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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

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石取り@姫鳥線

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 本日のプロジェクト研究2&4での僕の作業は土台下に敷き詰める石集めでした。池田住研さんにお借りしたトラックを運転して、姫鳥線の工事現場に行ってきました。でかい石がごろごろしてました。てか、かなりの力で固めているらしく、力一杯引っ張ってもなかなか抜けなかったです。で、きっとそのためか、指をつめて軽傷を負ったかわいそうな子がでてしまいました。大量の石を積んで帰ってきました。5人がかりの作業だったので、1時間ほどでトラックは一ぱいになりました。しかし、トラックのタイヤにはどう見ても、基準値以下の空気しか入っていなさそうで、ビクビクしながら運転してました。でも、僕的にはかなりいい経験をしました。最近いろんな車を運転できて楽しい限りです。

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 で、帰ってすぐに休憩をした後、屋根裏掃除班に配属された石取り班は、各々が、ほうきやら、熊手やら、ちりとりやらを手に、梁の上から、藁やら、竹やら、埃やらと格闘したんですが、これまた骨の折れる作業なんです。といっても、天井板には下りられないんで、梁や足場から身を投げ出す格好で、ごみをビニール袋にいれていくだけですから。ていうか、あそこにあれだけの人数がいると大変危険な気もしましたが・・・・でほんの30分程度やったんですけど、皆さん真っ黒になってお疲れの様子で、解散とあいなりました。 (けんボー)

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  1. 2006/11/30(木) 22:02:54|
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カーン!カーーン!!カーーーン!!! -水屋のリフォーム(Ⅰ)

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 凍えるような寒さの今日、水屋班は本格的に動き始めました!
 まず水屋班班長のMr.エアポートさんが作成してくれた設計図をもとに、加藤家で廃棄された水屋の補強作業を行う班とガラス戸の加工をする班にわかれて作業開始!
 私はガラス戸の加工の手伝いをしました。ガラス戸はもともとのサイズから半分にするという計画です。そのため切る場所
を確認し、切る作業に入ろうとしたときのこと・・・

  「あれ? この部材はどうやってくっついてるんだろう?」

という疑問に衝突し、切っても問題ないところで切って確認しながら作業を続けていきました。

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 一方、補強作業班は、まず板を剥がして釘を抜き、元々はなかった束を新たに作成しました。辺りに金づちやのみのいい音が響き渡ります!

  カーン!
    カーーン!!
      カーーーン!!!

 そして、両班の作業の区切りがよくなり、お互いに作成した新「ガラス戸」と新「束」(水屋の上側の棚の中心に縦にはめてある材)をはめてみました。

!!
 とってもいい感じじゃないですか! Aくんの作成した束もいい感じにはまってます☆
 ・・・というわけで、今日はとっても幸先いいスタートだったのではないかと思い
ます。ただ、11/30現在でも外は相当な寒さだったので、どうにか今後も順調に進め、雪が降るまでには・・・!!と思った水屋班でした。(2年書記K)


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  1. 2006/11/30(木) 21:19:14|
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会議日につき

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 今日は会議日。すでに二つの会議をこなした。午後6時からは、臨時の某委員会も開催される。
 なぜ、臨時の委員会なのか、というと、その火種はわたし自身にあって、自分で自分を忙しくしてしまっているのだから、どうしようもないが、なにぶん本学の現状を思うと動かざるをえないと判断したので、動いた結果である。

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 11月23日の朝刊が発端であった。紫香楽宮の大極殿院回廊らしき掘立柱列が発見されたという記事を社会面でみつけて、「この程度の発見でも社会面か、近畿は恵まれてるな」などと呟きながら、その横の記事をみて驚いた。なにに驚いたのか、ここでは書けない。

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 さて、田和山では、復元竪穴住居の茅葺きが終わった。あとは梯子や火棚などの内装を残すのみ。ワイフが倒れて緊急入院したことにより、棟上げ以降、まったく現地指導ができなかったが、こちらの担当係長と工務店の担当者はじつに見事な差配をみせてくれた。早く竣工した姿をみたいと思うが、やはり1月にならないと難しいだろう。
 いまは鳥取と奈良の往復で精一杯。これが正直な気持ちです。

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  1. 2006/11/29(水) 16:26:51|
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第31-0103号

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 ひさしぶりに鳥取に戻ってきた。
 いきなり演習4コマ、おまけに夜は臨時の学科会議。また、ヘロヘロだ・・・

 今日の3・4年ゼミは、加藤家ユニットハウスの2階でおこなった。なぜかって、加藤家の修理工事もずいぶんみていないし、監理者として、放ったらかしにはできないからである。昨日で根太打ちは終わり、今日から土間に足場が3段立った。いよいよロフト工事に移行する。ゼミの休憩タイムに屋根裏まで上がってみたが、足下がふらふらしている。屋根の原寸模型も、鈑金工事をのぞいてほぼ完了したが、トチ葺きの軒付が一重になっている点にはおどろいた。なぜ二重にしたのか、というと、上段にのみ鉄板を被せ、それを庇にして雨除けしながら、下段のトチ葺き軒付を露出してみせようと思ったからである。一重になってしまうと、納まりが悪い。鉄板を軒付の途中でとめるのも不細工だし、全面を覆ってしまうと、せっかくの美しい横板の重なりがみえなくなってしまう。
 ここは、もとに戻していただくしかないだろう。

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 そういえば、登録文化財の標識が加藤家に届いていた。あたりまえだが、奈良町でみた標識と同型。もちろん番号は違う。

   第31-0103号

 記念すべき登録番号だ。このプレートを納めるサインボードのデザインも考えなければいけない。

 疲れてしまった。今日は、これ以上、書けない。

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↑今ごろになって、青谷上寺地遺跡建築部材データベースの記事がでた。選挙が終わったからか??



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  1. 2006/11/28(火) 22:22:16|
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根太打ち-加藤家住宅修復工事

 公開日から約一週間。加藤家住宅修復工事は根太の取り付け作業にはいるということで、今日は朝からOさんを含め9名のゼミのメンバーが集まった。現場に着くと、既に軍手、かなづち、釘と撮影機器が用意されてあり、各メンバーは釘を打つ側と撮影する側にわかれた。

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 能力的に最も現場に相応しくないような私も根太に釘を打ってみたのだが、うまく打てない。これまでに私が打ってきた爪楊枝のような釘とは違って太いし長い。打っていく途中で、だんだんと曲がってきてしまったときの焦りも数倍である。何名かは焦った様。この大きな釘を打ってみて初めて、自分がいままで釘をしっかり打てていなかった事に気付かされた。横では職人さんがテキ、パキと作業をこなしていた。

 私の打った釘は、基本のなっている方々に助けていただいたので首を曲げずに済んだ。しかし本日1番曲がったのは釘ではなく、かなづちのほうであった。おそらく○○円均一の売り場に並ぶかなづちだったのであろう、根太打ち用の釘に負けてしまったようだ。(ハル)

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  1. 2006/11/27(月) 23:00:32|
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木工事終了 -茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(XXⅨ)

 
 本日、木曜日の1年生による色塗り作業を前にして、茅葺き風「トチ葺鉄板被覆屋根」原寸部分模型見学のため、池田住建を再訪しました。
 11時頃事務所に到着し、木曜日に使う古色塗りの塗料を見せていただいた後、工場へ移動しました。今回使う塗料は日本製の自然塗料で、一般的に使われるドイツ製の物のようにシンナー等が含まれておらず、良いものだそうです。
 模型は以前の場所とは少しはなれた、もうひとつの大きな工場に移されていました。前回の状態から野垂木が載り、野地が敷かれ、木工時が終了していました。

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↑木工事終了

 軒付部分は木片がビッシリ敷き詰められているように見えますが、裏から見ると台形の板が交互に詰まれ、その隙間から湿気が抜けるようになっています。木片の一番下にはコアが敷かれています。コアは切ってあるのではなく、割ってあるために繊維が残っており、水が滲みずこの上を抜けていきます。

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↑台形の木片にすることで隙間を作る。 

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↑完成まで後は、色塗りと板金工事を残すのみです。(Y2号)

  1. 2006/11/27(月) 19:33:31|
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回想「御所野の焼失住居」その2 -縄文建築論(Ⅳ)

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 いま自らの論文リストを再確認してみると、中型の実験復元住居の竣工(1997)から焼却(1999)にかけてのあいだに、御所野に係わる論文を5篇著している。
 
 ①浅川・西山和宏「御所野遺跡で出土した縄文時代中期の焼失竪穴住居群」『奈良国立文化財研究所年報』1997-I:p.6-7
 ②高田和徳・西山・浅川「縄文時代の土屋根住居の復原(一)-岩手県一戸町・御所野遺跡の焼失竪穴住居-」『月刊文化財』6月号:p.55-59、1998
 ③高田・西山・浅川「縄文時代の土屋根住居の復原(二)-岩手県一戸町・御所野遺跡の焼失竪穴住居-」『月刊文化財』7月号:p.36-40、1998
 ④浅川・西山「縄文集落遺跡の復原-岩手県一戸町・御所野遺跡の焼失住居から-」『第2回アジアの建築交流国際シンポジウム論文集』:p.333-336、1998
 ⑤浅川「御所野遺跡 -縄文時代中期後半の環状集落(岩手県)」『建築雑誌』9月号(No.1426):p.22-23、1998

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 この時期の分析は、中型から大型の竪穴住居にシフトしつつあった。大型住居の場合、床面直上の炭化材だけでなく、もやもやとした炭化物層(屋根下地となる樹皮と推定)が下の炭化材をパックし、さらにその上には屋根土層および周堤崩壊土層と推定される土層が堆積していた。ただし、石囲炉の真上だけは屋根土層が途切れている。以後、断面図にみる土層堆積関係が、焼失住居跡が土屋根か否かの判定材料となっていく。簡単にまとめると、
  1)床面直上の炭化材
  2)土屋根の下地と考えられる炭化物層(弥生以降の場合はしばしば茅を含む)
  3)屋根土層
の3層が明瞭な関係をもってみとめられるならば、その住居跡は土に覆われていたとみて、まず間違いない。御所野の大型住居はその典型であり、もやもやとした炭化物層の下側で、壁の堰板、垂木、梁・桁、棟木?などと推定される炭化材を確認している。炭化材は散乱気味で来運遺跡のような規則性はみとめられないが、それでも遺構を細かにみていくと、残存した炭化材のもとの機能を十分推定できる。
 上に示したのは初期の段階の復元パースである。やや長細い饅頭形になっているが、これはあきらかに中型の饅頭形復元案をひきづっているからだ。

