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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

語りかける重源

 奈良国立博物館で開催されている「重源」展に足を運び、重源上人坐像(国宝、東大寺蔵)を目の当たりにした。魅入ってしまった。魅入られた、というべきか。
 このような彫刻をこれまでみたことがない。正面から上人の顔をしばらく眺めていると、坐像が動き始めるかのような錯覚に襲われる。重源が口を開いて、何かを語りかけてくるような気がしてしまうのである。
 重源上人坐像はほかに3体展示してあった。浄土寺(兵庫)、阿弥陀寺(山口)、新大仏寺(三重)の坐像も重要文化財に指定されているが、それらは重源木彫像の優品という評価にとどまるであろう。ひとり東大寺の坐像のみが人物と化して、われわれに「南無阿弥陀仏」と語りかけてくる。出来のよい人形には、-それが如何に可愛らしい人形であろうとも、霊魂が宿っているかのような恐ろしさがある、とよく言われる。東大寺の重源上人坐像の場合、そういう不気味さではなく、ほんとうに晩年の重源が境内のどこかで生活しているかのような幻覚を与える迫力と精緻さに驚かされる。仏師は不明。図録の解説者によれば、運慶説が有力であるという。
 「大勧進 重源」展は、重源の御遠忌800年を記念し、「東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出」をテーマとしたものである。重源上人坐像や各種の仏像をはじめ、絵巻物、文献など陳列品のすばらしさにだれもが圧倒されるであろう。ただ一つ残念であったのは、「大仏様」建築に関する展示がほとんどなかったことである。
 平重衡による南都焼き討ちによって焼亡した東大寺伽藍の復興を指揮する大勧進に抜擢された無名の僧が、「入宋三度」の経歴を活かして採用したのは、南宋福建方面の技術を取り入れた革新的な木造建築であった。遅れて導入される「禅宗様」が南宋江南五山の禅寺を直写しようとしたものであるのに対し、「大仏様」には模範となる仏寺が中国には存在しない。「大仏様」は重源と陳和卿による独創であって、その独創性ゆえに、重源の死後、「大仏様」は一気に衰退する、というのが現状の建築史学的理解である。
 とはいうものの、重源と「大仏様」にはあまりにも謎が多い。謎が多く、日本建築史のなかで突出した位置を占めるからこそ、これまで太田博太郎、伊藤ていじ、関口欣哉、田中淡、藤井恵介らの俊英を虜にしてきたのである。こういった先達の研究成果を収斂させるためにも、宋元時代の南方中国建築、とりわけ福建省の寺院建築から「大仏様」を相対化するような試みが欲しかった。
 欲張りなのかもしれないが、「重源御遠忌800年記念」という行事の性格からみて、「入宋三度」と「大仏様」の関係をさぐることは避けられない課題だと思うのである。

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  1. 2006/04/30(日) 22:34:52|
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尾崎家の自在鉤 -古民家探訪Ⅲ

 本日の3・4年ゼミ(プロジェクト研究5&7)は、当初、鹿野から倉吉をめざす予定であったが、県教委からの電話があり、急遽、湯梨浜町宇野の尾崎家住宅に立ち寄ることになった。今年度の調査をできるだけ早くスタートさせたいという御願いをするためだが、ご夫妻からは、5月はなにかとせわしいので、できれば6月から始めてほしいとのご指示をうけた。今年度の調査は、おもに8棟の土蔵が中心となる。
 今回、学生の目をひいたのは、イロリ上の天井から壁にもたれかけてあった自在鉤である。昨日、加藤家の屋根裏で古い自在鉤を発見したばかりで、その復元を決心したばかりだから、チームリーダーのOくんは目を輝かせて自在鉤を観察していた。ちなみに、尾崎家のイロリは薪ではなく、炭を使うタイプで框の幅がひろい。天井が高いので、自在鉤を吊す竹も長いが、構造は加藤家とほぼ同じであった。

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↑尾崎家の自在鉤  ↓加藤家の自在鉤
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 夕暮れから鹿野、倉吉をまわった。最後は、いつものように鯛焼きを食べ、清水庵でもちしゃぶ定食をたいらげた。そこで、倉吉の重鎮・眞田さんとばったり。調子にのっておしゃべりし、
  「やぁやぁ、それじゃぁ、また・・・」
と上機嫌で店を出たら、代金を払っていないことに気がついた。
 ごちそうさまでした。

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  1. 2006/04/28(金) 23:06:53|
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感想「壁の実測 -加藤家住宅の調査」

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 今日、3回目のプロジェクト研究1&3が終わりました。活動内容は家の現状を把握する為に実測をしました。
 私の担当場所は土間の壁でした。始め実測はすぐに終わるものだと思っていましたが、実際にしてみるとなかなか大変でした。実測箇所が予想以上に多く、また、屋根近くの実測は梁などが邪魔で作業がしにくかったです。後半では実測済みの箇所とまだの箇所が入り混じって見落としが発生しました。でも、なんとか全ての実測を終えることができました。
 次回までに今回実測で得たデータをもとにCADで断面図を作るのですが、細かい部分ができるか少し心配です。(P.N 解体屋3/環境デザイン学科2年生)


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  1. 2006/04/27(木) 23:38:53|
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地域保全計画2講義: 『環境と文化 -人類学的考察』の輪読

 今年度前期の大学院環境デザイン領域講義「地域保全計画2」は、石毛直道(編)『環境と文化 -人類学的考察』(日本放送出版協会、1978)を7名の学生で輪読することになりました。昨年同様、この分野に興味のある教員・社会人のみなさまにも自由にご参加いただければ、と願っております。以下、スケジュールを示します。基本的に隔週の木曜午後6時からですが、会議等の関係で変則的になっている時期もあります。

①4月26日(担当:山崎 1コマ)
 p.1-40 石毛直道「序論 生活様式の歴史と環境」

②5月18日(担当:塚本 2コマ)
 p.80-132 田邊繁治「ランナータイ農村における環境認識 -生活空間と守護霊儀礼をめぐって」
 p.133-158 谷 泰 「イタリア人の居住様式からみた環境観 -都市と農村の対比をつうじて」

③5月25日(担当:長谷川 2コマ)
 p.161-172 松井 健「サバンナ・ウッドランドの自然と環境観 -トンブウェ族の場合」
 p.311-342 シンポジウム「他界のイメージ」(石毛直道・石森秀三・佐々木高明・田邊繁治・谷泰・松原正毅・吉田集而)

④6月8日(担当:岡野 2コマ)
 p.175-202 石森秀三「マーシャル諸島民の空間認識 -伝統的海図を中心に」 
 p.203-236 吉田集而「北ハルマヘラにおける環境観」
 
⑤6月22日(担当:牧田 2コマ)
 p.237-278 佐々木高明「地図の歴史と環境認識の変遷」
 p.279-302 藤岡 喜愛「環境観の進化史」
 
⑥7月6日(担当:波田 2コマ)
 p.457-466 末原達郎「日本のムラにおける環境認識の変遷」
 p.467-510 石毛直道「環境観の一般モデル」

⑦7月20日(担当:中村 2コマ)
 p.43-80 松原正毅「乾燥地域における環境認識 -トルコの村の土地分類を中心として」
 p.303-310 小林致広「アステカの世界像」

 本日、第1回の講義が終わった。「生活様式の歴史と環境」と題する序論で、狩猟採集民は自然と調和を保つ生活を続けてきたが(私註:わたし個人は狩猟採集民も少なからず環境破壊をしたと思っている)、農耕民や牧畜民の台頭によって自然は改変されて「人工的な自然環境」に姿を変え、さらに定住に基づく余剰が生み出した都市においては、物質文化と情報に包囲される環境が構築されるという変化があったことを、やや抽象的に論じている。今後は、各論でもう少し具体的な内容が展開する。


  1. 2006/04/27(木) 23:21:07|
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千両万両

