今日の赤緑戦は、0-3で完敗した。
敗因は簡単。専守防衛のスィーパーからリベロへの脱皮をはかろうとしたことだ。
この熱さで、2試合め。スィーパー専従であればこそ、30分間なんとか体力を維持できる。しかし、昨日のブログで、今日はリベロに挑戦すると宣言した。だから、ゲームが始まってまもなく、2度攻撃に参加し、敵のゴール前に駆け上がった後、全速力で自軍ゴール前に戻ってきた。この2回の往復運動で、今日のエネルギーは切れてしまった。
それに、メンバーが昨日とは違った。昨日のフリーターたち
[昼の赤緑戦には研究所の職員以外にたくさんのフリーターが集まってくる]は、スィーパーのカバーに戻ってくれたが、今日のフリーターは体力がなく、ゴール前まで戻ってこない。おまけに言うのだ。
「下がりすぎじゃないですか?」
わたしがゴール前まで下がるのでバイタルエリアを使われてしまう、というのである。どこかで聞いた論争だ。そう、先のW杯において、中田・中村はラインをあげてほしい、と要求しているのに、宮本はラインを下げたままゴール前にへばりついている。オーストラリア戦逆転負けの主因をここに求めることができよう。
しかし、草サッカー、とりわけダイレクト・シュート方式のミニ・マッチでラインを高くあげてしまうと、ゴールと最終ラインのあいだに大きなスペースがあいてしまい、二人に走り込まれたら、間違いなく1点になる。わたしがゴールに直帰するのは、敵2名にボールをもたれても、1タッチでなければシュートできないので、そのあいだゴール前で時間を稼ぎ、自軍のメンバーが戻るのを待っているのだ。しかし、今日はほんとうにだれも戻ってこなかった。
1失点目、わたし一人がゴール前で二人の敵を相手していた。にも拘わらず、そのすぐ前方にいるフリーターがカバーに戻ってこないから失点したのだ。その失点したフリーターが「ラインを下げすぎだ」というから、わたしは、
「こんなに近くにいて、なぜフォローに来ないのか?」
と逆に問いつめた(しばらくして、古環境研究室のM室長が参戦され、ストッパーのポジションに就いてくださったので、状況は改善された)。
今日は、ともかくゲーム開始早々攻撃に参加したのが響いた。ゴール前で敵のシュートをくいとめてクリアしても、そのボールがまたシューターに戻ってしまう。エネルギーが枯渇して、ボールが前に飛ばないのだ。終了5分前、前線にいる60すぎのお爺さま(Mさん)とポジションを入れ替えたが、前線にあがっても、クロスがまともにあがらない。あきらかなガス欠で、午後1時をすぎたロスタイムに一歩早く戦線離脱してしまった。

それから古巣の研究室を訪ねた。部屋は真っ暗だったが、
「ニィハオ!」
と言って部屋に入ったら、若い女の声がする。
「フー・アー・ユー?」
と2度訊ねたのだが、部屋の奥にいる女たちは、笑っているだけで返事をしない。仕方がないから、近くによって訊ねなおしたら、「バイトです」とのこと。
わたしは製図室のソファに移動し、ワイフが作ってくれていたフローズン麦茶を飲み干した。無印「茉莉花茶」のペットボトルに麦茶を入れて凍らせただけのものだが、もちろんこんな水量で発汗水分が補えるはずもなく、冷蔵庫を勝手にあけて、麦茶を氷の残ったペットボトルに注ぎ込んでは飲み、注ぎ込んでは飲みの繰り返し。そうこうしているうちに、研究室の後輩にあたるA君が埋文センターのキンタクンテを連れて帰ってきた。
「まぁ、座れ、麦茶を飲もう!」
と言って3人で雑談に興じた。アルコールは一滴も入っていないのに、体はふらふらだから、麦茶がビールのように体にしみ込み、われながら酔っぱらいのような態度と会話に終始してしまった。
それから、みずほ銀行に行って
、「放置車両」確認にともなう罰金15,000円を振り込んだ。じつは昨日、郵便局に行ったのだが、郵便局では振り込めないようになっている。まったくけしからん。どうして、警察に対する罰金の振り込みが、一部の銀行や信用金庫の指定制度になっているのか。日本でいちばん利用しやすい郵便局から振り込めないのはどうしたことか。改めて、先に解体・再編すべきは、腐った警視庁と全国の県警であり、郵便局ではなかったと痛感した。
- 2006/08/15(火) 17:00:08|
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森の倒木と梨畑の小屋 7月13日の
倭文日誌を読んでみてほしい。盆休みで鳥取に戻った岡村とタクオが加藤家住宅を訪問している。居住者のOくんは、朝からそわそわして、二人の先輩の訪問を待っていたらしい。かれが書いたブログ記事を引用すると、
「O先輩[註:岡村のこと]には居住者Oが2年生の時に大変お世話になった。この人に出会ったからこそ浅川研究室に入ることを決意したし、大工という職の虜になることができた。今の居住者OがここにいるのもO先輩のおかげである。(略) T先輩[註:タクオのこと]およびO先輩の現状を色々聴かせてもらった後、居住者Oのやりたい事などを約1時間くらい話した。そのやり取りの中で思ったのだが、やはり居住者Oは大工という職に憧れている。T先輩、O先輩の話を聴けば聴くほどその思いが膨らむ。」

