修復工事も10日目に入り、加藤家住宅の姿も変化してきています。本日は、大学でゼミがあったので、午前中のみの記録となりますが、以下の工程で工事が進められました。
1)柱A21~G21間の土台修理
→継手の手法を金輪継から腰掛蟻継へ
2)柱C21~E21の微調整
前日まで、柱A21~G21間の土台は金輪継の手法で継手されていたのですが、構造的面から考えると、水平方向の継手は腰掛蟻継(こしかけありつぎ)の方が好ましいという理由で継手が変更になりました。ちなみに、この継手は柱A21~G21間の土台と柱F21~F23間の土台との繋ぎとしても使われています。
また、土台修理と並行して行われたのが根継された柱C21~E21の微調整です。その最中、職人さんが柱E21を改めて調べてみると、材の芯が朽ちているということが分かりました。この柱には根継が施される前から、込栓用の穴が開いていたのですが、どうやらその穴から白蟻が入ったみたいです。芯が朽ちた柱E21は新材に差し替えることになりました。

↑腰掛蟻継の手法が用いられた(柱A21~G21間)の土台 ↓朽ちた柱E21

上記の他に、今回大きく変更になった箇所があります。柱B13及び、柱B13~D13間の
差鴨居が朽ちているということを昨日報告しましたが、先生と大工さんさんたちの協議により、差鴨居を補強するための修復方針が決まりました。
①柱B13を差し替えます(この時、柱B13と双子柱になっている半柱に沿うようL字形に加工し、全体の断面が長方形になるようにします。)
②柱B13~D13間の差鴨居は朽ちている部分を切断し、根継を施します(根継により、鴨居上部に設けてある土壁は一度剥がしますが、また塗り直します。)
③柱B13~D13間の鴨居の下に新たな横材を通します。
④柱B13~D13の間に新たな柱を一本建て、柱B13とともに荷重を受けます(なお、新たに立つ柱の下には土台が差し込まれる予定)。これで、構造は安定します。
最後に、今日(2006年10月31日)まで根継や差し替えなどの工事がおこなわれた箇所を記入した図面をUPします(赤で塗られた部分は、新しく差し替えられた土台を示しています。また、緑で塗られた部分の柱が根継されたことを示し、青で塗られた柱はまるごと差し替えられたことを示しています。)
- 2006/10/31(火) 21:30:31|
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田和山の大型竪穴住居の施工は順調に進んでいるようだ。昨日までに、
越屋根まで建築が進み、垂木も一部かけ始めたとのこと。側窓について質問が届いている。
仮組検査におけるわたしの指摘にしたがって、少し小さくした。間口70cm、高さ70cm。茅を葺くと、開口部の高さは30cmほどになる。一昨年に復元した土屋根住居の側窓では開口部の高さは15cmほどであったから、まず妥当な寸法ではないだろうか。これでよいと思う。こういう窓の庇屋根は勾配が緩くなる。現状で12~13°だというが、これほど緩いと茅の上に杉皮を被せなければならないかもしれない。また、窓は下から2段目の母屋の上に築いている。内部からは背伸びしないと窓に手が届かない。
さて、こういう側窓が縄文~弥生の竪穴にあったのかどうか。じつは、あったという保証はまったくない。弥生の土器絵画にもまったく描かれていない。しかし、わたしは大抵の復元住居に側窓をつける。これはメインテナンス上の意義が大きい。側窓を一つつけるだけで、竪穴住居内部の通風と採光は一変する。通気性がよくなって湿気が抜け、内部が明るくなるのである。また、場合によっては、火災時の抜け道ともなるかもしれない。竪穴住居で火災が発生して、入口側が炎で覆われても側窓によじ登れば外に逃げられる。いわば二方向避難の手段になりうる開口部なのである。

これとおなじ問題を、いま加藤家の屋根設計でも抱えている。加藤家はすでに登録文化財だから、外観の大幅は変更はみとめられないが、わたしは背面の屋根に二つの小さな側窓(天窓というべきか)を設けようと考えている。一つはロフトの上、もう一つは土間の上である。目的は竪穴住居と変わらない。さすがに二方向避難の手段にはならないだろうが、屋根の側窓に採光と通風を期待している。ほんとうは屋根に背面にソーラーパネルをくっつけて、屋内の電気をすべて自然エネルギーでまかないたかったのだが、パネル1枚設置するのに300万円もかかるというので諦めた。しかし、自然エネルギーは極力屋内にとりこみたい。風と光である。
加藤家には地域産材に包まれたロフトができあがるが、屋根に側窓がないと、昼でも灯りをつけないと生活できないし、換気も悪くなる。土間も同じだ。薄暗い土間に光を採りこみ、換気の効率をあげるには、どうしても背面の屋根に側窓が必要だとわたしは思う。土間におくカマドの炊煙や蒸気を、この側窓が外へ運んでくれるはずだ。
登録文化財には、もちろん、こういう生活のための「現状変更」を許容する柔軟性がある。文化財的価値をまもるだけでなく、住み心地のよい住居としての再生をもめざすのは当然のことであろう。
- 2006/10/31(火) 21:28:22|
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鳥取環境大学の学園祭(環謝祭)も終わり、新たな一週間がスタートしました。修復工事9日目は、柱l13の根継作業(尻挟み継)が行われ、その後、柱K13~l13間、柱l13~l14間に新たな土台が導入されました(ちなみに柱K13~l13間、柱l13~l14間の土台の仕口は腰掛蟻継の手法を用いています)。また、その他にも柱G21、G19、H19、I19、K19のレベル調整、柱C21の添柱立てなどの作業がおこなわれました。(平面図に関しては、加藤家住宅のブログ「
倭人日誌」10月29日に集成しています)。

↑柱l13根継(尻挟み継)完了 ↓(柱K13~l13間)、(柱l13~l14間)の土台導入

ここ連日、柱のレベル調整がおこなわれてきましたが、レベルは柱筋Gの鴨居を基準にしています。また、曳き家さんの話によると、多少の微調整はあるものの、一通りのレベル調整は終了したそうです。その結果、目視すると敷居のレベルが一定なので見栄えがよくなっています。
柱C21へ添柱を立てるために材を加工したいのですが、その最中にある事実があきらかになりました。柱C21上に載っている梁の木口を確認したところ、その一部が朽ちていました。居住者01号の個人的見解なのですが、梁が朽ちた主因は雨ではないでしょうか? 妻側を北面(外)から確認すると、隅木・垂木を切断した跡が残っています。妻側の軒先は当初は今以上に長く、雨の被害を防ぐことができたけれども、軒先を短くしてしまったせいで、雨の被害を受けるようになったのではないかと思うのです。この問題を解消するためにも、添柱や、階段室設置用の柱を建てることは非常に重要なポイントになりそうです。職人さんも、添柱を建てれば大丈夫だろうとおっしゃていました。

↑柱C21上の桁(木口) ↓隅木・垂木

最後に、柱B13~D13のあいだに新しい柱を立てた方が良いのではないか、とういう内容を加藤家住宅修復工事録(8日目)でUPし、先生からご意見を頂きました。そして本日、その内容を池田住研の社長さんに伝えました。その後、問題となる箇所をさらに調べていくと、柱B13~D13間に用いられている差鴨居が朽ちているということが判明しました(腐朽の範囲は柱B13の内法から西方向へ約300mmまでです)。また、それと同様に柱B13も朽ちており、機能していませんでした。
これらを修復するためには、柱B13~D13の間に新たな柱を立てた後、壁を塗りなおすのが一番かもしれません。しかし、それでは現状の姿が大幅に変わってしまいます。そこで、現状の差物は残し、その下に新たな平ものを通した上で、それを新材の柱で受けさせるという修復案が出されました。

