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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

「魯班営造学社」更新

 以前お話ししたとおり、わたしは2002年度に「魯班営造学社」という設計事務所の登録をしている。以来、まったく何の活動もしていない。外部からの業務はすべて「鳥取環境大学浅川研究室」の名で受託している。「魯班営造学社」は有名無実の組織であって、存続させることに意味があるのかどうかも分からなくなっている。その更新期限が迫り、どうしたものかと迷った。更新手続きのためには1万円が必要だということも知っていた。
 やっかいなのは講習と業務報告である。すべては姉葉事件に因がある。あの捏造事件により建築士と設計事務所に対する締め付けが一気に厳しくなった。建築士法は改正され、新しい諸規則に対する講習会が何度か催された。わたしは講習会の出席率がきわめて悪い。常識的には、講演する側にまわる立場の職責であり、そういう会の聴衆として参加する自分がなにやら恥ずかしいのである。しかも、定期的な業務報告が義務づけられるようになっている。煩わしい。

 更新のため県の担当部局を訪れた際、講習会に出ていないことで叱責された。ただ、建築士会だったか事務所協会に電話して確認していたのだ。講習会は出席すべきだが、出席していないからと言って「更新」を認めないわけではない。法律でそこまで規制されていない、と。
 担当職員に対して、その旨を伝えた。「現状で認められないなら、今回の更新申請は却下してもかまいません」とも答えた。担当職員は黙ったまま手続きを進めてくれた。
 そして数日経ち、呼び出しの電話が鳴った。「魯班営造学社」の更新が認められたのである。とういうわけで、あと5年間、わたしは「魯班営造学社」という何もしない設計事務所の代表であり続ける。
 ちなみに、「魯班」とは『孟子』に出てくる天才的な工匠で、後代には「大工の神様」として崇められ、ついには名工の代名詞にもなった。『日本書記』にでてくる「露盤博士」(百済から来日して飛鳥寺を造営した工匠)の「露盤」と「魯班」が同音であることには注意されたい。一方、「営造」は「建築」とほぼ同義である。戦前に結成された中国最初の建築史学会が「中国営造学社」であり、その紀要が『中国営造学社彙刊』である。
 ここで読み方に触れないわけにはいかない。「魯班」の北京語音は「ルパン」。これを採用し、「魯班営造学社」を「ルパンえいぞうがくしゃ」と読むことにした。ために、わたしのいくつかのアドレスに「lupin」というフランス語が混じっている。この事実を知る人は少ないだろう。


  1. 2008/02/29(金) 00:05:00|
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レッティン・ゴー(Ⅲ)

 「アトリエ・デ・くっきぃず」という会社から、「レッティン・ゴー」の楽譜が届いた。いや、高いのなんの・・・
 ネットで注文した際の値段は¥2415-。アンドリュー・ヨークのコンサートのグッズ売り場では1200円弱(たしか¥1175-)だったから、すでにして倍の値段です。あのとき買い逃したのが痛かった。
 その後、『ハウザーセッション』を毎日車で聴くようになり、やはりどうしても「レッティン・ゴー」のスコアが欲しくなった。当然のなりゆきとしてネットを彷徨し、「アトリエ・デ・くっきぃず」というクラシック楽譜の専門ショップをみつけたのである。
 さっそく「レッティン・ゴー」の楽譜を注文したところ、「在庫なし」との連絡。そして、以下の注意書きに目を奪われた。

   * 在庫の無い楽譜の価格は、本体価格やレートの変動のため、上記価格
    と若干異なる場合がございます。予価よりも20%以上の価格変動が
    あった場合、こちらからご連絡致します。また、エアメールなど、
    お取り寄せにかった費用を別途ご負担いただきます。以上ご了承下さい。
    (船便使用の場合は、必要ありません)

 「レッティン・ゴー」の場合、カリフォルニアのMajian Music という会社からの取り寄せになるので、もちろんエアーメイル代金が必要。結局、以下の額を請求された。

   □楽譜代金    ¥2415-
   □AirMail代金  ¥830-
   □メール便速達  ¥180-     
   ■合計      ¥3425-

 「レッティン・ゴー」1曲の楽譜が3,425円にもなったわけ。コンサート会場の3倍近い値段です。まぁ、それぐらいのお金を出して買うだけの価値がある曲なんだけど、少々たまげたね。ちなみにタブ譜はついていない。タブ譜なしで12ページ。曲中にインプロヴァイズ(即興演奏)の部分を含み、最後のページに「example improvisation」を示している。

