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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

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酬恩庵と心傳庵

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 スリランカに出発する3月23日、奈文研の古環境研究室が一休寺虎丘庵の年輪測定をおこなっていた。前にも述べたように、M室長はわたしの郷里の先輩であり、虎丘庵の修理に携わる数寄屋研究所「心傳庵」では1期生の岡村が見習い修行をしている。もし、海外出張が入っていなかったら、わたしも調査に立ち会うべきところだが、それが叶わなかったので、帰国後、さっそく成田空港から古環境研究室に電話をいれてみた。M室長によると、まだ年代測定の結果はでていないとのことであった。なにしろ、日本で唯一の年輪年代測定の研究室だから、依頼されている仕事はおびただしい量であり、どこもかしこも順番待ちの状態なのである。
 一方、卒業した木津高校野球部のピエールと社長のことも気になっていた。二人とも奈良自宅の近所に住んでいて、いつも鳥取と奈良の往復に車を出してもらっていたので、スリランカで紅茶をお土産に買って帰ったのだが、メールを入れてみたところ、なんとピエールは鳥取に向かう車中であった。「やり残した仕事がある」のだという。28日の深夜にブログをあげているから、そのあたりまで鳥取にいたのか、あるいは京都でブログを上げたのか知らないが、就職先に初出勤は3日だから、なんともせわしいことである。一方の宮本からは「一応、時間は空いています」との返事があったので、昼過ぎに家まで来てもらい、ついでに一休寺経由で岡村の仕事場を訪ねることにした。
 
 岡村には昨夜メールで連絡をとっていたのだが、まさか今日わたしたちが数寄屋研究所「心傳庵」を訪れるとは思っていなかったようで、突然の来訪に驚いていた。とりあえず、K棟梁に挨拶をして、M室長のコメントをお伝えした。それから、京田辺の喫茶店に岡村を連れていった。仕事を抜けさせるわけだから、時間が気になって仕方なかったのだが、当の本人は
  「まだ、大丈夫ですよ」
と暢気なもので、加工場に戻ろうとしない。仕事はやはりしんどいらしく、とりわけ薄給がいちばんの悩みの種らしい。ピエールの職場に1年早く入ったTYさんが、コンピュータを買ったことに衝撃を受け、うらやましがっていた。
 職人に途はけわしい。

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  1. 2006/03/31(金) 20:57:28|
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そのとある学生は-スリランカ仏教紀行Ⅷ

 スリランカ航空460便、コロンボ発マレー経由東京(成田)行きで、日本への帰路につきます。ちなみに、スリランカ航空は日本-スリランカの唯一の直通便と銘打たれていますが、週3便中の1便(日本発の場合は土曜日の便)のみとのことです。というわけで、水曜日のこの日は経由地マーレへ向かい、ここより日本へと飛び立ちます。モルディヴ共和国のマーレからは東に舳先を向け、再びスリランカを目指しますが、スリランカの手前にてインド東海岸に沿って北上します。そして、内陸部に入ると東に向かい、上海へ抜け、日本に至る空路で成田に11時50分に着くこととなりました。

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 着後、入国審査等の手続きを終え、国内便カウンターへ向かい、チェックインと荷物を預け、少し身軽になりました。さて、17時55分の全日空2179便伊丹行きまで6時間の待ち時間があります。まずは、お昼時ということで、昼食を摂りにいきます。旅行中には「日本に帰るとまず何を食べたいのか」とかで話題にあがった蕎麦が食べられる店を探します。しかし、日本食は見当たらず、洋食やファーストフードのみ軒を連ねています。どうしたものかと考えていたら、「成田空港のショッピングゾーンは和と洋にわかれています。」と、初日に旅行会社の受付の方に言われたの思い出し、和ゾーンへと日本食の求めて繰りだします。空港だけあって、どの飲食店はいい値段です。結局は、和ゾーンに入ってすぐの鮨とうどんの店に落ち着き、昼食を摂ります。その後、初日にお世話になったスターバックスのある待合所に向かい、先生はインターネット用のデスク1画を陣取り、搭乗1時間前まで仕事をされていました。そして、とある学生はこの日に宿のお世話になる西河(西の方)やその他ゼミのOB生との連絡をとり時間を潰し、某航空会社の使用ターミナルやその香港-成田便の時刻表を調べたりなんぞしていました。

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 搭乗1時間前となり、国内線ターミナルへと足を運び、手荷物検査等をします。ここで、カメラバックに何か反応があり、中身をさらいました。特にこちらとしては心当たりになるものはなく、ここまで、3度の検査(伊丹、成田、コロンボ)をパスしていますから、そのとき私たちは豆鉄砲を受けた鳩の様子だったかも知れません。さて、出てきたものはと何かといいますと、カッターナイフでした。すぐさま、「これはあなたに差し上げます。」と、係員の方に手渡し、何事もないかのように待合所へと向かいます。国内線の手続きだけあって、まだ30分以上の時間を余しています。そこで、「ここでもインターネットができたらいいな。」という話になり、「できるかもしれません。」と、パソコンの電源を入れ、webブラウザを立ち上げます。この成田空港でのインターネットサービスは無線LANを用いるhot spotを使用しており、空港内ならばどこでも使える可能性はありました。実際、国内線ターミナルの待合室でも使うことができ、先生はいたく感心されていました。

 出発時間が迫り、搭乗が開始されて全日空2179便伊丹行きに乗り込みます。ここから、約1時間掛け伊丹を目指します。この移動機中、先生ととある学生共々、終始眠りにふけていたようです。難なく、無事にたどり着き、荷物を受け取ります。まずは先生の奈良行きバスの時刻と乗り場の確認し、旅行予定表には「着後、解散。」のとおりに、そのバス停にて解散と相成りました。そして、とある学生は梅田行きのバスへと乗り込み、このスリランカ仏教遺跡視察が終了した。(そのとある学生)
  1. 2006/03/30(木) 03:17:49|
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神仏習合およびクリスチャン的仏寺 -スリランカ仏教紀行Ⅶ

 旅程: コロンボ→(帰国)

スリ・カイラサナタール・スワニーデヴァスタナム(キャプテン・ガーデン・ヒンドゥー寺院)、ガンガラーマヤ・シママラカヤ水上寺院、アショカラーマヤ・ティンビリガスヤヤ仏教寺院、独立記念堂、国立博物館、スサンタさんの家

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↑↓キャプテン・ガーデン・ヒンドゥー寺院20060401051042.jpg

↓山車
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 とうとう帰国日になってしまった。コロンボ・ヒルトンという最高級ホテルに泊まったおかげで、昨夜からようやくネットに接続でき、日本の身のまわりで起きている大きなうねりを知った。今日の午前中まで、その対応に追われた。
 11時から市内に出た。今日の目的は仏教寺院とヒンドゥー教寺院の視察である。最初に訪れたのは、キャプテン・ガーデンにあるヒンドゥー教の寺院。前から疑問に思っていたことがあったので、スサンタさんに尋ねてみた。
  「シンハラ人はヒンドゥー教を信じていないんでしょ?」
  「いや、信じてます。」
  「えっ、仏教から改宗するんですか?」
  「いやいや、ヒンドゥーのお寺は、日本の神社のようなものなんです。仏が助けてくれないときには、神様にすがるしかないでしょ。そういうときには、ヒンドゥーのお寺にお参りするんですよ。」
  「そうですか。でも、タミル人は仏教を信じていないでしょ?」
  「タミルはヒンドゥーからクリスチャンに改宗する場合が多いのね。仏教徒になる人は一万人に一人もいないです。」

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↑↓ガンガラーマヤ・シママラカヤ水上寺院(ジェフリー・バワ設計)
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↓ヒンドゥー教のガネーシ神
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 次に訪れたのは、池に浮かぶガンガラーマヤ・シママラカヤ仏寺。仏説阿弥陀経の「極楽浄土に七宝の池あり。・・・上に楼閣あり」を彷彿とさせる水上仏寺である。日本の場合、平等院鳳凰堂に代表される浄土伽藍は水に浮かぶように見せているだけで、水上に浮かんでいるわけではない。ただ、天平の時代に阿弥陀経を篤く信仰した光明皇后を追善供養するために建設された法華寺阿弥陀浄土院の建物は池水に浮かんでいたことが発掘調査によりあきらかになっている。
 ガンガラーマヤ・シママラカヤでは、仏堂の外に大きなテラスが作られ、中央に菩提樹を植えており、その根元に釈迦仏を安置している。ブッダガヤでの釈尊悟りの姿を再現したものであることはいうまでもない。その全体を小さな仏像が囲いこんで菩提樹と釈尊を荘厳しているのだが、四隅にはヴィシュヌ、ツカンダ、ガネーシ、ガバールというヒンドゥーの四神を配している。あきらかな「神仏習合」をここに確認できた。なお、この仏寺はスリランカで最も有名な建築家、故ジェフリー・バワの作品である(マヤ・ヒルズや独立記念堂もバワの設計)。
 3つめに訪れたアショカラーマヤ・ティンビリガスヤヤ仏寺は、ヒンドゥーとの「神仏習合」に加えて、コロニアル様式の要素まで入ってくる。というか、本堂をはじめとする殿舎は外観上、植民地建築以外の何物でもない。こういう欧化したお堂におさめられて、仏さまたちはさぞかし居心地が悪いだろう、とも思うのだが、考えてみれば、仏像はほんらい石窟に祭られていたものだから、中国や日本で木造建築の内部におさまった当初の感覚も居心地が良いはずはなかったであろう。
 アショカラーマヤ寺の内部はものすごく派手に飾っている。どうみてもヒンドゥーの影響だろうと思い、さらに細かく観察したところ、むしろキリスト教会っぽい装飾のように見えてきた。門のまわりを飾る人物像の顔も、同じ印欧語族とはいえ、シンハラ人よりもヨーロッパ人に近いような気がする。
 「文化三角地帯」とはかくも異なる仏教寺院が、植民地都市コロンボに展開している。