↑修復案について検討する池田住研の社長さんと職人さん
- 2006/10/30(月) 23:17:59|
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1992年の春から夏にかけての4ヶ月間、北京にいた。日本学術振興会の特別研究員として、「中国早期建築の民族考古学的研究」に取り組んでいたのだが、実際はひまだった。受け入れ機関の中国社会科学院考古研究所の図書室に通って「内部資料」をあさるぐらいしかやることがない。ところが、その図書室が開いているのは午前2時間半、午後2時間半だけだった。
中国人は11時半になると、自転車に乗って自宅に帰り、自宅で昼食をとってからシエスタ(昼寝)し、職場に戻ってくる。午後2時に仕事が再開する。この2時間半の昼休憩時間に居場所がない。長安大街の人民飯店というホテルにまで戻るのもばかばかしいし、研究所の対面にある華僑大厦やホリデイ・インで昼食をとると、ものすごく貴くつく。だいたい王府井(ワンフーチン)の大衆食堂でラーメンを食べるのだが、ものの5分でたいらげてしまうので、あとはどうして時間をつぶしたらいいのか困ってしまう。昼寝をする場所もない。
自然に研究所から足が遠のいた。
それにしても、のんびりした時間をすごしていた。帰国すれば、こんなに緩やかな時の流れに身をおくことは一生ないだろう。そう思いながら、毎日、北京の時間を堪能していた。
楽しみはテレビのスポーツ観戦しかなかった。この年は
バルセロナ・オリンピックが開催され、たしか水泳の岩崎恭子と柔道の吉田秀彦が金メダルをとったのだが、日本勢の出来は惨憺たるものだった。よく覚えているのは、マラソン男子で銀メダルに輝いた森田が八頭校出身だったことである。
ところで、オリンピックの年はワールドカップの中間年だから、ヨーロッパ選手権が開催される。ヨーロッパ選手権はワールドカップよりもはるかにおもしろい。なぜなら、日本やチュニジアのような弱小国が出場しないからだ。ヨーロッパの強豪16ヶ国(92年までは8ヶ国)がいきなり予選から激突する。当然のことながら、どれもこれも凄い試合ばかりになる。
と、偉そうなことを言ってはみたが、わたしは92年の北京ではじめてヨーロッパ選手権をみた。今でこそヨーロッパ選手権は「ユーロ」という愛称とともに、日本でもよく知られるようになり、WOWOWが全試合を放映してくれるが、Jリーグ開幕前の日本で、ヨーロッパ選手権が生放送されるなどということはありえなかった。
ところが同じころ、中国ではヨーロッパ選手権が地上波で放映されていた。この国の人民は、サッカーを深く愛している。レベルの高いサッカーを観戦することを好んでいる。深夜に放送されるユーロの生中継をみて翌日は睡眠不足。話題はサッカーのことばかり。国民全体がそういう生活を送っている。そういえば、当時から、地上波でセリエAの試合も放送していた。
「おまえも球迷(チウミイ)だね」
とよく言われたものだ。「球迷」とは「サッカー狂い」ということである。「球」とはボールのことだから、あらゆる球技の総称かに思えるが、否、そうではない。ボールとはサッカーボールのことであり、球技とはサッカーのことなのである、中国においては。
中国人はオリンピックで大量の金メダルをとることに誇りを感じているが、サッカーが弱く、オリンピックにもワールドカップにも稀にしか出場できないことに劣等感を覚えている。しかも、後者が前者を上回っていると言って、おそらく間違いない。この年の夏、北京工人体育場で開かれたダイナスティ・カップで、中国はホームであるにも拘わらず、日本に0-2で完敗を喫した。わたしはスタジアムで大喜びしていたが、中国人は敗北を恥じて、中国代表チームにブーイングを浴びせ続けた。しかし、
2004アジア杯のように、その鬱憤の矛先を日本代表チームに向けるようなことはなかった。6万の大観衆は強い日本代表に驚き、日本代表に拍手を送ってくれた。
オフト監督就任後の日本は強かった。システムは4-4-2。GK松永、2ストッパーは井原と柱谷、右SB堀池、左SB勝矢(都波は負傷中)、中盤はボランチが森保と吉田、攻撃がラモス(福田)と北沢、2トップがカズと高木(中山)。後に「ドーハの悲劇」を体験するイレブンの初陣が、北京のダイナスティカップであった。わたしは、この時代の日本代表がいちばん個性的で、魅力あふれるチームであったと今も確信している。
ヨーロッパ選手権の優勝候補はオランダであった。なかでもボランチのフランク・ライカールト(現バルセロナ監督)は絶好調。ライカールトはワールドカップになると、いつも調子を崩してファンを落胆させたが、ミランやアヤックスやユーロでの仕事は瞠目すべきものであり、もともとボランチ好きのわたしにとって、当時、これ以上お気に入りの選手はいなかった。92年のユーロでは、まさに大会MVPに匹敵する大活躍。守備的な選手であるにも拘わらず、毎試合のように点をとって勝利に貢献した。フリットよりも、ファン・バステンよりもライカールトが輝いた大会であった。グループリーグでは
因縁のドイツと再戦、3-1で圧勝し、90年W杯の仇をとった。良いサッカーをするチームが勝利するのを見るのは本当に幸せなことだ。
しかし、優勝したのはデンマークだった。ブライアン・ラウドルップの蛇行する快足ドリブルには驚かされた。だれもラウドルップをとめられない。準決勝でオランダと対戦し、2-2で引き分けたのだが、PK戦(5-4)で勝利し、そのままとんだダークホースがユーロ92を制してしまったのである。
なぜ、「とんだダークホース」などという表現を使うのか、と言えば、デンマークは補欠でこの大会に出場したからだ。出場資格をもっていたのは、ユーゴスラビアであった。もちろんキャプテンは
ドラガン・ストイコビッチ。91年のトヨタ・カップを制したレッドスター・ベオグラードの選手がほぼまるまる代表チームを構成するそのチームの強さは、オランダ代表をも上回っていた可能性がある。
このヨーロッパ最強とも讃えられたユーゴスラビア代表の監督がイビチャ・オシムであった。90年のワールドカップでは、準々決勝でマラドーナのアルゼンチンにPK戦で敗れたものの、サッカーそのものの質ではアルゼンチンを凌駕し、背番号10のエース対決もストイコビッチに軍配を上げる評論家が多かった。実際、90年のイタリア大会をつまらなくしたのはアルゼンチンだった。攻め手といえば、
マラドーナからカニーヒャへのスルーパスしかない南米のチームは、守備的な戦術と汚いファウルで決勝まで勝ち進んでしまった。決勝トーナメントの1回戦でブラジルが下馬評どおり、アルゼンチンを粉砕していてくれたなら、つまり無数にあった得点チャンスを2回だけモノにしていてくれたなら、ブラジル対ユーゴ、ブラジル対イタリア、ユーゴ対イタリア、イタリア対ドイツなどの名勝負がみられたものを、サッカーファンの夢を老衰したマラドーナが打ち砕いてしまった。イタリアW杯のマラドーナはすでに美しさを失っていた。
ワールドカップが終わって、オシムは代表監督の契約を更新するばかりか、パルチザン・ベオグラードというチームの監督にも就任する。日本で言えば、代表監督と千葉の監督を兼務するようなものだ。
レッドスターとパルチザンは、ともにベオグラードを本拠地とするチームで、喩えるならACミランとインテル・ミラノのような関係にあるライバルチームである。いや、この比喩はよくない。ミランとインテルはともに大勢のスター選手を抱えるビッグクラブだが、ユーゴにあっては、たしかにレッドスターは名門中の名門で、大勢の代表選手を抱えていたけれども、もとは人民軍のクラブであったパルチザンはメンバーにおいてやや見劣りがする。オシムはいつでも、そういうスター選手の少ないチーム、あるいはあまり強くないチームの監督につきたがる。
レッドスターとパルチザンの戦う試合は、当然のことながら、べオグラードのダービーマッチであり、町中がヒートアップする。オシムが監督に着任した90-91年のシーズン、リーグ戦ではレッドスターが首位を走っていたが、両者のダービーマッチの戦績をみるとパルチザンが1勝3分で勝ち越している。当時、欧州最強との評価が高かったACミランでさえ、レッドスターとのホーム&アウェー戦で勝ち越すのは至難の技だと恐れていた強豪チームに、監督就任1年目で勝ち越しているのである。理由はいくつもあるだろう。まず、オシムがパルチザンを強いチームにしたことは間違いない。他の試合とは違って、パルチザンの選手が目の色を変えて闘争心を剥きだしにするからかもしれない。しかし、『オシムの言葉』の著者、木村元彦氏が指摘しているように、レッドスターの選手たちがオシムの影に怯えて萎縮してしまったことが、なにより大きかったにちがいない。オシムはパルチザンの監督であると同時に、あしかけ5年も代表監督の座を務めていて、国内主要選手の特徴をすべて掌握しており、逆にレッドスターの代表選手たちは、オシムの凄みをよく知っている。自分たちの欠点をオシムがすべて洗い出し、いったいどんな手を使ってくるのか。そういう心理戦で、すでにレッドスターは敗れていたのであろう。
オシムの代表チームは連戦連勝を続けていた。レッドスターからマルセイユを経てベローナに移籍していたストイコビッチこそ怪我で不調をかこっていたが、ほかにもどれだけ凄い選手がいたのか、名前をあげればきりがない。サビチェビッチ、パンチェフ、プロシネツキ、ミハイロビッチ、ミヤトビッチ、ボバン、シューケル、ヤルニ、ボクシッチ・・・・。オシムという監督はこんなメンバーを率いて欧州選手権の予選を戦っていたのである。はっきり言って、デンマークが敵うはずはない。
しかし、運命は代表の崩壊に向けて加速していく。91年の6月にはクロアチアとスロベニアが独立宣言し、10月になるとボスニア・ヘルツェゴビナもこれに続く。そして、92年3月27日、ついにボスニアで戦争が始まった。以下は、『オシムの言葉』からの抜粋引用である。
4月4日、束の間の休日を故郷のサラエボで過ごしたオシムは高校3年生の息子を連れてベオグラードに戻るべく空港に到着した。空港は、セルビア系の住民でごったがえしており、オシムに不吉な予感を感じさせた。オシムは妻に対しても「ベオグラードに行こう」と誘ったのだが、妻はそれを断った。その2日後、「サラエボ包囲戦」が始まり、以後2年半のあいだ、夫婦は顔をあわせることがなかった。
5月21日、オシム率いるパルチザンはユーゴ杯の決勝でレッドスターを破り、優勝。その後の記者会見の発言。
「これでおしまいだ・・・わたしのサラエボが戦争にあるのに、サッカーなどやっていられない」
それはパルチザンと代表双方の監督を辞任する会見であった。
「辞任とは私が取り得る最終手段だ。わたしはユーロに行くことはない。・・・それが私がサラエボに対してできる唯一のこと。・・・私はサラエボの人間だ。サラエボで今、何がおこっているか、皆さんご存知だろう」
オシムを失ったユーゴ代表チームは、それでも28日、ユーロが開催されるスウェーデンに向けて飛び立った。しかし、ストックホルム空港に到着した代表チームは、強制帰国を命じられる。国連のユーゴ制裁を受け入れたFIFAとUEFAは、すべての国際試合からユーゴ代表を締め出すことを決定したのである。
『誇り -ドラガン・ストイコビッチの軌跡』によれば、ストックホルム空港のユーゴ代表チームに対する扱いは常識を超えてひどいものであったという。その状況に長時間直面したストイコビッチは、気持ちがわるくなってトイレに駆け込み、二度嘔吐している。(続)
- 2006/10/30(月) 05:11:38|
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ご存知のように、加藤家住宅は、つい1週間前から改修工事が始まり、予想を超えるペースで、ジャッキアップによる柱の立て起こし工事がおこなわれています。
さて、茅葺き風鉄板葺き屋根の基本設計は10月初旬にできていましたが、いままでに現状と改修後の立面図と断面図を掲載していませんでした。そのため、今回はこれらを紹介します。

↑修復前断面図 ↓修復後断面図


↑修復前正面図 ↓修復後正面図

改修後の屋根は茅の厚みを再現しているため、現状よりもひとまわり大きくなっています。また、イロリを復元した関係で、その直上に越屋根を設けました。越屋根については、近隣に所在する木下家住宅(河原町布袋、県指定文化財)に残っており、同じ18世紀の建築と推定される加藤家住宅の屋根にもかつてはついていたと思われます。全体として、屋根がどっしりとした印象を受けますが、茅の上にトタンを被せていたとしたら、こういう外観になっていたはずです。その点では、古い姿に少しだけ近づいたと言えるかもしれません。(やっちゃん1号)
- 2006/10/29(日) 18:39:05|
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先週の
IH鍋に続き、今週は炊飯器を買うというので、別の電気店についていくことになった。その電気店の3階に100均ショップがあり、わたしは妻子から離れて一人3階に上がり、ボールペンを買いあさった。なぜかと言うと、わたしはいつでもどこでもペンを探しまくっているからだ。とくにひどいのが教授室。電話がかかってきてメモをとろうとしてもペンがない。会議にもっていことうしても、やはりまともな筆記具がみあたらない。昨日まではあったはずのボールペンやシャープペンが、必ずどこかに消えてしまっている。使ったら使ったきりで、どこにおいたか覚えていないのだ。
そんな苦況にしょっちゅう遭遇するので、身のまわりに大量の筆記具をひそませておく必要がある。奈良自宅の1階と2階、田園町宿舎の1階と2階、そして教授室。あちこちに予備のボールペンをおいておかないと、ほんとうに筆記具がまったくみあたらない状態に陥ってしまうのである。だから、100円で10本の黒いボールペンほか2色ボールペン、3色ボールペン、シャープペンなどをドカドカ買った。なんでも100円だと思うと、ほんとうに気楽に買い物かごにいれてしまう。100均の罠にまんまとはまってしまった。レジに行って決算したら、請求は1890円なり。阿呆としかいいようがない。
まったくヘルプレスだ、救いようがない、と自己嫌悪にさいなまれつつ、レジで領収書を切ってもらい、その領収書にフルネームを署名してくれた沙也夏さんという店員は綺麗なひとだったな、きっと若い奥さんなんだろうな、なんて馬鹿な妄想を覚えながら、店内を通って帰ろうとしていたのだが、今度はCDを見つけてしまった。100均ショップなのに、CDは200円の値札がついている。これは違法行為ではないのか。あれっ、結構ジャズのアルバムが並んでいる。「永遠のジャズピアニスト」なるシリーズは悪くないぞ。セロニアス・モンクとバド・パウエルか。なんたって1週間前、
再結成イーグルスの安売りライブCDをみつけたばかりに、made in ChinaのCDラジカセまでも買ってしまったわけだが、CDが1枚きりというのは情けない。したがって、100均ショップにおいて200円のCDを2枚買うのも致し方なかろう、・・・トホホ。
というわけで、今日はモンクを聞きながらブログを書いている。