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 ところが、ある段階で突然、一つの事実に気がついた。大型住居の平面は、楕円形や長円形ではなく、弾丸形(シャトル形)をしているではないか。複式炉をもつ入口側では壁のエッジが直線的に長くなるのに対して、その反対側はまるくなっている。柱配置もそれと平行関係を保っていて、7本主柱構造ながら、全体は長細い5角形を呈している。これを素直に復元するならば、入口側は切妻、背面側はドーム状の寄棟になるのではないか。なぜこのことに長く気づかなかったのか。要するに、雪国で子どもたちが作って遊ぶカマクラのような構造ではないか。そういえば、黒龍江南岸でみたホジェン(ナーナイ)族の竪穴住居もこういう構造をしていた。
 というわけで、長い検討を経て修正を重ねた結果、大型住居は正面側をストンと切り落とすカマクラ形の構造に復元され、中型についても、カマクラに近い饅頭形に設計変更され、実際に施工された
 この構造のもつ意味は、とてつもなく大きい。円錐形テントの竪穴化とは別系統の発生と進化の系列が想定される一方で、縄文後晩期に展開する5本柱系掘立柱建物の源流を考える上でもきわめて示唆的である。
 それらについて、もう少し書き足したいと思っていたが、明日は朝から学校訪問を控えている。続きは、またいずれ。(続)

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  1. 2006/11/27(月) 02:16:46|
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ペパーミントにて

 昨夜10時をまわってから、京都にいるタクオがメールで連絡してきた。所用が終わったので、これから会いに行っても良いか、という問い合わせだが、
  「車か?」
  「いや、電車です。」
という。電車とはすなわち近鉄のことだが、西大寺もしくは高の原から京都方面への最終電車は11時15分前後だから、どう考えても面会は不可能であり、今日に延期になった。
 一方、患者は夕食の煮込みラーメン鍋を一家とともに囲んで、ご満悦。それからしばらくソファに腰掛け、テレビをみていた。タクオとメールをやりとりするあたりまで、わたしの横に坐っていたのだが、夜も更けてきたし、そろそろ眠ろうということで、隣の寝室に移動した。
 恥ずかしながら、はじめに眠りに落ちたのはわたしのほうだった。小一時間ばかりして、揺り起こされた。患者がわたしを起こしたのである。
  「目が覚めてしまって、眠れないの・・・」
 驚いたことに、それから患者は、しばらく鬱の症状を示した。
  「わたしは、このまま馬鹿になってしまうんじゃないかって思うと悲しくなってきて・・・」
 あれっ、と思った。今日の昼も、いつもと同じ発言を繰り返していたからだ。こんな体になってしまったのに、悲しいと思うことがないし、涙が出ることもない、なぜなんだろうと思うの、という吐露である。
 それが一変した。彼女は「悲しい」と言って、あきらかな動揺を示しており、どうしても寝付けない。仕方ないから、リビングに連れ戻して、ソファに坐らせた。娘たちがあつまってきた。しばらく雑談して、落ち着いたかと思うころを見計らい、二人の娘が寄り添って寝室につれていった。3人が「川」の字になって一つの布団におさまった。これで、なんとか眠りに落ちるだろう。
 ところが、その15分後、患者は再びリビングに姿をあらわした。眠れないし、悲しいのだという。今度はソファに横たわらせた。わたしは、パソコンのキーボードを叩きながら、患者を見守っていた。患者はようやく眠りに落ちた。ひょっとしたら、患者は一部の神経をやられていて、悲しみの感情をなくしていたのかもしれない。その神経が在宅生活とリハビリのせいで復旧してしまったのだろうか。
 わたしは「縄文建築論(Ⅳ)」を書き終えた後、2階から布団をもっておりてきて、患者が眠るソファの近くで一夜をあかした。

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 タクオは昨夜、伏見の向島(むかいじま)にあるヤンマーのアパートに泊まった。ヤンマーは伏見で建具師の修行中。一方、向島ニュータウンはわたしたち夫婦が新婚生活を送った懐かしい場所である。
 タクオとヤンマーは、今日の午後1時前に高の原に着いた。デラックスなフルーツ・セットのお見舞いをもって。二人を「ペパーミント」という喫茶店に連れていった。我が家愛用の古式ゆかしい喫茶店で、定食もカレーもスパゲティもサンドウィッチもみんな美味しいが、とりわけ炭焼きコーヒーの味が絶品のお店。ナベサダのような、渋いマスターが一人で店を切り盛りしている。
 ヤンマーとは、卒業後はじめての再会である。他の卒業生からいろいろ情報を得ていたので、カマをかけてみた。
  「彼女ができないから、お金が貯まるっていう噂だぞ!?」
  「そのとおりです、ハハハ」
 二人とも、うちのゼミの卒業生(1期生)だが、同時にサッカー部員でもあって、こうなると、もう一人のゼミ生兼サッカー部員にも電話しないわけにはいかない。その部員は、いま千葉に長期出張中。電話すると、
  「シナントロプス・ペキネンシスがですね、遊んでばかりで、やってられません。」
という訳のわからない小言を繰り返した。
 南無阿弥陀仏!

 タクオとヤンマーを高の原まで送って帰宅した。今日は、患者に一つしんどいリハビリを課した。2階まであがってみよう、と提案したのである。箪笥と鏡台がおいてある彼女の部屋までの往復。案外うまくいった。上りは杖をついて、馴染みの3拍子歩行だが、2歩めは右足ではなく、左足をあげる。そして、最後に麻痺した右足を体全体でもちあげる。心配だった下りは、杖を手放し、壁についた手すりをもって降りた。やはり、左足を最初に動かし、右足をそれにそろえる。無事、1階に戻ってきた。
 夕食後、患者は病院に帰っていった。どういうわけか、集中治療室の前にはクリスマス・ツリーが飾り付けてある。ひと月早いけど、
 メリー・クリスマス!!

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  1. 2006/11/26(日) 18:44:04|
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回想「御所野の焼失住居」その1 -縄文建築論(Ⅲ)

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 御所野遺跡(岩手県一戸町)と出会ったのは、平成8年(1996)だから、今から10年前か。わたしは30代の終わり、高田館長(御所野縄文博物館)は40代の半ばであった。 御所野はわたしが本格的に縄文の集落遺跡整備に取り組んだ最初で最後の遺跡である。これ以上真剣にエネルギーを注いだ縄文の遺跡はこれまでなかったし、おそらく、この先あらわれないだろう。この10年を振り返ってみるに、縄文との付き合いが三内丸山でも大湯でもなく、御所野であったことを本当に幸運であったと切に思う。
 遺跡そのものの素晴らしさはいうまでもないが、高田館長をはじめとする現地事務局の体制、林謙作先生を中心とする委員会の学術レベルの高さにいつも啓発されていた。平城宮跡には今でも愛着があることはあるけれども、あの遺跡には必ず「権力」がついてまわる。悲しいことに、その厭らしさに気づいている「権力者」があまりにも少なすぎた(もちろん例外的な方もいた)。御所野は、そういう権威・権力とは無縁の「僻遠性」というか「周縁性」に持ち味があって、それがまた、わたしの気性とよくあっている。

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 平成8年の夏、御所野遺跡の西区で4棟の良質な焼失竪穴住居が発見された。縄文時代中期末(約4000年前)の遺構である。弥生~古墳時代の焼失住居跡なら全国至るところで発見されていたが、縄文時代の遺構となると、炭化材の断片を残す程度ならともかく、上屋構造を復元しうるだけの火災住居跡の発見は皆無であり、事実上、御所野が日本最初のものであった。ちょうどそのころ、わたしは「焼失住居跡の復元」をテーマとする小さな科学研究費をもっていて、御所野のデータはまさに垂涎の的。だが、あえて申し上げておくと、焼失住居跡を研究していたから、御所野に導かれたのではなく、御所野の委員に就任したら、たまたますごい焼失住居跡がみつかってしまったのであって、この偶然性に「赤い糸」を感じないわけにはいかない。
 4棟の焼失住居跡は、大型1棟、中型1棟、小型2棟からなっている。大型は7本柱、中型は6本柱、小型は3本柱と柱なしである。まず掘り下げられたのは中型で、冬になっても調査は終わらず、わたしは型どりした上での埋め戻しを指示し、調査は翌年に持ち越された。2年越の調査の結果、中型の住居跡では垂木材と思われる丸太や壁の堰板が大量に出土した。また大型住居の断面調査から、石囲炉上をのぞく大半の部分に屋根土層が堆積しており、炭化材と屋根土層のあいだにはもやもやとした薄い炭化物層も確認された。以上から、中型注居の上部構造を土饅頭型に復元したパースを描いた(西山和宏画)。

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 一戸町教委の動きは迅速だった。このパースをもとに、翌平成9年(1997)夏、さっそく復元にとりかかったのである。それは、史跡指定地の外側でおこなう実験的な復元であり、調査担当の高田さんと発掘作業員だけでおこなう手作りの復元であった。要した時間は6日間。かかった費用は作業員さんの賃金をあわせて、わずか35万円。以下にその工程を図示する。

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 この土で覆われた竪穴住居の出来は、ほとんど完璧であった。御所野の情報を使って、御所野に先行して土屋根住居を復元した入江貝塚(北海道虻田町)や北代遺跡(富山市)が雨漏りに悩まされているのとは対照的に、調査員と作業員だけで作った復元縄文住居はまったく雨漏りがしない。あえて欠点をあげつらうとすれば、天窓が小さすぎて、室内に煙が充満してしまうことだったが、その煙によって菌類・苔類・キノコ・虫類は燻蒸され、建築部材は黒光りして湿気をはねのけてしまった。
 本格整備が始まる年の前年、すなわち平成11年(1999)の夏、この実験的復元住居を焼くことになった。竣工から約2年後のことである。
  「焼失住居跡のデータから復元した土屋根住居を焼いたらどうなるのか」
それが、最大の関心事であった。