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↑↓限りなく教会に近いティンビリガスヤヤ仏教寺院20060401050911.jpg



[神仏習合およびクリスチャン的仏寺 -スリランカ仏教紀行Ⅶ]の続きを読む
  1. 2006/03/29(水) 23:12:54|
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「知の財産」報告会

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 昨日、「知の財産」報告会が鳥取県庁で開催されました。
その際の発表「市町村合併にともなう文化財の地域問題-鳥取市歴史的建造物のデジタル・マッピングを中心に-」を、浅川先生が留守のため西垣・河田がその代わりを務めさせていただきました。
 西垣くんは、この日のために報告会前夜、鳥取に帰ってきてくれ準備を進めてくれました(お疲れさまでした)。
 当日は、報告会に参加してくれた北野さんに大学に迎えにきてもらい、県庁まで移動しました。
わたしは今までこのような発表経験がまったくなく、発表前まで会場の雰囲気や報告会の流れなどを想像し、えらく緊張していました。きっと西垣くんもそのような心境だったのではないでしょうか・・・
 そんなわたし達を、会場に来てくれていたチョン先生が「大丈夫。」と励ましてくださいました。そこで少し緊張がほぐれたように思います。チョン先生、ありがとうございました。

 発表は、前半を西垣くん、後半を河田が発表しました。発表時間は20分間でしたが、2人あわせて20分間でおさまらず、そのせいか来場者の方からの質問がでませんでした。そのため、公聴してくださった方の反応がつかみづらく、わたし達の発表内容がうまく伝わっていたのか気になりました。
 一方、チョン先生は発表終了後、あたたかな笑顔で迎えてくださり、その点ではほっとしました。

 その後、場所を移し、会場に来てくださった富士印刷の西上さんと北野さん、西垣くん、河田で「知の財産」報告書と池田家墓所の報告書の校正をしました。
 今まで「知の財産」報告書に関わっていた西垣・河田ですが、今後は北野さんにバトンタッチして報告書を仕上げていただくことになりました。なにかと忙しくなると思いますが、よろしくお願いいたします。

 報告会の公聴に来てくださったチョン先生、北野さん、そして県教育委員会 文化課の松本さん、お忙しい中、足を運んでくださりありがとうございました。 (河田)

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  1. 2006/03/29(水) 20:03:50|
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ポニーテールの残影 -スリランカ仏教紀行Ⅵ

 旅程: ヌワラエリヤ→カラワネッラ→コロンボ(泊)
  
ラブッケリエ・ティー・センター、カテキトラ村マリアマン・ヒンドゥー寺院、像の孤児院、ヤックル村サタラ・デヴァラーヤ寺院(ヒンドゥー&仏教)

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 昨夕、グランドホテルのバイキングで、3回めの席を立ち、メインディッシュを皿にとって席にもどった瞬間の出来事であった。背後から、細身の美しい日本人女性が近づいてきて、
  「すいません、お気遣いいただきまして。ご厚意に添えませんで・・・」
という。
  「えっ、なんのことですか? アイツが何か言ったんですか?」
彼女はただ笑みを湛えている。

 その女性はもちろん一人でスリランカを旅しているわけではない。タイプのよく似たもう一人の女性との二人旅なのだが、初日からあちこちでニアミスを繰り返していた。彼女たちはJ社、わたしたちはN社のツアーなので、旅程はもちろん違うのだが、スリランカの受け入れ機関が同じ国営のツーリストなものだから、行く先々で顔をあわせることになったのである。二人とも細身で、ポニーテールがよく似合い、丈の短いパンツからはみ出した足に白いスニーカーを履いている。いかにも東京の女性という匂いがする。
 だれより騒いでいたのは、通訳のスサンタさんだった。日本生活の長かったかれは、日本の女性が大好きで、豊富な女性体験を車のなかでずっと話し続けていた。ところが、同行していた某学生も秘めた想いを抱きはじめていたようで、
  「あんな綺麗な女の人は見たことがありません」
と口ばしる。嫌な予感がした。

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 その彼女たちと一昨日からホテルまでもが同じになった。一昨日はアマヤ・ヒルズというホテルで、夕食の際、学生がバイキングの料理をとりながら、背が高いほうの女性と会話しているのが目に入った。テーブルに戻ってきたその学生は、会話が成立したことに驚喜している。その後、その女性がテーブルに近づいてきたので、わたしも少しだけ話をした。
  「お二人のガイドさんは、こちらのガイドさんの部下らしくて、情報が筒抜けのように入ってきますよ・・・」
 その女性は、「えっ、そうなんですか」という顔をしてみせた。

 しばらくして、彼女たちのガイドがわたしたちの席にやって来た。
  「今日は友人の誕生日なので、隣のバーで飲みましょう。彼女たちも誘いますから、先生も来てください。」
というお誘いをうけた。学生は部屋に戻ると、買ったばかりの民族衣装に着替え、意欲満々でバーに出かけていった。わたしにはデジカメ・データの整理とブログ原稿の執筆という責務が残っていた。それに
  「彼女たちは来ない」
という感が働いていた。はたして1時間後、学生は部屋に戻ってきた。
  「先生の予感どおりでした」
 
 昨夜、グランドホテルのレストランで、
  「お気遣いされませんように」
と背後から語りかけてきたのは、背の高いほうの女性であった。学生はわたしが席を立っている間隙をぬって、彼女たちのテーブルに行ったらしい。勇気のいる行動ではある。
  「何をしゃべったんだ?」
と問いつめていたその時、プレートに料理をのせた彼女がバイキング・テーブルから戻ってきて、もう一度、
  「お気遣いされませんように」
とわたしに語りかけた。学生は、彼女たちに飲み物を薦めたのだという。1杯めは自分たちで注文しているから、「おかわりの2杯目はどうですか」と聞き、
  「先生がご馳走するとおっしゃっています」
と付け加えたらしい。それを丁重に断られて、学生はめげている。正直、わたしもめげた。呆れてしまった。

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 今朝も、同じレストランで朝食をとった。もちろん挨拶はしたが、これ以上接触しても傷は深くなるばかりだから、「早く食べろ!」と指示して部屋に戻った。ところが、チェックアウトのためにフロントまで降りると、スサンタさんがニコニコしている。スサンタさんは、彼女たちからのことづけものを預かっていたのである。袋の中には日本のお菓子が詰まっていた。
 それから1時間後、ラブッケリエ・ティー・センターに着くと、彼女たちは売店に付設されているティールームで紅茶を飲んでいた。こんどはわたしの出番であった。とり急ぎ彼女たちのもとに足を運び、
  「お気遣いされませんように・・・」
という御礼の言葉を述べて、あとは学生にバトンタッチした。学生は象の絵がプリントされた可愛らしい布袋を売店で二つ買い求め、彼女たちへのお返しにしたという。

 それから「象の孤児院」で昼食をとった。レストランは川縁にある。食後、傷ついたり、目のみえない象、あるいは親から離れてしまった子象が続々と川にやってきて、70頭の象が集団で沐浴するようすをみた。彼女たちは別の棟で象の水浴びをみていた。
  「挨拶に行かなくていいのか? ひょっとしたら、これが最後だぞ・・・」
と訊くと、学生は
  「もういいです」
と、すこし淋しそうに答えた。
 スリランカの案内人たちは、学生をたきつける。彼女たちはプレゼントに喜んでいる、まんざらでもない、というような楽観論を吹聴するのだが、わたしは何度も「期待してはいけない」と諭した。どうせ2日後には別の飛行機に乗って離ればなれになるのだから、ここでがんばっても仕方ない、
  「所詮は諸行無常さ」
というのが冷めた教師の意見であった(自分が若かったら、自爆覚悟でアタックしただろうが)。

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 それから一路コロンボを目指した。ただ、スサンタさんの薦めもあり、途中、国営ろうけつ染めの店に立ち寄った。わたしはワンピースを買い、学生はランチェオン・マットを買った。そして、店を出ようとすると、彼女たちが店に入ってきた。むこうのガイドが駐車しているわたしたちの車をみて、急遽、立ち寄ることにしたのだという。
 スリランカ人は、またしても学生をたきつける。
  「住所や名前を交換しておいたほうがいい」
  「あなたの名前だけでも名乗りなさい」
  「そうだ、記念撮影をしよう!」
彼女たちは自分の素性を明かすことはなかったが、記念撮影の誘いに応じてくれたという。わたしだけはずっと車の前の軒下に座り込んで、その喧噪から遁れていた。ただし、運転手のチャミンダさんにデジカメをあずけ、撮影方法も伝授した(シャッターを押すだけ)。撮影後、騒ぎが収まらないまま、みな車に乗り込んだ。デジカメが手元に戻ってきたので、どれどれ、と画面をチェックした。
 ところが、記念撮影の映像が残っていない。
  「フラッシュが光りませんでした・・・」
と学生は言う。どうやらチャミンダさんの失敗みたいだ。
 今日のホテルは別々である。

