考古学者は、わたしが先史建築の専門家だと勘違いしているところがあって、それ以外にどれほどの分野にどれほどの業績があるのかを、よく知らないでいる。たしかに先史建築は自分以外に専門家が一人しかいないから、たくさん仕事がまわってくるのだけれども、もうこのたぐいの仕事はきっぱり辞めてしまおうと思うこともしばしばある。
さてさて、早くも帰国日。収蔵庫のなかで、水浸けの建築部材をみるのは、もういいと思った。牙山(アサン)市に外岩(ウェアム)村という古い集落がある。無理を言って、その村に連れて行っていただいた。韓国の農村集落は、セマウル運動のために、古民家景観を喪失しているが、まれに「民族村」と呼ばれる保存集落があって、外岩村では、復元=再建に精を出していた。
こういう村を訪れても、考古学者は退屈なのだろうと思う。まことに申し訳ない。わたしたちは農村集落にいるほうが楽しい。もっと時間が欲しかった。


- 2005/11/09(水) 23:21:02|
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対馬にて二日目となったこの日は、少しですが時間に余裕ができたので、先日から借りていたレンタカーにて、対馬西南岸の厳原町椎根にある石屋根倉庫を見学に行きました。石屋根倉庫は、大学の講義でも紹介されたことがあり、その独特の外観から、対馬にいった際には、ぜひ拝見したいと思っていたものでした。石屋根に用いる石には、対馬で採れる堆積岩(板状に剥離する粘板岩や砂岩、頁岩)が用いられ、瓦が普及しなかった藩政末期まで、住居は茅葺きか板葺きだったが、倉には板状の石を用いることが流行していたそうです。昭和57年頃から瓦に葺き替えられ、現在は、瓦葺きのものの方が多いのですが、それ以前には、石屋根であったと言われています。

厳原町椎根には、石屋根の倉庫が最も顕著に残っていて、身舎部分の四隅を25㎝前後の角柱、他の柱は約45㎝×12㎝の平柱が使われている石屋根の倉庫群には、見るからに重厚感がありました。石屋根の倉庫は、家(住居)とは離れて群を成して建っているのが対馬の古いしきたりらしく、現在もその様子はうかがえました。倉庫内部は三室に分かれ、衣類、穀物、什器などを収納しており、住居から離すのは、防火対策のためであるという。

対馬では、「石」という素材が多くの個所で使われており、島内を探索している間も、たくさんの石垣を発見しました。それでも、かつてあった多くの石垣は、道幅が広がるという理由からコンクリート壁に取って代わられているようです。それでも、本当に多くの石垣があり、驚きました。「石」を用いることは、対馬の歴史において、重要な文化なのだと感じました。 (ホカノ・ぴえーる)
- 2005/11/09(水) 17:17:04|
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