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 写真の植物は「まんりょう」であろうとワイフは述べた。広辞苑によると、「まんりょう」はすなわち「万両」で、

  「ヤブコウジ科の常緑小低木。高さ1メートル。葉は楕円形で厚く、光沢がある。夏、葉腋に白い小花を下向きにつけ、果実は球形、赤熟して冬から春まで保ち、観賞用。別科のセンリョウに似るが大形。」

と説明されている。我が家の庭で果実を垂らしている植物は「高さ1メートル」もないので、ひょっとしたら、この花はセンリョウではないか、と疑い、広辞苑をひくと、

  「センリョウ科の常緑小低木。関東以南の暖地の林下に生じ、高さ50センチメートル。茎にふくれた節がある。葉は対生し卵状楕円形。夏、黄緑色の細かい花を短い穂状につける。核果は球形、冬に赤く熟す。実の黄色い品種もある。鉢植や切花とし、多くは正月用。クササンゴ。仙蓼。」

とある。いまネットで検索したところ、センリョウの実は赤みがっかているが橙色で、実が上を向いている。我が庭のそれは、実が真っ赤で、サクランボウのように下向きに垂れ下がっている。したがって、写真の植物は、背丈が短いけれども、センリョウではなく、マンリョウであることがあきらかになった。ワイフに電話すると、

  「センリョウとマンリョウの区別ぐらい、主婦ならたいていわかっているの。男の人はお正月の準備をしたことがないからわからないのね」

とのコメントを頂戴した。
 ちなみに、マンリョウの中国名は「朱砂根zhushagen」、センリョウの中国名は「草珊瑚caoshanhu」である。センリョウの別名「仙蓼」のニ文字は気品があって、しかも神仙思想と絡む薬草のような語感があり、古代漢語の匂いがする。


  1. 2006/04/26(水) 17:35:13|
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満天星

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 庭に出てみると、どうだんつつじが咲いている。どうだんつつじの「どうだん」とはなんだろうと思って、広辞苑で「どうだんつつじ」を引いたところ、漢字名が「満天星」であることがわかった。ひょっとして、これは中国語の呼称ではないか、と推量し、中日辞典で「どうだんつつじ」を引くと、やはり「満天星mantianxing」とあった。こうしてみると、どうだんつつじはどうやら中国から比較的新しい時代にもたらされた外来種のように思われる。とはいうものの、「どうだん」という言葉と「満天星」が結びつかないので、さらに広辞苑で「どうだん」を引いてみると、やはり漢字名が「満天星」となっていて、「どうだんつつじ」の略としつつ、
  「トウダイ(灯台)の転。分枝状態が灯台の脚に似るからという」
と説明されている。してみれば、「灯台=満天星」となるから、再び日中辞典で「灯台」を引いてみると、その中国語は「灯塔dengta」となっている。中国語ピンインのdengtaはダンターに近い音声であって、これが「どうだん」の原語であるのかもしれない。しかしながら、、「どうだんつつじ」の形状が「灯台」に近く、その一方で「満天星」をイメージさせるものなわけだから、どこでどうして「灯台」と「満天星」が関与しあって、日本の名称になったのかがよくわからない。
 一方、「つつじ」の漢字名称はとんでもなく難解で、「躑躅」と書く。これを日中辞典で引くと、「杜鵑dujian」「映山紅yingshanhong」とある。、「杜鵑」はホトトギスをさす言葉でもある。「躑躅」はおそらく「つつじ」の中国古語であろう。
 我が家の庭には、真っ赤なつつじも咲いている

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  1. 2006/04/25(火) 18:13:47|
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「地域生活文化論」講義について

 今年の前期講義は、人間形成科目「鳥取学」のコーディネートをする以外では、3・4年生対象の展開科目「地域生活文化論」を担当するだけである(1~4年の演習「プロジェクト研究」は別に4コマにある)。「地域生活文化論」は、これまで環境デザイン学科の4年生に配当する展開科目で、環境政策学科の3・4年生も受講可能な科目としていたが、今年からデザイン学科の3年生も受講対象に含めることにした。このため、昨年まで前期におこなっていたデザイン学科3・4年対象の「建築の保存と修復」を後期にまわした。
 「地域生活文化論」は、東方アジアの民族建築をテーマとする講義であり、まずはこの地域の文明的中核を占める中国諸民族の住居について述べ、ついで、中華の四方にあたるロシア極東、モンゴル、チベット、東南アジア、オセアニアなどの住まいを見回しながら、最終的には「日本民家の座標」をアジア的視点から定めようとするものである。授業構成は以下に示すとおり。

  第1講:オリエンテーション -住居の始原 
  第2講:民族建築の方法と射程/中国とは何か
  第3講:漢族建築の文法 -「四合院」の成立と持続 
  第4講:文明と生態のはざまで -江南漢族の水郷民居を中心に
  第5講:カマド神と住空間の象徴論
  第6講:園林都市 蘇州 -世界文化遺産評定2000
  第7講:稲作と高床の民 -西南中国から東南アジアへ 
  第8講:狩人の住まい -アムール流域のツングース 
  第9講:オンドルと丸屋根の家 -中国黒龍江省の朝鮮族
  第10講:雲南に流れこんだ北方文化 -遊牧民の南下と定住
  第11講:舟に住む -東方アジアの水上居民 
  第12講:海に生きる -ミクロネシアの分棟型住居 
  第13講:離島の建築 -日本列島の周縁
  第14講:日本民家の座標(最終講義)

 環境デザイン学科の1期生が4年になった一昨年の後期、この講義はスタートした。そのとき、受講対象はデザイン学科4年と政策学科3・4年で、履修登録者は45名前後、毎回の出席者は20名前後にすぎなかった。4年の後期では、すでに単位を揃えている学生が多く、よほど興味がない限り、履修登録をしないだろうと判断し、昨年、この授業を前期に移した。反応は敏感で、履修登録者は90名を越え、常時の出席者は60~70名に増えた。今年は、受講枠をさらにひろげ、デザイン学科の3年生も対象に含めたところ、履修登録者は160名にまで増え、出席者は130名前後を数える。おかげで、昨年までの講義室では学生が納まりきらなくなり、200名以上収容できる大講義室に教室が変わった。
 毎年、入学生は減っている。少子化の大波は環境大学のような田舎の私学を直撃する。だから、繰り返すけれども、学生総数は漸減しているのである。しかし、「地域生活文化論」の受講者は倍増し続けている。また、先週のブログで述べたように、プロジェクト研究1&3「古民家のリサイクル」もまた学生で溢れている。2期生の卒業でゼミ生は減ったけれども、それでも11名の学生がいて、とにもかくにも、自分が接している学生の絶対数は爆発的に増加しているのである。
 だから、少子化の実感が湧かない。

 これから第3講義の準備をする。「四合院」は、漢族にとって宇宙の凝縮であり、都市、国家の空間と相似関係をもつという点が主題をなす講義である。


  1. 2006/04/24(月) 19:28:45|
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感想「旧加藤家住宅を訪れて」

 一昨日、古民家の見学をしました。古民家を見たことはあるけど、中に入るのは初めてでした。270年程前に建てられたそうで、やはり柱が傾いていたりあちこちガタがきていました。でも現代の建物にはあまり見られない木造の良さがあると思いました。外を見れば、庭にも松の木や池といった和風の風景があり、民家と庭がマッチして何となく懐かしい感じがしました。
 まだまだ建築の知識は無いので何処がどうなっているかなどはよくわかりませんが、この歴史的建造物の修復に携われるということで良い経験になればいいと思います。(Y.Y./環境デザイン学科2年生)


  1. 2006/04/22(土) 23:10:27|
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プロジェクト研究5&7 -古民家探訪Ⅱ

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 プロジェクト研究5&7、二回目の今日は加藤家を訪問しました。この加藤家は鳥取藩の御殿医が住んでいたという由緒ある古民家でその歴史は18世紀前半まで遡るという。そして、まもなく鳥取市内3件目の登録文化財に指定されることが決まっています。
 私たちはオクノマ(8畳間の客室)に各々座っていましたが浅川先生と大工さんとの会話が聞こえた頃から一人また一人と住宅内をうろつきはじめ、随所見学、障子の隙間にひっそりといたカメムシにビクつくことも。
 何度か改築が施されたようで、食堂跡が存在します。元は茅葺屋根だったようですが、今はトタンが雨風から守っているようです。
 外から加藤家を一通り見た後は近所に曳き家された土蔵7棟のうちの1棟を見学にいきました。漆喰を塗らないつくりで、地震によって一部剥がれ落ちることがあったようですが加藤家と同じく当時の雰囲気そのままで存在していました。

 最後にここまで車をだしていただいた方々に感謝したいと思います。(tomato)

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吉田の屏風はすでに竹の連子がはずれている。不良品を売りつけられたのか???