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↑ダンブラ石窟寺院でのニアミス

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↑↓カテキトラ村マリアマン・ヒンドゥー寺院20060401045906.jpg



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  1. 2006/03/28(火) 23:16:04|
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卒業式後のはなし

 卒業式が終わって数日、研究室からも一人、また一人と卒業生がいなくなっていきます。人のいない研究室では、卒業旅行のお土産が最近までありましたが、どうやら残った数人で食べ尽くしたようです。
 私も、先日香川県に遊びに行き、お土産を買ってきましたがもうありません。香川では「四国村」に行きゆっくりした時間を過ごすことができました。今は、まだ梅の花が咲いていただけでしたが、これから暖かくなると、桜やチューリップが一斉に咲くそうです。

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 久しく旅行など行っていなかったので、いい春休みになりました。したの写真、金毘羅参りの途中でみたキフです。なかなかひょうきんな顔つきです。(ぴえーる)

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  1. 2006/03/28(火) 00:18:07|
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茶畑のタミル人 -スリランカ仏教紀行Ⅳ

 旅程: キャンディ→タロウォケリ→ヌワラエリヤ(泊)

ペーラーデニヤ植物園(旧王立植物園)→タロウォケリ地方のヒンドゥー寺院と茶畑→ピードルー・ティーファクトリー→グランド・ホテル

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 朝起きてシャワーを浴びていると、左の耳に違和感を感じた。なにかが詰まって音声が聞き取りにくくなっている。
 昨夜は、遅くまでデジタル・データの整理や原稿の執筆に追われて苦しんでいたのだが、同行の学生は色香に誘われ、バーに繰り出してしまい、ほろ酔い状態で帰室するや否や大鼾で爆睡状態に陥った。疲れがたまっているから仕方ないとはいえ、内法寸法で60㎝しか離れていないベッドで眠るにはあまりにも煩く、トイレット・ペーパーを湿らせて耳栓とした。その耳栓がとれなくなってしまったのである。

 まず運転手のチャミンダさんが綿棒を買ってきてくれた。綿棒で耳の奥をつつくとガサガサ音がする。少しだけ紙がでてきたが、この綿棒によって紙はさらに奥向きに詰まってしまった感がなくもない。相変わらず音声は聞きとりにくい。つぎに近くの町医者に診てもらった。豊満なその女医は、懐中電灯で耳の穴をのぞきこみ
  「紙は耳のいちばん奥に入っているから、専門医に行ったほうがいいわ」
という。この助言にしたがい、市内の総合病院に移動した。さいわい耳鼻科はすいていた。ドクターは英国で医学を学んだベテランの医師である。その医者は、耳の奥でタイトに固まっている紙を
  「トイレット・ペパーでしょ?」
とあっさり見抜いてしまった。治療は耳かきも少しだけ使ったが、大半は針のついていない注射器による洗浄であった。この水圧が強烈で、しばし「痛い」という叫び声をあげたのだが、耳奥の紙は瓢箪形をした水の受け皿にすべてこぼれおちてきた。医者は、炎症を防ぐため、抗生物質と痛み止めの飲み薬、そして目薬のような塗り薬を処方してくれた。

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 こうしてかなりな時間を費やしたため、午前中は旧王立植物園の見学だけにとどまった。遺跡整備に携わる者にとって、植物園や庭園の視察は非常に重要である。

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 午後はリトル・イングランドと呼ばれるヌワラエリヤを目指した。ガンボラから山道に入り、ランボダの滝や海抜2524mのビドゥルタラガーラ山を左手にみながら車は高地をめざして蛇行を続けた。周辺は一面が茶畑である。茶摘みする女たちは、みなタミル人であるという。たしかにシンハラ人とは顔つきも衣装も違う。南方高山地帯にいるタミル人は、イギリス支配の時代にイギリス人が南インドから強制的につれてきた労働者である。かれらは村単位でヒンドゥー教の寺院を必ずもっている。パタンという村の寺院では、ツカンダ、ムルガン、カタラガマの3神を祭っていた。今日は、ヴァイルと呼ばれる女神祭祀の一日で、いくつかの寺院の門前は大にぎわいになっており、おかげで車は大渋滞に巻き込まれた。夕方見学したティーファクトリーも、今日はヴァイル祭だからと、仕事を早く終わらせていた。

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 ここでタミルの2重構造がみえてきた。古代からシンハラ王朝に侵攻し、北スリランカを占有したタミル人とともに、イギリス植民地時代に南インドから強制移住させられた茶栽培のための労働者としてのタミル人がいる。後者はスリランカの南方に居住しているが、シンハラ人との関係はそう悪くないという。しばしばテロや内戦をひきおこすジャフナ・タミルたちとは、おそらくまったく別の集団という見方ができるであろう。

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 海抜2000mの町ヌワラエリヤに着くと、とても涼しい。高原の穏やかな気候は、イギリスのそれと似ている。そして、わたしたちの宿泊しているグランド・ホテルもまた英国コロニアル様式の建物である。ホテルとしてオープンしたのは1891年だが、それ以前はスリランカの総督を務めたエドワード・バーンズ卿の別荘であった。このホテルのレストランで、同行の某学生がちょっとした暴挙をしでかした。その顛末については、いつかまたお知らせしよう。

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  1. 2006/03/27(月) 23:07:44|
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石窟寺院と仏歯寺 -スリランカ仏教紀行Ⅳ

 旅程: ダンブラ→マタレー→キャンディ(泊)

ダンブラ石窟寺院[世界文化遺産]→スパイス・ガーデン→アルヴィハーラ石窟寺院→仏歯寺(17世紀以降)

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↑↓ダンブラ石窟寺院
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 ふたつの石窟寺院をみた。
 ダンブラのそれはスリランカ最古の石窟寺院である。紀元前1世紀、シンハラ王朝のワラガムバーフ王はタミル軍の侵略をうけて、首都アヌラダープラを逃れ、ダンブラのランギリ・ロック(黄金色に輝く岩山)に退避していた。王は勢力を盛りかえして、まもなくタミル軍を撃退し、首都にもどるのだが、ダンブラの退去地に石窟寺院を建てたという。その後も歴代の王が石窟を新造もしくは改修してきていて、石窟寺院は5つに増えている。奥のほうから1800年頃~、紀元前77年~、1750年頃~、1200年頃~、紀元0年頃と年代におおきな幅がある。内部は横長の平面を利用して、「眠る釈迦仏」sleeping buddhaを中心とする構成をとる。涅槃仏とよく似ているが、両者の違いは、足の指の並び方に表現されている。

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↑↓ダンブラ石窟寺院の寝仏20060401043547.jpg


 石窟寺院と言えば、中国でさんざん遺跡をみて歩いた。そのなかで、いちばん古かったのは、たしか甘粛省の炳霊山石窟であったと思う。南北朝期のものである。スリランカのほうが遙かに古い。スリランカよりもさらに古いインドのアジャンタ石窟に想いを馳せた。
 
 シンハラ王朝がポロンナルワに首都をおいた時代にも、タミル軍の侵攻は断続的につづき、1474年には、とうとう南方のキャンディに遷都した。ポルトガル、オランダとの抗争をへて、1815年、イギリス軍によってキャンディは陥落し、シンハラ王朝は滅亡した。

 マタレーにあるアルヴィハーラ石窟寺院は、紀元前88年に仏陀の口伝がはじめて文字化された寺院と言われる。「不立文字」こそが仏陀の信条であり、個人的な修行瞑想こそを重んじたのだけれども、仏陀の弟子たちはどうしても仏陀の思想を後世に伝えたかったのである。しかし、その文字化によって、仏教の根本理念は少しずつゆがめられていく。
 石窟そのものは古いらしいのだけれども、アルヴィハーラの寺院建築と仏像は、キャンディ時代のものである。石窟は二つのみ。人間が悪業を積み重ねると、地獄に堕ちて、どんなひどい目に遭わされるのか、いくぶん滑稽な画調で壁画を描いている(下の写真)。

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 キャンディにとって最も重要な文化施設は仏歯寺Dalada Metigawaである。仏舎利は仏陀の象徴であるが、わけても仏歯は貴重な遺骨とされ、王権の象徴にすらなっていった。スリランカには、インドのカリンガ王子が4世紀に頭髪に隠してアヌラダープラにもちこんだのが始まりで、首都が変わるたびに仏歯寺も移転されてきた。仏教徒にとってこれほど重要なお寺はなく、仏歯収納室は1日3回の開扉にあたって全国からの礼拝者で賑わっている。その礼拝をプージャという。

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↑仏歯寺の仏歯収納室が開扉されたところ ↑仏歯寺の肘木と小屋組
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  1. 2006/03/26(日) 23:39:59|
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シーギリヤ・ロック -スリランカ仏教紀行Ⅲ

 旅程: ダンブラ→シーギリヤ→ポロンナルワ→ダンブラ(泊)

シーギリア・ロック(城砦)、パラクラーマ1世宮殿・沐浴池・議事堂、クワドラングル[トゥーパーラーマ集会室、アタダーゲ(第1仏歯寺/11世紀)、ミサンカ・ラタ・マンドゥーパ(経蔵)、ハタダーゲ(第2仏歯寺/12世紀)、ワタダーゲ(覆屋をもつストゥーパ)、ガルボタ石碑、サトゥハル・プラサーダ(スリランカ唯一のパゴダ)]、パバル・ヴィハーラ大塔、ランコトゥ・ヴィハーラ大塔、ランカティラカ、キリ・ヴィハーラ大塔、ガル・ビハーラ(石の寺);以上、すべてが世界文化遺産