それから一路、海住山寺をめざした。昨日(28日)から11月5日まで文化財特別公開「国宝五重塔開扉」だというので、あの急峻な山道を
ワゴンRで駆け上がっていった。
ここは恭仁(くに)の都である。天平十二年(740)、聖武天皇は
平城京を捨てて恭仁京へ遷都する詔を発した。翌年正月、天皇はこの地で群臣の朝賀をうけるが、まもなく都は難波(なにわ)から紫香楽(しがらき)へと変転したあげく、5年後、平城に還都(かんと)してしまう。そういう儚い運命をもつ都を一望できる海住山の中腹にこの寺は境内を構えている。
創建は恭仁京遷都をさかのぼる天平七年(735)と伝える。東大寺大仏造立工事の平安を祈願し、聖武天皇は良弁(ろうべん)僧正に命じてこの山に堂宇を建立させ、十一面観世音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけた。しかし保延三年(1137)、火災により境内は灰燼に帰し、寺観のことごとくを失った。
これを復興したのは、笠置寺に寓していた解脱上人であった。その解脱僧は貞慶(じょうけい)と云い、承元二年(1208)、観音寺の廃墟に居を遷して草庵をいとなみ、補陀洛山海住山寺と改名した。 貞慶は藤原貴族の息子であったが、幼くして興福寺に入り、海住山寺に寓居後も興福寺の山内に常喜院を設けて律学の道場とした。ここから西大寺の叡尊や唐招提寺の覚盛など、鎌倉時代の南都仏教を担う高僧が輩出された。
その鎌倉時代の遺構が境内に2棟残っている。文殊堂(重文、1312年建立)と五重塔(国宝、1214年建立)である。五重塔は貞慶の弟子にあたる慈心上人覚真が、建保二年に貞慶の一周忌供養に建立したもので、屋外にある五重塔(国指定物件)では室生寺五重塔に次いで2番目に小さい。また、
裳階(もこし)をもつ五重塔は法隆寺と海住山寺だけということにもなっている。ただし、海住山寺五重塔の裳階は、昭和38年(1962)の修理後に復元されたものである。縁に上って裳階の部材を眺めると、柱だけでなく、梁にも垂木にも肘木にも面取されていて、
平等院鳳凰堂の裳階を思い出させるけれども、この小さな塔の裳階はそういう類例を参考にして復元されたものなのである。

↑面取材で構成される裳階の部材 ↓二手先組物

「尾垂木をともなう二手先(ふたてさき)」。こういう比較的珍しい組物をもつ点でも、この塔はよく知られている。鎌倉時代の二手先である。日本古代の仏教建築に二手先の遺構は存在しない。東大寺法華堂に出組があって、他の大きな仏堂や塔はほとんどすべてが
三手先(みてさき)になっている。これは三手先がたんなる軒の飾りではなく、構造的にトラスのような役割を果たしていることと無縁ではなかろう、というのが近年の理解である。ただ、その盲点をつくかのような図像表現が西安に残っている。慈恩寺大雁塔マグサ石に線刻された唐代の仏堂図には、二手先の組物が鮮明に描かれているのである。これを
平城宮第一次大極殿院の閤門の復元で応用したことがあるのだが、三手先で綺麗におさまる軒の隅が二手先ではこんがらがって、大変複雑になることがあきらかになった。しかし、あれはおもしろい実験であった。その成果を、どこか地方の国分寺の復元で勝手に使われてしまって、著作権侵害だとわめいたら、こんどは足下で事件が勃発した。平城宮内では、新参者の建築技師が勝手に閤門を二重門から平屋の門に替えてしまって、同時に、わたしたちが苦労して完成させた二手先の軒を放棄してしまったのである。あのとき古参のメンバーは一同呆れかえり、いくら修理現場で鍛えても、平城宮も知らなければ、都城も知らず、古代という時代の建築と出土遺構との関係も知らないで、よくもあれだけ嘘を描き並べられるものだと嘆息しながら、しかし復元とは所詮絵空事なんだから好きにさせればよいかと諦観しつつ、わたしは研究所を去っていった。
好んで去っていったのだから、もちろん文句を言える筋合いのものではない。ただ、この時期、職場は体制の変革期であった。新しいトップが前代の業績や手法を否定し、自分の好きなことをしようとするのだが、その決定プロセスが民主的でないため、所員の不満は募り、文化庁の担当官さえ新しいトップのやり方を是認しなかった。それは、いま身のまわりでおきている騒動とどこか似ている。
人びとに惜しまれつつトップの座を辞することは難しい。それは、また明日、『オシムの言葉』について触れる際に述べようと思っている。

↑↓本坊前庭の池のまわりに、
「せんりょう」と「まんりょう」が植えてあった。どちらがどちらなのか、わかりますか?
- 2006/10/29(日) 03:19:26|
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修復工事も8日目を迎え、加藤家住宅も徐々に健全な姿へ戻りつつあります。そんな中、本日は以下の工程で工事が進められました。
1)柱l13~l14間の壁はがし
2)柱l13~l14間、柱K13~l13間の土台取り外し
3)新「女中部屋」の解体
4)柱B13、D13、C15、B12、C12のレベル調整
5)妻壁の柱に添柱を導入
柱l13~l14間、柱K13~l13間土台を差し替えるため、最初に柱l13~l14間、柱K13~l13間の壁をはがす作業をおこない、その後、土台を取り外しました。どちらの土台も朽ちていて、使いものにはなりません。土台差し替えとともに、柱l13も根継されることになりました。今回、柱l13で用いられる予定の継手は尻鋏み継(しっぱさみつぎ)という手法です。尻挟み継は、金輪継とよく似ています。その違いは、両端の目地を側面にみせるかみせないかというもので、その他の部分は金輪継と同じです(尻挟み継は目地を側面にみせません)。

↑柱l13根継風景 ↓柱l13で用いる尻挟み継用の新材(栗)

かつて加藤家の女中さんが使っていたとされる「女中部屋」ですが、これは比較的新しい時代に土間に付加されたものでして、その新「女中部屋」を解体しました。これは一種の当初復原です。今後、この空間に何を作るのかどうか、あるいは当初のまま土間として残すのかどうか、わたしには分かりませんが、加藤家住宅の価値を害さないものになってほしいと思います。

↑解体された女中部屋
昨日に引き続き、曳き家さんによってレベル調整もおこなわれました。その詳細に関しては
「加藤家修復記(Ⅵ)-柱のレベル調整」を参照して下さい。レベル調整の最中、職人さんが「この柱と柱(柱B13、C13)の間に、新たな柱を立てた方がいいぞ」とおっしゃいました。前期の調査で分かったように、柱B13~C13の間には以前柱が建っていたと思われる形跡も残っています。

↑柱の形跡(礎石が残り、敷居跡が確認できる)
曳き家さんがレベル調整をおこなっている間、大工さんは外で柱G21用の添柱を造っていました。現在、妻側の柱は上に乗っている梁・桁の太さに比べ細いものが使われており、構造的に考えても危険な状態にあります。その太い梁や桁を支えるため、添え柱を建て、さらにその新材に貫を通し建物の軸部構造を強化させるという補強をおこなおうとしています。また、写真を確認してもらうと分かるのですが、これまでの修復工事の結果、柱の傾斜・沈下が少しずつ解消されています。
次回の工事も添柱の導入作業や柱筋lラインの根継および、部材差し替え作業になると思います。(01号)

↑土間側妻壁の添柱(D21:中央の柱)
- 2006/10/28(土) 20:56:36|
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松江市文化財課から
田和山の大型竪穴住居復元の現状写真が送られてきた。上の写真は一昨日の建設風景。サスを渡して、棟木をあげようとする直前の工程である。今日までには越屋根まで上がっているはずである。わたしの次回の現場視察は12日(日)の午後。たぶん茅葺きがかなり進んでいる段階であろう。じつはこの日の夕方、米子において「吉田を囲む会」を催すことになった。近隣にいる数名のほか、ピエールがわざわざ大阪からかけつけるとの報に驚いた。
会場は米子駅前の「
庄屋」。日野川のナマズ料理を食いまくろう、というわけだ。このブログを読んで、「わたしも参加します」という方は大歓迎いたします。日野川の大ナマズはほんとうに美味しい。寒くなればなるほど、味覚が研ぎ澄まされる。
一方、倉吉の文化財課からは、発掘調査中のクズマ遺跡(倉吉市上神)の住居跡の写真が送られてきた。一辺6m前後の隅丸方形平面で、時期は5世紀後半。南側の隅部に角状に張り出した遺構をともなう。張り出しは斜面の低い側に設けられおり、床面には住居址内と同様に白色粘土が敷かれている。上神地内では、隅丸方形住居の隅部に階段を二ヶ所設けたものが以前に調査されており、この隅の張り出し遺構が「門道」である可能性はきわめて高いであろう。竪穴住居隅部の出入口については、一昨年発見された八尾南遺跡(大阪)の弥生住居跡で大きく注目を集めたが、たしかに倉吉周辺では以前から隅の門道らしい遺構が確認されてきた。
隅の門道は、竪穴住居の復元に残された最後の課題であるといっていい。隅のサスがわたされるはずの部分に開口部があるとしたら、それはいったいどのような構造をしていたのか。どこかの遺跡整備事業でためしてみる必要がある。もうひとつ気になっているのは、隅の入口は正門であるのか、脇門であるのか、という点だ。つまり、隅の入口が唯一の入口なのか、それとも別に大きめの入口があって、隅の入口は勝手口のようなものなのか、という疑問である。どちらにしても、遺構をみにいかなければいけない。なんとか時間をとらないと・・・。
- 2006/10/28(土) 02:41:13|
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修復工事7日目は天候にも恵まれ、工事もスムーズに進行していきました。本日も、工事のメイン作業は根継と差し替え材の導入、そしてレベルの調整です。
根継のため、柱C21、D21、E21が切断されたことは以前の加藤家HPブログ「
倭文日誌」でも紹介したのですが、本日それらの柱に新たな材が継ぎ足されました。継手の類型は
金輪継です。職人さんから伺ったのですが、金輪継は垂直方向の根継に多様されている継手で、ホゾを造ることによって水平方向のぶれも抑えることのできるそうです。金輪継の継ぎ方を以下のCAD-CGで示します。このCAD-CGは
昨日のプロジェクト研究中に実測した図面を基に作成しました(クリックすると図面が大きくなります)。

↑↓金輪継

根継された柱に加え、柱A17~A21間に新たな土台(栗材)が差し替えられました。また、本日決まったのですが、柱L15~L21間の土台は柱L17~L19間の範囲で根継することになりました。その理由は、土台をすべて差し替えてしまうと、柱L15~L17間、柱F19~F21間の壁材として用いられているコンクリートや土壁を落してしまうことになるからです(現在、(柱L13~L14間)の壁はコンクリートと土壁が落された状態になっている)。

↑(柱A17~A21間)土台差し替え ↓(柱L17~L19)

上記の2つの工事と並行して、レベルの調整が行われたのですが、柱C07を基準として、各柱のレベルを調整して行きました。今回、レベルの調整が行われたのは柱K07~K15、G13です。レベルの調整方法は、基準となる点から目的の柱まで、レーザーレベルを用いて垂直・平行方向にレーザーを当てます。そして、そのレーザを基に沈下を調節していきます。毎回、一人で記録を取っているので、工事内容を見落としている部分があるかもしれませんが、今後もこの様なかたちで記載していくつもりです。(01号)

↑レベル調整
- 2006/10/27(金) 23:12:42|
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みなさんお疲れ様です!
十月も佳境を迎え、冬に向けますます寒くなってきました。かぜには十分気をつけてください。かぜは長引くと本当に大変ですからね。ところで、活動報告をするということですが、何を隠そう僕自身まだまだ勉強不足なもので誤ったことを書くかも知れませんが、そのへんは飲んでください。

さて今日、僕たち水屋班はフル動員で
保木本家(旧八東町)にて
茶器の撮影を行いました。初めて保木本家を訪れた僕は、その荒れ放題のいでたちに「これからの環境共生住宅のあるべき姿」を見た気がしました。茶器を家屋に運び込むなど、力仕事もそこそこあったため、僕たちは体育会的に働きましたが、一度撮影が始まるとそれぞれモデルとなる茶器に向かい一心不乱になっていました。自然光で撮ることを意識したため、「陽が落ちるー」と自らを急かしながら作業を進めました。作業が無事終了する頃、影は長くのび、僕たちが現場をあとにする頃にはオレンジ色の夕日が保木本家を照らしていました、とさ。終わり(デザイン学科2年Y.A)