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 家焼きの前々日、復元住居内で「最後の晩餐」を催した。高田さんの奥さんが作ってくださった藷煮をアテに酒を飲んだ。石囲炉の火で鮎も焼いた。鮎を焼くと、火の粉が飛び散る。普通の草屋根であれば、屋根が燃えてしまうのではないか、と心配になるほど火の粉が飛び散ったが、土屋根の垂木や下地(クリの樹皮)に付着した火の粉はたちまち鎮火してしまう。それだけ、土で覆われた屋根は湿気を含んでいるのである。

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 その二日後、復元住居を焼いた。焼くと言っても、なかなか焼けない。まずは天窓を壊して、開口部をひろげ、さらに柱の根本や火棚に大量の薪を配して油をかけ、それに火をつけた。そうでもしない限り、火はすぐに消えてしまう。見学に来ていただれかが「キャンプファイアのようだな!」と口にした。その通りだと思った。キャンプファイアのようにして薪を積み上げ、なんとか炎が燃えさかるようになった。天窓から炎が立ち上がり、その周辺の土屋根や部材がくずれ落ちていった。しかし、2~3時間もすると、火の手は消えてしまった。煙だけがもくもくと立ち上っている。この煙がなかなか消えない。完全に消えるまで2日近く要したのではないだろうか。
 ここであきらかになったことは以下の2点である。
  1)土屋根住居は失火では焼けない。たくさんの薪を用意し、意図的に焼かない限り、焼くことはできない。したがって、われわれが多くの遺跡でみてきた「焼失住居」は、じつは「焼却住居」である。
  2)土屋根住居の場合、天窓周辺は炎が燃えさかり、部材はよく焼けて早めに崩れ落ちるが、途中から炎は失せて煙りだけになり、建物全体が不完全燃焼の状態に移行する。この結果、壁周辺を中心に炭化材がよく残り、主柱に関しても立ったままの状態で鎮火してしまう。この状態は焼失住居跡の出土状況とよく似ている。 (続)

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  1. 2006/11/26(日) 03:56:21|
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一人歩き

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 田和山の復元竪穴住居は、とうとう越屋根まで茅葺きが達してしまった。ただ、当初からわたしが懸念していたように、妻側煙出しの部分で雨が吹き込んでくる危険性があるという。これについて、
  「(煙出しの)下半分くらいに杉皮をタテ方向に並べて取り付けて雨の侵入を防ぎ(↓)、杉の丈は中ほどで短くカットし、その上から全面に格子を架けてはどうか?という案になりましたが、如何でしょうか?」
という質問が届いた。
 わたしはタテではなく、ヨコ使いがよいと思う。青谷上寺地で出土した妻壁板(杉)も横板だし、杉皮の壁は屋根を葺くのと同様の重ね葺きがなされていたと考えるからである。

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 さて、わたしは学科において、教務委員と入試委員と広報委員と大学院担当委員を仰せつかっている。昨日の午前は新聞で入試関係の重大ニュースを発見し、入試委員としての重責を果たすべく、さっそくメールで各所に情報を発信したりしていたら、病院に着くのが遅くなった。病室では、患者は入浴と昼食を終えてお昼寝の最中。患者の母と娘たちはわたしを待ちくたびれている風であった。
 その午前、担当医から衝撃的な告知がなされていた。
  1)杖は4脚からふつうの1脚に変える。
  2)病室のあるフロアーに限って、同行者がいなくとも杖歩行を許可する。
  3)リハビリのない週末に限り、1~2日の外出・外泊をみとめる。

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 まさに青天の霹靂。1)2)はともかく、3)にはたまげた。患者を家に連れて帰ってもいいのである。「自宅での生活がいちばんのリハビリになるから」ということらしい。もちろん、帰宅させることにした。大急ぎで、外出・外泊許可の申請書を提出した。
 帰宅の前には、午後のリハビリにつきあった。リハビリ担当の医師に、「今晩から2日帰宅するんです」と告げると、在宅生活のためのメニューを用意してくださった。
 まずは、外に出た。1周約80メートルの歩行コースには、緩いステップやスロープが織り交ぜてある。ここをいつもの3拍子で歩いた。室内に戻って血圧を測ると、わずかながら下がっている。運動は血流をよくするから、血圧を下げるのである。つぎに、畳部屋での座り方、起きあがり方を訓練した。正座の姿勢から足を崩し、感覚のある左足の親指を布団にひっかけて左足から立ち上がり、杖をもって右半身もたちあげていく。同じ行動を4回繰り返した。担当の医師からは、
  「はじめての帰宅では、たいてい自信をなくして帰ってくるけど、がっかりしないでね」
というエールを送られて、リハビリ・ルームをでた。
 それから患者を地下の売店に連れていった。リハビリ用のシューズを買うためである。これまでは、どこにでもある安いデッキシューズを履かせていたのだが、すこしまともなシューズにしようと思ったからで、患者に自ら足のサイズをあわせてもらったのである。シューズは高かった。5,040円もする。病室を出てからながい時間が経過していて、とても疲れたようだから、隣の食堂の椅子に坐らせて、大好物のホット・コーヒーを飲ませたのだが、どうやらシューズの値段に不満らしく、患者は「返そうか」となんども呟いた。たしかに、鳥取のカインズホームなら、似たような布靴を380円で売っている。とはいうものの、すでに会計を済ませてしまったし、この病院にはお世話になっているので、説得して返品を諦めさせた。

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 夕食後、わたしの愛車スウィフトに患者をのせて家路についた。なんか、信じられない。助手席に自分の女房が腰掛けていることが嘘のような現実だからだ。
  「あのさ、身障者でも運転できる車があるみたいだからさ、ひょっとしたら、また運転できるかもしれないよ。だからさ、あの調子の悪いワゴンRを買い換えちゃおうか」
  「そうね、もう少し様子をみてからね・・・」
なんて話をしていると、またたくまにスウィフトは平城ニュータウンの自宅に到着した。
 門鈴を鳴らすと、次女が飛び出してきた。患者をソファに坐らせ、家族が彼女を取り囲む。しばらくすると、デブもあらわれた。デブは患者が救急車で運ばれて家から消えた当初、右往左往していた。いつも餌をくれるオバチャンがいない。代わりに、知らない人がいっぱい家の中にいる。怖くて入れない。とくに、あのおじいさんとおばあさんは怖いな。だって、
  「シッ、シッ、あっち行け、という。わたしがいつも坐るソファにも坐らせてくれない」
 ところが、そろそろオバチャンのことも記憶の彼方に消えつつあったようで、オバチャンと再会したデブはあきらかに緊張していた。オバチャンが抱いてやっても体が固い。しかし、だんだん慣れてきた。いつもの、いちばんやさしいオバチャンの匂いをデブは思い出してきたようだ。
 
 患者は嫁入り道具に囲まれたいつもの部屋に戻ることができない。その部屋は2階にあるからだ。1階の次女の部屋が、患者の病室に早変わりした。患者は次女と二人で、すやすやと眠っている。

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  1. 2006/11/25(土) 03:04:17|
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もう一つの高層建築 -桂見遺跡の梯子材

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 先週土曜日の「楼観」講演を聞いたある文化財主事(考古学)から、以下のようなメールを頂戴した。

  「お話の中で、組合せ式の梯子だけは、青谷上寺地遺跡に出土例がないので、平城宮下層出土例を参考にされたとのことだったと思いますが、 以前、鳥取市桂見遺跡を発掘調査したときに、弥生時代後期の木器溜りから、復元延長が9mあるスギの板材が出土しています。 この板材は、両端が30度ほどの角度でカットされている上、ほぼ中軸線上に等間隔に正方形のほぞ穴が空けられていて、当時から梯子の側板ではないか、と話していたものです。 先生もすでにご存知の上で今回の復元建物案には採用されなかったのかも知れず、 もしそうだとすれば大変失礼かと思いましたが、メールさせていただきました。(略)長すぎて、搬入するときずいぶん苦労したことを思い出します。 報告書:(財)鳥取県教育文化財団『桂見遺跡』1996」

 「楼観」の梯子については、刻み梯子では長さが足りないので、組合せ式の梯子にするしかないと判断していた。埋蔵文化財センターの担当者に調べていただいた結果、県内でも弥生後期~古墳前期の出土例があることを知った。しかし、それらの木製品は、いずれも側板もしくは側棒?と推定されるものであって、踏板との複合性を示す例がみいだせなかったため、あえて平城宮下層遺跡の出土例(古墳前期)に倣うことにしたのである。奈良の自宅で鳥取から「平城宮下層遺跡」のデータを受信し、
  「灯台もと暗し」
ですね、と返信した記憶がある。
 ご指摘の桂見遺跡出土板材については、2000年秋の「出土木器研究会」の前日に実見している。そのときは大型建物の「破風」ではないか、と思っていた。しかし、破風や垂木ならば、材の両端は45°に近い角度でカットしてあるはずであり、30°という角度にはならないであろう。この角度はたしかに急傾斜の梯子を想像させる。仮に全長9mの梯子だったと仮定すると、床までの高さは9m×cos30°(√3/2)≒7.8mとなる。今回、柱材によって復元した「楼観」の床高は大引貫の位置から高さ約6mに復元される。
 したがって、桂見の梯子から復元される高層建築の高さはCGで復元した「楼観」の約1.3倍の規模をもつことになり、棟高は13.5m前後と想定できる。茶畑第1遺跡の掘立柱建物11はこの程度の規模であったとみておかしくない遺構である。
 杉皮葺きについで、こんどは梯子。復元CGははやくも二つの検討事項を眼前につきつけられている。

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  1. 2006/11/24(金) 00:35:15|
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患者感激!(Ⅲ)