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↑↓シーギリヤ・ロックの全景と参道20060331223412.jpg


 西暦477年、カーシャパ王子はアヌラーダープラを統治していた実父のダートセナ王を殺害した。厳密にいうと、王を憎む家臣に命じて、王を殺させたのである。カーシャパは長男であったが、母親は平民出身の側室であり、王族の血を引く母をもつ弟のモッガラーナに嫉妬していた。王位はモッガラーナに継承されるという風評がひろがり、腹違いの弟から王位を奪うために実父の王を拉致して殺害し、弟を追放したのであった。
 モッガラーナはインドに亡命したが、カーシャパはモッガラーナの復讐を怖れていた。カーシャパは狂ったように山城の建設に取り組んだ。それは、ただの山城ではなかった。天空を切り裂く岩山シーギリヤ・ロックに宮殿を築いたのである。父親殺しの7年後に宮殿は竣工したが、その4年後、モッガラーナはインドから軍勢を引き連れてカーシャパを攻め立てた。モッガラーナはカーシャパを挑発し、野戦を挑んだ。カーシャパはそんな挑発にのるべきではなく、シーギリヤ・ロックに籠城すべきだった。籠城すれば、あと何年かは生き延びることができたであろう。しかし、カーシャパは山を下りて陣を構えた。結果、カーシャパは戦に敗れて沼地で自決した。こうして王位はモッガラーナのもとに奪還され、首都はアヌラーダープラに戻された。父の殺害から自決まで、わずか11年の出来事である。

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 シーギリヤ・ロックは要塞化の以前から、仏僧修行の聖地であり、ありあまるほどの岩陰で、僧たちは座禅瞑想三昧の日々を送っていた。カーシャパを倒したモッガラーナは、シーギリヤ・ロックを再び仏僧修験の場として開放した。ただ、困ったことに、崖面には500体と言われるほどの美女のフレスコ画が描かれていた。スリランカ人だけでなく、アフリカやインドや中国の美女をふくんだ女官フレスコ画である。女官画はすべて削りとられるか、風雨のために消滅した。そう思われていた。ところが、1875年、崖面の窪みにフレスコ画が残されていることをイギリス人が発見した。これが有名な「シーギリヤ・レディ」である。

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 人生49年、さまざまな遺跡や建造物をこの目でみてきたが、衝撃の大きさから評価するならば、シーギリヤ・ロックはどの文化遺産をも凌駕する。「建築」という狭溢な芸術分野に限定するかぎり、アンコール・ワットのほうが優れた技術と意匠を表現しているかもしれない。しかし、垂直に切り立つ岩山を利用して城砦=宮殿を造り出した作意と、残された自然地形と遺跡と眺望景観の融合に訪れる者は絶句するしかない。そして、仏教修行の聖地が城砦に生まれ変わる由緒を知れば、だれもがなおさらシーギリヤ・ロックに取り憑かれてしまうであろう。ふと、司馬遼太郎が引用していた以下の禅語を思い出した。

  石上栽花後 生涯自是春
 (石の上に花を栽えて後、生涯自ずからこれ春)

 咲くはずもない花が石の上に咲いているとすれば、それは幻想以外の何物でもない。シーギリヤ・ロックの上に咲き乱れた宮殿建築。それは、わずか4年で虚空に消えた。

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↑↓山頂の宮殿遺跡は発掘中。
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 10世紀の終わり頃、南インドのチョーラ王朝がスリランカに侵攻し、アヌラーダープラを制圧したため、シンハラ王朝は首都をポロンナルワに遷した。歴代の王は仏教を篤く信望し、アヌラーダープラに勝るとも劣らない仏教都市としてポロンナルワは成長を遂げていく。しかし、ポロンナルワもまたチョーラ王朝の侵攻をうけて13世紀後半には廃都となった。今はどこもかしこも遺跡だらけ。「仏教都市」は「仏教遺跡都市」として生まれ変わり、世界中の旅客を集めている。

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↑パラクラーマ1世宮殿跡 ↓パバル・ヴィハーラ大塔
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 クワドラングルと呼ばれる一画がポロンナルワの宗教センターであり、ここでも石柱が直立して残る建物跡をたくさんみることができた。とくにハタダーゲ(第2仏歯寺/12世紀)前方の門跡では、基壇の内側に礫まじりのセメント状の裏込が露出しており、この奥底まで石柱を継ぎ足していて、表面を板石のペイブで化粧している状態を観察できた。その奥のほうにある経蔵は石の玉垣に囲まれていて、まさに池田家墓所のそれを彷彿とさせたが、隅の部分のみ鉄骨補強を施していた。ついでにいうと、ランカティラカでは、立像を囲む柱群が残っていて、そのうち1本だけをアナステローシスによって柱頭まで復元していた。断裂した柱材を平べったい鉄板で繋ぎ、繋ぎ目で金輪をまわしボルトで締めている。柱の繋ぎには鉄筋を雇いホゾとするのが通例だが、このように構造補強を外にみせる例も稀少ではあるが、確認できた。

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↑ハタダーゲ(第2仏歯寺)越しにサトゥハル・プラサーダ(パゴダ)をみる。
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↑↓ワタダーゲ(覆屋をもつストゥーパ跡)
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  1. 2006/03/25(土) 23:15:54|
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裸足のストゥーパ -スリランカ仏教紀行Ⅱ

 旅程: ネゴンボ→クルネーガラ(休憩)→アヌーラダプラ→ミヒンタレー→ダンブラ(泊)

イスルムニヤ精舎、スリー・マハー菩提樹、ルワンウェリ・サーヤ大塔、トゥーパーラーマー・ダーガパ、ボーディガラ寺院跡、アバヤギリ大塔(修復中)、クッタム・ポクナ(2つの沐浴池)、ミヒンタレー食堂跡・会議場跡、同アムバスタレー大塔、同インビテーション・ロック、同マハー・サーヤ大塔[以上、すべてが世界文化遺産]

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↑↓ミヒンタレーのアムバスタレー大塔
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 スリランカ中央北寄りの内陸地帯にある3つの都市、アヌラーダプラ、ボロンナルワ、キャンディを結ぶ大きな三角形の内部には無数の古代文明遺跡が散在しており、このエリアを「文化三角地帯Cultural Triangle」と呼んでいる。その最北端に位置するアヌラーダプラのレストランに到着したのは昼すぎであった。朝食とあまり変わらないバイキングの昼食をとって、セイロン紅茶で腹ごなししていると、通訳のスサンタさんが近寄ってきて、
  「ゆっくり休んでくださいね。外の庭園に出て、湖の景色などみて、もう少し時間を使ったほうがいいです。いまストゥーパに行くと、いちばん暑いですからね。」
 言われるままに時間を過ごすことにしたものの、タイやカンボジアやジャワで仏教遺跡を尋ね歩いてきた経験からいえば、「多少暑くてもさほど問題はないのに」と悠長にかまえていた。スサンタさんが、車内で訊いてきた。
  「サンダルか何か、その手の履き物をもってきていませんか?」
と問われた。その質問を、わたしは「サンダルのような履き物は仏教寺院では禁じられていますから、ちゃんとした靴を履いてくださいね」という意味に捉えていたのだが、
  「境内では裸足にならないといけないのです。靴下は許されますが、靴は門前にあずけますので」
というまったく異なる指示がイスルムニヤ精舎参観の直前にあり、驚いた。靴下で境内をあるくといっても、砂地がほとんどだから、靴下は汚れてしまう。結果、靴のなかは砂だらけになってしまうから、裸足で歩くしかない、と決断した。

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↑イスルムニヤ精舎 ↓ストゥーパのまわりで動けなくなったHokano
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 「文化三角地帯」はドライゾーンとも呼ばれ、スリランカで最も蒸し暑い内陸地域であり、とりわけ3月末から4月にかけての日差しが強くなる。今日は摂氏33度というが、体感温度はもっと高い。問題は足下である。砂はフライパンのようになっている。歩足をとめてしまうと、そのまま足の裏が火傷になりそうな温度に上昇していて、飛び跳ねるように境内を歩き、日陰を探す。日陰に足をおいていると、なんとか立っていられるが、そのまま止まっていても紀元前3世紀の建立というストゥーパ(現地ではダーガバという)にたどり着けない。ストゥーパは小高い岩山の上に建っている。ストゥーパのまわりは正方形の石畳のテラスがあり、砂地から石畳の道を上ってゆくのだが、この石畳がまた猛烈に熱くなっている。欄干の影を踏み続け、ストゥーパのまわりにやってきたものの、ストゥーパの片側には影がない。だから、ストゥーパの片側には足の置き場がなく、周囲を一周するのに苦労した。同行していた学生にも、塔を周回して、できるだけ写真をとるように指示したのだが、半周でギブアップした。移動のタクシーのなかで、学生は
  「足の裏に水ぶくれができています。カットバンをはっておきます。」
という。続くルワンウェリ・サーヤ大塔、トゥーパーラーマー・ダーガパでは、靴下を履いてストゥーパのまわりを歩いた。靴下を履けば、なんとか日射の中を歩けるが、それでも熱いことに変わりはなく、二人は体力を消耗していった。