[茶器の撮影 ―保木本家の黄昏]の続きを読む
- 2006/10/26(木) 23:36:07|
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本日のプロジェクト研究で、加藤家修復工事現場を訪れました。すごいものですね。柱という柱が、根継され、次の役目を待ち構えているようでした。
と、いうことで、今回は、デザイン学科と他学科に別れ作業しました。デザイン学科のメンバー(私も含め)は、柱の根継された部分の実測をしました。これは、古材のどの部分をどれだけ新材に代えたかということを、詳しく調査するためです。根継の部分を眺めていると、ほんと、職人さんはすごいことするなぁと考えさせられます。柱を吊り上げた状態であれだけの加工をするとは・・・・・・
残りのメンバーはというと、大工さんたちのお手伝いをしていました。防腐、防蟻剤の塗布やら、廃材運びに走り回ってくれてました。あと、工事、調査風景のビデオ撮影もやってましたねぇ。
おやつの時間は、立ち食いでした。皆さんお気に入りの場所で“まったり”したり、お菓子の周りに群がったりと新鮮な時間でした。(ケンボー)

↑白蟻駆除剤の塗布作業(右端)と実測風景(左端)↓廃材の搬出(古材倉庫敷地へ)
追記 今日は、現場に大平さん(林業試験場)と池田社長が来られていて、まずは軒付について打ち合わせした。結論をのべると、コア(こけら)は×、トチは○、集成材は×という判断である。コアを時間・経費・労力の面であきらめるべき、という提案を受け入れるにしても、トチが○で集成材が×という判断がよくわからないのだが、集成材を試験場で作っている本人が良くないというのだから、それに従うしかないであろう。わたしは、原寸部分模型では本格的なトチ葺きの軒付を採用し、本番の軒付では集成材を採用と考えていた。この理由の第一は経費よりも時間である。卒論の〆切が迫りくるなかで、屋根の木工事に時間を費やしたくない、という判断を優先させたのだが、池田社長は3~4人の職人であたればトチの軒付は3日程度で終わるとのことなので、その意見に従うことにした。
ケンボーが書いているように、今日はデザイン学科の学生に実測を課した。追掛大栓継の根継部分の実測である。たいして時間はかからない。実測経験の乏しい1年生と3年生でも小1時間で図面を描きあげた。たぶん学生たちは、自分がどれほど貴重な体験をしているのか理解できていないであろう。

↑↓実測風景と実測図(野帳)
[加藤家修復記(Ⅴ)-プロジェクト研究2]の続きを読む
- 2006/10/26(木) 22:13:29|
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今日は午後から4つも会議があるので、午前中に加藤家を訪れた。
前庭や土間で新材の加工が進んでいる。新材とはもちろん大引、根太、土台として使われる材である。
わたしが現場に着くと、質問攻めにあう。ある柱を根継すべきか、全部とりかえるべきか、がいまはいちばん多い質問だ。やはり栗材はつよい。古材でもだいたい根継で済んでしまう。ところが、庇や妻壁に使われている杉材の柱は駄目だ。柱の上のほうまでヘナヘナに傷んでいて、1本丸ごと取っ替えることになる。管理人のKさんは「栗の柱に戻してもらいたい」というのだが、大工さんたちは「栗は貴いですよ」と答える。すると、「どれぐらい貴んでしょうか?」とKさん。「いまは檜より栗のほうが貴くつくんですわ」。
ということで、現状よりもひとまわり大きな杉材に差し替えることになった。Kさんはまだ不満そうだった。太い栗の柱に戻したいらしい。このあたりは非常に難しい選択である。予算が十分あるのなら栗材を使いたい。しかし、予算が十分あるわけではない。しかも、研究の目的は「ローコストの修復」なのである。だから、いたずらに高価な材に差し替えるわけにはいかない。
土間(北)側妻壁の添柱については、わたしのほうから自主的に職人さんたちに説明し、理解を求めた。妻壁の柱は細すぎる。上にのっかかっている梁の半分ぐらいしか断面積がない。ところが、畳間の柱は太くてしっかりしている。妻壁の柱も畳間と同じぐらいのスケールが欲しいのだが、新材に差し替えるわけにはいかない。そこで、古材の両側に板状の添柱を張りつけて柱全体を平の材に変えてしまうのである。もちろん添柱は古色塗りする。こうすれば、沈下の激しい妻壁部分の補強になるであろう。これについては、一定の理解を得たと確信している。

↑土間(北)側妻壁 ↓同左 土台の痕跡(赤丸)。
土台はほぼ完全に腐朽消滅している。土台の下に地覆はないが少し土をめくると小石の堆積を確認できる。

いちばん良いのは古材の再利用である。できれば、どこかで解体される古建築から栗の柱をひろってきて再利用するのがいちばん良いのであるが、そう簡単にはいかない。現状では、古材倉庫建設予定敷地に土蔵の解体部材がころがっているだけだから、とりあえず大工さんに古材をみてもらうことにした。いま必要な材がそこにあるわけではない。しかし、古材を加工すれば「床束」「小屋束」「根太」などの材に十分転用できる。今回も必ず転用しようと打ち合わせした。そして、このような転用材の釘打ちを学生がうけもつことにしたいものだ。
昨夜、あまり良くない知らせが届いた。林業試験場の大平さんと池田住研の社長さんで
日野のコア(こけら)師中村さんを尋ねたところ、今回改修する屋根の軒付にコアを使うのは難しいという結論を得たのだそうである。50枚もの檜コアを重ねてとめるのは難しく、材も腐り安いとの判断らしい。とすれば、
トチでいくしかないが、かりにトチだとしても施工は難しいので、原寸大部分模型ではトチ、実物の修復では
集成材を使う可能性もでてきた。

↑古材倉庫敷地で土蔵の古材をチェックする若い大工さん(24)
*加藤家の修復工事については、加藤家ホームページのブログ「
倭文日誌」にさらに詳細な記録が掲載されています。
- 2006/10/25(水) 20:15:31|
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縄文建築論(Ⅰ)で、円錐形テントが竪穴住居の原型であることをのべた。そこでは、
円錐形テントの残影は、アイヌ住居のケツンニ構造や近世民家のサス構造にすらみとめることができるとも指摘した。
とりわけ重要なのがアイヌの三脚構造ケツンニである。アイヌ住居の小屋組には両方の妻側に三脚をふたつ立てる。この三脚をアイヌ語でケツンニと呼ぶ。三脚を構成する三本の棒材の下端は鋭角的に尖らせて梁・桁にさしこんで固定する。こうすると、長方形平面の梁・桁上の両側に三脚がたち、両者の頂点に棟木をのせれば短い棟をもつ寄棟造の屋根をつくることができる。
アイヌ住居のケツンニ構造が、北方ユーラシア狩猟採集民族のテント構造と親縁性をもつことを喝破したのは大林太良であった。まさに卓見である。こういう眼で縄文住居を捉えるならば、たとえば前期に卓越する長円形のロングハウスなども、両方の妻側にケツンニを立てて棟木でつないだものとして理解できる。
いま工事が進んでいる
御所野遺跡の掘立柱建物(中期末に出現するストーンサークル外周の墓前建物、2間×1間)でも、屋根の復元にはケツンニを採用した。6本柱上に梁・桁を架けて、その両側にケツンニを立ち上げ、棟木を載せれば寄棟造の屋根ができあがる。垂木は棟木と出桁にわたす。もうひとつ別の考え方もある。梁・桁の上に床を張ってしまい、その上にケツンニを立てる方法である。これは、アイヌの屋根倉コウンパプに近い技法であり、カムチャッカ半島居てる面の「夏の家」の構造ともよく似ている。今回の復元でも、こういう露台上の伏屋式屋根倉構造を採用することももちろんできたのだが、床上に屋根の全体をおさめてしまうと、軒の出がまったくなく、雨仕舞いに難がある。だから、短いの軒をもつ構造とした。
今日は、御所野縄文博物館の
高田館長からメールで中間報告があり、ケツンニに関して質問があった。

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掘立柱建物の方も順調に進み、骨組はほぼ完成しています。ひとつ気になることがあります、ケツンニの3本のうち1本が棟にささるようになっています。写真の矢印部分(↑)です。このようなおさまりでいいのでしょうか? 御指導お願いいたします。ケツンニはきちんと縄で結わえて、それを反転して設置していますので前回よりかなりいいものになっています。よろしくお願いいたします。
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梁から立ち上がるケツンニの1本の棒が先端をとがらして棟木を刺している。これを良いとみるか、良くないとみるのかは難しいところだ。三脚の上の二股に棟木を架けると、たしかに他の1本は下から棟木を突きあげるしかなくなる。その突き上げる斜材が棟木を押すだけなのか、差し込みなのか。押すだけでもよいかもしれないが、斜材の自重で棟木から離れてしまうのは困る。縄文時代の技術がどうであったのかは、わからないが、メインテナンス上はやはり少しだけ差し込んで、全体を縄結びしておくほうがよいのではないだろうか。


↑ケツンニとサスの違いを示す伏図(クリックすると画像が大きくなります)
- 2006/10/25(水) 18:21:52|
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昼休みを利用して、加藤家の修復現場を訪れた。職人さんは休憩中だったが、本日わたしに残された時間はここしかないので、昼休みにお邪魔するしかないのである。
修復工事が始まって、わずか4日を経過しただけだが、作業はずいぶん進んでいる。床はすべてめくられ、外回りの柱はジャッキアップされ、一部ではすでに柱の根継(↓
追掛大栓継)と土台の差し替えが終わっていた(加藤家のブログ「
倭文日誌」に差し替え部分が図示してある)。

工事初日、曳き家さんは
土台の傷みはひどくなく、再利用可能だと述べていたが、やはり現実は甘くない。仕事が進めば進むほど、土台の腐れが目立ってきており、当然のことながら、部材差し替えを余儀なくされている。表側「式台」の横にある2畳の小部屋も土台の内側が空洞化しており、差し替えることになった。柱の根継もしなければならないから、この場合、当然、壁土も落とす必要がある。

↑土間(北)側妻壁ジャッキアップ(いちばん上の写真が全景) ↓庭に搬出された北側妻壁の壁土

土間側妻壁の壁土はすべて落とされ、貫が露出していた。妻壁の部分では、どういうわけか土台がみあたらず、礎石の沈下も激しい。土台はどうやら腐ってしまったようで、ところどころに
土台痕跡の腐朽木片を残すのみとなっている。これが、土間側のひどい沈下(30㎝前後)の原因であることがわかった。妻側に関しては、貫も変えなければ使えない。さらにわたしたちは、梁に対してあまりにも細い柱に添柱をつけたいのだが、職人さんたちは必要ないと主張しているらしい。このあたりは、要検討である。
さらに、工事の大きな変更が一つ発生した。下屋に関しては、来年の補修にしようと考えていたのだが、当然ジャッキアップは下屋でもおこなわなければならないし、屋根改修工事にしても、下屋を一連で修復してしまうほうが素屋根代が安くつく。下屋の修復と言っても、基礎以外では、瓦屋根の葺き替え程度ではある。瓦をはずして下地や垂木の腐朽材を差し替えて、ゴムアス(防水シート)を張り、できるだけ元の瓦で葺きなおす作業である。鉄板葺きの大屋根については年内の改修完了をめざしているから、下屋の工事はその後ということになるであろう。予算が心配だが、施主のKさんは覚悟を決めていて、今年度中にできるだけ広い範囲の修復を終えてしまいたい、とのことである。もちろん経費の上増しは免れえないが、この修復が「ローコスト」をめざすものであることを忘れてはいけないだろう。

