行程7日目の3月26日は月曜である。自分で組んでおいた予定では、民族博物館などの文化施設見学を目論んでいた。だから、昨日は民族博物館への行き方を聞きにツアー・オフィスに行ってみた。そこで休館日が月曜日と聞いてしまい、見事に予定を崩されてしまった。なので、民族博物館見学は3月27日にまわすことにした。
26日は、ニンビンのホアルー、タムコックへのディリー・ツアーを薦められたので、これに参加した。ホアルーとタムコックは、ハノイから南に約114km離れたニンビン省の省都ニンビン市の近郊にある。ハノイからは車でおよそ1時間半の距離にある。
ホアルーは、986年の建都から1010年の間に丁朝の都が置かれていた古都である(この後の首都はタンロン=ハノイへと遷都される)。10世紀半ばに、天下統一を巡って各地の土豪が争うなか、ホアルー出身のディン・ボ・リン(=ディン・ティエン・ホアン)が北部ベトナムを統一する。国名をダイコヴェット(大瞿越)とし、初の独立王朝を誕生させた。この古都ホアルーでは、初代皇帝を祀るディン・ティエン・ホアン祠と2代皇帝を祀るレ・ダイ・ハン祠を訪れた。これらは17世紀に再建された重要文化財である。また、これら祠の周辺には、かつての宮殿が建っておて堅固な城壁に囲まれていたといわれ、その一部が現存している。

↑ディン・ティエン・ホアン祠の正殿 ↓祀られるディン・ティエン・ホアン像
[古都と陸のハロン湾 -越南浮游 part2(Ⅵ)]の続きを読む
- 2007/03/31(土) 22:59:37|
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行程4日目(3月23日)の目的は、昨夏に調査したHang Tien Ong村を訪れることである。その場所を提示するためにも地図を持参して、ホテルのツアー・カウンターへ行ってみた。ただし、私は英語が苦手である。だから、電子辞書を片手につたない英語で訊ねてみた。Hang Tien Ong村に行けるツアーはないのですか、と聞いたのだが、答えは「ない」。ただし、昨夏の調査では日帰りが可能な範囲なのは分かっているから、さらにいろいろ聞いてみたのだけど、戻ってくるのは「できない」という返事だけだった。なので、ほかに何かプランはないですか、という質問に変えると、ホンガイ沖に向かい、時計回りに進む航路があって、3つの水上集落を見ることができるという。その薦められたプランをお願いした。

↑海上からみたホンガイ
そんな紆余曲折を経て、3月23日は世界自然遺産に登録されたハロン湾の北西部を巡るクルージング船に乗船した。ハロン湾には、ポッカリと島がない部分があるから、ちょうどそれにあわせて移動するという説明が分かりやすいだろうか。
その航路上には、大まかに3つの海域に水上集落が形成されている。それらは、北を0時とする時計に見立ててみれば、一つは、バイチャイの岸沖一帯の海域で0時から1時の辺り、2つ目はスンソッド洞のある周辺海域で6時の辺り、3つ目はファ・クング島の周辺海域で8時の辺りにあった。
まずは、ホンガイ沖にあるBien Moには、3つの島で囲われた湾のなかに水上レストランと大きな養魚漕をもつ筏住居へと辿りついた。この筏住居は、湾の中心に位置して、北側島岸には墓地も有している。この様子をみて、ここは昨夏の9月10日の調査の時に訪れた場所だということが分かった。そして、ここを離れてホンガイの陸地に沿い東へと航行する。

↑レストランの正面 ↓背面にある養魚漕と居住棟
[交渉の末に -越南浮游 part2(Ⅲ)]の続きを読む
- 2007/03/31(土) 01:58:37|
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3月25日(行程6日目)。またもや天候は芳しくなく、小雨が降っていた。この日はハノイ市内視察で目をつけていた建物3件を中心に歩いてまわった。その3つの建物のおおまかな位置は、ホアンキエム湖周辺のエリアで、ハノイ大教会と玉山祠、旧市街地区内に旧家保存館がある。
ニャートゥー通りを西に進んだ突き当たりにハノイ大教会がある。ここは仏教寺院の跡地に建てられたハノイ市内最大の教会で、1900年代初頭に現在の2つの尖塔をもつネオ・ゴシック様式へと改築されている。土曜と日曜にはミサが催され、その際中にだけ内部を見学することができる。なので、10時から11時のミサに乗じて、内部へと踏み込んだ。ミサの際中なのだから、ずかずかと歩きまわれる雰囲気なはずではなく、堂の中央位置に座って、儀式の様子を見ていた。教会堂に入るのも初めて、ミサに参加するのも初めてなものだから、ここにいても邪魔なのではないだろうかと戸惑っていたのだけれども、ミサはおかまいなしに始まってしまった。参拝者はそう多くなく、欧米の人が主体であった。賛歌はパイプオルガンではなく、アコーステック・ギターで伴奏されており、なんともアットホームなミサというのが、個人的な感想だった。
[ハノイの教会、祠と町家-越南浮游 part2(Ⅴ)]の続きを読む
- 2007/03/30(金) 02:09:06|
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昨日の午後、義父の運転する車で中国自動車道を鳥取に向かって快調に飛ばしていた。手持ちぶさたなので携帯を開いてみると、早朝7:52にメールを着信している。タイトルは「ただ今、帰国しました」。続く本文の内容は以下のとおり。
「ハノイ、ハロン、ニンビンを巡り、関西空港に無事に着きました。
今から、鳥取に戻ります。
ブログは全日程分をきちんとあげます。」
もちろん差出人はホカノ=某大学院生である。
メールに気がついたのは午後3時過ぎだから、もう鳥取に戻っているだろうと思って、「いまどこ?」と訊ねたところ、「今は、鳥取に向かう途中です。中国道の姫路辺りを通過しています」との返信。
・・・なんだ、自分たちの車とほとんど同じ場所ではないか。果たして、佐用インターを降りたあたりで、白い日交バスを発見した。あのバスに乗っているに違いない。というわけで、携帯を使って写真を撮った。

わたしたちは、平福の「道の駅」で一休憩し、運転を交替したので、バスは先に逃げていった。その後、院生は夕方7時すぎに大学にあらわれた。どうしたことか、強烈なニンニクの臭いをふりまいている。ベトナム料理はたしかにニンニクを使う。たとえば、空芯菜の炒めものにもニンニクのスライスが散りばめられていて、昨夏のベトナム調査時には毎晩食べていた。その後、Mr.エアポートは同室のチャックが寝床で放つ屁がニンニク臭いとこぼしていたが、それは仄かな香りを漂わせる程度の芳香であった(
わたし個人はニンニクが大好き)。院生が放つニンニク臭は、息子が好物とする天理ラーメンのそれをはるかに凌いでいる。いったい何を食べたら、これほど強烈なニンニク臭がふりまけるのか、訊ねたところ、
「王将の餃子です」
とのこと。どうやら院生は、帰国後しばらく大阪をぶらぶらして王将で餃子とモヤシ炒めを食べてから高速バスに乗ったらしい。それで、午後に奈良を出発したわれわれと同じ時間に中国道を走っていたのである。しかし、可哀想だと思う。だれがって、バスに乗っていた人たちが、である。あの鼻をつんざく強烈な臭いがバス中に充満していたのだから。
それにしても、8泊9日の調査旅行であるにも拘わらず、なぜブログは3日分しかアップされていないのだろうか。おかげで、またわたしはブログを休むことができなかった。ブログというのは日記であり、日記はフィールドワークにとって欠くべからざる記録である。その日書くから日記なのであって、帰国してから書いても、当日の鮮烈な体験が完璧に蘇ることはない。「
倭文日誌」を担当してきた大城やMr.エアポートは、夕方になると、まずパソコンに向かってブログを書いていた。大城はそれを半年続けたのである。院生本人はわたしに対して、「すでに3日分の日記を書きためています」と釈明したのだが、これが真っ赤な嘘であるのはまるわかりだ。それが証拠に、院生はMr.エアポートに電話して、「ブログ書いて!」と頼んだらしい。これが我が社の大番頭でございます(来年度早々、体制を刷新する予定)。

