6月も終わる。今月は報告書の入稿のために奔走した。以下の3つの入稿をとりあえず終えた。
・6月8日(金) 『加藤家住宅の実験』入稿
・6月22日(金)
『出雲大社の建築考古学』入稿
・6月29日(金) 『尾崎家住宅-建造物調査報告書-』入稿
すべて金曜日なのがおもしろいでしょ。これはですね、3・4年生ゼミが金曜日の4・5限におこなわれるからです。入稿時間を夜の7時に設定していて、その時間までゼミ生一丸となってできる限りの準備をするんです。そんなもんが演習かいな、と訝しがられるかもしれませんが、報告書の編集ぐらい「勉強」になることはありませんよ。
前にも述べたように、編集や紙面デザインもできないんなら建築学科(もしくは環境デザイン学科)の卒業生だなんて言うな、というのがわたしの口癖です。
1ページのなかに、どれだけ文章をおさめて、どこにどの程度の大きさの図面を割り付けるのか。空白はどう使うのか。空白のままがよいのか、それともキャプションを入れてしまうのか。なにより1ページのフォーマットをどのように設定しておくのか。文字のポイントと行間・マージン、見出し類のサイズやフォントは適切か。版下となる写真や図面は整理されているのか。解像度に問題はないか・・・・たった1ページに「デザイン」のエッセンスが凝縮されているではありませんか。
報告書全体としてみれば、口絵(カラーグラビア)→巻頭言→目次→例言→本文→謝辞・参考文献→白黒図版・写真集→附録などがうまく構成・配列されているのか。余白部分を利用して、息抜きのコラムを挿入できるのか。表紙のデザインをどうするか、などすべての要素を「構造」的にとらえ、できる限り読みやすく、美しくみせようと努力する必要があるわけです。
建築をつくる工程と非常によく似ているでしょ。こういう編集作業に携わること、とくにチームワークとして携わることによって、学生は成長していくんです。もう一つの利点は、編集作業を通して「イン・デザイン」というソフトを習熟できること。「イン・デザイン」は卒論・卒計の際に非常に役にたちます。また、東京のデザイン事務所で働いている長女によると、「イン・デザインさえできれば、働けるところはいっぱいあるよ」とのことであります。
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- 2007/06/30(土) 23:54:03|
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梅雨独特の重い空気を身にまとい、わたしはひとり加藤家へと向かっていた。校正中の加藤家住宅報告書の差し替え写真を撮るついでに、午前中に発見された礎石を観察するためである。現在、加藤家住宅南側ではオモヤの修復工事とは別に、石垣・裏木戸の復原が進められている(以前も南側石垣の破損に関して調査がなされている←2005年10月3日ブログ参照)。
石垣、裏木戸の順に直していき、最終的に裏木戸に登録文化財プレートをはめ込む予定だ。石垣の石は近場でおこなわれている道路(トンネル)工事で廃棄された石を使用している。石積み職人のIさんは、直線の取りにくく形もバラバラな石を、長年の経験に基づく「勘(感)覚」だけできれいに積み上げていく。
「石積みはまぁパズルみたいなもんでね、楽しいんだよぉ。もう趣味だね、趣味!」
ここに仕事の理想型を見た気がする。
その職人さんがユンボで作業中、礎石らしきものを発見した。もしかしたら以前加藤家にあった裏木戸の痕跡かもしれない。下手に動かすよりは、きちんと調査をしたほうがよいという職人さんの判断により、発見当初のまま保存されていた。職人さんの予想では、裏木戸の幅は70~90cmで、柱の太さは10cm角ほどではないかとおっしゃっていた。わたしは、来週のゼミの時間に詳しく(発掘)調査をしたいと電話口の先生を交えて話をし、今日のところは大学に戻った。

↑石垣の新旧比較 ↓裏木戸の「礎石」発見!?

(追記) 加藤家の帰り道、いつも高速道路(姫鳥線)工事の現場を通る。いつもは何気なく通り過ぎるのだが、今日は少し違った。加藤家は昔の姿を取り戻しつつある。しかし一方で、周辺の景観は道路工事によりその姿を著しく変化させている。道路建設をやめろなどと声を荒げるつもりはないが、もう少し何とかならなかったのだろうか?
言葉にはできない違和感が体を駆け巡った。(チャック)
- 2007/06/29(金) 14:13:51|
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1班&2班の活動 今回のプロ研は、
先週に引き続き、本棚とパソコンデスクの修復と仏壇の制作作業をおこなった。今日は4時間くらい作業をしたけど、雨が降ったり晴れたりの変な天気だった。でも、皆ガンバっていたと思う。
本棚は、棚の間に縦板を入れて補強をした。ぼくが作業をしたパソコンデスクは前回切っていた板と角材にニスを塗ったあと、パソコンデスクのフレーム部にスプレーで色をつけた。仏壇は竹を割って側板を作っていた。本棚とパソコンデスクはもうまもなく完成しそうだったけど、仏壇はもう少しかかりそうな感じだった。
今日の作業はとても楽しかったです。来週も頑張りたい。あと来週からパネル作りと学内Web作りが始まります。(環境デザイン学科1年 O.K牧場)

↑本棚の補強 ↓仏壇に使う竹の加工
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- 2007/06/29(金) 00:16:59|
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また馬鹿なことを考え始めている・・・
4階ホワイエの壁に貼り付けてあるポスター類をなんとなく眺めていて、「環謝祭ON LIVE!」(環謝祭で演奏しよう!)というA4サイズのチラシを発見し、動揺した。
環謝祭とは本学の学祭のことで、今年は10月6日(土)・7日(日)に開催される。わたしはこれまで学祭などというものに興味をもったことはなく、何年か前にある教員が「ハーモニカ・ソロ」を演るという情報を得たときも、「何かの間違いか勘違いじゃないの?」と思ったぐらいであった。その「間違いか勘違い?」を自ら演じようという気持ちが高ぶってしまい、揺れているのです、わたしは・・・
なにぶん先日の
「六弦倶楽部」第2回練習会で、これまでの人生で経験したことがないほどアガッてしまった直後だけに、素直に「やめよう」と思えばよいものを、倉吉から参加したmifuさんの助言が頭を駆けめぐってしまって・・・
「もう場数ですよ、・・・場数を踏むしかありません。」
そして、チラシには「〆切6/29」と書いてある。わたしはあせって、学祭事務局にメールを送り、チラシの指示どおり、11講義室前ホワイトボードの応募用紙に必要事項を記入の上、応募ボックスに入れた。内容は「ソロ・アコーステッィクギターを数曲」。

環謝祭は本学の学祭なのだからホームそのもののようにみえて、じつは厳しいアウェーの戦場になることが予想される。今の学生たちの音楽的な嗜好性とわたしたちの世代の嗜好性は違いすぎる。わたしは一部の学生が演習室やクラブハウスで奏でる音楽を、しばしば「五月蠅い子供の音楽」だと思っていたし、逆に、オジサンたちの愛する音楽を学生たちが理解するのも難しいであろう(うちのゼミ生に限っていうと、70~80年代の音楽が好きだとか、チェンバロやチェロが好きだとか、結構趣味が一致しているけど)。こうしてみれば、
米子の「六弦倶楽部」は地理的にアウェーであるとはいえ、同じ時代を生きて同じ音楽を聴いてきた人たちの集まりであり、ホームに近い雰囲気をもっていますね(それでもアガッてしまったけど)。かえすがえすも、ありがたい限りです。
まだ正式に参加が許された訳ではないけれども、仮に学祭で演るとなれば、選曲にはそうとう神経を使わなければならないだろう。
ピエール・ベンスーザンとか
木村大ぐらいの技巧をもって演奏すれば、どんな聴衆でも魅了できるんだろうが、残念ながらそんな技術はありませんので、さて、どういう曲を弾くべきか。聴衆に迎合してみるか、唯我独尊でいくか、その折衷で納めるか、まことに難しいところであります。
- 2007/06/28(木) 03:49:42|
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安楽寺の本堂は、間口7間半(14.92m)×奥行7間(梁行14.22m)の入母屋造桟瓦葺で、向拝1間。典型的な中規模の真宗本堂であり、前1間通りを広縁、中3間通りを外陣、後2間半通りを内陣とする。側まわりと外陣前面は角柱、内陣まわりと外陣内の独立柱2本は円柱である。外陣前面の角柱に几帳面を取り、堂内の柱上組物を支輪付きの二手先として、格天井を張り、欄間などの細工に凝る。内陣の二手先組は壁付きの巻斗からも手先肘木を出しているのが異様である。向拝繋虹梁の彫刻には目を奪われる。

棟札写には文化2年(1805)の上棟とあり、大工は伊藤藤兵衛則宗、作右衛門、和助、徳右衛門、新蔵等10名とされる。一方、寺蔵文書「寺内書上扣」(安政2年/1855)によると、享和2年(1802)3月から文化7年(1810)6月まで本堂「立替」とある。さらに、内外陣境には文化11年(1814)の墨書銘がある。なお、本堂の須弥檀並びに厨子は当初西本願寺様式であったが、昭和10年檀家信徒の喜捨(その当時時価千数百円)によって東本願寺様式に改め、建築と須弥檀・厨子の様式的統一をはかった。

鐘楼は一間四方の宝形造桟瓦葺。大石を用いた間知石積[けんち石=四角錐状に加工された石]の基壇に礎盤を据え、内転びのきつい円柱を立てる。装飾性の高い頭貫を支える肘木を一木にして左右の柱間を繋ぐ通肘木とする。頭貫の上には台輪ものり柱頭部分は三重の横材で堅固にかためている。中備には蟇股を用いて詰組にはしていないが、礎盤・台輪・全面扇垂木など禅宗様の要素を強調している。棟札写によれば、上棟は本堂と同年である。

