
昼に定例の学科会議が開かれたのだが、定例の広報委員会はおこなわれなかった。その時間を利用して、松江市田和山遺跡大型竪穴住居模型のチェックをした。スケールは1/10。やはり迫力がある。制作は地元のH建設。田和山の復元事業も3年目で、ずいぶん要領を得てきている。ただ、モヤ、タルキ等の木割とピッチ、越屋根の勾配、戸口のディテールなどについて微修正を依頼した。軽微ないくつかの修正で模型は完成し、復元住居の着工を迎えるであろう。なお、H建設からは「お中元」代わりとして、昨年建てた大型建物の余材を頂戴した。直径70㎝×長さ2mの栗材を7本。某大学院生が床板をぶち抜いてしまった加藤家イロリ間の根太の補強におおいに役立つことであろう。この余材を実験棟軒下に運ぶため、自宅で睡眠中のホカノに電話して大学に来てもらった。午後2時半のことである。午前中からチャックたちは、加藤家でバーベキューの片づけに奔走していたのに、うちの大学院生は通常の起床時間=午後3時を厳守していらっしゃる。せめて昼前には起きてくれないものだろうか。

午後3時からは、市役所で平成18年度第1回「史跡鳥取城附太閤ヶ平天球丸石垣修復工事に関する検討委員会」。わたし以外の委員と事務局は、午後2時から修復現場を視察しておられたのだが、委員長のわたしのみ現場視察を割愛し、一時間遅れで会議に参加した。わたしのような者でも、そこそこの外部委員会にお呼ばれしているのだが、委員長を務めているのは、この会議だけ。ところが、わたしは石垣の素人である。保存修復の理論については、一通りの知識をもっているつもりだが、城の石垣は苦手である。わたし以外の委員はといえば、城郭石垣の大家・北垣先生と鳥取城に詳しい錦織先生であり、なんでわたしが委員長なのか、訳がわからないから、今年は遠慮したいとも述べておいたのだが、またしても委員長の大役を承ってしまった。
率直な感想を述べるならば、城郭石垣の修復は、木造建築のそれに比べ、理論的にも実施の面でも進んでいない。そもそも、崩れた石垣を昔の姿に復元しようとするのが間違いだとわたしは思っている。昔の石垣に復元しようにも、根拠となる資料は少ない。お城が建っていたころの基礎としての石垣と平坦面を再現しようというのは無理な話である。復元が事実上不可能なのだから、崩れた石垣をそのまま保存すればいい。石垣をそれ以上崩れないように固めてやり、まわりに芝生を張れば、それだけで十分すばらしい整備になる。なぜ、そう断言できるかと言えば、昨年と一昨年、英国で中世城跡の整備をみてきたからだ。
日本人には、なぜああいう発想がないのだろうか。なぜ、元の形に復元したいのだろうか。いちど解体して、膨らみや歪みを補正しても、組み直してしばらくしたら、また元の変形や劣化がおきてしまうではないか。木造建築の場合、そういう変形や劣化の再発を防ぐために構造補強の処方を試行錯誤しているが、城跡石垣の修復は旧来の積み直し手法からほとんど脱皮していないようにみえる。というような「過激」な意見をもっている人物を委員長にしているわけだから、これから先、ろくなことにはならないに決まっている。
ただ、わたしにも弱みがある。石工の上月さんを尊敬しているからだ。こうして、苦手な石垣修復の委員長を務めているのも、上月さんの苦労に少しでも報いることができれば、という気持ちが心の片隅にあるからで、それ以外に理由が思い浮かばない。
会議終了後、近くのラーメン屋で上月さんと生ビールを飲んだ。餃子をつまみにして、葱ラーメンも食べた。上月さんのもとで修行している富山大学の大学院生(考古学)も一緒だった。聞けば、その学生さんはノビタと同じ町内の生まれで、5年ばかりノビタの先輩であるという。ならば、ノビタも誘わなければいけない、と思って、携帯でノビタを呼び出し、
「ニイハオ!」
と挨拶したら、ノビタは憮然として答えた。
「どちらさまでしょうか?」
- 2006/07/26(水) 22:42:42|
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