 さて、「レッティン・ゴー」はLAGQの同僚スコット・テナントに捧げる曲として2003年に書かれたもの。変則チューニングだろうとは思っていたのだが、楽譜冒頭に「3 to F#」の指示あり。3弦をGから半音さげるわけです。となれば、セルシェル愛用11弦ギターの1~6弦の調弦と同じになる。上からEADF#BEで、これはたしかルネッサンス・リュートの調弦だったはず。なるほど。「レッティン・ゴー」のキーはE。さっそく、レファーレン因幡500円モデルで弾いてみました。うぅん、期待に違わず、おもしろい。ここだけの話なんですが、じつは「サンバースト」も7割方弾けるようになっておりまして、次はもう「レッティン・ゴー」ですね。挑戦するしかありません。それまでに楽譜を紛失しないようにしないとね・・・

  1. 2008/02/28(木) 00:00:26|
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網走の手錠-黒船「八尾南」(おまけ)

 「大和弥生の会」はしばらく中断していたんだそうで、今回は再開の決起集会?だった。主催者側は10人も来ればよいか、と思っていたらしいのだが、蓋をあければ、なんのなんの、30人以上の参加者があり、盛況だった。
 その会には、大阪や兵庫の研究者も来ていた。池上曽根でお世話になった■さんや、芦屋の重鎮◆さん、大阪で働きながら夕方になるといつも西大寺の「夢屋」にあらわれて飲んだくれていた●君などなど・・・
 ■さんは懇親会には出られなかったが、『煩悶する若き考古技師 高度経済成長期・埋蔵文化財行政の苦悶と池上曽根遺跡-ウラの遺跡保存運動』(京都三星出版、2007)という新著を頂戴した。感謝申し上げます。ちとアブナイ本ですが・・・
 懇親会も賑やかだった。ただ、わたしは車だったから、飲まなかった。飲まなくても、もちろん元気なんですがね・・・ひとつ悔やまれたのは東アジア選手権の日韓戦とだぶってしまったこと。ところが、世の中は便利になってますねぇ。

   「ワンセグでみましょう!」

って提案がありまして、携帯でテレビ観れるんですよね。こういうことに驚いていること自体、時代遅れなんでしょうが、おかげさまで、しばらく日韓戦を視聴させていただきました。ありがたいことなんですが、やっぱり画面が小さくて、人物を特定できない。必死で画像を追い続け、先発メンバーをなんとか10名まで確認したのだが、どうしても、残りの1名が分からない。分からないままいったん携帯をお返ししたんです。
 ご存知の通り、日韓戦は0-1からなんとか1点返して、1-1の引き分け。優勝は総得点差で韓国にさらわれてしまった。先のアジア杯の3位決定戦とよく似た結果となりましたね。まぁ、これが実力です。国内組はここいらが限界。
 翌日の新聞も批判的な報道が目につきました。まぁ、そんなことはどうでもよくって、わたしが気になったのは、先発の残るひとりはだれだったのか、という点。橋本でした。ガンバの橋本。・・・気が付かないわけだ・・・

 さてさて、懇親会に話を戻すと、「手錠」の話がうけましたね。2年ほど前に網走番外地で仕入れてきた手錠を鳥取の下宿の2階においてんです。昨年10月の引っ越しの際、ホカノが田園町宿舎の押入の中でめっけて、ほんとバカだから、自分の手首に巻き付けて女子たちにみせびらかし、喜んでんすよ。で、こんなものを押入に隠しておくと怪しまれるから(実際、ワイフは怪しんだ)、寺町の新しい宿舎では堂々と外に出しておいたのね。
 昨年11月のシンポジウムの際、その新居に2名が泊まった。ひとりは例のキュウリ男で、もうひとりは島根の▲さん。キュウリ男は楽器部屋に寝て窓から立小便したらしい。一方、▲さんはスコータイの仏像が安置してある奥の間に寝たんだが、そこに手錠を発見しもだえたんだそうだ。翌日、わたしには何も言わないのだが、周囲の者どもに「あのさ、手錠とさ、人◎本があってさ、眠れなくなっちゃった」とかなんとか言いふらしているのを又聞きしてしまった。この話がうけました。聞くところによると、八尾南の発表者は▲さんの後輩なんですね。大学の後輩。
 ▲さんはこれから関西に出にくいかもしれない。
 いつもブログを読んでくれてる▲さん、ごめんなさい。
 お詫びに、網走の手錠、さしあげましょうか? (完)