山門は一間一戸の四脚門。屋根は切妻造桟瓦葺。控柱(円柱)を礎盤に立てる。このほか台輪、三斗組の詰組、妻飾の虹梁大瓶束など、やはり禅宗様系の意匠を強調する。ただ、大斗には皿斗を造出しており、大仏様の意匠もわずかに取り入れている。棟札写によると、上棟は安政7年(1860)であり、本堂・鐘楼の意匠を継承しながらも、意匠はいっそう派手になり、幕末期の特徴をよく示している。

伝承によれば、七代清右衛門(文五郎)は安楽寺再建の偉功を少しも誇らず、子孫もまた旧功を誇るようなことがあってはならぬとして、自宅に住職・寺総代・大工棟梁を招き、一同の面前で工事関係書類一切を焼却しつくしたという。ところが、当時の大工棟梁文蔵の玄孫(文蔵-大吉-喜蔵-信蔵)にあたる信蔵方に控え書類の一部が残っていたため、この一連の作事が文久2年(1862)の真宗開山600年遠忌をめざしたものであることがあきらかになった。また、家伝によれば、尾崎家六代覚右衛門(1787年没)が安楽寺の創建を企図し始め、七代に至ってそれを実現したという。
真宗開山600年遠忌をめざした境内の再整備は享和年間に始まり、文化年間に本堂・鐘楼などの主要堂宇が完成したものの、伽藍の正面にたつ山門は七代の死後、安政7年に至ってようやく竣工した。
それは、真宗開山600年遠忌の2年前のことであった。
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- 2007/06/27(水) 00:35:50|
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湯梨浜町宇野の尾崎家住宅に対面する青柳山安楽寺は、真宗大谷派(東本願寺派)の寺院だが、もとは一ノ宮神宮寺千二百石配下の天台宗の一院であった。本尊は薬師如来。16世紀後半まで宇野の後方丘陵南麓、僧ヶ谷に一堂宇を構えて「正来院」と号していた。正来院の堂宇は大永~天正の兵乱により焼失し、天正9年(1581)ころ僧ヶ谷より越えて字宮ノ前附近の鞍部に移設された。
承応2年(1652)、第二代恵日は真宗大谷派に改宗し、正来院を青柳山安楽寺と改号した。その後、今の本尾崎の地に伽藍が移された。尾崎家はすでに宇野の豪農兼船主となっており、地元の有力者として安楽寺の移転にも大きな影響力をもったであろう。現在の境内に尾崎家墓地が特別扱いで配置されていることが、それを雄弁に物語っている。

さて、以前にも紹介したが、尾崎家の家伝書には、3代清右衛門の代[1647-1697]に字「蔵屋敷」という地に「石居=礎(いしずえ)」の屋敷を建てたために、近郷から多数の見物客が訪れたという記載がある。下って5代清右衛門の代[1745-1772]には、家督が増して家が繁盛したので、蔵を建て加えるたびにかつての「蔵屋敷」の敷地は狭くなったため、子孫は今の屋敷地に本宅(オモヤ)、御仏間(ブツマ)、蔵を数棟、門、長屋などを残らず新しく普請した、という記録も残っている。現在、「蔵屋敷」という字は存在しないが、尾崎家に対面する安楽寺の一帯が「本尾崎」と総称されである点はまことに示唆的ではないか。『羽合町史』は現位置への移転を真宗改宗時の承応とみる記載とともに、浅津の香宝寺が「宝暦年間」に独立して、乗蓮寺・安楽寺・法林寺・真光寺となったという」との説を紹介している。宝暦年間といえば、18世紀の中期にあたり、尾崎家の移転新築と時を同じくしている。
ここで憶測を逞しくしておこう。安楽寺の敷地は「蔵屋敷」の有力な候補の一つといえるのではないか。安楽寺の敷地にあった古い尾崎家の屋敷が手狭になったので、対面のひろい敷地に宅居を遷し、旧宅地には庄屋としての地位と財力を誇示するかのように、宮ノ前にあった檀那寺を移設したという筋書きが想定できるのではないだろうか。この場合、安楽寺の改宗と再移築年代がずれることになる。

安楽寺は七代清右衛門(幼名文五郎、1846年没)が主要な堂宇を再建したものである。境内には赤瓦に覆われた山門・鐘楼・経蔵・本堂・庫俚などの諸建築が軒を連ねる。本堂・鐘楼・山門は文化年間以降幕末期の再建にかかる総ケヤキ造の建物。七代は幾度も大工棟梁を東本願寺などに派遣して視察させ、その様式をとりいれて本堂等を建築させたと言われる。また、木材・石材の調達、敷地の提供から工賃に至るまで、途方もない額を費やしている。『羽合町史』は、「本堂内部の扉・障子・欄間・格天井の構造や彫刻は堅実雄勁にして、欄間の彫刻は桃山工芸を思わしめる趣きがある。門扉の牡丹・獅子・岩・滝の配合刀法は、信州諏訪神社の彫刻をするため明朝風を練ったという立川流の図案と刀法に相通ずるものがある。本堂外陣の広さと格天井の高さと均衡もよくとれており、外陣の古色つややかさと内陣の金色に輝く荘厳美との対照もおちつきがある」と安楽寺建築の芸術性を絶賛している。また、本堂前の鐘楼基檀の石垣、尾崎家墓地の巨大な碑柱・石玉垣の技巧はすべて七代のときの作であるともいう。
- 2007/06/26(火) 23:54:18|
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自分はアガったりしない、と思っていた。
「古民家の匠」の会では数十人の前で演奏したけれども平気だったし、最近は教授室に
リファーレンモデル¥500を隠していて、学生や親しいお客様がやってくれば拉致し、「ちょっと1曲聴いてって!」と強引に練習曲を聴かせていた。そして、先週末の加藤家欄間障子張り作業の後には、
手羽先を焼くという口実のもとに、学生やN社長の前でリハーサルをしたのである。本番前夜も、大きな鏡に自分の演奏する姿を映しながら、繰り返し予定の3曲を弾き続けた。
それが、それが・・・
六弦倶楽部(むげんクラブ)の
第2回練習会が開催された。
米子駅前の「夢」という小さな喫茶店が会場で、10組参加した。たぶん総勢15名ぐらい。店内満席状態である。最初にクジをひいた。わたしの札には「6」と書かれていた。6番目。なかなか良い順番である。倉吉から参加されたmifuさんがトップバッター。いきなり変則チューニングの曲で始まり、「この会、レベル高いんだ」と感じながら演奏を聴いていた。
そのころはまだ平然としていた。バーボンソーダを注文して、しばらくすると尿意をもよおし、近くの公衆トイレに足を運んだ。席に戻り、バーボンソーダのお代わり。すると、またしばらくしてトイレに。結局3度トイレに通い(註:いずれも小)、バーボンソーダを3杯お代わりした。5人目が終わって、「わたしの番ですね?」と訊ねると、「いちど休憩しましょう」とのこと。このあたりから心臓はバッコンバッコンの動機を開始。重たいギターケースから、とっても軽いモーリスS92を取り出して、マイクの前の高い椅子に坐った。

考えてみれば、こういうPA完備の会場で演奏するのは30数年ぶりのことだ。
「えらい、アガってます。どうしよ!? だめだ、こりゃ・・・」とこぼすと、
「ちょっとリハーサルで『
生活の柄』でもやってみられたら、落ち着くんじゃないですか?」とチョトロクさん。
お言葉に甘え、「生活の柄」を歌ってみた。声が震えている。で、2~3人前にエレガットでモンクの「ラウンド・ミッドナイト」を演奏した方がいらっしゃったので、「別バージョンでやってみます」と言って試し弾きしたら、全然指が動かない・・・まるで、自分の腕や指ではないように感じられた。
演奏スタート。今回の選曲は「星に願いを」「自転車に乗って」「貝殻節」の3曲。以下、とりあえず、解説しておきます。
[「六弦倶楽部」第2回練習会]の続きを読む
- 2007/06/25(月) 21:35:02|
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金曜日の朝は、ひどい雨と風の天気でした。しゃんしゃん傘踊りの練習のため、朝早くから大学に行った私はずぶぬれになりました。しかし、土曜日は前日の悪夢とは一転して、とても良いお天気。絶好のお出かけ日和ですね。
そんななか、鳥取県立図書館で鳥取いなばライオンズクラブ主催「鳥取環境大学生による研究成果発表会」が14時から2時間行われました。学生4名がそれぞれの研究の成果を発表する、というものでしたが、その中に我らが浅川研究室の岡垣くんがいました。と、いう訳で今日はその発表を聞きに、県立図書館に行ってきました。
4名の学生のうち、岡垣くんは3番目の発表です。多くの聴衆が集まり、私だったら怖気づいてしまいそうな雰囲気の中、岡垣くんは堂々と発表を始めました。彼の発表テーマは「ローコストによる古民家修復 -加藤家住宅の実験-」です。加藤家について、学生が調査をしたことや修復をどう進めていったかなど、様々な写真や図面を用いて発表していきました。ちょっとしたユーモアも交えながら発表はどんどん進み、あっという間に20分の発表時間は過ぎました。終った後の感想として、ちょっとスライドの表示時間が短いものがあったなぁとか、早口だったなぁとか、そのくらいしか思っていませんでした。
ところが、発表後の質疑応答の時間中に、浅川先生から
「今日の発表はひどかったですね、あとでみっちり説教しときますから」
という衝撃のコメントが発せられました。