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↑ルワンウェリ・サーヤ大塔 ↓ボーディガラ寺院跡沐浴地
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 ストゥーパはもういい、と思った。アヌーラダプラには、-というよりも文化三角地帯には-なぜかくもストゥーパが多いのか。それはシンハラ人とタミル人の抗争に多くの因を求めうる。紀元前500年ころ、シンハラ人の祖とされるヴィジャヤ王子がアヌーラダプラを統治し、紀元前380年にシンハラ王朝の首都となった。ところが紀元前後から、南インドのタミル人がなんどもスリランカに侵攻し、ときに首都を制圧することもあった。タミル人はヒンドゥー教徒であり、仏教を迫害して寺院を破壊したが、建物群のうち仏舎利を祭るストゥーパだけがいくたびも修復され今に残ってきたのである。
 近くのホテルで一休みし、ライム・ジュースを飲んで脱水症状を回復させた後、ボーディガラ寺院跡を訪れた。寺院の中心部からはずれていて、僧房や沐浴池が廃墟となって残っている。基壇や柱は上に存在した木造の屋根を失っているが、代わりに樹木に囲まれ、木陰があちこちにひろがっている。
  「涼しい」
なんとも気持ちよい風が吹いていて、そのそよ風をわたしたちはつかんでいる。

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↑↓ボーディガラ寺院跡 石柱の修復20060331215352.jpg

 なにより興味深かったのは石柱の繋ぎ方である。独立してたつ石柱をみると、ほとんどすべての柱材が2つの材をつないでいる。おそらく内側には雇いほぞのステンレス・ピンをいれているのだろうが、外側からは観察できない。接着剤はエポキシ系の樹脂ではなく、花崗岩系の砂をまぜたセメントであろうと思われた。問題は基礎だ。基礎をいったいどうしているのか。アンカーボルトを採用しているのだろうか。条件は池田家墓所の玉垣よりもずっと厳しい。しかし、繋がれた柱はちゃんと立っている。だれよりもピエールに見せたいと思った修復整備である。

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↑ミヒンタレーの参道 ↓同インビテーション・ロック
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 夕方、ミヒンタレーに移動した。ミヒンタレーはスリランカにおける仏教初伝の聖地。紀元前247年6月の満月の夜、ティッサ王はミヒンタレーに鹿狩りにやってきた。この山の神デーヴァは、そのころ仏教の布教を目的としてインドから来ていたアショカ王の息子マヒンダに王をあわせるため、鹿に化身して王を岩山の山頂に導いた。そこでマヒンダは座禅し瞑想に耽っていた。王はマヒンダと問答の結果、仏教に帰依し、臣下・住民もいっせいに仏教徒になったという。王とマヒンダが出会った岩山を、いまは「インビテーション・ロック」と呼んでいる。一方、スリー・マハー菩提樹は、釈迦が樹下で悟りを開いたブッダガヤの菩提樹の分け木をアショカ王女サンガミッタがスリランカに持ち込み、イスルムニヤ精舎の近くに植樹したものである。

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↑スリー・マハー菩提樹の下で座禅を組む(お尻に火が点いている)
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  1. 2006/03/24(金) 23:04:43|
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あとかたづけ

 早いもので卒業式が終わり、大学生活が終わろうとしています。大学に来るのも、今日で最後だと思うので、色々とあとしまつをしに来ました。まずは卒業研究で荒れ果てたスタジオを掃除し、浅川研究室に入るきっかけとなった「廃材でつくる茶室」を見に行きました。茶室に携わることができ、本当に良かったと思います。茶室のパンフレットが出来上がるのを楽しみにしております

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 そして、「かたつむり」で先生に頼まれたので、最近マスコミに騒がれている旧加藤家に屏風を持っていきました。荷物整理が終わってなかったので、とりあえず邪魔にならない場所に置きました。これで、鳥取市に帰る楽しみが一つ増えました。たまに、旧加藤家にお邪魔させてもらいます。私なんかが作った屏風を買って頂き本当に感謝しています。
 浅川先生には本当にお世話になりました。有難うございました。   (ヨシダ)

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卒業式の写真をアップしときます。

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*以下はHOKKANOによる追加です。

 謝恩会での花束贈呈式での一幕。贈呈したのは西河(西の方)で、直後の抱擁シーンです。
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 これが卒業式関連の最後のアップロードになります。梨花ホールでの全員集合写真。前列は座禅しています。この年度の最後を飾り、浅川ゼミを象徴している写真になりますでしょうか。

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  1. 2006/03/24(金) 00:55:19|
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成田空港スターバックス -スリランカ仏教紀行Ⅰ

 旅程: 奈良自宅→伊丹空港→成田空港→コロンボ空港→ネゴンボ(泊)

 今朝は5時起き。うちの車で伊丹まで送ってもらった。いまは成田空港のスターバックスにいる。エリアの片隅にコンピュータのサービスデスクがあり、無線LANでネットにつないだところ。もちろん有料で、インターネット・エクスプローラーをクリックすると、Bizportalの画面がでてきて、クレジットで契約すれば(500円/日)、こうしてネットにアクセスできる。

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 成田空港といえば、昨日、王JAPANが帰国して大騒ぎになったところ。 昨夜は、「ゆららの湯」でそのニュースをみていた。かのホカノもゆららの初体験だったのだが、屋内の湯船と洗い場をうろうろするばかり。サウナにも露天風呂にも入ろうとしないのを、なんとかかんとかサウナに入れた。ところが、いったんサウナに入ると滅法つよい。わたしがグロッキーして、先に出るのだけれども、ホカノはずっとサウナに入ったまま。不思議な能力をもっている。
 海外出張といえば、必ずジャケットか短めのベストを着用して、貴重品の収納に万全を期すのだが、今回はごらんのとおり、ユベントスのパーカーを着用している。これは、昨年の忘年会で学生たちがプレゼントしてくれたもの。昨夜、はじめて身につけたのだが、とても着心地がいいので、飛行機の長旅でリラックスするには最適だと判断し、ちょっと危なっかしいがこれを往復の衣装に決めた。

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 まもなく、スリランカ空港UL461便のチェックインに移動します。卒業生諸君にお願いしたいのは、卒業式の写真をブログにどしどし掲載してほしいことです。尾崎家訪問や「知の財産」発表会についてもブログにあげておいてください。まずは昨日のブログから、よろしく!

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  1. 2006/03/23(木) 11:00:55|
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尾崎家訪問 -卒業制作模型の搬入

卒業した実感がない今日この頃、鳥取県教育委員会の中原さん・松本さん・湯梨浜町教育委員会の宮川さん・来年度の調査のリーダー北野さんと尾崎家・湯梨浜町教育委員会に訪問してきました。本日の訪問の目的は今年度の成果発表と来年度の調査の挨拶。

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 成果物である1/50模型・実測図面・保全再生計画の提案などを提示してきました。模型に関しては、いたく喜んでもらいましたが、寄贈にはいたりませんでした。やはり実物を目の当たりにすると、圧倒されます。模型の行き場所が定まらないなか、模型とパネルを、県庁・湯梨浜町で展示する話が持ち上がりましたが、模型を大学の研究室に保管していても、埃がたまり崩壊していくので、活用できる場があれば私としては、これほどうれしいことはありません。

浅川先生をはじめ、研究室のみなさまの援護なしには、私の卒業設計は終えることができなかったでしょう。またご当主、奥様には幾度の調査にも関わらず、色々なお気遣いをしていただき感謝申し上げます。また中原さんの協力なしには今年度の調査着手には、いたりませんでした。調査に同行してくださった浜さん、その他模型制作を手伝ってくれた方々。この場を借りて感謝の意を示したいと思います。ありがとうございました。

追伸:来年度の調査には、ぜひ参加したいと思っております。呼んでいただけば、必ず行きます。(日曜日しか無理かもしれませんが...) (社長)
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  1. 2006/03/22(水) 17:22:25|
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卒業式

 卒業式の一日。最優秀論文、最優秀作品に加え、キムが「主席」をゲットし、トリプル・クラウンに輝いた。まぁ、そんなことはどうでもよいのだが、写真を一挙掲載しよう。
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↑デザイン学科集合写真撮影前・・・
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↓↑昨夜のサンデーズサンにおける打ち合わせでは壇上で転ぶことになっていたノビタ・・・鳥取城の論文が「佳作」を受賞した。
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↑↓卒業式には3年の大城くんと吉村さんが駆けつけてくれた。ありがとう
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↓謝恩会。女の子たちは袴からドレスに衣装替えしているのに、この二人のボロ着をごらんください。最優秀賞の2名。木津高校野球部です。
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↓タクオも式場に駆けつけた。「今日はアッシーです」とのこと。
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2次会は「かたつむり」。わたしは「ちゅらちゅら」を希望したのだが・・・
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↑全員で乾杯!!

↓あいかわらず「どM」の吉田。いじめている西垣は、チョメチョメのため途中脱走。カラオケに再合流し、最後は深夜のバス停で胴上げ!
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↓3次会はカラオケ「ロンゴロンゴ」。
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↓最後は、山田助手の訓辞でした。
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↑胴上げされているのは西垣くん(付け足し)

 *みんな、たっぷりデジカメを撮ったでしょ。どしどし投稿してください。この2~3日は卒業式特集にしましょう!!


