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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

水屋の破損と修復

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 昨日午前、些細なようで重大な事件が発生した。ゼミに所属する一部の4年生・大学院生が、制作者の許可を得ることなく、修復建築スタジオに保管していた「置水屋」を持ち出し撮影をおこなった。その際の取り扱いがきわめて粗っぽく、スタジオに戻された「置水屋」の各所に破損がみとめられ、これを発見した制作グループ(2年)からわたしに報告があった。
 ただちに、持ち運びをおこなった当事者に電話で確認したところ、「許可を得ることの必要性」に気づいていないばかりか、「破損はたいしたことない」との発言まであり、首謀者とみられる4年生に至っては、午前に撮影を終えたあと、さっさと車で島根県に移動しつつあった。あまりのモラルの低さに驚き、呆れるほかなかったが、ゼミ生の失態は、すべて指導教員であるわたしの指導不足によるものであり、ここに制作者諸君に対して深くお詫び申し上げます。

 以下は、制作グループからの「状況報告」である。
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 破損箇所は主に接合部分が外れたり割れたりしていました。もともと持ち運びの際のゆれに耐えるよう接合部分には余裕をもたせて設計・施工していました。が、このたびの移動ではそれらが見事に外れていたり、絶えられず割れていたりという状況でした。P4の展示ときにそれら破損は見られませんでした。
 栗の柱に上部接合部分と中部の2箇所に10㎝~15㎝の割れが見られました。それぞれの割れは柱の裏側なのでそれほど目立ちません。また栗柱の下部接合部分の板が一式外れ宙ぶらりんとなっていました。
 右側の排水用の引き出しのストッパーが外れてしまい、引き出しのツラが引っ込んだままでした。
 水屋全体がゆがんでしまったようで、様々な部分で少しのずれが目立ちました。その他部品が取れてしまったりと多々ありましたが、それは特に大きな問題ではありませんでした。
 あと茶器の扱いがありえないほどザツです。
 数箇所割れてしまった栗材は交換ぜず、頑丈に固定しました。接合が外れてしまった部分は釘だったので木ネジで固定しました。ゆがみも矯正しました。前回より丈夫な作りとなったのですが、がっちりと固定してしまったのでゆれに対する余裕がなくなり強い振動に弱くなっていると思います。
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 以上のように、制作グループは破損された作品の修復を迅速におこなっている。ただただ感謝するしかありません。

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[水屋の破損と修復]の続きを読む
  1. 2007/01/31(水) 00:30:10|
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浮いちゃってます。

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 ハロン湾の筏住居模型、浮いちゃってました。と、いうのも、本日私は、集合時間に遅刻してしまいまして、到着した頃には、筏は、すでにプカプカと浮いちゃっていたのです。しかも、懸念されていた、住居部分が傾くのではないかという問題もまったくでず、何の問題もなく浮いちゃってました。
 しかし、新たな問題浮上です。この家、少し風が吹くと、屋根が飛ばされてしまうのです。真っ赤な屋根が、ぺらぺらと空を舞います。べちゃっと水面に落ちます。水彩絵の具で塗られた真っ赤な屋根が、ハゲていきます・・・・・・踏んだりけったりです。あと、製作時からの問題で、壁も飛んでいきます。ポロポロ落ちていきます。壁が減っていきます。ただでさえ、製作時にも何枚もなくなったのに、更に壁がなくなりました。水面から救出できた壁もこれまた、破廉恥な色してますが、水彩絵の具で塗られたものです。と、いうことは、ハゲます。色が落ちていきます。というか。周りが、それらの色に汚染されていきます。またも踏んだりけったりです。こんなことなら、模型用のアクリル塗料やらを使えばよかった。(・・・・・・高いけど)

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 まぁ、それはさておき、二年生のO君が頑張って編みこんでくれた、生簀というものがあるので、せっかくだから、その辺にいた魚さんを入れてみました。ちっさい魚にもかかわらず、この生簀は少々狭いようでしたね。いやぁ、しかし、この生簀いい出来やのぅ。情報を持ってきてくれたO君に無理やりお願いして手伝ってもらった生簀は大活躍でした。
 と、魚さんを生簀に入れての撮影も終わったので、損傷の激しいこの模型は回収されることになりましたとさ。・・・・・でも、あれですね、きっと金魚は泳げないですね、狭すぎて。・・・・残念。(けんボー)

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【チャックのメールから】 本日午前中、模型の進水式を某所でおこないました。その風景を写真に撮った後、パネル用のレイアウトに写真をはめ込み、プロッターで印刷しました。これでデザイン演習4の課題である「パネル2枚」と「水に浮く模型」が全部そろいました。提出期限は大幅にずれたのだけが、悔やまれるところです。4409のホワイトボード付近に仮展示(↑左)してあるので、確認よろしくお願いします。




  1. 2007/01/30(火) 18:36:40|
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『ミンガス』を聞きながら

 26日の金曜日、池田家墓所の委員会を終えたわたしと大学院生は、高架下の居酒屋にしけこんで中間発表の「反省会」をおこない、そのままわたしは19時すぎのスーパーはくとに乗りこんだ。乗車前の刹那を利用し、キオスクで珍しく雑誌を2冊も買った。1冊は『サッカーダイジェスト』、もう1冊は酔った勢いで『月間プレイボーイ』にした。『週間プレイボーイ』ではなく、『月間プレイボーイ』の3月号である。表紙に「女性ヴォーカルに酔う」という大見出しがついていて、これにやられてしまった。
 一方の『サッカーダイジェスト』誌は俊輔の特集号で、乗車してまずどちらを読むかというと、当然のことながら、俊輔のほうである。トルシエが、代表監督時代の中村は先発かベンチ外のどちらかしかなかった、と述懐していた。だれかトルシエを狙撃してくれないだろうか。なんていういらだちを覚えながら列車に揺られていると、まもなく爆睡。大阪の手前でなんとか目をさました。
 帰宅後、『月間プレイボーイ』に目を通した。日本版プレイボーイ誌(月間)の創刊は大学時代のことだった。真っ黒な表紙にバニーガールのウサギさん。あのころはまだヘアヌードは解禁されていなかったが、大学生のぼくたちは、毎月『月間プレイボーイ』のセンターフォールドを飾る「プレイメイト・オブ・ザ・マンス」に心をときめかせていたものだ。いったい、何月号のモデルが「プレイメイト・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるだろうか。ちなみに、無名時代のシャロン・ストーンは「プレイメイト殺人事件」という映画でプレイメイト・オブ・ザ・イヤーを演じている。プレイメイト・オブ・ザ・マンスが連続して殺されるのだが、その犯人がシャロン・ストーン(PB誌のオーナーであるヒュー・へフナーの隠し子という設定)で、彼女と恋に落ち、彼女を捕まえる刑事をトム・スケリットが渋く演じていた。刑事の奥さんが注意を促す。
  「そんな綺麗なモデルさんと毎日会ってるの、気をつけなさいよ!?」
  「なに言ってるんだい、ぼくはもう大人(おじさん)だよ・・・」
  「だから危ないのよ。」

 『月間プレイボーイ』の創刊から30年が過ぎた。おそらく十数年ぶりに買ったこの雑誌には、もちろん今でもセンターフォールドをプレイメイトのヌード写真が飾っているが、ジェイド・ニコールという名のモデルはとくに美しいわけでもなく、インターネット隆盛の時代にヘアヌードをみせられても、なんの感激も感慨も欲情も湧いてこない。
 ヌードでは売れないことを編集部も自覚しているのだろうか、センターフォールド以外では、スカイダイビングのヨーロッパ・チャンピオンであったアスリート女性のヌード写真が7ページあるだけ。時代は変わった。と同時に、これでよく廃刊にならないな、とも思う。

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 で、問題は特集の「女性ヴォーカル」だが、まぁいちどざっと読んではみた。とくにおもしろくもなんともない。それでも、だれかのCDを買おうと決めてアマゾンを開いた。結局、注文したのは、ジョニ・ミッチェルの『ヘジラ』(1976)と『ミンガス』(1979)の2枚。べつにジョニ・ミッチェルが好きな女性ヴォーカルというわけではないのだけれども、ジャコ・パストリアスの存在が気になって仕方なかったからである。
 生まれてこのかた、わたしに最も衝撃を与えたミュージシャンをあげるとすれば、ニール・ヤングとジャコ・パストリアスの二人になるだろう。ご存知のとおり、ニール・ヤングはまだ生きているが、ジャコは若くして死んでしまった。躁鬱と薬と酒でぼろぼろになっての、のたれ死にである。
 ジャコというベーシストは、紛れもない天才であった。それは、かれが創った『ジャコ・パストリアス』(1976)と『ワード・オブ・マウス』(1981)という2枚のアルバムを聞けば、だれだってみとめざるをえないだろう。ジャコの生涯と生き様を知りたければ、ビル・ミルコウスキーの『ジャコ・パストリアスの肖像』(リットー・ミュージック、1992)を読むのが手っ取り早いのでお薦めします。ともかくジャコは早死にしすぎた。おかげで、耳にできる天才的なベースプレーの録音もまた少なすぎるから、かれがレコーディングに係わった音楽なら何でも聞いてみたくなってしまうのである。
 ジョニ・ミッチェルは西海岸のフォークシンガーだが、70年代の後半からジャズ的な指向が強くなり、その時期、ジャコは何枚かのアルバムでバック・ベーシストを務めている。というわけで、ジャコのベースをフィーチャーした2枚のアルバムが今日届いた。だから、今夜は『ミンガス』を聞きながらブログを書いている。『ミンガス』のミンガスとは、もちろんベーシストのチャーリー・ミンガスのこと。ジョニ・ミッチェルはミンガスの名曲「グッバイ・ポークパイ・ハット」に詞をつけて歌っている。バックミュージシャンは大変豪華で、ウェイン・ショーターにハービー・ハンコックときて、もちろんジャコのベースも抜群なんだが、あえて感想を述べると、かん高いジョニ・ミッチェルのボーカルがないほうがいいな・・・

 さて、もうひとつの大事件。今日は、ギターを買った。15年間愛用した小さなYAMAHAのエレアコ(ビニール弦)が正月に粗大ごみとなってローラーに巻き込まれたことをお伝えしたが、某講演のギャラとしてギフト券を頂戴したので、昨日、近鉄デパートの楽器店にでかけたのだが、どれもこれも値段の割には音が悪く、ギフト券での購入を断念した。今日は押熊の天理楽器にまで足を伸ばした。じつは昨年の10月、この楽器店でよく鳴る小振りのギターをみつけていたのだが、「カードだと割高です」と言われて、買うのをあきらめた経緯がある。再訪して、もういちどそのギターを奏でてみると、やはり握りやすくて、鳴りがいい。昨日のデパートものとは全然違う。こんどは現金で買うのを即断した(そんなに高くない)。
 新しいスコア(楽譜)も1冊買った。久しぶりに新しい曲を練習しよう。加藤家の竣工祝賀会で披露するかな、ははは。




  1. 2007/01/29(月) 21:59:51|
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刊行間近! 『縄文時代の考古学』全12巻