発表会後、米子に出張する先生を見送るため鳥取駅に行き、いつもの「
服部珈琲」で反省会をしました。そこで先生はピザを食べ、コーヒーを飲みながら、発表資料を叩き台に一つずつ問題点を指摘されていきました。それらの指摘の中で一番私の印象に残ったのは、聴衆が誰だったかということです。岡垣くんは多くの図面を提示しながら発表していました。そして、私も何気なくそれらを見ていました。しかし、今日の対象は一般の方々。図面(とくに伏図)を見ても分からないだろう、と言われました。また、建築や保存修復を学ぶものにとっては当たり前の用語も、一般聴衆には通用しない、とも言われました。これには彼も反省していました。この指摘は、岡垣くんが先生より言われていたことですが、彼の発表を聞いていて何の疑問を持たなかった私も、彼と同じように指摘されているようでした。自分が当たり前だと思っていることが、相手にとって当たり前だとは限らない、ということを彼も私も改めて確認させられました。(部長)

↑P3で「アトリエを作ろう」プロジェクトに取り組んでいる向井くんも「ビーチコーミング」について発表した。昨年度P2の成果。清々しい好演でした。
[いなばライオンズクラブ主催「学生研究成果発表会」]の続きを読む
- 2007/06/24(日) 01:20:40|
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昨日、加藤家住宅に着いたとき、すでに障子貼りは終わっていた。座敷と庭はほぼ完全に本来の良好な関係を取り戻したではないか。
みんなが作業しているなら自ら買い出しに行くつもりだったのだが、作業は終わっていたので、買い出しはMr.エアポートにお願いした。久しぶりにイロリで手羽先を焼くことになっていたからである。手羽先が届くまでのあいだ、まず4年生の「卒業研究アンケート」を集めて、今期はじめて卒業研究計画をヒアリングし構想を練った。驚いたのは、書と画の達人はるのさんが「制作」ではなく「論文」を選択し、しかもベトナム調査に関心を示したことである。他の3名は、いずれも「知の財産」事業(すなわち「弥生建築の実証的復元研究」)を1位指名した。これから、具体的な内容をさらに煮詰めていかなければならない。
その後、3つの報告書の進捗状況をチェックしているところに、手羽先が届いた。もちろんシェフはチャックである。味付けは塩胡椒だけなんだが、イロリの炭火で焼くと手羽先は極上の味になる。骨付きの肉というのは、ほんとうに美味いものだ・・・などと舌鼓を打っているところに、F印刷の社長から電話がかかってきた。金曜の夕方に校正の約束をしていて、じつは前夜わたしのほうからメールを入れておいたのだけれども、返事がなかったので、大学に戻らなかったのだが、社長は約束通り大学にゲラを持っていっておられたので、まことに恐縮ながら、加藤家までまわっていただいた。

で、社長にはリハまで聴いていただいた。なんのリハかって秘密ですけどね、・・・わたしは3つの曲を学生と社長に披露した。順番に言うと、
1)技巧的な曲だが、技巧的に聞こえないように細工している曲
2)とても懐かしくて楽しい曲(技巧的にはそれほど難しくないが、キーをどこにもってくるかで微妙に印象が変わる)
3)かなり研究を重ねた曲
たぶん、3)→2)→1)の順で評価が高かったんじゃないかな。人前で演奏することに、まずは慣れないとね。アルコールの分量も多すぎず、少なすぎずというところでしょうかね・・・
[手羽を焼く]の続きを読む
- 2007/06/23(土) 23:58:23|
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本日の3・4年ゼミ(プロ研5&7)では、加藤家表座敷の縁側にある破れてしまった欄間の障子の張り替えをおこなうため、第1陣と第2陣に分かれて加藤家へ行きました。第1陣は総勢4名。しかし、その中で障子張り経験者はたったの1名だったので、管理人のKさんに教えてもらいながら、いざチャレンジ!

まず、古くてびりびりに破れた障子紙を全部洗い取りました。全体を濡らしてから、雑巾で擦り取るのがコツのようです。その洗う作業をとまとさんと書記の2人が行っている間に、部長はKさんに教えてもらいながら、障子張りに初挑戦!
(ちなみにその間Mr.エアポートさんは記録用に私たちの作業風景の写真をバシバシ撮ってました。)
最初は枠に合わせて紙の長さを決め、印をつけて紙を切りました。このとき、包丁を使って紙を切るというスゴ技が伝授されました。Kさんによると、その包丁は紙を切るためだけに使っているそうです!
次は、枠に糊付けです。イメージではハケで塗るものだと思っていましたが、今日は障子用のスティックのりでした。しかも、幅が一定になるようにガイドがついていました。近代的で初心者に優しい設計ですね。

そして、緊張の一瞬・・・枠に障子紙を張り付けます。紙の表が下になるよう両端を持ち、上端の両隅を狙って紙を置きます。そして、上端の中心から隅へ、上から下へ、下端の中心から隅へと順番に紙を押さえていき、しわも綺麗に伸ばしました。出来たものを表から見てみると、あら!障子になってる!!
そんな作業を半分以上済ませた頃に、第2陣が到着。しかし、予想以上に早くできたため、第1陣だけで完成させちゃいました。そして、全ての障子を張り、元の縁側の上の欄間にはめ込みました。いやー、白く輝く障子紙が復活した縁側は最高ですね!・・・と、いうわけで今日は貴重な体験と貴重な技を頂きました。(by部長&書記)
[欄間障子の張り替え]の続きを読む
- 2007/06/22(金) 23:06:35|
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1・2班はしばらくお休みしていた二人が復活して、メンバー勢揃い。全員で屋外作業に移りました。結構、楽しそうです。一方、3・4班は加藤家にあり余っている建具をリサイクルするため、O家住宅まで実測に。いよいよ前期プロジェクトも佳境に入ってきましたね!
楽しかったけど、休憩もほしいなぁ~~~ 今回から実際に家具の修復と製作の作業にはいった。私たちのグループは最初に取り掛かったのがパソコンデスクと本棚の修復。コストをかけたくなかったので、おもに加藤家の修理工事ででた廃材を使うことにした。廃材には傷みがきていたため、まず材をかんなで削る作業からはじっまった。私としては、今まではほとんどが話し合いや発表といったことしかやっていなっかたので、こういった外での作業はとても楽しかった。来週からは仏壇を作る作業なども入ってくるのでたのしみだ。しかし、三時間も作業をするというのは疲れるので、途中に休憩がほしいなぁ~~~~~~~~~。(環境デザイン学科1年 $$)

↑鉋がけ ↓加藤家
欄間の組子制作(今日から彫刻刀を採用!)
研究発表まであと3回!今回、久しぶりに復活したものです。気が付けばもう、あと3回で研究発表なんですね。今回は、本棚の補強をする木材を、寸法に合わせて切り、かんながけをしました。そして、次回は、ペンキで色を塗っていきます。汚れてもいい服で行かないと、えらい目に会いそう。(環境政策学科2年 H・I)
[家具の修復作業スタート!]の続きを読む
- 2007/06/21(木) 23:15:00|
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昨年11月に制作した青谷上寺地の
「楼観」復元CGは、おかげさまで好評を博しており、すでに多くの機関・組織等から借用願いが届いている。いろんなところで使っていただくのは、大変光栄なことであり、とても嬉しく思っている。
先週末のことになるが、県教委に戻ってきたT君を介して、「青谷元唄貝がら節保存会」(仮称)の代表から「楼観CG」を使わせてほしいという依頼が届いた。保存会の意向は以下の通りである。
・自分たちは“元唄貝がら節”の唄・踊りを練習し、イベント等に参加して踊り、
聞いてもらっている。
・自分たちで作詞した貝がら節の歌詞(2番)には地元の誇りとして
青谷上寺地遺跡の事を入れている。
・イベント等で踊る際には模造紙に歌詞を書き、その下に歌詞をイメージした
写真を貼ってPRしたいが、それにぜひ「楼観CG」の写真を使わせてほしい。
もちろん即承諾した。というか、・・・大歓迎でして、あまりのジャスト・タイミングに我ながら驚き、以下のように厚かましい返答をした。
「代わりにお願いがあります。貝殻節のメロディと伴奏譜のついた
楽譜・歌詞・CD一式頂戴できませんかね?」
じつは、
ペンタトニックの民謡や民族音楽にふさわしい伴奏方法について考えている真っ最中だったのである。漠然とではあるが、以下のように予感していた。まず「コード」という概念で対応しては駄目。したがって、レギュラー・チューニングはふさわしくない。また、ブルースで常用するオープンDとかオープンGのメジャー系チューニングもあわない。結局、ペンタトニックに馴染むのは、ペンタの五音だけで構成される変則チューニングしかない・・・??
T君はわたしの依頼を保存会の代表に伝えてくれた。これが、代表の「ハートに火をつけてしまった」ようで、電話で30分以上今日までの苦労話をされたらしい。そして、驚いたことに、その後代表は県庁まで資料をもってこられたのである。
「譜面はないけれど歌詞とテープをどうぞ」
と資料一式をご提供くださり、それが週明けに大学に届いていた。いや、感謝感激です!!
資料のなかでダントツおもしろかったのは、例の囃子(ハヤシ)の部分。意味不明の囃子に独特の漢字を宛てている。
漁師村(ヤンサ) 豊栄哉(ホーエーヤ)
豊栄哉(ホーエーヤ)栄栄(エーエ)弥栄(イヤサカ)サッサ
漁師村乃(ヤンサノ)栄栄(エーエ)弥栄(イヤサカ)サッサ
この解説を読むと、さらにドキリとする。
元唄の囃子は 貝がら漁に対する「歓喜」と「期待」が縄文言葉で表現されております。 「縄文言葉」はだれも知らない。ひょっとしたら、アイヌ語の原型なのかもしれないが、それも分からない。ただし、おそらく渡来系の「弥生言葉」と土着系の「縄文言葉」は系統の異なるものであった可能性が高いであろう。
それはさておき、2日前に述べたように、ペンタトニックの民謡・民族音楽は東アジアにひろく拡散しており、その一方で現代日本の演歌や歌謡曲にも残影を鮮明に刻みこんでいる。ペンタの淵源が相当古いのは間違いないであろう。ただちに頭に浮かぶのは、魏志倭人伝に記された「倭の水人」のこと。「倭の水人」はアマ(海女・海士)の祖先であり、かれらは魚類だけでなく、貝類や海草類の捕採を主要な生業にしていた。だから、貝がら節が弥生時代の海民(水人)に歌われていたとしていても、わたしは驚かない。潜水漁労に勤しむ海民は東アジアから東南アジアにかけての沿海域にひろく分布している。古代から近代に至るまで、かれらの活動範囲は「国家」という枠組をはるかに超えていた。その活動範囲や淵源が意味不明の囃子に映し出されているとしたら・・??
そういえば、今日の「地域生活文化論」講義では、「舟に住む」というテーマでこういう話をするんだった。
そろそろ眠らなきゃ、寝過ごして授業に遅刻してしまうじゃないか。
- 2007/06/21(木) 04:24:53|
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ブログへの掲載が遅れましたが、鳥取県教育委員会から表記の報告書が刊行されました。
「鳥取県の近代和風建築調査」には懐かしい想い出があります。この調査は2003~2005年度におこなわれたものでして、うちの研究室は2004年度の秋から冬にかけて1期生(4年)と2期生(3年)が総出で調査を支援したのでした。いちばん心配だったのは、兵庫県赤松地方出身のマッツンという1期生が調査に参加したときであります。マッツンが出来るとしたら、せいぜい写真撮影の補助ぐらいだろうと思っていたのですが、同行した津村さん(1期生女子)に聞いたところ、なんと実測を仰せつかったというから、いったいマッツンがどんな図面を描いたのかと2~3日落ち着きませんでしたね。
調査を担当したのは、わたしの後輩にあたる奈良文化財研究所の建造物担当技師さんたち。まぁ、この世界のエリートですわね。かれらには、鳥取環境大学の学生レベルがたぶん理解できなかったんでしょうね。うちのゼミは本学でもかなり出来の良い学生たちが集中してきたほうだと思うんですが、なかにはね、・・・いやこれ以上の発言は控えましょう。

