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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

紅い河の流れ -越南浮游(Ⅸ)

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 とうとう帰国の日とあいなった。とはいえ、今日は夕方までハノイで過ごし、ホーチミンから機中泊で関西空港に帰国するので、時間はたっぷりある。
 それにしても疲れてしまった。学生たちには「自由に行動しなさい、わたしは部屋にいるので」と指示したのだが、かれらもホテルを出る気にはならなかったようだ。チェックアウトの時間=12:00ぎりぎりまで、ホテルでねばって自由な時間を各人各様に過ごした。わたしは、ハロン湾で調査した水上集落の配置図データを整理した。まる2日かけてスケッチした野帳(A4サイズ2枚)のデータを整合させながら、A3サイズの地形コピー図に手書きで清書していったのである。その結果わかったことは単純きわまりない。
  「筏住居は地形に沿って並んでいる」
このことが図面によりはっきり見てとれる。野帳ほどの迫力はないけれども、きわめて理にかなった空間構成がそこに描き出された。ということは、わたしとチャックで作りあげた配置図は、そう大きな誤りがない、ということだろう。

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 昼食はバンコ・ハノイまで出かけた。3年前、わたしはシェムレアップ(アンコール遺跡群&トンレサップ湖)から、助教授は日本から渡越し、ハノイで合流した際、まずこのレストランに駆け込んだ。じつは、二人ともタイ料理が大好きなんだ。学生たちも、バンコ・ハノイのタイ料理には大いに満足した。疲れた体をトム・ヤン・クンが癒してくれる。今回の調査旅行で口にした料理のなかでは、フエの宮廷料理が最高、それに次ぐのが今日のタイ料理だとみな思った。

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↑ゴクリュ鼓 ↓ホアンハ鼓
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 昼食後、歩いて歴史博物館に行った。昨日の美術博物館文廟のついでに寄ったようなもので、銅鼓の展示も少なかったが、今日の歴史博物館には1階にドンソン文化の銅鼓がずらりと並んでいる。ヘーゲルⅠ式の典型とされるホアンハ鼓とゴクリュ鼓が目の前にある。まぎれもない「本物」である(はずだ。レプリカとは書いてないが、レプリカの可能性がまったくないとは言えない)。そして、両鼓の文様第7帯を注視すると、鳥舟形の屋根に覆われた高床建物=「殯(もがり)屋」 がはっきり見える。ただ、銅鼓の年代を前5世紀にまで遡らせてているところが気になった。わたしが論文を書いていた1980~90年代の常識では、ホアンハ鼓もゴクリュ鼓も雲南の前漢石寨山青銅器文化とほぼ併行する前2世紀前後の遺物(または伝世品)と理解されていた。前5世紀となれば、中国では戦国時代にあたり、たしかに雲南でもその時代の家形青銅模型(銅房子)および銅鼓も数点出土しているが、それらは、ホアンハ鼓やゴクリュ鼓よりもはるかに古めかしくみえる。

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↑歴史博物館の東隣を走るチャンクアンカイ通りと城外の町並み。↓城外の旧スクウォッター地区。
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 歴史博物館のすぐ東隣には、チャンクアンカイ通りが南北に走っている。それはハノイの環状線のような幅の広い自動車道なのだが、これを遺存地割として読み取るならば、あるいは城壁(および城濠)の痕跡ではないか、と思われる節がある。チャンクアンカイ通りの外側に紅河が迫っているからだ。紅河とチャンクアンカイ通りのあいだには、ダウンタウンと似た高密度居住区が形成されているのだが、この地区は旧市街地とは異なり、船上生活者が陸上がりしたスクォッターの進化した姿ではないか、とわたしは思っている。その理由をあげておこう。まず第1に、この居住区の位置が紅河に近い城外にあたること。第2にダウンタウンと雰囲気が似ているものの、外国人向けの施設は皆無で、タクシーがまったく居住区内道路を走っていないこと。そして、第3に居住区と接する紅河の岸辺には、数は少ないけれども、今でも家船が点々と浮かんでいることである。
 紅河の流れは、ほんとうに紅い。地形を削って河流が運ぶ泥土に多量の鉄分が含まれているからだろう。その紅い流れの水際に筏住居が点々と分布している。ドラム缶で浮かべた筏住居もあれば、船を2艘並べて床を張る筏住居もある。また、流れに逆らうように、1艘の家船が上流に向かって波を切っていった。こういう家船や筏住居が1~3艘単位で河岸に散在しつつ停泊しているのだ。

 3年前、ハノイを初めて訪問した時にも、最後は紅河の流れをみて、家船らしき船の遠景をズームで撮影した。それが2004年に刊行した報告書の表紙を飾った。あの表紙に浮かぶ船が家船か漁船か、じつのところまり自信がなかったのだが、それが家船であることを今日確認した。その点では、実りある最終日であった。かつてハノイにも、おびただしい家船が群集していたに違いない。

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↓紅河の筏住居群。↑河川敷を利用した畑と筏住居。
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  1. 2006/09/13(水) 19:01:14|
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チャック・サンジョン・タパのベトナム見聞録(四) -ハロン湾に散る

 現在、Mr.エアポートとともに英語のディズニーチャンネルを見ながら最後のホテル暮らしを謳歌している。このまま無事にいけば、明日の今頃はバスの中で帰宅後の会計仕事にうなされながら熟睡中のはずだ。
 思い返してみると、どこででも寝ていた気がする。昨日のJAZZ BARでも心地良いサックスの音色に誘われるがままに眠っていた。ハロン湾調査の行き帰りも寝ていた。シクロの上でも寝ていた。慣れない土地での仕事の疲れがそうさせるのか、はたまたベトナムの空気がそうさせるのか定かではないが、日本での熟睡とはまた違った眠りを味わった。そういえばよく働き(?)、よく食べ、よく寝たおかげで、お肌の調子がすこぶるいい。お腹も少し凹んだ気がする。オナラの香りもなぜだかアジアンティックで香ばしい。
 鏡に映る10日間伸び放題の無精髭と、くたびれた調査ベスト、使い古したベトナム語の本が時間の経過を表している。ホーチミンに降りたときの異国の空気が今はもう体に馴染んでいる。しかし、ベトナムに着いたのが昨日であるかのような不思議な気持ちをMIT危機分析センターのメンバーもテロリストも感じている。長いようで、短い10日間。月並みだがこの言葉がいちばんよく似合う10日間だった。
 もうじき最後のホテルをチェックアウトする。そういえば今ひとつ腑に落ちないことがある。駄洒落好きのJ.ケナー教授がベトナムの通貨「ドン」を使っての駄洒落を未だに一つも言ってこない。まぁ言われたところでどうってことはないのだが、ベトナム七不思議の一つに加えることにしてこの見聞録を閉じたいと思う。
 いろいろお世話になりました。(チャック)


  1. 2006/09/13(水) 10:13:49|
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「遊離尾垂木」の再発見 -Mr.エアポートの様式分析(Ⅱ)

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 今朝の目覚めは最高だった。ハロン湾での水上集落の調査も昨日で無事終わり、朝は時間を気にすることなくゆっくりと過ごすことができた。それでもチャックは5時半に目が覚めたらしい。
 今日はハロン湾からハノイに移動し、文廟を訪れた。文廟とは1070年に孔子を祀るために創建された廟で、孔子廟とも呼ばれている。造りは四合院式で、前庭の中央には大きな方池を配する。
 ベトナムに来て3日目にフエの紫禁城太和殿を訪れ、その建築を観察したが、それと同様にこの文廟もベトナムの土着様式である登り梁を用いており、また鼻隠し板を用いて軒先を覆い、大仏様との共通性を匂わせている。また、それとは別に内陣の壁は内転びをしており、古代日本の様式を思わせる。扉には藁座を用いており、禅宗様(大仏様にも用いられる)との共通性も確認できる。

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 文廟では「皿斗」によく似た部材を発見した。日本では、法隆寺に代表される白鳳様式の皿斗と大仏様の皿斗の2パターンがよく知られている。法隆寺の皿斗は、大斗の下におく皿板で、両者は分離している。一方、大仏様の皿斗は、巻斗と一体にして削り出したもので、先端が尖っている。さて、文廟であるが、皿斗のようには見えないけれども、巻斗の斗尻にそろえて薄い板状の部分を確認できる。法隆寺の皿斗ようにもみえるが、それは外側に飛びてておらず、また大仏様のように尖ってもいない。しかし、巻斗と一木にするところは大仏様との共通性を示している。

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 さらに、「遊離尾垂木」をまたしても発見した。ハノイに到着した7日の午後、民族学博物館の民家園で、シャム族の民家に「遊離尾垂木」とよく似た材を発見してブログに報告した。今日は、ベトナム族の宗教建築である文廟で、それを発見したのだ。繰り返しになるけれども、遊離尾垂木とは、大仏様建築の中備(なかぞなえ)に用いる天秤棒のような材で、軒の沈下を防ぐ役割を果たす。文廟の場合、柱間の中備ではなく、柱上登り梁の中間の位置で軒を支える。興味深いのは、それが鼻隠し板を貫き、正面側に木鼻を突き出すことだ。その上端は、鼻栓で軒桁に固定されており、組物よりも前方で納まる。シャム族の民家の材と非常によく似ている。
 この場合、シャム族からベトナム族への影響とみるのは難しい。前回も述べたように、古い時代からベトナム族の建築に「遊離尾垂木」に似た材が使われていて、それをシャム族が受容したとみなすべきように思われる。問題はベトナム族の「遊離尾垂木」や、その原型ともいえる「登り梁」が古い時代の南方中国に存在したかどうかであり、こういう視点で福建・広東・広西の漢族建築および少数民族建築を見直してみる必要があるのではないだろうか。(Mr.エアポート)