 今日の病室は賑やかだった。患者の母に加え、滋賀在住の実姉が一家をあげてお見舞いにきてくださったからだ。姉夫婦は滋賀で老人ホームを経営している。だから、介護関係の情報をたくさんもっている。患者が退院後に必要な機器についても詳しいし、これから「身障者」として生きていく患者がなすべき行政手続きについても、分厚い資料をもってきて解説してくださった。
 患者は、なんどか同じことをつぶやいた。同じことを、自ら不思議そうに、くりかえし語るのである。
  「あのね、こんな体になってしまったんだけど、いちども悲しいという気持ちが湧いてこないの。涙も出ない。どうしてなんだろう、って不思議に思うの。ひょっとしたら、薬のなかに感情を抑える何かが入っているんじゃないかって勘ぐりたくなるぐらい、精神的に安定しているのね・・・」
  「きっと良くなるからだよ」とわたしは答えた。
 いまは1~7級の等級に照らせば、たぶん2級ぐらいの「身障者」にあたる状態なんだろうけれど、きっと、しばらくしたら良くなるにちがいない。ガンマナイフで治療した脳動静脈奇形さえ消えてしまえば、完治ではないにせよ、発病前に近いぐらいの状態に戻れるっていう自信が無意識にあるんじゃないだろうか。
 一方、配偶者たるわたしはこれまでどうだったのか、というと、正直なところ、発症後2~3日は湿っぽかった。人前で涙をみせる女たちを羨ましいとさえ思っていた。しかし、患者から酸素マスクや尿管が外され、たどたどしいけれども、ひょうきんな会話をするようになり、いちどは転倒したものの、杖の歩行もできはじめた今となっては、精神的にまったく安定している。ともかく、できるだけ集中治療室にいてやりたい。そういう気持ちがとてもつよい。じつは、明日、タクオが京都にやって来るのだけれども、京都まで出かける時間があれば看病していたいと思うので、タクオにはそう連絡した。申し訳ない。
 不思議なことに、看病が苦にならない。患者の側にいることが患者の闘病生活の補助になるからだけではなく、患者の側にいると自分がとても楽しく、幸福感で満たされるからだろうと思う。一日、何時間でも病室に居られる。もっとも、昨日は結構疲労がたまっていたので、空いているベッドに横になってよく眠った。昼下がりもそうだったが、夕食後には熟睡してしまい、患者の声でおこされた。消灯時間をすぎて、午後九時をまわっていた。病室を去ったのは、十時になってからだった。
 よく眠ったから、原稿はさっぱり進まなかった。今日こそ、書き始めるぞ!

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  1. 2006/11/23(木) 23:56:20|
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素っぴんトマト

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  「なんだ、たったこれだけかいや・・・」
というのが、職人さんたちの素直な感想であった。学生たちが一昨日、千代川で集めてきた小石の量をみての感想である。
 昨日の午後、加藤家を訪れて、わたしも同じように思った。なぜ、かくも生産量が低いのか? 大学院生は答えた。

  「黒くてひらべったい石を探すんですが、なかなか見つからないんです。」

 「ひらべったい」という条件については、もちろん理解できる。土台の下に敷く石なのだから平たいほうがいいに決まっている。しかし、なぜ「黒く」ないといけないのか? 土台の下に敷きつめる地覆石が黒い色彩でなければならない必要性がどこにあるのか、わたしにはさっぱりわからない。「地覆石が黒くあるべき」というのは、大学院生の論理である。根拠のない論理だ。
 石はたくさん集めてくるのが良いに決まっている。多少デコボコしていようが、色彩がどうであろうが、大きさがどうであろうが、役にたたないことはない。小石ならば間詰めにも使える。どうしても使えない余った石は、茶室の基礎の修復用にまわせばいい。

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 一時過ぎに大学を出発して夕方まで作業し、どうしてあれだけの石しか集められないのか?
 そういえば、わたしは学生たちに「土嚢袋」を用意するよう指示しておいた。しかし、大学院生は「要らない」と判断した。2年前、「廃材でつくる茶室」の基礎石集めの際、土嚢袋を使って石を集めた。大学院生は、「あれは砂利用に使ったのです」と言う。
 2年前の10月、わたしはピエールやキムが、小石の詰まった30㎏もある土嚢袋を何袋か茶室に運び上げたのを覚えている。石を手で集めてどうするのか。どうやったら、効率よく大量の石を集めて運べるのか。準備不足としか言いようがない。ただ、石については、姫鳥線の工事現場の破砕石を分けていただける許可がおりた。だから、もう千代川に行く必要はない。代わりに、工事現場に行くのだ。重労働である。
 木舞壁用の竹も足りない。数えてみたら50本ほどしかなかった。細めの竹はたしかに見つけにくい。細竹が足りないなら、割竹を集めるしかない。大学の裏山で手に入るだろう。この作業もまだ続けなければならない。
 問題はゼミの時間の使い方だ。たまに肉体労働するから楽しいのであって、毎回こうではゼミにならない。このまえ聞き逃したインターンシップ中間報告を発表してもらいたいし、遅れがちな卒業研究については、繰り返し発表させて尻を叩かなければならない。さて、どうしたものか。どう時間を配分すべきか、いま迷っている。
 あえて付け加えておくと、学生が怠けているとは言いたいのではない。要領がわるいだけなんだから。ただし、大学院生はもっとよく状況を把握して、生産力を高めるべく努力する必要があったのではないかな。

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 写真は21日の田和山。大型竪穴住居の茅葺きが始まった。土に接する部分では、このように本葺き(真葺き)にする。茅の根本が地面側、穂が上側である。しかし、ここから上、棟までは逆葺きにする。茅の根本が上側、穂が下側である。こういう葺き方を、かつてアムール流域のツングース系漁労民族ナーナイの漁労小屋建設過程で実際にみた経験がある。
 松江にはなかなか行けないだろう。余裕があれば、奈良に戻って看病したい。田和山は大丈夫だ。いまのところ、何も問題ない。1年目はぼろくそに叱って指導していたが、昨年から軌道に乗り、今年は任せきりでも、安心してみていられる。来年の1月に米子で講演することになっているから、そのついでにでも、竣工した竪穴住居をみせていただこうかな。そのとき延期していた「吉田を囲む会」もやれればいいが、調整がつくだろうか。
 じつは、今日は大分に移動する予定であった。明日の横尾遺跡指導者会議に出席するためなんだが、もちろんこの会議もキャンセルさせていただいた。おかげさまで、数時間前に奈良に戻ってきて、面会時間はとうに過ぎていたが、厚かましく集中治療室に入っていった。部屋の灯りは消えていた。しかし、患者は起きていた。寝付けなかったらしい。河原町の「道の駅」で仕入れたパンとトマトジュースをみせたら、「食べたい」という。輪切りのオレンジをはりつけた味付けパンと干葡萄の入ったラスク。トマトジュースは日南町特産の「桃太郎トマト」と食塩だけで作った自然食品で、ビン1本が740円もする。品名は「素っぴんトマト」。トマトをすり下ろしたざらざらの食感が残っていて、たしかにまろやかで自然な味がする。
 明日から、病室で論文を書く予定。


  1. 2006/11/22(水) 23:59:29|
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「楼観」とは何か

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 魏志倭人伝には、建築に係わる描写が三ヶ所みられる。
  ①屋室あり、 父母兄弟臥息処を異にす。
  ②租賦を収むに邸閣あり。 
  ③居る処の宮室は楼観・城柵をおごそかに設け、・・・・・ 
 18日の講演では、「屋室」「邸閣」「宮室」「楼観」について、おもに中国漢代の字書を参照しながら、その機能と構造について推察した。とりわけ、青谷の細長い柱材から復元された建物を、わたしは「楼観」であろう、と主張してきたので、ここに若干の説明を加えておきたい。なお、この考察については、日野開三郎、林巳奈男、田中淡ら諸先学の論考に負うところが大きい。
 
 漢代初期以前の成立とされる字書『爾雅』の「釈宮」には「観謂之闕」(観のことを闕という)とあり、東晋の郭璞(かくはく)はこれに注して、「宮門の双闕である」としている。『春秋』経の定公二年には「雉門および両観災す」ともみえる。下って、後漢の劉煕が撰した『釈名』の釈宮室には、
  闕、闕也。在門両傍、中央闕然為道也。・・・・観、観也。於上観望也。
  (闕とは闕[欠く]の意である。門の両脇にあり、中央が闕然として道をなしている。・・・・観とは「観る」の意である。上から観望するのである。 )
と訓釈されている。
 一方、楼については『爾雅』釈宮に、「台」に続く事物として取り上げられ、「狭脩曲曰楼」(狭くてながくL字形に曲がったものを楼という)ともみえる。田中淡氏の「先秦時代宮室建築序説」(『中国建築史の研究』1989)に従えば、「観」とは「闕」、すなわち現存の北京故宮午門(↑↓)と同様の構成のものがそれに相当すると考えられる。楼が宮殿の類ではなく軍事用望楼をも意味したことは、『釈名』が「楼は窓や扉の孔がまばらにあいたもの(楼謂窓戸之間有射孔、楼楼然也)」とするところからも推定される。軍事建築としての木楼・土楼の記述は、『墨子』備城篇などに多く見いだされるという。また、「楼」は折れ曲がった「台」の上に建てられた高層木造建築とみることができる。以上から、「楼観」とはコ字形平面をもつ城門=「闕」の「台」上にたつ木造建築で、とりわけ「観」とは左右前方に張り出した「両観」のことを意味するであろう。
 この城門の構造がきわめて防御性の高いものであることはいうまでもない。物見櫓としての機能だけでなく、城門を攻める敵兵に対して攻撃しやすいシステムを具現したものとみることができる。