調査は最初の2年、県庁のハマダバダ2号くん(現在は異動して別の部局に在籍)がマネージしていましたが、建造物担当として新規採用されたホテル松本さんにバトンタッチされ、報告書も彼女と奈文研の西田さんが共同で編集されました。お疲れさまでした!
編集者は麗しき女性2名でありましたが、わたしは鼻の下をのばすこともなく、指導は相変わらず厳しかったんですよ。最初はいっさい口を挟まないつもりでいたんですが、ハマダバダ2号くんが三顧の礼でわたしに助言を求めてきたので、最初の目次案をめたくたに批評したら、結局わたしのアイデアがほとんど採用されることになってしまいました。
わたしは「編集」という仕事には、とくにうるさくてね。「編集」ほど楽しい仕事はない。研究者たるもの、原稿の執筆はもちろんのこと、編集の技能を身につけなきゃ話にならない。と思っているのですよ。紙面デザインもまともにできないんなら、建築学科(あるいは環境デザイン学科)を卒業したなんて公言するんじゃないよ!

さて、今回の報告書は350ページを超える大著です。じつにたくさんの方々が執筆してくださいました。奈良の研究所と地元関係者の執筆分担もバランスがよいし、なかなかの力作だと思います。ただ、敢えて苦言を呈しておくと、2段組のフォーマットが原始的すぎるね。どう修正したらよいのか? 答えはそこいらの出版物にいくらでも潜んでいますから、プロの2段組と自分たちの2段組がどう違うのか、編集者自ら考えてみてくださいな。
目次は上に示すとおりですが、うちの研究室が執筆に関わったのは以下の2ヶ所です。
5-1 歴史的建造物のデジタルマッピング -その方法と意義(浅川・岡野)
5-3 文化財建造物保全の方途と課題(松本・浅川)
この報告書に収録された多くの建造物から、1棟でも多くの指定文化財・登録文化財が生まれることを願ってやみません。
- 2007/06/20(水) 02:08:48|
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レギュラー・チューニング(EADGBE)すらまともに演奏できないのに、変則チューニングまでかじってどうすんだって。われながら、そう思うのではあるが、クラシックやアコースティックのギタリストはこれを相当学んでいますね。たとえば
『カデンツア17』に寄せたアンドリュー・ヨークのメッセージを読むと、木村大は「サンバースト」の続編となる曲をヨークに依頼し、ヨークは同じチューニング(Double Drop-D)で「ムーンタン」を書いた、と記している。
なぜレギュラー以外のチューニングを使うのか。その理由は何なのか?
先々週購入した
『実践 オープンチューニング事典』は、以下のチューニングを分類掲載している。
1.オープンG系チューニング Open-G/Open-Gm/Open-G7
2.オープンD系チューニング Open-D/Open-Dm/Open-DM7/Drop-D/DADGAD/Double Drop-D
3.オルタネイト・チューニング EAEGBC/EADGBC/CGCGCD/CFCFGC/CGDGAD
4.スラッキーギター・チューニング(略)
5.その他のチューニング(略)
6.民族楽器チューニング(略)
もっとも簡単な変則チューニングは、いわゆるドロップD(DADGBE)で、6弦だけEからDに下げる。DキーだけでなくAキーの曲でもよく使いますね。ルート音に低いDが使えるんだから便利だし、高い位置で4~6弦を弾いている場合、通常は指の届かない6弦のGが5フレット、Fは3フレットまであがってくるので、弾きやすくなる。
次によく使うのが、オープンD(DADF♯AD)とオープンG(DGDGBD)。これはフォーク・ブルースの常用チューニングで、とくに
ボトルネック・ギターはこのどちらかで弾くのが一般的。あらゆるオープンチューニングは開放弦がドミナント・コードなんだから、あきらかに利点がありますよね。
おそらくいまいちばん使われている変則チューニングは「Dモーダル」ではないか。オープンDの3弦をF♯から半音あげてGにすると、音の並びはDADGADとなる。愛称「ダドガッド」。前掲の事典によれば、1960年代にデイビー・グラハムが発明し、それ以降マイケル・ヘッジス、ジミー・ペイジらに愛用されてきた。現在、この使い手として最も有名かつ技巧的なギタリストはピエール・ベンスーザンであろう。
DADGADは開放弦でDsus4の響きがあり、それだけで十分幻想的(上記3のオルタネイト・チューニングもこれに近い音色らしい)。おまけに開放弦からF♯を排除しているため、Dメジャー・キーにもDマイナー・キーにも対応可能。いちど試してみればよくわかるが、3~5弦はレギュラー・チューニングと同じなので、オープンDとレギュラーの複合チューニングであるとも言える。だから結構使いやすい。
ところで、わたしは『実践 オープンチューニング事典』に掲載されていない変則チューニングをひとつ知っている。それはDADDAD。音読すれば「ダドダッド」か。こちらは3弦のF♯をDに下げて、DとAだけで開放弦を構成する。
なぜ、このチューニングを知っているのかというと、
CSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)のリーダー格であったステファン・スティルスが「4+20」(24歳)という曲で使っていたから。タブ譜をみると、じつに単純な運指なんだが、ソロの弾き語りに使われたオープンD系のチューニングはとても新鮮に聞こえた。単純な運指で、複雑な和声を表現できるところが変則チューニングを使う最大の魅力かもしれない。
DADDADのようなチューニングは、ペンタトニックの曲にもよく合う。ペンタトニックってわかりませんかね。ド、レ、ミ、ソ、ラの5つの音だけで構成されるスケール(音階)のことです。言い換えると、ファとシが抜けているわけでして、東アジアの民族音楽はたいていこの音階を使っています(沖縄ではド、ミ、ファ、ソ、シでレとラを抜く)。日本の民謡や演歌、あるいはピンクレディやアムロやハマサキアユミのヒット曲もじつはペンタのマイナースケールなんですね。
とくにペンタの民族音楽をギターで表現しようとする場合、西洋型の3声のコードは必要ないとわたしは思っています。ド、レ、ミ、ソ、ラのうちの2音でコードを弾けば十分。三味線やサンシンのように、メロディと対位する単音フレーズで弾き語りするのがいちばんかもしれませんね。DADGADもペンタの曲に使えます。こちらは、開放弦が不協和音になっているから、民族音楽に幻想的な彩りが添えられます。
- 2007/06/19(火) 02:30:06|
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散髪屋のソファで、週間ポストのグラビアをめくっていたら、「蒲池幸子」というモデルさんのセミヌード写真に出くわした。清楚ながら、きわどい写真が少なくない。よく読むと、その女性は「坂井泉水」という別名をもっていた。24歳のとき、本名から芸名に変えたのだという。先月亡くなったザードの坂井泉水さんである。
坂井泉水さんが、元モデルの蒲池幸子さんと同一人物であることをわたしは初めて知った。これは世間の常識らしく、家内もそのことを知っていた(わたしは両者とも認識外)。モデル時代の全盛期は1989~1990年ころ。東映カラオケクイーンやJASキャンペーンガールを務めながら、かなり(というか相当!)露出度の高い写真集やビデオをいくつも出している。ネットで検索する限り、このころの坂井さんは悪ガキどものペットとして異常な人気を誇っていたようだ。いま、その人気がまたブレイクしていて、モデル時代のセクシー本はとんでもない値段に跳ね上がっている。たとえば『NOCTURNE』という写真集は、アマゾンで17万円なり!

