくほうが、あきらかに効果的。あそこから、縦のフィードが出せる唯一の選手である。
2)どうしても4バックにこだわるなら、両サイドバックもストッパータイプにすべき。アレックスは3-5-2のウィングバックでしか使えない。途中出場で十分。ジーコは、セレソンやフラメンゴの同僚だったジュニオールとアレックスをだぶらせているのだろうが、力量と頭脳が違いすぎる。アレックスは、いまやレッズでも控え選手なのに、いったい、いつまで代表のレギュラーに据えておくつもりか?
3)前半のホンジュラスは見事なサッカーで、敵のボールをだれかが奪うと、サイドや前線が瞬時に動きだす。これで、2~3点やられてしまった。一方、日本の両サイドは、のろい。中田や中村がダイレクトでいいパスをだしても、全然おいつけなくて、タッチラインを割ってしまうではないか。あれはパスが悪いのではなくて、動きだしが遅いからだ。
4)現状では、4バック&2ボランチの6名のうち、レギュラーと呼べるのは中田英と中澤だけ。大型で守備力のある選手をそろえ、本大会に臨んでもらいたい。
data: キリンカップ親善試合
日本 5-4 ホンジュラス
- 2005/09/07(水) 21:51:16|
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はたして、九州を離着陸する飛行機は全便が欠航し、大分市内は水浸しになっている。新幹線も動かないから、かりに会議を開催しても、大分に行く手だてがない。
体のほうは最悪で、昼過ぎには体温が39度を超えた。喉が痛くて、まともにモノが食べられない。夕方、歩いて3分のところにあるホームドクターを訪れ、自ら点滴を申し出た。新入りの看護婦さんが対応してくれたのだが、針の扱いが下手で、右腕を失敗。つぎはドクター自ら、左腕の血管に針を突き刺してくださった。
明日、もういちど点滴することになるかもしれない。
- 2005/09/06(火) 23:00:00|
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台風14号が屋久島を直撃して、これから九州に上陸する。じつは、6日と7日に大分で会議があって、まだチケットの予約もできていない。すでに宮崎と鹿児島のフライトは欠航を決めている。大分もまもなく、欠航のエリアに納まるだろう。大分市の担当者に電話してみたところ、すでに各委員に「会議中止」の知らせを送信したのだという。大分でも、災害対策本部ができていて、大騒ぎになっているそうだ。昨年から列島縦断型の強力な台風に日本はやらっれぱなしなので、戦々恐々として身構えているにちがいない。
じつは、個人的にも体調が悪化しつつある。朝起きたときから風邪気味だった。9日には鳥取で、木材学会中国・四国支部の公開講座があるから、もしここで大分との往復が入ったら、わたしの体は完全にパンクしてしまうところだった。実際、夕方から発熱しはじめていて、いまアイスノンで頭を冷やしている。
スコットランドのつけが、じわじわとまわってきている。
- 2005/09/05(月) 21:56:31|
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じつは、出国前、ほんの少しだけ身辺がざわついていた。突然、オファーが舞い込んできたのである。
わたしは鳥取と島根がとても好きだから、山陰で文化財や木造建築の仕事をしながら生活できれば、それで十分だと思っている。ただ、家族と離反しながら暮らしている生活に耐えきれなくなりつつあるのが悩みの種で、とくに最近、ワイフが脳神経系の疾患を抱えていることが精密検査であきらかになり、ますます家族との同居が必要だと思い始めていたところだった。だから、心が揺らいだ。
こういう状態で、香港行きのCX502便に乗り込んだのである。
スコットランド視察の成果は素晴らしいものであった。昨年のイングランドにも感動したが、今年のスコットランドでも、再び充実した毎日を過ごすことができた。たくさんの歴史的建造物と遺跡と芸術に接することができて、それがわたしの研究人生を豊かなものにしてくれるのは言うまでもない。しかし、それだけならば、あえてイギリスにこだわる必要もないだろう。わたしは、なにより「田舎」の姿に心を打たれる。英国の「田舎」は、わたしを勇気づけてくれるのである。
英国のどんな「田舎」を訪れても、町並みと田園は長閑で美しく、そこに住む人びとは遺跡や廃墟をこよなく愛している。かれらにとって、それは当たり前のことであるのだが、これを「当たり前」だと思えるところが素晴らしく前衛的だ。日本の場合、歴史的な町並みとか田園景観を保全しようとするならば、文化財保護法なり景観法に頼らざるをえない。そういう強制力がないかぎり、景観や文化財や環境の保全をなしえないのが日本の実態である。しかし、イギリスでは違う。どの「田舎」を訪れても町並みが美しい、ということは、法規によって強制された結果ではなく、住民が自発的にタウンスケープやランドスケープを守りたいという意識を、ほぼ無意識の状態で共有している証にほかならない。日本人がこういう超越的な思考のレベルに達するまで、いったいあとどれだけの時間が必要だろうか。