加藤家の居住者O君は、2004年度後期に「大工よ、屋根の梁を高く上げよ! -廃材でつくる茶室-」プロジェクトに参加した3期生(当時2年)である。当時から澄んだ眼をした印象的な学生であった。かれが3年になって、うちのゼミを選んでくれたことを本当に嬉しく思っている。しかし、敢えて苦言を呈しておくならば、今の4年生(すなわち3期生)は1・2期生ほど鍛えられていない。実力がともなっていない。まず、調査をほとんど経験していない。調査に誘っても、集まりがよくない。先日3日続いた倉吉の調査に4年次の男子学生は一人も姿をあらわさなかった。女子学生は皆勤であったけれども、ある一名が丈の短いパンツにサンダルをひっかけてあらわれ、唖然とさせられた。
「うちのゼミもここまで落ちたか・・・」
そう思って、服装に関する注意をした。ああいう服装をみていると、調査に対する姿勢がよくわかる。あの日は一日中、カランコロンというサンダルの音が耳についてしかたなかった。やっぱり先生は女子に甘い、自分たちだったら「帰れ!」と怒鳴られて、JRに乗せられるところだと、ホカノら男子学生は不満に思っていることだろう。
1・2期生と3期生の違いがどこにあるのか、といえば、それは主体性である。1・2期生は自主的に動いた。調査も分析も設計も、放っておいても、どんどん進めていった。今は違う。わたしが尻を叩かない限り、プロジェクトは正しい方向に進まない。かりに主体性をもって仕事を進めてくれたとしても、途中で大直しが必要になるだろう。だから、とても不安になっている。今年の3つの大きなプロジェクト、すなわち加藤家の修復、尾崎家の調査と報告書作成、倉吉アーケード街の調査と修景計画をうまく片づけられるのだろうか。最終的には、全部わたしとホカノのところに尻ぬぐいがまわってくるのではないか、と。しかし、教師としては信じるしかない。3期生の奮起と大化けを信じるしかないのだ。

2004年9月30日、とうとう「廃材でつくる茶室」プロジェクトがスタートした。この日は、プロジェクト研究2&4の初日で、まずは1・2年生の自己紹介、そして岡村の紹介を教室内でおこない、続いてツリーハウスを全員で見学し、最後に「茶室」の建設予定地を視察した。1・2年生たちは、みな驚いていた。クラブハウス背面の建設予定地とされる裏山の内側には倒木が溢れている。だれがこれだけおびただしい樹木を伐り倒したのか。ひょっとすると、この仕業は環境大学開学時の開発行為と関係しているのかもしれない。だとすれば、環境を唱う大学にあるまじき自然破壊ということになるが、確信をもってそう言えるわけでもなく、そうでなければよいと祈っている。
この日までに岡村は、建設予定地の縄張りを終えていた。縄張りしたエリアの内外、あるいはまた、山裾から縄張りエリアに至るアクセス予定地にも、おびただしい倒木が転がっている。そこで、わたしはプロジェクトに参加した1・2年生に説明した。
「茶室を建設するためには、敷地の整備から始めなければならない。そのためには、まずこの倒木を森の外に出してしまう必要がある。」