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  1. 2006/09/12(火) 23:51:09|
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天に向かう舟 -越南浮游(Ⅷ)

 というわけで、ハノイに戻り、再びミンさんのジャズ・バーでこの原稿を書いている。今夜はミンさん自身がテナーを吹いている。リズムセクションも替わった。エレキ・ベースがウッドベースに変わり、ドラムは3年前に仰天したハーフの青年が軽快なリズムを刻んでいる。
 驚いたことに、さきほどパソコンを開くと、無線ランがつながった。ハノイのホテルではネットに接続できないのに、このバーではネットも読めるし、メールの送受信もできる。

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 ハロン湾の出発は予定よりもやや遅れた。いわゆるドア・トゥ・ドア形式のミニ・バンで、あちこちのホテルに寄ってくるから、時間が安定しない。最後の乗客となったわたしたちのホテルにバンが到着した時、チェックアウトしてから1時間以上が経過し、12時40分になっていた。それでも、ドア・トゥ・ドアは便利だ。ハノイのホテルの門前にちゃんと停まってくれる。午後4時前、わたしたちは5日前に泊まったホテルに再びチェックインした。ありがたいことに、フロントにはSDINのMs.フラワーから大量の論文コピーが届いていた(大半は都市計画関係の論文であったが)。
 それから大忙し。まずは5時閉館の美術博物館にすべり込みセーフ。なぜ美術博物館なのかと言うと、銅鼓と再会したかっったからだ。トンキン・デルタで出土したドンソン文化の銅鼓(紀元前2世紀ころ)には、鼓面の第7帯に2種類の建築物が描かれている。V.ゴルーベフの解釈によれば、第7帯は葬送儀礼を表現する図像であり、舟形屋根をもつ高床建物は「殯(もがり)屋」、もう一方の蒲鉾形屋根に覆われた建物は鐘堂(音楽堂)と理解される。わたしは20代後半のころ、この「殯屋」に着目して論文を書いた。「銅鼓にみえる家」と題する論文である。

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 銅鼓に描かれた「殯屋」は棟の両端に鳥のクビがついた舟形の屋根に覆われている。それは屋根倉式の高床建物で壁は描かれていない。その屋根の内部には人が描かれている。おそらくそれは死者と、死者を祈祷する人物であろう。鳥の首をもつ舟は「鳥舟」にほかならない。霊魂や神霊を天に送り届ける乗り物である。舟は水面を水平方向に移動する交通手段だが、船首と船尾に鳥の首をつけることで、それは垂直方向に動く交通手段となる。換言するならば、鳥舟はこの世(地上)とあの世(天上)を往来する乗り物なのである。とすれば、高床の「殯屋」はいったい何を表現しているのであろうか。わたしは、これを鳥舟を宙に浮かせている状態だと解釈している。死体=霊魂をのせた鳥舟が宙に浮いている。この世とあの世の中間に存在しているのではないか。霊魂があの世にわたりきってしまった時、「殯屋」=鳥舟はこの世から見えなくなる。だから、取り壊す。「殯屋」は、死者の魂が生者たちの認識の範囲内にあるあいだだけ存在する仮設の建物なのである。どこか大嘗祭に似た祭儀である。

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 こういう習俗は、おもにインドネシアやオセアニアの島嶼域に分布している。舟に乗って長期航海し、ある島にたどり着いて定住を始める。舟に住みながら、定住できる土地を探したものだから、定住後の住居には舟の残像が色濃く残った。そして、その他界観念には、水平方向に霊魂が移動する海上他界と垂直方向に霊魂が移動する天上他界が錯綜として重層した。こういう世界観=他界観がドンソン文化の「殯屋」に凝縮して表現されている、というのがわたしの意見である。
 博物館はすぐに閉館となって、追い出された。それから、隣にある文廟(孔子廟)を訪れて、その建築に圧倒された。これについては、いま横でO君2号が様式分析を試みる文章を書いている。さらに池に浮かぶ一柱寺を訪れ、続いてホアンキエム湖の池中島にたつ玉山祠の門前まで行ったが、すでに門は閉ざされていた。

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 夕食後、ハンガイ・ストリートを流してショッピング。チャックは念願のアクセサリー・ショップで、アクセサリーのパーツを大量に仕入れた。わたしは、工芸品店で大理石に銅鼓文様を彫り込んだ壁飾りを買った。学生時代、ドンソン文化もトンキン・デルタも遠い遠い未知の世界でしかなかったが、いまはそれを売り物にした土産物店が軒を連ねる下町でジャズが聞ける時代になった。

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  1. 2006/09/12(火) 23:18:07|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅹ)

 昨日の01号のエスキスを元に、小屋伏図の紹介です。正確には、現状の屋根伏図に補強材(サスや垂木)を加えたもので、Y2号の屋根案の中空層を支える角材(土台のうえにのせる材)の位置も示したものです。これらの新材は、オレンジ色で示した箇所です。

 妻側の屋根の処理ですが、元あるサスや垂木をできる限り残してそのまま使用します。1部分で本桁まで垂木がわたらずに歯抜け状になる箇所には、新たな垂木を補填します。この垂木は、一番外側にくるサス兼垂木(新材)に垂木受けを設けて、これで垂木の上端を支えて、二番桁と本桁との3点で保持しようとしています。

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↑妻側部分の小屋伏図(クリックすると大きくなります)

 この提示案でいけば、垂木から上は平側で提示してきた屋根案でおさめることができそうだと思っていますが、どうでしょうか。(やっちゃん1号)




  1. 2006/09/12(火) 21:35:38|
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筏住居と親族集団 -越南浮游(Ⅶ)

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 目覚めたら、快晴。ベトナムの天気予報はまったくあたらない。
 今日は助教授がハノイへ移動した。深夜の便で、そのまま帰国する。フロントで別れる際、「グッバイ、フォーエヴァー」と惜別の辞を述べた。もちろん「永遠(とわ)の別れ」なんてことはありえないわけで、近々の再会を裏返した挨拶である。じっさい、16日にはAO入試、17日には編入学入試があって、教員は総スタンバイ状態に突入する。なにぶん物騒な時代だから、テロにあったり、飛行機が落ちたりする危険性がないとは言えないが、旅程が順調に進めば、助教授との再会は5日後になる。
 
 今日もまた2時間かけてHang Tien Ong村をめざした。行きの船内で、フェンさんに基本用語を教えていただいた。以下に並べてみよう。前に英語、後の[ ]にベトナム語を示す。

  ship[tau]
  boat[thuyen]
  banmboo boat[mung]
  raft[be]
  house[nha]
  boat house[thuyen nan/o tren thuyen]
  floating house[nha noi/be noi]
  acua culture[nuoi ca long be]
  fish[ca]
  cage[long]

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 村に着いて最初に行くのは、もちろんカルチュア・センター。今日はハロンの青年ユニオンが来ていて、かれらがボランティアで作った竹の筏を海に浮かべていた。
 今日は、古いタイプの筏住居を数棟連続で調査することに決めていた。ここにいう「古いタイプ」については、まず①養魚槽をもたないこと、そして②鉄板をあまり使わずに網代編みの壁や屋根を露出していることを条件として設定し、この条件を満たす住居群をさがした。結局、小学校に近接する4棟連続の筏住居を調査対象に選んだ。東側2棟の実測をO君2号、西側2棟の実測をわたしが担当することにし、昨日述べたように、助教授に代わるインタビュアーはチャックが務めた。

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↑東側からみた4棟の筏住居 ↓西側2棟の隙間
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 筏住居の平面はきわめて単純だが、築造年が古いものは結構計りづらい。わたしの担当した西端の1棟がその典型で、平面が長方形ではなく、わずかながらいびつに歪んでいて、柱筋がそろわない。居住者によると、2003年に中古の筏住居を買ったというが、その建築年代はあきらかでない。他の3棟は柱筋のそろう長方形平面の筏で、2000年以降に建築されたものである。筏住居を建てたり買ったりする以前、居住者たちは舟住まいをしていた。
 筏住居の空間構成はきわめて単純で、四面を壁で囲まれ切妻屋根に覆われた部屋チャムニャー(trong nha)が1室(まれに間仕切りがある)、その前方に吹きさらしの下屋(庇)グアニャー(cua nha)がつき、その全体を縁ゴウベー(cou be)が囲む。炊事用の練炭コンロは、下屋に置く場合と背面の縁に置く場合の両方がある。トイレは背面の縁もしくは部屋の一部を利用する。部屋の奥側の壁には、高い位置に祖先を祭る祭壇を設ける。祭壇に位牌はなく、香炉のみ置いている。死者の数だけ香炉がある。

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 この4棟の筏住居に計18人が暮らしており、かれらは兄弟姉妹を軸とする血縁集団である。東端から順に番付して、世帯構成の概要を説明してみよう。
  be noi 01(東端) : 長男の家。夫婦(長男とその妻)ともに死去。2人姉妹と2人兄弟が暮らす。  
  be noi 02 : 長女(42=01長男の妹)の家。夫婦と子ども2名(兄・妹)。
  be noi 03: 次男(39)の家。夫婦と子ども4名(兄弟2名・姉妹2名)。
  be noi 04(西端): 次女(37)の家。父母と子ども2名(姉妹)。
 この兄弟姉妹の母(80)は8人の子どもを産んだ。かれらの母は、現在、4棟連続する筏住居群の東隣に浮かぶ5棟連続の筏住居群に2名の子どもとともに住んでいる。また、対岸の筏住居群には、母の子ども2名が住んでいる。