  1. 2008/02/27(水) 00:00:57|
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黒船「八尾南」(Ⅱ)

 くりかえすけれども、「八尾南」の発表は衝撃的だった。
 とくに驚いたのは壁の構造である。壁溝は壁の構造物を納めるための基礎だとだれもが考えていたはずだ。ところが、壁溝には板の蓋が被せてある。壁溝は住居内の暗渠なのだ。壁の外側や床に染みこんだ水分を集める溝といってよいだろう。発掘調査トレンチの排水溝と役割は同じであって、水を溜まったままにしておく場合もあれば、周堤の下に暗渠を通して外に排水する場合もある。
 八尾南の場合、壁溝は板で塞ぎ、さらにアンペラ状の壁で覆っている。アンペラ状の壁は鳥取でも米子近辺でみつかっているが、わたしたちはてっきり編物を壁に貼り付けているのだと思っていた。発表者の見解は違っていた。壁際で裏込しながらアンペラを縦横に編んで壁に貼り付けていくというのだ。しかも、その裾は床面で切れるのではなく、床に接してL字状に折れていく。このL字状に折れたアンペラで壁溝の蓋を覆ってしまう。こういう壁のディテールを考えた研究者は、これまでひとりもいないだろう。現在進行中の妻木晩田遺跡の復原実施設計にも影響を与えうる情報である。

 ところで、刊行間近という『八尾南』報告書には、竪穴住居の復原図や復原模型も掲載されるらしい。それをパワーポイントのスライドでみせていただいた。資料には残っていないので、記憶はやや曖昧だけれども、復原案には結構問題がある。じつは、出雲大社境内遺跡の大型本殿復原模型の監修で京都の模型制作会社に通っていた際、八尾南の竪穴住居模型の制作が開始されたばかりで、その現場の制作風景をちらっとみせてもらったことがある。あらら、いったいだれが図面を描いたのかな、隅入の問題はどう克服したのかな、なんて思いながら長髪美貌の女性重役に頼んで図面をみせていただいた。
 その図面は、驚いたことに、わたしたちが妻木晩田のために描いた断面図であった。会社には、こんな風に作ってくださいという指示があったんだそうである。(こりゃ、著作権違反じゃないの???)
 今回、その模型をパワーポイントでみた。ところが、復原案は妻木晩田とは異なっている。なにがいちばん違うのかというと、周堤が垂木の内側にすべて納まっているのである。発表者に聞くと、根拠は以下の2点。
  ①周堤に垂木を差し込んだような痕跡がまったくない
  ②周堤の外側の一部に小ピットが群集し、その断面を確認すると、ごくわずかではあるが、棒状のものが突き刺さった痕跡のようにみえるものがある。
 この2点については異論を唱える参加者ももちろんいた。①については、周堤を築いてから穴をあけて垂木などの材を差し込んだのならば痕跡らしい痕跡は残るであろうが、垂木材などの木組を完成させてから周堤を築いて根元を固めた場合、木材をおさめたピットなどの痕跡は残らない。②については、小ピットが周堤外側の全周をめぐるわけでもなく、一部にしか残っていない。しかも、それが垂木材などを突き刺した痕跡としてはあまりに浅すぎて木組を固定するには不十分である。

  [黒船「八尾南」(Ⅱ)]の続きを読む
  1. 2008/02/26(火) 00:35:22|
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黒船「八尾南」(Ⅰ)

 週末(23日)、某研究所の先輩のお誘いで「大和弥生文化の会」に出席してきた。会場は橿原考古学研究所で、たぶん約十年ぶりに橿考研の門をくぐった。
 第43回例会のテーマは、ずばり「竪穴住居」。以下のような次第で会は進んでいった。

  1.趣旨説明
  2.松本「奈良県内の竪穴住居跡」
  3.橋本「芝遺跡の竪穴住居跡」
  4.深澤「四分遺跡の竪穴住居跡」
  5.正岡「八尾南遺跡の竪穴住居跡」
  6.討論

 2~4で奈良県内の事例を知れたのはもちろん大きな収穫であったが、なんといっても衝撃をうけたのは5の八尾南遺跡である。八尾南遺跡は大阪の集落遺跡(弥生後期)だが、今回は報告書刊行直前の特別招聘スピーチとして出席者の目を釘付けにした。