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 いつもお世話になっている同成社から、 『縄文時代の考古学』シリーズの内容見本がおくられてきたので、全8ページというわけにはいかないが、表紙と裏表紙をここに転載し、ささやかながら広報活動に加わらせていただくことにした。
 これまで同成社から出版した本は、
  ①浅川編『先史日本の住居とその周辺』1998
  ②浅川・箱崎和久編『埋もれた中近世の住まい』2001
の2冊だが、さらに現在、
  ③浅川・島根県古代文化センター編『出雲大社の建築考古学』2007
を編集中である。
 『縄文時代の考古学』シリーズについても、Ⅷ巻の『生活空間-集落と遺跡群-』で原稿の執筆を依頼されており、その〆切は昨年9月末とされていたのだが、大幅に遅延してしまい、なんとか冬休みに書き上げようと思っていたところ、青谷上寺地「楼観」特別講演の原稿がそこに割り込んできた。で、先週ようやく『縄文時代の考古学』の原稿を仕上げることは仕上げたのだが、図版はまだ用意できていない。そういう後ろめたいタイミングで、同成社から封筒が届いたからドキリとした。おそるおそる封を開けたところ、「内容見本がようやく完成しました」との知らせである。
 ここだけの話なんですが、じつは、この「内容見本」をみて、わたしは自分に与えられたテーマが「竪穴住居の構造」であることを知った。もちろん以前にそのテーマを確認していたのだが、「縄文建築論」を連載していたからだろうか、わたしは原稿のテーマを「縄文建築の構造」だと思い込んでしまい、竪穴住居だけでなく、掘立柱建物の新しい資料も集めていたのである。ところが、目次をみると、新潟の荒川さんが「掘立柱建物と建材」というテーマで執筆されることになっているから、その部分は割愛することになりそうだ。「原稿量がやや多いですね」と編集部からコメントされていたこともあるので、これで少しは減量できる。ただし、縄文時代の掘立柱建物は竪穴住居との相関性を抜きにしては語れない。やはり、ある程度わたしのほうでフォローしておかなければならないだろう。
 来年度からは『弥生時代の考古学』シリーズも動き出す。こちらもすでに執筆依頼が届いている。じつは、いまもうひとつの〆切に追われている。それは北海道考古学会誌の仕事である。こういうわけで、考古学の世界からはたくさん執筆の仕事を頂戴している。本人は、大学に移ってから、建築寄りに軸足を遷したつもりなんだが、相変わらず考古系の仕事が減らない。
 ほかにやる人材がいないんだな。これに尽きます。

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  1. 2007/01/28(日) 21:13:36|
  2. 史跡|
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中間発表会を終えて

大学院修士課程1年次中間発表会
 あの日から10日経った昨日、「大学院修士課程1年次中間発表会」が開かれた。環境デザイン領域は午後1時からで、一人あたりの発表15分と質疑応答5分の計20分が割りあてられている。タイムスケジュール通りに進めるため、発表終了2分前(13分)に1鈴、発表終了(15分)時に2鈴、質疑応答終了(20分)時に3鈴が鳴らされる。発表は学籍番号順とされており、自分は1番手にあたっていた。
 一昨日は再度ゼミにて予行練習をし、発表の内容やプレゼンテーションについていろいろご指導を受けていた。そういった事情もあって、じつのところ、前日までに正式なパワーポイントを学務課に納めていない。だから、大学側が用意したPCにデータを送るために開始10分前から発表位置に陣取って始まりを待っていた。1時前になると司会を務める領域長が挨拶し、1時のチャイムにあわせて会が始まった。
 わたしの発表は、すでに報告したように、「建築の復原と復元」と題するもので、学部2年次から現在までに関わった民家建築の「復原」や遺跡・史跡の「復元(再建)」をまとめて紹介した。前日の練習で、時間通りにおさめていたのだが、今日は発言が途切れとぎれになって時間を浪費し、終了1分前近くに、浅川教授から「終了間際だ!」との指示があったのだが、その直後に2鈴が鳴り、発表は尻切れトンボで終わってしまった。この2週間、懸命に再検討してきた青谷上寺地遺跡の復元図を披露できなかったのが、まことに残念である。
  「1鈴が鳴って、残り2分になったら急がなくてはいけないのに、まったくペースを変えなかったのはどういうことか?」
というお叱りをあとで教授から頂戴してしまった。
 質疑応答では、司会の先生等から「事例の羅列にすぎないが、今後どうするか」などの質問をうけた。これについては、「年度変わりを目処に<復原>か<復元>のどちらかに軸足を移す」つもりだと答えた。また、<復原>や<復元>の概念についての質問もうけた。これについては、昨日のゼミで想定問答をしていたにも拘わらず、まったく答えることができなかった。あとで教授から「なぜ準備していた回答をしなかったのか」とのお叱りを頂戴した。
 浅川教授からは、わたしに対してどんな質問がでても、自分(教授)は一切答えないと予め告げられていた。教授は質疑応答の時間は終始無言であった。指導されたのは教授だが、今回の発表はもちろんわたし自身の発表であって、教授の代弁ではないからである。ところが、他の院生が発表すると、その院生に対する質問に指導教員がフォローして回答するケースもみられた。指導教員によって教育の方法が違うことがよくわかった。
 他の院生の発表を聴いたなかで、頭ひとつ抜きんでていた人がいた。その人は修士課程に入るなり、修了研究のテーマを決めていた。だからだろうか、その研究過程を黙々とこなしているようにみえた。その発表は分かりやすく、自分との差を感じざるをえなかった。

 自分は環境デザイン領域に所属する全員の発表を聞いていない。発表会を午後3時で退席し、池田家墓所保存整備検討委員会に出席される浅川教授に同行したのである。修士課程中間発表でも報告した「池田家墓所木造建物の復元」は卒論のテーマであり、現在の整備事業の進捗を聞きたいと思った。

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↑10代藩主墓廟所復元立面図  ↓11代藩主墓廟所復元立面図
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第1回史跡鳥取藩主池田家墓所保存整備検討委員会
 会場の県民ふれあい会館に到着して、まずは研究室で編集・刊行した報告書を委員の方がたに配布した。ようやくお披露目ができて嬉しかった。その後、委員会での議事が始まった。
 議題は、ピエールが卒論で取り組んだ初代藩主光仲墓の唐破風の修復から。教授がいきなり「ステンレスの雇いピンを一切使わない接合方法で大丈夫か、構造の安定性を保証する科学的根拠はあるのか」という質問をされた。すると、「唐破風とそれを受けるU型鋼を接着するエポキシ樹脂が強力であり、接合した材を反転させてもU型鋼から唐破風が落ちない。約10トンの重さに耐える」という回答が業者からあり、出席者いちどう驚愕した。ちなみに、石の唐破風の重量は約1トンとのことである。
 さて、これまで澄古墓、金三郎墓の玉垣修復が終わり、現在、光仲墓の玉垣を修復中である。この3基の墓の玉垣の修復手法はそれぞれ異なった。しかし、今後はこの3つの修復手法を応用して、残る玉垣の修復を進めていくことになった。今日、玉垣の修復手法を検討した墓は以下のとおり。
  ①延俊・定興墓
  ②清定墓他3基
  ③安之助墓他2基・豊之助墓・智春院墓
 ここで問題となったのは「転用材」の扱いである。墓の玉垣には他の墓から持ち込んだ「転用材」が含まれているのである。浅川教授は「転用材バンク」が必要ではないか、と主張された。
 転用材を玉垣から取りさってどこかに収蔵しても、事実上「廃棄物」と同じ扱いにしかならないから、「転用材バンク」に整理して保管し、必要に応じて転用材を加工し、玉垣の修復に再活用しようという発想である。いわば「転用材のリサイクル」である。いまや、福部産「南田石(のうだいし)」の採石は不可能になっており、境内や裏山に散乱する用途不明材や転用材は、貴重な南田石の資源であり、その有効活用が必要だと自分も考える。 
 池田家墓所とはじめて関わったのが3年前だが、いまでもこうして関わらせていただいている。このことは、とてもよい勉強になり、そして、そのありがたさを感じている。光仲墓石玉垣の仮置が終わると現地説明会が開かれるようである。是非、現地説明会に足を運びたいと思っている。(某大学院生)

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↑「奥谷御廟所図」(鳥取県立博物館所蔵)





  1. 2007/01/27(土) 00:27:16|
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「建築の保存と修復」講義を終えて

 先週の金曜日、「建築の保存と修復」講義を終えた。ようやく採点を片づけたところである。
 前期の「地域生活文化論」は環境政策学科・環境デザイン学科合同の講義で、じつに160人以上の履修登録者があり、不慣れな大教室での講義にとまどうことも少なくなかったが、「建築の保存と修復」はデザイン学科の単独講義である。履修登録者は、結局、63名にものぼった。それでも、160名にくらべればはるかに少なく、いつも使っている階段教室(13講義室)に戻って授業ができ、自分のリズムを取り戻せた。
 「建築の保存と修復」は、ムツカシイ浅川教授の講義のなかでも最もムツカシイ講義として知られている。ムツカシイのはなにより英語のテキストを使っているからで、昨年までは毎週15行程度のホームワークを課して不評をかこっていたが、今年の英文ホームワークはわずかに4回。残りの12回は、「理解度チェック」(授業内レポート)方式となった。このやり方が妥当かどうか不安もあったが、わたしは手応えを感じている。授業レポートを読むと、
   「この授業は続けるべきだ」
   「こういう授業方式を続けてほしい」
という肯定的な評価が少なくなかった。なかには、
   「眠るヒマもなかった」
という感想も含まれている。60分間の講義時間に、配布資料のブランクをきちんと埋めておかないと、残りの30分で良いレポートが書けないからである。
 ある女子学生に、授業内レポートとホームワークではどちらが良いか、と訊ねてみた。
   「授業内レポートのほう。断然、集中できます」
と彼女は答えた。
   「だろうね、採点する側も、授業内レポートのほうがおもしろいんだ。一人ひとりの回答に個性がでるからね。ホームワークにすると、課題をグループでやってるのが、すぐにわかるんだな。同じようなレポートがたくさん送られてくるんだから」
   「それはわかると思います・・・」

 最終講義は「9章抜粋」という約30分の短いスピーチのあと、60分(以上)レポートを書いてもらった。ラールセンの9章(結章)は日本を批判したり擁護したりの繰り返しで、本の締めくくりとしてはどうか、と思っていたのだが、今回読み直すと、改めて奈良ドキュメントとの相似性を強く印象づけられた。

 164ページに、次のようなことが書いてある。

 「日本建築の保存修復アプローチには西洋人にとって馴染みないようにみえるところがあるとしても、欧米人はその経験だけに基づいて日本の方法を批判すべきではない。建築の保存修復の主たる目的は、一国の文化的アイデンティティを守ることによって、人類の文化を豊かにすることなのだから、我われは保存修復手法における異なった文化的表現を容認せざるをえない。そうすることによってのみ、自国における建築遺産の保護と保存を向上させるための教訓を他国の経験から導き出せるのである。」

 要するに、文化は多様だから、文化遺産の修復方法も多様であり、その文化的多様性を互いに認めざるをえない、という文化人類学まがいの結論である。まるで「奈良ドキュメント」を要約しているような内容ではないか。ラールセンの著作の出版年は1994年。奈良のオーセンティシティ会議が開催されたのも1994年である。もちろんラールセンもその国際会議のパネリストであった(わたしはごく短時間だが傍聴席で討議を聞いていた)。奈良オーセンティシティ会議の筋書きは、すでにラールセンの著作の中にあったわけだ(これについてはユッカ・ヨキレット『建築遺産の保存』395頁も参照されたい)。
 わたしは「奈良ドキュメントは不要だ」と思っている。奈良オーセンティシティ会議は開く必要のなかった会議である。「ベニス憲章の精神を受け継ぐ」ことを前提としながら、結果としてみれば、奈良ドキュメントはベニス憲章の精神を骨抜きにしてしまった。木造建築の文化圏においても、十分ベニス憲章の根本理念をいかした(修正した)保存修復のあり方が可能であり、それを模索すべきであったにも拘わらず、「文化が多様だから遺産の修復も多様であっていい」という奈良ドキュメントの結論によって、日本は自国の修復手法の再検討を回避している。
 文化や地域を超えて大切なものは何なのか。それは「材料のオーセンティシティ」ではないのか。当初材や中古材などの歴史的材料を失っても、なおそのモニュメントは文化遺産と呼びうるのか。「材料のオーセンティシティ」を減じるような修復手法は、どんな国・地域の修復であれ一定の批判を免れえないのではないか。だとすれば、日本が最も得意とする「(当初)復原」という行為は、なお批判の対象として検討の余地を残しているではないか。
 「文化が多様だから、修復も多様であって良い」という奈良ドキュメントの発想は、この批判を免れうる最高のバリアとなった。その理念的背景にラールセンがいる。ラールセンのおかげで、日本は楽になれた。しかし、わたしはその現状に満足していない。