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↑左側が調査した4棟、右側5棟の集団に「祖母」が住む。↓手前が漁船、奥の右側が竹船。奥の左側で筏住居に接しているのが、竹船を利用した移動商店。
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 4棟のbe noi(筏住居)周辺で、3艘の漁船と4艘の竹船を確認した。さらに1艘の漁船は出漁中であり、1世帯に1艘の漁船と竹船が付属していることがわかる。漁船と家船の違いはどこにあるのか、というと、居住性能ではなく、居住者に注目すべきで、漁船には女・子どもが乗っていない(一昨日のブログに掲載した4艘の船は他所から漁にきて停泊する漁船である)。男たちは漁船に乗って出漁するのだが、数日帰宅せずに漁を続ける場合もあり、それゆえ漁船にも居住性能が備わる。要するに、漁船に住むことは不可能ではない。事実、be noi 04に横づけされた漁船では、ずっと男子が眠り続けていた。一方、竹船はマイカーのような交通手段である。集落内部での移動はすべて竹船を使う。学校への子どもの送り迎えも竹船でおこなう。
 今日調査した4棟は、貧しい漁民の住まいであった。漁労のみをなりわいとし、稚魚を買って養魚槽を構える余裕はない。本心は「陸に上がりたい」と思っているが、お金も仕事も土地もないから、陸あがりできない。
 ただ、「ハロン湾は美しい」という自負をかれらは持っている。

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↑ハロン湾の調査も終わった・・・




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  1. 2006/09/11(月) 23:58:22|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅸ)

 本日の「茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録」担当は01号です。
昨日、やっちゃん2号が断面パターンを2案出しましたが、その中の2案目を取り上げて話しを進めていきたいと思います。

やっちゃん2号の案をもとに、エスキスではありますが垂木のおさまり及び、隅のおさまりを妻側断面・平側断面から考えてみました。なお、この案はやっちゃん1号さんと共に考えました。


エスキス


↑実際のエスキスになります

妻側断面に赤と青のペンで示してある材(桁)を新たに新設し、それを垂木を受ける材として機能させます。
また、個人的には隅部分の垂木を延長させ隅木にも兼用させたいのですが無理でしょうか?
(01号)

  1. 2006/09/11(月) 17:23:43|
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水上居民の寺と墓 -越南浮游(Ⅵ)

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 灯台もと暗し、とはよく言ったもので、埠頭に近いカルスト地形の山裾(=島影)に高密度のスクウォッターが形成されていることに、今日ようやく気づいた。船で近づいてみると、水際を埋め立ててコンクリートで敷地を作り、その上に住宅を建てている。地名を確認すると、ホンガイ区ベンドアン街。水上集落にみる筏住居とまったく同じ立地条件にあるので、
  「かれらは漁民ですか?」
と訊ねてみたところ、ハオさんもフェンさんも「ノー」と答えた。見れば、周辺に大型の貨物船が何艘か停泊しており、かれらは物品の運搬に従事しているという。舟運は都市域のボート・ピープルが担う典型的な職業の一つであるから、この高密度集落が水上居民の陸地定住化した姿である可能性は非常に高い。政府はいまこの集落の外側にあたる海上に高速道路を建設中だ。

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↑島影の小さな石窟寺院 ↓水上レストラン背面の養魚漕。背景の丘に漁民の墓がみえる。
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 キャプテンは、それから、いつもとは違う航路をとって船を進めた。まもなく水際のケィブに小さなテンプル(祠)を発見した。続いて、緩い傾斜の浜辺にいくつも墓が連続してあらわれた。墓地にはこういう地形が選択されるのだ。そして、まもなく、大きな水上レストランに接近し、その背後に広大な養魚漕を確認した。そして、近辺の島影に家船が点々と停泊している。海水面の水位は日に日に低くなっており、海蝕によってえぐられた島々の裾が露出しており、その岩陰が家船にとって絶好の停泊地になっている。

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 Hang Tien Ong 村に着くと、まずはいつものように、カルチュア・センターを訪ねた。少年少女たちは、今日も暖かくわれわれを迎えてくれた。チャックはまた今日も、少女たちとベトナム語の練習をしている。ここで、わたしたちは船を乗り換えた。竹編みの小舟にモーターをつけた動力船で、非常に機動力がある。こういう小型の船でなければ、接岸するのが難しい場所が多く、午前中に訪問した村の寺院(Den Cau Vang)も周辺には浅瀬が多く、クルージング船では近づけない。午後1時まで、この寺を調査した。寺の正面には扁額にあたる部分に「官皇 東海大王」と横書きしてあり、門の両脇には、向かって右に「上天降臨付人盛」、左に「神皇霊念究世間」と縦書きしてある。後者はいわゆる門聯にあたる七言だが、さらに本堂の両端にも同様の七言が縦書きされている。内部には奥の壇上に3体の塑像が祭られ、その下の龕のような横穴にも神が祭られている。その横穴の両側には五言の縦書文字がみられた。曰く、「左五官神将」「有五虎臣后」。ここにみえる「有」は「右」と同音であり、「右」の誤記であるのは間違いなかろう。本堂の外側では、海に近い真正面に小さな祠、山側の斜正面に別棟炊舎、そして後方には墓が1基置かれていた。

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 このように、水上居民の寺院は「福禄寿」を祈念する中国の民衆道教の影響を強く受けており、それが海民信仰や祖先崇拝と結びついているのはあきらかであろう。男たちは出漁する際、寺に立ち寄り、航海の安全と豊漁を祈願するという。漢字を多用する点を重視するならば、濃厚な中国化を看取できるが、水上居民はもちろんのこと、一般のベトナム人も漢字をよく知らない。この寺の各所にみえる五言、七言の句は、それらしくみえるのだけれども、どこか頼りなく、間違いが少なくないように思われた。中国に留学経験をもつわたしと中国系マレーシア人の助教授は、この点について同じ意見であった。

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 午後は、昨日と同じように二組に分かれて調査を進めた。わたしとチャックは配置図を修正した。昨日描いた配置図は地形と住居群の位置関係がずれていたので、用意してきたコピーに3色ボールペンでより正確な分布を描いていったのである。今日は曇天であったが、雨は降らなかったので、GPSはすばやく反応し、各所で座標データを得た。また、住居群と島の距離をレーザー測距器で計測した。これで、なんとか集落図が描けるであろう。

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↑実測した家船。↓家船の底にこういう竹船を据えている。竹で編む網代が水に強いのは、黒い塗り土によるが、それは馬糞・牛糞から作るのだという。
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 助教授とO君2号には、古式の家船(Thyen Nan)を調査してもらった。O君2号の実測図をみると、わたしたちが午前中に乗った竹船を船底に用いていることがわかった。船竹船上にまず床を張って中空部分を設け、その上にさらに床板を張って苫で覆う。当然のことながら、居住空間はひろくない。とくに高さが確保できないから、中では座って動くしかない。床下の中空部分は食品等の貯蔵スペースである。

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 帰途、わたしはまたしてもすやすや眠った。体調は回復していない。目覚めると、1時間半がすぎていた。まもなく船は埠頭に着いた。いつもより半時間近い帰着である。と思ったら、それは陸地に近い島であった。明日、助教授は一足先にハロン湾を離れ、ハノイ経由で帰国する。その「最後の晩餐」としてハオさんが一席設けてくださったのである。ここで海鮮料理を堪能した。店の雰囲気は、かつて頻繁に訪れた福建省のそれによく似ていた。ただし、出てくる料理はやはりベトナム的であった。どこがベトナム的かというと、ハーブ類とライス・ペーパーを愛用するところだ。たとえば、スズキ(バス)の姿煮を例にとると、そのまま食べれば美味しいと思うのだが、そのレストランでは、ライスペーパーにミント、バナナの皮のスライス、パイナップルのスライス、そしてスズキの白身をくるみ、甘辛のタレにつけて食べる。

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 食後、フェリーに乗って、ホテルに近い埠頭まで移動した。明日の調査はわたしと学生二人の3人でおこなうわけだが、助教授に代わるヒアリング担当には日々ベトナム語の学習に没頭するチャックがいいだろう、ということで全員の意見が一致した。ふふふ・・・



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  1. 2006/09/10(日) 23:57:48|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅷ)

1号に続き、他のパターンの断面も紹介します
これは、詳細で提示した野垂木が低い位置に来る案と、越屋根をつける案を組み合わせたものです。
この案をさらに二つに分けています。一つは1号案と同じく柱盤の上に束を立て、野垂木を支える案。

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二つ目は柱盤の上に角材を敷き、その上に野垂木を乗せる方法。二つ目の案は、野垂木の位置が低くなったことで柱盤との距離が狭なる為、束を立てなくても角材で野垂木を支えることができ、束より簡単で安定するのではないかと考えたものです。(2号)

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  1. 2006/09/10(日) 00:08:58|
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カイヤンに似た魚 -越南浮游(Ⅴ)

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 目覚めたら雨が降っていた。
 体調も芳しくない。そろそろ体がパンクしてきたようで、「けんびき」状態から風邪に症状が変化してきている。用意してきた薬を山のように飲んだ。
 昨夜の打ち合わせでは、港からいちばん近いLu Huang村を今日の調査対象に決めていたのだが、雨をみて考えが変わった。雨が降っていては配置図が採りにくい。とくに今回の水上集落は立地する地形が複雑で、範囲も広大だから、配置図は最大の難関だと思っていた。とっさに閃いたのは、昨日、Hang Tien Ong 村のカルチュア・センターに展示してあった集落の模型である。雨も降っていることだし、再びコミュニティ・ハウスを訪れて、まずは館内で模型の地形のみ真上から描き、それをベースマップとして配置図を作成しようと思いついた。