 わたしが八尾南遺跡のことを知らされたのは2004年のことであった。当時、科研「大社造の起源と変容に関する歴史考古学的研究」の一環として「山陰地方の掘立柱建物」シンポジウムを企画しており、複数の筋から八尾南での大発見に関わる情報がもたらされていた。八尾南という集落は洪水によって村が水着けになり、旧生活面が集落存続時に非常に近い状況で地下に埋もれていた。竪穴住居を例にとると、通常は竪穴の埋土となって消滅する周堤(竪穴のまわりに築く土手)が立体的に残っており、機能不明と思われていた中央ピットには木組が残り、さらに驚いたことに、竪穴の南東隅に梯子材が床面に突き刺さった状態で立てかけられていた。
 この遺跡を視察することなく時は流れていった。ただし、「隅入」の構造は、わたしに刃を突きつけていた。それ以前に復原した住居は、基本的に柱の位置(桁と梁が交わる位置)で「隅サス」と呼ぶ材を斜めに架けて棟を支える構造に復原していたからだ。竪穴住居をテント構造の発展形とみなすならば、これが自然だろうと考えていたのである。しかし、隅に入口が開いていたとするならば「隅サス」は使えない。その後、2006年に倉吉のクズマ遺跡でも隅に門道をともなう古墳時代後期の住居跡がみつかり、やや大袈裟な言い方ながら、

  「自分に残された竪穴住居復原の最後の課題は隅入の構造だ」

と思うようになっていった。それほど八尾南の発見は、わたしの研究を揺さぶったのである。八尾南は竪穴住居研究における「黒船」のような存在であった。

 今年度の卒業研究で、けんボーに鳥取県内の縄文・弥生・古墳時代の竪穴住居を1棟ずつ復原してもらうことにした。そのうちの1棟はクズマ遺跡の隅入住居である。八尾南の発見以来ひきづっていた竪穴住居の「隅入」構造の解明にケリをつけたいという思いがあったからこそ、クズマを復原の対象に選んだのである。結果としていえることは、「隅サス」の構造を放棄し、アイヌのケツンニに近い3脚構造もしくは4脚構造を採用することによって、隅入の構造は十分復原しえるというものであった。じつは、大林太良が1954年に検証しているように、アイヌのケツンニも円錐形テントの骨組に起源を求めうるものであり、そういう構造は下味野童子山の松菊里型住居や智頭の枕田遺跡の縄文住居にも採用可能であることがあきらかになってきている。(続)


 
  1. 2008/02/25(月) 01:26:33|
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京・近江の古建築を訪ねて(Ⅳ)

1日目、2日目のように上手く言えませんが、3日目の最終日はヒラが担当します。
気合入れて・・・さぁ3日目は滋賀祭りだっ!

 研修旅行3日目は三井寺・光浄院→勧学院(大津市園城寺町)→日吉大社周辺(大津市坂本)→記恩寺庭園・蘆花浅水荘(大津市中庄)で、旅の終わりとなりました。

三井寺
 まず最初に行った三井寺は天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一つに数えられているそう。そのうち私たちが行ったところは光浄院と勧学院でした。両者の客殿は国宝となっているのですが、それは寝殿造から書院造へと変わっていく流れのまさにそのときに作られた遺構であり、大変貴重なものだからです。そんな時代に建立されたものなので、床や違い棚などの初期の書院造であると見て取れる部分や、妻戸や蔀戸や舞良戸などの寝殿造を残している部分がありました。また、それぞれ客殿以外にも貴重な文化価値のあるものがあり、光浄院は庭園が名勝・史跡に、両者の狩野派によって描かれた障壁画は重要文化財となっています。

三井寺光浄院
 光浄院の客殿の形式は初期の書院造といえるもので、桁行7間、梁間6間、柱は全て面取りした角柱で総コケラ葺きの入母屋造。上座の間の床貼付(障壁画)には狩野派の絵師・狩野山楽の筆による絵があるのですが、これはもしかしたらぐるりと360度上座の間を絵が囲んでいたかもしれないそうです。もしそうだったとしたら・・・大変迫力のある間だったことでしょう。
 しかし!この光浄院の魅力は建物だけではありません!ここには名勝・史跡に指定されるほどのすばらしい庭園があります。それは客殿の南面に位置する鑑賞式池泉なのですが、他の庭園とは一つ異なる点があります。それはもともと泉が湧いていたところを庭にして、そこに合わせて建物を作ったという点です。そのため庭を最も美しく見られるよう、縁には目線を遮る柱がたったの1本もありません。構造上明らかに何本かは必要であるように感じるのですが・・・。この絶妙なバランスを保っている姿はその場にいた学生のみならず、見た者全てに驚きを与えました。その点がこの庭を高く評価されているポイントでもあるそうです。