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  1. 2006/04/21(金) 21:55:28|
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加藤家住宅訪問 -プロジェクト研究1&3

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 今日のプロジェクト研究1&3では、山田助手の班と合同で加藤家住宅を訪問した。1・2年生だけでも総勢26名、これだけの人数をいかにして加藤家まで運ぶかが大問題であったが、3年、4年、修士の学生の輸送サポートのおかげで、古民家でのゼミが成立した。
 この4月初めから、3年生のOくんが加藤家に移り住み、近々、某大学院生も引っ越すことになっている。Oくんの悩みはカメムシであった。カメムシの臭いに日々悩まされているのである。指導教員であるわたしは、それをひどく心配していた。フマキラーなどの薬剤一式も届けたのだが、かれは使おうとしない。もちろん環境に配慮してのことである。
 わたしは、キャンディのヒンドゥー寺院で買った線香をOくんにわたした。これは効果があったらしい。まずカメムシは煙を嫌う。そして、強い香の匂いが、カメムシの臭いをくるんでしまうのだという。だから今日も、床で香を焚いた。
 ごらんのとおり、本日のゼミは大変なにぎわい。最初は遠慮気味だった学生を一気に活気づけたのは御菓子であった。お茶はヌワラエリアのBOP。御菓子とお茶で勢いを増したのは、あきらかに女子たちであった。男子学生が小さくみえる。屋根裏に上ろうとしたのも女子たちであった。これから予定している大工仕事やイロリ造りも、女子に主導権を握られそうな予感がする・・・

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  1. 2006/04/20(木) 19:58:28|
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ビアンキ出動

 4ヶ月半ぶりにビアンキで出勤した。ずっとベランダにほったらかしだから、タイヤの空気も抜けているだろうと、力をこめて指で押さえてみれば、パンパン状態。こいつはしめたものだ。ビアンキ用の重装備で田園町の宿舎をそそくさと出発した。ところが、ギアが錆びている。というか、油が切れている。チェーンの動きがぎこちない。途中の自転車屋で油をさしてもらった。300円もとられた。
 昨年は満開の桜をみながら袋川沿いを走った記憶がある。今日は散り際。先週、いよいよビアンキ出動だと意気込んでいたのに、一週間まるまる雨模様。しかるに、桜は満開だった。思いおこせば、昨年12月は初旬から降雪量が尋常ではなく、今年の4月は雨ばかり。この4ヶ月半のあいだに体重が増えた。年末のタイと3月末のスリランカのスナップ写真を見くらべれば、腹の出具合の差に仰天してしまう。
 ふだん自転車に乗っていても、体重は減らない。しかし、自転車に乗らないと、体重は増える。そのことがよく理解できた4ヶ月半であった。だから、自転車に乗るしかない。これは遺伝子との戦いである。
 今日は風が強かった。サイクリングにはきつすぎる横風で、環大道路を上るのに息が切れた。死ぬほど息が切れてしまった。



  1. 2006/04/19(水) 18:42:55|
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年度末が終わらない

 3日前、突然ブログに登場したひどい英文は、2004-2005年度科学研究費基盤研究C「大社造の起源と変容に関する歴史考古学的研究」報告書の英文要旨である。〆切のぎりぎりでようやく書き上げたものをブログにあげて、日記を一日分誤魔化そうという邪(よこしま)なねらいの産物である。
 あれから、授業の準備をして、審査論文を一篇査読し、今日は先週の「鳥取学」と「地域生活文化論」の理解度チェック・レポート(130人分×2コマ)の採点をスーパーはくとの車中でこなせば、だいたいノルマを果たせたかな、と思っていた夕暮れどき、

  「センセィ、**研究費の実績報告書、明日までにお願いします。これ以上待てません。よろしくお願いします!」

という悲痛な電話が総務課から携帯にかかってきた。

 すでに、同じような研究成果レポートをいくつも提出していて、先の科研で終わりだと安堵していたのに、まだひとつ残っていたのだ。
 3種類の書類をさきほど送信した。報告書は仮製本のものしかない。校正は2冊分、まだたっぷり残っている。

  1. 2006/04/19(水) 01:14:58|
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ヤモリと蘭の花

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 目覚めたら、ワイフが大騒ぎしている。
  「シャッター締めたら、その勢いでヤモリが死んじゃった、どうしよう、可哀想に・・・」
 ご存じのように、ヤモリは「家守」であって、ここ日本では家の守り神として信仰されてきた動物である。『広辞苑』をひくと、その漢字名は「守宮」とある。日中辞典で確認すると、「守宮」は中国語の呼称であることがわかった。ここにいう「宮」は宮殿をさすわけではない。「宮」は屋根の下に二つの部屋をもつ家屋を原義とする。一方、「家」は豚を飼育する小屋を原義とするのだが、いつしか住まいをさすようになった。要するに、「宮」と「家」はほぼ同義であるといってよく、してみれば、家の守り神としての信仰は中国起源なのであろうか。
 ヤモリは、蚊や蛾など家に寄りつく害虫を食べる人類の味方であり、『広辞苑』でも「指趾の下面は吸盤様の構造で、これで壁・天井などにつかまる。夜出て、昆虫を補食。(略)本州以南・朝鮮・中国南部に分布する」とあり、最後に「壁虎」という別称が紹介されている。日中辞典によれば、「壁虎」もまた中国語の呼称であり、直感的には南方方言の匂いがする。ヤモリは、「虎」というにはあまりにひょうきんな風体をしており、鱗が微小なため、透き通った肌がつやつやしていて、とりわけ小さなヤモリにはなんとも言えない可愛らしさがある。かつて、我が家では、極小のヤモリを虫箱にいれて買っていた時代もあった。そのヤモリの愛称は「ミュー」であった。
 ワイフはヤモリをシャッターで圧殺したことを何度も悔やんでいた。しばらくすると、裏庭に墓を作った。線香を焚きたいというので、花火のような棒軸のついたインドのお香をわたした。このタイプの線香は地面に突き刺せるから、土葬に適している。

 それから、またしばらくして、べつの新しい発見があった。裏庭にある植物が蕾をつけているのだが、蕾の中では花弁が開きはじめ、花芯がみえている。それは白地に紫の斑点がついた蘭の花であった。なぜ我が家に蘭の花が舞い込んだのかはわからない。こんなことが嬉しいのである。

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  1. 2006/04/18(火) 16:07:44|
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スリランカの紅茶に悩む

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 スリランカで飲んだ紅茶は、べらぼうにおいしかった。イギリスで飲んだ紅茶よりもはるかに美味であって、その秘訣は気取りのないところである。コーヒーに目がないわたしが、スリランカ航空の機内食以降、旅行中ずっと紅茶ばかり飲んでいた。コーヒーは、ついでの飲み物になってしまったのである。
 スリランカの紅茶は、口に含むと芳香な味わいがして、苦みを感じない。ストレートで飲んでも、ライムを浮かべても、ミルクと合わせてもおいしい。スリランカ人は、ダストと呼ばれる細砕粉の茶葉をたっぷり使って、粉ミルクと砂糖をたっぷり入れたお茶を好む。帰国の日に、コロンボ郊外のスサンタさんのお宅でいただいた紅茶が、まさしくそういう甘いミルク・ティーであった。