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 クルージング用のボートに着くと、今日はハオさんに加え、美しい女性の通訳兼ガイドさんがいた。フェンさんという。いろいろ訊いたところ、二人はハロン湾管理局のスタッフで、来年には竣工するというエコ・ミュージアム担当の上司と部下。Hang Tien Ong 村のカルチュア・センターは、エコ・ミュージアムが取り組んだ最初の大きなプロジェクトであったという。
 フェンさんの説明によると、ハロン湾は、1)景観的価値、2)地質学・地形学的価値によって、ユネスコの世界自然遺産に登録された(第1次登録は1994年、第2次は2000年)。対象面積は434k㎡で、その範囲に775の島が散在する。バッファゾーンも含めると、面積は1553k㎡、島の数は1969に増える。現在、さらに3)審美学的価値、4)歴史的・文化的価値を加えることによって「世界複合遺産」に登録する準備を進めている。
 ハロン湾に関する調査研究は、1937年まで遡る。スウェーデンの考古学者コラニによる発掘調査がその先鞭であった。以後の考古学的研究により、約25,000年前から人類とハロン湾との関わりが始まったことがあきらかになっている。また、石灰岩をベースとするハロン湾のカルスト地形は、今から5億年前に形成されたという。海面下の地形が一方では隆起し、一方では沈降して、桂林そっくりのカルスト地形の母体が生まれたのである。ちなみに、ハロンとは「天から下る龍」という意味で、漢語では「下龍」と書き、広東語でも「ハロン」と読む。先月の『越南画報』(中国向けの広報誌)では、「下龍湾漁村」という特集記事が組んであり、カルチュア・センターの少女の写真が掲載されている。

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↑建築家が提案した水上集落の将来構想 ↓フェンさんとリンさん
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 Hang Tien Ong 村のカルチュア・センターはフェンさん自身が企画したものであり、わたしと助教授はその展示内容について本格的な説明をうけた。展示は手作りで楽しく、ほんとうに感心させられたのだが、一つだけ気になったのは建築家が提案した水上集落の将来構想であった。現状とはかけ離れたモダンな設計案で、建築だけみていると悪くはないのかもしれないが、それはハロン湾の風景とはあまりにもミスマッチにみえるから、フェンさんにどう思うか尋ねたところ、彼女自身はできるだけ伝統的な水上住居のスタイルを守ってほしいと思っているとのことであった。
 二人の教員が説明をうけているあいだ、二人の学生は地形模型のスケッチと湾内寺院分布図の描き写しに精を出した。一方の学生は今日も数名の少女にインタビューして寺の名前を翻訳していた。ベトナム語から日本語への翻訳である(かれは毎日ベトナム人女性にベトナム語を習っている)。この展示施設にはたくさんの少年少女がガイドとして務めている。より正確に述べるならば、かれらは務めているのではなく、ガイドの訓練を受けているのだ。大半は水上集落の娘さんたちである。その教育のために、ユネスコはリンさんというフランス人女性をこの施設に派遣している。専攻は国際関係論だが、いまは英語と遺産管理の教師に徹している。リンさんはフランス生まれではあるけれども、父親が中国人、母親がベトナム人とフランス人のハーフで、エキゾチックな美貌の持ち主だ。その出自を聞いて、『恐怖の存在』の最初の節に出てくるベトナム系フランス人女性マリサ(波動解析装置のデータを色仕掛けで奪う環境テロリストのメンバー)を思いだした。

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 昼食は近くの筏住居に行き、水槽に泳ぐゾーという魚を買って、キャプテンに調理してもらった。英語に堪能なフェンさんも助教授も、ゾーという魚を英語に翻訳できない。それは当然のことなのだけれども、わたしに言わせれば、ゾーはトンレサップ湖(カンボジアにある東南アジア最大の淡水湖)で食べたカイヤンにそっくりであった。上からみるとナマズ、横からみるとスズキのようなひょうきんな魚で、やはり水上レストランの水槽で養殖されていた。キャプテンはこれを蒸し料理にしてくれた。白身の肉はとても美味しかった。願わくば、ライムが一切れ欲しかった。ライムの汁を垂らして食べれば、さらに旨味が引き立ったであろう。

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 午後は助教授とO君2号(Mr.エアポート)が魚を買った筏住居の実測と聞き取り、わたしとチャックは配置図の作成をうけもった。配置図の作成は、予想どおり、大変な仕事だった。これまでいろんな地域で集落の配置図を作ってきたが、これほど悪条件のところもない。まず陸地がない。島があると言えばあるのだが、浜はない。急峻な崖がそそりたつだけなので、島に降りることはできない。だから、船をゆっくり進めながら、筏住居と家船の位置を地形図に描き込んでいくしかないのだが、地形と船・筏のスケール感が違いすぎてうまくいかない。こういう事態を予想して、GPSとともに助教授愛用の小型レーザー測距器DLE 150 Laserも拝借しておいたのだが、ほとんど役に立たなかった。まず、GPSは雨天でデータが入りにくく、仮に座標データを取り込んだとしても、それはわれわれの乗るクルージング船の位置を示すにすぎないから、誤差が大きすぎる。一方、レーザー測距器のほうも、クルージング船と筏住居・家船の距離、もしくはクルージング船と島の距離をはじき出すだけだから、やはりそれほど有効なデータにはならないのである。
 それでもなんとか、Hang Tien Ong 村の水面に浮かぶ筏住居・家船を地形図に描き込んだ。主要な成果を以下にまとめておく。
 <1> 人の住む筏住居・家船の総数は126戸。
 <2> 筏住居はあわせて108棟を数える。うち養魚水槽をもつものは31棟で、東岸に偏る傾向を確認できた。最初に水槽を作った家も東岸側。
 <3> 家船の総数は17艘。うち新しいタイプの大きな家船は筏住居と混じって位置する。古典的な小型の家船は新しい世帯のための住居であることが多い。
 <4> Te(斜めマストのような材)をもつ漁船は10艘、イカ釣船は2艘、油・セメントの運搬船は2艘確認した。
 <5> 他所から漁に出ている漁船が、外海とつながる集住エリアの入口付近に5艘停泊していた。

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↑Teをもつ漁船

  1. 2006/09/09(土) 23:45:59|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅶ)

 いままでは各部分にわけて紹介してきましたが、今回はそれらをあわせた一般部(越屋根が無いところ)の梁行断面図を紹介します。

 その前に簡単ですが、加藤家住宅の現状での梁行断面図を紹介しておきます。下の図面でお分かりになると思いますが、茅をおろしてサスや垂木の上に小舞をのせ、直に波型鉄板を葺いています。雨を凌ぐのは、この波型鉄板1枚のみなので、腐食して穴があけばすぐに雨漏りします(最近、コーキング処理でこれを塞ぎました)。

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↑加藤家住宅現状断面図

 それでは、改修案の説明に移ります。軒先と棟の部分は以前、各部詳細で提示したものですので、省きます。この屋根は棟木、二番桁と本桁で支えています。棟木と二番桁までの中空層(断熱層兼煙道)での垂木の支えとして、2本の束をたて母屋桁でこれを支えています。

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↑改修案梁行断面図


 ちなみに、二番桁から上の三角形の空白地帯がロフトとして活用しようとしている部分です。(やっちゃん1号)




  1. 2006/09/09(土) 15:31:19|
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ゆらり揺られて -越南浮游(Ⅳ)

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 ベトナム生活も5日目を迎え、食事や東南アジア独特の生活臭にも慣れてきたのだが、いまだに交通状況に恐れをなしている。チャックの見聞録にも綴られているように、ベトナムは昼夜クラクションの嵐に包まれている。車線はあってないようなもので、どの車も縦横無尽に暴走し続ける。無茶な追い越しなど日常茶飯事で、タクシーやバスに乗る際、いつもハラハラさせられてきた。ハノイからハロン湾に向かう観光バス(ドアトゥドアのミニバス)に乗って出発したのだが、このバスの運転にもハラハラさせられた。C助教授はバスの後部座席で一人悲鳴を上げっぱなし。助教授が事前に観光会社に尋ねたところ、観光バスなら一般のバスほど無茶な運転をしないとのことだったのだが、観光バスでこれだけ緊張させられるのだから、一般のバスに乗るとどうなるのか。想像するだけでゾッとする。

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 ハラハラさせられた3時間の後、ハロン湾の切り立った島々が我々を迎えた。中国の桂林をも凌ぐ絶景である。昼食をとってフロントに集合すると、今日のガイドを務めてくださるハオさんが出迎えてくださった。さっそくハオさんの手配した小型のクルージング船に乗り、一路水上集落を目指した。水上の漁業集落はハロン湾全体だと15ヶ所ぐらいあるらしいが、今日は4つの村をまわった。訪れた順に村名をあげておく。

  Dau Go島 Lu Huang村
  Hua Cuong村(Diamond Fishing Village):4・5年前にできた新村。
  Dao Hang Trai島 Hang Tien Ong村
  H. Vung Gianh村

 ハロン湾の海岸から遠く、島影の入り組んだ湖水状のエリアに多くの水上住居が張り付いていた。初めてこの光景を目にするボクもチャックも驚きの声をあげた。おびただしい数の筏住居が島に近接する水面に浮かび、ひとまとまりの集落を形成している。家の前や横にイケスを設けて養魚をし、家畜をイカダに浮かべて共に生活をしている。ちなみに、養魚漕をもつ筏住居を、ハオさんは floating House 、養魚(養殖)をculture(cultivation)と英訳した。養殖=飼育は「文化」と同じ言葉であることを知り、また驚いた。観光客は世界遺産登録の前後で20万人から200万人に増え、それは漁民人口の増加を招いている。漁村人口の増加と養魚にはあきらかな相関性がみとめられ、水上居民の年収は増大し、定住性も高まった。