「坂井泉水が病院の階段から落ちて死亡」というニュースを聞いても、誰のことやらさっぱり分からず、その顔写真を見て、「秋本奈緒美に似てるね」と感想を漏らしたところ、家内は、
「坂井さんのほうが綺麗だよ」
と答えた。そして、不思議なことに、とくに接点が多かったわけでもないのにザードのCDが欲しいと言うのである(なぜ欲しいのか、患者はうまく説明できない)。
ともかく家内がCDを買いたがること自体めずらしいので、先週ネットで中古のベストアルバムを注文しておいた。それが届いていて、さっきまで二人で聴いていたのだが、わたしは3曲ぐらいでギブアップ。わたし、パスです、これ。映像つきなら、もう少し辛抱できたかもしれないが・・・、勘弁して!
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- 2007/06/18(月) 01:58:52|
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悲喜こもごも、デザイン学科展示 勝手に密命を受け、潜入してきた。なんとなくスパイな気分。
開店当初はまばらだったお客さんも、天候に恵まれたせいか昼前までにはけっこうな数になっていた。この時期にしては多いらしい(入試広報課談)。特にイベントを見ていないので盛況ぶりはつかめないが、とにかく受付はにぎわっていた。
さて、話は我らが環境デザイン学科にうつる。
前日まででけっこうな準備時間を要したAsalab活動公開。
昨日の写真を見ていただくとわかるように、加藤家の屋根とベトナム調査に関してのパネル4枚+模型2つを展示してある。他に演習の成果も多々あり、その中にうちの研究室3年生の作品が3つ出ていた(↑)。意外と貢献してます、Asalabメンバー。ただ、立ち止まって見る人はわずかで、すごいもんつくってるなぁ・・・と、流していく。まぁ展示なんてものはそんな感じでいいわけで、「鳥取環境大学=すごいもんつくってる」と、来場者に強いイメージを持っていただければ、今回の展示は成功だろう。私も近くで座って見ていたが、特にちゃちゃを入れるようなことはしなかった。しかし、本来味方であるはずの、オープンキャンパススタッフの説明には正直まいってしまった。

「これはたぶん卒論です」
違う!それは去年の夏に研究室でベトナム行って、その結果を演習でまとめたんだぁ!ってか「たぶん」てなんだぁ!? まぁ加藤家はそうだけど。
「デザイン学科はこういうのを作るために、夜中研究棟にこもったり、徹夜したり、しんどいことしてますね」
確かにそうだけれども、もう少しフォローしてよ。頑張って作った分、達成感があるとかさぁ!これじゃあきついからデザイン学科入るなって感じじゃん!
「ボク、政策だからわかんないんですよ」
来場者に関係なくね!?
「俺、システムだから・・・」
・・・・・。

ここで勘違いしてほしくないのは、スタッフは決して悪くないということ。彼らには情報がない。だから自分の中のイメージで必死に見学者に伝えようとしてくれている。問題はオープンキャンパスに参加(展示)するデザイン学科と入試広報課にある。展示品に関する情報を事前にスタッフに流していない。説明をひと言入れてくださいと言えば、スタッフも困ることなく、「こういうことしてます。興味があったらまた戻ってきてゆっくり見てください」と言える。
オープンキャンパススタッフに占めるデザイン学科学生の割合が少ないのも理由かもしれない。ともかく、デザイン学科に関してはなにかしらの工夫が必要だ。いくつかアイディアも浮かんだ・・・・と、スタッフになることから逃げ続けている私が言っても、説得力のない話であるのだけれど。スタッフの皆さん、お疲れさまです。そしてお邪魔してごめんなさいでした。(チャック)

↑例年以上の賑わい?
[潜入!チャックのオープンキャンパスレポート(午前の部) ]の続きを読む
- 2007/06/17(日) 15:16:32|
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こんにちは、チャックです。
オープンキャンパスの準備ができました。
配置は上の写真のとおりです。
模型はすでに浮かせてあります。
物足りなかったので背景にハロン湾の写真を大きく出しています。
当日は午前中に様子を見に行こうと思っています。
午後からはMr.エアポートが行くとか行かないとかでした。
片付けは月曜の午前中にする予定です。(チャック)

- 2007/06/16(土) 20:16:22|
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本日の3・4年ゼミ(プロ研5&7)は学校を離れての活動。先週は雨のため外出を避け、各々の作業を進めた。今日は曇天ではありましたが、山陰地方も梅雨入りしたようで、天気が悪いのは仕方のないことかもしれませんね・・・・
向かった先は
寺町にあるO家住宅。昭和40年代の木造建築で、現在は空き家となっています。室内は割としっかりしていて充分暮らせる状態です。だがしかし、矢張りというか、内装は傷みが目立ち、一部雨漏りの痕跡もみられますが、最近屋根を葺き替えたそうで、雨漏りの心配はなくなっています。




2階の襖は表装がはがれて裏ばりの新聞が露出しています。なんと、昭和9年の新聞でして、チャックさんは
こういうのに目ざとく、当時の4コマ漫画や広告に驚喜していました。みなさんは
「襖百枚」の記事を覚えていますか? タクオ先輩が提供してくださった大量の襖(じつは37枚)のうち、こちらの寸法にあうものを転用できればよいが、と先生はおっしゃっていました。これは、どうやら1・2年生(プロ研1&3の3・4班)の仕事になりそうです。
[四畳半 襖の裏張り]の続きを読む
- 2007/06/15(金) 21:13:06|
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今年度はじめて、池田住研の大工さんが加藤家で木工事をおこなった。卒業式後の送別会から約80日ぶりのことである。
仕事は、建て起こし後に開かなくなっていたオモテノマまわりの雨戸を開けるようにすること。作業の詳細は本日の「
倭文日誌」を参照いただきたい。なぜ今日、この仕事をしていただいたのかというと、プロジェクト研究1&3の作業にあわせたかったからである。今日は、1班(アトリエ班)と2班(家具製作班)は古材倉庫で廃材選びをしたのに対して、3班(運搬班)と4班(廃棄物処理班)が久しぶりに加藤家にかけつけ、オモテノマとナカノマに収蔵されていた建具・畳類を裏側の部屋に移すとともに、二つの表座敷に畳を敷く作業をしたのである。

大工さんたちの仕事で雨戸が開き、学生たちの仕事で座敷に畳が敷かれた。そして、加藤家は約8ヶ月ぶりに座敷と庭が一体化した空間を取り戻したのである。加藤家のオクノマから臨む庭の風景は抜群であり、この住宅の芸術的価値を強くアピールするものである。
ゲンカンとあわせる3つの畳部屋が続き間として蘇った。
どうですか、素晴らしいでしょ!?

今年度は「知の財産」事業に申請研究が採択されたが、すでに一部の関係者との打ち合わせでは、シンポジウム&ワークショップの会場を加藤家にしようという案がもちあがっている。この畳間にイロリの間を加えれば、シンポジウム&ワークショップの会場として十分機能するであろう。イロリがあるので、懇親会の席にも早変わりできる。そのころにはロフトの内装も完成しているから、酔っぱらった客人はロフトの仮眠スペースで寝ればいい。あぁ、いまから考えてもわくわくするね・・・(できれば、また何名かギターをもってパフォーマンスできれば良いけどね)。

池田住研の大工さんや社長さんにおいでいただいたのには、もう二つ理由があって、ロフトの手摺りと南側石垣に復元する裏木戸の設計案を共同で練るためでもあった。ロフトの手摺りについては社長が奇抜なアイデアを考えだされた。要らなくなった木製の梯子を手摺りに転用はしてはどうか、というアイデアである。これはたしかにおもしろい。どこかにあたりをつけてみるとのことである。じつは加藤家にも梯子が残っているのだが、それはご覧のように側桁のみなのだが、これとて何かに応用できないわけではないだろう。一方、裏木戸については、石垣工事が終わるころに着手しよう、ということになった。棟門に控え柱をつけ、内側に開く両開戸にする予定。

↑梯子の側桁 ↓弱くてもタイガース・・・
[お座敷復活!]の続きを読む
- 2007/06/15(金) 01:17:38|
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笹尾神社
薬師堂の全面配付垂木の修復について、板図に描いた棟梁の案が送られてきた。こういう板図をみる機会は少ないだろうから、ここに転載させていただこう。



