徳川家康の室で紀州徳川家初代頼宣・水戸徳川家初代頼房の生母である養珠院は、日蓮宗を尊崇しており、日蓮の庇護者であった富木常忍(日常)の生地・因幡に寺院を建立することを望んでいた。この望みは養珠院の子・頼宣、頼宣の子で鳥取藩主池田光仲の正室となった芳心院に継承されたが、それが実現したのは芳心院の没後(宝永5年/1708)である。
芳心院の菩提寺である芳心寺の住職となった日潤は、当初日常の故地「鷲峯山」に寺院を建立しようとしたが果たせず、寛保元年(1741)に鳥取城下近隣の品治村にあった芳心寺の所領に「二間梁に二十間之藁葺之長屋」を建立し、鷲峯山
常忍寺と号した。この場所は東照宮祭礼の道筋であり、しかも水路に面していたため、鳥取藩は難色を示したが(「在方諸事控」・『本化出現録』)、結局許可され、近世寺院としての常忍寺が創始された。なお、寺伝では日常の道場を再興したものと位置付けているため、これを「中興」としている。
このように、常忍寺は初め芳心寺の末寺として建立された。焼失していた芳心寺の常題目堂が、延享元年(1744)に常忍寺に移転再建されていることを見ても、その密接な関係が伺われる。
延享4年(1746)、常忍寺は正中山法華経寺の客席寺院に編入され、富木常忍の故地という由緒にふさわしい格式を得ている。単なる末寺ではなく一本山格としての扱いであり、以降芳心寺と常忍寺は本寺・末寺ではない、協力関係の寺院となっている。
宝暦12年(1762)、常忍寺は村雲御所のために御祈祷し、緋紋白・網代駕籠を賜っている。寛政1年(1788)には、幕府より直触を受ける寺院として、久美浜代官所の管轄となった。久美浜代官所に呼び出しを受けることもあり、住職が病気などの場合は、藩の許可を得て芳心寺の僧が代理を務めることもあった。以上みたように、常忍寺の寺院としての格式は、創建後40~50年かけて確立され、境内の整備もそれに伴って段階的に行われたものと思われる。
当初存在したという藁葺長屋や常題目堂などの建造物は現存しないが、江戸後期に整備された本堂等は、修復を経て現存している。現存する2点の棟札のうち1点の記載によって、本堂工事の着工は、日潤の跡を継いだ2代日顕の時であることが知られる。格式の確立と寺院としての境内の整備が並行しておこなわれた状況が伺われる。この棟札によれば、本堂の建設は、実際にはなかなか進まず、完成をみたのは7代日逮の時、文政元年(1818)まで下る。建築期間が数十年に及ぶことになるが、この間継続して工事がおこなわれたのではなく、何度も中段・変更がくりかえされたのであろう、境内の諸堂宇がほぼ完成したのは文政年間のことであった。
現存する本堂は、もう1点の棟札から、8代日長の時期、天保7年から天保9年(1838)にかけて再度改築されたものであることがわかる。その後平成に入って現在の位置に曳家・修復されて現在に至っている。
常忍寺には、芳心院や歴代住職に由来するものの他、養珠院由来とされる寺宝が伝来している(国指定重要文化財1点を含む)が、これは上述のような創建の経緯を傍証するものである。
寺伝では総桜材の内陣は紀州徳川家の寄進と伝えられているが、残念ながら、今回の調査で明確に確認することはできなかった。寺伝について比較的正確に記す『本化出現録』には、紀州徳川家の援助についての記載があり、今後の調査により明らかになる可能性がある。
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- 2007/10/09(火) 00:10:18|
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