その翌週にあたる10月7日から、敷地の整備が始まった。記録を読むと、1・2年生15名、3年生3名、4年生4名が「土木作業」に従事した。活気があった。女子学生は小さな倒木を次々とクラブハウスの近くまで運びだし、男子学生は大きな倒木を運びやすいサイズにノコギリで切り落としていった。3・4年生は通路や階段などのアクセス作りに励んだ。
岡村にとって、倒木運びを中心とする「敷地整備」は、時間稼ぎとしての役割をもつものでもあった。上に3期生の経験不足や主体性の乏しさを非難したが、じつは岡村も夏休みにはもやもやとした人生を送っていて、敷地の選定と縄張りこそ済ませていたけれども、茶室の具体的イメージを固められないままでいたのである。わたしは、岡村に対して、しばしば、
「準備不足だ、スタートが遅すぎる」
という批判の言葉を発していた。膨大な倒木運びに費やす時間を利用して、岡村は一刻も早く「茶室」のエスキスを煮詰めて、基本設計を固めなければならなかった。
しかし、その作業が目に見えて進んでいったわけではない。

10月16日午前11時、岡村は田園町の宿舎にあらわれた。これから二人で、奈良・京都をめざす。岡村は心傳庵の就職内定を得るため、わたしは家族の元に戻るための西行であった。ただし、佐治を経由することにした。妻の実家に届け物をするためだが、じつは義父が作った梨畑の小屋を岡村にみせたかったのである。それは梨畑のど真ん中にある出作り小屋で、昭和40年代に義父が自力で建設した。ここに寝泊まりはしない。休憩するための小屋で、屋内には土間が1畳、奥にタタミが2畳敷いてある。こういう小屋は、岡村の「茶室」設計に刺激を与えるに違いない、とわたしは睨んでいた。茶室の起源については諸説あるけれども、ひとつの源流に「草庵」があることは間違いない。鴨長明の「方丈」に代表されるように、中世の知識人たちは戦乱の世を逃れ、山里に草庵をかまえた。それは農村の民家を縮小し、内部に小粋な空間を取り込んだものであったに違いなく、だとすれば、鳥取の山村にたつ梨小屋と一脈通ずるところだってあるはずだろう。
岡村は梨小屋を夢中になって観察していた。基礎の作り方、梁のかけ方、壁の作り方、それらはプロの仕事ではないけれども、学生たちが自力で建設する「茶室」のレベルと近似するものであった。結果としてみても、この「梨小屋」と「茶室」の相関性はけっして小さいものではなかったと言える。

佐治から志戸坂峠を抜けて、高速に乗り、大和西大寺の駅で岡村を降ろした。岡村は修行中に滞在した先輩のアパートに泊めてもらうという。翌日、ヤンマーとタクオもバスで上洛。そして、18日、3人と高の原駅で合流し、
平城宮ナショナル・グラウンドに向かった。まずはサッカーである。わたしが長いあいだキャプテンを務めていた平城サイトスのホームグラウンドで、昼休みの紅白戦に参加したのだ。3人は環境大学サッカー部の主要メンバーであり、わたしはその監督を務めていた。そのとき3人は、はじめてわたしがプレーするのをみたのであった。
それから、第一次大極殿の現場事務所に移動した。注文していたヤリガンナとチョウナが完成したというので、それを受け取りにいったのである。そこで、鈴木嘉吉先生(わたしが新人時代の奈文研所長)と遭遇し、ただただ平身低頭するほかなかった。
「こんなにペコペコしている浅川さんを見たことがありませんよ。」
とまわりから冷やかされた。鈴木先生に3名を紹介したところ、こんな若者が数寄屋大工や建具師のような職人になってくれるとは、とてもありがたい、いいことだ、というお誉めの言葉を頂戴した。
大極殿の建設現場では、たくさんの宮大工が工事に携わっている。その大工集団を組織する会社の社長とも旧知だったので、岡村を宮大工として雇ってくれる可能性はないものか、直接打診してみた。その答えは、こうである。
「どんなに遅くても二十歳まで。だから高専までが、新卒として宮大工に採用する限界です。できれば高卒までの子がありがたい。大卒では遅すぎるんですわ。」(続)
[回想「廃材でつくる茶室」2004-2005(ⅩⅠ)]の続きを読む
- 2006/08/15(火) 00:40:37|
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