わたしはここで、敢えて板図の説明はしない。読者諸兄自ら解読いただきたい。以下の4点について検討をお願いした。
1)野小屋でいちばん外側に立てる束を鉛直方向にできないか?
2)はね木と金具で繋ぐ垂木だけ太くできないか?
3)桁の外側に「垂木掛け」として機能する長押をまわせないか?
4)垂木の上面を裏甲・茅負とL字形金物でつなげないか?
棟梁からは仲介者を介してやや否定的な回答があり、それに対して再びわたしの意見を送信したところ。
> 1)について
母屋桁から束を鉛直方向に下ろした場合、ハネギではなく茅負・裏甲部分に載せることになる。全体の強度を考えるとこれはハネギの上に乗せたいので、束を鉛直に向けるのは難しい。吊ボルトは鉛直方向としているので、相互に補いあっており、現状の方向で進めたい。
→吊ボルトの力は鉛直方向に働くが、この力が束を前方に引き倒してしまう。束をはね木の上に立てればよいのでは?
> 2)について
この部分の垂木については新材に交換し、材料をヒノキとする。若干(1寸9分角を2寸~2寸2分角程度)太くするが、見栄えの問題があるのであまり極端に太くしない方が良いと思う。
→見栄えは当初からあまりよくない。あれほど細い垂木を金具で貫いてもまた折れるだけ。一部の垂木を「力垂木」扱いするなら、太くなっても仕方ない。そのほうが耐久性がある。
> 3)について
現状をみると、長押を設けても効果が薄いように思われる。また、おさまりがよくないのでできれば避けたい。
→なぜ効果が薄いのか理解できない。唯一心配なのは、組物(大斗)との取り合い関係では?
> ハネギ受けの上側に、抑えの材を横向きに打ち付け、垂木の取り付け部分を補強する方法も考えられる(ハネギの部分は避ける)。
→意味不明です。
> 4)について
垂木の上面にはカスガイを入れるための掘り込みがあり(「続き」の写真参照)、L字金物の使用を検討したが、打ち付ける場所がないので旧材には使えない。現在、カスガイまたはボルトによる固定を検討している。
→新しい材についてもカスガイを使う必要はあるのだろうか? 吊りボルトを使うならば、こういう危なっかしいカスガイの使い方はやめるべきでは??
[笹尾神社薬師堂の修復案板図]の続きを読む
- 2007/06/14(木) 03:52:10|
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中国自動車道は加西パークで福崎特産の「もち麦麺」を啜りながら、今日は山崎インターで降りようか佐用インターにしようかと思案しつつ車に乗り込んだ。しばらくして、「山崎-佐用間工事走行停止」の案内表示を発見。
というわけで、おそらく1年半ぶりに戸倉峠を越えることになった。今夜は直接田園町の宿舎に戻って休もうと思っていたのだが、29号線ですからね、大学に寄らないわけにはいかない。で、こうしてまた雑文を書いています。
加西パークを出てから、しばらくクラレンス・ホワイトのアルバムを聴いていた。ホワイトは中川イサト先生ご推薦のブルーグラス・ギタリストで、アマゾンで5つ星がついていた『33アコースティック・ギター・インストゥルメンタルズ』(1962録音)を取り寄せたんだが、未開封のままにしていた。いや、ほんとに33曲もあるのですよ、おんなじようなカントリー・ギターのインストばっかり。5曲も聴いたら、もう十分だ。中国庭園のようなもんですね。一つめで驚き、二つめで慣れ、三つめで飽き、四つめでうんざりして、五つめで拒否反応に震える。これが33回続くんだから拷問のようなものでして、唯一の救いは33曲めの最後がフラットマンドリン・メドレーだったこと。こういうギターを弾きたいとは思わないが、こういうフラマンの演奏技術は覚えてみたいですね。

口直しにというわけでもないけれど、高速道路を降りたあたりから、木村大の『ザ・カデンツア17』(1999録音)に切り替えた。もう数年聴いていないCDだが、録音当時、木村はたしか高校3年生=17歳であったと記憶する。テレビで演奏を聴き、とんでもない速弾きのクラッシック・ギタリストに正直びっくりしたんですが、世間の評価は結構きびしく、「速けりゃいいってもんじゃないよ」と誰かさんのような評価をする人が少なくありませんでした。しかし、久しぶりに聴くと、やっぱり素晴らしいギタリストだと思います。対向車すらいない戸倉峠の暗闇と妙にマッチした緊張感があって、とても心地よかった。当時、高校3年生なんだからね、これだけの技術があれば、大人になってどれだけ成熟しているのか、その後を知らないだけに気になってしまいます。
で、こういうギターが弾いてみたいか、と問われれば、即座に「弾けません」と答えるしかない。これは無理だ・・・ふと、
渡辺香津美の『ギター・ルネッサンス』を思い浮かべた。わたしは、あのシリーズを1枚しかもっていない。それも一度聴いたきり。カンドウのカの字も覚えなかった。渡辺香津美ぐらいの技術があれば、バッハだのスパニッシュだのやってみたくなる気持ちはわかるけれども、クラッシックという分野に限っていえば、やっぱり17歳に敵いませんよ。わたしが「禁じられた遊び」や「アルハンブラ」をやるようなもんだね。
渡辺香津美にはジャズの王道を歩んでもらいたい。ナベサダだって、フュージョンやってるときよりも、パーカー吹いているときのほうがはるかに良いからね。パーカーをギターで表現するとか(ジャコは「ドナ・リー」が弾けるようになるまで9年かかったと語っていた)、チャーリー・クリスチャンを再解釈するとか、ギター界のウィントン・マルサリスになって欲しいものです。
- 2007/06/13(水) 01:13:19|
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ここだけの話なんですが、じつは先々週の土曜日、つまり6月2日にわたしはプロになってしまいましてね。風呂に入ったんじゃありませんよ。
だから、そこいらのスコアならすぐに弾きこなせるようになったはずなんだけど、弾けないんだ、これが・・・

デパチカで食材を買いそろえた(エンダイブという珍しい野菜を買ってサラダに使ってみたのだが、子どもたちには不評だった)。それから5階の楽器売り場に。全国百貨店共通商品券がほんのわずかだけ残っていたので、小物を買おうと思ったのである。最初はガットギター専用のカポタストに狙いを定めていたのだが、よく考えてみると、クラッシックギターにカポというのもね、下手を絵に描いているようなものだから、やめたんです。そもそもプロたるもの、カポなんか使っちゃいけません!・・・というのは言いすぎでして、フォークギターにカポは必要不可欠です。フォークギターの場合、開放弦をいかに使いこなすかが腕のみせどころだから、いたずらにハイポジションのコードばっかり弾いていても、楽器の特徴を発揮できませんよね。カポタストを使って、高音の開放弦を綺麗に鳴らしたい。そのためには、高価なハイテク・カポが必要です。
一方、エレキギターの場合、むしろ開放弦はあまり使わない。4声のハイコードでプレーすることが多いから、カポタストなんか要らないんだ。ところが、たまにいるんですね、エレキにカポつける人が。その代表選手がボブ・ディランでして、エレキにカポタストつけて「ライク・ア・ローリングストーン」を歌う姿をみて、わたしゃ引いてしまった。この人、パス。おまけに、首にかけたホールダ付きハーモニカまで吹いていた。勘弁してくれぇ!

結局、ガットギターの弦を2セットと本を2冊買った。1冊は『オープンチューニング事典』、もう一冊は『荘村清志のギターで世界の名曲を』。後者はNHK「趣味悠々」のクラシックギター講座(初級・中級)のテキストなんです。6~8月のテキストだから、いま真っ最中じゃないの(水曜日放送)。なにぶんわたしもプロになってしまいましたからね、
「なめんなよ、こんなもん、すぐに弾けるわい!」
とばかりに調子にのって、最初から練習曲を弾いていって、つきあたったのが「禁じられた遊び」。
「軽い、かるい、かぁ~るいね、これぐらい・・・」
と弾き始めたら、全然駄目。中学校のころ、少しだけ練習したこともあったんだけど、途中からメタメタ・・・大きな原因はTAB譜がついてないことですね。やっぱり、読譜能力に欠けるというか、たとえば、高い「ミ(E)」の音だとしても、どの弦で対応するのか、すぐにはわからないから、おたおたしてしまうんです。運指も結構やっかいでしてね、小指を思いっきり伸ばさないといけなかったり、半音もしくは1音移行のクリシェに指がついていかなかったり・・・
ちなみに、「禁じられた遊び」は「初級」の最後の曲。プロが「初級」に苦しんで、どうすんだ!
ちなみにちなみに、「中級」のラストは「アルハンブラの思い出」。これもトレモロがやっかいそうだな・・・こういう曲どもを練習しても人前で演奏することはありえない。なぜかというと、小中学生だって弾いてる定番の曲だからね。
しかし、すべてはエクササイズだ。読譜と運指のエクササイズ!
読譜と運指だ、ウッシッシ・・・
- 2007/06/12(火) 02:04:30|
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日曜日にシェフをした。
患者は包丁がもてないので、料理はいちおう次女の担当ということになっているのだが、これはありがたいような悲しいような分業であって、なぜならば、彼女は一人住まいの経験がなく、したがって、料理を作った経験も非常に乏しいからである。
3月末から佐治ばあちゃんが来ていたので、料理を習ってはいたのだが、ばあちゃんが居なくなってしまった後、彼女一人に夕食を任せるのはおおいに不安がある。それでも、わたし以外の2名は「結構おいしい」と言って食べているから大人だ。
昨日のサラダなんか、キャベツの刻みにヘタのついた四つ切りトマトをのっけただけのもので、その4分の1のトマトを口に含むと顎が外れそうになった。「おいしい」と口ではいう患者や弟も、結局食べないから、サラダはほぼ丸ごと残ってしまったではないか・・・
今日はタケノコの料理をした。河原町の道の駅で買った細身のタケノコが4本あって、これで煮物を作ったのである。4本で120円の細いタケノコである。これがどういう種類なんだかよくわからないんだけれども、ネットで調べる限り、淡竹(ハチク)ではないかと思われる。米のとぎ汁で1時間ばかりあく抜きしたタケノコを厚揚げとあわせてだし汁で煮込み、新鮮なワカメを添えた。タケノコは少し固めだったが、「これはお通じに良いぞ!」とアピールしたからか、患者も娘もパクパク食べた。
サラダはカイワレ、タマネギ、キャベツ、パプリカをブレンドして、薄切りハムの上にのせ、小さく切ったトマトをトッピングした。ごく普通のサラダだが、今日は極上の「たまねぎドレッシング」を仕入れてきていたので、やはり女性陣に好評で、あっというまになくなってしまった。
メインディッシュは、「豚キムチ風の肉野菜炒め」。各種野菜と豚肉を炒めて紹興酒とキムチ(鶴橋産)で味付けし、最後にオイスターソースをからめる。まろやかな中華風豚キムチ炒めのできあがり。もちろんご飯とよく合います。わたしはですね、中国生活が長かったので、炒め物にはちょっぴり自信があるのね。娘には無言のプレッシャーとなったでしょう・・・
料理は好きなんだけど、最近はさっぱり余裕がない。3年ぐらい前までは、1・2期生を田園町の宿舎に招いてよく宴会をしたものです。いまは忙しすぎて、日に2回コンビニ食で済ませることも稀ではない。でも、今日は楽しかったな。なかなか良い気分転換になりました。
- 2007/06/11(月) 05:04:20|
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3週間ぶりに車で
峠を越えた。河原町の道の駅「清流茶屋」でひと休み。いつものとおり「もりの大盛り」を一枚たいらげ、一束100円の直売野菜を何束か仕入れてすぐに出発する予定であった。
そこにポスターを発見した。ご覧のとおり。