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  「これは、まぁ、中国でいうところの『楼観』やな」

 西日本を訪れた漢代の中国人は、環濠や柵をともなう日本式の高層建築をみて、そう思ったに違いない。中国に古くから存在した「闕」としての「楼観」が弥生時代の日本に存在したはずはない。「宮室」や「邸閣」にしても、中国式の建築とはとても言えない。しかし、倭人は他の東夷と違って、穴蔵式の竪穴住居だけでなく、いちおう「屋室」(地上の建物)ももっている。そして、とても「闕」とは言えないが、門の脇にたつ高層建築もあるから、とりあえずは「楼観」という言葉でそれをあらわすしかない。それが、倭人伝にみえる「楼観」の実態であったとわたしは思う。
 さて、弥生時代のある時期、倭は大きく戦乱で乱れていたというイメージが少し前まで学界を支配していたのだが、近年、それを否定する向きもあるようだ。そのよってたつ根拠をわたしはよく知らないけれども、中国漢代の字書から導かれる「楼観」のイメージは軍事性、防御性と直結している。今回復元した手すりをもつ高層建築は「物見櫓」であろうとわたしは思っている。くりかえすけれども、それは中国式の「楼観」構造を有しているわけではない。しかし、中国人が「楼観」と呼びたくなるような性格をもっていた可能性が高いのではないだろうか。
 ところで、一部の報道を読むと、この柱の径が細すぎることから、高層建築説に懐疑を示すコメントもみられたが、細い柱を加工して高層建築を造る技術があったことをまず評価しなくてはならない。大工道具としての鉄器の普及と、杉の植林がその背景にはあったことだろう。また、この「楼観」は小振りのもので、たぶん10年も存続したものではなかろう。建設後しばらくして倒壊するか、解体され、護岸の補強材に柱が転用されたのではないか。そして、日本各地には、青谷より大きな「楼観」があちこちに存在したはずである。ただ、その存在をこれまで実証できなかった。
 ともかく、勘違いしないでいただきたい。青谷の「楼観」が凄かったのではない。青谷の柱材が「楼観」の存在を実証しえたことが学術上、画期的なことだったのである。

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↑11月19日 日本海新聞(クリックすると画像が拡大します)
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↑11月19日 読売新聞
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↑11月11日の朝日新聞東京版が送られてきた。大阪版よりも扱いが大きい。この日、知事は東京出張だったとか・・・


  1. 2006/11/22(水) 00:09:42|
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軒付の調整 -茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(XXⅧ)

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 本日のゼミの時間、茅葺き風「トチ葺鉄板被覆屋根」原寸部分模型の軒付部分の制作が始まるということで、池田住建を再訪しました。
 昨日、軒付の作業がいつごろ始まるのか伺ったところ、今日だということで、急遽見学が決まりました。到着するまで作業を待っていただき、実際にトチを積む軒付の工程を見学させていただきました。設計図では下段のトチは5段でしたが、野垂木の高さに合わせて収めるために6段に変更されました。トチが積まれた軒付は迫力があり、とてもきれいでした。

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↑トチの打ち付け作業。まず下に2枚コアを敷く。 ↓トチ葺軒付
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 全体としては、前回見学した時に載っていたサス兼垂木の上に、本実加工を行った天井板が敷かれ、その上に母屋が載り、本当にあともう少しで完成というところまで出来上がっていました。 
 今回、天井板が敷かれたため古材サスやサス兼垂木が見えなくなってしまったので、内部の構造が分かるように、完成形では、部分的に屋根板と鉄板を敷かず、軒付も一番下に敷かれるコアが一部見えるようにしてトチを積むようにお願いしました。鉄板の葺き方は、現状の加藤家のトタンは縦方向に葺かれていますが、新たな屋根では横方向に葺くことに決まりました。
 今後の予定は、来週のプロ研の時間に一年生数名と色塗りを行います。色分けは、古材は自然塗料で古色塗り、新しい構造部分は白木のまま、フレームは柿渋で塗ることに決まりました。この色塗り作業の終了をもって、原寸模型は完成となります。(Y2号)

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↑本実矧ぎ(ほんざねはぎ)でつながれた天井板(厚さ15㎜)


  1. 2006/11/21(火) 22:31:27|
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千代川での材料あつめ

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 今日、浅川研究室のメンバーとP研2のR君の計11名が、河原町の和奈見にいった。千代川の河川敷にて石と竹を集めるためだ。その石と竹とは、今行われている加藤家住宅の修復工事で用いられる地覆石と竹である。
 先発で河原に行ったメンバーは軽トラックにゴロゴロ石を積んでいた。このひろい河川敷の中から選ばれてきた石たちだ。どれも平べったい。この石は、土台の下にある石の隙間に挟み込む。もちろん、平たいほうが収まりが良い。竹は、土壁の小舞竹として使われる。
 講義を終えて後から来たメンバーが合流した15時を過ぎると、11名のメンバー全員が揃い、河川敷に散らばった。そこから石を集めるメンバー、竹を集めるメンバーに分かれて材料を採取した。

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↑集めた石は猫車でトラックまで運ぶ ↓自生する竹を伐採
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 日も暮れて白い息が目立ってきた頃に作業を終えた。終えたといってもこれで集め終わったわけではないらしい。O野さんによると、今日の採取分ではまだまだ足りないそうだ。O城さんもうなずいている様。
 加藤家に石と竹が運ばれ、これらを降ろしていると、「ギャッッ・・・クァ・・」という声がした。住宅内に入ると、子猫が!!!今日は冷たい石を抱いてばっかりだったけど、最後に暖かい子猫を抱けてよかった。誰か、飼ってくれんでしょうか。(ハル)

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↑加藤家でトラックから積み荷降ろし


  1. 2006/11/21(火) 22:24:02|
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患者感激! (Ⅱ)

 今朝、患者はCTスキャンの検査を受けた。その結果を、午後、担当のK先生から知らされた。ネガをみると、出血部分はあきらかに小さくなっている。しかし、出血によって派生した浮腫(はれあがり)の部分は脳のひろい範囲におよんでいる。これだけ腫れがひろがっているのに、現在の回復状況は信じがたいことだと担当医は言う。このまま順調に回復すれば、ICU(集中治療室)から4人部屋への引っ越しも近いだろう。ただし、退院の目処がたっているわけではない。日常生活をおくれると判断されたときが、退院なのだという。

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 土・日があけて月曜日になると、少し介護が楽になる。食堂と売店が開くからだ。今日はオムライスを食べた。そして、売店では『ミセス』と『クロワッサン』という2冊の女性誌を買った。患者は一所懸命『クロワッサン』を読んでいた。もっとも、文字を読むのは大変辛いらしい。それにしても、いつも思うのだが、女性誌、とくにミセス対象雑誌の紙面デザインは洗練されている。男性誌は、どこか野暮ったい。というか、脂ぎっている。
 
 午後4時からリハビリ室でのリハビリにつきあった。バレーボールをもって、両手をあげるだけのリハビリなのだが、患者にはきつそうだ。寝たままの状態だと、まだ楽なのだが、坐って手をあげると、腕の自重に悩まされる。テーブルを雑巾がけする訓練もした。これは難なくこなした。杖の歩行も修正された。3拍子歩行の場合、一歩めの杖の位置と二歩めの右足の位置を揃えなければならないのに、患者は右足を少し前に出す傾向があり、それゆえ歩行が不安定になっていたのである。これは容易に修正できた。リハビリ室を3週し、車椅子に自力で坐ってリハビリはお終い。そのまま病室に連れて帰った。

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 そろそろ迎えのタクシーがやってくる。西大寺から近鉄で京都にあがるか、大阪にでるか。時間をみて決めよう。今週は木曜日が勤労感謝の日で休みだから、ほとんどトンボ帰りになるだろう。


  1. 2006/11/20(月) 23:29:03|
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家伝書と家法書の撮影 -尾崎家住宅補足調査(Ⅲ)

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 本日、尾崎家に代々伝わる家伝書2冊と家法書1冊の写真撮影をやっちゃん01号と一緒におこなってきました。前回も家伝書の撮影をしていますが、この時は「當尾崎遺命家傅實録」のみの撮影でした。一方、この家伝書とともに同じ包みに納められた他の家伝書2冊と家法書1冊が含まれており、今回はこの3冊を撮影した次第です。
 現在までに前回撮影した分の「當尾崎遺命家傳實録」は、市教委のSさんにお願いして、解読がほぼ終了しています。その中で当家開祖として尾崎家の三代目が長屋門や蔵を建てたという記述がありました。そこで今の位置に家が建てられたのは先代の亡くなった正保4年(1647)から三代目が亡くなる延亨2年(1697)までの間であったと推定されるに至りました。しかし、この家伝書は六代目が天明元年(1781年)に執筆したものということでして、建築年代から100年以上も下る時期の原稿であり、完全に信頼できるとはいえません。そこで今回、「當尾崎遺命家傳實録」の元原稿となった古い家伝書に記載があるかどうかを確かめるために尾崎家のご当主にお願いし、補足の撮影調査をおこなったものです。
 天気はあいにくの雨でしたがなるべく明るい縁側で、しかし雨に濡れない場所を選び、撮影しました。家伝書は思っていたよりも綺麗な状態で残っていて撮影も何とか無事終えることができました。実際にはページ数が多く予定していたよりも時間がかかってしまいました。その為、途中「お昼ご飯用意したんでどうぞ~」という尾崎さんのお声を聞いたときには驚きました。本当に申し訳ない思いでいっぱいです。折角なのでとてもおいしく頂き、体も温まりました。本当に有難うございました。(北からキタノ)

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  1. 2006/11/20(月) 16:17:10|
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患者感激! (Ⅰ)

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 一昨日の午前十時ころ、何を思ったか、患者はベッドからむくっと立ち上がり、杖もないのに、一人でキャスター付きの小テーブルをおして窓まで歩いて行った。窓をうまく開けられないと分かり、ベッドに戻ろうとしたところ、なんと患者は横転して床に倒れてしまった。詰めていた3人の看護師さんは異変を察知し、患者の部屋に急行、患者を抱き起こし、ベッドに戻して横たわらせた。なにせ、ここはICU(集中治療室)である。ようやくリハビリを始めたばかりの患者が、一人歩行を許されるわけはない。結果、医者と看護師からそうとうお目玉をくらったらしい。
  「あの日は看護師さんたちの目が冷ややかだったの・・・」
 とうぜんペナルティがある。ICUのいちばん奥の部屋からナースステーションに近い入口側に部屋を移され、ベッドを壁沿いに配置されて、片側には落下防止の手摺りが2枚はめ込まれた。要するに「檻」を作られたのである。
 昨夜9時すぎに病院に着いたとき、すでに檻のうちの一枚は外されていた。昨日から、室内の可動トイレではなく、廊下のずっと向こうにある身障者用トイレの利用が許されたのだという。その便所まで歩いて行くのだが、もちろん左手で杖をつき、患者の右側には必ず看護師が同行するという条件での歩行である。いうまでもなく、これはリハビリを兼ねている。わたしが到着してからも、いちどトイレに歩いていった。歩行は3拍子。まず左手にもった杖を一歩前に出し、つぎに麻痺した右足をその位置まで動かして、最後に左足を同じ位置まで前にだす。
 いち、に、さん。いち、に、さん、の繰り返し。ちゃんと歩いている。病室から30メートルほど離れた身障者用のトイレまで往復できるではないか。発症後8日めで、これだけ回復した。嬉しいことは嬉しいのだが、しかし、彼女は依然ICUの個室で治療を受ける患者であることに変わりはない。