↓まれな配置の貴重な一枚
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  1. 2006/03/21(火) 23:51:24|
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キム・ビョンヒョン投手の記憶

 アメリカがメキシコに惜敗し、日本がWBCの準決勝に進出したのはご存じのとおり。一昨日、韓国投手のドーピングが報じられ、流れの変化を察知したので、学生たちと夕食をとりながら、
 「日本が勝つんじゃないかな・・・」
という予想を口にした。果たして、昨日の試合は素晴らしかった。7回、田村のバントが失敗したときには、厭な予感がしたが、福留のホームランはまさに起死回生。衣笠がコメントしていたように、そのあとの小笠原へのデッドボールが韓国には痛かった。このホームラン球とデッドボールを投げたのは、たしか4年前のワールドシリーズで、ダイヤモンドバックスがヤンキースを下したときのクローザーだったキム・ビョンヒョン投手である。ダイヤモンドバックスのクローザーとして2度登板したのだが、2度とも逆転ホームランを喫した下手投げの投手だから、よく覚えている。一度目はバーニー・ウィリアムス、2度めはティノ・マルティネスが劇的なホームランを放って、ヤンキースが3勝3敗のタイにもちこんだのだが、第7戦はカート・シリングからランディ・ジョンソンとつないで、ダイヤモンドバックスが競り勝った。
 あぁ、あの投手がでてきたのか、と思ってみていたら、福留がバーニー・ウィリアムスになってしまった。
 日本はたぶん決勝でキューバを下すだろう。この流れが6月のワールドカップにつながればいいが、監督がジーコのままでは話にならない。



  1. 2006/03/20(月) 03:02:40|
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登録文化財になる旧加藤家住宅のマスコミ報道

 倭文(しとり)の旧加藤家住宅がまもなく登録有形文化財として認可される。今回、鳥取県で登録文化財になるのは旧加藤家だけである。おかげで、マスコミからの取材が殺到し、新聞やテレビで報道され始めた。まことに結構なことなのだが、どちらかというと、環境大学学生の寄宿に関する問い合わせが多く、いささか困惑している。

 ここで申し上げておきますが、現状で学生たちは荷物を運び込んだだけでして、いまだ居住をはじめておりませんので、マスコミへの情報提供は4月以降となります。ご了解ください。

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 それにしても、「登録文化財」と「指定文化財」の区別がよく理解されていない。指定文化財は文化財のなかの優等生であるのに対し、登録文化財は成績が優等だとか劣等だとかのランク付けを拒否し、「築後50年以上経過している建物」ならば、ほぼ平等に文化財として登録される権利を有する制度である。なにより、所有者や管理者がその建造物を保存したいという熱意を思っているか否かが重要な選定基準となる。その点、加藤家を管理するKWさんの熱意には頭が下がった。なお、指定文化財の場合、その建造物は国や地方自治体の補助金によって維持修復されるが、現状変更につよい規制をともなう。一方、登録文化財は補助金のない優遇制度であり、建造物の管理者・所有者を奨励する意図を込めたものである。
 全国で登録文化財はすでに5000件をこえているが、県内ではわずか90件。わけても鳥取市内では、旧加藤家が3件めというていたらくであって、この数を他の県市レベルまで近づけるべく、鳥取市には努力していただきたいものである。

  1. 2006/03/19(日) 18:48:38|
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若葉台燃ゆ タクオの記事

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 3月2日に河本家のご主人からお電話が入った。主屋の屋根を覆う茅が軒先で波打ってきているので、サシガヤが必要だがどうしたらいいだろうか、というご質問であった。翌日、松江方面への卒業旅行の途中に立ち寄り、さっそくその状況をみせていただいた。写真にみるとおり、たしかに軒がくねくねしてきている。
 それからしばらくして、米子のO工務店から連絡があり、県西部のM町で2m×100mの範囲にススキが群生しているので、研究室で必要ないかと問われ、ただちに河本家のことが頭に浮かんだので、サシガヤの材料にできないか、と思ったのだが、O工務店のつかんでいる情報はまた聞きのまた聞きらしく、今は宙に浮いてしまっている。
 それからしばらくして、こんどは但馬のタクオから連絡が入った。山陰中央新報の連載記事<若葉台燃ゆ>にようやく執筆したので、原稿をチェックして欲しいとの依頼であった。その記事が下の「文化財民家の保存と活用」。3月11日に掲載された。昨年の今頃仕上げた卒論「琴浦町(旧赤碕町)河本家住宅の調査と保存活用計画の策定」を圧縮したものである。タクオの卒論といえば、まず金賞(最優秀賞)は間違いないだろうと思っていたのだが、学科会議では古参の教授たちに主導権を握られ、あえなく銅賞に沈没して悔しい思いをした。ある若い助教授からは、
  「浅川先生が宣伝しすぎたからだ」
と非難された。しかし、今年は審査をオープンな投票制度に切り替えたおかげで、得票がそのまま順位に結びつく結果となり、作品では社長、論文ではピエールが最優秀賞を受賞することになった。わたしは、もちろん、順当な結果だと思っているが、一部の教員は結果に不満らしく、もういちど審査制度を変えるように文句を言っている。
 だれだって悔しい思いをしている。韓国に2連敗したイチローは徹夜で痛飲し、荒れ狂ったというではないか。

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  1. 2006/03/18(土) 02:00:08|
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「知の財産」活用推進事業 研究成果報告会のお知らせ

 平成17年度から始まった高等教育機関「知の財産」活用推進事業は、鳥取県が抱えている地域課題の解決策を「知の拠点」である県内高等教育機関から提案し、県の施策への活用を図るものです。鳥取環境大学からは、浅川研究室が申請した「市町村合併にともなう文化財の地域問題 -鳥取市歴史的建造物のデジタル・マッピングを中心に-」が唯一採択されました。年度末を迎え、全研究成果の報告会が下記の日程・会場により開催されます。浅川は23日からスリランカ出張のため、卒業研究でこのプロジェクトに取りくんだ西垣くんと河田さんに発表してもらうことになりました。多数のご来聴をお待ち申し上げます。なお、来聴希望の方は浅川もしくは事務局にご一報ください。
 
            記
 
1 日時 平成18年3月28日(火)13:30~16:30
2 場所 県庁第23会議室(第二庁舎7階)
3 スケジュール
○13:30~13:35 開会
○13:35~16:30 研究成果の報告

①八木 啓一(鳥取大学医学部教授)13:35~14:00
 「災害時医療資源として輸血準備量に注目した重症患者収容可能数の推定」
②高阪 一治(鳥取大学地域学部教授)14:05~14:30 
 「鳥取県における芸術文化を通じた空間資源の利活用に関する調査研究」
③矢部 敏昭(鳥取大学地域学部教授)14:35~15:00
 「<開かれた学校文化>の構築をめざす基礎的研究」
④喜多 秀行(鳥取大学工学部教授)15:05~15:30 
 「地域資源を活用した生活交通サービス構築支援事業」

⑤浅川 滋男(鳥取環境大学環境デザイン学科教授)15:35~16:00
 「市町村合併に伴う文化財の地域問題-鳥取市歴史的建造物のデジタル・マッピングを中心に-」
 新鳥取市のエリアにおける文化財建造物は、合併により文化的価値の位置づけの体系化が必要である。GPS&デジカメにより旧郡部を含めた新鳥取市文化財建造物マップを作成。これらの文化的価値を評価し、指定・登録文化財の基礎資料とする。このほか旧町村文化財建造物の調査、登録文化財申請中の旧加藤家住宅主屋・土蔵の調査、湯梨浜町尾崎家住宅の調査などの成果を発表。*西垣博行・河田未世が代替発表します。

⑥植田俊幸(鳥取大学医学部助手)16:05~16:30
 「鳥取県における精神障害者ケアマネジメント実践の手引きの開発研究」


事務局
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 吉田 道生(鳥取県 教育・学術振興課)
 Mail: yoshida_m@pref.tottori.jp
 Tel : 0857-26-7814
 Fax : 0857-26-8110
 URL : http://www.pref.tottori.jp/
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  1. 2006/03/17(金) 02:20:22|
  2. 講演・研究会|
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鳥取城石垣整備委員会

 昨日の池田家墓所に続いて、今日は鳥取城石垣の委員会が開催された。正式には「第3回史跡鳥取城跡附太閤ヶ平天球丸石垣修復工事に関する検討委員会」という。恥ずかしながら、わたしが委員長である。
 今回は、3次元測量を受注した文化財保存計画協会もオブザーバーで参加され、ようやく本格的な修復と構造補強に関する議論が可能となった。といっても、委員長がいちばん鳥取城と石垣について不案内であり、なさけない限りだが、昨日に続き、「材料のオーセンティシティ」と構造補強のバランスが議論の焦点となった。石垣の場合、自重による崩壊の危険性がつきまとうわけで、これを防ぐにはどうしたらいいものか、まったく知識がなかったのだが、文化財保存計画協会の経験は豊富で、裏込めや地盤の強化により、構造の安定化が可能であるとの指摘をうけた。
 また、安易な石材の差し替えは慎むべきであり、交換した材については年号を記した刻印を施すなどの「修復指針」が必要であるとの合意を得た。今後の最大の懸案事項は、「体制の整備」である。市長がご熱心な鳥取城の復元整備を進めようとするならば、文化課から独立した「現地整備事務所」を組織する必要がある。現地整備事務所のメンバーには考古、歴史、土木、建築、公園整備などの専門家が必要である。これは委員全員の希望であることをここに記しておきたい。
  1. 2006/03/16(木) 23:01:05|
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構造補強か景観か-池田家墓所整備検討委員会