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↑中央に浮かぶ円筒形の容器がゴミステーション。↓移動商店(行商)。陸地から野菜・水・雑貨などを売りに来る。
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 さらに驚いたのは、学校や公民館、さらにはゴミステーションまでもが水面に浮かんでいることであった(寺院だけは島の上に建設されていた)。住居が水の上にあることを除けば、陸上で暮らしているのとほぼ変わらないように思われる。むしろごみごみとした陸地に比べ、ゆったりとした波の上でゆったりと生活している彼らが少しうらやましい。

 今日はゆったりとした波の上をただボートの上からその生活を見ただけであったが、ともかく驚嘆の連発であった。なにより海の上は気持ちがいい。じつに5時間をかけて4つの水上集落をめぐり、ボートから降りて夕食を済ませた頃には足に残っていた船の波打つ感覚が少し薄れているのが寂しく思えた。 (Mr.エアポート)


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↑Hang Tien Ong村のカルチュア・センター。↓同左。船の模型をみながら、その豊富なバリエーションについてガイドに聞き取りするチャック。
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[ゆらり揺られて -越南浮游(Ⅳ)]の続きを読む
  1. 2006/09/08(金) 23:23:28|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅵ)

 やっちゃん1号2号に引き続き、今回は01号がブログを担当させてもらいます。

 これまでに、屋根の詳細に関していくつかの案が提示されました。そして今回01号とやっちゃん1号2号とで話し合った結果、以前やっちゃん2号が提示した軒付部分をCG化してみて、軒部分の雰囲気を確認してみようということになりました。それで、01号はやっちゃん2号のCAD図面を頼りに、それをCG化しました。以下に示したものがCG化したものです。

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 このCGは軒付部分を正面から見たものになります。これで、現段階で提示されている軒付部分の雰囲気が確認できるのではないでしょうか?


 次回は、桁と垂木の接合部分に関して考えてみるつもりです。(01号)



  1. 2006/09/08(金) 01:18:58|
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「遊離尾垂木」の発見

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 ベトナム民族学博物館の民家園で、「遊離尾垂木」とそっくりの部材を発見した。シャム族の民家の軒先に使われている。
 シャムはオーストロネシア語(南島語)族に分類される民族である。オーストロネシア語族は、南太平洋からマダガスカルにかけての広い海域(というか島嶼域)に分布する言語=民族集団だが、シャムは大陸山間部に住む稀少なオーストロネシア語族として知られる。その住居形式は、すでにベトナム族(中国では「京族」という)の影響を受けて、ベトナム化あるいは中国化しているが、オモヤとは別棟のカマヤ(炊舎)をもつ土間式の住居である点は、南太平洋島嶼域の住居との親縁性を感じさせる。ただし、オモヤの構造は土蔵造に近いものであり、壁と屋根の全体を厚い土壁で覆い、その全体を鞘屋根で保護するものである。
 そのシャム族住居の鞘屋根に「遊離尾垂木」とよく似た部材が使われている。
 「遊離尾垂木」とは、平重衡の焼き討ちによって焼亡した東大寺伽藍の復興のため、俊乗坊重源が採用した「大仏様」建築の中備(なかぞなえ)として使われる部材である。中備とは、柱上組物の中間におく部材で、軒の沈下を防ぐ役割を担う。大仏様の中備は、浄土寺浄土堂にみるように「遊離尾垂木」を使うのだが、それは組物を伴わない尾垂木のことで、大仏様特有の刳形を取り除いてしまえば、ただの天秤棒にすぎない。この起源がよくわからなかった。

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 ところが、今日みたシャムの民家では、柱と柱の間に短い「遊離尾垂木」状の材が何本か並んでいる。表側に出てそれをみると、刳形をつけた先端部分が木鼻のように突き出している。大仏様の場合、この出が尾垂木の半分近くになる。シャム民家では、木鼻状にわずかに飛び出るにすぎないが、それにしても、両者は非常によく似た構造的役割を担い、形状も近似しているではないか。こうなると、当然のことながら、気になるのは柱上の構造だが、シャム民家の場合、ベトナムの民家・町家・宮殿・寺院と同じく、繋梁状の登り梁を柱上に直接のせている。よくみると、その下屋部分の登り梁の形状と「遊離尾垂木」状の材形がよく似ている。「遊離尾垂木」状の材は登り梁を縮小したように見えるのである。
 この軒の構造は、もちろんシャムの民家に固有な形式というわけではなく、ベトナム民家の古式の姿を映し出している可能性があり、ひいては中国南部の古い木構造とも関係するものかもしれない。とすれば、大仏様の謎の部材とされてきた「遊離尾垂木」は、重源の創作ではなく、やはり福建以南の古い建築様式と系譜関係をもつ可能性を指摘できるであろう。どなたかコメントを頂戴できれば嬉しい限りである。

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  1. 2006/09/07(木) 22:47:39|
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チャック・サンジョン・タパのベトナム見聞録(参) ―Good Music in Vietnam―

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 今日は不覚にも2回泣きそうになった。1回目はハノイの下町で。2回目はJAZZ BARでだ。ハノイの下町には「生」の生臭い空気の塊が至るところにある。自分はその空気に触れるたびに全身に震えが走り、自我の奥の深いところを刺激された。涙が出ると言うよりは「嗚咽」に近いのではないだろうか。その空気に圧倒され、昼食を取る頃には頭の中がいっぱいいっぱいになっていた。
 2回目。遠い異国の地で日本に残してきた人のことを想いながら聴くJAZZは、ベトナムの熱で乾ききった体に染みわたる。沁み過ぎた思いが頬を伝う涙となって溢れ出てきそうだ・・・なんてかっこつけたブログ原稿を書いている横で、某大学某教授がパチンコの「パ」の字をとったりつけたりして遊んでいる。まもなく3回目の涙が出そうである。 (チャック)

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  1. 2006/09/07(木) 22:26:42|
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エスディンとは何か -越南浮游(Ⅲ)

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 予定より早く、10時半にはハノイのホテルに着いて、さっそくC助教授の部屋(隣の部屋だった)に顔をだして話をした。フエでも予定どおり事は運ばなかったが、ハノイでもいろいろあったらしい。しかし、助教授のアレンジメントはやはり見事で、ハロン湾に向かう大型バスも、ホテルも、水上集落に向かう船もすべて予約済みであった。
 11時過ぎから旧市街地=ダウンタウンに出て、助教授が調査したというストリートをみてまわり、町家を改造したCafe 57で昼食をとった。町家と言っても、外観は欧風意匠の植民地時代建築なのだが、中に入ると、ベトナム特有の登り梁式の木構造が露出しており、この表と裏のギャップに倉吉の看板建築を思い出した。

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↑カフェ57(昼食) ↓カフェ69(夕食)
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 午後はまず受け入れ機関のSDIN(Sustainabule Development Institute for North Vietnam)を表敬訪問するべく、その親機関であるベトナム社会科学院VASSを訪問した。ベトナム社会科学院は新しい大きなビルの中に30の異なる研究所を抱えている。じつは今日、SDINの所長が不在のため、SDINと最も関係の深いDRCC(Development Research & Consultancy Centre)のグェン所長が対応してくださった。通訳には、C助教授とMs.フラワーがあたった。

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 SDINもDRCCも多くの社会科学者を抱えているが、同じ社会科学院に属する文化研究所、経済研究所、歴史研究所、民族学博物館など他の研究機関とは異なり、調査研究に基づく計画的な「発展」を組織のミッションとしている。環境大学のコンセプトにも直結する21世紀的な研究機関であるが、日本にはまだこういう国立の研究機関は存在しない。助教授は、フランスの影響ではないか、と言う。ちなみに、DRCCはベトナム全国を統括的に研究する組織であるのに対し、SDINはベトナム北部を対象とする組織で、ほかに中部を対象とするSDIC、南部を対象とするSDISがある。その略称の読み方は、SDINが「エスディン」、SDICが「エスディック」、SDISが「エスディス」。なかなか、かっこいいでしょ!?

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↑バーナールの集会所 ↓エデのロングハウス
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 それから、ベトナム民族博物館を訪問した。お目当ては、ベトナム各地から移築された少数民族の民家である。とりわけ『世界住居誌』の表紙にもなったバーナールの集会所には恐れ入った。白川郷の合掌造と同じぐらい棟が高く、合掌造よりも傾斜がきつい屋根をもつ民家である。床下から太い柱を立ち上げているが、床上では、それをあっさり切り捨て、その上部にサスを組んで筋交で固めている。
 このほかギアライの墓では、男女マッパの木彫に学生たちが過剰に反応し、エデのロングハウスでは乳房彫刻付き階段の乳房に一人がぶらさがって、大変だった。ともかく今日のチャックは、睡眠不足と下町の臭いにやられてへなへなで、エロくなりさがるしか自分を表現することができなかったのかもしれない。

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↑「何センチかな?」(ギアライの墓) ↓ロングハウスの梯子
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 この勢いを借りて、夕食は「69」というレストランに入った。やはり古い町家を改装した旧市街地のレストランである。そして、いまは「ミンズ・ジャズクラブ」でジャズのライブを聴きながら、この原稿を書いている。ミンさんという伝説的なサキソフォニストが経営するジャズクラブで、3年前に訪れたときにはミンさん自身がプレーしていたが、今日は現役バリバリのコンボが熱演し、ミンさんは最前列の席に構えて友人たちと語らい、コンボの演奏を聴いている。3年前の演奏を思い出すと、曲ごとにメンバーが入れ替わり、最初は若手中心で下手くそだったのが、最後にはものすごくスピーディで迫力のある演奏になり、とりわけハーフと思われる若者のドラミングに唸ってしまった。
 今日のコンボはクインテット(TS+AS+EP+EB+DR)で、メンバーは完全に固定されており、演奏のレベルも十分高い。さきほどまで4ビートのスタンダードを演奏していたが、どうやら最後になるらしい演奏中の曲は8ビートに変わった。こうなると、ジャズというよりもブルース・ロックで、クラプトンが加われば抜群だろうなと思いながら、かれらの熱演を聴いている。


  1. 2006/09/07(木) 21:45:35|
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おはようございます

 おはようございます、みなさん。いま早朝6時すぎです。

 無事フエの旅程を終え、8時半のフライトでハノイに向かいます。
 ハノイではC助教授が待っています。今日は助教授の案内で、SDINを表敬訪問し、民族学博物館で少数民族の移築民家を見学する予定。その後、4人の日本人は謎の失踪を遂げるのであった・・・・??