↑↓式台周辺のジャッキアップ

ところで、ここ数日、ブログへのアクセスが急増している。いつもの週末ならアクセスは落ち込むのに、
ユニークアクセス(UA)は90件以上あり、昨日(月曜日)に至っては、ユニークアクセス(UA)が141件、
トータルアクセス(TA)が421件を記録した。ここ数ヶ月で最高の値である。今日もいままで記事を更新していないのに、UAが110件を越えている。ちなみに、
先月までのUA平均は約86件/日、TA平均は約230件/である。やはり加藤家の修復工事が始まったことが大きいのだろうか。加藤家の修復工事については、本ブログよりも「
倭文日誌」のほうがさらに詳しいので、あわせてご参照いただければ幸いである。
[加藤家修復記(Ⅲ) -根継と土台の差し替え]の続きを読む
- 2006/10/24(火) 23:18:22|
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狩猟採集民の住居として知られる円錐形テントと竪穴住居には、かなり明確な地理的分布の差異がみとめられ、それは双方の担い手の生業のあり方と密接に相関している。円錐形テントは北方ユーラシアおよび北米大陸の内陸山間地域で狩猟に従事した民族が普遍的に利用した住まいであり、一方、竪穴住居は環北太平洋域の沿岸および大河川流域に卓越し、漁労および海獣狩猟と深く結びついている。
漁労には捕獲の安定性がある。あくまで狩猟と比べればの話だが、一定の収穫が期待できる生業であるといっていい。2002年の夏、ビキン川中流域のツングース系狩猟民ウデヘ族の集落調査をおこなった際、二人の猟師とともに川を遡り、猟場に2泊した経験がある。わたしたちの目的は、古い居住形態を残す猟場の建築を調査することだったが、猟師の目的はもちろん狩猟である。大型のシカをかれらは狙っていた。わたしたちは舟でビキン川の支流をあちこち移動した。岸辺のところどころにシカの足跡を確認できたが、とうとう2日間シカは姿をあらわさなかった。猟師たちは夕方近くになると、川の淀みに網を張りはじめた。狩猟活動を終えたころ、いちど漁場に戻って網を引き上げ、一定量の魚を獲る。それは、その日の夕食になる。網は再び水面に沈ませる。翌朝、網を引き上げるとまた魚が捕まっている。毎日、狩猟にエネルギーと時間を費やす一方で、合間を縫って網漁をしているわけだが、日々の食生活を支えているのは漁獲物なのである。

↑↑ツングース系狩猟民ウデヘの漁労活動 ↑ツングース系漁労民ウリチの冬葉作り ↓ツングース系漁労民ホジェン(ナナイ)の竪穴住居。遠くに黒龍江がみえる。

漁のための網がいつごろ発明され、日本を含む極東の漁労民にいつ波及したのか、よく知らない。しかし、たとえ網がなくとも、魚は獣より捕らえやすい。だから、漁労に重きをおく人びとは河川流域に定着性の高い住居を構える傾向がみとめられる。周辺に豊かな落葉広葉樹林があれば、そこでナッツ類やキノコなども採集できる。こうなれば人びとの定住性はさらに高まる。そういう人びとの住まいが竪穴住居であった。日本列島では、縄文時代にこういう生活が始まった。
一方、大河川流域から離れた内陸の山間地域に住む人びとはテントに住むしかなかった。くりかえすけれども、狩猟は収穫の安定性が低い。獣はどこにいるのか分かりにくいし、その姿を視界にとらえたとしても、必ずしも捕獲できるわけではない。獣は動き、猟師も動く。獲物を得るために、猟師は山間部をひっきりなしに移動する。わたしが実見した例をあげると、中国黒龍江省興安嶺に住むオロチョン族(ツングース系エヴェンキの一派)の人びとは、すでに定住化していたけれども、狩猟の際には今でも三脚構造の円錐形テント「仙人柱」を建てて猟場を動きまわっている。白樺もしくは柳の樹を先端にY字状の股木を残して切り倒し、まず3本の股木をかみ合わせ堅牢な三脚構造を作る。あとは数本の垂木を円形に並べるだけですべての骨組ができあがり、それに布を巻き付ければテントが完成する。建設に必要な時間は15分程度である。ただし、夏と冬でテントの構造が若干変わる。夏は長さ4mほどの垂木を用いて急勾配の屋根をたちあげ、白樺の樹皮で編んだマットで骨組を覆うのだが、天窓部分はひろくあけておく。そして、炉は屋外に設ける。冬になると、垂木の長さは3m前後と短くなって、勾配が緩くなり、ノロ鹿の毛皮を骨組に巻き付ける。天窓は小さくなり、炉は屋内に設けられる。
というわけで、
狩猟=テント=遊動/漁労=竪穴住居=定住
というありきたりの対立性を示しうるわけだが、その一方で、テントと竪穴住居の建築構造はあきらかに同一系統であり、竪穴住居はテントの内部に穴を掘って外部を固めたものと理解できるであろう。

それでは、なぜテントは竪穴化しなければならなかったのか。それは、人びとが定着性の高い生活を送るにあたって、住まいの内部空間を大きくする必要に迫られたからである。サスや垂木のような斜材しか知らなかった人びとが、木構造の垂直壁を考案して、その上側にテントを持ち上げる技術を開発するには、もう少し時間が必要だった。地面から上の空間を大きくすることはやっかいだが、穴を掘るだけでテントに覆われた空間は自ずとひろくなる。掘りあげた土を樹皮や毛皮の屋根にかぶせれば、外気と内部の遮蔽性は高まり、寒暑を避ける機能も高くなる。ただし、土を被せるからには、垂木の傾斜を緩くしないと土がずりおちてしまうし、場合によっては、下から柱で支えないと屋根そのものが崩れおちてしまう。こうして、急傾斜の屋根をもつテントの構造が少しずつ変形していったのだろうが、竪穴住居がどのように進化しようとも、原初形としてのテント構造が失われることはなかった。竪穴住居どころか、テントの構造はアイヌ住居(チセ)のケツンニ(三脚)構造や、近世民家のサス構造にさえ残像をとどめている。
新石器時代の始まりと同時に、テントから竪穴住居へ居住施設が転換すると言われる。遊動する旧石器時代人が新石器時代になって定住し始めることによって、竪穴住居が生まれるというのが常識的な理解であろう。「定住」という指標でみる限り、竪穴住居と土器はほぼ等価の意味をもっているのである。ところが、後期旧石器時代の東欧には、マンモスに代表される大型獣の獣骨を骨組とする竪穴住居が卓越していた。しかも、それは複数の炉をもつロングハウスとしての竪穴住居である。ウクライナやスロバキアを中心にして、バイカル湖周辺にまでひろがる後期旧石器時代の東欧型竪穴ロングハウスは、マンモスなどの大型獣をおう旧石器時代人の定住性を示す証拠であると言ってよいのではないか。

しかし、日本の後期旧石器時代にこういう大型の竪穴住居はみつかっていない。いまわずかに騒然としているのは、鹿児島県指宿市の水迫遺跡で後期旧石器時代の終盤にあたる15000年前ころの竪穴住居風遺構がいくつかみつかっていることだが、これについては「地形の窪みにすぎない」という強烈な批判も発表されている。日本の旧石器時代においては、未だ「住居跡」と呼べる確実な遺構が発見されていないのである。群馬県の下触牛伏遺跡に代表されるように、日本の後期旧石器時代においては、石器破片の集中する「遺物集中区」が円環状にならぶ遺跡があって、テントか風避け程度の仮設建物の前方で石器を製作していた可能性が高いとされる。この場合も、「遺物集中区」の周辺には「建物跡」らしい遺構はまったくみつかっていないので、厳密にいうならば、仮設の住居群が環状に配列していたのかどうかも分からないのである。
旧石器時代のテントから新石器時代の竪穴への変貌というプロセスを考古学的に知る上で、シベリアの例が非常に参考になる。後期旧石器時代の終末期にあたる細石器文化では、円形平面の縁石を配し中央に石囲炉をおく平地住居跡が確認されているのに対して、カムチャッカ半島新石器時代最初期(約1万年前)のウシュキ遺跡では、浅く掘りくぼめた竪穴住居が4棟みつかっている。これらの浅い竪穴住居は門道を備え、屋内中央外よりに石囲炉を備えている。テント式の平地住居が床を下げ始めた萌芽期の住まいと認識して間違いなかろう。日本の場合、シベリアのような住居変化を細石器段階→新石器時代初頭(縄文草創期)において明瞭に看取できるわけではなかろうが、たとえば鹿児島国分市の上野原遺跡でみられる縄文早期の竪穴住居のように、主柱の内側に竪穴を有する住居形式はテント式の平地住居が床面を下げ始めた状況を示すもののようにも思われる。このほか、縄文~弥生にかけて3本主柱をもつ円形の竪穴住居もしばしば出土しているが、これはオロチョンの「仙人柱」にみるように、円形テントの骨格としての三脚を支える柱の痕跡とみなすべきものであり、やはりテントと竪穴住居の相関性を示唆するものと言えるだろう。(続)
↑上野原遺跡の竪穴住居跡(縄文早期)
- 2006/10/23(月) 00:26:54|
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先週木曜日のプロ研の時間に、加藤家を視察された市の佐々木さんから、まもなく登録文化財の標識が届くことを告げられた。どうしたものかと思案し、管理人のKさんとも話し合った結果、学生たちにサインボードをデザインしてもらうのがいいのではないか、という結論に達した。わが研究室が得意とする「廃材でつくる」サインボードに標識を飾るのが、加藤家修復プロジェクトに最もふさわしいであろう、とたしかに思う。できれば、オモヤの解体で要らなくなった部材を使うのが最善であろう。

今日は
奈良町(ならまち)に出かけて、登録文化財の標識をどのようにみせているのか、観察してみることにした。まず、思い浮かんだのは墨の老舗「古梅園」(↑椿井町)である。ごらんの通り、外観まで真っ黒な(墨塗り風の)町家なのだが、どこを探しても登録文化財の標識を貼っていない。おまけに店は閉まっていた。墨と言えば、われらが書家HARUNOさんに一つぐらいお土産を買わなきゃいけないかな、などと思いをめぐらしていたのだが、店が閉まっているのだからどうしようもない(おかげで、その代金はワイフのコート代に早変わりしした)。
古梅園から南に下って三条通りにでると、「ぜいたく豆本舗」の本店がただちに視界に飛び込んできた。明治初期の町家で、2年ほど前に登録文化財になったらしい。店に近づくと、招き猫に隠されるように、登録文化財の標識のコピーが外壁に貼り付けてあった。店に入って、標識のことを訪ねると、「あちらです」と言われた。奥のカウンターに飾ってある。
「今はなんでも盗られますからな、外に置いとくと危ないでね」
ここで、きっちり写真を撮り、寸法も測らせていただいた。
長さ30㎝、幅15㎝、厚さ15㎜の銅板製である。なかなか重い。

↑↓ぜいたく豆本舗(いちばん上の写真も)