日本の「田舎」が、英国の「田舎」のようになるのは、そうたやすいことではない。しかし、素材はたっぷり蓄えられている。問題は、そこに住む人びとの意識だけではないだろうか。「田舎」で暮らすことがなにより前衛的であり、最高の幸せなのだということを、多くの日本人と分かちあえるようになりたいと思う。だから、それを実践するしかない。そして、それが自分のライフワークになるかもしれない。
「待つのではない、何かをするのです!」
タクシーが1台しかないアバーフェルディという田舎町で知り合った青年の言葉が、耳にこびりついている。
- 2005/09/04(日) 23:18:23|
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9月2日 (ロンドン)→香港→関西空港
香港に着いたのは英時間の早朝7時頃、中国時間では昼下がりである。 免税品店で、中国茶を買いたかった。ヒースロー空港の免税品店では、ハロッズの紅茶をたんまり仕入れていたのだが、アジアのお茶を好む知人や親戚も少なくない。「飛鳥」がその代表だ。この3月にバリを訪れて、そのお土産にジャワ・ティーをもっていった。紅茶にジャスミンをまぜた味のするお茶だったのだが、飲んだあとの「上がり」に使ってくれて、常連のお客さんにだけだしたらしい。評価は上々。わたしも何度か店で飲んだが、酔い覚ましには格好のお茶で、自宅や学校で飲むよりうまいと感じた。
今回は「極品茉莉龍珠」というお茶を買った。英訳を読むと、JASMINE DRAGON PEARL PREMIUM TEAとある。ジャスミン茶を数珠玉ぐらいに固めたお茶で、ジャワ・ティーに比べれば、ジャスミンの香りが少しきつかもしれない。だが、たぶん、油っ気の強い魚料理や天ぷらの後口にはあうだろう。
茉莉龍珠を買ったのはただのお土産店だったので、お茶の専門店はないものか、と探していたら、「福茗堂茶寮 FOOK MING TONG Tea Shop」という店を発見した。表でお茶のグラム売り、裏に茶店を設けている。お客は一人もいない。
「台湾のお茶はありますか?」
と聞いたら、
「いえ、ありません。大陸のものばかりです。」
というので、自ら血眼になって探したところ、ちゃんとあるではないか。「凍頂」という台湾の銘柄が隅のほうに置いてあった。
これまで飲んだ大陸のお茶のなかで、いちばん美味しいと思ったのは、福建省武夷山の岩山に自生する「岩茶」。これは地元でしか手に入らないし、べらぼうに高い。もちろん半発酵させた烏龍茶の系列である。しかし、その味も台湾の烏龍茶には叶わないのではないか、と秘かに思っている。台湾の烏龍茶は、緑茶に近い半発酵茶であって、日本人の好みには非常にあっている。ただ、種類が多くて、味にばらつきがあるから、ここに置いてある「凍頂」が美味かどうかはわからない。裏の茶店にまわり、お茶を入れてもらうことにした。飲茶(ヤムチャ)のあては餃子。この餃子がうまかった。ウコンのような黄金色の薬味をふりかけていて、水餃子の味を引き締めている。ひょっとしたら、ウイキョウ(茴香)ではないか、と思ったのだが、結局、何の粉だかわからなかった。
「凍頂」の味にも満足した。福建や広東では茶の作法が細かい。小さい急須にたくさんの茶葉を入れ、急須の内も外も茶碗も湯をふりかけて暖めながら、茶を入れる。一煎め、二煎め、三煎め、と味が変わっていく。
ふと、左側の吹き抜けを見下ろすと、そこにはスターバックスがあって、大勢のお客で賑わっていた。スターバックスと出会ったのは、1999年のシアトル。スターバックス発祥の地である。当時は1日に3回ぐらいスターバックスに入って、カフェラッテばかり飲んでいた。それは、もちろんスターバックスのコーヒーが美味しいからだが、アメリカ大陸の食文化が貧困で、飲食店は多いけれども、まともなものを食べさせてくれるところが、あまりに少ないことの裏返しでもあった。
イギリスも食文化は貧困である。毎日サンドイッチばかり食べているようなもので、日本のコンビニ型食生活に近いと言えなくもない。だから、ますます餃子の味が舌にこたえた。アジアに戻れば、こんなにうまいものが食べられる。お茶も抜群の味がしているのに、どういうわけか、人びとはスターバックスにばかりより集う。
- 2005/09/03(土) 03:04:30|
- 食文化|
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国有形登録文化財をめざす旧加藤家住宅。移築された土蔵も共にという話もあがり、それら土蔵の調査をおこなう運びとなっています。ちなみに、確認している土蔵は3棟です。
まず、2005年9月2日、同じ倭文地区内に移築された土蔵を岡野・宮本・坂本の三名でおこないました。この土蔵は敷地の最南に位置していたものです。構造形式は切妻造桟瓦葺正面庇付 2階建 平入で、規模は桁行2間半×梁行2間の規模です。土壁を塗りこめただけの土蔵ですが、壁面に絵様のような飾りも施されています。