  1. 2007/01/26(金) 00:19:01|
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郷愁のチャック・サン・ジョン・タパ再び(Ⅱ)

養魚を囲い、浮けよ、筏模型
 
 ベトナムの図面の整理が終わった。なんやかやで終わってしまっていた。
 
 昨年11月、デザイン演習4の課題として、ベトナムで取ってきた実測図面をCADで表現することになり、また、それとともに「aqua culture(養魚漕)付 筏住居」の20分の1模型を制作することになった。というよりは、提案が受け入れられたといったほうがただしいだろうか。
 
 年が明け、微修正が必要なものの、なんとかすべての図面を仕上げた。だが、図面が完成したら、次は展示用のパネル(のレイアウト)作り。1枚パネルを作ったらもう1枚増やして概要をまとめたパネルを、と、日を追うごとに作成すべきものが多くなってゆく。いや、増やされていった。
 
 そして今日。以前自分が冗談で口にした、「模型を水に浮かせて小魚を泳がせる」と言うコンセプトが、現実のものとなりつつある。今日のゼミの発表で、2枚のレイアウトは教授の検閲を突破した。次の標的は筏模型である。まだ未完成であるが、けんボーが苦心して作成した模型が好評で、筏を浮かせるなら千代川がいいだの、養魚槽に魚を入れるなら金魚がいいだの、ウグイを釣ってこいだのと、研究室に明るい話題を振りまいている。まぁ何を入れるかは別として、まずは水に浮くかどうかを検証しなければならない。パネルの印刷もある。やるべきことはまだまだあるが、最終締め切りの1月31日(水)にはなんとか日の目を見そうである。(チャック)

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どこに浮くのでしょうか?
 ・・・・間に合いませんでした。・・・・・・はい、私が悪いんです。締め切り前日にバドミントンなんか張り切ってやりに行っちゃうから。・・・・・そのまま疲れて寝てしまうから。
 で、本日の朝からあわてて筏住居の模型製作の続きを進め始めたのですが、「俺ってやるじゃん!!」・・・・・・これが10時頃までの感想でした。なぜなら、予想に反して、とても製作スピードが早かったもんで。でもこれは、10時まで。そこからは、まったくといっていいほど進みません。進みません。・・・・・というか、進められません、みたいな。というのも、情報がないんです。自分がベトナムに行ってきたわけでもないし、筏住居を直接見たわけでもないんです。・・・・・なのに!!なのにですよ、情報となるべきものが、てきとぉ~な平面図と、てきとぉ~な断面図が一枚と、一定方向からの写真が数枚しかないんですよ。一定方向からの写真が何枚あっても、得られる情報は同じですからね。
 ・・・・・・というわけで、写真で見えない部分を、写真を頼りに、想像しては、作ってみる。想像しては壊してみるみたいな(溜息)。というより、なぜに室内写真が一枚もないんですかね?「つくりようがないじゃないですか!!O君!!どうにかしてくださいよ!!」と脳内で繰り返しながらも、昨夜バドミントンに行ったことを後悔しながら、時間ぎりぎりまで模型作ってました。チャックさんにも手伝ってもらいました。・・・・・で、間に合いませんでした。・・・・・・すいませんでした、バドミントンなんかして遊んじゃって。
 と、いうわけで、途中経過の状態で発表したわけですが、ハードルが高くなりました。なんというか、遊びの部分のハードルが・・・・・。最初から浮かせることは頭にいれてたので、いいんですが、いかんせん1/20サイズなので、でかいんですよ。そんな水槽高くて買えんわ!!みたいなことになって、しかも、模型の生簀部分に魚を入れようみたいな雰囲気になっちゃって・・・・・。というわけで、教材費も底をつくので、水槽は、ビニールプールで、魚は川で取ってくるみたいな仮提案がだされてしまいました。・・・・・!?
この寒いのに川で魚とりですか?みたいな感じで土曜日に川に行くことになりました。
・・・・・・・あぁバドミントンしたいなぁ。(けんボー)


  1. 2007/01/25(木) 17:17:50|
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「古民家のリサイクル」プロジェクト最終発表会

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 プロジェクト研究「古民家のリサイクル」の発表会と打ち上げが終わった。
 虚脱感に襲われている。

 とても恵まれたプロジェクト研究だった。2004年度の「ツリーハウス」~「廃材でつくる茶室」以来の、というか、それ以上の経験を学生と共有できた一年であったと思う。振り返ると、楽しい思い出がいっぱい詰まっている。ただ、学生たちの知らないところでは、事業の推進をめぐって何度かぎりぎりのところまで追いつめられ、苦しい思いもした。じつは、この2日ほどのあいだにも卒倒しそうな事件が発生し、それをなんとか鎮火して臨んだ発表会であった。

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 学内での展示が盛況だったのか、そうでなかったのか、よく知らない。昼休みに展示スペースを訪れたときはだれもいなかった。しかし、その後の報告を聞くと、結構大勢の学生が「置水屋」をみてくれたそうだ。加藤家での準備は、居住者O君のほかケンボーが朝から進めていた(大学院生は最初居たらしいが、まもなく帰宅し爆睡。結果は大遅刻!)。掃除と、いつも手間取る「火おこし」の準備である。このあたりの詳細は「倭文日誌」を参照されたい。
 発表会が動きはじめたのは、午後2時すぎから。まずN紙の取材を受けた。いつも取材してくれた女性記者が転勤になり、代わりに若い男性記者が取材にやってきた。あっさりとした取材であった。加藤家修復の重要なポイントをきちんと理解してくれただろうか。
 その後、大学に待機していたチャックから連絡が入った。BDFバスがロータリーを出発した、という知らせである。BDFバスの乗客は、まず古材倉庫(山田班)を視察し、3時15分ころに加藤家に到着した。関係者以外、そう多くはなかったが、「古民家のリサイクル」班の学生のご父兄がなんと東京から駆けつけていらっしゃったのには驚いた。この段階で、S紙の記者も登場。さすがベテラン記者だけのことはある。一日のなかで、いちばん賑やかな時間に取材時間がドンピシャであってしまうのだから。

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 今回の展示のメインはロフトだが、昨日、土間の足場が撤去され、スライド式のスティール梯子がかけられた。これがよく揺れる。古材倉庫班の学生たちには全員ロフトにあがってもらったが、一部の女子たち(↑右)の五月蠅いこと、五月蠅いこと・・・

  キャー、ヒーィィィ、ハァァ~、モウダメェー、シンジャウゥゥゥ~、キャー

 大工さんたちは、ただただあんぐりとその騒ぎをみつめていた(若いN君は涎を垂らしていた・・・)。

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 BDFバスが大学を離れ、加藤家の囲炉裏を囲んでの打ち上げが始まった。一年生女子の準備は周到。豚汁から始まって、ジャガバター、水餃子、焼き鳥、おにぎりなどが次つぎと出てくる。さらに、パーティは「1ディッシュ1ボトル」システムのため、各自がもちよったサンドイッチやら、キンピラやら、和え物やら、チーズケーキやら、エッグタルトやらが参加者から参加者へ手渡しされていった。どれも美味しい。学生たちのエネルギーに、ただただ圧倒されるばかりであった。

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 さらに今日は、卒業アルバムのためのゼミ写真を撮影した(↓)。一昨年の舞台は「茶室」、昨年は4409演習室であったが、今年はもちろん加藤家の囲炉裏しかないだろうと思っていた。その後、1・2年プロジェクト研究メンバーの記念撮影もおこなった(↑)。
 その打ち上げも9時すぎには終了した。1・2年生は、明日の午前から期末試験。これから勉強するのだという。
 わたしのほうは、脱力感がなかなか消えない。こういう時はどうしたらいいのだろうか。家に帰っても、家族のいない淋しさを感じる一瞬である。

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[「古民家のリサイクル」プロジェクト最終発表会]の続きを読む
  1. 2007/01/24(水) 00:09:59|
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茶器を飾った水屋 -準備完了

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 ついさきほど、プロジェクト研究2&4の学内展示が完了した。展示場所は本部棟12講義室の対面(廊下の一部)である。1年はブログ集成とエコバスのポスター、2年はリフォームした水屋を展示した。水屋は茶器を納めることによって、おそるべき迫力を発揮している。茶器のない状態と比較していただければ、その違いがよくわかるであろう。
 あとは、明日の朝を待つだけ。学内展示も出来がいいので、さきほど記者クラブにFAXで連絡した。今回は「今年度最後の加藤家修復工事公開」という触れ込みで報道機関にアピールしているが、水屋のできばえも是非取材してほしい。これも加藤家の遺品でしてね、それがこんな風に蘇った。廃棄直前の状況と比べてみてください。
 そして、神戸市垂水から頂戴してきた100点あまりの高価な茶器の美しさも堪能してほしい。
 今日しかみられません!

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 水屋のリフォーム過程については、以下のサイトをご覧ください。

   「水屋のリフォーム」(Ⅵ)
   「水屋のリフォーム」(Ⅴ)
   「水屋のリフォーム」(Ⅳ)
   「水屋のリフォーム」(Ⅲ)
   「水屋のリフォーム」(Ⅱ)
   「水屋のリフォーム」(Ⅰ)
   「水屋のリフォームに向けて」

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  1. 2007/01/23(火) 00:42:40|
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組み上げ間近!-池田家墓所光仲墓の玉垣

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 午後から池田家墓所の工事現場に行ってきた。ほとんど1年ぶりの視察である。3年がかりの大仕事となった初代藩主光仲墓の玉垣修復。今日までに、地覆石の据え直しがほぼ完了していた。玉垣はまだ組みあがっていないので、あいかわらず墓碑と亀趺の姿はよく見える。
  「亀趺を使っているのは光仲だけだったかな?」
  「いえ、他の藩主も使っています」
  「松江の亀趺なんかと比べると、光仲の亀趺は頭が小さいねぇ?」
  「そうですねぇ、ただもう少し大きな頭の亀趺もありますけどね」
という会話をハマダバダと交わしていたところ、わが西校の同級生クマさんが割って入ってきた。
  「わたしの、怖い怖いかみさんによりますとですね、藩主墓の亀趺の頭は、その下に埋まっている歴代藩主の顔とよく似ているというんです・・・」
 これは卓見かもしれない。十分ありうる話である。

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 今年のビニールハウスは昨年のものよりも大きく、また値段も高いもので、中に入ると、あの懐かしい断裂した石の唐破風が置いてあった。ピエールと宮本が、炎天下のなか、熱射病になりそうになって実測した唐破風である。熱と赤外線に犯され半死寸前のふたりにハマダバダは缶コーヒーを差し入れした。だれがどう考えてもスポーツドリンクだと思うのだが、缶コーヒーをもらった二人は真っ赤な顔をして研究室に戻ってきた。振り返るに、あのころが研究室の最盛期ではなかったか・・・
 ピエールは卒業論文で、対馬藩宗主墓の例を参考に、断裂した2材を雇いピンで接合する代替案を提唱し、みごと最優秀論文に輝いた。しかし、今回の実施工事では雇いピンを使わずにエルパテという樹脂を2材の間に埋め込んで、下からスティールで持ち上げるのだという。大丈夫かな??・・・とも思ったが、ハマクマ・コンビのお手並みを拝見させていただこう。