 P.S. 昨夜は中秋の名月。街角のあちこちで、紙銭を焼き、お供えをしてました。





  1. 2006/09/07(木) 08:23:07|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅴ)

 O1号案に続き「棟部分および越屋根」の詳細のエスキスの提示です。

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 この案では越屋根をできるだけ目立たなくするよう考えました。以前の加藤家に越屋根があったのであれば、はっきりそうと分かる物を作ればいいかもしれませんが、もし無かったのであれば、なるべく越屋根のない状態に近づける必要があるのではないかと考えました。
 平側に設けようとするとどうしても煙抜きの分だけ高さが必要になってくるので、目立ってしまいます。その為、妻側に煙抜きを設けました。
 また、棟木から直接束を立てるのではなく、越屋根の柱の上に梁を架け、その上から束を立てています。
 ローコストでの改修を行うのであれば、Y2号案にある越屋根無しで、現在ある煙抜きを利用した排気方法の方が良いかもしれません。そちらの方でもまた考えてみたいと思います。(2号)




  1. 2006/09/07(木) 01:18:35|
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チャック・サンジョン・タパのベトナム見聞録(弐) ―鳴り止まないクラクション―

 トンネルを抜けるとそこはクラクションの嵐でどこに行こうと嵐はやまない。ドンバー川のほとりに着いた僕らを迎えたのもまた、クラクションであった。

 30メートルテープの端を持ち歩くこと10分。二人の子供が近づいてきた。手にはゴムのチューブが握られていた。どうやら今日の遊び道具らしい。妙なかっこうでうろついている自分を物珍しそうに見つめる眼はとても純真で、吸い込まれそうだった。こっちから微笑みかけると口を大きく開いて笑い返してくれた。日本ではこうはいかない。同じ人間なのに一体全体何が違うのであろうか?しばらくその子達とじゃれあうこと数分。場所の移動を命じられたので動くと、彼らもついてきた。船の写真を撮っていると自分達のことも撮れという。カメラを向けると「楽しい」を体現するような顔でポーズを取っている。映した画像を見せると大喜びしている。青い空の下、太陽よりまぶしい顔を曇らせたのはまたしてもクラクションであった。(チャック)

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  1. 2006/09/06(水) 23:30:29|
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Mr.エアポートの様式分析 -フエの紫禁城太和殿

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 ベトナムの朝陽は強烈に熱い。すがすがしい朝を迎えるためには、早朝5時に目が覚めるチャックのようにならなければならないだろう。今日はドンバー川に並ぶ家船の配置や艘数を午前中に調査し、午後からフエの旧市街地にある紫禁城(グェン朝王宮)を見学した。
 紫禁城に到着し、まず我々を迎えたのはコ字形平面をもつ闕(ケツ)すなわち王宮門である。この王宮門は門道を覆う基台(石畳敷)上の重層式中国風の建物で、上に登ると、正面にたつ太和殿の規模を確認することができる。

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 フエ紫禁城の太和殿にはいろいろな様式が入り交じっている。全体の構造形式は、昨日報告したティエンムー寺の仏堂と同じく、裳階付きの双堂で、内陣と外陣の屋根境には大きく派手な樋がついている。日本では、平安時代以降、双堂を大きな野小屋で覆い、一棟に納めるようになるが、中国や東南アジアでは、野小屋は発明されず、双堂のまま現在に至っている。
 また、柱には礎盤が用いられ、禅宗様との共通性を示している。一方、軒には大仏様の要素も色濃い。非常に長い二手先の挿肘木は大仏様のそれとよく似ているが、手先方向の長さがあまりにも突出していて、二手の挿肘木を支えきることができず、石柱で下から支えている。さらに、通肘木にも似た軒桁を用いており、組物が横に広がるのを抑えている。また、垂木先を彫物のされた鼻隠し板で覆っている。
 しかし、太和殿の内部に目を移すと、小屋組には土着的な登り梁構造を採用していることがわかった。この様式はベトナムの民家でも数多くみられ、王宮と民家の屋根構造が同じであるところに驚かされた。

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↑太和殿の長すぎる挿肘木 ↓ドンバー橋付近の町家の内部架構。登り梁の構造は太和殿と変わらない。
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 さて、日本中世の「大仏様」とは、俊乗坊重源が入宋三度の経験を活かして、中国福建方面の技術を大々的に取り入れた建築様式とされるが、中国にモデルとなる寺院は存在しないとされる。じっさいに福建省を訪問して北宋~明清の寺院建築を訪れると、大仏様の要素と禅宗様の要素が入り交じっており、純然たる大仏様は存在しない。

 以上から考えるに、フエ紫禁城太和殿は、中国福建・広東方面の寺院建築技術をひろく導入しがらも、ベトナムの土着様式を構造の基本部分に残す混合様式であることが分かるだろう。東南アジアにやってきて、日本の建築様式を考え直せたことは幸運であった。 (Mr.エアポート)

  1. 2006/09/06(水) 23:05:52|
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筏の川屋 -越南浮游(Ⅱ)

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 今日もまた猛烈にはたらいた。
 まず9時、フエ大学のグェン講師(息子さんの方)が英語教師のMs.タンを連れてきた。昨日、家船屋内の調査とインタビューは終えてしまっていたので、今日はおもに集落の配置に関する外まわりの調査をすると決めていたから、正直言って通訳は必要ないので、その旨お知らせし、夕方来られるグェン教授(お父様の方)との通訳をお願いすることにした。
 その後、ただちにドンバー橋をめざした。もちろん今日もシクロに乗って、かれらの居住地に連れていってもらったのである。今日は、昨日実測したグェンさん(運転手)の家船を含むVan do(家船集住ブロック)の全体性を把握するため、西端から東端までの距離を巻尺およびGPSでおさえながら、そこに並ぶ家船・筏住居をスケッチし、わかる範囲で船の番号を確認した。船・筏住居が護岸に並ぶ距離は約380m、船・筏住居の総数は98艘であった。このブロックの西端地点から約20m離れて次のVan do(家船集住ブロック)が始まり、その全長も略測しようと試みたのだが、途中である住人から「2km続いているよ」と言われて、やる気を失った。実際は数百メートルと思われるが、その先の対岸には同様のVan do(家船集住ブロック)がさらに続いている。

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↑30メートルテープを引っ張るチャックに人気集中。子どもたちは楽しくお手伝いしていた。↓Van do(家船集住ブロック)の西端に樹影をひろげるガジュマルの大木。木陰には必ず露店が陣取り、樹幹には小さな祠を祭る。
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 家船には「PH-020」などの記号を記した金属板が舳先の板に貼り付けてある。このPHは地名の略号であることをグェン教授(お父様の方)から教えられた。PHはPhu Hiepの略で、今回調査した家船・筏住居の95%以上を占めたが、なかにはPB(Phu Binh)やVD(Vy Da)も含まれていた。外来者の船と思われる。興味深いことに、筏住居の場合、この船番号を表示しないものが圧倒的に多い。おそらく、船を放棄し、あるいは船を改造して筏住居を建設した段階で、船番号を取っ払ってしまうのであろう。
 昼食をどうしようかと悩んでいたところ、朝の辛い湯麺のせいか、お腹が痛くなり、トイレを探した。しかし、近くにはホテルもレストランも公衆便所もない。仕方ないから、船に住むご婦人に身振りで便意を示したところ、ある筏住居を紹介してくださった。その筏住居の一番奥の水際に水洗便所が設けてあった。もちろん、水洗とは川の流れのことである。厠(かわや)の語源は「川屋」であるから、今日のわたしは本家本元の厠で用を足したことになる。エチケットを追記しておくと、排便後、桶で川の水を汲み便器を洗い流さなければならない。

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↑シクロと筏住居の群れ。↓筏住居の川屋。
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 グェン教授(お父様の方)によると、ベトナム政府はこういう汚染を懸念して、船住まいの人びとを陸地に住まわせたいという意向をもっているのだが、アパートを建設する経済力もない、という矛盾を抱えているのだという。川に便や汚水を流すのは、もちろん「汚染」の一種ではあるけれども、都市の開発行為が環境を悪化させる可能性だって十分あるわけで、高層アパートが家船に優るとは必ずしも言えないだろう。
 午後1時半まで炎天下の調査を続け、ほとんど脱水症状に陥った。ドンバーから紫禁城(グェン朝王宮)まで歩いて行こうと決めていたのだが、もうエネルギーは残っておらず、再びシクロを利用することにした。今日のドライバーはロンさん。やはりドンバー橋の近くで船に住んでいる。ロンさんに
  「王宮の近くで、美味しいレストランがあれば紹介してください。」
と訊いてみた。かれは「ガーデン・レストランがいいですよ」と言って、わたしたちを瀟洒な庭のあるレストランに連れていった。
 それは「Tinh Gia Vien」というレストランであった。今後、フエを訪れるかもしれない読者は、この名前を覚えておいたほうがいい。宮廷料理で知られる有数のレストランで、たしかに風雅な味覚に我を忘れてしまった。セットは一人10ドル、12ドル、15ドルとあって、わたしたちはいちばん安い10ドルの料理を注文した。歴史のある古都の宮廷料理は、どこで食べても淡麗な味がする。複雑な味なのだが、あっさりしていて、気づかぬうちに食は進む。たっぷり2時間かけてフルコースを堪能した。
 それから紫禁城に行った。暑くて熱くて、宮廷料理とともに喉に流し込んだタイのタイガー・ビールはまたたくまに蒸気となって失せてしまった。