一夜あけて、今日はまた会議日。これをこなしたわたしは、スーパーはくとで奈良にとんぼ帰りした。なぜかというと、予定を1日早めて、家内が県立奈良病院を退院したからである。ただし、
前回の退院とはちがって、今回はそれほど喜んでいない。なぜかというと、この病気はいつ再発するかわからないし、4月16日から吹田の国立循環器病センターに短期入院することが決まっているからだ。それでも、みんなの大好きな「お母さん」が家に帰ってくるのだ。少しでも長く傍にいてあげたいではないか。わたしはお土産に近鉄西大寺駅でシューアイスを買って帰った。ところが帰宅してみると、おばあちゃん(家内の母親)が「退院祝い」のスペシャル・ケーキを用意していて、まずはそのケーキをみんなでたいらげた。いや、良かった、よかった。
明日は市役所に介護保険と身障者の書類をもっていく。早くヘルパーさんをつけて欲しい。
- 2007/03/29(木) 23:55:27|
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ノビタです。
このまえ、先生を「
飛鳥」にお誘いしたのですが、あまりにご多忙でお疲れのご様子だったので、断念しました。そうこうしていると、大山町教育委員会から「文珠領遺跡」の記者発表を29日(木)の午前10時からおこなうとのFAXが記者クラブに届きました。また、昨年の青谷上寺地のような大報道になるのか、心配になってきたもので、ひさしぶりに先生に電話インタビューさせていただきました。
N: 先生、ご無沙汰しています。
A: ご無沙汰って、17日の倉吉講演会の打ち上げ(
4年生送別会)に顔出してたじゃないの。
N: えぇ、でも、あのときは車に乗ってたもんで、お酒飲めなかったですからね。だから、20日の夜に「飛鳥」にお誘いしたんですけど・・・
A: 「飛鳥」じゃないだろ。おまえさんの魂胆はみえみえだからさ。
MOMでしょ、MOMでまたおれを出汁にしようってわけでしょう??
N: あれっ、そういう展開ですか。その話はまた別の機会に。ところで、オシムJAPAN、ペルーに2-0で勝ちましたね。
A: オシムは選手をよくみているね。中村にパスを出すスピードを要求している。中田英のパスだしは早すぎるとよく言われていたけれども、オシム流のサッカーだと、中田ぐらい早いほうがあいそうだね。そうしないと、ヨーロッパでは通用しないのかもしれない。
N: オシムJAPANは順調ですか?
A: 順調だね、あの監督は賢い。聡明です。問題は五輪代表だわね。今回はオリンピックに出られないんじゃないかな。あのチームもオシムに任せたほうがいいと思うけどね。
N: さて、先生、こんどは大山町文珠領(もずら)遺跡の記者発表があるんです。また、いろいろ困ってまして、先生は現地を訪問されているんですよね。
A:
卒業式の翌日(22日)の午後、住雲寺境内の現場をみて、遺物の木材も観察しましたよ。
N: まず文珠領遺跡の位置づけですが、周辺の遺跡との関係でいうとどうなるのでしょうか?
A: いわゆる茶畑遺跡群の一画ですね。500~600m離れて、茶畑山道遺跡と茶畑第1遺跡の両方と近接している。
N: 時期は弥生中期とのことですが、妻木晩田遺跡とはどういう関係になるのでしょうか。
A: 妻木晩田は弥生後期が最盛期でしてね、少し時代が新しいんだな。かのハマダバダ1号の学説によると、中期の弥生集落は大型建物で構成されるブロックと竪穴住居主体の住居系ブロックが整然と分離されるのだけれども、後期になると建物が全体的に小型化して、「大型建物ブロック」と「竪穴住居ブロック(居住単位)」の区別がほとんどなくなってしまう。大型建物ブロックがほぼ消滅してしまうんです。妻木晩田は1ヶ所にだけ大型建物があって(利蔵が復元したMGSB41)、残りはほとんど「居住単位」が点在している状況なんですよ。
N: 茶畑はどうなんですか?
A: これが不思議な遺跡でね、茶畑山道にしても、茶畑第1にしても「大型建物ブロック」しか発見されない。今回の文珠領遺跡もそういう性格のエリアにあたっていると思います。一般住居群は別のところにあって、大型建物が集中しているんだね。
N: その「大型建物ブロック」はどういう性格をもっているのでしょうか?
A: それはなかなか難しいんだけれど、首長層の居住区兼祭政区のようなイメージでとらえうるんじゃないでしょうかね。例の青谷上寺地の
「楼観」モデルになった茶畑第1の掘立柱建物11も、こういうエリアに含まれているんだよ。
N: 大山町教育委員会によりますと、独立棟持柱を持つ高床式とみられる大型建物跡の一部がみつかったそうですね。この建物跡は棟持柱、妻柱、側柱の3つの柱からなるとのことですが、小さい発掘調査区なのに、なぜそういう3種類の柱穴だと分かるのでしょうか。
A: いまのトレンチだけでは判定はたしかに難しいけれども、茶畑山道で出土している建物跡と比較すると、よく似てましてね。いわゆる「独立棟持柱付大型掘立柱建物」である可能性は高いと思います。
N: 高床式だと断定してよいのでしょうか?
A: 茶畑山道の類例でいうと、①梁間寸法が短い、②柱穴が深くて中に小石がぎゅうぎゅう詰めになっている、などの点からみて、高床である可能性は高いと思います。ただ、独立棟持柱をもっているからといって、必ずしも高床と言うわけではない。茶畑第1で出た掘立柱建物12は正面のみ独立棟持柱をもつ変則的な建物なんですがね、これは土着的な「長棟建物」の正面だけに近畿型(つまり外来型)の独立棟持柱をつけた融合タイプでしてね。梁間が約5メートルと長いので、平地土間式建物と推定して復元をおこなっています。
N: あぁ、あの浅川ゼミの1期生が復元して、模型が妻木晩田事務所に展示してある建物ですね。ところで、その「長棟建物」って何なんですか?
A: 茶畑山道の調査区では、近畿系の「独立棟持柱付大型掘立柱建物」以外に、梁間が広くて柱穴もそう大きくない大型建物が併存していてね、たぶん高床ではなく、土間式の大型建物だと思うのだけれど、伯耆ではほかにも何棟かみつかっているんですよ、こういう長くて大きな建物が。これを「長棟建物」と呼んでいる。
田和山で復元した2間×6間の建物もこの類じゃないか、と最近思っているんです。
N: 先生のお考えでは、その「長棟建物」が山陰土着の大型建物で、「独立棟持柱」をもつタイプが近畿系の外来型大型建物ということになるわけですね。
A: そうそう。文珠領遺跡では、後者がひっかかっている可能性が高いんですよ。
N: 独立棟持柱の柱穴は直径、深さともに1.2メートルと報告されていますが、全国的にみてこの柱穴は最大級なんでしょうか。
A: 深さというのはやっかいでしてね、弥生時代当時の生活面が削られてしまっているので、評価しにくいんですよ。しかし、青谷上寺地の「楼観」モデルになった茶畑第一の掘立柱建物11の場合、遺構検出面からの深さが約1.5メートルありましたから、文珠領が最大級とは言いにくいよね。ただし、他の柱穴の深さが約0.8メートルなんだから、深さ1.2メートルの柱穴が最も長い独立棟持柱の可能性はやはり高いと言わざるをえない。
N: 独立棟持柱のある建物は伊勢神宮でもみられるように、格式高い建物の象徴であり、今回の建物も「祭殿や神殿」の可能性がある、そして集落の拠点だったのではと教育委員会はみているようです。
A: まず「神殿」ということはありえませんね。「神殿」というのは人間を排除した「神様の住まい」ですから、後の神社本殿の大半ががそうであるように非常に小型化した建物であって欲しいのだけれども、出土しているのは「大型」でしょ。ただし、「神祭り」と完全に係わりがないか、というと、そうでもない。茶畑山道の「独立棟持柱付大型掘立柱建物」の周辺からは祭祀系遺物もたくさん出土していますからね。しかし、祭祀をおこなうからそこが「神殿」だという言い方もできない。人と神が交流する場を「祭殿」と呼ぶなら、そういう建物なのかもしれません。いまの神社でいうなら、「本殿」と「拝殿」が一体化したような施設を「祭殿」と呼ぶならば、そういう可能性がないとはいえません。しかし、その建物が祭祀に特化された施設であったのかどうかが、またわからない。すでに述べたように、茶畑山道の場合、「長棟建物」と「独立棟持柱付大型掘立柱建物」が併存しているので、両者に役割分担があったのは間違いないのだけれども、その役割分担がどのようなものだったのかはわからないんです。
N: 難しいですね。結局、この大型建物跡の発見の意義をどうまとめたらよいのでしょうか?
A: 茶畑遺跡群の特殊性がますます鮮明になってきたことなんじゃないでしょうか。弥生中期集落の場合、「大型建物ブロック」と「一般住居群ブロック」が鮮明に区画されている例が一般的だと述べましたが、茶畑遺跡群では「大型建物ブロック」のエリアが広域的にひろがっている。ということは、一集落として完結しているというよりも、地域全体の拠点的集落として位置づけうる可能性がでてきているんじゃないかな。
N: もう一つお聞きしたいのは、柱材らしい出土木材のことです。住雲寺前の道路の向こう(5トレンチ)で柱材ではないかと見られる長さ1.5メートル、幅25センチ、厚さ13センチの木材がみつかったと聞いています。先生は「柱材と断定できない」とおっしゃっているそうですが、その理由をお聞かせください。
A: 木材の表面には部分的にハツリ痕が残っており、扁平な材木で、しかも先端部分を尖らせていることから、何かの材を矢板として転用したんだろうけれども、当初が柱材であったとは断定できません。上端に貫穴のような仕口状痕跡もあって、ほんと柱のようにもみえるんだけど、穴の加工面が生きていない。人口的な加工痕跡がみとめられないんです。というわけで、柱材としての根拠は不十分なんだな。ただし、「柱材のなれの果て」である可能性も否定できない。
N: 材種は何なんですか?
A: よくわからないんだな。青谷上寺地のようなスギではない。クリやシイであれば竪穴住居の柱材であった可能性がないことはないんだけれど、竪穴住居の柱材では貫穴を使わないけどね。
N: 最後になりましたが、今後の調査に期待すること、について先生のお考えをお聞かせ下さい。
A: 今回の調査は試掘ですからね、来年度の本調査の成果が期待されますよね。茶畑遺跡群の特殊性がいっそうあきらかになって欲しいですね。 (この項、完)
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- 2007/03/29(木) 01:34:35|
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3月24日(行程5日目)。ハロン湾滞在予定の最終日である。ホテルからハロン湾の様子をみれば、そこは霧のなかにあり、視野はこの3日を通して一番悪かった。できれば澄んだ青空と溶け合うハロン湾を拝みたかった、この時期の天候はこういったものなのか、などと徒然と思いを馳せていた。

↑元フェリー乗場から大橋を望む
午前中は、ハロン市バチャン地区街を視察してみた。昨夏と変わったことといえば、まず、バチャンとホンガイとを結ぶ大橋が完成したことだ。この大橋はODAの予算により、日本の大成建設が手掛けたものである。ただ、大橋の開通に伴って、フェリーは廃止されたようで、フェリーは乗場付近に廃船と化している。また、フェリー乗り場付近にバスターミナルがあるのだが、こちらも活気がない。話を聞くと、バスターミナルは西におおよそ7km先へ行った場所に移されたそうだ。結果、フェリー乗場周辺のバチャン市街は寂れた雰囲気を醸しだしていた。観光地なのだが、観光客が留まらない実情というものを垣間みているような気がした。

↑ ↓右側奥に見えるのが村の学校
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- 2007/03/28(水) 01:04:09|
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昨夜、「今日、妻木晩田火災の新聞、環境大に郵送しました。遅くなってすみません」というメールを受信した。ここにいう「妻木晩田火災の新聞」とは、3月20~21日に連載された山陰中央新報の記事「信頼回復への道 妻木晩田遺跡竪穴住居火災」(上)(下)のこと。送信者は記事を書いた記者さんである。
このコラムについては、
22日に妻木晩田の火災現場を訪問した際、事務所のスタッフからコピーを頂戴していた。文末にアップした記事がそのコピーで、(上)のほうはファックスからのコピーだから読みにくい。いずれ差し替えたい。
その(上)では、わたしの名前がさんざん使われている。まぁ、仕方なかろう。このブログでも、わたしは火災の件で、ずいぶん批判的なコメントを繰り返してきた。なぜ批判的なコメントを繰り返すのかというと、1年に2棟もの復元建物を自らの過失で焼失したにも拘わらず、県がこの問題を「不問に付す」ことを危惧しているのと、なにより現場事務所のスタッフがこの火災を深刻にとらえているのかどうか、疑問に思うところがあったからである。いま妻木晩田の整備は、せっぱ詰まった状態まで追い込まれている。これについては、一昨年あたりから、ことあるごとに警鐘を鳴らしてきたつもりだが、事情は一向に改善の方向に向かわない。いまこそがまさに正念場であるにも拘わらず、今年度の基本設計は最悪の結末を迎えた。そういう悪い流れに対して、神仏がペナルティを与えたのではないか、とさえ思われる火災であった。
今日、この問題について、なぜ再び筆をとることにしたのか、というと、上記コラム記事(下)に気になる内容がたくさん含まれているので、コメントしておくべきと判断したからである。ともかく「燻蒸」に対する理解がなっていない。以下、記事の文面を引用しながら批評する。
> 県教委は当面、燻蒸を中止して確実な防火対策を練る。
→ 燻蒸を中止するのはできるだけ短期間にしていただきたい。妻木晩田の場合、「燻蒸」ではなく、「焚き火」であったことが出火の原因であるのだから、「焚き火」を中止すればよいだけのことではないか。「燻蒸」は湿度の除去以上に、煙による虫類・菌類の駆除に意味があることなので、燻蒸をやめるわけにはいかない。燻蒸を続けることによって、木材のコーティングも進み、湿気に強くなる。
> 対策としては、液体ガラスを家屋内側にある壁や煙出し(越屋根)など、かやの部分
> に吹き付けて、火の粉の付着を防ぐ方法などが考えられるという。
→ 木材や茅の内側に液体ガラスを塗る処理など聞いたことがない。こういう特殊な化学材料を使うと、その瞬間は効果的にみえても、時がたつと塗装部分の劣化や変色が始まることも珍しくない。こういう発想は木材を知らない素人が、その場逃れで考えるものであって、火災の根本に立ち返って反省していない証拠である。全国的にみても、屋内の燻蒸で竪穴住居を焼いた例はないのだから、1メートルの火柱が立ち上がるような「焚き火」をやめて、煙を出して燻す正統的な「燻蒸」に立ち戻れば、火災がおこるはずはないのである。
>透湿性の高い防水ネットを使用して、竪穴住居内の湿度を低くすることも検討課題。
>中止している間の建物内で、湿気が多くどうしても燻蒸が必要なら、臨時的にストーブを使う。
→ 竪穴住居内の湿度が高くなると、カビや菌類が木材の表面で繁殖し、部材の腐朽を招く。繰り返すけれども、室内の湿度の低下、虫類・菌類の駆除を目的としているのだから、燻蒸をやめてはいけない。何度でも言う。室内での「焚き火」がよくないのであって、炭火から煙を出して燻す「燻蒸」は絶対に必要だ。人が住んでいれば、火種を絶やさないから自動的に燻蒸が進んでいるわけで、人が住んでいない空き家での燻蒸はなくてはならないものである。
>火だなは、いろりの上に板を水平にぶら下げて火の粉が上方に飛ぶのを防いだ仕掛
>けでやかんなどをつり下げる自在鉤はその発展形式という。
→ 火だなは魚や稲穂束などをおいて燻蒸するための装置であり、「火の粉」を防ぐ仕掛けではない。むしろ直火に近いだけに、自然発火の危険性がある。防火対策の面では、要注意の部分。縄文時代の住居跡では、火だなに土を塗ってその上にモノをおく例が新潟県でみつかっているし、近世民家でも、竈直上の火だなとなる天井部分に土を被せる例もある(琴浦町河本家住宅など)。いずれも、着火しやすい火棚の防火処理とみなせるだろう。復元住居でも、火だなには部分的にでも土を被せたほうがよいかもしれない。

↑「信頼回復の道(上)」 ↓「同(下)」 クリックすると画像が大きくなります。
- 2007/03/27(火) 04:14:39|
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3月22日、行程3日目のハノイは雨だった。なんとも天候には恵まれないのかと思いつつ外に出ると、バイクに乗る人々の格好は普段と変わらないか、雨合羽を羽織った姿で通りを往来していた。ただし、この時期は大雨にはならないらしく、通りを歩いてみても不自由はしなかった。
今日はハロン湾のデイリーツアーを利用し、ハロン市への移動とハロン湾のクルージングを予定としており、8時にツアー会社に集合し、9時頃にハノイ市を出発した。マイクロバスに乗って移動し、ハロン市まではおおよそ3時間を要した。陸上にある大きな2つの奇峰に迎えられて、ハロン湾に近づいていることを知らせてくれる。そして、昼ごろにハロン市バイチャイの南西端にあるクルーズ船乗り場に着いた。雨は降らないものの、空は雲で覆われて霧がかかり、視界は約7km先の大橋が霞んで見えるくらい悪かった。
クルージングはティエンクン洞のあるタウゴー島(D Dau Go)を周回する4時間のコースで、出港すると進路を南にとる。まずは、タウゴー島の北岸にある世界遺産のマークを配した看板が迎えてくれる。その後、島を反時計周りに進み、島の西岸に形成された水上集落に立ち寄る。この水上集落はクルージングコースに取り込まれており、筏住居以上の数のクルーズ船が通過し、停泊する。乗船した船は村の入り口にある筏住居に横付けし、停泊する。そして、同村内には水上洞窟が存在しており、洞窟に近い筏住居に船を停泊させ、見学希望者を案内する。水上集落を後にすると、闘鶏島(Hong Ga Choi)という、二つの奇岩からなる島があらわれた。ハロン湾を象徴する島であるという。その後、進路を北に移してティエンクン洞を目指す。同位置にはダウゴー洞もあり、これらの二つの鍾乳洞は最もポピュラーな見所とされている。このティエンクン洞内は、足場が整備されており、色とりどりにライトアップされている。多少、過剰装飾のようにみえてしまう箇所があるものの、それらは洞内を理解するために役立っているようではある。ガイドさんの話によれば、昔はティエンクン洞前の湾にも水上集落が築かれていたという、しかし、世界遺産への登録を境に、政府によって立ち退き政策がおこなわれ、一部の漁民に裕福な層ができたそうだ。以上のコースを辿ったのちにクルーズ船は乗り場へと帰港した。