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 9時半をすぎて、病室を離れる前、娘が突然、
  「あっ、ドンキホーテまでニンテンドーDSを買いにいこう!」
と言い出した。わたしには何のことだか、さっぱりわからない。ただ、高価なゲームらしく、資金だけは援助することにした。
 帰途、西大寺の学習塾に寄って弟をひろい、二人は「めっちゃ売れてるからな、たぶん売り切れてるやろけど、行ってみるわ」とはしゃぎながら、わたしを家に送り届けたあと、そそくさとドンキホーテに出かけていった。
 で、ニンテンドーDSを買って帰ってきた。買えたのは「奇跡」だという。

 一夜あけて、今日の昼食時、3人そろって病院に行った。患者は一人で食事をとっている。起きるのが遅かった息子は、何も食べていないので、患者の残すどんぶり飯をぱくぱくたいらげた。食後の歯磨きは娘が洗面所まで同行した。昨夜までは看護師同行が原則だったのに、今日は親族同行が許可された。
 息子はさっそくニンテンドーDSを開封した。ソフトは「脳を鍛える大人のDSトレーニング」。いちばん低レベルのソフトだそうだ。なぜならば、「お母さんはぼけてるから」。
 その母が「脳を鍛える大人のDSトレーニング」に挑戦した。色のついた文字が次つぎと画面にあらわれる。「きいろ」と書いた赤い文字の場合、「赤」と答えれば正解。「あお」と書いた黄色の文字なら「黄色」が正解。こういう質問に連続して答えていく。結果、患者の脳年齢は「80歳」と判定された。ひどい結果だと思うでしょうが、じつはそうでもない。次に挑戦した二十歳の娘は、脳年齢「50歳」と判定されたからである。要するに、このゲームは結構難しい。難しいから売れているようだ。
 じつは、わたしも品物を一つ用意して来た。先の海住山寺参観の際、両親に対するお土産として「ぼけ封じ」の数珠を買っていたのだが、いまや両親よりも患者のほうが切実な問題になっているから、急遽、患者にまわすことにしたのである。いやがる患者の右手首にしっかり巻き付けた。数珠の説明書きによれば、「本黄楊(つげ)ぼけ封じ無病念珠」という名称で、「この数珠はぼけを封じ無病息災の祈祷をこめた念珠です。常に肌身につけ所持して心身のなやみを追放して下さい」とある。

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 二人の子どもが帰宅した後、しばらく夫婦は体を休めていたが、午後3時ころになって患者は、
  「お風呂に入りたい」
と言い出した。お風呂は週2度、火曜日と金曜日に割り振られている。今日は日曜日で、ちょうど中間の日である。お風呂にいれてもいいものかどうか。看護師さんにお伺いをたてた。
  「わたしが付き添いますので、お風呂にいれてやっていいでしょうか?」
 陽気な看護師さんは、笑顔で快諾し、お風呂の湯を溜めに行ってくれた。
 お風呂は身障者用トイレの隣にある。そこまで車椅子に乗せていった。ドアをあけるとお風呂用の車椅子がおいてある。それに乗り換え、服を脱いで、体と髪を洗った。もちろん背中や髪はわたしが後から洗った。ちなみに、わたしは白い長靴を履き、大きなビニールのエプロンを前につけている。洗体および洗髪の後、患者は風呂桶の湯に浸かった。「気持ちいい」を連発する。途中から、看護師さんもあらわれた。
  「次に使う患者さんはいませんからね、どうぞ1時間でも2時間でも使っていてください」
 もちろんそういうわけにもいかないから、10分ばかりで切り上げ、パジャマを着替えて個室に戻った。患者は、しばらく「気持ちいい」と言って髪を乾かしていたが、まもなく疲れが出たようで横になり、眠りに落ちてしまった。
 患者は目覚めた後、反省の弁を口にした。
  「ほんとは週に2回って決まっているんだから、それを守らないといけないのに、今日お風呂に入ってしまって、すこし疲れちゃった。もう少し辛抱しないといけないね・・・」
 どうやら横転のことが頭に残っているらしい。

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 今日は、お見舞いもいくつか届いた。まず午前、自宅にお見舞いの書留が郵送されてきた。出雲のM設計事務所の社長とM君(2期生)からである。また、病院にはフラワーカスタマーサービスの花束も届いていた。ただし、ICUには花束を持ち込めない。だから、娘が患者の車椅子をおして、夜間用入口の脇にある守衛室まで花束を見にいった。送り主は環境大学の某助教授夫妻であった。こうしていろんな方がたにお気遣いいただいている。
 感謝に耐えません。みなさん、ありがとうございます。
 絶対に、早く良くなりますからね!!

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  1. 2006/11/19(日) 23:58:21|
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杉皮の屋根 -「楼観」特別講演の周辺

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 あわただしい一日だった。
 9時に学生2名が宿舎に迎えに来たとき、わたしはまだ眠っていた。講演の準備に手間取り、昨夜は2時半までパワーポイントを作っていて、まもなく床についたのだが、こういう作業の後ただちに眠りに落ちるはずもなく、木村元彦の文庫本『誇り -ドラガン・ストイコビッチの軌跡』を読んでいたら、ブログ「『オシムの言葉』に寄せて(Ⅰ)」の最後の部分に誤りのあることがわかった。92年5月末、ストックホルム空港に着いたユーゴスラビア代表チームは、そこで強制帰国させられたのではなく、いちど練習場に入っている。その直後に国連制裁が決定して、帰国命令を受けるのだが、ユーゴ側がチャーター便を用意してきたにも拘わらず、管制塔は給油もみとめず、離陸許可も出さない。代表チームは空港で何時間も待機させられるのである。嫌がらせ以外のなにものでもない。わたしはてっきり、そのときストイコビッチはまだベローナにいるものだと思っていたのだが、かれも、このストックホルムの空港で待機させられ、トイレで2度嘔吐している。
 ストイコビッチが来日直後、なぜあれほど「切れやすい」選手だったのか、そして、あれだけの選手がどうして名古屋を離れなかったのか。それは「西欧」社会が、一人の繊細な天才サッカー選手を傷つけすぎたからだ・・・。それにしても、日本もおもしろい国ではないか。世界最強と讃えられた最後のユーゴ代表チームのキャプテンがこの国で長くプレーして引退し、その代表監督であった人物がいま日本代表の監督として自らのキャリアを締めくくろうとしている。

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 白兎海岸の、懐かしいコンビニで肉まんとおにぎりを仕入れ、船屋の前にひろがる日本海を今日も眺めては感じ入っていた。倉吉に着いたのは10時半ころだったか。池田住研さんの事務所には、社長のほかに文化財課長も待っていた。珈琲を一杯いただき、工場に移動した。原寸模型の出来は上々、若干の修正は依頼したが、完成まであとわずかのところまで来ている。楽しみはなんと言っても、杉板のトチを重ねる軒付だ。諸々の検討から、檜のコアではなく、杉のトチを使うことになったのだが、いちばん下に水抜き道としてコアを2枚だけ敷くことにした。軒付が始まったら、もう一度見に行くしかない。
 工場の近くにクズマ遺跡がある。そのことを昨日、社長から教えられたものだから、課長に電話したところ、伝建ゼミ(京都)の最中であった。が、電話で話し合い、クズマ遺跡の見学が急遽決まった。キャベツ畑に囲まれた山裾にある弥生時代~7世紀の複合遺跡で、いちばんのお目当ては隅に門道をともなう竪穴住居(古墳時代後期)である。2本柱+壁際の1ピットがある下層遺構が分厚い貼床(2~3期)にパックされて4本柱に変わっている。平面は正方形に近い。門道にもその貼床はひろがっており、上層にともなうものである。隅に入口があるということは、隅木とか隅サスが使えないということで、どうして屋根を支えたのか、と言えば、いまのところケツンニぐらいしか頭に浮かばない。どこかで、この問題をクリアしなければ。
 クズマには7世紀の礎石建物もみつかっている。たぶん梁間2間×桁行3間以上の平屋建物で、柱間寸法は4尺程度。礎石は小振りで平べったく、これは修復中の加藤家の束石にいいな、と思っていたら、「行政発掘なんで、記録をとったら、あとは持っていかれてもかまいませんよ」とのこと。文化財課長が言うのだから、大丈夫だろう(わたしゃ知りませんよ)。

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 午後からは青谷町総合支所で「楼観」の講演。会場は立ち見が出るほどではなかったが、とりあえず満員御礼かな。プロジェクターを2台用意して、一方はわたしのパワーポイント、もう一方はインターネット上の建築部材データベースを映しだし、「楼観」の復元とデータベースの基礎資料を対照させた。このプレゼンテーションは大正解であったと思う。講演の内容は、40%は記者発表時と同じだが、復元CGを大量に追加し、さらに「倭人伝にみる建築表現」を中国漢代の字書『爾雅』『釈名』等から考証した。「楼観」とはたんなる「高殿」ではなく、「物見櫓」に似た軍事施設としての高層建築とみなさざるをえないと思われる。最後に、7000点におよぶ建築材の整理・分析によって、弥生建築の「文法」が復元できる、と纏めたところ、マスコミの皆さんが食いついてきた。青谷では1棟や2棟の建物ではなく、複数の異なる掘立柱建物が復元できる。その成果を積み重ねれば、構造形式・木割・継手仕口などを体系的に復原できるだろう、という構想である。