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 昨年度修復した金三郎墓も、もちろん覆屋がはずされ、完成した姿を四方に晒していた。はじめてのご対面である。よく出来ている、とわたしは思う。まるで木造建築の解体修理のように、玉垣が継ぎ接ぎされているのである。笠石と地覆は当初材、柱は中古材と新材で、それらはみえない位置では雇いピンで接合され、破損部分はエルパテ剤を充填され、さらに笠石の下をステンレスプレートで繋いでいる。笠石は掴みのステンレスで前後に落下しないようにもされている。景観的にはこの「掴み」がいちばん目障りだが、わたしは構造補強が外にみえる修復を好んでいるので、なんとも思わない。一般市民はお気に召さないかもしれないが、こういう補強をしないと当初材を残せないという現実を知っていただきたい。いま、玉垣を眺めると、新旧の当初材・中古材・新材がパッチワークのように織り合わさって見難いという意見もあるかもしれないが、すべて南田石(のうだいし)を使っているので、時がたてば馴染んでくるだろう。
 ちなみに、福部産の南田石(凝灰岩)はすでに採石不可能と言われていたが、今回は福部町某家の土蔵地覆に使われていた材をお譲りいただき転用したそうである。良かった。すばらしいことだ。これからの修復では、こういう幸運には恵まれないかもしれないが、県内の凝灰岩で似たものを探せばよいだろう。

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 帰学後、「平成19年度鳥取県環境学術研究費」の公募要領に関する説明会が開かれた。県の担当部局のYさんが説明してくださったのだが、これまでの採択研究には「施行性、実用性が低い」という指摘が県議会等であるらしく、県の行政に資する研究であるべきことを強く念押しされた。わたしは基礎研究の大好きな研究者だが、県の環境学術研究費については、いつでも県の文化財保護行政に対する貢献を最優先したテーマで取り組んできた自信がある。平成17年度の「国史跡『鳥取藩主池田家墓所』の整備に関する実践的研究」は、まさにその代表であり、今年度の「ローコストによる古民家修復手法の開発」もまた同様である。県では、「研究期間終了後5年間は、研究成果の実用化・施策化の状況に関するフォローアップ調査」をおこなうのだという。
 どうぞ、おこなってください。繰り返すけれども、わたしたちの取り組みは県の文化財保護行政に大きく貢献している。そうでないと言う方がいたら、どうぞこのブログに厳しいコメントをお寄せください。

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↑笠石下側の構造補強 ↓貫の新材に「H17」の刻印を施した。みえますか? 濃い鼠色の部分がエルパテ。
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  1. 2007/01/22(月) 20:01:52|
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倉庫番(Ⅱ)

 昨夜の10時14分、郡家駅に着いた。今回は車を駐車場に預けていて、そのままスウィフトで帰宅。門前にはタクオの車が停車していた。ずいぶん待たせてしまったようだ。じつは、
  「センター入試があるから、週末は鳥取に居る、一杯やるか!?」
という話を持ち出していたのはわたしのほうで、それは先々週だったように記憶する。しかし、そういう約束をさっさと失念して、わたしは2泊3日で奈良に帰ってしまった。どうしても、奈良のことが気になる。子どもに任していられない、と思ってしまうからだ
 結局、深夜11時からホタルで飲んだ。途中からノビタも合流した。ノビタはウーロン茶に徹して車で帰宅したが、タクオは我が家の駐車場に車を泊めて1階の炬燵で一夜をあかした。タクオもノビタも卒業したばかりだが、いろいろ悩みがあるようで、たまに相談にのる。タクオは今日「厄払い」をしてもらうのだそうだ。人生には流れがあって、うまくいかないときは流れに逆らっても仕方ない。しばし忍耐の時間を過ごすしかないだろう。かくいう小生も、あまり上手な生き方をしてきたほうではない。何回かあった人生の岐路で、しばしば選択を誤った。それでも、なんとか生きている(沈没寸前だが・・・)。

 今日はセンター入試の2日め。環境デザイン学科の入試委員なので、今年もまた「倉庫長」という役割を頂戴した。昨年ほどの緊張感はない。昨年は1日めの倉庫長だった。センター入試にはじめて英語のリスニング試験が導入される年に、リスニングがおこなわれる1日めの倉庫長を務めた。トラブルがおきるかどうか、冷や汗をかきながら各試験室の動向を見守っていた。果たしてある試験室で「音声が中断した」というトラブルが発生した。再試験がおこなわれ、すべての解答用紙が回収されたのは夜の9時すぎだった。集合時間は早朝8時だから、13時間以上も倉庫番の仕事を務めたのである
 今朝、大学に到着して倉庫の前に着席し、まず一言質問。
  「昨日のリスニング、どうだった?」
  「昨日も1件出たんですよ、ただし機械の故障じゃなくて、受験生の耳にイヤホンがあわなかったんです・・・」
  「全国ではどれぐらい??」
  「今のところ380件ぐらいらしいです。」
  「なんだ、昨年とあんまり変わらないじゃないの・・・」
 たしか昨年は約460ヵ所の会場でリスニングのトラブルが発生した。文科省はこのトラブルを減らすためにやっきになっていたはずだが、リスニングのトラブルが減るはずはない。ICプレーヤーがどうの、イヤホンがどうの、という問題ももちろんあるけれども、受験生が「よく聞こえなかった」と主張した場合、それを否定することは不可能だからである。
 いちどリスニング試験の監督者マニュアルをみなさんにおみせしたい。それは「こういうトラブルが発生した場合、このように対処しなさい」というトラブル対策マニュアルで、総頁数が68ページもある。こういうマニュアルを作成し配布しなければ成立しない試験であり、にも拘わらずトラブルが頻発しているということは、試験の制度そのものに無理がある証にほかならない。こんなこと、試験監督を務める教員はみんなわかっている。文科省のお偉方だけが意地を張っているだけのことだ。
 この制度を廃止するためには、もっとトラブルが多いほうがよいのかもしれない。

  1. 2007/01/21(日) 20:53:47|
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大極殿の上棟式

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 ネタがなくなると、だれかが送信してくれたメールを利用してブログにあげてしまう悪い癖があることを、いちおう自覚しているつもりだ。反省はしているのだが、しかしその一方で、おもしろいネタを目の当たりにすると、ブログに掲載したい衝動にかられてしまう。こういう場合、もちろんメールの送信者は徹底して匿名にしないとまずい。文面をそのまま引用するのもできるだけ控えて、こちらで加工する。ところが、数日前のブログでは匿名者から実名でコメントを頂戴して、キョトンとしてしまった(註:この記事を読んだコメンテータより依頼があり、削除済み)。こういうこともある。しかし、基本は個人情報の保護であって、そのことを承知してはいるけれども、わたし自身、なんどかこの原則に抵触している。自分が攻撃的になっているときにそういう違反を犯してしまう。要注意だ。

 今月16日、「寒中お見舞い申し上げます」という題目のメールを頂戴した。送り主は某事務所の修理技師。挨拶文のあと、「平城宮大極殿復原工事は昨年12月12日に上棟を迎えました。完成まであと3年です。」という短文が続き、上の写真が添付してあった。正直、現場をみてみたい、と思った。
 わたしは、平城宮第一次大極殿の遺構解釈と基本設計に関わり、実施設計の途中、というか着工の直前に敵前逃亡した者である。その後、気になって、なんどか現場をみせていただいた。2005年の2月には、修学旅行(特別講義)で2期生を復元工事の現場に連れていった。しかし、以来まる2年、工事現場を訪れていない。
 あまり知られていないだろうが、平城宮第一次大極殿の遺構はほとんど残っていない。基壇地覆石の据付痕跡と抜取穴が部分的に溝状に残っているだけで、柱の位置すら不明なのである。いろいろな2次資料を使えば、なんとか平面を復元できないことはない。しかし、その上屋となれば話は別だ。だから、復元そのものに大反対だった。復元案にも反対だった。第一次大極殿は最初から最後まで「重層入母屋造」とイメージされ続け、その復元案は覆らなかったのだが、わたしは「重層入母屋造」案にも一貫して批判的なスタンスをとり続けた。最後の最後まで反対し、大極殿の委員会では、葉巻をくゆらす考古学の大先生から怒鳴られたこともある。

 復元の検討をはじめたころ、唐長安城大明宮含元殿に代表される中国宮殿建築の主要殿舎の形式「四阿重屋」(周礼考工記)を意識して、平屋の寄棟造に裳階(もこし)をつけた形式をわたしは想定していたが、その後は裳階のない寄棟造の可能性が高いだろうと思うようになり、さらに最終的には「平屋の入母屋造」でほぼ間違いないだろうと考えるようになっていった。復元は不可能といいながら、ここまで断言するのはおかしい、という逆批判を頂戴しそうだが、艱難辛苦の末たどりついた到達点が「平屋の入母屋造」であった。「平屋の入母屋造」といえば、伊東忠太が復元した平安神宮の形式だが、わたしは奈良時代の大極殿についても伊東の復元案が妥当だろうと思っている。重層入母屋造案を頑として譲らなかった古代建築史や考古学の大家たちの考えは間違っている。かれらは伊東忠太に敵わなかった。その理由については、いつか詳細に述べる機会があるだろう。

 こういうわけで、大極殿には感情的なこだわりがある。こんな文章にする気はなかったのに、こうなってしまうのである。
 だから、現場に行けないのだろう。

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↑↓大極殿の覆屋(素屋根)。この中に入るには、大変やっかいな手続きが必要なんです。
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  1. 2007/01/20(土) 01:30:43|
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ロフトの公開 -加藤家修復プロジェクト研究発表会

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 というわけで、今年度、研究室の命運をかけて取り組んだ大事業「加藤家の修復工事」に対する学生の主体的参加「古民家のリサイクル」(前期:プロジェクト1&3、後期:プロジェクト研究2&4)が昨日、最後の演習を終え、残すは発表会のみとなりました。発表会の詳細を以下に記します。

  1.日時 1月23日(火)午後1時~
  2.学内展示
    プロジェクト研究2:パネル展示(数枚)
    プロジェクト研究4:加藤家の台所にあった水屋をリフォームした
       「置水屋」と茶器の展示、パネル展示
  3.BDFバスによる古材倉庫(山田班)および加藤家修復工事ツアー
   23日午後はいつでも見学できますが、学生・教員のためにBDFバスにご登場していただくことになりました。4限に<大学→加藤家&古材倉庫>間を一往復していただきますので、是非ともご利用ください。BDFバスICカードをお持ちの方は持参願います。
   出発時間等は以下のとおりです。
     大学ロタリー集合14:35 → 古材倉庫見学 →
     →加藤家見学 → 加藤家出発15:55
  4.学生向けの現地説明時間
     P2「古民家のリサイクル」   
      場所 鳥取市倭文491 加藤家住宅  
      発表時間  15:20~15:50
     P2セ「ルフビルダー養成講座 2:古材倉庫を建てよう」
      場所 鳥取市倭文 加藤家付近の田畑
      発表時間  14:55 ~ 15:15 

 今回の目玉は、なんと言っても、加藤家のロフトです。茅は取りさり鉄板一枚で覆われていた加藤家の屋根が地域産材の杉板でよみがえろうとしています。しかも、その屋根裏にはコテージ風のロフトができあがっているのです。将来はアトリエになるとかならないとか??
 是非とも、工事中の様子をご覧ください! 