ここから来た道を南下し、
十輪院をめざした。あの、格調高い鎌倉時代の住宅風仏堂を久しぶりに拝みたい、と思ったのである。その途中で、登録文化財の町家にでくわした。いまは店舗併用ではなく、居住専用になっているようだった。ここでは太い格子の外側に標識を貼り付けている。というか、格子と平行に通した細い2本のワイヤーに引っかけているようだ。やはり本物はいい。町家の意匠とよく似合うデザインだと感心した。
加藤家住宅の場合、まずどこに標識を設置するのかが問題だ。オモヤの壁に貼り付けると、通りから目立ちにくい。かといって、変なサインボードを道路境界に立てても興ざめになる。いちばんいいのは、かつて庭を囲っていた塀を部分的にでも復元して、それに貼り付けることではないか。そうすれば屋敷全体の景観の質も向上し、標識も目につきやすい。しかし、お金がかかるな・・・技術的にも、学生だけでは無理かもしれない。ともかく、まずは学生諸君におもしろいアイデアを出してもらおう。ひょっとしたら、今回のプロ研の最も重要な成果物になるかもしれない。

- 2006/10/22(日) 22:37:32|
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修復工事2日目、柱のジャッキアップが始まりました。今回、ジャッキアップをおこなった柱は、A13~A16、G1、K13~K15、l13~l14です。また、それにともない、朽ちている土台の差し替え作業(A13~A15間)、根継ぎ作業(柱A13、A14、A15、A16)も併行しておこないました。
<↓加藤家平面図>

現時点でのジャッキアップは、建物の水平を補正するための作業で、軸部の歪みを補正するものではありません。たとえば、礎石立ちの柱が沈んでいるだけの場合は、桁か差鴨居をジャッキで持ち上げて柱を浮かします。そして、浮いた部分に楔(曳き家職人さんは「ヤ」と呼ぶ)を打ち込み、柱を浮かせた状態を保持します。一方、土台立ちでも、先の例と同様にジャッキアップしますが、この時、土台や柱の根元が朽ちている場合は差し替えるなり、根継ぎするなりの作業を施します。以上を本日の作業と照らし合わせながら、紹介していきましょう。
礎石立ち柱G13の場合、柱G13に接する鴨居に補助柱を立ててジャッキアップします。このとき、柱の根元の位置を10~15mm程度の範囲で移動させます。これは柱の傾斜を補正し終わり、補助柱などの道具をはずしたときに起きてしまう柱の歪み(曳き家職人さんは「ハズク」と呼ぶ)を抑えるための養生でもあります。
<↓柱K13のジャッキアップのようす>

土台立ち柱A13~A16の場合、A14 とA15の根元に金具を挟み、これをジャッキアップし、柱と土台を離します。この部分は外壁にあたり、雨晒しになる部分のため、柱の根元と土台が朽ち易く、柱ホゾを確認できないものもありました。なので、柱と土台は容易に外れ、A13~A16間の土台を抜き取ることができます。この後、A13~A16間の桁に補助柱を立て、これをジャッキアップし、柱を宙に浮いた状態にします。これら宙に浮いた4本の柱は、根元が朽ちており、柱の朽ちた部分を切り落とします。これに、追掛大栓継(おっかけだいせんつぎ)を用いて根継ぎし、一本の柱に戻します。
さらに、差し替え用の土台の底面には防腐・防蟻剤を塗布し、抜きさった土台の位置に戻しています。
以上に示した一部の作業は、現在、途中で停まっていますので、すべての内容を拾いきれていません。 (01号)

<↑柱A15根元のジャッキアップのようす ↓柱に施した追掛大栓継ぎの継ぎ手>

<↓柱A13~柱A16の現在のようす>

追記:「続き」に十輪院の根継(ねつぎ)を示していますので、関係者は必ずみておいてください。
[加藤家修復記(Ⅱ)-ジャッキアップ始まる!]の続きを読む
- 2006/10/21(土) 23:11:34|
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ジャスコ大安寺店の広告に「200ボルト対応のIH鍋が特価398円」で出ているから買いに行こうというので、運転手代わりについていった。すると、ジャスコのレジの前に、安売りのCDが並んでいて、再結成イーグルスのライブ『Hell Freezes Over』を発見し、またしても衝動買いしてしまった。ところが、よくよく考えてみれば、奈良の自宅にはCDプレーヤーがない(子どもたちはもちろん部屋にもっているが)。で、ジャスコの家電製品部門を冷やかしたら、made in ChinaのCDラジカセを3千円代で売っていたので、それも買ってしまって、いま自宅でイーグルスを聞いている。「ホテル・カリフォルニア」はアコースティック・バージョンだ。いや、大正解ですな。「安物買いの銭失い」と言うけれど、音楽がいいから、こういう安物のCDプレーヤーでも十分楽しめる。それに、ラジカセは必需品なんだな。学生時代から採りためたカセット・テープが山ほどあるんだけれど、いまはMDの時代だから、ラジカセそのものを販売しなくなりつつある。いまやカーステレオでラジカセ付きの新品などほとんどない。まもなく販売中止にさえなりかねないから、買っておいたほうがいいんだ(なんて、衝動買いの言い分けにすぎませんね)。

大安寺のジャスコまで行ったのだから、大安寺にも足をのばしてみることにした。飛鳥にあって「大官大寺」と呼ばれた古代の国立寺院は平城京に移設されて「大安寺」と名を変えた。いまも興福寺、東大寺、西大寺、薬師寺、元興寺、唐招提寺に大安寺を加えて「南都七大寺」と呼ばれる。しかし、境内地を大幅に縮小され、大正再建の金堂を中心にひっそりとしたたたずまいを残すのみで、「がん(癌)封じ」の祭りと笹酒を売り物にしていることに一抹のわびしさを感じないでもない。
大安寺の南門から50mほど離れて八幡宮が境内を構える。案内板によれば、9世紀に宇佐八幡宮を勧請して大安寺の鎮守としたとあり、たしかに古い指図をみると、寺地と社地は接している。宇佐八幡宮を勧請した「元石清水八幡宮」という触書に驚かされるが、本殿をみると
八幡造ではなく、ごく普通の
流造ではないか。たぶん幕末以降の建物であろう。屋根は銅板葺き。もちろんトチ葺き屋根を銅板で被覆しているのだが、軒付を観察すると、化粧垂木上の裏板のみ露出しており、トチ葺きの軒付は銅板で完全に隠している。あまり優雅にはみえない。銅板葺きにしても、
軒付の一定の厚さを木片露出としないから、こうなってしまうんだな。反面教師として受けとめましょう。
八幡宮本殿正面の中門は、割拝殿のようにもみえるが、独立した四脚門に翼廊を附属させたもの。永正元年(1504)焼失後の建築で、江戸時代初期に改修されているが、中世の材を多々残しており、奈良市の有形文化財に指定されている。

- 2006/10/21(土) 18:16:19|
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今日は2週間ぶりに奈良に帰ろうと決めていた。午前中、ちょっとした用事を済ませたら、昼過ぎのスーパーはくとに乗って、さっさと移動するつもりでいたのだが、10時すぎに岡野から電話が入った。加藤家で床めくりが始まったのだが、職人さんの見解によると、床板を支える大引(おおびき)と根太(ねだ)の傷みがひどく、大半の材を差し替える必要があるとのことで、古材を差し替えるか否かは「文化財的価値(
材料のオーセンティシティ)と直結する問題であるから、こういう判断がわたしに委ねられるのは当然のことであり、昼過ぎに加藤家に直行した。
たしかに、大引と根太の腐朽はひどいものであった。平成11年に床下の材を替えたオクノマをのぞくと、まともに再利用できそうな材がほとんどみあたらない。かりに再利用するとなれば、白蟻の餌食となって床が抜けてしまうであろう。建物には構造的安定性が必要であり、大引・根太の新材への差し替えはいたしかたない。ところが、興味深い事実があきらかになった。土台はしっかりしているのである。曳き家さんがそう言うのだから間違いない。白蟻除けの薬剤を塗布する程度で、再利用が可能だと曳き家さんはおっしゃるのだ。床下で土に接している土台が健全なのに、床から離れた大引や根太が傷んでいる。これは土台がクリ材であることと関係しているのだろうか。あるいは、ある時期、すでに土台を差し替えているのかもしれないが、大引や根太だって替えていないはずなかろう。また、土間の対面にある旧「女中部屋」?に至っては床と天井が完全に抜けているので、床・天井すべての材を撤去することになった。


以上の状況から、ここしばらく学生諸君が分担すべき仕事がみえてきた。
1)白蟻除けの薬剤を古い土台に塗布する。
2)新しい材に差し替えられる大引や根太を搬出し、古材倉庫の敷地までもっていく(倉庫竣工後は中に納める)。
3)新しい根太の釘打ち。
4)女中部屋で撤去される床材・天井材の整理。
というわけで、来週もまたプロ研1年生は夕暮れまで埃まみれの作業になりそうです。先週指示していた欄間障子の貼り替えについては、管理者のKさんと相談の結果、少しあとにまわすことになりました。
お菓子だけはたくさん用意してあるので、がんばってください。

↑↓平成11年に改修された奥座敷の根太・大引は整然としている。しかし、束は千鳥になっている。束の配列に規則性がないことで床構造が弱くなっているので、何ヶ所か束を足して「根がらみ貫」を通す予定。

なお、19~20日の加藤家の活動・工事については、加藤家ホームページの「
倭文日誌」もご参照ください。
- 2006/10/20(金) 22:32:10|
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なんとまぁすっぽりと納まってくれたものだ。
昨日のブログでお伝えした通り、現在、加藤家は修復工事に向けて建具・畳の移動のほかイロリの解体・移設などをしている。その最中、管理人のKさんより3つの建具の処理について相談された。そのうちの2つは、現在加藤家にお住まいの先輩(厳密に言うと今は仮設の
ユニットハウスに住んでいる)が使用することになり、残りの1つは研究室に貰い受けることにした。で、昨日の作業を一足先に抜け出し、水屋を研究室に持ち帰った。
ちなみに設置箇所周辺清掃・収納は自分が、レイアウト(配置)はM先輩とそのお友達が担当した。自分は、電子レンジが棚にすっぽりと納まっちゃったような、この「偶然の産物」的空間がたまらなく好きだ。(チャック)

↑整理整頓して使ってやってくださいな。
- 2006/10/20(金) 17:00:14|
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加藤家のジャッキアップも間近となった。季節も涼しくなり、真夏の作業に比べると、いくぶん加藤家での作業も楽にはなったはずだが、トタン屋根一枚の小屋裏は秋の涼しい天候に関係なく蒸し熱い。本日の我々の作業は加藤家のジャッキアップにむけ、前期のプロジェクトで復元したイロリを解体し移動することだった。民家のジャッキアップにとってイロリは作業の妨げになるから、いちど解体して、工事完了後に組み立てなおす、という算段である。
まずは小屋裏に上がり、
自在鉤と
火棚を吊り上げていた藁縄をほどいて、それらを地面に下ろした。つぎに框をはずし、イロリの灰や底に敷いていた瓦などを掘り出した(↑上の写真)。そして、ついにイロリの壁の解体が始まった。この石は
鳥取城の石垣工事の余材を工務店からいただいたのだが、一つの石が30~40キログラムはある。あまりの重さに、前期にこのイロリを作製したときの記憶が思い出される。移動を含め作業は1時間ほどで終了した。

↑灰床の堀出しのようす ↓イロリにつかった石材の番付

今回自分の手でイロリを解体るすることが出来てよかった。火棚一つを下ろすにせよ、イロリの重たい石を移動するにせよ、それぞれを解体するにあたってよみがえる思い出たちは懐かしく、とても感動的だった。今こうして庭の片隅に積まれたイロリの石を見て思った。加藤家の修復工事が終了し、イロリを再び設置した際には、この新らしいメンバーでイロリの火を囲みたい。(デザイン学科2年Mr.エアポート)