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 元作業員さんには1本取られた。その方は屋根葺材は杉皮ではないか、と質問されたので、
  「かつて中国貴州のトン族やミャオ族の住居建築を調査していたんですが、かれらの建築材はすべてスギ(広葉杉)で、屋根材も杉皮を使っていました。ただし、茅は妻木晩田で出土している一方、青谷で杉皮が出土したという情報を得ていませんもんで、茅を使いました」
と答えたら、
  「わたしが発掘調査で作業しとった時には、ものすごい量の杉皮が出とったです」
と切り替えされてしまった。そういう情報を知らなかったのである。講演後、午前に現地説明会をおこなった発掘調査現場を視察すると、たしかに杉皮があちこちに散乱している。青谷に茅葺きの建物が存在しなかったはずはないだろうが、たしかに杉皮の建物も少なくなかったであろう。今後の復元に、是非とも取り入れたいと思った。
 ところで、講演中、ホカノがよく寝ていた。昨夜は夕食を一緒に食べて、かれはそのまま帰宅して眠ったはずだから、わたしよりはるかに睡眠時間は長いはずだが、本人曰く「風邪気味で、鼻水が止まらない」んだそうである。真っ赤な顔をして、ほんとによく寝ていた。もう何も教えてやらないから。

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↑青谷上寺地遺跡発掘現場 ↓窓状製品と散乱する杉皮 20061119044940.jpg

 少し時間があまったので、加藤家にも顔を出した。公開の最終日。着いたら、午後4時をすぎていたが、鳥取大学農学部の学生さんがたくさん来ていて熱心に質問し、メモを取っている。しばらくすると、同じく鳥大の地域学部某講師もやってきた。あまり話はできなかったが、床下から出てきた古銭をそっとわたした。建物の年代推定に役立つ文物であり、考古学者にわたしておけば、きっとなんとかしてくれるだろうという邪な期待を寄せながら、わたしは加藤家を離れ、郡家駅から「スーパーはくと」に乗って大阪に向かった。
 そして、午後9時すぎ、まる3日ぶりに患者と再開。患者は昨日から今日にかけて、なかなかおもしろい動きをみせている。それは明日、まとめて書き連ねよう。
 今のところ、順調に快方に向かっている。少しのろけておくと、病を患って入院したおかげで、たまっていた疲労がとれ、余計な肉もとれて、患者はすこし美貌を取り戻した。側にいるだけで、とても楽しい。


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  1. 2006/11/18(土) 23:58:12|
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加藤家住宅修復現場公開(Ⅲ)

午前の加藤家
 公開最終日。午前中は9名の来場者がみえた。初日の16日が43名、昨日が23名なので、本日13:30の時点で75名の方が来てくださったことになる。通りがかりに立て看板につられて現場に来た方をはじめ、「わたしの実家の家のつくりを思い出します」と、管理人の方と和やかなトークをするおばさま、親子で修復工事に見入る姿もあり、ああ これぞ現場公開らしいのだなぁ、と、ほくほくとした気持ちになった。
 
 そんな感想を記している私も実は、修復工事が始まってからは直接現場をみるのが初めてなのである。本来ゼミ生である私は受付・案内などをしなければならない。しかし、職人さんの素早くランダムな動き(決して無作為ではないはずだが、職人さんの行動範囲が広いためにそう見える)に加え、私の勉強不足のために、現場に到着した直後は、現場の状況が把握できずに、しばらく立ち尽くして作業に見蕩れるばかりであった。幾度かミシミシッッ、という音が鳴り響き、家の一部が動いているのがはっきりとわかった。その後、職人さんは床下構造の大引周辺の修復に着手する様で、敷居の位置を確認していた。
 午前組のゼミ生は皆、受付をしつつも、修復作業を横目でチラチラ…どころではなく、職人さんの動きにしっかりと注目していた。私もそれに便乗して見入っていたら、あっという間に午後組との交代の時間がきてしまった。(ハル)

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午後の加藤家
 本日は、加藤家修復工事の公開最終日の午後の部担当として、加藤家に行ってきました。数日前からの風邪のため、寒さが少々こたえます。が、午前の担当さんから引き継いでからすぐにお客様があらわれ、本日もたくさんの来場者がありました。午後だけでも18人もの方が来られました。その中には、鳥取大学農学部の大変勉強熱心な学生さんもおられました。感心です。見習わなきゃならんですね・・・・・。見学に来られた皆さんは、やっぱり、古い建物が落ち着くようで、寒い中、大変のんびりとした風に、見学の合間に僕が入れたコーヒーをすすってました。おいしかったでしょうか? 大変気になるところです。
 途中、建物のレベルの計測をやり直すということで、現場をはなれ、計測器を取りに学校へ戻ったりもしましたが、現場に戻ってくると、たくさんのお客様がおられ、嬉しビックリでした。次回の公開でもたくさんのお客様が来られるといいですね。3日あわせて来場者の数は93名でした。
 昨日、風呂の湯を流しっぱなしで寝てしまったがために、給湯器が止まってしまったけんボーでした。・・・・・今日はどこでお風呂にはいろう????(けんボー)

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↑レベル測量 ↓鳥大と環大の交流
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チャックの一人反省会 in加藤家公開
 本日17時30分。最後のお客様を送り出し、3日間の加藤家公開が終わった。しかし、修復工事はまだまだ終わらない。第2回、第3回と公開が続いていく予感がするので、今回の公開での反省点を洗い出し、次の準備の際に役立てられればと思う。

―反省―
・位置情報が少ない (特に駐車場など)
・スタッフ(ここでは主に学生)の基本情報の周知
・資料の文字が小さい
・「登録有形文化財」に関しての知識が少ない (鳥取市にはいくつあるのか)
・看板が少ない
・看板の文字が小さい

 他にも探せばまだあるだろうが、今思いつくのはこれぐらいである。とりあえず大きな事故もなく、無事に終われてよかったと思う。お疲れ様でした。(チャック)

  1. 2006/11/18(土) 20:26:31|
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原寸模型制作中 -茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(XXⅦ)

 今日の午前中、茅葺き風「トチ葺鉄板被覆屋根」の原寸部分模型の見学のため、今回は浅川先生、やっちゃん1号とともに、倉吉の池田住建を再訪しました。
 前回は、桁上に「サス兼垂木」のサス部分が載っている状態でしたが、今回はサス部に軒垂木の部分が継がれ、古材のサスと追サスにあたる材も載っており、より完成に近づいていました。しかし、古材のサスの収まりに加藤家の現状と多少相違がありました。本来、古材のサスは桁上に刺さっているのですが、模型ではサスを欠き込んで桁にかけてあるので、修正をお願いしました。

↓古材サス、追サス、軒垂木が載った状態
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 この模型は、いずれいろいろな人に見てもらえることになると思います。そのため、どこが古材にあたり、どこからが新しい構造で、どの部分が模型を支えるフレームになっているのか、分かってもらえるように、色を塗って区別することになりました。この色塗りの作業を、今回のプロ研2&4のメンバーでおこない、それを成果物の一部に発表会で展示しようかという話も出ています。
 模型は近いうちに完成するでしょう。とても、楽しみです。(Y2号)


  1. 2006/11/18(土) 15:03:45|
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加藤家住宅修復現場公開(Ⅱ)

 本日の修復工事現場公開は、昨日に比べると来客者が少なかったですが、それでも23人もの方がお越しくださいました。この二日間を振り返ってみると、やはり来客される方のほとんどが、新聞記事をきっかけに今回の修復工事現場公開のことを知り、足を運ばれれています。マスコミの力は侮れません・・・。
 浅川研究室からは5人のスタッフが現場公開のサポートするべく参加したのですが、本日は女の子は1人だったので、その子に受付を担当してもらいました。女の子がいて本当に良かったです! やはり、受付で女の子に迎えてもらった方が華がありますからね。

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<↑受付のようす>

 また、今回来客された方は建築に詳しい方が多く、工事の説明をしなくてはいけない側の自分が多くのことを教えていただきました。来客された皆さま、ありがとうございます。
 工事の方は、新たに土台が通されました。この土台を通すために、学生がジャッキアップをおこない、大工さんの補佐をしました。明日は公開最終日。より多くの方が来客されることを願います。  (01号)

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<↑公開2日目のようす>
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<↑ジャッキアップを行う学生 ↓土台が通される前と後の姿>20061117213542.jpg


↓読売新聞 地域面より(画像をクリックすると拡大されます)
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  1. 2006/11/17(金) 21:39:10|
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ふらふら5コマ

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 昼前にいちど加藤家を訪ねた。たぶん客足は少ないだろうと予想していたのだが、10時開場の約1時間半後に到着し、受付担当のモリさんに聞くと、
  「結構来られましたよ、もう15人越えてます」
との報に驚き、嬉しくなった。
 午後は1コマ講義をしてから、プロジェクト研究2&4のため、再び加藤家へ。客足は衰えていない。最終的には40数名の来場者があった。
 やはり新聞報道が効いている。
  「加藤家公開の記事を書いてくれないなら、青谷のことは一切答えません」
なんていう冗談のような本気の発言が奏効したみたいだ。一昨日(山陰中央)、昨日(日本海)、今日(朝日)と続いた紙面報道をみてやって来た、という見学客が大半を占める。今日もTV局1社、新聞社1社の取材をうけた。明日は、今日のプロジェクト研究の活動状況が報道されるであろう。取材した記者さんは、大阪訛りのアクセントで、
  「報道されなかったら、わたしが会社で冷遇されていると思ってください」
と囁きながら帰っていった。

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↑↓北西隅のコア構造補強
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 それにひき換え、個人的にメールで案内を送った知人たちの反応は鈍い。土曜日の青谷講演会の打ち合わせでやってきた埋蔵文化財センターの職員2名以外では、文化財関係者があまりに少ないではないか。これ、圧力だもんね。だれに向かってしゃべっているか、まぁ、だいたい分かるでしょうが・・・ハマダバダ。
 もちろん、メールの案内でいらっしゃった方がいないわけではない。ほとんど廃村に近い旧八東町某集落に民家を購入予定のKさんは、加藤家の修復手法を応用したいのだとおっしゃる。もちろん、いつでも協力する旨、お伝えした。また、同じく旧八東町の別の集落の大きな茅葺き民家に住んでいたH君(本学1期生)も来場、どうやら自治体が、その茅葺き民家の保全に動きだしそうな気配があるらしく、
  「加藤家を見に来ることになるから、よろしくお願いします」
と頼まれた。これも大歓迎。夕方、大学に戻ると、たしかに県の担当部局から留守電が入っていた。こうして、加藤家の遺伝子が周辺古民家の修復・改修に拡散していくのならば、これ以上嬉しいことはない。