↑タウゴー島西岸の水上集落 ↓ティエンクン洞内
[観光地としての水上集落 -越南浮游 part2(Ⅱ)]の続きを読む
- 2007/03/26(月) 23:32:16|
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さきほど患者を病院まで送り届けた。
はじめての外泊で、2泊した。昨日は、馴染みの喫茶店「
ペパーミント」に娘と3人でランチを食べに行き、夜は息子も加わって家で食卓を囲んだ。今日は、昼にわたしが腕をふるって「中華風焼ビーフン」を作った。夜は、塾帰りの息子をひろい、3人で学食風レストランで食事した。いろんなお総菜やおかずが揃っていて、美味しいし安い。3人食べても2000円未満だから、買い物して夕食を作るのと変わらない、というか、むしろ安いぐらいだ。なにより、おさんどんの手間がいっさい省ける。患者ははじめての来店だが、すっかり気に入ったようで、食欲旺盛。元気になってきた。
2度目の出血からすでに6週間がすぎている。なんとか来週末(30日/金曜日)にいちど退院させたいと思っていて、その旨、ナースステーションに伝えておいた。29日には最後の入試判定会議があるので、大学に戻らなければならないから、30日はまたしてもとんぼ帰りになりそうだ。
問題は吹田の病院だ。わたしとの
数回の交渉を経て、ようやく主事医が動き出し、「発語能力を確かめたい」という理由で「患者の受け入れ」を表明したのだが、4月にならないとベッドが空かないという。わたしのほうは、授業のない3月中の転院を強く主張していたのだが、叶わなかった。とりあえず、病院から病院への転院はやめにする。いちど帰宅して、1~2週間ようすをみたい。

さてさて、気がついたら、ソロ・ギターのスコアが3冊もたまっているではないか。ネットで調べると、南澤大介というギタリストのスコアがなかなか評判がよいので、中古本(CD付)を取り寄せた。正直いうと、技巧的にはちょっと物足りない。もう少し不協和音を使ってほしいのだが、後ろの解説を読むと、出版元のリットー・ミュージックの方から、「原曲のコード感を変えないよう・・・難易度の高くないアレンジ」を要求されたからだという。たしかに、そのとおりで、初心者にはじつによくできた編曲なんじゃないだろうか。なにより曲数が多くて、バラエティに富んでいる。「ロックの名曲」「ビートルズ&ジョン・レノン集」「懐かしのスタンダード」「クラシック・コレクション」「バラード&クリスマス・ソング集」「インスト集」に分かれていて、全部で30曲も納めている。おもしろかったのは「ルパン3世のテーマ'78」とかYMOの「テクノポリス」。難しいのはクラプトンの冒頭3曲かな。
驚いたのは、Cキーで弾くと難しいビートルズの「イエスタディ」がGキーではあっさり弾けてしまうこと。ギターにとってGキーは極楽だ。「ヘイ・ジュード」も山下達郎の「クリスマス・イブ」も、Gキーならすぐに弾けてしまう。それにしても、「イエスタディ」という曲の美しさは尋常ではない。自分が奏でるGキーの「イエスタディ」を聞いているだけでうっとりしてくるんだから、もうわたしは居ても立ってもいられなくなり、
関口祐二さん編曲の『ジャズ風アレンジ・ソロ・ギター ビートルズ』というスコアまで買ってしまった。このスコア集のトリを務める「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」がまたGキーのアレンジで虜になってしまった。しかし、ビートルズのありとあらゆる曲をジャズっぽく編曲してもつまらないことがよくわかった。バラードはそれでよいのだけれど、初期のビートルズはもっとシンプルでアップテンポのアレンジのほうがよくあうね。
というわけで、すっかり
ギターと深いお付き合いになってしまっている。ソロ・ギターはおもしろい。60歳になったら、還暦記念論文集を出そうかと思っていたけれども、どうやらソロ・ギターのCDにしたほうが楽しそうだ。腕を磨くぞ!
- 2007/03/25(日) 23:41:36|
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23日日の夕方、古代出雲博から松江に戻ってきた。田和山遺跡の前にある今井書店のなかに「
ラバール」というカフェがあり、1日お世話になった松江市の職員さんとともに冷やかすことにした。というか、わたしが強引に誘ったのである。
前夜、以下のようなメールが持ち歩きのパソコンに飛び込んできた。
「一年間の短い間でしたが大変御世話になりました、ありがとうございます。明々後日より勤務なので明日鳥取を発ちます。また、松江に来られることがありましたら店の方にも是非よってみてください。それでは失礼致します。」
送り主は松江市出身。だれだか分かりますか?
この「店」というのはかれの就職先のことだが、じつはその店が「ラバール」なのである。ラバールは、
スタバやドトールに近いイタリア系テイストのカフェで、米子と松江に小規模ながらチェーン店を展開している。わたしはホット・チャイとベイクド・エッグサンド、他の2名はラッテとケーキを注文した。

レジの若い女の子にさっそくカマをかけた。
「ねぇ、***ってやつ知ってます?」
「・・・・いえ、知りません・・・」
テーブルに飲物やケーキを運んでくる別の女の子にも話をふった。
「あの、***をよろしくお願いします!」
「・・・? ・・・・?? ・・・・・???」
わたしは営業活動までしておいた。同行した2名の松江市職員さんがもう一度来店しやすいような工夫をしておいたのだが、何をしたのかは今は言えない。まもなく、あきらかになるでしょう。
ところで、「
東大のスターバックス」で指摘したように、こういう喫茶店が大学のキャンパス内にあればほんとうに良いと思う。学生センターの1階ホールの片隅で出店してくれないだろうか。経営陣には真剣に検討していただきたい。こういうカフェを設けることで若者の視線をひきつけ、ニュータウン住民や県民との交流を計りつつ利潤を得るのである。

ラバールを出て、ツタヤを通り、薬局まで行って、わたしは
ユンケルとアスピリンを仕入れた。ユンケルは午前中すでに1本を飲んでいたのだが、あのエネルギーは約2時間で切れてしまう。松江から奈良まで5時間はかかる。そこで、わたしはユンケルの3本セットを買った。
松江から奈良への運転は、ほんとしんどかった。ユンケルは予想どおり、約2時間で効用が薄れる。2時間を過ぎると途端に眠くなってしまうので、パーキング・エリアに寄って新しい1本をごくんと飲み干し、紙コップ入りの濃いコーヒーを車に持ち込む。こういうときは車内で聞く音楽も慎重に選ばなければならない。ニール・ヤングのソロライブは問題なくいい。神経の奥まで刺激してくれる。ジム・ホール&パット・メセニーのデュオは気持ち良すぎて眠くなるが、パット・マルティ-ノは悪くない。「酒とバラの日々」のようなスローバラードでも、アドリブになると、マルティ-ノは4ビートのリズム・セクションはほったらかして、猛烈な早引きを繰り返す。おまけに弦はガチガチのヘヴィ・ゲージで音が固くてでかいんだから。
車は決して飛ばさない。左車線を時速90km前後で安全運転。なかなか前に進まないが、なんとかかんとか夜の10時半ころ奈良の自宅にたどり着いた。
患者ははじめての外泊許可をもらい、リビングの椅子に腰掛けてわたしを待っていた。
「どうしてソファに坐らないの?」
「寒いからストーブの前にいるの。」
わたしは風呂にも入らず、ブログも書かず、ぐったり眠り込んでしまった。
前借りしていたユンケル3本分のエネルギーを取り戻すには睡眠しかない。

↑ラバール外観 ↓ラバールから望む田和山遺跡
- 2007/03/24(土) 17:43:56|
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ご存じのように、3月10日に
島根県立古代出雲歴史博物館が開館した。23日の午後、博物館を訪れると、一般駐車場は満車状態。博物館はお客様でごったがえしていた。
なんどもお知らせしてきたが、わたしは
出雲大社境内遺跡で出土した大型本殿跡の復元模型(1/50)の設計を担当した。
5人の建築史家が復元案を競いあったのだが、わたしは低いほうから2番目。高さ14丈(42m)の復元案で、出土遺構・遺物から最大限情報を引き出すことに務め、「杵築大社神郷図」に描かれた鎌倉時代初期の本殿を復元の目標とする画像に位置づけた。ほかに、8丈案(三浦)、15丈案(黒田)、16丈案(藤澤・宮本)の4作がおなじ展示ケースに陳列されている。ちょうど石塚尊俊先生がご来館されていて、車椅子に乗ったまま展示をみられていたのだが、復元模型のコーナーで立ち止まっていたわたしたちと遭遇。先生のご著作はたくさん所蔵しているけれども、面会するのははじめてで、学芸部長さんからご紹介にあずかった。わたしが名刺をおわたししようとすると、先生は車椅子からさっと立ち上がられた。
「わたしは、こういう仕事をずっとぼろくそに言ってきたんですけどね・・・」
「あらら、そうなんですか? あのぉ、こういう仕事のどのあたりが良くないのでしょうか?」
「いや、戦前からね、32丈はありえないけれども、16丈はありえるとかありえないとか、そういう視点自体がくだらない、と言っているのですよ。」
「わたしは16丈説はとっていないんですけれども・・・」
「あなたの案で何丈ですか?」
「14丈ぐらいですね・・・」

↑左から2番目が浅川案。 ↓背面からみた浅川復元案

5つの復元模型の横には、ごらんの通り、出雲大社さんが自ら制作費を出したという1/10の平安本殿模型がどが~んと展示してある。福山敏男の原案を立体化した大林組の復元案である。残念ながら、今となっては、この復元案を支持する研究者は日本全国探してもいないであろうが、平安本殿が出土していないだけに、まったく否定することができないのも事実である。
やはり展示が完成すると、博物館は重くなる。昨秋、博物館を訪れて
槇文彦設計の建物だけをみせていただいたときは気楽だったが、陳列品の一つひとつが凄いので、解説を聞きながら駆け足で展示をみただけなのだが、すっかり頭脳が疲弊してしまった。とくに開館にあわせた特展「神々の至宝」は、重厚さを超えて、宗教の恐ろしさすら感じさせる。宗像神社、春日大社、伊勢神宮などから借用してきた国宝級の展示品がずらりと並んでいる。ほんとうにこれだけの宝物をよく借りてこれたと思うし、借りて展示しようと企画したことだけでも賞賛に値するだろう。かりに拝借した宝物を微かなりとも傷つけてしまったら、どうなるのか。それを考えただけでも、ぞっとするではないか。
この特展を企画し推進したN学芸員は、いつもニコニコとして仕事をこなしているが、この4ヶ月間、休みはわずか「2時間」であったという。いや、ほんとうに素晴らしい仕事をやってくださいました。少し休ませてあげたいのだけれども、休んだ瞬間にガクッと倒れてしまいそうで、心配になる。こういうときには、もう、ずっと休まないで走り続けるしかないのではありませんかね。だから、「大社造シンポジウム」の原稿も、この勢いでよろしくお願いしますよ!

松江では田原谷遺跡を視察。中世の掘立柱建物(3間×2間)が出土しているのだが、その平面が杉沢Ⅲ遺跡の推定「拝殿」遺構や青木遺跡の本殿脇建物とよく似ている。今年度の調査はここまでだが、来年度は廃土を戻し、本殿推定位置を発掘調査することになりそうだ。
- 2007/03/23(金) 23:47:06|
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朝から鳥取城跡の本委員会があって、出席しようかどうか迷っていたのだが、起きられなかった。卒業式後、疲労はピークに達していて、もう駄目だと思ったので、携帯を1階においたまま2階で眠ってしまったのである。目が覚めたら、12時前。携帯を確認すると、着信履歴が山のように残っている。
市の担当者には、謝罪の電話をいれた。「眠っておられるなら良いのですが、倒れられているのではないか、と心配していました」とのこと。ご心配をおかけしました。よく眠らせていただいたので、悩んでいたけれども、車で家を出た。途中、白兎海岸のコンビニに立ち寄り、
ユンケルを飲んでからだに気合いを入れた。目の前には、
舟屋群と蒼い日本海がひろがっている。この景色は、今年度のいちばんの想い出かもしれない。あの暑い夏、
倉吉や
尾崎家との往復でなんども眺めた日本海の風景。気候は穏やかになり、荒々しい冬の日本海は、わたしの大好きな夏の日本海の顔を取り戻しつつある。
空と海が融け合う壮大な景観に包まれていると、仄かな寂しさがこみあげてきた。
ニール・ヤングの鼻にかかった高音が、その気持ちに拍車をかけた。「ライブ・アット・マッセイホール」。1971年、全盛期のニール・ヤングのアコースティック・ソロライブである。全曲、ギターとピアノの弾き語りで、どれも懐かしい曲ばかり。この孤独なうめきは何なのだろうか。六連奏のCDチェンジャーに納められたどんなジャズ・ギタリストのアルバムも全盛期のニール・ヤングには敵わない。ジム・ホールも、パット・メセニーも、パット・マルティーノも、ジョー・パスも。音楽は技術ではないんだ・・・