↑解体後のイロリ間 ↓解体前のイロリ
[Mr.エアポートのイロリ解体記]の続きを読む
- 2006/10/19(木) 23:21:20|
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皆さん今日はお疲れ様でした。今回のブログは政策科1年のH.Yが初担当します。いったい何から書きはじめればよいのか・・・。
先週から家具や障子、襖、畳、イロリなど外せる全部外す作業をいています。明日、いよいよ床上げ作業が始まるため、今日中にすべて外して裏庭のユニットハウスに移さなければならないめ、今日は日が暮れてからも作業は続きました。
今朝、私はショックなことがあり、だいぶ沈んでいたのだけど4限までには少し元気を取り戻して、無事プロ研まで生きていたのでよかったです(汗)。そんなワケで、今日はみんな作業服を身にまとい服装からも気合が入っていたように思えました。私たち1年は前回の続きで障子や襖やガラス窓をプチプチで包む作業をしました。一巻き42mのプチプチがあっという間になくなって、大至急カインズまでメンバーの2人が買出しにも行ってくれました。加藤家プチプチ消費量3本目です。それでもまだまだ包まなければならない襖やガラス戸がたくさんあって、限界ギリギリのサイズにカットしたりするなど、私たちなりにいろいろ工夫しました。そして3本目のプチプチが終えるころ、部屋の襖もすべて包み終わりました。外はとうに日が暮れ、2年の先輩たちは暗闇の中、ごみを燃やし、その炎を囲んでいました。炎の光に照らされる彼らはYちゃん曰く「まるで原住民のよう」でした(笑)。
次回、床上げされた加藤家が楽しみです。

↑カマドも番付して解体・搬出した。

今日は施主のKさんから休憩時間のお菓子代をまとめて頂戴し、先生からうち1万円(一応消耗品費も含めて)をわたされました。お菓子がこの活動の中でこんなにも重要な要素になっていたとは(笑)。そして今日も私たちは遠慮なくおよそ2袋分のお菓子をガツガツとほおばり、跡形もなく食べ尽くしました。ごちそうさまでした。

↑土間上屋根裏の清掃 ↓休憩時間
- 2006/10/19(木) 22:20:37|
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エアロバイクはオーディオルームに置いている。
オーディオルームと言っても、ただの3畳のたたみ間だ。最近、天気が良いのだが、忙しすぎて、ビアンキに乗れない。今日も朝から加藤家で打ち合わせがあった。「
おれたちに朝はない」はずなのに、世間の労働時間に付き合うのはとても辛い。
おかげで、夜は早く帰宅する決心がついた。テレビで阿呆なバラエティをみるのが結構好きなのだが、ろくな番組をやっていないのでチャンネルをひねっていたら、BS1で世界体操選手権を放送していた。日本は最後の鉄棒を残して団体3位につけていた。そして、最後の最後、世界チャンピオンの富田が鉄棒で落下した。コールマンの失敗。チャンネルを変えた。おもしろい番組はやはりみつからない。オーディオルームに移動した。エアロバイクを漕ぐことにしたのである。

エアロバイクを買ったのはおよそ2年半前。カインズホームで、たしか9800円ぐらいだった。大寒のころから春まで、ほとんど毎晩30分漕いでいた。春が訪れて、爽やかな日差しが外気を暖めはじめたころ、自転車に乗るなら外が良いに決まっている、と悟ったわたしは、中古のビアンキを衝動買いした。以来、ビアンキは自動車に優るわたしの愛車になった。
しかし、ビアンキに乗る機会が年々減って行く。忙しさと体力が反比例しながら、自転車に乗る時間を奪っていくのである。
だから今夜は、エアロバイクを漕ぐことにした。1年半ぶりのことである。エアロバイクは自転車よりもきつい。風を切って自転車に乗る爽やかさは誰だって知っているだろう。風景の変化も楽しめる。上り坂はつらいが、下り坂になると、ペダルを踏む必要もない。
室内で漕ぐエアロバイクでは、ペダルを止めることができない。ペダルを踏み続けることが目的だ。だから、30分という時間をとても長く感じる。これを解消する方法はただ一つしかない。好きな音楽を聴くことだ。最近、高校から大学入学のころに聞いていたシンガー・ソングライターのCDを立て続けにネットで買った。LPならもっているが、すでに十分劣化しているし、針を操作したり、盤を置き直したりするのに手間がかかる。だから、LPと同じCDを買ってしまうのである。この1週間のあいだに、
ジャクソン・ブラウン3枚、ジェイムズ・テイラー1枚、J.D.サウザー1枚、CSN&Y2枚のCDが届いた。
エアロバイクを漕いでいる時は、お気に入りのアルバムの最も好きな部分を選んで流す。あぁ、そう言えば、その前に風呂桶の給湯をはじめておかなければならない。15分たったら、お湯を止めに行く。それからエアロバイクに戻って残りの15分、再びペダルを踏む。前半と後半で音楽を変えるのも悪くない。
というわけで、久しぶりに30分間エアロバイクを漕いだ。変速ギアのなかでいちばん重い8段にして、平均時速は10㎞前後、走行距離約5㎞、消費エネルギーは80kcalであった。
漕ぎ終えたら、ただちに湯に浸かる。これだけを楽しみにペダルを漕いでいるようなものだ。
- 2006/10/18(水) 23:43:59|
- スポーツ|
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2006年10月17日、18日の2日間、鳥取県民文化会館(A・B会場、口頭発表会場)と鳥取県立図書館(C・D会場)の2箇所で催されました。今年で、3回目の開催になり、鳥取県内で活躍する各分野の研究者、技術者などが集い、研究成果や技術などを発表、お互いを知り合う場となっています。

↑C・D会場(鳥取県立図書館)の入り口
今年の浅川研究室の発表は「
国史跡「鳥取藩主池田家墓所」の整備に関する実践的研究」をポスター発表による展示で参加しました。
去年とは違い、分野別にブースを振り分けられておらず、研究助成事業ごとにブースが分けられています。なので、「鳥取県環境学術研究費」のブースとなるD会場には、鳥取環境大学関係者が大勢を占めており、一般市民や他の機関の訪問者は、ごく少数のように感じられました。

↑D会場内のようす
本日をもって、フェスティバルは終了しましたが、「環謝祭(学園祭)でも展示したら良いのでは?」という話を耳にしました。機会があれば、産官学フェスティバル2006で展示されたポスターが、環謝祭で展示されることになると思われますので、見逃された方はこちらに足を運んでみられるのもいいかと思います。(やっちゃん1号)

↑出展したポスター(画像をクリックすると拡大します)
- 2006/10/18(水) 20:11:45|
- 講演・研究会|
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日曜日の伝建フェア講演会の際、加藤家修復の窓口を務めてきた倉恒さん、砂田さんと話し合いをもち、施工は倉吉の池田住研にお願いすることが決まった。池田住研の代表取締役・池田さんも木推協の重鎮である。浅川研究室と木推協の結びつきは、これでさらに深まった。

今朝は、池田さんを加藤家に迎えて、現場と設計図を照らし合わせながら、4者会談をおこなった。浅川研究室からはO君1号(居住者)、やっちゃん2号(屋根設計)とわたし、木推協からは池田さんと砂田さん、さらに林業試験場の大平さん(林業試験場)の4者が今後の工程を話し合い、曳き家さんと鈑金屋さんにも綿密な下見をしていただいた。
大きな変更点は、屋根原寸部分模型の製作場所である。加藤家近くの「古材倉庫」ではなく、池田住研(倉吉)の工場でおこなうことになった。大学からは遠いが、材料・道具・職人さんの手間のことを考えると、倉吉の工場で製作するほうがはるかに理に叶っている。やっちゃん2号をはじめ、研究室のメンバーはしばしば倉吉の工場に足を運ぶことになるだろう。
ところで、いま「コア」が大きな障壁になりつつある。わたしと大平さんの見積もりはきわめて甘く、軒付全体では相当な価格になることが分かったきた。とりあえず、原寸部分模型で試してみて、経費・労力・時間を勘案し、大屋根の軒付に採用するかどうかを判断せざるをえないであろう。個人的には多少高くなっても使ってみたい。ローコストにおさえようという気持ちとともに、日野郡に残る檜ソギ葺きの技術を伝承し、加藤家の軒に表現したいと思うのである。それは「地域産材の活用」を義務づけるHOWTECの目標とも合致する。
明日(木曜日)のプロジェクト研究2&4では、建具・畳のほかイロリの解体・移設などをおこない、金曜日から基礎関係の工事が動きだす。

ほんとうに、ようやく工事が動き出す。予定よりも1ヶ月遅れている。居住者のO君1号は、これからが大変だ。昼は現場に張り付いて記録取り、夜はその整理とブログ掲載の繰り返しが続く。O君1号が就職活動やバイトで不在の場合、研究室のだれかが代わりに現場にはりつかなければならない。そういえば、ビデオの準備をしなければ。明日、換えの充電池とテープを買いそろえよう。
これから帰宅して、「縄文建築」論を書きます・・・
- 2006/10/18(水) 19:33:41|
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鳥取県福祉保健部長寿社会課から介護事業所職員人材育成研修の講演を依頼された。介護保険制度では、介護事業者に対し、介護が困難である認知症介護従事者の研修を義務づけて制度化している。研修の実施主体は都道府県で、わたしが依頼されたのは「認知症介護実践リーダー研修」の講師である。
「認知症介護実践リーダー研修」とは、介護保険事業所で人材育成にあたるリーダー養成のコースとされ、鳥取県では25人を対象に年1回実施している。
研修はタフだ。5日間の講義・演習→5日間の他施設実習→6週間の自施設実習→2日間の実習報告会と続く。わたしは、最後の最後、実習報告会の2日目に講演をするのだそうで、その役割は「アイスブレイク」だとのこと。「コーヒーブレイク」ならよく知っているが、まさか「アイスコーヒー・ブレイク」じゃなかろうし、よくわからないので訊ねたところ、「アイスブレイク」とは、
コミュニケーション技法の中で<緊張をほぐす>
という意味で使うのだそうである。長い実習や発表の労をねぎらい、互いの緊張をほぐして研修全体を振り返るために「アイスブレイク」が必要とのことで、その大役を仰せつかってしまった。ウクレレかギターを持っていったほうがいいかな・・・
さて、日時・会場・演題は以下のとおり。
日時: 平成18年11月15日(水)13:30-14:30
会場: 琴浦町 まなびタウンとうはく
演題: 「廃材でつくる茶室」から「加藤家修復プロジェクト」まで
講演者: 浅川滋男・大城智章

ところでところで、一昨日のブログで「縄文建築論」を連載する、と公言したにも拘わらず、何も始まっていないじゃないか。どうしたことか!?
とりあえず、竪穴住居の起源は2系統ある、というところからスタートしなければならない。一つは平地におけるテントの竪穴化であり、いま一つは傾斜面における「人工洞穴」の形成である。「人工洞穴」と言えば、ゴードン・チャイルドを思い出す。かれは1950年、
Antiquity という有名な雑誌に、
Cave Men's Buildings(洞穴居住者の建築物)
という短い論文を残している。東欧の後期旧石器時代に卓越する大型竪穴住居-それは大型獣の骨と毛皮で覆われていた-を、洞穴居住者が開地に出てきて「洞穴」風に築いた建築物だとみなしたのである。
日本でも、後期旧石器時代と縄文時代の境目に、洞穴を小型化したのような横穴風の住居が出現した。それは斜面に造られた竪穴住居であった。斜面に穴を掘って切妻の屋根を架け土を被せると、それはまさにミニ洞穴のような構造になる。上のCGは2001年にNHKが放送した「日本人はるかな旅」で使われた関東地方定住開始期の集落イメージ。福岡の大原D遺跡焼失住居(草創期)の復元模型をベースに、わたしが指導して図化したものである。斜面の洞穴風住居は平地の住居に展開していく。
御所野の大型住居は、斜面起源の横穴風竪穴住居が平地化した典型だとわたしは思っている。
- 2006/10/17(火) 20:27:04|
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早朝、出雲駅前のホテルまで宮本が迎えに来てくれたので、二人で朝食バイキングを食べた。和食である。宮本は普段は朝食抜きだし、わたしにしたって、単身赴任の鳥取ではめったに健康的な朝食を摂ることはない。二人で腹いっぱいご飯とおかずを食べ、シジミ汁をすすった。
今日は田和山遺跡
大型竪穴住居の仮組検査。まずは田和山遺跡の山頂までのぼった。宮本は、田和山は2度めだが、ゼミ
卒業旅行の際、やっちゃんHOKANO大暴走の余波をうけ、倉吉からJRで松江に移動するはめになり、時間を大幅にロスした結果、昨年度竣工した
大型掘立柱建物をみることができなかった。