久方ぶりの建物の実測調査でかなり手の動きが遅かった模様です。精進せねばなりませぬ。(岡野)
- 2005/09/02(金) 20:31:33|
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9月1日 グラスゴー→ロンドン→(香港): Willow Tearoom, Glassgow School of Art 今日は移動日。いよいよ帰国が迫ってきて、時間に余裕がない。近場にあるマッキントッシュの作品をみることぐらいしかできない1日である。最初に行ったのは、かれの出身校、グラスゴー・スクール・オブ・アート。玄関をくぐるとレセンプションがあって、担当の女性が言う。
「10時半から、解説つきの見学があります。」
「・・・解説なしで、見せていただけませんか?」
と問うてみたが、
「解説つき以外の見学はできません」
とのことで、案内のタイム・テーブルを手わたしてくれた。

10時半まで1時間以上あったから、先にウィロー・ティールームを訪れることにした。この建物は4階建ての町家で、もとはどうだったのか知らないが、いまは1階を宝石店、2階をティー・ルームにしている。2階にあがると、2組の日本人が座ってお茶を飲んでいた。日本人はアールデコが大好きなんだ。一人は、どうみても、建築家の格好をしている。様式とモダンが入れ替わる世紀末芸術。学生のころ、ひそかに羨望のまなざしで見ていた空間のなかに自分がいる。しかも、マッキントッシュの椅子に座っているのだ。かつて同じような経験をしたことが一度だけある。明治村に移築されたライトの帝国ホテル。あの中2階のカフェを思い出した。
ティー・ルームでは、昨日とおなじキャロット・ケーキと紅茶を注文した。ここで衝撃の事実に直面する。あんまり美味しくないのだ。昨日、アバーフェルディのウォータ・ミル・ハウスでいただいたケーキと紅茶に完敗である。とりわけ、紅茶の味が深刻だった。きっちり茶葉を使っているにも拘わらず、味が薄っぺらで、いくら待っても芳醇な香りがしてこない。時間がたつのに味が濃くならないのは、茶葉そのものが少ないからだろうが、茶葉の匙加減がわかっていないとすれば、問題の根は深すぎる。


シェトランドからオークニとインヴァネスを経由して、グラスゴー空港に着陸し、リムジンの窓外に映る大都会の景色をみて、わたしは「島に帰りたい」と思った。この町はエジンバラとは大違いで、夜の闇に暴力とセックスの匂いがたちこめている。チャリング・クロス駅の隣にあるホテルのカウンターでは、素っ気ない受け答えにがっくりし、部屋に入ればビジネス・ホテルと変わることがなく、広東料理の店では、湯麺の値段が11ポンド(2300円)もして呆れかえった。道をたずねると、くどいほど丁寧に教えてくれる英国人ばかりだったのに、この町の若者の半数は、なかば知らんぷりをする。そして今日は、マッキントッシュのティー・ルームで、紅茶がうまくない。
グラスゴーは「文化」を喪失しつつあるのだろう。都市が「文化」を破壊する「文明」の場だということは承知している。それが都市の魅力でもあるのだが、根っからの田舎者であるわたしにはしんどいことだ。だから、わたしは田舎に住み、田舎をたずね、辺境の島に飛ぶ。おそらく、これからも変わらないだろう。
[マッキントッシュのティー・ルーム -スコットランドの寒い夏(Ⅸ)]の続きを読む
- 2005/09/01(木) 23:52:17|
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浅川研では、ゼミ室ともう一つ研究室(修復建築スタジオ)があります。実測調査の七つ道具(筆記用具、測りや懐中電灯など)は、修復建築スタジオで管理しています。
翌日、実測調査をするにあたり準備のため、部屋へと赴き扉を開けたのです。
「・・・。あれ、いつもと違う。」
修復建築スタジオは、以前のブログに記載しましたが、『廃材で作る茶室』のステンドグラス制作のため、なかば「吉田スタジオ」と化していました。ガラスを用いるため、破片などで怪我をする可能性があり「近づくと危険」な状態だったのです。このため、作業終了後には「改造計画」が実行されるはずでした。
そう、この違和感は「改造計画」の前兆を垣間見たためです。とはいえ、大机を2つを中央にあわせていたのが、2つに分かれ、かたや部屋の中央、かたや窓沿いに移動した程度です。「どのように模様替えしたの」と期待していた人はごめんなさい。こんなオチです。でも、タイトルが「・・・さなかで」と記しています。まだ「改造計画」終わっていません。次回報告、ご期待ください。
「でも、あれは誰がやったんだろう?」(ほかの)
- 2005/09/01(木) 20:36:30|
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