まずは大山町の文殊領(もずら)遺跡へ。かの茶畑第1遺跡から北へ約500m、茶畑山道遺跡から北東約600mの位置にある弥生時代中期の遺跡。お寺の境内の試掘トレンチに大型掘立柱建物の独立棟持柱穴と隅柱穴がひっかかっている。近畿でよく出土する「伊勢神宮」型の大型建物である。柱穴の深さは1m前後ある。建築部材らしき木材も近くのトレンチで出土しているというので、見せていただいたが、残念ながら「建築部材」と判定できる材ではなかった。しかし、今後の本調査が楽しみな遺跡である。やはり、茶畑遺跡群は尋常なエリアではないね。

それから妻木晩田遺跡へ。3月
7日に焼失した洞ノ原8号住居の残骸を視察した。関係者の話を聞くと、こうである。竪穴周堤の垂木が接地する近辺で木材の腐朽が著しいので、壁に近い桁下で火を焚いていた。これは燻蒸のために煙を出すことを目的しているというよりも、室内を乾燥させるために炎があがるような「焚き火」に近い状態だった。火の粉が飛んで下地の茅に着火したと報道されているが、むしろ自然発火の可能性がある。炎の上部で温度が上昇し、乾燥しすぎた垂木から自然発火したのではないか。室内には消火器を2台おいていたが、粉末の消火剤は木材に対して効果がない。粉末は空気と木材のあいだに幕を作るだけで、木材の内側に残った火種を消すことはできなかった。放水して湿らせないと鎮火できない。また消火器の粉末は距離3mぐらいまでしか達さない。越屋根(煙出)までは5mはある。垂木の室内側が鎮火したと思ったら、火は外側に燃えひろがっていた。

わたしは、
屋根土がずり落ちていたことを火災原因のひとつと主張してきたが、所員はそういうことはないという。そこで、昨年7月のシンポジウム用チラシを確認したところ、やはりサシガヤは入口の棟に接するところまで下がっていることが判明した。つまり、火は内側の棟付近の垂木から出火し、まず越屋根を焼き、その後、土のないサシガヤ部分を焼いて、入口に延焼したというプロセスが想定できよう。
焼けてしまったものは仕方ない、という達観めいた開き直りもできるかもしれない。しかし、わたしは責任の所在を明確にし、「けじめ」はつけていただきたいと思う。それだけ、この事故の影響は甚大だ。「けじめ」をつけた上で、迅速に後始末に取りかからなければならない。しかし、その後始末がやっかいになっている。再建に対する国の補助はなし。県費だけでは足りない、という。担当者たちは、某財団をあてにしていたが、そこから補助が下りる保証もない。このまま放置しておけば、妻木晩田のシンボルともいえるこの大型住居が再建されるまで、2~3年を要するだろう。わたしは「実施設計をはしょれ!」と指示した。すでに、実施設計図はあるのだから、施工業者だけ決めてしまえばよいのである。言い換えるなら、施工図から出発すればよい。元の実施設計図を叩き台にして防火・防水機能を強化し、焼失前の住居よりも良質の復元住居を一刻もはやく再建しなければならない。
県の責任者、関係者に申し上げておきたい。
この火災住居の復元には特例措置を適用すべきである。妻木晩田のシンボルともいうべき復元住居を、焼け焦げた状態で2~3年も放置しておくわけにはいかない。訪問客に与える影響が大きすぎる。すでに述べたように、まずは責任の所在を明確にして体制刷新をはかり、すべからく再建に着手すべきである。わたし自身が奈文研遺構調査室最後の仕事として基本設計をおこない、環境大学着任後に施工監理に携わった建物でもあり、出来る限りの協力を惜しまないから、なんとか財政を動かしていただきたい。現在進行している本整備のスケジュールをずらしてでも、この竪穴住居の再建を優先すべきだとわたしは思う。
本整備の基本設計も難航している。妻木晩田の環境整備に入札制度がたちはだかって、今年一年の成果は税金をどぶに捨てたようなものだ。来年度、一からやり直すと言っても、同じことの繰り返しになるような気がして仕方ない。そんなことなら、本整備の準備はいったん休止したほうがいい。ひどい整備を進めるなら、整備などしないほうがいいんだ。いまの妻木晩田で十分ではないか。
ただし、焼けた洞ノ原8号住居は迅速に再建しなければならない。
- 2007/03/22(木) 21:22:39|
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鳥取から移動を始めて、まる1日使い、ハノイの旧市街地内の宿泊先に到着したのは20日夜の9時前であったが、なんとか無事にたどり着けた。ハノイには、ホーチミン経由で入り、入国審査と乗り継ぎの際に、天気予報がながれていた。それを見るとハノイは雨と表示しており、これといった雨具を持ってきていないので少し不安になったけれども、翌21日朝に宿泊先を出てみると天気は曇り、気温も程よく、ハノイ市内を歩き回るには支障はなかった。ただし、ガーミンのハンディGPSを起動してみると、天気は曇りだし、市街を歩いていてはみたものの、空が開けた場所も特になく、結局はうまく動作はしてくれない。だけども、デジカメ画像に位置情報をつけるために持ちこんだソニーのGPSは何とか信号を捕まえ、正常に動作してくれていたようだ。一応、これで位置データ付きの写真を得ることはできるだろう。ただし、取り扱い説明書による精度は±10mと記されているので、測位精度はあまり期待せず、おおよその位置をおさえることに使えればと思う。

↑ハノイの旧市街地区内
さて、この日はおもに旧市街地、歴史博物館、ホアンキエム湖東岸周辺を歩きまわった。ただし本日の最大目的であるハロン湾へ行く手段の確保をするために、まずは窓口を探した。見つけるのに苦労をするのかと思いきや、意外にも宿泊先から目と鼻先にあり、なんとも呆気なく手続きなどを済ませた。
そして、ハノイ市内をガイドブックたよりに市街に歩みでる。道路はバイクの洪水といえ、そのなかを縫うように進むのにはかなりの気を使う。通りには途切れることなく商店が、市街にはコロニアル建築がつくりだす景観と、ところどころに寺社が存在する。寺社の呼び名は微妙な使い分けがなされているそうで、仏教寺院→「寺」、歴史上の人物を神格化し祀る建物→「祠」、歴史上の人物の霊を祀る建物→「廟」、神々を祀る建物→「殿」、庭に造られた休息用の建物→「亭」と表記されている。これらの寺社建物は、寺社として管理されているもの、店舗兼用とするものもあった。屋根は平の素焼きの瓦をつかい、魚の鱗のような形状をしている。ただ何の形に由来するのかは分からないが、歴史博物館で展示される蓮の花を模した陶器欠片があり、傍からみた形状が似通った印象をもった。また、見た限りの「寺」や「亭」など建物の造りには共通性がみてとれる。また、軒先部分に長方形断面をもつ桁材を用いるなどと部材の使い方に特徴がある。(某大学院生)

↑店舗と併用される四位霊祠

↑東寺山門

↑東寺 奥にあるお堂
- 2007/03/21(水) 23:58:09|
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会場のフリースペースがにぎわってきた頃、在学生であるマツモとミスターと私はメッセージを書いていた。卒業生である先輩たちとの思いで話をしながら書き進め、3人そろってニヤニヤしていた。
本当にすごい先輩たちでした。浅川研究室にて数々の研究に携わってきた先輩たちは、いつでも研究に対する気迫に満ちていた。それでいて休憩時にぶっ飛んだ事を言い出したりする。好きにならない訳が無い。

卒業生が会場から出てきて浅川研究室のメンバーが揃うと、やっぱりいつもとおんなじ空気になった。卒業式会場の県民文化会館にいても、いつもの調査後の空気である。緊張しているような、気になるような。どこの場所でも、どんなファッションでも、落ち着けるメンバーがいて本当に気持ちが良いなあ、と、思った。

卒業式のあと、O先輩による感謝会が開かれた。その会場である加藤家に集まった大工さん達もまた、囲炉裏を中心に暖かい空気を醸しだしていた。大仕事の後の団欒に、私もひょっこり加わったりした。私にはないもの、絶対に真似することの出来ない仕事をしている方々と同じ場に居ると、なんだって勉強になる、とおもう。私の両隣に座っていた後輩2人からも、真似したいと思うところは沢山ある。(それが何かは教えないけれど…) まずこの「加藤家」という場に感謝した。
沖縄そばと生春巻きと寿司を食べ、周囲を見渡すと、囲炉裏からの煙がゆったりと加藤家全体を取り巻いている。それにA教授の「だっはっは」の声が絡んでいっそう一体感が高まった。本当にこの場所は、暴露話から構造の話から、沢山の話題をひとつにまとめてくれる様な場所だなあ、と、おもった。(書道部S/3回生)
- 2007/03/21(水) 22:46:16|
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今日はめずらしく朝から良い報告があった。昨年の11月以降、逆風のなかをひたひたと歩んできたが、ひょっとすると、風向きが変わるかもしれないという兆しのようにも感じられる出来事であった。
卒業式は例年より遅く、午前11時半からスタート。会場はもちろん県民文化会館である。ひとつ反省。学生表彰で、大城を推薦すべきだった。民家に住みながら、1年間民家の修復を続けてきた、こういう学生をなぜ学生表彰に推薦して壇上にあがらせなかったのか、なぜ気づかなかったのか、とても悔やんでしまった。

学科単位での学位授与式は、とてもおもしろかった。とくに、やっさんが最高。まぁ、写真をみてください。女子はですねぇ、・・・正直、モリさんがどこにいるのかずっとわからなくて、学位授与の直前になんとか姿を確認。普段と全然違うんだから。なんで、あんなに化けるんだろう、女子たちは。さきほど、はるのさんに説明したところです。美しさというのは、いろいろありましてね。「酒とバラの日々」の
バラのような美しさもあれば、ヤマツツジやヤマザクラのような美しさもある。つまり、化粧して派手な服を着ればいいってわけじゃないんですが、しかし、今日は派手にする日なんだから、女子からみれば当然だわね。余計なお世話でした。
わたしはどうかというと、去年まではいちおうスーツを着て出席していたのだが、今年は普段着のまま。黒のジャケットに黒の皺皺のズボンを穿いて、外に出ると皮ジャンをはおる。もう、うっとおしくてね。鳥取弁でいうところの「たいぎい」状態に陥っている。いちいち、スーツやネクタイやシャツを選ぶ元気がでない。

卒業式が終わって、ホールに出ると、とまとさんとはるのさんとMr.エアポートが花束をもって待ちかまえていた。そして、みんなで記念写真。ここで、とりあえず解散となった。大城はいちはやく加藤家へ。わたしは、あまりにお腹が減っていたので、はるのさんとMr.エアポートを連れて回転寿司に行き遅めの昼食をとりながら、折り詰めのお寿司を注文した。お寿司をテイクアウトして、車で移動していると、やっさんからMr.エアポートに電話が入った。
「4時15分ころから花束贈呈が始まるんだけど、先生への贈呈は5時ぐらいだから」
とのお達し。あれっ、例年ならば、花束贈呈は謝恩会の後半にもってくるはずで、4時スタートなのに、なんでいきなり花束贈呈なのか? それでも、まだ間に合うと判断し、お酒とお寿司を加藤家まで持っていった。じつは、池田住研に就職が内定していた大城が、今月になって急遽福岡の実家に帰って家業を手伝うことになったため、大城主催の「大工さんに感謝する会」を開くことになったのである。

お寿司とお酒類を加藤家に置き、わたしはとんぼ帰りで謝恩会の会場へ。会場に着いたら4時45分。システム学科の花束贈呈がおこなわれていた。近くにいる見知らぬ学生に訊ねてみた。
「デザイン学科の花束贈呈は?」
「もう終わりました。」
「えっ・・・・」
わたしは動揺が隠せない。しばらくうろうろして、サッカー部員たちと話をしていたのだが、花束贈呈をすっぽかしたことが気になってしかたない。しばらくすると、あっこちゃんがあらわれた。手には花束をもっている。もう平謝りに謝るしかなかった。
「ごめん・・・」
「いえ、いいですよ、気にしないでください」
とわたしを慰め、彼女はわたしに花束をわたした。いや、情けない・・・