文化財になった伝説のスーパーバンド
寺内タケシ バンド結成45周年 Terrry & Blue Jeans
とあって、ここまでだと、あぁまぁそうか・・・でとまらないこともないのだが、日時と会場に胸がざわついた。
日時: 平成19年7月13日(金)p.m.6:30開場 p.m.7:00開演
会場: 鳥取市河原町中央公民館大講堂
7月13日は何を隠そう、患者の誕生日なのです。今を去ること4年前だったか、同じ7月13日の夜、わたしたちは童館で日野皓正クインテットの演奏を聴いて、TシャツとCDを買い、楽屋でサインしてもらった。そして、家内が誕生日だと告げると、クインテットのメンバーは「ハッピィ・バースディ」を合唱してくださいましたんです。
そして何を隠そう、河原町はわたしが生まれ育った故郷なのね。そこの
公民館は町役場の隣にあった赤い建物で、記憶のなかに鮮明に刻みこまれているけれども、子どもだったわたしたちが実際に使うことはほとんどなかった(あれは大人の「学校」なんだ)。唯一覚えているのは、「切り絵」にはまっていた叔母が亡くなった後、彼女の遺作展の会場に公民館の一画をお借りしたことぐらいかな。あれは、たしか30代後半のことだった・・・あそこの講堂は狭いよ。ブルージーンズの大音量には小さすぎる。しかししかし、鳥取の市街地ではなく、旧郡部の河原町でコンサートが開かれるなんて、嬉しいじゃないですか。
で、もり蕎麦を啜りながら、患者に電話してみた。
「おばあちゃんは用心しないといけないって、いつでも言うけど、K先生は鳥取に行ったって大丈夫だって言ってくださるのよ。だから、
渡辺香津美だって行けないことはないと思うんだけど・・・」
「そうか・・・」
「あっ、でもね、K先生、病院変わるんだって、・・・わたしショックで・・・」
「えっ、・・・そりゃ、ショックだな・・・えらいことだ。あんないい先生、なかなかいないもんな・・・」
寺内タケシは懐かしい。わたしは12歳のとき、サッカーとギターを始めた。いずれも6歳年上の兄の影響である。わたしは河原小学校の6年生。兄は鳥取東高校の3年生で、附中からずっとサッカー部に属し、加山雄三が好きで、白いエレキギターをもっていた。この白いソリッド・エレキがわたしとギターとの出会いであった。
昭和43年(1968)、メキシコ・オリンピックで釜本が得点王になり、日本代表が銅メダルをとった年である。芸能界では加山雄三の全盛期。寺内タケシ&ブルージーンズは、加山雄三のバックバンドを務めていた。東宝映画の『エレキの若大将』にも、寺内はギターの上手い蕎麦屋のあんちゃん役で出演していた。

忘れられないのが「夜空の星」という曲。「君といつまでも」のB面だったが、シングルカットしてA面で売れば、ヒット間違いなかったであろうと言われた名曲である。
ぼくの行くところへ ついておいでよ 夜空には あんなに 星が光る
どこまでも 二人で 歩いてゆこう 恋人よ その手を 引いてあげよう・・・
この曲の間奏が凄かったんですよ。寺内タケシのリード・フレーズは、当時としては信じられない速弾きとチョーキングの複合技で、今でもどうやったらああいう風に弾けるのか、わたしには良くわからない。その後、「運命」「未完成」などのクラッシックと「津軽じょんがら節」に代表される許多の日本民謡をインストで聞かせる特異なエレキバンドとして、ブルージーンズは一世を風靡した。
結局、チケットを1枚だけ買った。全席自由席なので、もう1枚買い足せば二人で行ける。駄目なら一人で行くまでさね・・・
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- 2007/06/10(日) 05:56:04|
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6月8日(金)の活動報告。
演習室にて、私、加藤家欄間修復担当の3年左SHは昨日6月7日(木)の活動報告、上級生+3年生のO氏は報告書のチェック、という内容でした。活動報告の前に、先輩方、O氏、昨日から今朝にかけての報告書作成、ご苦労様でした。眠そうでしたね、Yさん…笑
活動報告。
木曜日、プロジェクト研究3(政策学科2年)のSくんとともに修復建築スタジオ前で
加藤家土間「欄間」復原の作業をおこなった。この日の作業は1)材料集め 2)寸法とり 3)部材の切り出し といった手順で進める予定であった。まず、廃材置き場を片っ端からあさり、目星の材をゲット。前日に私が作成した原寸図面をもとにトレッシングペーパーを使って材に寸法をとっていく。
「…曲がるなよ…曲がるなよ…あっ、間違えた…もっかい!!…曲がるなよ…曲がるなよ…丁寧にな…曲がるなよ……できた!!!……うーん…何かおかしい……っていうより効率が悪い。どうしよう…」
と悩んで数分後、偶然通りがかったとある教授に、
「工房のHさんのところに行ってみなさい」
というアドバイスを受け、出向くことにした。Hさんに事情を話すと、なんと、部材を切り出していただけることに。結局、自分らの手を汚さずに「切り出し」の段階まで作業が進んでしまった私達。

私:「いやぁ、今日えらい進んだな!笑 俺ら何もしてなくね?」
S:「半分できちゃいましたよ!笑」
私:「神(A教授)は何って言うかな?」
S:「うん、たぶんダメっていうでしょうね!笑」
私:「…だな。笑」
S:「…ハイ。笑」
私:「……帰るか♪」
S:「…ハイ♪」
ということで、この日はこれで帰ったわけです。
そして金曜日。私はいままでの活動を発表することに。私の発表内容はといいますと、昨日の例の欄間修復作業の報告と以前に言いわたされたA教授から「今作っている加藤家の<欄間>について調べてきなさい」と課題について発表した。
発表。はっきり言って半信半疑の本日の成果物。「何って言われるんだろう…苦笑」って内心は複雑な気持ちだ。が、何とか昨日の作業のいきさつを説明し、神の許しを得る。「…よかった」と一安心の私である。次に私が調べてきた「欄間」についての見解だが、まず「欄間」を《場所による種類》と《加工法》で名称を定めてみると、私は加藤家の「欄間」を「間腰欄間に分類される」と考えていたのだが、どうもこれは違っているらしい…。
考えられるタイプとしては「間腰欄間のなかの菱格子欄間と竹の節欄間の中間」といった感じである。…完全に勉強不足だ。私の発表中にササっ♪と的確な資料を引き出したO氏には足元にも及ばない私であった…。(左SH)
- 2007/06/09(土) 00:52:02|
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加藤家の近くを流れる大井手は満水。千代川の鮎漁も解禁となって、季節はいよいよ梅雨へ向かっている。今日、ようやくロフトのアトリエ化計画の骨格がかたまった。家具の配置計画や修復計画が具体的に動きだしたのである。
ほっと一息^3^=3 今回のプロジェクト研究1&3の概要を述べる。
まずプロジェクト研究前の一週間の間に、われわれアトリエ班は月曜日と水曜日に集まりました。^^月曜日は、修復が必要な家具の選定をして、それをどのようにするかについて話し合い、水曜日までに20分の1スケールの模型を作ってくることになりました。m(^^)m 水曜日は、各自作ってきた家具の模型を使い配置決めをしました。
そしてプロ研当日!! 私とD君は、名誉挽回のため調べたことを発表することになりました(><) とても緊張しましたね。で、ほっと一息^3^=3その後は、ロフトへ上がり、模型配置の通りに家具を並べてみました。その後、土間で修理する家具を下におろし、アイスクリームで一服していたころ、リファーレンに行っていた連中がテーブル2台と椅子1台をもって帰ってきました。(^^)b テーブルは1台(1300円)の予定でしたが、高さも大きさもほぼ同じもの(1000円)がもう1台みつかったので、椅子(200円)とあわせて買ってきたのです。