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 旧加藤家から池田家墓所まで車を飛ばした。今日は平成17年度第2回史跡鳥取藩主池田家墓所保存整備検討委員会。まずは現地視察からスタートした。プレハブのなかで接合されつつある光仲墓玉垣の石柱、ビニールハウスのなかで組み立てられつつある金三郎墓の玉垣。前者は木造建築の解体修理手法の応用、後者はベニス憲章にいうところのアナステローシスに近い復元手法である。破損、断裂した石材の接着には雇いホゾのステンレスピンとエポキシ樹脂を併用しており、さらに鋼管を使う隅柱もあり、一部では石材を穿孔することになるから、古材を傷めていることにもあるが、いまおこなっているのは外科手術であって、こうしない限り、大量の骨折は完治しない。

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 現場の修復状況は順調でよかったのだが、県庁に戻ってからの会議は結構もめた。なかなか楽しい揉め方だった。
 ひと言でいうならば、玉垣・門の構造補強と景観的適合性のバランスの問題である。石の玉垣は放置しておけば必ず毀損・倒壊を招く。じっさい、大半の墓碑を囲む玉垣は毀損もしくは倒壊している。だから、構造補強が必要になるのだが、その構造補強がおおがかりになると、墓所の景観に不調和をもたらす。ではいったいどのあたりに着地点を求めるべきか。ここで議論が分かれた。
 保存修復の理念的立場の上で左右を眺める場合、わたしの座標は最もラディカルな「新左翼」に位置している。「復元」反対、「現状保存」支持、「徹底した古材の再利用」、「構造補強材の外部露出」などなど、委員のなかでは最も西欧理念に近い信条をもって発言してきた。しかし、今日は違った。それは学科最優秀論文賞を受賞したピエールが、その卒論で玉垣に附属する唐門の構造補強について、景観的に最も影響の少ない代替案を提出したことに端を発する。従来の鉄骨補強柱、唐破風の掴み手などのない補強案で、じつにスマートなのだが、最大の欠点は古材にT字形鉄骨プレートをうける溝をほりこまなければならない点であり、また構造力学的な強度が保証されるかどうかにも疑問が残った。しかし、くりかえすけれども、ピエールの案は景観上の違和感が最もすくないアイデアであり、委員の約半数から支持を集めているようにみえた。

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 一人だけ特異な持論を展開する委員がいた。
  「古材はすべて収蔵庫に保管し、新材で玉垣・門を建設する」
というアイデアだが、これについては、わたしが反論した。
  「玉垣を<式年造替>するんなら結構ですがね・・・」
 玉垣新調派が誤解しているのは、玉垣を新しくすると構造補強が必要ないと思っているところである。古材を再利用して玉垣を組みなおそうと、新しい材料で玉垣を建設しようと、どちらにしても、時間が経てば、玉垣は自壊してしまう。だから構造補強が必要不可欠になり、それを拒否するならば、選択のオプションは<式年造替>しかないのである。ただし、新造や<式年造替>は、「材料のオーセンティシティ」を喪失させ、大量の廃棄物を生みだすという致命的な欠陥をもっている。木造の建築が風雨にさらされながら、古材を再利用し続けているわけだから、況わんや石材をや、だと思うのだが、なぜ劣化をそれほど怖がるのだろうか。
 それにしても、愉快な委員会だった。いろんな意見がでて決着はつかないのだけれども、でて来る議論が文化財修復の本質に直結しているので、人の意見を聞いていても楽しいし、それを論駁すべく瞬時に自分の論理を考え出す楽しみがあった。勝ち負けはないのだけれども。

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  1. 2006/03/15(水) 23:31:27|
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旧加藤家住宅のTV撮影

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 旧加藤家住宅の登録文化財申請が許可される見通しがたち、記者クラブに資料が流れた関係で、某国営放送局が急遽撮影を申し出てきた。昨日とは打って変わって天気は快晴、明日からは雨模様だそうで、撮影は今日しかないと判断したようだ。それで、立て続けに電話取材をうけていたのだが、少し心配になったので現地に行ってみた。久しぶりの加藤家である。マスコミの関心は、もちろん鳥取市3件目の登録文化財成立であるが、学生たちがまもなくこの空き家に住み始めることにも注目している。ただ、一部の家具を運んだだけで、まだ住んでいるわけではないので、住み込み活動については4月以降の取材にずらしていただくことにした。
 ちなみに放映は17日(金)午後6時10分から7時のあいだ。NHKのニュースです。

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  1. 2006/03/15(水) 23:30:28|
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さらば、模型・・・

利蔵です。
本日、富山に向けて私の卒業制作”打出の居住地”で製作した竪穴住居の復元模型が旅立ちました。どうか、運搬中に壊れませんように・・・。
やっと長かった卒業研究から開放されたような、物悲しいような、複雑な心境です。思えば、3年後期から復元に関わってきましたが、その成果となる模型は私の手元にはいつもありません。前回(2005/7/26参照)、今回とも旅立ちを見送りました。研究のデータは残りますが、形として手元に残らないのはやっぱり少々さみしいものです。しかし、これらの模型はどちらも展示される予定らしく私の関わったものが人目に触れるのは、少し恥かしいですが大変ありがたく思っています。
今回の研究でも、浅川先生や富山市埋蔵文化財センターの方々には大変お世話になり通しでした。本当にご迷惑をおかけしました。私自身も、あと数日で卒業し、旅立っていく身なので報告書編集の手伝いなどで少なからず恩返ししていきたいと思います。

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  1. 2006/03/15(水) 19:58:06|
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浜雪

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 帰りはピエールが車にのせてくれた。天気予報では、日本海側は「暴風雪」との情報が入っていて、おそるおそる帰路を進んでいったのだが、志戸坂峠までほとんど雪は降っていない。途中、旧上方往来の宿場町であった平福や大原の町並みを楽しむ余裕が十分あった。
 峠を越えたら風景は一変するかに予想していたのだが、路面に雪はない。智頭に降りてきても、やはり雪は積もっていない。用瀬を経て、河原のあたりからようやく積雪がみとめられ、市内では完全に冬に逆もどりしていた。要するに、典型的な浜雪なのである。夜は久しぶりに「雪作務」した。正月に買って帰っていた水捲きホースも2ヶ月ぶりに使った。風呂の湯をぴゅうぴゅう発射して雪を溶かしたのである。
 西日本でこんなに雪が積もっているのでは、鳥取市内だけではないだろうか。

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  1. 2006/03/14(火) 23:38:44|
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ハリウッド・ベースボール

 2004年6月の済州島を思い出した。あの日、日本代表チームは大阪の長居スタジアムでW杯予選リーグ第3戦を迎えており、わたしとワイフは済州島の民宿でテレビ観戦をしていた。結果は、ご存じのとおり、2-0の快勝!機嫌をよくした中年夫婦は、済州島ナンバー1の新羅(シーラ)ホテルに繰り出した。済州名物の黒豚ステーキを注文し、極上の赤ワインで日本代表の予選突破を祝ったのであった。
 そして、ラウンジに席を移した。ラウンジは満席、正面の大きなテレビの画面に視線は集中している。まもなく、韓国対ポルトガルの試合がはじまろうとしていた。2002年日韓ワールドカップで、わたしがいちばん応援していたチームがポルトガルであった。ルイ・コスタとフィーゴを中心とするスキルフルな球まわしを楽しみにしていたのである。
 そのポルトガルが予選リーグ最後の韓国戦でずたずたにされている。常識的にはありえない2枚のレッドカードが、ポルトガルを反撃不能の状態におとしめていたのである。これがすべての始まりだった。だれも「八百長」もしくは「審判買収」であることを証明できるわけでないが、2年を経た今でもポルトガル、イタリア、スペインの3連敗に疑念を捨て切れないであろう。
 そして、今日、アメリカがやってくれた。岩村の左飛犠打となるフライにより、3塁走者の西岡は悠々本塁を踏んだ。そこで捕手が、クレームをつける。西岡の離塁が早かったというのだ。しかし、2塁塁審はそれを認めない。ところが、驚いたことに、主審は判定を覆した。結果、日本代表チームは逆転負けを喫する。
 ここで、最大の問題は何かというと、審判がアメリカ人だったことではないだろうか。WBCという世界選手権大会において、競技チームとおなじ国籍をもつ審判が試合をさばくとはなんたることか。聞くところによると、アメリカのメディアは今回の判定が誤審であることを認め、批判的な論調の報道をくりかえしているという。しかし、しかし、・・・しかし、アメリカの国民はさして気にしていないであろう。なぜならば、アメリカの代表は常に優勝すべきチームであり、結果として優勝しているのが当たり前だからだ。たとえスポーツであろうとも、結果はハリウッド映画のフィナーレのようでなければならないのである。

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  1. 2006/03/13(月) 22:44:25|
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宮本を外せ!