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どんちゃん騒ぎでしめたいと・・・
 昨日の作業は23日のプロジェクト研究発表に向けての資料作り(↑上のチラシなど)です。だが、しかーし!!なぜか加藤家で作業開始。。。あれ??作業着に着替え、コンテナの2階でPCに向かう姿はなんだか間抜けなかんじでうけました(笑)
 一方、加藤家では先輩方が修復途中の囲炉裏を完成させるべく、作業を開始。自在鍵と火棚をダストからつるして完成!!囲炉裏で灰を作成。23日のプロけジェクト研究&打ち上げの準備は万端です。
 23日で私達はついに加藤家ともお別れです(授業としては)。いろいろ学ばせてもらった加藤家に敬意を表し、どんちゃん騒ぎでしめたいと思います(笑)皆さんも、お暇の許す限りぜひ加藤家に足を運び、一緒に騒ぎましょう!! (よねまゆ)

  1. 2007/01/19(金) 02:27:48|
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水屋のリフォーム(Ⅵ)

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 本日の水屋班ブログはエースことN・Rが担当します。プロジェクト研究最終日である昨日、私達水屋班は雨の降る中、いつもの作業場で水屋完成を目指し作業に取り掛かりました。
 風の吹き込む寒い作業場で火を焚き暖を取りつつ作業は着々と進みました。リーダーとA君は棚造り、Iさんは細部の補整と発表時のパネル制作、Kさんと私は古色塗りを中心に作業を行ないました。
 作業開始3時間ほどでA君は本日の作業から離脱、その後残る4人で作業を進めていると、私たちの同級生であるH君が助っ人として作業を手伝ってくれました。そして23:34ついに水屋が完成しました!!その後完成記念の写真を撮影して、0:00。
 ちょっとすがすがしい体の痛みと共に私達は作業を終えました。<完>

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↑古色塗り ↓左:竹細工 右:床柱
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  1. 2007/01/19(金) 01:38:40|
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イロリよ再び(Ⅱ)

 今からちょうど1週間前、イロリ復原班のリーダを務めたMr.エアポートの助けを借りて、側石の据えつけをおこなった。あの日は、さまざまなトラブルに巻き込まれた結果、据えつけ作業を終えたのが午前0時。久しぶりに、筋肉痛で腕が上がらないという体験をした。そしてその後、大工さんの手により据えつけられた側石の形に合わせて床板が取り付けられたのだが、できばえが実にすばらしい。「大工」と呼ばれる方々の技術にただただ頭が下がる思いである。なお、修復後はイロリノマ及び、イロリノマ裏が板間になる予定であり、広々とした空間が生まれることになる。

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<↑イロリの側石に合わせて床板が取り付けられている>

 上記にみたような1週間を過ごした加藤家住宅であるが、本日のプロジェクト研究において、自在鉤と火棚の据えつけ作業をおこなった。参加したメンバーはプロジェクト研究2を履修している男子学生と浅川研究室のゼミ生数名である。まず、集まったメンバーをイロリノマから据えつけを行うグループと、ロフト空間の大引に藁縄を括りつけるグループとに分けることにした。グループ分けが終了すると、いよいよ据えつけ作業へと工程を進めることになる・・・。最初に自在鉤を据えつけるのだが、イロリ復原において参考にした保木本家住宅と同様に、イロリ框から鉛直方向に約500mmの位置に自在鉤がくるように上手く調整する。「もうちょっと上げてみて。よし!この高さでばっちりだ。」と調整を担当した某大学院生(やっちゃん1号)が声をあげた。その様子を見ていたO1号は「よかった、よかった。本日の作業は順調な足取りだ」と内心ほっとしていた。

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<↑自在鉤の位置を調整するやっちゃん1号さん ↓火棚を据えつける学生>
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 その後、火棚の据えつけ作業に入るのだが、これまたみんなで「よいしょ!」と声を出しながら、火棚を持ち上げ位置の調整を行いながら、任意の位置に据えつけていく。作業開始から約3時間後、みんなの思いがいっぱい詰まったイロリが貫禄ある姿で息を吹き返した!(01号)

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<↑現在のイロリ>

  1. 2007/01/18(木) 22:51:10|
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「上」様の正体(Ⅰ)

 仏教考古学を専攻する大先輩からメールで連絡が入った。

 加藤家の屋根裏で3枚の「上」様が発見されたことを12月1日のブログで紹介したが、「五岳真形図の中岳嵩山」に該当する「霊符」ではないか、との指摘である。その図形は、大宮司朗『霊符の呪法』(学習研究社、2002)に掲載されており(↓)、同書によれば、「五岳真形図を手に入れれば、山河神が迎送し、保護してくれる。もし家にこの符があれば、心に思うことが実現し、家運は隆昌するとされている」と書かれているという。

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 なるほど、ほんとうにそっくりの図形だ。急ぎ、大宮司朗氏の『霊符の呪法』をアマゾンで検索すると、類書がわんさと出てきたので、まとめて注文したところ。
 文様は理解できたから、あとは色の違い、方位、「上」の意味などについて知りたいものだ。
 続きは本が届いてからお知らせします。


  1. 2007/01/17(水) 19:49:15|
  2. 文化史・民族学|
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大学院修士課程1年次研究中間発表

 表記の研究発表会が1月26日に本学12講義室で開かれます。3領域すべての院生が、研究の中間発表をおこなうのです。一人に与えられた時間は20分ですが、質疑応答を含むので、実質の発表時間は15分弱です。環境デザイン領域は13時から始まり、7名が発表をおこなって15時20分に終わる予定です。
 私は環境デザイン領域のトップバッターとして、

  「建築の復原と復元」

と題する発表を行うことになりました。学部時代の宮畑遺跡復元住居(縄文中期)、加藤家住宅のオモヤ復元(18世紀前期)、池田家墓所の廟所建物(幕末)などを圧縮して説明した上で、現在進行中の尾崎家住宅(17世紀後半)の復原研究と青谷上寺地遺跡建築部材(弥生中後期)に関わる復元研究の成果を発表することになっています。

 この中間発表に向けて、ここ2週間のプロジェクト研究6&7で練習しています。先週は内容がめちゃくちゃ、今週は発表時間の大幅なオーバーなど、これから修正すべき点が多々あり、先生の指導を受けています。先生には、モノゴトの「構造化」ができない、といわれました。おもちゃ箱をひっくりかえしたような内容だとのご指摘です。なんとか発表内容を体系的なレベルに仕上げていかなければなりません。
 あと10日間ですが、日々修正を加えて26日の本番に臨みたいと思います。(某大学院生)


  1. 2007/01/16(火) 18:47:52|
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今度こそ「吉田を囲む会」

 というわけで、朱雀郵便局まで行ってきました。
  「当たっちゃいましたよ・・・」
と言って、ラッキーナンバー7093の葉書をみせると、カウンターの女性職員は、ギョッとした顔をして、
  「?!・・はじめてです?!」
と答え、二等の「地域の特産品」カタログをわたしに手渡した。で、わたしと家内は、そのなかの02番を選んだのでありました。
  「あのですね、べつに二等にあたらなくてもいいから、三等の記念切手シートの当たり番号を3本に戻して欲しいんですけどね。それが一国民の声だと上の方にお伝えくださいな。」
  「そうですね、わたしも個人的にはそう思っているんですけど。」
という会話を交わして郵便局をあとにした。

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 さてさて、すでにお知らせしたように、2月3日(土)は鳥取県立図書館で「民家に学ぶ」講演があり、5日に妻木晩田遺跡事務所で「考古遺跡発掘調査担当職員に対する古建築講座」をおこなうので、そのあいだの4日に田和山遺跡の竣工検査をおこなうことにした。
 この機会を利用しない手はないわけでして、2月4日の夜に、延期されていた「吉田を囲む会」を開催します。先週、吉田に電話したところ、急性気管支炎で寝込んでいて、とても辛そうだった。4日のスケジュールは未定で、仕事が入る可能性がある、と言うから、「夜だよ、夜の食事会」と再確認すると、「あぁ、それなら大丈夫です」とのこと。会場はもちろん米子駅前の「庄屋」です。ようやく日野川の大ナマズにありつける。ナマズに関していうと、真冬がいちばん美味い。身がキュッと締まっているのだ。
 ただし、年度末でみな忙しいから、11月のときほど集まりはよくないだろう。それでも2期生+αで5~6人集まるんじゃないだろうか。わたしは勝手にそう見込んでいる。
 というわけです。「庄屋」で日野川の大ナマズを食べたい方、どうぞご参集ください!



  1. 2007/01/16(火) 00:00:13|
  2. 講演・研究会|
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ラッキーナンバー7093

 昨日、ネットでお年玉年賀はがきの当選番号を知った。年々、お年玉の等級と数が減っていく。子どものころ、たしか5等まであった。5等は記念切手で、下2桁の数が3種類。下2桁は00~99まで100種類あるから、当たる確率は3%。4等はレターケースで下3桁が2~3種。したがって、当選確率は0.2~0.3%。4等はめったに当らなかったが、ごく稀に当たることもあった。レターケースが貰えると、とても嬉しかった。それがいつごろからか、なくなってしまった。4等は消去され、従前の5等が4等に格上げされた。と思っていたら、今年は3等までしかない。しかも、3等の記念切手は下2桁が2つにまで減ってしまっているではないか。せちがらい世の中になってしまいましたね。郵政民営化の影響なのだろうが、ここまでケチ臭くしなくてもよいではありませんか。もう年賀状出すのをやめようか、と真剣に考えたりした。賀状に使う経費も、決して馬鹿にならないのだからね。ところで、今年の年賀状の配送状況はひどかった、とみなが言っている。聞けば、年末29日に投函した賀状が正月5日頃にようやく届いたのだそうだ。ほんとうに冗談ではないか、とも思うのだが、10日すぎまで年賀状が送られてきていた。これも民営化の影響だとしたら、悲しいことではありませんか。

 今年の当選番号とお年玉の内訳は以下のとおり。

お年玉年賀葉書・切手当選番号(A・B組共通)
  一等  157788  457190
   わくわくハワイ旅行、にこにこ国内旅行、ノートパソコン、
   DVDレコーダー+ホームシアターセット、
   デジタル一眼レフカメラ+プリンターセット
   以上の5点のなかから1点。
  二等  下4桁  5161  7093  7485  9614
   地域の特産品小包1個
  三等  下2桁  64  79
   お年玉切手シート

 我が家に届く年賀状は200枚あまり。確率的にいうと、昨年までなら記念切手を6枚いただけるはずであったが、今年からは4枚になった。それでも、貰えないよりは貰えたほうがいい。とりあえず三等の切手シートがあたっているかどうか、一枚一枚賀状をめくって調べていった。一通り見終わって、当たっていたのは「64」が一枚だけ。とほほ、今年も春からついてない。ここで終わってしまっても良かったのだが、まさかのこともあるから、二等と一等についてもチェックしようと、こんどは反対側から一枚一枚賀状をめくりかえしていった。すると、「64」がもう一枚みつかった。見落としていたのだ。このほか、一等と二等の下2桁にあたる「88」「90」「61」「93」「85」「14」をみていった。たまに該当する番号もあるが、たいていその左側の数字をみてがっくりする。その繰り返しで、下2桁「93」の賀状を発見。どうせ、まただめだろうと諦めながら左側の数字をみると、「70」とある。
 目が点になった。下4桁が7093。二等があたっている。確率でいうと、一万分の四。2500枚の年賀状をもらって、ようやく1枚あたる可能性のある番号だ。その番号が200枚のなかに含まれていた。送り主はいったいだれなのか、気になるところだ。その賀状の送り主は大阪在住の美しい女性建築家であった。30代前半だが、まだ独身のはず・・・苗字も変わっていない。昨年は賀状が来なかったのに、どうして今年はくれたんだろう? こちらから賀状を出したわけでもないのに、新聞で青谷の記事をみたからだろうか。数年お目にかかっていないが、相変わらず綺麗なんだろうな。
 