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[筏の川屋 -越南浮游(Ⅱ)]の続きを読む
  1. 2006/09/06(水) 21:56:43|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅳ)

 1巡りしまして再び、やっちゃん1号です。今回は、O君1号と同じく、棟のディテールです。0君1号が提示しているディテールは、越屋根を持つ案ですが、これから紹介する提示案は、越屋根を持たない単純な案です。

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↑越屋根を設けない案(クリックすると拡大されます)

 この案は、新たに越屋根といった煙だしを設けずにいます。なぜならば、加藤家住宅は元から入母屋造の屋根です。なので、本来、妻側にある三角の煙だし窓を有効につかおうというものです。ただ、改修するにあたり、屋根裏にロフトを設けようとしています。そのため、ロフトに煙をまわさないよう、煙道として化粧材となる斜めの屋根板と野地板との中空層をつかうよう意図しています(さらに、断熱層としての機能も期待しています)。

 個人的にこの案は、中空層と煙だし窓をうまく利用できるかが勝負どころかなと、思います。(やっちゃん1号)


  1. 2006/09/06(水) 19:58:21|
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チャック・サンジョン・タパのベトナム見聞録(壱) ―シクロに揺られて―

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 開いた口が塞がらないのはもう一昔前のことで、今は夢中でシャッターを切る時代である。その時代に生まれた私が口を塞ぐ事ができなかったのは生まれて21年の中で2回だけ。1回目は虫歯になった小学3年の夏。そして2回目は今日。このベトナムという異国の地で、である。

 初めて乗るシクロは乳母車のような感触を僕らに与えるが、その移動は僕らにジェットコースター並の恐怖を与える。車やバス、自転車にバイクは基本的に右側通行なのだが、それらはないに等しくそれぞれが行きたい方向に縦横無尽に道路を走り回っている。クラクションを鳴らすことになんら抵抗のないベトナムの人々は、邪魔な車やバイクに遭遇すると日本では考えられないほどクラクションを鳴らし、指示器もあってないようなものである。彼らは余程な事がない限り乗り物を止めようとはせず、我先にと先を急ぐ。
 道路がそうなんだから歩道もごった返しているのかといえばそうではない。歩道にはシクロの上で寝ながら客引きをする男性や、出店があるくらいで、しつこい客引きを除けばなかなか快適な歩道である。

 僕らは1人1台、計3台で調査場所とホテルを往復した。その間何度命を捨てたことか。車やバイクが走る中をすり抜け進むシクロは悪びれもせず道路の真ん中を走り、交差点では斜め横断。日本では考えられないことがベトナムでは当たり前に行われている。そろそろカルチャーショックから脱出し、落ち着いて調査したいものである。(チャック)
 
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↑対抗車線に乗り入れる恐怖・・・



  1. 2006/09/05(火) 23:45:50|
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舟に住みシクロを漕ぐ -越南浮游(Ⅰ)

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 いよいよ調査がはじまった。
 朝食後、フエ大学建築系のグェン講師の携帯に電話した。昨夜は通じなかったが、今朝はあっさり通じた。しかし、英語が通じない。わたしの英語はひどいものだが、上には上がいるもので、どうにもこうにも埒があかない。ともかく、午前11時にホテルに来ていただくことを約束して、3人は街に出た。
 門前で、声をかけられた。シクロ(3輪自転車タクシー)の運転手たちだ。いつでもどこでも、かれらは声をかけてくる。ぽん引きとシクロ運転手は限りなく同義に近い。いつもならば、相手にせず、さっさと立ち去るのだが、今朝は違った。思い切って話しかけてみることにした。
 シクロの運転手は、船住まいしているに違いないという予感がしたからである。
 その直感はずばり的中した。わたしと同年で、誠実そうな相貌をしたグェンという姓の運転手は、英語が結構通じる。さきほど電話で話した大学の先生に比べても、ずっと聞き取りやすい。
  「船に住んでいるんじゃないですか?」
  「そうさ」
  「あなたの家に行きたいんだけど、無理かな?」
  「いや、いいよ。」
  「でも、午前中は来客があってね、午後からでいいかい?」
  「あぁ、いいとも。ここで待っているよ・・・」

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 それから、わたしたちは近くの埠頭にでかけた。香河(ソン・フォン)クルーズのためのドラゴンボートがいっぱい並んでいるのだが、もちろん来客を待つ身なので、船に乗るわけにはいかない。
 ここでGPSをデジカメに装着し、撮影を試行した。今回訪越した3名は、いずれもこの機器の扱いに慣れていない。チャックもO君2号もマニュアルをみながら、必死で操作するのだが、GPSに東経・北緯は表示されても、それがデジカメの画面に映りこまないのである。わずか1枚、座標の写し込みに成功したのだけれども、あとは何枚撮影しても、GPSのデータはデジカメに転送されなかった。
 じつは、日本でもこういうケースがしばしば発生したことを、わたしは知っている。こういう不具合が生じても、ちょっとした操作でデータが転送されるようになり、わが研究室ではすでに1200件の建造物の位置データをおさえているのである。しかるに、フエではそのデータが写真画面に移らない。こういう事態を想定して、ホカノには機器の扱いを細かく伝授するよう指示しておいたのだが、はたして危惧は現実のものとなった。ホテルに戻って、さっそく大番頭に国際電話し、詰問したところ、
  「それはケーブルの接触が悪いとしかいいようがありません・・・・」
 まぁ、GPSそのものは動いているのだから、調査地の座標をおさえることはできる。それに、ある日突然、データが画面に転送されるかもしれない。だから、GPS付デジカメを使用し続けることにした。

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 午前11時、フエ大学のグェン先生(建築系講師)がご父君(同大学人類学系教授)をつれてあらわれた。もともとSDINは、お父様のほうのグェン先生に連絡をとっていたのだが、お父様のほうはロシア語の世代で英語が話せない。その通訳として、息子さんを帯同されてきたのである。しかし、やはり英語がうまく通じない。結局、大学の英語の先生を通訳として紹介していただくことになったのだが、今日は時間があわず、3人単独で動くことにした。

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↑香河の家船集落 ↓環境テロリストに対峙するジョン・ケナー(in ドラゴンボート)
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 昼ごはんの時間が近づいていた。しかし、時間がおしているので、今度こそ香河のクルージングをしよう、ということになって、昼食付き2時間のクルーズを頼んだ。ドラゴン・ボートはすぐに動きだしたが、マダムはドンバー市場に買い出しに行き、そのあいだ船は香河に浮かぶ家船の大集落をぐるぐるまわってくれた。4年前の2月にも同じ経験をしたのだが、今回もまた香河水上集落(VAN)のど迫力に圧倒された。
 それから、ティエンムー寺まで川を遡った。以前ほど上流に家船をみない。ただ土砂運搬の船が目立つぐらいだ。ティエンムー寺は八角七層の密檐式磚塔(1601年創建の慈悲塔)で知られる古刹。奥のダイフン寺は修理中であった。例のごとく、内陣と礼堂を双堂式に樋で連結するタイプの仏堂で、仮設の塀で囲まれていたが、勝手にどんどん中に入って写真を撮った(二人の学生はおろおろしてなかなか入って来なかった)。職人さんたちはニコニコ笑って何も言わないが、しばらくして、官僚風のYシャツを着た男があらわれ、「出て行け」という身振りを示した。だから、塀の外に出ていった。

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 ティエンムー寺の畔の船上で昼食をとり、一路フエの市街地に帰っていった。シクロ運転手のグェンさんは門前で待ちかまえていた。3時過ぎから、3人はシクロ・タクシーに乗り、グェンさんの住むトンバー橋のたもとにやってきた。紫禁城の外濠にあたるトンバー川にはおびただしい数の家船と筏住居が列をなして集中している。グェンさんと奥さんは典型的な家船に住んでいた。グェンさんはトゥンアン・ビーチの漁民だったが、1985年にフエに来て、船住まいを始めた。船は両親が1000ドルで買ってくれた。奥さんと結婚したのは17年前。子どもは息子と娘の二人がいる。ほかにも二人の子どもがいたが、死んでしまったという。生活は貧しい。いつもなら、ふっかけられた値段を必ず下げさせるのだが、その生活ぶりをみて、値切るのはやめようと思った。わたしたちの調査謝金が、すこしでも生活の足しになってくれればと思う。
 調査の分担は、わたしが聞き取り、O君2号が実測、チャックは屋根伏図(配置図)の作成である。2時間足らずのあいだに、ほぼ調査を終えたが、明日もトンバー川に来て、ここに集中する家船と筏住居の総数を把握しようということになった。

