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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

回想「廃材でつくる茶室」2004-2005(Ⅵ)

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バンブーハウスと引っ掛け垂木
 ツリーハウスは、裏山に生育する竹や雑木を多くの部分で建材とした。とりわけ竹を使うパーセンテージは非常に高く、ツリーハウスというよりも、バンブーハウスという愛称のほうがぴったりくるほどだ。
 ご存じのように、竹は日本の固有種ではない。桓武天皇の「呉竹を植えよ!」という詔の後、次第に植林・植樹が進み、中世以降、日本の山野や河川敷で爆発的に増殖した外来種である。現代で喩えるならば、湖やため池で繁殖し続けるブラックバスのような植物であった。なぜ、竹が愛好されるようになったのか、と言えば、それは古代日本人の江南貴族文化への憧憬が背景にある。華北は乾燥して味気ない土地柄だが、南北朝時代の南朝、すなわち江南の亜熱帯モンスーン地域では、早くから庭に竹を植えてはその美を愛で、室内家具にも竹を多用した。文字を書くのも紙ではなく、竹に書いた。これを「竹簡」という。こういう伝統は隋唐時代にも継承され、とりわけ江南の文人が、庭を愛し、竹を愛した。遣隋使や遣唐使たちも、かれらの着岸地であった浙江省の寧波で、いきなり江南の文化に接し、天台山や阿育王寺などの古刹で、その雅な庭園文化、住宅文化に接したことだろう。だから、奈良時代にも、万葉集に竹が詠われていないわけではない。しかし、それはきわめて稀な事象として描かれている。発掘調査をしても、奈良時代の遺跡からはめったに竹は出てこない。わたし自身の経験を例にとると、平城京の二条条間路の側溝を長さ100メートル以上掘りあげても、竹は一片も出土しなかった。

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 その竹が、ブラックバスのように、日本全体の植物生態を破壊し続けている。大学の裏山にしても、「縄文の森」としての風貌をみせる照葉樹と落葉広葉樹の混交林を竹が蝕んでいた。われわれは、一方でタケノコを掘りながら(夕食のおかずにし)、竹を伐採していった。おそらく数十本は伐採したであろう。数十本伐採したとしても、かれらの生命は地下に残っており、いつでもクローンを再生する力をもっている。われわれにとって数十本の竹は、ツリーハウスから茶室へ至る工程のなかで、なくてはならない建材であった。とりわけツリーハウスは、先にものべたように、バンブーハウスの容姿を呈していた。柱にはさすがに生木や雑木を使ったが、大引・梁・桁・棟木・床(簀子)などはみな裏山で伐った竹である(思い出すのは、雲南省シーサンパンナに集住するタイ族の「竹楼」であった)。また、適当な位置に枝分かれのない樹木に人工の「股」を作る場合にも竹を使った。樹幹に斜めから竹をあてがい、結びつければ、先端部分に横材の受けとなる「股」ができる。竹と竹との接合には、もちろん「男結び」を使った。床となる簀の子だけでも、いったい何ヶ所接合したのかわからないほどであった。

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 しかし、もちろん、竹だけでツリーハウスが作れたわけではない。まずは、垂木に超古代的技法を採用することにした。「引っ掛け垂木」である。これは簡単に作れる。雑木の枝打ちをする際、「股」の部分を残しておくのである。その「股」を棟木にひっかけ、枝の末口を下にむけて桁の上にわたし、先端を切りそろえる。「引っ掛け垂木」が高度になると、直材の先端にホゾ穴をあけ、その穴に長めの栓を通して鈎をつくる。こういう垂木は、東欧やチベットの周辺地域で今も使われている。今回、われわれは、その原始的な形状を復元的に採用したのであるが、こういう学術的な重要性に気づいている学生や教員はほとんどいない。青谷上寺地遺跡出土の建築部材をみるかぎり、弥生時代の垂木はもっと加工の進んだ丸材もしくは角材であって、日本でこのような原始的「引っ掛け垂木」が使われていたとすれば、それは縄文時代以前にさかのぼるはずである。 (続)

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  1. 2006/06/11(日) 01:22:42|
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