5時半すぎには加藤家に戻った。卒業式のために、大城くんのお母さんが福岡から駆けつけていて、さらには沖縄から叔母さんまでいらっしゃっていることが判明した。なんでも、ブログを読んで、加藤家をみたかったからだという。ありがたいことだ。今日のシェフはベジタリアンの大城くんだが、「おふくろの味」がする大城家特製の「沖縄そば」をふるまってくれた。また、管理人のKさんは「おこわ」をたくさん用意してくださった。新聞記者のOさんも差し入れをもってあらわれた。京都に家族旅行に行っていた池田社長も、途中から酒盛りにかけつけた。加藤家の炉端は、楽しい雰囲気でいっぱいになった。
大城は大工さんたちに愛されている。大城も大工さんたちを尊敬している。なのに、大城は鳥取を離れてしまう。とても残念なことだ。また、一部の大工さんはわたしの家内のことを、ずいぶん気遣ってくださった。
でも、しんみりしてはいけない。わたしはぶっきらぼうな発言を繰り返した。
明るく別れたい。泣いてはいけない。どんなことがあっても、明るく生きるしかない。駄洒落を連発して、空元気だして突っ走ろう!
寒い夜だった。寒い夜はサムソナイトなんだぜ。
- 2007/03/21(水) 22:40:43|
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ブログのような雑文書きが楽しくて仕方ない、と何度か吐露したことがある。紀行文やエッセイを書くのが大好きで、当然、その延長線上にブログがあり、毎日のブログを考えるのが趣味になっていた。それが楽しすぎて、本業の文筆を遅延させている元凶となっているから、これを
「ブログの弊害」だと自省したこともあった。
今は違う。正直、毎日ブログをアップするのが苦痛だ。「休みたい」とも思うのだが、意地で休まない、という日が続いている。実際、2月から3月にかけてのブログはあまりおもしろくない。書いている自分がそう思う。われながら、輝くばかりの文章だと自己満足に浸るときもあるのだが、今月は駄目だ。力が入らない。
疲れている、ということだ。
昨日は久しぶりにCTスキャンの撮影があって、その結果をみせていただいた。出血は順調に吸収されている。自覚症状のない滲むような出血があったらどうしようと心配していたのだが、新しい異常はなにもなかった。しかし、患者の発語能力は元に戻らない。今が限界だ。もういちど出血したら、まともな日常会話も交わせなくなってしまうかもしれない。
一昨日、「外出許可」を提出していて、CTスキャンの結果も良好だから、「外泊してもいいですよ」というお墨付きをドクターからいただいた。嬉しくなって、二人で病院を出た。モスバーガーで新しいメニューをみつけ、二人で食べて家に戻ったのだが、わたしは疲れてしまって眠りに落ちた。患者に起こされたら午後8時になっている。患者は、「病院に帰る」という。朝早くからリハビリがあるので、家族に送り迎えで迷惑をかけたくない、というか、わたしの睡眠時間を気づかっているのである。
彼女の意見に従い、病院に戻すことにした。
わたしは今日中に帰鳥する。だって、明日は卒業式なんだから。そのあとも日程が詰まっている。2泊3日の奈良だった。もう1泊だけしたかった。
- 2007/03/20(火) 01:49:16|
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これからわたしは夜行バスに乗り、関西国際空港をめざします。20日からベトナムを訪問することになったからです。目的は世界自然遺産ハロン湾水上集落の視察です。昨年の
9月4日~9月14日に、ベトナムのフエ、ハロン湾にて、A教授、C助教授、チャック、Mr.エアポートが家船・筏住居の調査をおこなっていますが、私はこれに同行しておりません。なので「ハロン湾に行けるチャンスがあるのだから、見て来なさい」という運びになりました。
前回の調査では、撮影画像とGPSの連動が不十分でしたので、まずはこれを補えるデータを収集し、そして、家船の正確な位置を補測するGPS測量手段を検証・検討することが、今回の視察調査の目標です。
ちなみに、今回は単独での行動でして、いささか不安であります。無事に戻ってくることと、よい資料を収集できることを祈りながら、今晩より移動をはじめます。また、現地より状況を伝えれるよう努力いたします。(某大学院生)

↑チャックらが作成したパネルとこれから持込もうとするGPS機材
日程は以下のとおりです。
3月20日 関空→ホーチミン→ハノイ
21日 ハノイ市内
22日 ハノイ→ハロン湾
23日 ハロン湾
24日 ハロン湾→ハノイ
25日 ハノイ
26日 ハノイ
27日 ハノイ→ホーチミン→関空(28日早朝着)
- 2007/03/19(月) 19:14:42|
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昨日の講演会終了後、高田酒造のお座敷でご主人手打ちの蕎麦をふるまっていただいた。一時期、講演会場を高田酒造の酒蔵にする案も検討しており、ご夫妻に相談していたこともあって、ご主人が自ら蕎麦を打ってくださることになったのだという。もちろんご厚意に甘えるしかない。
座敷にお招きいただき、いきなり奥様から「
門や」と「
蕎麦切りたかや」の話題がでた。
「先生のブログを読んで、<門や>と<蕎麦切りたかや>に行ってきたんですよ・・・」
いや、ほんとうにインターネットというのはおそろしい。だれに何を読まれているのかわからない。書いている本人は、仲間内に向けて発信しているつもりなのだが、読者は想像以上に多いんだな。そりゃ、1ヶ月に3000~4000人が8000回~10000回アクセスするんだから、だれが読んでても不思議はないけれどね。
ともかくわたしは、蕎麦さえ食べていれば機嫌が良い。1日2食蕎麦でもよい。いや、出雲にいるときは、1日2食蕎麦を食べないと気が済まない。そして、濃いそば湯を何杯もおかわりしたい。
高田酒造のお座敷は極楽でありました。濁り酒をアペタイザとして、食欲をかきたてておき、あとは蕎麦三昧。食卓はわんこ蕎麦状態になってしまった。いちばん食べたのは、もちろんホカノです。少なくとも、大皿2枚にお椀2杯はたいらげたはずです。ちなみに、わたしは大皿1枚にお椀2杯でした。
高田酒造のご主人と奥様には、この場を借りて、深く御礼申し上げます。学生にとって、忘れられない想い出となりました。ほんとうにありがとうございました。


蕎麦をたらふく頂戴し、みんなで記念撮影をしてから、倉吉をあとにした。めざすは「ほたる」。わが田園町の近くにある格安の居酒屋である。ここが4年生の追い出しコンパの会場になった。いまの4年生が3年生後期のときの
忘年会に「ほたる」を使った。それ以来の宴会である。
わたしは普段から「さつま白波」の720ml瓶をキープしていて、晩酌がわりにこの店のカウンターでよく食事する。家内が健常なころは、よく連れてきていた。二人で車を運転して奈良から田園町に辿り着くと、へとへとに疲れているから、とりあえず「ほたる」で一杯やって、あとは爆睡というパターンだ。
お薦めの料理は「豚肉とゴーヤ炒め」。焼酎とよくあう。最近、売れているのが「豚肉と白菜の酒蒸し」。これはあっさりしている。そうそう、忘れちゃならないのが、「にんにくの唐揚げ」。疲労した高血圧症状の体には最適だ。あのほくほく感がたまりません。学生諸君もみんな大好きなんだが、沖縄出身のO君1号は嫌いだという。ところが、同じ沖縄出身のはるのさんは大好物で、なんでもかんでも料理ににんにくを使うとのこと。
途中からノビタもあらわれた。ノビタやホカノが卒業してから、もう一年が過ぎてしまったんだな・・・

みんなよく食べて、お腹がいっぱいになってきたころ、
「カラオケ行きたい人?」
と訊ねてみたけれど、だれも手をあげない。みんなお疲れ気味だ。そこで、
「サンデーズ・サンでデザート食べたい人?」
と訊くと、やはりだれも手をあげないが、隣でモリさんがニタニタしている。女子たちは別腹なんですね、デザートは。そこで、サンデーズ・サンに移動したら、まぁみんな美味しそうなデザートをよく食べた。わたしも白玉あんみつアイスを食べ、ドリンクバーでエスプレッソを3杯お変わりした。
こうして、今年の4年生の送別会は終わった。
この日一日運転を担当してくれたMr.エアポート(2年)、トマトさん(3年)、そして某大学院生に深く感謝したい。
楽しい一日だったね!
- 2007/03/18(日) 23:10:09|
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本日、倉吉の豊田家住宅(登録文化財)の2階大広間で「
卒業研究出前公聴会」がおこなわれた。おかげさまで、会場は50名近い観衆で満席。加藤家、尾崎家、倉吉関係の方がた、さらには卒業生のご親族まで遠方からかけつけていただいた。予定の人数を超えた会場は当然ギュウギュウ詰めの満員状態である(↓)。本当に多数のご来場に大変感謝申し上げます。発表は、「ローコストによる古民家修復プロジェクト-加藤家での修復工事を終えて」(大城・安田)、「尾崎家住宅建造物の復原研究」(北野)、「看板建築の復原と修景-倉吉本町通商店街の町並み調査から」(森川・吉村)の順でおこなわれた。さすが4回生は学内での卒論発表などの場数を踏んでいるだけあって、緊張する様子もなく、しっかりと自分たちの研究成果や意見を述べている。その後の質疑応答では、加藤家の管理人さんや尾崎家の御当主さんよりお言葉をいただき、また本町商店街に住まわれている方からアーケードや町並みに対する意見等、住民の思いや考え方など貴重な話を聴くことができた。
発表を終えた4回生(↑)は、全員やりきったという表情で満ちていた。あと一年もすればMr.エアポートも卒業研究をする立場となる。そのとき自分はどのような表情をしているのか、四回生の達成感あふれる表情を見ていると、今から焦りと不安を感じてしまう。(Mr.エアポート)

以下、本日発表した卒業生一人ひとりの感想をお伝えする(今回に限り、卒業生の実名を使います)。
----------------------------
大城 智章(沖縄県出身)
満足感と喪失感・・・、この2つが今の心境である。思い起こせば、前期のプロジェクト研究でおこなった調査や図面整理は、自分の不甲斐なさに気づかされたのと同時に、多くの方々の助けで自分の研究が成り立っているのだと痛感した。そして、それは後期になってからも同じであり、わたしの卒業研究のテーマである「ローコストによる文化財古民家の修復」は、浅川先生をはじめ多くの方々の力添えがあったからこそ、ここまでの成果を残すことができた。感謝の意が耐えません。
そして本日、縁あって「加藤家住宅修復プロジェクト」の成果を関係者の前で発表させていただける機会をいただき、大城と安田は数日前から資料作成および、発表練習に励んだのだが、2人とも「今までお世話になった方々に感謝の意を表したい!」という思いで進めていった。しかしながら、実際に発表をおこなうとわたしは頭の中が真っ白になり、うまくろれつが回らない・・・。発表を聞いている方々には大変申しわけないことをしたと思っている。だが、その中で自分の新たな課題が見えてきた。わたしはやはり建築業界の仕事が好きである。卒業後、現場で経験を積み重ね、自分の夢に向かって一歩ずつ歩んで行きたいと思う。
最後になったのだが、力不足なわたしを暖かく指導していただいた浅川先生。そして、1年間もの間、加藤家住宅に住まわせてくださった管理人さん。修復工事の間、基礎から教えていただいた池田住研の方々、ゼミのみんな、プロジェクト研究の学生たちに改めて感謝の意を申し上げたいと思う。
「本当にありがとうございました!」
安田 典史(松江市出身)
私にとってこの一年間は、22年間の人生の中で最も大変であると同時に、最も充実し、最も早く過ぎていった一年でした
卒業研究で屋根とロフトの設計をおこなうことが昨年の6月頃決まり、それから小屋裏の実測調査をおこなっていたのが、ついこの前のことのように感じます。特に9月頃より本格的に屋根の設計に入ったあたりからの時間の過ぎ方は尋常ではないスピードでした。気がつけば卒業式を数日後に控えてしまっています。
そんな一年間の集大成を今日は、一般の方々に見ていただくことが出来て本当にうれしく思っています。大城くんと共に、この研究に関わっていただいた全ての方に感謝の意を申し上げます。
吉村 明子(米子市出身)
今は本当にここまでこれたんだと、ちょっと信じられない気持ちです。卒業研究の発表、展示会、今回の講演会とめまぐるしく忙しい日々を送ってきました。この日を迎えられただただ安堵し、放心状態です。
今日の講演会には50人近くの方々に訪れて頂きました。卒業研究の対象地区、ここ本町通商店街で講演会が開かれ、特に商店街の住民の方々へ研究成果を伝えられることができ、とても嬉しいです。私は終始緊張してしまい、うまく伝えられたでしょうか。
こうして私の卒業研究は講演会を最期に終えることができました。何度も何度も商店街へ通い、夏に汗だくだくになりながら、聞き込み、実測調査をしていたことを思い出します。商店街へ再び訪れ、すべての建物に思い入れがあり、感動していました。特に桝井陶器店さんにはひとしお。
ここまで来れたのは多くの方々に助けられ、支えられたおかげです。一緒に研究成果を作り上げた森川さん。プロジェクト研究、ゼミのみんな。倉吉教育委員会の方々。商店街の住人の方々。そして、浅川先生。ご指導して頂き、沢山の貴重な経験、多くの学びができました。
この場をお借りして皆様へ感謝の気持ちを伝えたいと思います。本当にありがとうございました!
森川佳央里(滋賀県出身)
倉吉で卒業研究の発表をおこなってきました。倉吉本町通りアーケード商店街の町並み分析と再生計画という題で発表しました。多くの方がたが聞いてくださり、本当に嬉しく思います。今までは学内だけでしか発表したことがなく、しかも本町通り商店街に住んでいる方がたの目の前で発表するということで、とても緊張していました。言葉に詰まったりしたこともありましたが、とりあえず発表を終えたことに安心しています。至らないところも多々あり、聞き苦しいところもあったかたとは思いますが、聞いてくださり心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
発表の後は、本町通り商店街にある
高田酒造でお蕎麦をごちそうになりました。本当に美味しかったです。水琴窟の音も良い音でした。ありがとうございました。
今回の発表で、久しぶりに倉吉を訪れました。久しぶりに倉吉の町並みを見て、とても懐かしく感じました。去年の前期に倉吉の本町通り商店街を卒論の題材とすることがきまり、約1年間この題材で卒業研究をおこなってきました。去年の夏は何回も倉吉に行き調査をおこないました。倉吉には多くの思い出が出来ました。この発表が終わり、後は卒業を待つだけになりました。とても寂しく思っています。
調査を始めたころは何をしたらいいのか分からず、このような時は自分が何も分からないことに本当にやっていけるのかと不安を感じていました。周りの人に教えられて研究を進めることができました。一緒に研究を進めた吉村さんと頑張ってきたからこそ終わらせることができたのだと思います。
調査にご協力いただきました住民の皆様には心より感謝申し上げます。ありがとうございました。また、眞田さんには忙しい中、多くのことを教えていただきました。ありがとうございました。最後になりましたが、浅川先生には最初から最後までご指導いただき、ありがとうございました。
この研究にかかわってくださった全ての方に感謝申し上げます。ありがとうございました。
北野 紗恵(兵庫県出身)
もうすぐ春がくるというのにその日はとても寒く、何だか少し懐かしくさびしい感じの漂う思い出のまち倉吉。今回、そんなゆかりの地でこのような発表をさせて頂ける機会に恵まれたことを大変嬉しく思います。夏の暑い中、共に調査した仲間の発表を聞いていると本当にみんなすごいなぁと感じ、自分が同じように発表していることが信じられないくらいでした。私の卒業研究のテーマは「尾崎家住宅の建造物調査と屋敷景観の復原」です。本研究で古民家を調査することの大変さとその面白さ、また重要さなどを学び、いろいろな体験をさせていただきました。この研究をとおして、尾崎家のご夫婦には本当にお世話になりました。度重なる調査にも快く応じてくださり感謝の気持ちでいっぱいです。
「一期一会」という言葉がありますが、この研究室に所属してその素晴らしさを肌で感じることができました。人と人が繋がっていくというのはこういうことなのだなと人生の勉強もさせていただいた気持ちです。最後になりますが、この研究に関わっていただいたすべての方々に厚くお礼、感謝を申し上げます。また、最後の最後まで熱心に愛のある指導をしてくださった浅川先生には本当にいろいろとお世話になりました。日々たわいもない会話で盛り上がり、楽しく論文に取り組めたことは、研究室のみなさんのおかげです。ありがとうございました。このように素敵な方々、建築とめぐり逢えたことは私の中で一生の宝物となるでしょう。
3月は別れの季節と言われていますが、新たな出会いの季節でもあります。これからもこのような素敵な出会いを大切にしていきたいと思います。