 というわけで、今日は目覚めたら、郵便局に行ってお年玉を頂戴してきます。ちなみに二等は1,529,836本用意されているとのこと。50種類の地域の特産品小包から1点を選ぶことができる。



  1. 2007/01/15(月) 01:50:52|
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考古遺跡発掘調査担当職員に対する古建築講座

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 鳥取県が主催する2006年度「課題対応スキル向上事業」として、「考古遺跡発掘調査担当職員に対する古建築講座」がおこなわれ、その講師を担当する。この講座の研修目的は、「遺跡から出土する建築部材や焼失住居等の調査に必要な建築学的知識を習得し、研究成果を高めるための能力を養うこと」である。鳥取県では、弥生~古墳時代集落の発掘調査で毎年数棟の焼失竪穴住居跡が出土しており、その総数は200棟を超えている。焼失竪穴住居跡は内部に炭化した部材を数多く残しており、住居の上屋(うわや)構造を実証的に復元できる有力な媒体である。研修では、まずわたしが焼失竪穴住居跡の遺構解釈と復元の基本についてミニ・レクチュアをおこない、これをうけて参加者に遺構と土層から推定される竪穴住居の上屋構造を1/20スケールの模型でグループ制作していただく。研修対象者は「県、市町村及び財団法人等の発掘調査担当職員」(約20名)である。
 会場・日程等は以下に示すとおり。

  1. 講  師  浅川 滋男 鳥取環境大学教授(建築史)
  2. 開催日時  平成19年2月5日(月)午前10時30分~午後3時
  3. 会  場  妻木晩田遺跡事務所体験学習室
  4. 内  容 
   (1)講義: 遺跡調査に必要な古建築学の基礎的知識と焼失住居調査例の検討
   (2)演習: 県内における焼失竪穴住居の復原模型のグループ制作

担当部局・課名
 鳥取県教育委員会文化課遺跡調査整備室
 妻木晩田遺跡事務所(鳥取県埋蔵文化財センター)
 担当: 中森・濱田 0857-26-7932

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↑琴浦町梅田萱峯遺跡の焼失住居跡[2005]



  1. 2007/01/14(日) 00:39:44|
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雪の夜(ⅩⅢ)

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二人の腕が離れると、少年は寂しげに笑って、じゃあね、と言った。メアリもきっと同じような表情をしているのだろう。うん、とだけ答えた。あの妙な指先だけの握手はきっと冬の精の握手なのだ。
くるりと体を回してヴィオレットが歩き出す。今日は最後まで見送ろうと思ったメアリは窓枠に手をついてその後姿を眺めた。数歩あるいたヴィオレットが突然後ろを振り返る。
「メアリ、お返しをあげよう。明日の夜、鏡をいつもどおり外に出して耳を澄ませていてごらん。」
え、とメアリが言いかけたのにふわりと微笑むとまた元通り歩き始めた。今度は振り返ることはなく、少年は家の角を曲がって消えた。不思議に思いながら窓を閉めようとしたメアリはふと雪をみて不思議な事に気づいた。ヴィオレットの歩いていった後には小さな小さな足跡が転々と続いている。


翌日、メアリはヴィオレットに言われたとおり黒い鏡を窓際に置いておいた。そして静かにベッドの中で何かが起こるのを待つ。またヴィオレットが来るとでも言うのだろうか。
静かな部屋の中で聞こえるのはとことこと鳴る自分の鼓動だけである。

…リン…

小さな小さな音が聞こえた。メアリは体をおこしてよく耳を澄ませる。

…リン、リン…

聞き覚えのある音だ。これは。急いで窓を開ける。
外は雪が降っていた。星が見えている。空気が凍りついて振る雪だ。

…リン…

また聞こえた。音の元を探すメアリの瞳の端にキラリとするものが写った。それは鏡だった。鏡が光ったのかと思ったが、今日は月がない筈だ。メアリは初めて、鏡をのぞいてみることにした。鏡の中では何かきらきらするものが雪と一緒に降っている。
金平糖のような、小さなもの。…星屑だ。

…リン…

そうか、今日は新月。なんて綺麗なんだろう。リンリンと微かな音をさせながらそれは地上に落ちて行く。まるで夢のような光景だった。思わず手を伸ばしてみると鏡の中で確かに星屑が手のひらに乗るのが見えた。ふわふわと不思議に冷たい感覚がする。やがて星屑は手のひらの上で消えていった。しばらくの間メアリが鏡をいろいろな方向に向けて楽しんでいると、ふと星屑に輝く鏡の中で何か黒いものが動いた。鏡をよく見てみると、柵の向こうで白い小さな生き物がこちらを見ているのが見える。
…猫だ。
白猫は笑うように目を細めると器用に柵の上に上がった。そして一声ニャン、と泣くと空中に飛び上がり、まるで掌で解ける雪のようにふっと姿を消した。
飛び上がった白い猫の後ろ足だけが、ブーツを履いているように、黒かった。


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(完)-KA-



*童話『雪の夜』の連載は今日で終わりです。
   ご愛読ありがとうございました。
   楽しんでいただけましたでしょうか!?
   ちょっぴり解説を「続き」に記しています。
 


   「雪の夜」(Ⅰ)
   「雪の夜」(Ⅱ)
   「雪の夜」(Ⅲ)
   「雪の夜」(Ⅳ)
   「雪の夜」(Ⅴ)
   「雪の夜」(Ⅵ)
   「雪の夜」(Ⅶ)
   「雪の夜」(Ⅷ)
   「雪の夜」(Ⅸ)
   「雪の夜」(Ⅹ)
   「雪の夜」(ⅩⅠ)
   「雪の夜」(ⅩⅡ)
   「雪の夜」(ⅩⅢ)


 ・童話『雪の夜』初版は2006年2月17日にqutucoより発行されました。
  この童話の著作権は作者のKAさんとqutucoに属します。
  無断転載は法律によって罰せられます。



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  1. 2007/01/13(土) 03:13:01|
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建築士会西部支部新年祝賀会講演会

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 すべったな・・・
 客席のどよめきがほとんど伝わってこない。講演のタイトルは「『楼観』再考 -青谷上寺地遺跡のながい柱材をめぐって」で、パワーポイントの構成も昨年11月18日の特別講演とまったく同じ。あの日は、考古学・古代史のマニアや専門家が青谷に集結したので、スピーチに対する聴衆の無言の波動をひしひし感じていた。とりわけ、「魏志倭人伝」絡みの部分はこの分野の愛好家にはたまらない内容だっただろう(とわたしは勝手に思っている)。事実、講演後、ある知り合いが挨拶に来て、
  「中国の話がおもしろかったです!」
という感想をのべてくれた。唯一、わたしの講演に関心がなく、ぐうぐう寝ていたのが某大学院生であった。顔を真っ赤にして、体をそりかえらせ、シャツの隙間から臍がちらりと見えたりして・・・。

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  「人みて法説け!」
と大学時代の指導教官によく叱られたものだ。いまは、わたしが学生たちにそう訓じている。しかし、今日はわたしが失敗した。
 魏志倭人伝の話は受けない。建築家や技術者を相手にする建築士会の講演会で、魏志倭人伝にみえる建築表現の話をしても反応がない。じつは、わたしは結構あたらしい視点を示しているのである。「宮室」は一つの言葉ではなく、祭政施設としての「宮」(前朝=前堂)と居所としての「室」(後寝=後室)に分解できる。「邸閣」は大倉庫であって、妻木晩田などでみられる小さな高床倉庫は「桴京」(魏志高句麗伝)と呼ぶべきだ等々。しかし、それは別の場所で話すべき内容であることがよくわかった。
 「楼観」の講演については、さらにオファーが届いている。今後、聴衆にあわせて、いくつかのバリエーションを用意しておかなければならないな。

 講演後のパーティは遠慮させていただいた。やはり患者のことが心配なので、米子から「スーパーやくも」→「のぞみ」と乗りついで奈良まで戻ってきた。途中、岡山駅の新幹線プラットフォームで吉本の芸人さんたちとニアミス。大助&花子、阪神&巨人などの大御所がずらりと顔を揃えていた。じつは大助&花子さんとは一緒に仕事をしたことがある。ちょうど十年前だと思うのだけれど、建設中の朱雀門を舞台にして大阪ABCが「ほんまかいな平城京!」という特番を制作してくれたのだが、所長と大助&花子さんの会話がメインの番組で、わたしは研究所側の裏方を務めていたのである。当時の部長から、
   「アサカワ、色紙20枚買って来い!」
と言われて買いそろえ、宮川花子さんにサインを書いてもらった。その色紙は、いまでもリビングの壁に飾っている。

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↑花子さんの色紙(クリックすると画像が拡大されます)





  1. 2007/01/12(金) 23:49:06|
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雨ニモ負けケズ -水屋のリフォーム(Ⅴ)

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雨は屋根にはねて大きな音を立て、冷たい風は一目散に吹き抜ける。
そんな場所での作業を余儀なくされた水屋班のどちらかと言うと
夏のほうが好きな男です。
さ、寒い!寒いよ~!なんて言わなくても百も承知なのは僕たちも知っている。
だけど、黙ってらんないほどの寒さってあるでしょう?今日はその日と呼んでいい。

冬は、早く雪を降らさんとばかりに必死になっているようだが、
こっちはこっちで必死なんです。
もう残りわずかなんです。タイムリミットが!!
黙っていても喋っていても、火起こしをしてても時計は回る。
僕達は作業を進めます。

まずは、2006年の忘れ物の間仕切り(と呼んでいいのか)
を完成させた。その後、水屋の流し(これもそう呼んでいいのか)にとりかかった。

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ここで休憩だ。
みんな火をくべろ~!じゃがいもを焼け~!
そして食べろ~!!あ、バターもあるからそれ使っていいよ。
こんな幸せなひとときはない。僕達は、ここぞとばかりに
現実逃避、目の前のジャガイモを白目むいて、むさぼり食っていた。
しかし楽しい時間は早く過ぎてしまうもの。すぐに作業が再開された。

竹で作ったすのこと板を張り合わせた流しは、なんだかモダン風水屋の完成を予感させた。
残るは、違い棚とすだれだ。いずれも竹を一部、または全体に使用している。
僕たちの必須アイテムなんです。

「竹を制するものは水屋を制す!!」

と、まぁ名言が飛び出したところで今日はおひらきでございます。
ご清聴ありがとうございました~! (デザイン学科2年 水屋大好きっこ)

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  1. 2007/01/11(木) 23:50:00|
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イロリよ再び(Ⅰ)

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 ついにこの日がやってきた。
 我々が製作したイロリを加藤家の床に戻すため加藤家からお呼びがかかったのだ。暑い夏の日に汗とホコリにまみれになりながらイロリの石を組んだことを懐かしく思う。
 改修された加藤家のイロリの間の大引きや根太は、大工の方々によってすばらしく良い具合になっていた。イロリの石は鳥取城の石垣の余材をいただいたので幅が大きく通常の大引の間隔には入らない。大工さんたちのおかげで作業は楽に進んだ。大変感謝である。と思いきや、やはりイロリの石たちは重い。雨が降る寒い夕方にも限らず汗をかいた。床の沈下が修正されたためイロリの框の位置がかなり高くなっており、イロリの石のレベルを上げるのとツラをあわせるのにはとても苦労した。予想では1時間で終わると思っていたが、気がつけば2時間半も作業に没頭していた。
 イロリが組み終わった頃には外はすでに真っ暗になっていた。このイロリで再び火を焚き皆で囲うのも、そう遠くはない。(Mr.エアポート)