今日はまたしても快晴。3月とは別の顔をした田和山の風景を堪能した。おもしろいのは、田和山と
市立病院が景観的に融合し始めていることだ。ご存じのとおり、田和山遺跡は松江市立病院建設予定地の事前発掘調査でみつかったものであり、猛烈な保存運動の結果、病院が山の隣接地に移動した経緯がある。病院側にしてみれば、憎んでも憎みきれないぐらい敵対的な存在だったに違いない。昨年度、病院と田和山遺跡はともに県の景観賞に応募し、なんと病院が「
景観大賞」を受賞した。田和山は落選してしまったが、未だ大型掘立柱建物もたっていない整備途中の段階だったから仕方ない(病院はもちろん完成して動いている)。あれから景観の質は大きく向上した。芝生に覆われた丘陵の風景を復原建物が引き締めていて、いまでは敵対関係にあった病院と田和山の景観が融合し、山陰道(高速道路)周辺の一大ランドマークとなっている。

↑山頂の5本柱からみた大型掘立柱建物と宍道湖の風景 ↓田和山に隣接する市立病院

田和山遺跡整備の最後の仕事が大型竪穴住居の復元建設だ。大型掘立柱建物のすぐ下側に建設される。おそらく大型竪穴住居と大型掘立柱建物はつがいのような存在であろう。以前は、大型掘立柱建物を山頂遙拝のための祭祀施設と推定していたのだけれども、いまは鳥取西部の弥生時代に特有な「長棟建物」に似た施設ではないか、と考えている。竪穴は女性原理の「家(住まい)」、大型掘立柱建物は男性原理の「建築(複合的機能をもつ集会所)」なのではないか。
田和山から仮組の現場に移動した。いや、大きい。直径約8mの竪穴住居だが、周堤の中心までのびる垂木尻までの(すなわち内部空間の)直径なら約11mに達する。主柱は7本で竪穴の平面は楕円形を呈する。こういう平面は「
縄文的」だとわたしは思っている。柱を多角形に配列して竪穴をそれとほぼ平行にまるめて掘る。換言するならば、円形や楕円形の平面にふさわしい主柱の配列は5角・6角・7角などの多角形配列になるということだ。これが弥生のある段階になると、4本柱の円形竪穴になってくるのだが、この復原がむつかしい。古墳時代に卓越する隅丸方形の4本柱だと難なくできるのだが、円形平面の4本柱にはいつも頭を悩ませる。信じられないかもしれないが、いちど挑戦してみてください。

↑一昨年度に竣工した土屋根住居にようやく草が生えてきた。 ↓まもなく着工する大型竪穴住居の仮組作業

出雲の昼食はいつも蕎麦だ。今日は駅前の蕎麦屋で卓を囲み、三味割子を食べた。ふだんなら5枚はいくところだが、朝ご飯をたくさん食べているので、今日は3枚で打ち止めにした。午後から宮本と安来の「足立美術館」を訪問した。ご存じの方も多いであろうが、アメリカの日本庭園専門誌 Journal of Japanese Garden のランキングで足立美術館の庭園は4年連続(2003-2006)日本一に輝いている。今年のベスト5をみてみよう。
1位 足立美術館(島根)
2位 桂離宮(京都)
3位 山本亭(東京)
4位 無鄰庵(京都)
5位 栗林公園(香川)

いやはや桂離宮をおさえて4年連続1位に輝くとは恐るべきことであり、いったいぜんたい何を指標にして格付けがなされているのか、不思議に思うのだが、「細部に至る維持管理は造園の大傑作である」との評価を受けているようだ。そりゃ「維持管理」という点からみれば、たしかに足立美術館の庭園は素晴らしいことこの上ない。今日も、多くの職人が植木の剪定作業に従事していたが、わたしたちの立場からみれば、維持管理の労力が過重にすぎるように感じられなくもない。維持管理が細やかすぎて、古めかしさが消え失せ、日本人の心性を打つ「侘び」の心境が微塵も感じられないのである。言い換えるならば、庭に時間を感じない。
「
加藤家の小庭のほうがいいねぇ」
と小声で呟くと、宮本はこっくり肯いた。
もういいや、と思って、美術館を出ようとしたところ、最後のスポットに陶芸品陳列室があり、河井寛次郎と北大路魯山人の作品が展示してあった。作品の評価をわたしはできないが、そこで魯山人の言葉に目をとめた。
「努力といっても私のは遊ぶ努力である。私は世間の人が働きすぎると思う一人である。私は世間の人がなぜもっと遊ばないのかと思っている。画でも字でも、茶事でも雅事でも遊んでよいことまで世間は働いている。なんでもよいから自分の仕事に遊ぶ人がでて来ないものかと待望している。仕事に働く人は不幸だ。仕事を役目のように了えて他の事の遊びによって自己の慰めとなす人は幸せとはいえない。政治でも実業でも遊ぶ心があって余裕があると思うのである。」
わたしも数年前、学生向け開学パンフレットに、
「よく学び、よく遊べ。但し、最後には、学問でも十分に遊べることに気づいてほしい」
というメッセージを記した覚えがある。
- 2006/10/16(月) 23:36:13|
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今朝はケンボーの車に乗って倉吉に向かった。空は秋晴れ。コバルトブルーの空と融けあった穏やかな日本海に見とれながら、「
夏の終わり」を思い出した。
ケンボーの車では、70年代のアメリカン・ポップスが流れている。
「なぜこういう古い音楽を聴くのかな?」
「だっていい曲じゃないですか!?」
「そりゃ、そうだけど、70~80年代の音楽っていうと、おれたちの青春時代だからね。こういう年代で聴く音楽は一生耳に残るのね、30年たってもまだ聞いているもん。そういえば、
チャックは、も一つ古いからな、50~60年代のポップスがいつも車で流れているんだわ。」
「みたいですねぇ・・・」
「でっ、どういうミュージシャンが好きなの??」
「ビリー・ジョエルと山崎まさよしです。」
ビリー・ジョエルか。懐かしいなぁ。最近買ったCDでは、That's the way you are(「素顔のままで」)を
ダイアナ・クラールがカバーしていた。あれはいい曲だ。

倉吉では伝統建築フェアの真っ最中。会場の斎木家住宅につくと、眞田さんから
「今日はあちこちでイベントがおこなわれていまして、お客さんが少ないと思います・・・」
といきなり告げられた。まぁ、予想されたことではある。ところが、蓋をあけると、畳座敷は30人ばかりの来場者でうまってしまった。
「匠のつどい」を代表して倉恒さんから主旨説明があり、わたしとO君1号で40分ばかりスピーチをした。その後、左官屋さんや工務店・設計事務所の方々から質問があり、研究室OBのタクオ(1期生)と宮本(2期生)、そして県教委の松本さんや松江の山村カメラマンにもコメントを頂戴した。
このメンバーはさながら同窓会のようなもので、
サダルチョークを占領しての会話も弾みっぱなし。とくに、タクオや宮本のような卒業生に会えるのは、ほんとうに嬉しい。


夕方5時半に解散して、わたしは宮本の車に乗り出雲に向かった。宮本の車は何度も鳥取-奈良を往復したので、乗り慣れていて、安心感がある。途中、米子の吉田(旧名
Y.ジーコ)と電話で話した。吉田は米子のお菓子屋さんに務めている。
「給料は安いけど、まわりの人がいい人ばっかりなんで」
という発言を聞いて、「それは良かった」と答えたが、横で宮本は少し羨ましそうな顔をした(これは冗談)。
出雲のホテルに着いたら8時になっていた。
M設計事務所の所長がお待ちかねで、さっそく3人で夕食に出かけたのだが、なにぶん疲れていて、焼酎のまわりが異常にはやく、早々にホテルへひきあげた。そこでメール・チェックしたら、大学に残ってグーグル・アースと格闘していたチャックから「本日の成果」が報告されていた。以下、抜粋転載。
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浅川先生
パソコンに対してへタレのチャックです。こんばんは。
本日の伝統建築フェア、お疲れ様でした。
今4409いるのですが、倉吉に行ったメンバーも皆疲れているようです。
(長文略)最後になりましたが、現在の4409の写真を撮ってみました。
寝ているのは*先輩と**先輩で、手前の机は自分が朝から作業してたものです。
よければ今日のブログに使ってみてください。
来週火曜日にまた元気でお会いできたらと思います。
グッバイフォーエバー(笑)
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- 2006/10/15(日) 23:38:15|
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発表終了後、「いい経験でしたね」とS工務店のSさんがおっしゃった。本当にその通りである。
10月7~19日の期間中、鳥取県倉吉市では「伝統建築フェア2006」というイベントが開催されている。そんななか、浅川研究室にも「ローコストによる古民家修復 -加藤家の実験」というテーマで
ミニ講演会の依頼があり、今日がまさにその日であった。会場は倉吉の齋木家住宅(↑倉吉大店会の隣)で行われ、講演者は浅川先生とO1号であった。前半は浅川先生が担当し、後半は居住者Oが担当させてもらった。O1号は加藤家住宅修復プロジェクトについてしゃべったのだが、緊張しすぎで頭が真っ白になってしまった。前日、大学から帰って発表原稿を作成し、発表練習もおこなったのだが、やはりあのような舞台に立つとダメである。自分が用意した資料の内容を十分にしゃべることが出来なかった。卒論の発表会へ向けやるべき課題がまた見つかった。
講演終了後は数多くの質疑応答が交わされ充実した時を過ごすことができた。そして、すべての予定が終了した後、冒頭に述べたように、S工務店のSさんから「いい経験でしたね」という言葉を頂いた。その言葉は講演に失敗し落ち込んでいたO1号を救ってくれた。Sさん本当にありがとうございます。この経験を必ず「実力」という形に繋げます。

↑↓ミニ講演の様子

ミニ講演会終了後、研究室行き着けの喫茶店「サダルチョーク」に向かうことした。その道中、講演会でお世話になった方がたが企画されていたコーナーに足を運んだ。そこには、木造建築の構造を表現した模型が置いてあった。しかもその模型は解体可能であり、解体作業や組み立てなどの職人仕事を体験できることができる!! 今回参加した浅川研究室の学生10人は、夢中でその作業に取り組んだ。その作業中、上棟式もまねごともおこなった。普通、上棟式と言えばお餅を投げるのだが、今回はお餅の代わりに飴を投げた(あくまで上棟式の体験である)。代表で、居住者Oがこの大役を任され、まずかけやで棟木を叩いた後、飴を蒔いた。このような経験は出来るものではない。
今回の「伝統建築フェア2006」はいろんな意味で思い出になった。(01号)

↑解体作業 ↓上棟式の様子
- 2006/10/15(日) 21:32:23|
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