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 ヌワラエリアの茶工場ピードルー・ティーファクトリーで、たくさん茶葉を買った。1箱150ルピーだから、日本円では170~180円ぐらい。お土産には打ってつけの品である。茶葉をおさめた箱には、BOP、BOPF、Dなどのシールが貼ってある。Bはブロークン、OPはオレンジペコ、Fはファニングス、Dはダストの略号であって、要するに、記号によって茶葉加工の具合が違う。当然のことながら、味も変わる。説明は詳細きわまりなく、なんとなく聞いていたのだが、正直なところ、なんだかよくわからないので、ともかくスサンタさんと工場側の言うがままに、BOPやBOPFやDを買いあさった。じつはFBOPという種類もあった。この場合のFはファインである。
 帰国後、もちろん大半の茶葉は親族、知人のお土産になった。手元に残ったのはBOPかFBOPのどちらかなのだが、ワイフが箱から茶葉を抜き出し、缶に詰め替えてしまったので、どちらの種類なのかわからい。
 ところが、困ったことに、この紅茶の評判が芳しくない。味が緑茶に似ているのだ。茶葉も緑茶そのもので、葉っぱの形が残っており、少し量を増やすとずいぶん渋みが出る。おかしい。スリランカで飲んだ紅茶には、こういう渋みや苦みがほとんどなかった。濃くても、まろやかな味がした。茶葉の量を変えて、なんどもお茶を淹れてみた。どうやら薄目の味がこの紅茶にはあっている。茶葉を少なめにティーポットに入れて、熱湯を注ぎ、3~5分ほどまって飲むとあっさりしたストレート・ティーを味わえるが、その味はやはり日本の緑茶にちかい。

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 スリランカの紅茶については、末広美津代さんという女性が非常にくわしい。末広さんは、わが愛読紙『日刊スポーツ』に勤務していたのだが、その職を辞してスリランカに飛び、まる1年各地の茶園をわたり歩いて、当地の紅茶を徹底的に学んだ方である。末広さんが帰国後に著した『泣いて笑ってスリランカ』『そんな紅茶で満足ですか』という2冊の本をネットで購入し、少しはスリランカ紅茶の基礎を学んだつもりだが、我が家のBOP(もしくはFBOP)の味から渋みは抜けない。
 一方、評判が上々だったのはティー・バッグである。アールグレイのティー・バッグは、たしか某大学院生が巾着をポニーテールの女性たちにプレゼントしたラブッケリエ・ティー・センターで買ったものだが、前日ピードルーですでにたくさんの茶葉を仕入れていたので、ラブッケリエで買ったお義理の品物の一つであった(若いころスサンタさんはこの店の女支配人を口説いてふられたとのこと)。ティー・バッグは他人のお土産ではなく、大学教授室用に買ったものである。これを来室するお客さまに淹れてさしあげると、すこぶる評判がよい。
  「上品な味がしますね」
客人の評価がお世辞ではないと思うのは、自分が味わった感想と同じだからであり、他のスリランカ茶葉と比較しても、ぬきんでた味をしているからだ。
 ティーバッグの袋に詰まっているのは、ダスト(D)である。ダストを直訳すれば「塵埃」だが、この場合、ゴミ・チリをさすのではなく、塵埃のレベルまで細かく砕いた粉状の茶葉をさしている。スリランカでは、ティーバッグ用ダストの製造技術が突出しているのであろう。ダストが美味いと思ったのは、もう一つの紅茶が関係している。ダンブラからマタレーに移動する途中に立ちよったランウェリ・スパイス・ガーデンで、スパイスの元になるハーブ類を見学した後、アトピー性皮膚炎に効くハーブオイル、脱毛用ハーブ軟膏、減量に効果のあるスパイス入蜂蜜&カプセルに加えて、スパイス・ティーのセットを買った。そのセットは、ダストの茶葉、スパイス(生姜+α)のダスト、バニラ・エッセンスの3点が箱に入っている。この3つに熱湯を注いで大量のミルクを加えて飲むと、ジンジャー・チャイに似た味がする。

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 わたしはこういうスパイシーなチャイが好きなのだが、ワイフと娘はスパイスを敬遠する。そこで、スパイスとバニラを抜いて、ダストの茶にミルクを混ぜたら、あのスリランカで飲んだ紅茶がここ日本で再現された。こういう紅茶は、3杯続けて飲める。ケーキやクッキーなどのスウィートにこれ以上あう飲み物はないであろう。
 じつは、ヌワラエリアのピードルー・ファクトリーでも、ダストの茶葉を2箱買っていた。一つはロンドンから帰国したばかりの長女が大阪のアパートに持って行った。「ミルク・ティーにあう茶葉」が彼女の希望だったからである。もう1箱は、「飛鳥」に寄付した。昨年のジャワ・ティーのように、常連客の「あがり」に使ってくれるものと期待してのお土産であった。しばらくして、あるブンヤから「飛鳥」に呼び出しをくらった。ここぞとばかり、わたしは研究室の冷蔵庫に収めていた350ミリリットルの牛乳パックをもって、居酒屋に繰り出した。
 そのブンヤはすでにべろべろで、耳障りな話をずいぶんしてくれたが、こちらの頭はヌワラエリアのダストにあったので、350ミリリットルの牛乳パックを女将に差し出し、
  「これでミルク・ティー作って!」
と注文したところ、女将は答えた。
  「あらっ、あのお茶、家にもって帰っちゃった。スリランカの高級紅茶でしょ。こんなところに置いとくの、もったいないから・・・」

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  1. 2006/04/17(月) 19:46:51|
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Abstracts of Research Project, Grant-in-Aid for Scientific Research(C) 2004-2005

TITLE OF PROJECT: The historic archaeological study on the origin and transfiguration of shrine architecrural style called "Taisha zukuri"

 While the building with 9 pillars, which is common to the architectural style of shrine main hall called "Taisha zukuri", appeared at the middle age of Yayoi period in San-in district, is not always the origin of "Taisha zukuri".
 After 200~300 years blank terms, the building with 9 pillars had increased since the middle age of Tumulus period in Izumo district. And some of them in Tumulus period include the buildings having the special function. The building vestage No.57 and No.60 of Hyakuzuka 7 Site, which were located parallel in the fence square (25meter in every quarter), are the early examples of them.
 The building No.2 of SugawaraⅢ Site constructed before the late 6th century was the building with 9 pillars located in the near side of the spring in the mountain, is never regarded as the ordinary storehouse with high floor. It has common features to such building vestages of 8th century as SugisawaⅢ Site SB01 and Sandadani I Site SB01 which is highly supposed as shrine main hall. Location near the fountain or the well, accompaniment of one or some small buildings, and the same size of center pillar pit as the side and corner pillars pits are shared with them.
 Now, though SugisawaⅢ Site SB01 is the most possible building vestage of shrine main hall, we should pay attention that it constructed after establishment of national shrine system in the late 7th century. Sandadani I Site SB01 was also a building constructed after establishment of national shrine system. But the building No.2 of SugawaraⅢ Site was constructed before the late 6th century, dates before establishment of national shrine system. It is not clear if the building No.2 of SugawaraⅢ Site is matched for shrine main hall or not, but is highly possible that the building was the ritual facility. So I think that shrine buildings, while inheriting the architectural style and location of the ritual facility in Tumulus period, were standardized by national government.

 In short, the building with 9 pillars from the late Tumulus period to Nara period is nothing but the archetype of shrine main hall called "Taisha zukuri". The characteristics of it are that the shape of plan was square(sometimes oblong rectangle), floor space was averaged to about 10㎡, and center pillar was the short pillar that supports the floor.