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  1. 2007/01/11(木) 23:40:51|
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年初の加藤家修復工事

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 一昨日(9日)、まる20日ぶりに加藤家を訪れた。門前には大きな注連飾り。大工さんたちの仕事始めであった。ロフトにあがると、すでに大半の部分に斜めの杉板天井が張ってある。じつにいい感じになってきた。大工さんからは、角の収まりについて質問をうけたが、実際に隅木として使われているサスをみると、あまりに細いので、隅はすべて新材に差し替え、旧隅サスは他の部分のサスに転用することにした。

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 そして、今日(11日)は新年初のプロジェクト研究2&4。発表会を23日(火)に控えて、残す演習は2回となった。発表会兼打ち上げでは、どうしても囲炉裏を使いたいので、今日は水屋班からMr.エアポートを借りてきて、床下の側石(鳥取城跡石垣の余材)を据え付けることになった。これが大変な作業・・・もちろん解体時には石に番付けしているので、そう手間取らないだろう、と思っていた。ところが、よくよく考えていると、ジャッキアップによって柱は垂直になり、床は水平に修正されている。囲炉裏の解体前よりも床が高くなっているのである。この微修正が難しい。根石には高速道路の工事現場で頂戴してきた破砕石を使ったのだが、1~2㎝の微調整にはあまり向いていないことがあきらかになった。
 Mr.エアポート、けんぼー、O君1号の3人が賢明に水平レベルを調整するが、予定の1コマ(4限)を終わっても作業は終了せず、午後5時すぎにようやく石を据え終わったのだが、そこで大工さんにみてもらうと、天井の煙抜きと位置がずれていることが判明。わたしは大学院の授業があるから、Mr.エアポートを車にのせて水屋班のもとに帰っていったのだが、残されたけんぼーとO君1号は果たして据え直しに成功したのだろうか。
 一方、水屋班は水屋班で、リーダーを囲炉裏班にもっていかれたのが影響して、作業があまり進んでおらず、帰ってきたMr.エアポートはご機嫌斜め・・・なんとわたしが仲裁役になったりなんかしちゃって、・・・さきほど大学院の授業が終わって心配になったものだから、電話したら、まだ作業やってるという。いや、なかなか大変な一日になってしまった。
 みなさん、申し訳ない!

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再び芋焼き(・ω・)!
 前回のお芋をA先生がお気に召したようで今日もお芋だった。火起こし達人ダブルS先輩がいなかったので火起こしに大苦戦!見かねた先生が火を起こしてくれました。バターチューブにプラス塩も加わり、お芋は好評でした。ウマス(・ω・)
 屋根裏に行ったけど床板が張ってあり、叉首(さす)も張られていて綺麗になっていた。コテージっぽかった。こんないい部屋に先生は住むつもりなんだと思うとジェラシーヽ(O゜皿゜O)ノ
男子は囲炉裏製作の石運びと組み立てで肉体労働が大変そうだった。お芋をエネルギーに変え頑張っていました(・ω・)そんな彼らを置き去りにして先に帰ってしまい・・・ お疲れ様です!!
 わたしたちもこれからプロ研のパネル製作頑張ります。(本日お芋班一同)

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↑バーベキュー焜炉で芋を焼く女たち


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  1. 2007/01/11(木) 23:25:17|
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元旦の出雲大社

 「北から来たの」さんが、昨夜、ひょこりと教授室に入ってきて、
   「先生、元旦の新聞に出てましたよ」
とのこと。みれば、珍しいことに、日本経済新聞に「出雲」の特集が組まれている。

 「今年は古代遺跡の宝庫、出雲が関心を集めそうだ。三月十日、出雲市に島根県立古代出雲歴史博物館がオープンする」という書き出してある。で、例のごとく、5人の建築史家が復原した出雲大社境内遺跡大型本殿遺構の復原模型がずらり。関係者のコメントを読むと、

  「出雲大社本殿の規模をめぐっては百年前から論争がある。現在の学問の到達点を示し、活発な議論を巻き起こしたい」

のが展示の狙いだとのこと。報道とは別に、某神主さんからのメールによると、アマチュアの古代史マニアたちは48メートル案がお気に入りで、プロたちは40m前後の案を支持しているのだそうだ。こういう5つの復元案を展示するのは決して悪いことではないけれども、人気投票のような客寄せの媒体になるとしたら困ったものだとも思う。それよりなにより、2004~2005シンポジウムの成果報告書の編集を急がなければならない。
 五十路の体に鞭を打て!

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  1. 2007/01/10(水) 22:48:15|
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雪の夜(ⅩⅡ)

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「明日は、新月だよ。月の光は無い。」
そういわれてメアリは改めて月を見上げた。針のように細く尖った月。明日は月が昇らない。
月がぼやりと滲んだ。
「ああ、メアリ、泣かないで。」
ヴィオレットは急いでポケットを探るとレースに縁取られた白いハンカチを取り出した。メアリはそれを受け取ると顔に押し当て涙を拭いた。
「やっぱり泣かせてしまったなあ、もういっそこのまま消えてしまおうかと思ったんだけどそれはあんまりだと思ってね。花の絵のお礼ももう一度いいたかったしね。」
そうだ、花。メアリは急いで用意しておいたスケッチブックを開いた。大雪の間書いた花の絵がある。渡しておかなくては。
「これ」
それは、黄色い菜の花の絵だった。口を開くと泣き声になってしまうので何の説明もできない。
無言でスケッチブックを切るとくるりと丸めて紐でくくった。最後になるのならもっと書いておけば良かった、と後悔が頭を巡る。もっともっと春の花も夏の花もたくさんあるのに。
「はい、これは菜の花。苦いけれど花が咲く前に食べるとおいしいのよ。黄色くて小さい花がたくさん咲くの。」
筒を渡しながら、ようやく口を開く。最後なら笑わなくてはいけない。ヴィオレットはその筒を受け取って、ありがとう、といった。心の底から、そう言ってくれた様に見えた。
「私こそ、ありがとう。楽しい話たくさんできて本当にうれしかった。」
「本当にうれしかったのは僕のほうさ。君は僕が奇妙な存在であると分かっていて僕と仲良くしてくれた。本当にありがとう。またここで仕事をすることになったら必ず、会いに来るよ。たとえ君が忘れてしまったとしてもね。」
私だって忘れないわ、とメアリが言うとヴィオレットはにっこりしてまた、ありがとう、と言った。
「この鏡、あの鏡の代わりにはならないかもしれないけど、持って行って。」
その為に買ってきたんだから、というメアリに、いいんだ、とヴィオレットは言った。
「その鏡は君が持っていて。それを見てたまに僕を思い出して。僕との記念品として持っていて。」
取引は禁じられているけれど、それは君が買ったものだからね、何か記念の品が残したかったんだ、と微笑んだ。
「僕には花の絵があるからね。今までもらった絵を閉じて本にするよ。そして見たことのない春に思いを馳せるよ。そしてそのたびに君を思い出すんだよ、メアリ。」
その言葉にまた、メアリはなきそうになったけれどもぐっとこらえてハンカチをヴィオレットに返す。よくよく見るとレースは雪の結晶の形をしていた。これもきっと特別な品なのだろう。素敵なものをたくさん見せてもらった。少年は白いハンカチを受け取るとまた、ポケットにしまいこんだ。
「さあ、月もだいぶ傾いたね。メアリ。お別れだ。」
ヴィオレットは白い腕をメアリに差し出した。
「元気でいてね、ヴィオレット。」
小さなメアリの腕と少年の腕が手の先でつながる。やっぱり不思議に暖かかった。
「ヴィオレットは、冬の精なの?それとも雪の精?」
少年は笑って、そんなようなものかな、と返した。
「メアリこそ元気で。」

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 (続)-KA-




*童話『雪の夜』 好評連載中!
   明日は新月。月の魔力は消え失せてしまう。
   二人はさよならの挨拶を交わした。いよいよ最終回へ!
 


   「雪の夜」(Ⅰ)
   「雪の夜」(Ⅱ)
   「雪の夜」(Ⅲ)
   「雪の夜」(Ⅳ)
   「雪の夜」(Ⅴ)
   「雪の夜」(Ⅵ)
   「雪の夜」(Ⅶ)
   「雪の夜」(Ⅷ)
   「雪の夜」(Ⅸ)
   「雪の夜」(Ⅹ)
   「雪の夜」(ⅩⅠ)
   「雪の夜」(ⅩⅡ)
   「雪の夜」(ⅩⅢ)


  1. 2007/01/10(水) 00:15:43|
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雪の夜(ⅩⅠ)

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その夜の月はもうほとんど光っている部分は無く、まがった針のようだった。明日は新月だろう。今日が晴れて良かったと思いながら手に持った箱を開けた。中には黒い木でできた手鏡が入っている。今日の昼にメアリが手に入れて来たものだ。メアリには少し高価なこの鏡を手に入れるためにお小遣いを全て投げ打った上に、朝から母親に頼み込んで多少の援助を得た。そのお金をもって町の雑貨屋へ走って長い時間をかけて選んだものだ。残ったお金でクロスを買うと一点の曇りも残らないように丁寧に丁寧にふきあげた。木の部分まで薄く光る手鏡をことんと窓際におくと、もぞもぞとベッドの中に潜り込んで目を閉じる身動きせずにじっとしているとかなり長い時間が過ぎていったように感じる。やがて
耳にかすかにさく、さく、という音が届いた。メアリは跳ね起きると上着も着ずに窓を開ける。
少年は突然開け放たれた窓に、驚いた顔をしていた。
「…今晩は、ヴィオレット。」
「今晩は、メアリ。」
いつもの挨拶に、ほっとして涙が出そうになる。それに今日は自分から挨拶することができた。しかし、すぐに謝らなくてはならないことを思い出し、顔が強張る。
「ごめんなさい。」
その言葉にヴィオレットは軽く微笑みながら黒い鏡をちらりと見た。
「鏡を割ってしまったんだね。」
「そうなの、貸してくれたものだったのに本当に御免なさい。」
「素直に謝ることはいいことだよ。それにちゃんとあの鏡でなくても僕には会える、と気づいたようだしね。鏡よりそっちの方が重要な事だったから。」
でも、特別な鏡だったんでしょう、と泣きそうな顔をするメアリにいやいや、とヴィオレットは手を振った。
「確かに特別な鏡ではあるんだけどね。けして曇らないように特別な薬が表面に塗ってあるから魔力を取り込みやすいし、映し出しやすい。でも本体自体は普通の鏡だよ。」
だから君は昨日あんなに泣くことは無かったんだ、といわれてメアリはヴィオレットを見た。どこからか見ていたらしい。
「来てみたら割れた鏡が窓辺に置いてあって、小さな泣き声が聞こえた。でも僕にはどうすることもできなくてね。屋根の上で君が泣き止むのを待ってた。」
泣き声を聞かれていたことがどうにも恥ずかしくてメアリの頬がわずかに赤らむ。少年は悪戯っぽく笑いながら、丁寧に鏡を磨いたね、少しの曇りも無いからよく映っている、と言った。
「ただ、昨日鏡が割れたのを知ったときは別の意味で焦ったよ。」
ここからは、僕が謝る番なんだ、とヴィオレットは笑うことを止めた。その瞳はいつになく悲しげな青をしている。
「ごめんね、メアリ…あまりに楽しかったのでつい先延ばしにしてしまっていたけれど、僕は雪が降るうち、冬であるうちしか、その場所にいることはできないんだ。」
だから僕は春を知らない、と寂しげに笑う少年をみてメアリはヴィオレットが言いたいことがわかった。別れを告げようとしているのだ。
「いつまで?」
「…明日だ。明日今年最後の雪が降る。大雪じゃない。雪たちはさらさらとこの場所に別れを告げる。そして、僕も。」
あまりにも突然だったのでメアリは言葉をなくしてただヴィオレットの星を写す透明な瞳を見つめた。
「ごめんね、本当はもっと早く言うつもりだったんだ。でも、どうしても言えなかった。」
「明日は?明日は会えるのよね?」
ヴィオレットは申し訳なさそうに首を横に振った。
「どうして?明日まで冬なんでしょう?」