今年度の卒業研究は論文部門で金賞(最優秀賞)・銅賞(3位)・学長賞(4位同率)、制作部門で銀賞(4位同率)を受賞することが内定している。昨年は
ピエールが論文部門の金賞(建築学会優秀卒業論文賞エントリー)、宮本社長が制作部門の最優秀賞(建築学会全国巡回展出品)の2冠を達成し、キム・ドクが制作部門の銅賞、ノビタが論文部門の佳作を受賞した。昨年の4賞受賞については、じつは数が少ないぐらいで、あと2作ほど佳作に入ってもおかしくない卒業研究があった。しかし、卒業生8名中4作が受賞したのだから、もちろん大きな不満はない。3期生については、正直なところ、1・2期生ほど期待してはいなかった。人数も少ないし、3年次までの調査経験が乏しいので、大きな飛躍は望めないだろうと予想していたのである。

しかし、かれらは大化けしてしまった。加藤家住宅、尾崎家住宅、倉吉アーケード商店街を相手に艱難辛苦の途を歩みながら、最終的には見事に4名が受賞を果たしたのである。卒業研究提出者6名のうち4作が受賞したのだから、これは見事というほかない。
受賞するコツは何なのだろうか。それは地道に不断にこつこつと研究を積み重ねることでしかない。なにぶん教師は横暴にして強引だが、教師の提示するメニューをひとつひとつこなして行けば、学生諸君は一定の高みに到達できる。これは優秀だとか、無能だとかいう問題ではない。わたしの指導を素直に受け入れることができるのかどうか、そして、それを苦しみながらこなしていく忍耐力があるかどうか、にかかっている。3期生を指導していて、その意を強くした。
もちろん、受賞すればいいというものではない。受賞に至るプロセスが重要なのであり、それがたまたま結果としてあらわれたということなのである。
みんな素晴らしかった。この1年を決して忘れない。(浅川)
- 2007/03/17(土) 23:52:18|
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惨憺たる一日。午前中からトラブルの連続で、ただでさえ体調が悪いのに気がついてみたら、午前1時すぎまで
ウォーターボーイズで飲んでいた。まぁ、自棄糞です。
午前にどんなトラブルが発生したのかは書けない。きわめてプライベートな出来事で、胸にしまっておく以外にない。
次は昼の学科会議。今日は学科長が人間ドック入院中のため、教務委員兼入試委員のわたしが学科長代理を委嘱された。平穏に進むと思っていたところ、「某民家調査報告書」の件で雲行きが怪しくなり、激しい論戦になってしまった。2005年度に環境デザイン学科で受託した委託研究の成果報告書がまだ出ていなくて、それを出すことを本年度前期の学科会議で決議していたにも拘わらず、当時の研究代表者を務めた人物がゴネはじめたからである。信じがたい出来事であった。
それから会議の山。
13:00 入試専門委員会
13:40 大学院研究科小委員会
14:40 教授会
15:45 大学院研究科会議
ここでようやく一息つけるかと思って、教授室に戻り、メールを開いたら、某県立博物館の若い学芸員が某オムニバス講義に対してクレームをつけてきていて、その処理に時間を奪われた。どうして学外の非常勤講師がここまで大学の授業に干渉するのか理解できない。まぁ、わたしに喧嘩を売るんだから、その度胸は認めてあげよう(怖いもの知らずの典型だね)。どうなることやら・・・

夕方からはお呼ばれの会食があり、某大学院生も同伴した。体調がよくないので、食も酒もあまり進まない。そうこうしていると、黒い衣服を身に纏とった美女があらわれた。といっても、例の
ホテル松本さんなんですがね。彼女がレストランまで某原稿の校正を受け取りにやってきたのである。わたしは、「ゲラを餌にして女性を会食に誘った」などと言われてはかなわないので、
「彼女があらわれたら、すぐに帰宅させるように!」
とまわりに指示していたのだが、彼女はあっさりわたしの真ん前に座り、会食に加わった。これは結構危ない行動である。一種のセクハラでもあり、パワハラでもある。地位の上下関係からみてあきらかに強い立場にある高齢の男性が、その地位と立場を利用して、若い女性を強引にレストランに呼びつけているのだから、訴えられたら、わたしは敗訴してしまうだろう。しかし、わたしは、あらかじめ「帰すように」と指示していたのですよ。「一緒に飲もう」とも「食べよう」とも言っていないので、どうかわたしを許してやってください。
で、2次会。目の前にあるウォーターボーイズに入ってしまった。そのころには、かのハマダバダまで加わっていて、野郎5名、美女1名で動物園になぐりこんだ。疲れていた。ただただ、自棄糞だった。
- 2007/03/16(金) 23:56:14|
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今まで、環境政策学科の学生が2名来室していた。正確にいうと一人は在校生で、もう一人は1期生、すなわち卒業生である。その卒業生は軍服のような作業服を着て、胸のところに「ゴルゴ」という名を縫い込んでいた。男子ではなく、女子なのだが。すなわち、本学のOGである。
「何して暮らしているの?」
と訊ねると、
「ポニーの世話をしてます。」
と答えるので、
「そういう答え方をしちゃ駄目だよ・・・」
「・・・」
「そういうときはね、<スナイパー>って答えるんだよ」
と教えてあげると、彼女はニコニコ笑って目を細めた。
そのゴルゴさんは、船岡のポニー牧場で働いているとのこと。しかも、築後70~80年の古民家に住んでいるという。
「茅葺きなの?」
「いえ、瓦葺きです」
かれら二人は、鳥大の学生との交流を計りたいのだそうで、その第一弾として、「古民家再生」を考える会を開きたいのだという。会場はポニー牧場を考えているというが、加藤家の話をすると、目を輝かせて、「そこがいいですね」と二人とも言い出した。とくにロフトについて非常に興味をもったみたいだ。
とてもありがたいことだと思う。こうして、環境デザイン学科以外の学生や鳥大の学生が「古民家再生」に興味を抱いてくれている。話し合った結果、とりあえず連休初日の4月28日を候補日とし、仮称「古民家の会」を加藤家を会場に開催することに同意した。わたしだけでなく、ゼミ全体でバックアップしたいので、新3・4年生一同心しておいてください。
- 2007/03/15(木) 21:28:02|
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久しぶりに蕎麦切り「たかや」でもりそばの大盛りを平らげた。そこで、鳥大の某先生とばったり。どこも大変なんですね、大学受難の時代です・・・
食後、駅南の生涯学習センターで「教育審議会生涯学習分科会兼社会教育委員会」。SC鳥取をアルビレックス新潟のような組織にできないものか、と発言しようとしたが、まわりとずれていてすべってしまった。それから、だんまりを決め込んだ。正直、体調がよくない。頭がぼーっとしているので、もう黙っていることにした。
「公民館・図書館等」社会教育施設の話題に移った。市町村合併にともない、公民館や図書館の活用のあり方が問われているのだという。これは、だれかの「卒論」になるな、と思いながら、他の委員の発言をぼやっとした頭で聞いていた。
驚いたことに、みんな公民館に愛着をもっている。わたしには、そういう気持ちがまったくない。だから放っておけ、と思って黙っていた。座っていれば委員会・・・
「やはり公民館というところは、学習の場であることが基本でして、遊びの場として活用されることは避けなければならないと思います。」
とだれかが言った。
そんなバナナ。それでも黙ってきいていた。昨日のエリート医長とのディベートとは違って、なんの興奮もなく、ただただ自分の意識とのズレを深く感じるだけだった。
トイレに行って戻ってきたら、司会者がわたしに意見を求めた。しゃべるしかない。
「わたしはいちおう学者でしてね、学問をなりわいとしているわけですが、なぜ学問をしているのかというと、それが遊びだからなんですね。学問をやっていると、とても楽しい。論文を書いたり、本を編んだりすることが楽しくてしかたない。これはもう趣味ですね。日常の業務は仕事ですが、学問は遊びなんです。だから、学習や社会教育はよろしいが、遊びは駄目だという二分法がよく理解できません。ともかく、人が集まって楽しめなければ意味がないのだから、既成概念としての<生涯学習>や<社会教育>にこだわっても意味がないんじゃないでしょうか。なんかみなさんの話を聞いていると、20世紀的な公民館のあり方を継承しようとしているだけで、市町村合併後の新しい21世紀的な公民館のあり方を模索しているようには思えないんですがね・・・」
と苦言を呈した。
すると、某TVアナウンサーは反論する。
「公民館とは、とても大切なものです。20世紀的だとか21世紀的だとか分けるのではなく、公民館として守らなければならないものがある。」
わたしは、うまれてこのかた、「公民館が大切なものだ」と思ったことがない。公民館で活動したのは、たぶん3回ぐらいしかないように記憶する。なぜ、それほど公民館が地域にとって大切なのか、さっぱり理解できない。
2時間の会議中、わたしはわたし以外のすべての出席者との意識のずれを感じ続けていた。
それから確定申告に行った。午前中、ある大口の原稿料の源泉徴収票がみつからず、出版社に頼んで写しをFAXしてもらって、なんとか確定申告にまにあわせた。税務署はごったがえしていたが、すり抜けるコツをお教えしますとですね、手書きは避けること。パソコンでの申告ならば、迅速に処理できます。おかげさまで、還付金857円なり。ハマダバダ!
- 2007/03/14(水) 21:31:37|
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明日、10日ぶりに鳥取に向かう。数日帰ってこれない、というのを理由にして患者の「外出許可」を再び求めた。今日は自宅で夕食をとることにした。3月4日に3人で食べた「
豚肉と水菜のハリハリ鍋」を患者にも食べさせたかったのである。ほんとうに水菜の美味しい季節だが、河原町の道の駅で買った水菜のほうが苦みがあって新鮮ですな。それでも、患者は「美味しい、美味しい」と連呼した。そりゃ、そうだろう。もう1ヶ月間も病院食ばかりなんだから。

今夜は最初から
デブもいた。娘(次女)の隣に寝ころんでいて、ときどき食卓に顔を出す。息子も娘と同じ長椅子に座りたいから、娘に対して「もう少しあっちいって!」と要求するのだが、娘はデブがいることを口実に動かない。微動だにしないのである。
「それだけあれば、座れるやろ!」。
じつは、姉弟関係がにわかに殺気だってきている。互いが「おまえは何にもせん!」と罵る関係になってしまった。これはなぜかというと、まず娘に外出が多いから。娘が外出すると、多くの家事が息子にまわってくる。したがって、息子の側からみると、「娘が何もしない」ことになる。だから、娘が家にいるときは、外出時の反動で、部屋に籠もりっきり。こうなると、娘にしてみれば、自分ばかり家事をして、「息子が何もしない」ように感じてしまう。しかし、息子もえらい。娘の作る夕食をちゃんと食べるんだから。わたしは、ときに「はぁ」とため息をついて、娘の料理をギブアップし、冷蔵庫からお総菜を取り出して、お茶漬けで誤魔化してしまう・・・
今日の鍋は美味しかった。楽しかった。主婦がいると、一家は明るい。「何もしなくてもいい」と言うのに、主婦は後片づけしようとする。右手はまったく動かないんだから。台所に立つだけでも危ないんだから。それでも、彼女は働こうとする。主婦は偉大だ。