  1. 2006/04/16(日) 22:11:24|
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大松博文の色紙

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 昨日の3・4年ゼミ・ハイキングの帰り途、紙子谷集落で傾きはじめている大きな農業倉庫を発見した。中に入ってみると、肥料袋が3つ積み上げられている以外、ほとんど使用されている形跡がない。内部の傷みもたしかに進んでいるが、まずはその大空間に魅了され、中2階の存在にも驚かされた。その日の昼食に、またしても、農業倉庫を転用したそば切り『たかや」で蕎麦を食べたばかりだったから、おなじ農業倉庫でもあり、コンバージョンのことが頭にひらめいた。通常の農業倉庫に比べればはるかに大きく、
  「1階は加工場と貯木場(古材バンク)、2階をアトリエにすれば最高だね」
などと話し合っていたのである。
  
  その夜の出来事。
  「あっ、これ大松博文の色紙ですね」
と指摘したのは、F印刷の西上さんであった。スリランカで会ったガミニさんの親友である。
 大松博文(だいまつ ひろぶみ)と言えば、われわれの世代では誰でも知っているが、いまの学生にはまったく通じない。大松博文は東京オリンピック(1964)で、日本女子バレーチームを優勝させた監督である。1921年、香川県生まれ。ニチボー貝塚女子バレーボール部(現「東レ・アローズ」)の監督としてチームを日本一に導いた。その指導方針は、徹底したスパルタで厳しく、「鬼の大松」の異名をとった。「回転レシーブ」の発案者としても知られる。当時のニチボー貝塚は、そのまま日本代表女子チームであり、1962年の世界選手権で優勝、1964年の東京オリンピックでもソ連を下して世界チャンピオンとなり、その女子チームは「東洋の魔女」と畏怖された。
 大松は戦後日本の英雄の一人であった。『プロジェクトX』そのもののような人物であった。のち自由民主党に誘われ、参議院議員となったが、1978年に57歳で他界している。

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 壊れかけた農業倉庫のなかで、チャックはなにかをさがしていた。チャックは、昨年のプロジェクト研究 「ダンボール大作戦」で大活躍し、カマドや蹲踞(つくばい)など「廃材でつくる茶室」の周縁施設を量産した注目の新人ゼミ生(3年)。茶室パンフの編集長も吉田からうけつぐことになっている。
 わたしたちが紙子谷の農業倉庫に入って、倉庫の空間や洋小屋の技術に目を奪われているあいだ、チャックはまったく別の目線をもって、この倉庫を観察していたようだ。 
  「根性」
と筆で大書きした額縁入りの色紙を、かれは、その倉庫の地面の片隅で発見した。泥砂にまみれているから、「根性」の二文字以外はなにが書いてあるのか、よくわからない。しかし、さすが「ブリコラージュの達人」だけのことはある。
  「これ、おもしろいですね」
と言って大学までもって帰り、さっさと水洗いして、4409演習室に仮展示してくれた。
 それが大松博文の色紙だったのである。

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  1. 2006/04/15(土) 23:08:46|
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4月14日 プロジェクト研究にて -古民家探訪Ⅰ

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↑↓ 福田家住宅(17世紀、重要文化財)
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 今週のプロジェクト研究5&7(初回)で、大学近くの紙子谷集落の福田家を訪れました。この建物は、重要文化財に指定されている古民家です。江戸の初期に建てられたかやぶきの建物です。
 この時代の建物の特徴で、大壁という壁(柱をも土壁で覆いつくした壁)が見て取れました。残念ながら、地面がぬかるんでいたため、敷地内には入れませんでしたが、道路から、観察しました。内部の特徴は、広間型三間取だったようですが、今は座敷が増設されているそうです。天気のいい日には、状況によって内部も公開されるそうで、ぜひ見てみたいです。とても綺麗に保存されていました。
 また、少し離れたところにある、近代和風の建物も見に行きました。特徴として、かやぶきの部分を、低い二階として使用しているらしいです。
 今回はおやつにケーキ限定5個もあり、おいしいおいいしいウォーキングとなりました。
 浅川先生はというと、花の写真をとりまくってました・・・(けんボー)

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↑禰宜谷の近代和風住宅のそばでケーキとクッキーの休憩。↓帰り道で渡った丸太の橋。前方M1はなんとか渡りきったが、後方3年は高所恐怖症のためギブアップ。回り道をした。
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  1. 2006/04/14(金) 20:13:11|
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弥生人の人形 -打出模型のバージョンアップ

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 富山市の婦中埋蔵文化財資料館に展示されたばかりの利蔵作「打出遺跡焼失住居復元模型」が、早くもバージョンアップした。とはいっても、建築の姿が変わったわけではない。ご覧のとおり、住居模型の内外に弥生人の人形が置かれたのである。制作はもちろん富山市埋蔵文化財センターのスタッフによる。なんとも可愛らしい風貌をしているが、「仮面ライダーの人形を紙粘土で型取りして、石膏で固めた」ものだという。
 いろんなアイデアが浮かぶものだ。利蔵は幸せものだね!

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  1. 2006/04/13(木) 21:56:32|
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「鳥取学」オリエンテーション

 本日、第4限(14:10~)より人間形成科目「鳥取学」がはじまった。17講義室は200名以上収員できる大講義室。今日は、125名の出席者があった。あちこちに懐かしい学生の顔が散らばっている。なんども述べているように、本日の演題は「鳥取学オリエンテーション -環境と文化の地域学にむけて」であり、

  1.環境と文化
  2.授業概要と成績評価
  3.理解度チェック

という構成で、ちょうど1時間スピーチした。125名の学生は、私語をすることもなく、わたしの話をよく聞いてくれた。共同コーディネータのチョン先生とヴォイス・レコーダー係の院生ホカノも加わっていたので、ちょっと恥ずかしかったが、まぁオリエンテーションだから、こんなものでご勘弁願えれば幸いである。
 残念だったのは、プロジェクターの不調である。パワーポイントの文字部分はよく映るのだが、画像が暗すぎる。せっかく集めて投影している建築や民俗や考古の写真が鮮明にみえないのである。17講義室にかぎらず、環境大学の講義室のプロジェクターは総じて型が古く鮮やかさに欠けるけれども、この17講義室がいちばんひどいのではないだろうか。
 もうひとつ悔やまれるのは、ヴォイス・レコーダー。昨晩、長文を読み込んで、自分の音声をソフトに認識させた結果、スピーチの90%程度をほとんど正確に文字化できることを確認していたのだが、今日は大講義室なのでマイクを使った結果、コンピュータにインプットされた音声とは違ったらしく、まったく文字化できなかった。ただし、今日はテストであって、本番は明日の「地域生活文化論」。マイクなしでしゃべってみようと思うが、27講義室は小さいから、たぶん大丈夫だろう。
 さて、60分スピーチしたあとの「理解度チェック」の質問を公開しておこう。

  問: 本日の講義において「環境と文化は表裏一体の概念である」
     と述べた。これについて、具体的に説明しなさい。
     (文字数は多いほうがよい)

 学生はみな熱心に理解度チェック用紙に向かって、レポートを書いていた。この「理解度チェック」システムで重要なことは、スピーチに学生を集中させる手段であり、そのために、わたしはパワーポイント配布資料のあちこちにブランクを設けている。画面に映るキーワードを書き写さなければ、いいレポートが書けない。だから、学生たちは必死で画面を追う。
 ちなみに、一昨日のブログの内容が、上の質問に対する答えである。


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  1. 2006/04/12(水) 18:17:26|
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新しい「鳥取学」講義のまえに