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↑対岸からみた家船群。ドンバー橋のたもと、橋脚に接する右側の船がグェン家。↓グェン家の隣の家船。
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 夕食は、昨晩と同じ「トロピカル・ガーデン」に足を運んだ。『地球の歩き方』にも載っている有名な料理店で、ホテルから歩いて5分ばかり。今日はベトナム風の鍋をつついた。夕食でO君2号がビールを飲まないのには驚いた。わたしは、いつもの通り、333ビールをロックでのんだ。氷の入ったビールは、東南アジアの常識である。

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↑シクロに乗ってドンバー川をめざす。シクロとはcycleのことである。↓グェンさんはホテルと契約している運転手(IDカードをもっている)。ホテル門前での記念撮影。
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  1. 2006/09/05(火) 23:36:38|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅲ)

 昨日の2号さんに引き続き今日は01号がエスキス案を提示させてもらいます。やっちゃん1号2号さんは軒付部分を担当されていましたが、01号は「棟部分および越屋根」の詳細をやっています。

それで、早速ですが↓がエスキスとなります

棟部分エスキス

 
 プロジェクト研究1・3の成果により、現在、加藤家住宅内には仮組みの囲炉裏があります。その囲炉裏がある部屋の天井部分には煙抜きが存在しているのですが、現段階では、屋根裏部分に上がってきた煙が外へ抜け出すのは難しい状況になっています。そこで、今回のエスキスでは越屋根を含む屋根を考えてみました。この越屋根は以前、先生がお描きになったエスキスを参考にし、自分なりにまとめたものです。01号がイメージした越屋根は、屋根全体に乗る形となっています。しかし、この案だとどうしても棟木部分の束が長くなってしまうので、貫を通して補強材としています。なお、越屋根の葺き材は鉄板であり、その下に防水シートを敷き雨漏り対策としています。


 そしてこれが、上記のエスキスをCAD化した詳細図面です↓

CAD化


(部材の細かな寸法に関してはまだ決定していませんので、これから詰めていきます)

 この他にも、まだまだ案を出していきたいと思います(01号)

  1. 2006/09/05(火) 05:48:36|
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Mr.エアポートのテロリズム

 早朝、お世話になった教授の奥さんに別れを告げ、関西国際空港に向け出発!! 途中、「南海そば」のきざみうどんを5分でたいらげ、舌鼓を打ちながらラピートβ(空港行き快速電車)に乗り込んだ。
 いつ見ても、レンゾ・ピアノの設計した関西国際空港のデザインには圧倒させられる。その圧力にチャックもボクも物珍しそうに辺りを見まわしていると、教授から
 「あんまりキョロキョロするなよ、田舎者っぽいゾ」
と注意を受けた。だって田舎者だもん!!

 無事、関空を飛び立ちホーチミンに到着。意味のわからない言葉が辺りを飛び交う中、ホーチミン空港の喫茶店で教授の一発芸が披露され、ウエイトレスの女性達に大うけ!! さすがに両端がとがった爪楊枝は痛いらしい。この場でそのようなことをするとは…御見それいたしました。

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 それにしても空港のゲートをくぐるときの金属探知機は面倒でいやらしいものだ。フエに到着するまでの全ての探知機にボクは反応した。身に付けた金属物を外しているにもかかわらずだ!! その為、上半身タンクトップ一枚にされ、ゲートを再度くぐらされたのだが、何ともなかった。おかげで検査係の女性には笑われるし、教授には「環境テロリスト」扱いをされ、冷やかされるたりと大変だった。絶対にあれには何か仕掛けがある、みなさんご注意を。

 それでは、ベトナムの水上民族の調査頑張ってきます。(O2号)


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↑ハノイからフエに飛ぶベトナム航空便はプロペラ機。プロペラ機は抜群の安定感があるけれども、飛行時間は長かった。




  1. 2006/09/04(月) 23:52:11|
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トチ葺き探検隊出動!! Vol.1

 加藤家住宅主屋の屋根となる「茅葺き風杉板トチ葺き鉄板被覆屋根」の設計を、現在、我が研究室で進めている。それで今回、「トチ葺き探検隊」なるものを結成し、鳥取県に存在するトチ葺き屋根をもつ建物を観察しようというこころみがなされた。その主要メンバーは”やっちゃん1号&2号”、”O1号(居住者 O)”である。 みな、デジカメ・コンベックス・筆記用具・メモ帳(スケッチ用)を持ち、いざ出動した。

 今回、我われが訪れた建築は、鳥取市長谷にある”藤森神社”と同川原町の”樋口神社”である。樋口神社は、以前先生とやっちゃん1号が訪れた場所でもある。 
 まず最初に探検した藤森神社は、本で読んだとおりの典型的なトチ葺きの構造をしていて、その上に銅版が覆われている屋根であった。ここでは、軒先のスケッチおよび撮影をおこなった。

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 次に訪れたのは樋口神社である。
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 前回、先生とやっちゃん1号が訪れた時は一人の若い職人さんが作業されていたらしいが、今回は二人の職人さんが作業されていた(ちなみに、その内の一人は前回と同じ方であり一級技能士の資格を取得された職人さんである)。その方に我々がおこなっているプロジェクトの内容(主に屋根の詳細設計)に関して簡単にお話し、それに対する意見を伺った。 職人さんは、「やろうとしている事(屋根の詳細)は非常にカッコいいんじゃないか!!でも、もしかしたら費用が大きくなるかもしれないな」とおっしゃった。
 それから、職人さんの承諾を得た上で、安養寺同様、軒先のスケッチ(詳細観察)と写真撮影をおこなった。 
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 01号(居住者0)は今日の探検が非常に楽しかった。うまく表現できないのだが、藤森神社と樋口神社の詳細をスケッチしたり、それを加藤家の屋根に当てはめてイメージしてみたり・・・。探検に参加して本当によかったと思っている。次回も必ず参加するぞ!!(01号)

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  1. 2006/09/04(月) 22:52:26|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅱ)

 昨日に続き、トチ葺風屋根の軒付部の新たなエスキスの提案をします。この案は、野垂木の位置を低くしたもので、軒が一段のものと、実際に木羽を積み二重軒付としているものの2種類があります。

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↑軒のエスキス1

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↑軒のエスキス2

 トチ葺の神社等の保存修理工事報告書を見てみると、野垂木が木羽の上に乗って板を押さえる構造より、木羽の最上段板を野垂木の上に打ちつけ押さえる形となっている物が多かったこの案では1号案と比べ野垂木の位置が異なり、低くなっています。
 二重軒付の案は先日訪ねた島根県の日御碕神社の門を参考に考えました。下軒付の最上段板が下軒付の裏板と同じ厚さで、上軒付の裏板を兼ねており、その上に木羽が積んであるという形でした。二重にするため、軒が一段の場合、下軒付の上部に乗る二枚の板は無くしました。二重軒付にする場合は、軒が一段の物より野垂木が太くなり、下軒付最上段板と上軒付最上段板を両方固定する形になっています。いずれも上段に当たる部分に防水シートを敷き、鉄板で被う形です。

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↑日御碕神社の門の軒

 CADで描いた図は、福島県の「飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」にあったトチ葺の軒先部の寸法入り断面と、今日訪ねた河原町の樋口神社で実測した軒先の部材寸法を基に寸法を入れました。全体の厚さは、一段の方が約470mm。二重軒付が約520mmになります。

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↑軒詳細1

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↑軒詳細2

 他の報告書を見たなかで、木羽は台形のような形ではなく、平らな板の物もありました。実際樋口神社も平らな板だそうです。平らな物なら板を加工する手間も少なくなり、かいものを挟んで積む方法ではなく、鉄釘で打ちつける方法が使えるので、コストの削減につながるのではないかと思いました。(2号)


  1. 2006/09/04(月) 18:24:07|
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行ってきまぁす

 サウジ戦をみながら、ソファでうとうと眠っていたら、二人の少年が起きてきた。サウジ戦0-1。やっぱり最強チームとは言えませんね。
 では、関空にむけて出発します。
 いずれまた、どこかでブログを一挙掲載するので、あとは大番頭さん、できるだけたくさんブログ記事をあげてください。おかしいのよね、屋根の(Ⅱ)がもう出てなきゃおかしいんだけど・・・

  1. 2006/09/04(月) 07:06:45|
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茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(Ⅰ)

 現在、やっちゃん1・2号、O1号の3名で、加藤家住宅主屋の屋根となる茅葺き風杉板トチ葺き鉄板被覆屋根を先生の描かれたエスキスを基にして設計を担当しています。
esukisu01.jpg

↑↓トチ葺風屋根のエスキス(クリックすると大きくなります)
esukisu02.jpg


 この設計の手法ですが、軒先部、棟部、垂木と桁の接地部という具合にブロック化しています。そして、ブロックごとでいくつか設計案を提示していき、そのなかから良い意匠を取り出します。最終的には、オプションを選択していくかのように、各ブロックからの意匠をあわせてひとつの屋根を設計するようにしています。

 今回は、やっちゃん1号が提示した軒先部の意匠を紹介します。この提示案は、小口部分が2段軒付のようにみえる意匠です。1段目となる部分である垂木から木片5枚を重ね葺きする部分までは、従来通りのトチ葺の手法を倣っています。このトチ葺部分から上が2段目になります。この2段目部分は、トチ葺部分の上端から棟木にむかって野垂木をわたします。そして、この野垂木の上に小舞をのせて野地板(縦板)を葺き、この野地板の上に防水シートを張り、鉄板を葺く意匠としています。
katoh_nokisakiplan.jpg

↑提示した軒先の意匠(クリックすると大きくなります)

 ちなみに、この提示案は、まだ各部材の寸法を設定していないため、これから寸法の確定作業を詰めていきます。(やっちゃん1号)


  1. 2006/09/03(日) 13:40:05|
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