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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

オンサンマヤサトバン!

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 今日は、住吉から高野山をめざした。5月3・4・5日の3日間、根本道場の金堂で「結縁灌頂」の儀式に参加できるという情報を得ていたからである。
 結縁(けちえん)とは「縁を結ぶ」ことだが、だれと結ぶかといえば、その相手は仏さまである。真言宗の場合、仏とは大日如来をさす。ブッダを含む古代インドの仏教哲学の全体を学び、それを宇宙論として体系づけようとした大乗仏教の宗派の一つが密教であって、その経典たる大日経・金剛頂経の教主が大日如来にほかならない。換言するならば、密教は、ブッダという個の存在を絶対視せず、大日如来を中心尊格として崇めるもので、それゆえ、「密教は仏教ではない」という解釈も成り立つ。
 ところで、大日如来は宇宙の光源であって、絶対的な超越者であるのだが、それは同時に人間の心性に潜む超越的精神の形象でもあるという。この点、ブッダの思想とも交差する。ブッダはあくまで各人の鍛錬、すなわち悟りに至る修行瞑想の実践を優先した。ブッダや道元の立場からすれば、個々人の内にある仏性を高め尽くして、悟りに至ればよいわけで、それには個々人の修行以外に途はないことになる。
 今日の高野山の儀式でも、堂内で説法した僧は、仏とは人間個々の内に潜む存在であることを強調していた。くりかえすけれども、真言宗において、仏とは大日如来であり、それは人の内面に潜む仏心・仏性の象徴である。とはいえ、真言宗の総本山たる高野山においてさえ、大塔(コンクリート造の巨大な多宝塔)の中央に安置された大日如来の仏像をみて、それを自らの心性の一部ととらえる在家の信者は少ないのではないか。むしろ、それはキリストのような救済者として信者を惹きつけている。
 説法をうけもった僧によると、地蔵も観音も不動明王も、すべては大日如来という光源が発する七色のスペクトラムの一色にすぎない。それを統括しているのは、あくまで大日如来である、という。大日如来は宇宙における光源だが、その光線は陰影を生むことがない。光線をうける物体の背面までをも明々と照らし出す。この現象を「遍照」という。「結縁灌頂」のための入堂にあたって唱和する
  「南無大師遍照金剛」
というお題目の「遍照」が「大日」の別称なのである。

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 金堂は、三手先の組物をもち、向拝の中備に人字形割束(しかも完全直線形!)をもつところからみて、古代寺院を意識した近代の擬古作であるのはあきらかで、密教本堂というよりも浄土真宗本堂のような規模を誇る。入堂から説法を経て、いざ入壇(曼荼羅壇に入ること)の段階になって、手渡されていた紙の帯が目隠しにされ、内部空間がみえなくなってしまったが、常識的には延暦寺根本中堂などと近い内陣・礼堂造であるのだろう。目隠しされたまま、中指を突き出す定印を、前を進む人物の背中にあてながら、在家信者たちは迷路のように内陣を彷徨った。おそろしく長い時間、入壇者は、
  「オン サンマヤサトバン(仏さまと一体になれますように)!」
の呪文を繰り返して念じる。たぶん500回以上、ひょっとしたら1000回ばかり唱え続けた。ある段階で、照葉樹の緑葉を中指と中指の間に僧が挟んだ。それから、しばらくして「手をのばして!」「葉っぱを離して!」と指示され、言われるがままに従った。
 そして、目隠しが外され、眼前に大日如来の仏像とマンダラがあらわれた。
 そこから移動して、「阿闍梨(あじゃり)」と称する高僧に対面する椅子に腰掛け、密教の呪具をつかんだり離したりした後、頭に赤い冠をかぶされて、
  「鏡をごらんなさい。これが大日如来と結ばれた、あなたのお顔です」
と言われた。いつもの顔だった。
 これが「灌頂(かんじょう)」の儀式であるらしい。「灌頂」とは仏教で頭に水を注ぐ行為を意味する。盆に墓参りをして、墓の上から水をかけるのがその名残であり、昨年末、チェンマイの山寺で仏僧が跪拝するわたしに水をふりかけたのも「灌頂」の一種である。だから、阿闍梨はわたしに水をかけてくれるのではないか、と期待していたのだが、頭の上にはほんの一瞬冠がのせられただけであった。寺の説明書によると、「み仏が持つ最高の慈悲によって加持された法水を皆様の心にそそ」ぐことが灌頂であるという。俗人に注入された法水は、かれの煩悩を瞬時に洗い潔め、個々に内在する仏心を輝かせ、自身がすなわち大日如来であることに感得するのだという。
 してみれば、灌頂を受ければ、自らの修行なくして、悟りへの途が開けることになるではないか。
 
 わたしは密教に関心がないわけではないが、大日如来の信仰を信じているわけでもない。ならば、なにゆえ高野山まで出かけて結縁灌頂に参加したのかといえば、そこに「聖性」を感じ取れるかどうかを試したかったからである。三仏寺投入堂や日吉大社、あるいは浄土寺浄土堂の内部空間や住吉大社本殿の内部架構などがオーラのように発する神聖さや超越性が、高野山の結縁灌頂でも体感できるのではないか、それを期待して二日がかりで高野山をめざしたのである。
 答えは、否であった。そもそも、ほんらい秘密結社的な組織のなかで秘儀性・秘匿性を守るがゆえに、密教は密教たりえているわけだから、信者以外の一般国民に対して結縁灌頂を有料公開している(3000円/人)、という事態に懸念を覚える。結縁灌頂は古い伝統をもつ儀式なのであろうが、修行もなにもしていない在家の人間に灌頂すれば、「自身が大日如来であることに感得する」と言われても、素直に信じることはできないし、実際、そういう心情的な変化を実感できたわけでもない。ただ、イベントと化した密教の儀式を体験した、という記憶が刻みこまれただけである。

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 その一方で、結縁灌頂の参加者は日に1500人を数える。おそらく3日間で、1億数千万円の売り上げが見込めるであろう。寺にとっては、有力な財源の一つであるのだろうけれども、参詣者の立場からいえば、その儀式に加わって、何か得られたものがあるかと問われれば、否と答えるしかない。むしろ、寺院の俗化を身を以て感じ取れる契機になった。聖地の俗化は堂内だけでなく、境内全域から門前町のほぼ全域に及んでいる(事の詳細は割愛する)。ごく一部を例外として大半の建造物は新しくて重厚さに欠け、建築芸術そのものに対する苦心や、自然環境との融合に対する配慮が乏しい。とどのつまり、思うのである。
  「高野山はなぜ世界遺産に登録されたのであろうか」
 世界遺産の審査をクリアするための6つのクライテリア(評価基準)のうち、いったい高野山はいくつの項目を満たしているというのか。極端な言い方をするならば、高野山は熊野古道のおまけでしかないのか。
 いつも以上に辛辣になっている自分を充々承知している。しかし、それほど事態は深刻であった、という印象を今日はあえて記しとどめておきたい。
 結縁灌頂はわたしに何も残さなかった。

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  1. 2006/05/04(木) 22:37:35|
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