9時の消灯時間ぎりぎりに病院に連れ戻った。車のなかで、話題になっていたのは、ある看護師さんのこと。
「あのさ、目がくりくりっとしてものすごく大きな看護師さんいるだろ? いつも大きなマスクして顔が半分隠れている人。あの仮面を剥がしてみたいよな!?」
「あぁ、分かる。あの人、とっても可愛いよ・・・」
「えっ、マスク外したところみたの? 退勤する時間に??」
「いつだったか忘れたけど、みたわよ。ほんとに可愛いから。」
「うん、3階はレベル高いよな、ナースさんの。それに引き替え、*階は・・・」
「駄目よ、そんなこと言っちゃ!」
患者を病室に戻してから、外出許可証の写しをナース・ステーションに戻そうと廊下に出ると、一人の看護師さんを発見。すいません、と言って声をかけたら、彼女は振り向いた。大きなマスクをしている。今日は夜勤なんだ。まずは写しを渡した。
「どうでしたか?」
「いや、主婦がいると、家があかるくていいですね。」
「そうですか!」
「それにしても、大きなマスク付けてますねぇ?」
「花粉症で、鼻炎になるんですよ、だから。」
「でも、顔の3分の2ぐらいマスクで隠れてますよ・・・仮面をつけたプロレスラーみたいだねぇ・・・」
「えっ、そうですか、そんなに大きいですか? これ病院のマスクなんですけど。」
「普通のマスクは、その半分ぐらいですよ。」
「そうなんだ・・・」
彼女はそのまま病室に同行して患者の体調を確認し、一旦ひきあげたが、しばらくしてからもう一度あらわれた。
「血圧を計りましょうね」
わたしの血圧も計ってほしかった。だはは・・・
- 2007/03/12(月) 23:47:44|
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いつもと同じ自宅と病院の往復。とくに変わったことはない。気晴らしはギターしかない。新しいギターを買ったのは大正解だった。ギターが手元になかったら、わたしはたぶん発狂していただろう。
結局、
フォークギターを鳥取にもっていき、
エレガットを奈良に残した。毎日スコアとにらめっこしながら、すでにずいぶんたくさんの曲が弾けるようになった。新しいコードもたくさん覚えたし、
関口祐二さんの編曲の癖もだいたい飲み込めてきた。前にも書いたように、エレガットにいちばんあう曲は「
ムーンライト・セレナーデ」で、グレン・ミラーがボサノバになるからおもしろい。難しそうで結構弾きやすいのが、ポール・デズモンドの名曲「テイク・ファイブ」。文字通り、5拍子の曲でやっかいだろうと思っていたのだが、案外単純だった。「遙かなる影」「ウィア・オール・アローン 」「スターダスト」「卒業写真」「見上げてごらん夜の星を」あたりは、ちょっと練習すればすぐに弾けるようになったけれども、コード進行はほんと勉強になる。ほかの曲に応用したくなるもの。
ところで、スローな曲なら簡単というわけではなくて、「虹の彼方へ」「星に願いを」あたりはなかなかの難物だ。とくに「虹の彼方へ」の出だしのコード進行にはひっくり帰ってしまった。ド→ド(1オクターブあがり)とメロディが変化するその2音に対応するコードはF#m7(-5)→B7(-9)なんだから。とても素人では考えつかないよね。ド→ドの変化を(-5)→(-9)で処理してるんだから。ビートルズとか
ニール・ヤングは、音楽の理論的な訓練を受けたわけでもないのに、とんでもないコード進行とメロディラインを考え出しているのだけれど、そのコードとメロディのずれが全体の和声をまたジャズっぽくしてしまうんだな。あれは天性のものだ。一方、
ジェイムズ・テイラーとか
ジョニ・ミッチェルはあきらかにジャズの影響を受けている(つまり基礎をある程度知っている)。コードを調べれば、それは一目瞭然。しかし、メロディ・ラインでは、前2者よりも劣っているとわたしは思う。とはいうものの、初期のジェイムズ・テイラーがわたしは大好きで、いま車中でいちばんよく聴いているのはかれのベスト・アルバム。あのギブソンのねちっこい音色はほんとたまらないね。「ウォーキング・マン」のころからギターが変わってがっくりした。「ウォーキング・マン」自体は非常にいい曲なんだが。
さきほど久しぶりに「ゆららの湯」に行って、くつろいできた。サウナでミスチルのTVライブをやっていて、しばらく我慢して聴いていたのだが、とても聴いていられなくなった。あんなメロディや和声や歌詞のどこがよいのか、さっぱりわからない。いくら売れているのか知らないけれども、もう少し音楽を勉強してもらいたいな。
これから本読み。例の
厚さ4.3㎝の本です。正直、うんざりだ・・・
- 2007/03/11(日) 23:58:10|
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昨夜、「明日はいっぱつ、さんぱつにでも行ってくるか」と告げて、病室を離れた。で、散髪に行った。
白髪がどさっと露出したので、一時帰宅し、少し染めてから、今日も病院に。
正直、今回の看病は1回めよりもはるかにきつい。昨年11月~12月の入院のときは病院通いを結構楽しんでいた。あのときは個室で、パソコンが自由に使えて(じつはたまに無線LANもつながった)、病室で次々と仕事を片づけていけた。家内も日に日に体調が好転していくので、それをみているだけで嬉しかった。今回はショックの連続だ。2回めの出血そのものが大ショックなのに、続けて3回めの出血があり、精神的な打撃を受け続けた。家内の体調もそう上向きにならない。出血量が多いから、思ったほど早く血液が脳に吸収されないし、右腕・右肩の痛みはとれない。病室は4人部屋で、おまけに最初の2週間は整形外科の病棟だった。わたし自身、体が重くて、病室で仕事をする気にならない。
それでも患者はえらいんですよ。夕食前に「リハビリする」と言って、足にギブスをつけ、リハビリ・シューズを履き、1階のロビーを急ぎ足で3周した。わたしは金魚の糞のように、彼女について歩いていたが、なかなかの運動になる。結構なスピードで歩くんだから。
というわけで、ネタが切れたので、
「楼観」講演の宣伝でもしましょうかね。同じタイトルで、
3回めの講演です。
・竹中大工道具館 平成19年度「技と心」セミナー 第25回 日時: 2007年5月19日(土)13:30~15:00
講師: 浅川 滋男(鳥取環境大学教授)
講演題目:
「楼観」再考-青谷上寺地遺跡のながい柱材をめぐって 会場:
竹中大工道具館 http://dougukan.jp 定員: 35名(要申し込み、参加費無料、但し入館料が必要)
申し込み先: 〒650-0004 神戸市中央区中山手通4-18-25
竹中大工道具館「技と心」セミナー係 ℡078-242-0216(5月4日〆切)
下の案内をみると、
竹中大工道具館では2ヶ月ごとにセミナーを開催しているようです。興味のある方は、5月以外のセミナーにもぜひご参加ください。

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- 2007/03/10(土) 23:29:56|
- 講演・研究会|
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昨夜、面会終了時間ぎりぎりで奈良の病院にすべりこんだのだが、患者は3階エレベータ前ラウンジの長椅子に座って、わたしを待っていた。病室は4人部屋なので、面会時間を過ぎてざわついてはいけないから、予め部屋の外に出ておいたらしい。
どこか元気がない。眠いのだという。前夜、午前3時に目が覚めて眠れなくなったから。目の下に隈ができている。で、わたしと娘に帰宅を促す。
帰途、娘の運転する車中で、心配になった。
「お母さん、変だね。元気がない・・・」
「うん」
「なんか
3度目の出血のときと似てないか?」
「うん、似てる」
「病院に戻ろうか?」
「いま帰っても、CTスキャンしてもらえるわけじゃないから、わからないよ」
「CTスキャンは明日だって言ってたよな?」
「うん」
「ヤな予感がするな・・・」
「病院に電話しておいたら?」
「そうしておこう」
とういうわけで、大衆食堂に入ったわたしたちは、その食堂からナース・ステーションに電話して、夜間は十分注意していただくようお願いした。
で、今日はCTスキャンの結果を聞かされた。
3度目の出血部分はすでに消えて、黒くなっていた。その10日以上前におこった
2度目の出血の量はやはり相当多かったようで、いまだその全体にぼやっとした影を残している。しかし、それは限りなく黒に近いグレーに変色してきているから、このまま順調に経過すれば、あと1週間か10日で発症以前の状態に戻るであろうとのこと。
とりあえず安堵した。ただし、右肩・右腕の痛みがとれない。これはもちろん右半身不随にともなう症状だが、じっくりリハビリと漢方薬で治していくしかない。

さて、昨日から妻木晩田を中心に時間が動き始めている。火災については、3枚の写真データが送られてきた。ここに転載しておこう。また、一人の若い技師から電話があった。以前、かれは妻木晩田の事務所で働いていたのだが、いまは別の現場で発掘調査をしている。かれは、いきなりわたしに謝罪した。
「すいません。
先生のブログを読んで、申し訳ないと思いました。あの修復をやったのはわたしです。」
「えっ、そうだったん・・・」
「農業用ポリフィルムが滑りやすくて、屋根の上のほうの土がずり落ちてきてしまうので、最初は上のほうからサシガヤしてたんですが、それでは足りなくなって、結局、土をある程度落として、上から茅を葺いたんです。」
「だから、そういう仕事をするときに一言声をかけてくれればアイデアを提供できたんだよ・・・」

まず農業用のポリフィルムという防水シートがよく滑るのは間違いない(いまわたしは
デュポンのハイテクシートを使っている)。それと、焼失した洞ノ原の第1号復原住居は、施工時に屋根勾配を間違えていて、設計図よりもはるかに急傾斜になっているから、さらに土が滑りやすい。こういう事情もあるので、若い技師の修復もやむを得ないところがあると思う。しかし、「仕方ない」で済まされないのも確かだ。なにぶん
2年連続の火災なのだから、「管理」業務体制の欠陥を指摘されても仕方ないだろう。
じつは、すでにそういうメールが届いている。メールの送信者は「危機管理意識の欠如」を強く訴え、怒っている。非常に強い口調で、事務所の体制を批判しているので驚いた(わたしは呆れてはいるが、怒ってはいない)。ネットで検索してみると、
日本海新聞と
毎日新聞で報道されている。これは結構な騒動になっているのだな、と心配になり、鳥取在住の某マスコミ関係者に電話してみたところ、
「世間的にはそう大きな騒ぎにはなっていませんが、まぁ、恥ずかしいでよね、2年連続なんだから」
とのコメント。たしかに、そのとおりだ。
こういう火災騒動をめぐる情報が飛び交う一方で、わたしは昨晩から今後の整備事業の進め方について思案していたのだが、あるアイデアが浮かんだので、ボールを投げてみた。ちょっとした綱渡りになるかもしれないが、今年度の加藤家修復プロジェクトだって、綱渡りの連続だったのだから、賭けてみる手はあるかもしれない。