 ガンバ大阪は、加治の参入によって、昨年までの3バックから4バックへシステムを変更した。このシステム変更にともない、日本代表主将の宮本恒靖がポジションを失っている。西野監督は「宮本の特徴が一番生きるのは3バックの真ん中」だから、「今はバックアップでいてくれ」と直接伝え、宮本も「4バックはコンビネーションが大事だから難しい」とコメントしているという。
 じつは、宮本は昨年までもレギュラーと補欠の中間にいて、ガンバにおいては、必ずしも安定した先発の選手ではなかった。ガンバにはシジクレイという有能がセンターバックがいるから、3バックにおいても、宮本を使わないほうがうまく機能していた時期があった。その象徴は、ヴェルディに敗れた昨年元旦の天皇杯決勝で、前半に宮本のミスでたしか2点を奪われ、西野監督は後半から宮本をベンチに下げてしまった。その後、リーグ戦でも宮本は先発を外れていたが、チームが一時期低迷したため、リベロに宮本が復活し、シジクレイは右のストッパーにポジションを移した。その後、ガンバは復調し、大混戦のJリーグを制覇したのだが、その勝因は何かといえば、あきらかにアラウージョ、フェンルナンジーニョ、大黒の三角形が作り出す攻撃力であって、守備力そのものが突出していたわけではない。2失点しても4得点する、というのがガンバの戦い方だった。
 しかし、今年は大黒とアラウージョが抜けてしまい、得点が半減するのは目にみえている。だからこそ、ディフェンス・ラインを強化する必要に迫られているのだ。
 西野監督は、日々、宮本をみている。ジーコの何倍も宮本のことを知っている。だから、宮本を外すことに違和感はない。むしろ、それを断行すべきと判断している。
 問題はジーコだ。宮本はルックスがよいから一般大衆、とくに女性に受けがよい。しかし、目の肥えたプロの評論家や専門家からみれば、宮本は体格に劣り、スピードに劣り、危なっかしくてみていられない選手の代表である。いまや、アレックスと宮本の処遇がW杯本戦における日本代表チームの戦いを決定づけるであろうところまで来ているのだが、ジーコがこの二人を外す可能性はきわめて低いと思われる。
 アレックス、中澤、宮本、加治の4バックなら、J2クラスのチームでも十分得点することが可能であろう。救世主は松田だとだれもが思っている。松田は、どういうわけか、歴代の代表監督に嫌われてしまうが、身体能力が高く、中澤とのコンビショーションも阿吽のレベルに達している。優勝経験も豊富だ。アレックス、中澤、宮本、加治の4バックを中田浩、中澤、松田、加治に変えてほしい。さらに守備的に臨もうとするならば、以前にも主張したように、中田浩、中澤、松田、田中誠の4名がよいだろう。
 宮本を使い続け、松田を起用しないのはジーコの判断だ。だから、ジーコを首にして、西野か岡田をW杯本戦の監督にすれば話は早いのである。




 
  1. 2006/03/11(土) 12:50:23|
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ティンカーベルの失走

 昨夜、社長の車にのって奈良まで戻ってきた。深夜、ワイフ、次女と3人で「ゆららの湯」に出かけたのだが、彼女たちは、フィギュア・スケートの世界ジュニア選手権で、浅田真央の予想外の不出来に気を揉んでいた。浅田はショート・プログラムで1位ではなく、僅差ながら2位につけていて、1位の韓国少女が「天才」と呼ばれていることに驚異を感じているのだ。今日の未明、フリーがおこなわれるというので、

  「負けるんじゃないかな。トリノ・オリンピックのスピードスケート、WBC(世界野球選手権)地区予選と韓国に連敗してきて、まだその流れが続いているような気がするな・・・」

と予想した。

 果たして浅田真央は敗れた。世界GPファイナルでみせた、ティンカーベルのような天真爛漫のスケーティングは影を潜め、トリプルアクセルほか、得意のジャンプで失敗をくりかえしたらしい。ほぼ完璧な演技をみせた金が最後から2番めの演技、浅田は最終演技者であった。トリノにおけるスルツカヤと同じ立場で浅田は滑ったのである。
 ジャンプを切り札とする演技の特徴も、スルツカヤとよく似ている。その二人が最高の舞台でジャンプを失敗した。浅田の失敗は、心理的な面が大きいのだろうが、彼女が「大人の女性」に近づいていることとも関係があるような気がする。山田コーチは、4回転ジャンプに挑戦させるとコメントしているけれども、この方針は、おそらく浅田をスランプに陥れるだろう。4回転に成功した安藤美姫がそうであったように、少女のころに飛べた4回転が大人になるにつれて飛べなくなっていく。
 荒川がなぜ勝利したのか。3回転半や4回転のジャンプが荒川をチャンピオンに導いたのではない。スピン、スパイラル、スケーティングの技術が「レベル4」に達する高度なものであり、演技の芸術性が高かったことによるものである。
 浅田真央は、まもなくティンカーベルから脱皮していく。子どもの世界に住み続けられるのはピーターパンだけだ。

  1. 2006/03/10(金) 20:10:27|
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さよなら、西垣くん

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 確定申告に行ってきた。今年から、役所に行ってもネット申告になっていて、しばし数値の記入に没頭していたから、西垣からのメールに気がつかなかった。5時のスーパーはくとで西垣は鳥取を離れる。駅まで送るのは、どうやらホカノらしい。西垣のメールを掲載しておこう。

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夏休みからお借りしてました、「スイフト」の鍵を4409 先生のデスクの上においておきました。
長い間、貸していただきありがとうございました。
大学に来た際には、確認をおねがいします。

昨日の送別会に出れなくてすいませんでした。
ギリギリ荷物の搬出には間に合いました。

二年間、先生にはご迷惑ばかりをおかけして、ダメな生徒ですいませんでした。
その変わりに、有意義な時間を過ごさせていただきました。
本当にありがとうございました。
病気などお体には気をつけて、これからもご活躍を願います。
また機会があ/
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携帯がドコモなので、最後のフレーズが切れてしまったが、想像するに、

 「また機会がありましたら、フットサルしましょうね」

じゃないだろうか?

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  1. 2006/03/09(木) 16:36:19|
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西垣君の送別会

ノビタです。

 明日、就職のため大阪に旅立つ西垣君のために送別会がおこなわれました。会場は「匠」です。参加者は、浅川先生、ホカノ、社長、ぴえーる、藤井(兄)と私の6人でした。主賓の西垣君は、荷造りとチョメチョメに追われて忙しく、じつはプリントアウトされた画像での参加となりました。

↓プリントアウトした画像
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 送別会の前後、先生から卒業論文・制作の受賞結果が内々に伝達され、悲喜こもごもの学生たちでありました。

  1. 2006/03/08(水) 23:55:53|
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池田家墓所整備の視察

 検討会から一夜明けた本日は、大石さん、角田さんと共に池田家墓所の整備事業視察に行きました。
 池田家墓所では、1月12日の安全祈願祭以降、立体測量を実施した初代藩主七男清弥墓の玉垣解体作業がおこなわれています。清弥墓の測量を実施したお二人もこの変化に驚かれていましたが、現在の整備状況を聞き、本日ちょうど行っていた石畳縁石(新材挿入箇所)のビシャン仕上げの作業に見入っておられました。
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 池内研究室のお二人からは、昨日の検討会で発表した成果を、今後の整備に活かせるようにと激励の言葉を頂き今後の励みとなりました。
 その後、飛行機の出発までに時間があったため、観光をしていただこうと国府町の「雨滝」、倉吉の町並み、倉吉パークスクエア-鳥取20世紀梨記念館-、をめぐりました。残念ながら「雨滝」は、路面の積雪が多く実物を見ることができませんでしたが、倉吉ではこれまで研究室で調査した民家などを見ていただき、喜んでいただけたのではないかと思います。
 大石さん、角田さんには前回の来鳥同様、忙しい二日間となったのではと思いますが、またお会いできればと思います。  (ぴえーる。)
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  1. 2006/03/08(水) 23:53:30|
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池田家墓所修復整備検討会

 昨夏、池田家墓所で唐破風と玉垣の立体測量を実施していただいた、東京大学生産技術研究所池内研究室の大石さん、角田さんが7日夕方に来鳥されました。
 本日は、池田家墓所での整備に関する卒業論文・制作をおこなった、ぴえーる、ホカノ、キム・ドク(別名:タイガー戸口)の3名が修復整備検討会(会場:旧加藤家住宅書院)で、それぞれの成果を発表し、池内研究室のお二人に参加していただきました。検討会は、浅川先生のほかに県教育委員会文化課の中原さん、濱さん、松本さん、環境大学の山田助手、研究室から社長と利蔵も加わり、計10名で開催されました。卒業論文の成果を発表するということで、お世話になった県教育課の濱田さんにも是非お聞きいただければ思っていましたが、残念ながら体調を崩されたということで、参加していただくことはできませんでした。

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 発表は、以下の順でおこないました。タイムキーパーは社長で、1鈴12分、2鈴15分です。

1)ぴえーる「池田光仲墓の石造玉垣修復に関する考察 -国史跡『鳥取藩主池田家墓所』整備に関する基礎的研究(Ⅰ)-」、
2)ホカノ「池田家墓所における木造建築の復元 -国史跡『鳥取藩主池田家墓所』整備に関する基礎的研究(Ⅱ)-」、
3)キム「きよらかなもり -国史跡『鳥取藩主池田家墓所』ガイダンス施設の設計-」

 また、清源寺跡の展示方法と関連して、角田さんから「バーチャル川原寺-複合現実感による文化財の復元と展示-」についての発表がありました。池内研究室で実施されている、複合現実感による展示は、従来の復元における考え方とは異なりいくつかの復元案を、展示することが可能であり、今後の史跡整備で注目される技術なのではないかと感じました。
 各発表後、活発な議論が交わされました。私たちの発表に対して皆さまから過分な評価をいただき、中原さんからは実際に現地の休憩舎でもパネル展示したいというご提案をいただきました。また、池田家墓所保存会の理事会で発表をする可能性も高くなったようです。発表には、まだまだ不慣れな私たちですが、この一年の成果を示すことが出来れるように最善をつくす所存です。(ぴえーる)

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  1. 2006/03/07(火) 23:58:14|
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