 いよいよ明日から、新しい「鳥取学」の講義が始まる。そのコンセプトは昨日のブログに示したように、「環境と文化の地域学」である。とはいうものの、落ち着かない。今日になって演題変更の報告があったりして、いまだに戸惑いながら、講義資料の最終調整をしている。今回の授業でも「理解度チェック」システムを採用する。講義担当者のスピーチ時間は70分程度で、残りの20分に学生は授業内容に即して示された質問に答え、レポートを提出するという方式である。
 ともかく、以下の豪華スタッフをご覧ください。県市の教育委員会、博物館、県史編纂室などの専門家がずらりと顔を揃えています。わたし自身が聞きに行きたくなるような陣容ですね。
 なんどやっても、授業は魔物。明日のオリエンテーションが心配で、ともかくドキドキしている。


 第1週 4月12日: 浅川 滋男[鳥取環境大学]
        「鳥取学オリエンテーション -環境と文化の地域学にむけて」
 第2週 4月19日: 川上  靖[鳥取県立博物館]
          「鳥取の自然生態学Ⅰ -動物相」
 第3週 4月26日: 清末 幸久[鳥取県立博物館]
          「鳥取の自然生態学Ⅱ -植物相」
 第4週 5月10日: 安藤 重敏[鳥取県立博物館 副館長]
          「鳥取の自然生態学Ⅲ -淡水魚類」
 第5週 5月17日: 濱田 竜彦[鳥取県教育委員会文化課]
          「鳥取の考古学Ⅰ -縄文・弥生時代の暮らしと社会」
 第6週 5月24日: 高田 健一[鳥取大学地域学部]
          「鳥取の考古学Ⅱ -古墳と地域社会の成立」
 第7週 5月 31日: 中原 斉[鳥取県教育委員会文化課]
          「鳥取の考古学Ⅲ -古代の役所と寺院」
 第8週 6月 7日: 岡村 吉彦[鳥取県史編纂室]
          「鳥取の歴史学Ⅰ -中世の因幡・伯耆」
 第9週 6月14日: 坂本 敬司[鳥取県史編纂室]
          「鳥取の歴史学Ⅱ -鳥取藩と城下町」
 第10週 6月21日: 佐々木孝文[鳥取市歴史博物館]
          「鳥取の歴史学Ⅲ -モダニズム時代の鳥取」
 第11週 6月28日: 福代 宏[鳥取県立博物館]
          「鳥取県の祭り・行事」
 第12週 7月 5日:眞田 廣幸[倉吉市教育委員会文化財課 ]
          「山岳信仰と仏教美術 -浄土へのあこがれ」
 第13週 7月12日: 松本 絵理[鳥取県教育委員会文化課]
          「歴史的建造物と町並」
 第14週 7月19日: 張 漢賢[鳥取環境大学]
          「鳥取地域のまちづくり -過疎地の居住問題」


  1. 2006/04/11(火) 22:17:53|
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環境と文化の地域学にむけて

 十数年ぶりに、今西錦司の『生物の世界』を開いてみた。もちろん初版本[1940]ではなく、全集第1巻[1974]所載の『生物の世界』である。何日か前に述べたように、今年から人間形成科目「鳥取学」のコーディネーターを仰せつかっており、今週水曜日にそのオリエンテーションが迫っていて、わたしの講義の副題は「環境と文化の地域学にむけて」としたものだから、少しだけ「環境」についておさらいしておこうと思ったのである。
 
  そしてこのように広く解釈するならば、われわれの認識しうる世界が
  われわれの環境であり、われわれの環境とはすなわちわれわれの
  住むこの世界にほかならないと言えるのである。[今西1974:p.53]

  『平凡社大百科事典』によれば、「一般に、生物や人間を取り巻く外囲(環界)のうち、主体の生存と行動に関係があると考えられる諸要素・諸条件の全体を環境という」。主体があれば必ず環境があるわけだが、主体が異なれば、物的条件がおなじであったとしても、環境は異なって認識される。おなじ青空の下で活動している人間にとっての環境と、蝉にとっての環境と、イモムシにとっての環境は異なっているのである。今西錦司が指摘するように、ある生物の認識しうる環境のみが、その生物にとっての環境であって、他の生物にとって、その環境は必ずしも認識の対象となっていない。これを人類に敷衍するならば、ある民族集団にとっての環境は必ずしも他の民族集団の環境と同一ではない、という言い方もできるであろう。
 J. J. ユクスキュルの「主体的環境 Umwelt」と「環境基盤 Umgebung」、K. コフカの「行動環境(行動環境像)」と「地理的環境(実質的行動環境)」は、前者が主体によって認識される環境、後者が主体の外囲に実在する物的全体という差異を示すものである。前者と後者の違いは、人間の認識を媒介とするか否かであり、換言するならば、「環境」とは人間が外界自然に対してなんらかの介入行為をおこなった「文化」的所産であると言ってよい。すなわち、環境とは主体から切り離された「自然」そのものではなく、主体と環境の関係は「文化」を介して相互依存的なものである。
 一方、これを「文化」の側からみると、「文化とは、その成員が認知し、関連づけ、解釈するためのもろもろのモデルである」[Goodenough 1957]。こういう認識人類学の立場にたつならば、文化とは「宇宙の分類の総体」であり、その民族集団が共有する「環境」認識の体系であると言えるであろう。
 いろいろ小難しい御託をならべてきたが、言いたいことは単純きわまりない。

   「文化」と「環境」は表裏一体の概念である。

 こんにち「環境問題」が喧しく議論されるけれども、大概の場合、そこにいう「環境」とは二酸化炭素の増加に伴う地球温暖化であり、フロンガスによるオゾン層の破壊であり、工場廃液や農薬による水質汚濁などに限定されるきらいが否めない。しかし、「環境」という概念はきわめて「文化」的なものであり、「自然」科学的諸事象に限定されるものではないことに気づくべきである。人間の営みの基盤となる「環境」の認識 -あるいは自然観と言ってもよいか-はまさに「文化」の根本であるという前提を忘れてはならないだろう。
 だから、「鳥取学」講義では「文化的諸事象(歴史・民俗など)に環境認識の仕組みが埋め込まれている」、あるいは「文化のなかにエコロジーが潜んでいる」という見方を重視し、自然科学の専門家だけでなく、考古学・歴史学・民俗学の陣容を充実させた。こういう観点をもって、鳥取という地域の「環境と文化」の全体像に接近したい、というのが、新しい「鳥取学」のねらいである。


  1. 2006/04/10(月) 23:11:06|
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庭園にみる唐様と和様

  「東院は遠いんです。」
 なんど言ったかわからない親爺ギャグである。

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 そもそも平城宮は「方八町」、すなわち1辺約1㎞四方の平面だと思われていた。国道24号バイパスの付け替えにともなう試掘調査により、東に張り出し部分があることがわかったのは半世紀前のことである。藤原宮→平城宮(副都「難波宮」)→長岡宮→平安宮とつづく古代都城の宮域のなかで、こういう張り出し部分をもつのは平城宮だけ。なぜ東院のような張り出しが平城宮に存在するのか諸説あるけれども、わたしの考えは以下のとおりである。

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↑↓反橋と築山(仮山)20060409144649.jpg

 7世紀の終わり、天武天皇の時代に藤原京の都市計画が練られた。しかし、このころ日本と中国は国交断絶の状況にあり、日本は中国長安城の直接的な情報をもっていなかった。このため藤原京は、中国の儒教古典『周礼(しゅらい)』考工記にみえる理想都市の記載をできるかぎり反映させるように計画され、宮域も正方形平面で宮城十二門の制を採用した。8世紀を迎え、唐との国交が修復され、702年に数十年ぶりの遣唐使が派遣され、かれらは2年後に大和に戻ってくる。
 遣唐使たちは、見てしまった。長安城の真の姿を目の当たりにしたのである。当時の唐は則天武后が支配していた。粟田真人ら第7次遣唐使のメンバーは、長安城の執政府であった大明宮の麟徳殿で則天武后に謁見している。麟徳殿に至るには、大明宮の正殿たる含元殿を経由しなければならない。少なくとも、遣唐使たちは含元殿の威容を遠望したに違いない。なにより、かれらは長安城の執政府は太極宮ではなく、大明宮にあることに驚いたはずだ。