いちばん上の写真をみてください。
今日の「倭文日誌」から転載したものですが、加藤家住宅主屋が再び姿をあらわしましたよ。鉄板屋根が立派だねぇ。ちょっと立派すぎて、軸部とのバランスが悪いぐらいだ。じつは、わたし個人は屋根下地面の防水処理をしっかりしておいて、古い屋根の錆びた鉄板をもういちど使いたかったのだけれど、反対意見が多く、まっさらの横一文字鈑金工事がおこなわれた。来年度はどうなることやら。
- 2007/03/09(金) 23:21:45|
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ごらんのとおり。2001年度、妻木晩田遺跡にはじめて復元した大型竪穴住居(洞ノ原地区8号住居跡)は無残な姿になり果てた。出火は3月7日の午後3時ころ。火災の原因は燻蒸の火が越屋根に着火し、それが屋根にひろがっていったのだという。
あたりまえのように聞こえるでしょう? ところが違うんです。
「土屋根は燃えない」
これが常識なんです。燻蒸の火の粉ぐらいで土屋根が燃えるはずはない。では、なぜこの屋根は燃え崩れてしまったのか?
それは、桁から上の土を屋根から剥いで、下地の茅葺き面を露出させてしまったからなのです。じつはこの住居、築後2年にして垂木に腐朽が目立つようになり、いちど修復している。その際、下地の茅葺き面の上から農業用のポリフィルムをぐるぐる巻きにして土を被せた。きわめて簡易ながら、いちおう防水処理を施したのである。ここまでわたしは修復過程をよく知っている。ところが昨年8月3日、ある変化に気がついた。
その日のブログを引用してみよう(一部要約)。
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復元建物のレベルにおいて、田和山は妻木晩田に大きく水をあけつつあるのだが、一方の妻木晩田といえば、送付されてきた第7回弥生文化シンポジウムのチラシをみて、また驚いた。わたしたちが懸命に作った復元住居を、勝手に修復し、土屋根の土部分をどんどん狭めていっているのである。ようするに土は周堤の近辺にしか残らないようにしているのだが、じつはこの部分にいちばん水が溜まることにかれらは気づいていない。しかも、おそらく土屋根部分の下地に十分な防水処理をしていないから、またおなじ修復を繰り返すことになるだろう。
こういう修復を、設計指導をしてきた研究者に断りもなく、独断でおこなっているのはなぜだろうか。自分たちで完璧な修復ができると思っているからだろうか。こういう修復を勝手にやって
「土屋根住居は困ったものだ」
という偏見を抱いているからこそ、遺跡上に建てるガイダンス施設や覆屋までコンクリートで作りたくなるわけだ。
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わかりますか、みなさん。桁から上の部分の土を剥ぐ第2次修復をわたしに断りもなくおこなった結果、こういう火災を招いているのですよ。桁から上の部分に土は載っていない。ただの草屋根です。この部分に着火したら、もうお終い。伝えきく情報によると、下側の土で覆われた部分は鎮火しにくいので、ユンボを入れて土を除去し消火したとのこと。研究者としては、なにもしないでもらいたかった。焼けるがままにしておいてくれれば、
御所野遺跡の焼却実験に次ぐ貴重なデータが得られたのだが、まぁ、それを消防署が許すはずはない。
火災から一夜あけて、わたしは北浜のコンサルに出向いた。そこでは、妻木晩田遺跡事務所のメンバー二人が待っていた。
「あれっ、二人もこっちに来てるの? そんな場合じゃないだろ?」
「いえ、こちらの基本設計も重要ですから・・・」
ピエールは妻木山Ⅰ区SI-23、Ⅲ区SI-125、同SI-126、Ⅳ区SI-153の4棟の竪穴住居模型(1/20)を完成させていた。なかなかよく出来ている。微細な修正を施せば、基本設計の成果物として納品することが十分可能なところまで辿り着いた。問題は、作図を手書きでやっていることだ。なぜMicro-GDSやVector Worksを使わないのか、不思議に思ったので上司に尋ねたところ、会社で使っているのはJW-CADだとのこと。いまどきJWだとか手書きだとか、冗談じゃありませんね。ピエールは堂々とMicro-GDSを使って図面を描き、それをデータ変換すればいい。研究室では、いつでもそうやってきたではないか。
これで復元建物の基本設計指導はなんとか片づけた。しかし、覆屋と中央ガイダンス施設はさっぱり駄目みたいだ。業者側は設計案を替えようとしない。替えなければどうなるのか。その案は消滅してしまうだけなんだ。たぶん、それでも良いのだろう。実現させる意欲もなく絵を描いて納品すれば仕事をこなしたことになる。しかし、そういう業者は二度と使われない。

↑妻木山Ⅲ区SI-125(8本主柱)
- 2007/03/08(木) 23:17:53|
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昨夜、病院に患者の外出届けを提出しておいた。今回の連続出血で、病院側も慎重になっており、なかなか「外泊」許可はおりないが、「外出」ならかまわない、ということで、さっそく夕食に連れ出すことにしたのである。昨晩、息子に「どこで食事しようか?」と訊ねたら、二つ返事で「東寿司」ときた。
息子本人が寿司を食べたいのは明々白々であるが、もちろん母親が息子の要望を拒否するはずはない。東京にいる長女をのぞく4名は、久しぶりに東寿司のカウンターで握りをつまんだ。
今日のお薦めに「ノレソレ」という訳のわからない魚の名前が書いてあって、聞けば「アナゴの稚魚」だという。これを軍艦にしてくれる。なんというか、ぬるっとした白魚って感じなんだが、なかなか喉ごしがよい。ほのかな甘みもある。なんでも、巻き網で引き上げられる際に「のったりそれたり」して生き残る強靱な生命力をもつことから、土佐方面で「ノレソレ」と呼ぶようになったらしい。画像がみたい方は、とりあえず検索エンジンをふかしてみてください。
寿司屋からいちど我が家に戻った。わたしは、またしてもメール処理に追われていたが、一同デブの帰還をまっていた。デブはなかなかあらわれなかった。娘がいちど裏口をあけて、デブを呼んでみたがやはり姿をみせない。消灯9時の時間も迫ってきたので、家内が立ち去ろうとしたところ、裏口で「ニャア~」ときた。
おかげさまで、デブは懐かしのおばちゃんと再会を果たしたのでありました。そして、わたしは患者を病室に送りとどけた。今日は昼間に新しい間物のパジャマを3着と身障者用のスリッパを2足買っていて、帰室後、新品に着替えさせた。緑のパジャマと水色のスリッパがうまくコーディネートされていて、よく似合う。

ところで今日は、各地から重大な情報がメールで送信されてきた。ひとつは、ガンマナイフのリスクについてだが、これは今のところ公表できない。手術を受けた患者もわたしも知らなかった重大な情報である。
もう一つは、2001年度に建設した妻木晩田初期整備第1号の復元住居(土屋根)が本日午後3時に焼失したという知らせである。書いてもよいかどうか迷っていたのだが、ブログのサーチワードに「妻木晩田 復元 住居 火災」という検索項目を確認できたので、すでにそうとう情報がひろまているのだろう。まだ、写真もみていないが、明日大阪のコンサルで
ピエールの進めている復原模型の検討をおこなうことになっており、詳細は妻木晩田遺跡事務所のスタッフから教えていただけるだろう。
じつは、昨年7月、ボランティアが自力建設した復元住居(茅葺)も火災にあっている。きな臭い匂いがしてきた・・・
- 2007/03/07(水) 23:45:42|
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佐治に帰ることになった家内の両親を見送るため庭にでると、薄紅色のボケが満開。母は写真に撮りたい、と言うのだが、持参のカメラがすぐにとりだせないので、わたしが代わりにパワーショットで撮影した。
IXYの兄貴分として発売されたごついデジカメである。
どこからか、鶯のさえずりも聞こえてくる。
小春日和というよりも、春そのものですね。
うちの庭にはふたつの守り神がいらっしゃる。ひとつは済州島からお連れしたトルハルバン。もうひとつは沖縄からもって帰ったシーサだ。シーサは狛犬だから一対になっているのだが、我が家の場合、一体は玄関ポーチの屋根の上、もう一体はポーチの下の門前に置いている。トルハルバンはボケの近くの築山の上でにこにこ顔。ふだんに増して、今日はごきげんにみえる。

ただ、わたし自身の体調が芳しくない。忙しすぎる日程をこなして、奈良まで帰ってきたが、また血圧があがっていて、よくないと思いながら、今日も
アダラートを飲んでしまった。というわけで、体が重いから、なかなか自宅を出る気にならなかった。病院に着くと、家内は3階のラウンジで一人テレビをみていた。
「あれっ、おばあちゃんたちは帰ったの?」
「うん、2時間ぐらい前に帰ったよ・・・」
どうやら、彼女はわたしを待ちくたびれたみたいだ。少し、彼女の症状を試してみた。
「君の長女の名前は?」
「クミコ」
「正解。ヨーコって言わなくなったね。では、君の息子の名前は?」
「・・・シュンペイ」
「正解。では、・・・」
「あのね、あなたのお母さんの名前がなかなか出てこないの。」
「おじいちゃん(わたしの父)は?」
「コータロー、じゃなくて、・・・イチタロウさん」
「そうそう、じゃ、イチタロウさんの奥さん(おばぁちゃん)は?」
「・・・、・・・・、・・・」
「タミコさんだよ」
「そうそうタミコさん、この名前が出てこないの」
「では、ぼくの兄キの名前は?」
「・・・」
「キヨシさんだよ、キヨシさんの奥さんは?」
「・・・」
「ルリさんだよ、じゃあ、もういちど聞くけど、わたしの母の名は?」
「・・・、・・・・、・・・」
2分ほど前に教えたわたしの母の名前がでてこない。2度めの出血をみる前は、こんなにひどくはなかった。とりあえず、夫の名前は覚えていてくれているから、まぁいいか。
今日は、ある旧友と電話で話をした。かれは高校時代の同級生で、同じ大学の医学部を卒業し、いまは解剖学の大家になっている。かれに妻の病状を打ち明けたら、非常に驚いて、大至急情報を集めてくれることになった。もちろん病院で携帯電話は使えないから、駐車場に停めている車の中で長時間話をした。そのあとコンビニまで週刊誌を買いにいった。

病室に戻って、患者と一緒にその週刊誌を読んでいた。じつは、一旦元締めに返した
厚さ4.3㎝の学術書が戻ってきていて、この本のレビューを書かなければならなくなってしまったのだが、とても読み直す気にならない。いまの体調では、とても無理だ。週刊誌か漫画が限界です。司馬遼太郎にこの分厚い本のデータを与えたら、どんなにわかりやすく書いてくれるだろうか、なんて思いながら、まだ箱から本を取り出してもいない。くりかえすけれども、ノー・ギャラで、くどいようだが、本はレビューの仕事が終わったら元締めに返さなきゃならない。で、勉強になるかと、言えば、ならないことはないけれども、なにより本を読んで感動できないのが残念なことだ。
だれしも、読んで良かったと思う本や、聞いてよかったと思う音楽や、訪れてよかったと思う場所に出会うことがまれにあるだろう。そういう本や音楽や場所は自分の気持ちを清浄にしてくれるから不思議だ。他人との競争心をあおるのではなく、日常の自分を振り出しにもどして、「いったい自分は何なんだ」と考え直す契機を与えてくれる。
学術書がそういう感動を与えてくれることは滅多にない。
夜の9時前になって、次女と息子が病院にやってきた。みんな母親が好きなので、なかなか帰ろうとしない。看護師さんが病室に入ってきて消灯時間を告げた。母親のほうから「早く帰りなさい」とたしなめられ、子どもたちはしぶしぶ病室をあとにした。
帰宅して、「豚肉と水菜のハリハリ鍋」を作った。昨日、河原町の「道の駅」で仕入れてきた水菜は一束100円。抜群に新鮮で、豚肉との相性は最高だ。
「早く、お母さんと鍋を囲みたいね・・・」
「うん」
「でも、今回は
外出・外泊許可はなかなか出ないよ」
「どうして?」
「だって、短期間で連続出血しただろ。病院も警戒してるよ。」
「・・・・」
「お母さん、可愛いね」
「うん、可愛い」
「うん」
すると、娘の膝でまどろんでいた
デブまでがテーブルに頭をのりだし、こっくり頷いた。
- 2007/03/04(日) 23:55:49|
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今日から二日間、環境大学では日本建築学会中国支部研究発表会が開催されているのだが、わたしは「看病」を理由に脱走し、数日ぶりに患者に再会した。お土産は田園町宿舎の近くにあるケーキ屋さんで仕入れた「わらび餅」と「スィート・ポテト」。あっさりした上品な味のデザートで、とても喜んでくれた。さて、先月27日に国立循環器病センターを訪問して、ガンマナイフの手術をした女医とサシで話し合ってきた内容を伝えたところ、患者は困ったような顔をした。なぜそうなのか、これを説明しようとすると非常に長くなるので、今日はやめておこう。やっぱりものすごく疲れていて、さきほど「ゆらら」で体をほぐしてきたところだ。とても長文を書く気にならない・・・
わたしの代わりに、といってはなんだが、「倭文日記」を受け継いだMr.エアポート(別名Y.O君)が学会のバイトとして奔走しているらしく、
今日の「倭文日誌」は久しぶりに居住者O君が担当している。本日のブログはこれを転載しておきたい。
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「倭文日誌」をご覧の皆様、居住者Oです。本日は、学生Y.O君が朝からバイトということもあり、居住者Oが代わりに本ブログを担当する運びになった。久しぶりに文章を書くので、不適切な部分もあるとは思うのだが、皆様の暖かい心で見守っていただけたら幸いである。
事前調査や図面作成などから始まった加藤家住宅修復プロジェクトは、本日の修復工事で一通りのめどが立ったことになる。以前の「倭文日誌」でも記載してあるように、施工を担当された池田住研さんは、本日で現場を離れることになった。だが、安心していただきたい。池田住研さんは再来週また来られて下屋の施工に取り掛かるという段取りになっていて、その時には感謝の気持ちを込めてロフトでパーティーを開こうかなと考えている。それはさておき、居住者Oは加藤家住宅がここまで立派に息を吹き返したことに関して、正直おどろいている。と同時に、とても感動している! これも全て、管理人さんや浅川先生、そして現場の職人さん、修復工事の補助作業をおこなった学生のおかげである。その成果は写真を見ていただくと一目瞭然だろう。軒付に応用した木羽も見事に収まり、茅葺き当初の厚みを継承できている。
来週は、ロフトの電気工事をおこなうために電気屋さんが来られるようだが、居住者Oは残念ながら鳥取を離れているため立ち会うことができない。他のメンバーに頼むしかないだろう。
最後になったのだが、長かった卒業研究も本日の展示会最終日をもって、無事に全工程を終えることができた。結果は、上位入賞である! これも、皆様のお力添えがあってこその結果だと思っているので、この場をお借りして感謝申し上げたい。「本当にいろいろお世話になりました。ありがとうございました。」なお、居住者Oの卒業研究を含め、上位入賞を果たした同ゼミ生の卒業研究を今月17日に倉吉にて発表することになったので、お時間のある方は足を運んでいただきたい。詳しい内容は
2日前のLablogを参照願いたい。
それでは、また来週から学生Y.O君がんばってください!

↑原寸模型は会場から搬出され「古材倉庫」に運びこまれた。↓ASALABの展示パネルは群を抜いた出来映えでした。高い評価を頂戴しました。
- 2007/03/03(土) 23:24:59|
- 研究室|
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