これらのテーブルと椅子もロフトに上げました。教授はテーブルがやや低くて作業しにくいのと、デザインがダイニング・テーブルそのものなので、これを作業机風に改修する案を示されました。今後、検討していきたいと思います。学校へ帰り、どの家具を修理補強をするのか、班分けを決めをしました!!今度は来週の月曜日、班ごとに集まり各自考えた修復案を発表することになりました。これで今日は終了^^
今日は実はほんとに緊張していた私でした。(^^;)自分のせいなんですがね><自業自得です;;先輩、発表の機会を与えていただきありがとうございました!!こんなことがないようにがんばりたいと思います。来週もがんばっていきたいと思います!!(環境デザイン学科1年K.S)

↑南妻側の家具ども ↓北妻側の家具ども
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- 2007/06/08(金) 00:29:36|
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今日は暑かった。正午に雨が降った後、急に晴れた為だろうか大学のキャンパスはムシムシしている。昼休みに学食で「てんぷらうどん」をたいらげた後はじっとりとした暑さが全身を包んだ。なんでこんな日に限って学食のお茶は熱いのしか置いてないのかねぇ…いやになっちゃうよ。
さて、こんな暑い天気でも緑のあふれている佐治町は心地良い。川のせせらぎや木陰が暑さをやわらげてくれる。先日、鳥取市文化財課のSさん、某大学院生とともに佐治町
「笹尾神社薬師堂」の軒まわりの部材状態の調査をおこなった。その結果をSさんが資料としてまとめ、本日浅川教授が薬師堂に足を運んで修復の方針を大工さん方と検討された。

今日は配付垂木と論治垂木について学んだ(ちなみにボクはこの名前を今日初めて知った)。薬師堂の軒は平行垂木なので、隅木のまわりに配付垂木と論治垂木を見ることができる。論治垂木とは、木負と隅木の交点から出ている垂木のことであると教授に教えていただいた。地垂木と配付垂木の境の垂木という言い方もできるだろう。配付垂木とは隅木に取り付ける垂木であり、上端を隅木のホゾ穴に差し込むだけだから構造的には非常に弱い。一番上の写真は、隅木から配付垂木がこぼれ落ちた状態を示している。こういう構造的な弱さにも拘わらず配付垂木を用いるのは、平行垂木を好む日本人の美学と言えるかもしれない。
一般的に、地垂木は桁と小屋裏の横材の2点で支持されるので構造的に安定感がある。ところが、教授にくっついて部材の破損状況を見てまわっていると、面戸板であると思いこんでいた材がじつはハネギ受けであり、地垂木は桁の方の部分に上端をのせているだけであることが判明した。垂木の下端側では上面にホゾを彫ってカスガイで木負に固定している。軒が下がらないように、桔木と垂木を金物でつなぎ、木負で軒全体を吊り上げているという構造を説明され、教授は非常に驚いておられた。要するに、この薬師堂の垂木は4面すべてが配付垂木と同じ構造になっている。これでは沈下しないほうがおかしい。実際に軒のラインは4面とも大きく波打っている(上から2枚めの写真)。

↑10本前後に1本、こういう金具のついた垂木がある。金具でハネギと繋いでいるのだが、材が細いため金具の挿入部分で折れている。 ↓ダボのようにしてカスガイを使っているが裏甲から垂木が外れている例。以上2点の破損は、おこるべくしておこったものである。
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- 2007/06/07(木) 00:00:17|
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日曜日にリファーレンいなばのイベントに行ってきたAnjieから連絡が入った。以下、メールの転載。
今日リファーレンに行って家具をHOLDしてきました。
予想外なほどに人が多く、どうなることかと思ったが、なんとか
目当てのキッチン用のテーブルは入手できました。あと、本棚
として使えそうな棚を探してみたのですが、よさそうな物が無く、
返品不可ということだったのであきらめました。
テーブルの寸法と値段です。
縦1350mm×横800mm×高さ690mm 1300円

食堂用のテーブルを作業机に転用しようという魂胆なのだが、そうなるとテーブルにあう椅子も必要なんじゃないか。以下、「椅子は買わなかったのか?」という質問に対する答え。
自分のミスです。
テーブルの引き取りに行ったときにもう一度椅子があるか見て、
あれば買い取るようにしようかと。もし無ければ他を探すか作る
かまた考えなおさなければいけません。
「
皆がビックリするような物を見つけてくる」んじゃなかったの??
- 2007/06/06(水) 00:30:11|
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どういうわけか、わが家のトイレに2002年の日めくりカレンダーが吊してある。表紙に「決定版 四字熟語」とあって、裏表紙に「presennted by TRY-X 」と書いてあるから調べたところ、TRY-Xはカレンダーやポスターを売る会社のようだ。
で、ほんとにどういうわけか、この2~3ヶ月のあいだ「右顧左眄」という四字熟語のページがずっと開いたまま。便座に腰掛けると「右顧左眄」の4文字がどがんと目に入る。
その解説によると、「右顧左眄(うこさべん)」とは、「右を見たり、左を見たり、周囲の様子を気にして決断しかねているようす」とある。みなさん、どうですか。この解説を読んでただちに思い浮かぶ人物が一名いるでしょ?
それにしても、「うこさべん」は、便器にすわって眺めるに最適の音声ではあります。いったいだれが吊したのか。案外、受験生かもしれない・・・
この週末は加藤家住宅報告書の校正をずっとやっていた。思っていたより、はるかに大変な作業でした。よく100日以上もブログ(「倭文日誌」)を書き連ねたものだ。正直、文章はうまくないが、最初のころより最後のほうがぐんと良くなっている。ブログを書き続けることによって、文筆力が向上していく経過を読み取れるのである。
チャックが編集し、プリントアウトされた紙面はわたしのチェックで真っ赤になってしまったが、ここではっきり述べておくと、こうして紙面上で修正できる原稿はマシです。大城の文章はうまいとは言えないが、いちおう合格ラインをクリアできている。「右顧左眄」氏になると、こうはいかない。テキストを送信してもらって、ワープロ・ソフト上で直していくしかありません。加藤家の報告書は、もう少しで目途がたつ。今週の金曜日には入稿の予定です。一方、尾崎家のほうは遅れてしまった。こちらを先に入稿したかったのだが、氏が頑張って編集した原稿をGWに読んでいたら、勉強しなおさないといけないところがいっぱい出てきて、1章付け足すことにした。だから、加藤家の後塵を拝している。

疲れた頭を癒やそうと、VHSの中古ビデオを1本みた。ステファン・グロスマンの「ハウ・トゥ・プレイ・ブルースギター」(写真はグロスマンではありません)。つまらなくて眠ってしまった。隣に坐っていた家内もうたた寝していた。ステファン・グロスマンはブルース・ギターを弾いているのだけれども、ブルースを表現できていない。それはサンプルとして出てくるサン・ハウス、マンス・リプスカム、ゲイリー・デイヴィス、エリザベス・コットン、
ライトニン・ホプキンスら本物のミュージシャンの古い映像と比べれば一目瞭然。これらのブルースマン(&ウーマン)はブルースを歌い、ブルースを演奏しているのだけれども、グロスマンはその技術を真似てるだけ。いちばん大事なものが消えている。以前に聞いた
打田十紀夫の教則ビデオと比べると、打田のほうがグロスマンよりもさらに綺麗にギターを弾きこなしている。しかし、二人ともブルースを表現し切れているわけでもないし、新しい芸術音楽に昇華しているわけでもない。。
クラプトンは、こういう初期のブルースマンたちの影響をもろに受けながら、その音楽的栄養分をみごとに吸収・咀嚼して自分の芸域をひろげていった。こうでないといけませんね。本物のブルースマンと教材を作る人たちとの差は、芸人(芸術家)と研究者の違いだと言ってよいかもしれない。自分にとっても耳の痛い話であって、そろそろ研究者を脱皮して芸域をひろげないとね。
- 2007/06/05(火) 03:20:49|
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遅れましたが、先週金曜日(1日)のゼミ報告。16講義室にて3年生の演習組3名はデザイン演習課題「幼稚園」のプレゼンテーション、残り1名(私)は加藤家住宅の「欄間修復作業」についての作業報告、上級生は各々の報告書編集の進行度チェック、といった内容でした。
初めてブログあげます。浅川研究室で現在、加藤家の欄間修復作業をメインに活動している左SHです。いやー、今日の演習組の発表はホントに素晴らしかった。私は演習を履修していない(半分は逃げ!笑)人間なので彼らの成果物に期待していたし、どのようなものができるのか気になっていたので、今日の演習組3人のプレゼンテーションはすごく楽しみであった。
3人のプレゼンがおわる。正直に言おう。「ビビッた…」。いやホントにスゲーって心から思った。何っていうか自分と今まで同じことしてきた人間との次元の違いにびっくりしたし、何にもできない無力な自分に腹が立った。
「スゲー…何かみんなとんでもないがん…うわー、そうきたか!!!…うそー!そこに!?…いやー、マイッタ!!六角形はマイッタ!!!……六角形…六角形…」
私は同じ学科の同じ学年の仲間としてこの3名に敬意を表します( ̄ω ̄)いやぁ、素晴らしかった!そしてお疲れ様です☆
…by the why、私の欄間作業のプレゼンはといいますと、「だいたいストーリー的にはなっていた」というプレゼン後の神様A教授の第一声に「ニヤリ」としていた私であったが、そのあとズカッ、ボコッ、グサッ…コテンパンに駄目ダシされやした…苦笑。このまま演習組の三人に負けるわけにはいかない。いい意味でプレッシャーを感じた今日の私であった。(左SH)

- 2007/06/04(月) 00:30:55|
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