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 (続)-KA-



*童話『雪の夜』 好評連載中!
   明日、今年最後の雪が降る。
   冬の終わりとともに、ヴィオレットは姿を消すとメアリに告げた・・・
 


   「雪の夜」(Ⅰ)
   「雪の夜」(Ⅱ)
   「雪の夜」(Ⅲ)
   「雪の夜」(Ⅳ)
   「雪の夜」(Ⅴ)
   「雪の夜」(Ⅵ)
   「雪の夜」(Ⅶ)
   「雪の夜」(Ⅷ)
   「雪の夜」(Ⅸ)
   「雪の夜」(Ⅹ)
   「雪の夜」(ⅩⅠ)
   「雪の夜」(ⅩⅡ)




  1. 2007/01/09(火) 00:37:20|
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講演「民家にまなぶ」

 例年になく長い冬休みが終わろうとしている。
 一昨日、青谷講演の原稿をようやく担当者に郵送した。テープ起こし原稿の校正なら慣れているから、2~3日で片づくだろうと構えていたのだが、予想以上に手間取ってしまい、もうひとつ重い宿題が残ってしまった。執筆のスピードが、あきらかに鈍い。のろくなっている。これも、半分「主婦」をやっているからだろう。子どもたちはあてになりません。父が帰宅中、自分たちは外にでても大丈夫だと開き直ってしまう。結果、夕食の支度、皿洗い(自動食器洗浄機はたいへん楽しい!)、買い物などはわたしの仕事になる。患者も一生懸命リハビリを兼ねて家事をしている。掃除、洗濯、物干し、衣服のたたみ等々・・・。ただし、料理は危ない。右手は動かないし、右45度の視界が失われているので、包丁や火を扱うと危険きわまりない。ついこのあいだも右手に火傷をした。そうなると、まともな料理ができるのは長女かわたししかいないのだが、この3連休も長女は大阪事務所の助っ人で残業三昧。だから、わたしが料理番を務めるしかないのである。

 昨日は関空から携帯が戻ってきて、ドコモショップにでかけ、データをすべて転送した。古い携帯にはミニSDがつけられなかったから、バックアップがとれていない(専用USBケーブルは5000円もする!)。だから、同じ押熊にある家電ショップに行ってミニSDを買い、その場で新機に挿入した。もちろんバックアップデータは、帰宅後ただちにPCにダウンロードした。これで、わたしの情報ネットワークは完全に復旧した。そしていつ携帯をなくしても、データを回復できる。
 そうそう、古い携帯に岡村から「茶室のことで相談したい」というメールが年末に入っていて、その家電ショップから電話をかけてみた。
  「おれが携帯を紛失したの、知ってるだろ?」
  「いえ、知りませんでした・・・」
  「まだ、千葉の現場なんかい?」
  「いえ、もう京都に戻ってます」
 京田辺と高の原は近鉄で15分ばかりの距離だから、ここで、「正月だ、まぁ、飲みに来いよ!」と豪気に誘いたいところだが、患者を家に抱えている身でもあり、今日は鳥取に帰らなければならない。遊んでいる場合ではない。遅延している仕事もわんさとあって、誘う言葉がでなかった。まぁ、また今度な、それまで元気でやってくれ!
 家電ショップの2階には大きな100均がある。例の沙也夏さんがいる店だ。けっして意識してはいけないと思いつつ、文具を探していて、後ろを通りかかった店員に、たまたま、
  「ビニールファイル、どこにありますか?」
と訊ねたら、当の本人でありました。レジでもまたニアミスしてしまって、緊張した。まさか、このブログ読んでないだろうな・・・。それで、ニアミスした話を同行していた患者にすると、「居たの、良かったわねぇ」とくるから、うちのワイフも不思議な女性である。

 ところで、山陰は大雪の気配だ。「雪の夜」がとうとう始まった。満月の夜に、わたしも魔法の鏡をもってだれかを待っていよう。なんて、とぼけたことを言っている場合ではなくて、まず今日の「スーパーはくと」が心配。なんとか鳥取に帰れたとしても、田園町の宿舎に戻れば、かの恐ろしき「雪作務」が待っている。大雪ならば、全日休講の可能性もある・・・

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 今週は、いつもの通り、火~木に講義・演習・会議が集中するが、すでにお知らせしたとおり、金曜日(12日)は鳥取県建築士会西部支部新年祝賀会で、再び「『楼観』再考 -青谷上寺地遺跡のながい柱材をめぐって』と題する講演をおこなう。 
 本日はその次の講演のお知らせです。環境大学の公開講座環境と文化」の第2回がわたしになっていって、日時・会場・演題は以下のとおり。

  1.日時 2007年2月3日(土) 10:30~12:00
  2.会場 鳥取県立図書館2階 大研修室
  3.演題 「民家に学ぶ」

 講演の内容は、もちろん加藤家住宅の修復に係わる研究室の活動が中心となりますが、昨年11月15日のアイスブレイク講演

 ・学生によるセルフビルド&ゼロエミッション
   -「廃材でつくる茶室」から「加藤家住宅修復プロジェクト」まで-

に近いものとなるでしょう。ひょっとしたら、加藤家居住者のO君に加わってもらうことになるかもしれません。
 聴講無料、来場歓迎!

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チラシの表(↑)裏(↓) クリックすると画像が大きくなります。
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  1. 2007/01/08(月) 00:30:37|
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雪の夜(Ⅹ)

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ヴィオレットの言う通り次の日からひどい吹雪になった。仕方がないので、花の絵を一枚描いて過ごしたが一日たっても雪は降り止む気配を見せず、二日目に少し威力が弱まったものの月は雲に隠れていた。ずっと窓の外の様子を見ていても雪が降り止む様子が無いのでがっかりしたが、もしかしたらと思い鏡を用意する事にする。引き出しを開けて黒い箱の中から鏡を取り出して改めて手鏡を眺めた。この鏡はあの窓べりで本当は何を写しているんだろう。鏡をかかげると明かりが跳ね返ってピカ、ピカと白い壁に光が映る。それが妙に面白く、思わずいろいろな所に光を当てて遊んでみた。磨かれた鏡はくっきりと壁に光の跡をつける。その時、するり、と鏡がメアリの手から滑りおちた。はっとしたメアリが手を伸ばそうとするのと同時に鏡はメアリの足下でピシリ、と固い音をたてた。急いで目をやると銀の鏡は、無惨に二つに割れていた。メアリは真っ青になって鏡を拾い上げるが、壊れたものは元には戻らない。
音を聞き付けて母親がやってきた。
「どうしたの…まあ。」
部屋の中では娘が割れた鏡を手に放心している。その足下にはわずかに破片が散らばっていた。
「危ないわ、ちょっと待っていなさい。」
母親はほうきをもってやってくると丁寧に床を掃除した。床を掃除し終えた母親が娘の手から割れた鏡を取ろうとすると娘ははっとして抵抗する。もうその鏡は使えない、危ないから放しなさいといくら叱ってもメアリは鏡を渡そうとしなかった。
「これは友だちに借りた大切な物なの、勝手に捨てたりできない。」
「でも、もうその鏡は壊れてしまったのよ、どうしようもないじゃ無いの。謝って許してもらうしか無いでしょう。」
母親のその言葉についにメアリは泣き出してしまった。大事な鏡に大変な事をしてしまったという事はもちろんだが、鏡が無いともうヴィオレットに会う事が出来ない、ということがひどくメアリの心を痛ませた。ヴィオレットに会う事が出来ないということはもう謝る事もできないと言う事だ。鏡を持ったままぽろぽろと大粒の涙を流し続ける娘に困った
母親が、危なく無いように包むだけだから、となだめすかしてようやくメアリは鏡をその手から放した。母親は鏡を厳重に紙に包むと袋に入れた。危ないから開けてはだめよ、とよくよく言いおいてようやく母親は部屋から出ていった。その間メアリはずっと泣き続けていた。壊れてしまった鏡の入はいった包みをみるとさらに激しく涙が溢れてくる。
どうしたらいいのだろう。どうしたら謝る事ができるのだろう。
どれくらい泣いたのだろうか、泣きつかれたメアリがふと窓の外に目をやると先程より少し明るい事に気がついた。もしや。窓を開けると未だ雲はのこっているものの月が姿を現していた。三日月よりも少し細い月。せっかく月が出たのにヴィオレットに会えないと思うとまたメアリの心は締め付けられ、涙が出そうになった。もしかしたら、と思い立ち窓から離れると先程開けてはならない、と言われたばかりの包みを丁寧に開く。中から出て来た割れた鏡を見るとメアリの心はまたきゅっと痛んだ。包みを開いたまま窓辺に運ぶとそこにそれを置く。鏡の形を整えてお願い、とメアリは心の中で祈った。しばらくは窓の外を眺めていたが、からだがぐったりしていたのでベッドにもぐりこんで耳を澄ました。
体は疲れていたが、頭は後悔でじんじんと痛んで眠れそうに無かった。
しかし、その夜ヴィオレットがあらわれる事は無かった。

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日が登るころになって、ようやく眠りに落ちたメアリはいつもよりも大分遅い時間に目覚めた。今日がお休みで良かったと思いながら重い体を起こす。窓際の割れた鏡を見て溜め息をつく。ああ、ママに見られる前に包みなおさないと。やはり割れた鏡では意味がないんだと、メアリは鏡を包みながら思った。昨日ベッドの中で来る気配のないヴィオレットを待ちながら今迄ヴィオレットと喋った事を思い出していた。花の絵でひどく喜んでくれた事。ヴィオレットのもっている不思議なものたち。月の結晶、星屑、それに凍りレンズ。アネモネの赤。不思議な月と鏡の話。そうだ曇りの無い鏡に力がある、といっていた。きっと割れた鏡ではその役目を果たせないだろう。そう思うと、またメアリの瞳に涙が滲んだ。
しかし、そこ迄思い出して、メアリははたと気付いた。以前、メアリがこの鏡は魔法の鏡なのと聞いた時、ヴィオレットは違うよと答えた。ということはもしかしたら…。紙包みを袋の中に入れてしまうとメアリは自分の部屋を飛び出す。 (続)-KA-



*童話『雪の夜』 好評連載中!
   鏡は割れてしまった・・・
   メアリはもうヴィオレットに会えないのか!?
 


   「雪の夜」(Ⅰ)
   「雪の夜」(Ⅱ)
   「雪の夜」(Ⅲ)
   「雪の夜」(Ⅳ)
   「雪の夜」(Ⅴ)
   「雪の夜」(Ⅵ)
   「雪の夜」(Ⅶ)
   「雪の夜」(Ⅷ)
   「雪の夜」(Ⅸ)
   「雪の夜」(Ⅹ)




  1. 2007/01/07(日) 12:48:30|
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