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↑↓「曲水の宴」で盃を流す龍排渠20060409144744.jpg

 遣唐使たちは、実際の中国都城と藤原京の違いについて、帰国後ただちにその実態を天皇に上申したことであろう。結果、平城京遷都が決定された。その平城京は、もちろん唐長安城を強く意識したものであったのだが、その一方で藤原京の伝統もうけつぐ2重構造の都城として成立した。都城の中枢部である宮域において、その2重構造は鮮明にあらわれた。宮城の正門たる朱雀門の正面には、唐長安城大明宮含元殿地区を強く意識した「西の大極殿・朝堂院地区」、脇の壬生門の正面には藤原宮の中軸部をそのまま遷した「東の大極殿・朝堂院地区」が並立することになったのである。二つの「大極殿・朝堂院地区」の面積は広大であり、藤原宮の内部に存在した諸施設が平城宮の内部には納まりきらなくなった。その結果、「東院」という張り出し部分が必要になったのではないか。平安宮では平面を縦長長方形に改め、面積不足を修正している。平城宮は藤原宮(正方形)から平安宮(長方形)に至る過渡的形態として、凸凹のL字形平面を呈していたのだと理解してはまずいであろうか。

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↑↓北からみた東院庭園隅楼 ボーリング場の看板が借景になっている。中央建物越しにみれば、借景は消える。
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 『続日本紀』によれば、平城宮の東院地区は「東宮」「南苑」「楊梅宮」とも呼ばれ、宴会に関する記載が少なくない。東院の東南隅で発見された庭園(東院庭園)も、おそらくそういう宴遊と関係が深かったものであろう。ちなみに、東院庭園も唐様式の影響を強くうけたものであった。7世紀の庭園が方形の池を中心とするいくぶん無愛想な姿を露呈しており、それが中国的で、8世紀の東院庭園にあらわれる曲池を中心とする庭こそが日本庭園の出発だと言ってはばからない庭園史家が少なくないけれども、唐との国交が回復した8世紀の庭園こそが中国的であり、それが日本庭園の源流になったという説明の仕方をしないのはおかしい。日本の寺院建築が8世紀までは「唐様」であったにも拘わらず、平安時代以降に国風化が進み、鎌倉時代の南宋様式受容の反作用として「和様」と呼ばれるようになったのと同じ概念の変化が庭園においてもあったということに気づくべきである。


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  1. 2006/04/09(日) 12:46:18|
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黄砂の平城宮

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 今日は花見に行こうと決めていた。できれば、平城宮跡まで歩いていって、おにぎりでも食べて帰ってくればいい、と思っていたのだが、風が強く吹いている。そして、空気はどんより煙っている。日差しは強いのに、空は明るくない。黄砂が大気を覆っているのだ。
 桜が満開している週末の土曜日、平城宮跡が最もにぎわうはずの一日だが、この風と黄砂では人出もにぶるだろう、と予測しつつ、自らも平城宮まで歩くのは辛いと思うに至った。
 結局、平城宮東院庭園まで車で出かけることにした。まずは東院庭園を一周した。奈文研を離れてはや5年。平城宮東院庭園の復元事業は、わたしが担当していた最後の仕事のうちの一つであった。重すぎる仕事ではあったが、忘れがたい仕事であったことも間違いない。

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 東院庭園に桜は植えていない。発掘された種子や花粉の同定によって復元される樹木、年中行事絵巻等の絵画史料に描かれた樹木をところどころに植栽している。今日咲いていたのはツバキとモモだけ。池畔のミツバツツジはようやく蕾が開き加減になっている。5月になれば、カキツバタやサツキでもう少し賑やかになるはずだ。

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↑東院庭園の桃と隅楼 ↓同池畔のミツバツツジ
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 東院庭園から南まわりで第2次朝堂院地区を一周した。ここは桜の樹が多く、花見の名所になっている。今日もたしかに花見客がブルーシートを広げているけれども、例年ならば、隙間がないほどシートが連続しているのに、今日は樹下に緑地がめだつ。風と黄砂の影響は予想どおりであった。
 わたしとワイフはただ平城宮を歩いただけ。何も食べず、何も飲まず、どこにも座らず、車に乗って帰宅した。

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↑第2次朝堂院の桜 ↓小子部門跡
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  1. 2006/04/08(土) 18:58:12|
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郡家(こうげ)駅の駐車場Ⅱ

 昨日につづき快晴の一日。桜も満開で、そろそろ自転車通学を再開したいところなんだけれども、週末は奈良にもどることに決めていたので、車で大学に向かった。そういえば、途中、福祉文化会館によって市長選の期日前投票をおこなった。無風選挙とも言われているが、必ずしもそうではないことを昨夜、あるブンヤから教示されたので、とりあえず投票所に足を運んだのである。
 さて、今年度から「鳥取学」という人間形成科目のコーディネーターを担当することになっていて、来週はそのオリエンテーションの授業が入っているから、資料をあつめた。というよりも、2~3月に買いあさっていた郷土関係の書籍をバッグに詰めただけなのだが、なにぶん部屋が汚い、というか整理されていないので、せっかく買っておいた資料がどこに行ったのか、うろうろするばかり。
 そのまま車で久しぶりに峠越えしようかとも思ったのだが、自転車にのっていない自分の体力を過信してはいけない、と判断し、スーパーはくとを利用することにした。スーパーはくとの出発時間は午後3時半で、時間に余裕があったから、今日もまた「たかや」に行って蕎麦を食べた。今日はおろし蕎麦の大盛り。京都の辛み大根に匹敵する辛さで、胃腸をおおいに洗浄してくれた。

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 この3月までなら、西垣くんが郡家(こうげ)駅まで送ってくれたが、大学の演習室にはだれもいない。いったいどうしたものか、いちど帰宅してバスで鳥取駅に移動しようか、とも思ったのだが、郡家駅の駐車場利用システムを思い出した(2005年12月12日のブログ参照)。さっそく郡家駅に行って、窓口で訊いてみた。利用規程は以下のとおり。
 1)駐車場利用の申請は、前日までにおこなう。
 2)駐車場を利用するには、特急の往復指定券を購入する必要があるが、その利用期間は4日間以内。
 3)往復指定券は、往・復を別々に購入するのに比べて約2000円安い。
 したがって、昨日までに往復の切符を買い、駐車場の予約をしておく必要があったのだが、さいわい駐車場が2台分あいていたので、使わせていただけるという。迷ったのは、むしろ2)の規定であった。授業は水曜日からだから、火曜日まで奈良にいることもできるのだが、4日以内という限定に従うならば、月曜日中に帰鳥しなければならない。しかし、3)の格安割引には魅力があり、今回はこのシステムにのっかかることにした。
 出発時刻まで小1時間ばかり余裕があったので、桜をみれないものかと、河原方面までドライブした。霊石山と千代川の景観、すなわち幼少のわたしが馴染んだふるさとの風景に包まれ、少し心が穏やかになった。天候さえよければ、こんなに気持ちがいい。雨には雨の、雪には雪の良さがあるとはいえ、この澄んだ青空を長く待ちわびていた。
 列車に乗ると、すぐ眠ってしまった。恥ずかしいことだけれど、2度も揺り起こされた。一度目は車掌さんだった。
  「姫路に着きますが、降りられませんか」
 つぎはお客さんにだった。
  「京都に着きましたよ」
 近鉄高の原駅には、ワイフが迎えに来てくれた。3日ぶりのご対面で、
  「今日もゆららに行こうね」
と約束したはずなのに、夕食後も爆睡。
 やはり疲れている。今週の疲れは、肉体的なものではなく、あきらかに精神的なものだ。ブログには書くに書けない、大きなうねりが身のまわりでおきていて、それはひょっとしたら「革命」と呼びうるような出来事なのだが、それに神経をすり減らしていた。
 スウィフトで峠越えしなかったのは、正しい選択であった。