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↑↓背面4畳・板間境の修復と構造補強。アクロバティック&ファンタスティック! 傑作です。
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 ところで、今日はプロジェクト研究2&4を含めて5コマも授業があった。夕方から大学院の授業が2コマあり、さきほど終えて部屋に戻ってきたところ。大学院の授業は毎週ではなく、隔週2コマにしているのだが、今日の2コマは堪えた。正直、ふらふらだ。前にも述べたように、ユッカ・ヨキレットの『建築遺産の保存』を輪読しているのだが、正直、やっかいな本である。西洋建築史の専門家だけを読者に想定してるのだろうか、専門的な術語や固有名称の注釈が少なすぎる。だから、いつでも岡野がグーグルで検索して、問題となる用語を画面に映さなければならない。もちろん、それはそれでおおいに勉強になるのだが。
 
 さきほど息子に電話した。患者は、驚異的な恢復ぶりを示しているそうだ。
  「車椅子に座って、ご飯食べてたよ。右手も上げたり、下げたりしてる」
良かった。たぶん、わたしのほうがバテてしまっている。

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↑朝日新聞(画像をクリックすると拡大されます)


  1. 2006/11/16(木) 22:32:48|
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水屋を大移動

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 本日、水屋班のブログはNが担当します。

 水屋班は今日、水屋制作のベースに使用する棚を、大学内スタジオに運搬するため加藤家に向かいました。先週の時点で棚の大きさを確認し、「こりゃ運搬には軽トラックが必要だな~」と話をしていたので、助手の先生に軽トラで加藤家に来てもらうようお願いをし、軽トラが到着するまでの間に運搬の準備を整えて待っていました。

 しばらくすると助手の先生が加藤家に到着しました!・・・・“ステーションワゴン”に乗って・・・・。
  Y助手:「・・・載らないね・・・」(苦笑い)
  水屋班:「・・・載りませんね・・・」(爆笑)
・・・Y助手は軽トラ確保のため大学へ戻っていきました。

 再度、軽トラの到着を待つことになった水屋班は、手持ち無沙汰であったため、別の仕事をもらい、そちらを手伝いつつ軽トラを待ちました。
 その後50分ほどして無事軽トラが到着し、運搬作業はスムーズに進み、スタジオに運搬を終えたところで水屋班は本日の作業を終了しました。(環境デザイン学科2年生 R.N)

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↑土間の三和土を叩きながら、軽トラを待つ。構造補強用柱の基礎周辺。


  1. 2006/11/16(木) 22:01:14|
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加藤家住宅修復現場公開(Ⅰ)

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午前の加藤家
 加藤家公開第一日目を終えました。
 第一日目の午前ということで、お客様はあまり来られないのではないかと思っていましたが、たくさんの方に来ていただけました。ありがとうございました。
 朝着いて、まず公開の準備を始めました。持ってきた看板を加藤家の前に設置し、受付の準備をしました。準備をしているとガタンという音が聞こえました。表を見ると風がきつく、さっき据え付けた看板が風で倒されていました。そこで木材の破片で補強し、看板が飛ばされないようにしました。そうこうしてるうちに、一番最初の来訪者がいらっしゃいました。一番最初なので皆で、お出迎えしました。来訪された方は皆さん楽しそうに、加藤家の修復工事を見学されていました。O君は忙しそうに記録をとったり、見学に来られた方に説明したりしていました。私は質問に答えることが出来ず、申し訳なかったです。すいません。
 12時頃に一旦学校に帰り、2時頃にまた加藤家に戻ってきました。その間も来訪者はたくさん来られていたみたいです。3時にプロ研2&4のメンバーが来るまでいましたが、その間も続々と来訪者が訪れました。
 午後の担当者に聞いたところ、記帳者だけで40名になりました。夫婦の方もおられたので、実際にはもっと多くの方が来られたはずです。予想以上の来場者数に驚きました。ありがとうございました。
 管理人のKさんにはコーヒーなどをいただき、冷えた体を温めることができました。ありがとうございました。二日目、三日目とありますが、この調子で多くの方に来ていただければと思います。(4年もり)

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午後の加藤家
 今日は加藤家住宅・修復現場の一般公開!ということで、午前中からお客さんがやってきました。私は受付をやっていましたが、みんな製図を書いたり、白蟻用の液を塗ったりと、いつも通り頑張っていました。
 加藤家の入り口にずっと座っていると、色んな人の動きが見えて面白かったです。一人ひとりが、加藤家修復のために何かしらやっています。作業自体は個人プレーであるけれど、その一つ一つの作業がいずれ加藤家住宅完成!としてしっかり繋がるんだなぁ。と受付に座ってみんなを眺めていて思いました。
 見学に来た人達と触れ合えたのも、受付けならでは。「新聞を見て来たよ~」って人が多かったような気がします。メディアの効果はやっぱりすごいと思いました。
 なんだか今日はとても寒かったので、温かいコーヒーが体にしみて美味しかったです。(環境政策学科1年 Y.H)

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  1. 2006/11/16(木) 21:27:17|
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いよいよ公開! -加藤家住宅修復工事

 ご心配をおかけしましたが、さきほど鳥取に戻ってきました。昨日の患者は、少しだけ頭痛の症状を訴えていましたが、いたって快調。看護師さんにお風呂に入れてもらい、またリハビリ専用室まで車椅子で移動して、長時間のリハビリをこなしました。杖をもって歩くことを前提としたリハビリです。症状は未だ安定期に入ったとは言えませんが、子どもたちに患者をあずけても大丈夫だと判断し、戻ってまいりました。
 いま、4年生を相手にして、昨日の自習ゼミのチェックをしているところです。卒論組は細かい目次づくりをほぼ終えました。原稿を書き始めてくださいよ。今から書き始めて間に合うだろうか、ぐらいの危機感をもたないと、ほんとうにビハインドしてしまうよ。だって、イン・デザインでのレイアウトもあれば、梗概と展示パネルの作成もあるんですからね。
 さてさて、今日の十時から「加藤家住宅修復現場」の公開。天候が気になる。山陰中央新報と日本海新聞が記事にしてくれたようだ。総務課が新聞のコピーをメールボックスに入れておいてくれたので、下に掲載しておきます。

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↑山陰中央新報 ↓日本海新聞 画面をクリックすると画像が拡大します。
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  1. 2006/11/16(木) 02:29:39|
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アイスブレイク代役講演

  今日は、琴浦町にある「まなびタウン東伯」において鳥取県が実施する介護事業者に対しての「認知症介護実践リーダー研修」にて、アイスブレイク用の講演を行なってきました。本来は、浅川先生が講演されるはずでしたが、ご存じのとおり、予定を変更せざるを得なくなったため、代わりにやっちゃん1号と加藤家住宅居住者の01号の2名が大役を果たすことになりました。

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↑会場の「まなびタウン東伯」↓講演準備のようす
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 講演の題目は以下のとおりです。

 ・学生によるセルフビルド&ゼロエミッション
   -「廃材でつくる茶室」から「加藤家住宅修復プロジェクト」まで-


 これまで浅川研究室でおこなったプロジェクト研究などを通して、活動内容を紹介しつつ、先生と学生とで、課題に向けての取り組み方について講演しました。

 正直に言いますと、参加人数は把握しておりましたが、どういった方が参加されているかは、知らずにいました。会場に足を踏み入れると、女性の方が圧倒的多数を占めていました。この講演は、互いの緊張をほぐして研修を振り返るための「アイスブレイク」でしたが、この状況に驚いてしまい、学生2名は予期せぬ緊張をしてましたが、講演中には、笑いも起こり、和やかなムードで終えることができ、「アイスブレイク」の大役を果たせたものと思います。

 最後に、ご静聴いただいた皆様方に感謝申します。(やっちゃん1号&01号)

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↑研修会場のようす


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  1. 2006/11/15(水) 23:48:13|
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インターンシップ発表会

 寝不足チャックと腹痛けんボーは、本日夕方開催されたインターンシップ発表会で無事に活動報告を終えた。全体で14人
の発表者がおり、みなそれぞれ職場での苦労や活動をごく簡単に発表していた。
 自分は最後から2番目の発表で、けんボーはおおとりをつとめた。2人とも時間内に発表を終え、質問も多数いただくことができた。中国工業のH社長をはじめ、インターンシップに関わってくださったすべての方に、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。(チャック&けんボー)


  1. 2006/11/15(水) 21:22:02|
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原寸模型の制作開始! -茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(XXⅥ)

 昨日、茅葺き風「トチ葺鉄板被覆屋根」原寸部分模型を制作をしていただいている倉吉の池田住建へ模型の現状を見学に行きました。模型は幅2m、奥行2m、高さ約4mで、かなりの高さがあるため、3分割して制作されています。現在一番下の土台部分が完成し、最上段の制作途中でした。最上段の屋根部分は脚が組まれ、その上に桁が載り、桁にサス兼垂木のサス部が載っている状態でした。池田社長と細部について確認した後、池田住建が手がけている倉吉市内の現場を見学して帰って来ました。

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↑模型図面(クリックすると図面が拡大します)↓模型屋根部分
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 一方、研究室では、加藤家住宅の小屋裏をロフトとして利用するにあたって、採光と換気を目的とした天窓を背面屋根に設けることになり、その設計作業を進めている。その4案を紹介する。いずれの図面も、クリックすると拡大されます。

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天窓A案: 三角屋根の天窓をロフト部分と土間部分に設ける。いかにも窓らしいが違和感を感じる。

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天窓B案: A案の窓をロフト部分、土間部分の他に、囲炉裏の間上部にも設ける。採光、換気とも良いだろうが、外観は4つの案の中で一番不自然に感じる。

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天窓C案: 窓の大きさはA・B案と変わらないが、屋根を窓の形に添ったものにし、大きさを抑える。A・B案より屋根に合って見える。

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↑A・B・C案 天窓位置の比較

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天窓D案: 縦長の窓をロフト部分と土間部分に各2つずつ、合計4つ設ける。個人的には4つの案の中では一番きれいに見えるが、茅葺屋根民家に設けるものとしてはどうかとも思う。

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↑D案天窓位置

[原寸模型の制作開始! -茅葺き風鉄板葺き屋根の設計活動録(XXⅥ)]の続きを読む
  1. 2006/11/15(水) 00:22:13|
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