  1. 2006/04/07(金) 23:34:37|
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そば切り「たかや」

 すでに何度か述べたように、わたしは無類の蕎麦好き。今日の昼食は、古郡家にある「たかや」に出かけた。元は駅南に店を構えていたのだが、火災にあったらしい。昨年9月、古郡家のJA農業倉庫を蕎麦屋に改装して、移転開業。今日、はじめて訪れた。
 注文したのは、もりそばの大。新潟のへぎそばに似た清涼感のあるもりそばであった。食座から上をみあげると、木造トラスが露出している。『近代化遺産』の調査で、さんざん農業倉庫を調査したから、懐かしく思うと同時に、洋小屋の年代観が気になった。たぶん大正~戦前の建築であろう。明治の洋小屋は平面的だが、大正になると立体化する。
 大学の近くに蕎麦屋ができた。素直に嬉しい。

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 営業時間/午前11時半~午後3時 火曜定休


  1. 2006/04/06(木) 20:02:22|
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婦中埋蔵文化財資料館に展示された利蔵の模型

 『富山市打出遺跡発掘調査報告書』が富山市教育委員会から3冊送られてきた。利蔵が卒業制作で取り組んだ「打出の居住地」の成果がきっちり盛り込まれている。利蔵は、山口の某ディーラーに就職し、ごく最近、
  「泊まり込みで研修中です。まだ一応元気です。」
というメールを携帯に送ってきた。
 3冊のうち1冊は利蔵への寄贈本である。さきほど、山口の実家に宛てて投函した。
 一方、弥生住居復元模型のほうは、妻入案・平入案あわせて婦中埋蔵文化財資料館に展示されている。卒業生の作品が、こうして展示・研究・教育資料として活用されるのはとても幸福なことだ。担当の小黒さん、センター長の藤田さんに改めて感謝申し上げたい。

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↓↑これまで公開されていなかった「平入案」
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  1. 2006/04/05(水) 20:14:08|
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バッド・モーニング!

  「燕尾服の似合わない人だな」
 ドン小西は嘆いていた。春分の日と同じモーニングを今日も着ている。新モンゴロイド的顔貌とも不釣り合いだし、ズボンの色がモーニングの黒とあっていない。おなかの出具合もよくわかる。椅子にすわると、ズボンの裾があがって、靴下がまるみえ。こういう人物に限って、ネクタイの着用を強制するのだが、おそらくネクタイならば、どんなネクタイでも構わないのであろう。着こなしなんて、問題外なんだ。
  「羽織袴のほうがずっと似合うな」
 ドン小西はそうも言っていた。

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 ホカノはスーツを着ていた。ネクタイも締めていた。だって、今日は大学院の入学式でもあるのだから。ホカノの同級生はみんな卒業して居なくなったはずだが、どういうわけか、ノビタが門前でチラシを配っていた。ノビタは地元N紙の記者になったのだが、まだ見習いで、記事を書くなんて先の先。
 N紙の購読料は月額1,995円(税込み)。どうぞよろしくお願いいたします。


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  1. 2006/04/04(火) 19:45:38|
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沖縄料理

 新学期が始まった。いきなり3年生ガイダンス。新しいメンバーが研究室に入ってきた。山田助手が京都から買ってきたお土産の「生八つ橋」を食べながら、すこしだけだべった。本格的な始動は14日から。新歓コンパは、昨年と同じ沖縄料理「ちゅらちゅら」にしよう、ということになった。
 じつは、ワイフが来ていて、夕食は「ちゅらちゅら」に連れて行った。もちろん、とても美味しい。デザートに紅芋アイスとシークワサ・ゼリーを注文した。沖縄に家族旅行に行ったのは、もう8年前のことになる。毎日、紅芋アイスを食べていた。だから、ワイフは紅芋アイスをとても懐かしがった。紅芋には、ポリフェノールが詰まっている。でも、今日はシークワサ・ゼリーのほうが美味しいと思った。この酸っぱさがたまらない。
  1. 2006/04/03(月) 19:09:26|
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アマヤ・レイクの楼閣に想う

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 今回のスリランカ仏教遺跡視察旅行の際に宿泊したホテルのなかで、最も居心地のよかったのがダンブラのアマヤ・レイク・クラブ。その名のとおり、アマヤ湖畔のリゾート地にあり、自然に囲まれたバンガロー形式のホテルである。
 24日の夜、このホテルに着いてチェックインする際、ロビーの階段でいきなり三角頭の毒蛇とニアミスし、ひやひやさせられたが、翌朝のレストランでは、リスや野鳥が足下まで近づいて餌を求めてくるなど、身近に自然を満喫できる癒し系のホテルであった。
 そのレストランの横に、大きな高床の楼閣が建っている。二日めの夜、笛の音が聞こえてくるので、どこで吹いているのろうか、と思ってあたりをみわたすと、暗闇の楼閣に人影がみえた。
 この楼閣に触発されてしまった。復元について、考えさせられたのである。弥生時代に出てくる梁間1間×桁行2間の建物跡については、まず間違いなく、稲を収納する高床倉庫として復元する。しかし、アマヤ・レイク・クラブの建物にみるように、手前の1間分を低くして、奥の1間分を高くする2段型楼閣に復元できないことはない。まず、こうすることによって、梯子の使いかたが楽になる。短い梯子を2段にわけて使えばよいからだ。次に、構造が安定する。1間×2間の平面全体を高層楼閣にすると、全体がひょろ長くなって倒れやすいのは目にみえているが、一方を低くして高層部分の控え柱のように機能させることによって、高層部分の安定感は増す。
 弥生時代の楼閣については、かつて復元を要請された経験もあるのだが、柱穴に残る柱痕跡があまりに細いので、ありえないと判断していた。ところが、青谷上寺地遺跡出土の建築材を精査すると、長さ7m以上の柱材が出土している。それは手すりと大引のための貫穴を備えており、高層建築の柱材としか考えられない。柱径も20㎝あまりと、さほど大きくないのである。これを思うと、たとえば名和町茶畑第1遺跡の環濠近くでみつかった1間×2間の掘立柱建物(平面の全体は正方形に近い)は、いわゆる「楼観」であっても不思議ではなく、その構造はひょっとしたら、アマヤ・レイク・クラブの高床建物のようなものだったのではないか、という想像を掻き立てられたのであった。
 県内弥生研究者のご意見を頂戴したい。

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  1. 2006/04/02(日) 13:27:13|
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花を愛で

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 スリランカ最初2日は、ドライゾーンの猛暑と山のぼりで、すさまじい量の汗をかいた。前にも書いたように、寺院境内は原則として素足だから、暑さを感じる度合いが違う。二日歩きまわって「痩せた」と感じたのである。そして、3日めには2時間のアーユル・ヴェーダを満喫し、「今日もまた痩せた」と感じたのであった。
 しかし、3日めからまた太りはじめた。車での移動時間があまりにも長く、体を動かすことが少なくなってしまった。そして、ホテルのバイキング3食はあまりにも美味しく、量がおおい。で、差し引きはプラスであった。その結果を、昨夜、「ゆららの湯」の体重計で確認した。
 今日は、ワイフと二人、高の原駅まで往復ウォーキング。近商スーパーのリニューアル・オープンをひやかそうという魂胆なのだが、じつは歩くことが目的である。片道で30分、往復なら1時間。結構な運動になる。そのあいだ、花をみていた。関東ではすでに桜は満開らしいが、奈良ではまだ蕾が開きはじめた程度。その代わり、梅やボケの類があちこちに咲いていた。
 夜はまたしても「ゆらら」に行き、サウナとスティームバスで1kg絞りあげた。

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↑彼岸桜?
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↑ボケ
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↑ユスラウメ?(鳥取ではイシランメという)


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  1. 2006/04/01(土) 22:33:09|
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asa

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