三井寺勧学院
 勧学院とは、学を勧めるところ、つまり三井寺内の学問所であったそうです。僧正はここに学衆をおいて、日々『三大部』(摩訶止観・法華文句・法華玄義)を講釈したそう。現在の勧学院客殿は豊臣秀頼の命を受けた毛利輝元によって、慶長5年に再建されたものです。つくりは桁行7間、梁間7間、正面軒唐破風付の総コケラ葺きの一重入母屋造、と光浄院に結構似たつくりで、内部は三列八室よりなっています。そのうち一之間と二之間には金地か素地著色画、その他三つの間には墨画の襖が並んでいました。一之間と二之間の著色画は狩野永徳の嫡男である光信によって描かれており、重要文化財に指定されています。この絵は金箔の下地に描かれたものなので、光の入る具合によって変化する絵の表情を楽しむことができます。光が当たってキラキラしている様もよかったですが、個人的には、光が入りだしたとき・消えだしたときの一瞬の変化が気に入りました。(他の水墨画は未指定ではあるものの、いずれも狩野派によるもの)

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日吉大社周辺
 本来は日吉大社に行く予定でしたが、都合により変更して大社周辺の街並みを見てまわりました。ここの辺りは石垣の中に樹木が植えられているという、少々特殊な石垣だそうです。正面の先の琵琶湖を眺めつつ、暖かい日差しを浴びながら、しばしのんびりとした散歩となりました。

記恩寺庭園・蘆花浅水荘
 そして、この旅行最後の訪門先・蘆花浅水荘。ここは絵師・山元春挙が生まれ故郷に別荘を建てたいと思い立ち、大正10年にできた建造物です。(その後大正12年に画室を増築)書院造に茶室を点在させ、数寄屋つくりを基調とする洗練された手法で建てられたのですが、実は2階は外観と異なって洋風となっており、1階の数奇屋との対照的なつくりを楽しむことができます。また建物と同じくらいの広さを持つ庭の真ん中辺りに小さな石垣があるのですが、それは以前その場所まで湖であったことを示しているんだとか・・・。その面(琵琶湖側)の縁の天井は船形天井になっているので、縁から琵琶湖を眺める様は、船に乗っているかのように感じられたことでしょう。
2日目の茶室に部長が大興奮したというのなら、私は3日目のこの建物に大興奮でした。なぜならそれはここが「迷路」っぽく感じたからです。2ヶ所入り口がある部屋が多く、廊下や縁がそのまわりを囲んでいることから「あれ、そっちからも来れるの?あぁその廊下を通って?」という場面が何度かありました。迷子になる家、普通に生活するにはマイナスポイントだらけかもしれませんが、私の密かな憧れでもあります。

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 この研修旅行を通して今まで写真でしか見たことがない、聞いたこともない建築物を多く見ることができました。そして直に見ながらの解説だったので、より分かりやすかったです。また同じものを学んでいる仲間と行けたことで、それぞれお互いに感じた意見を言い合ったりするなど、とにかく貴重な体験のできた3日間でした。(ヒラ)


  1. 2008/02/24(日) 21:32:45|
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京・近江の古建築を訪ねて(Ⅲ)

 研修旅行2日目の午後は曼殊院(京都市左京区)と居初邸(大津市本堅田)を見学しました。

曼殊院(八窓軒)
 もともとは比叡山西塔北谷にあって(8世紀)東尾坊と称されてましたが、平安後期になってこの名に改めました。曼殊院には重要文化財の茶室があり、希望者のみが入れるということで、めったにない機会なので入ることにしました。
 茶室は八窓軒と呼ばれており、東向きに建てられ、外から見て左側ににじり口がある三畳台目の茶室です。名前の由来は天井にあるものを含む8つの窓からです。お茶室に入った経験は少ない私ですが、8つも窓があるお茶室に入るのは初めてでした。窓があるおかげで部屋全体が明るく、また座るところによって部屋の雰囲気が全然違うように感じました。中でも、にじり口の斜め上にある窓は「虹窓」といい、外界の色の変化により様々な色が表れることからこう呼ばれます。
 また、この茶室は亭主自身が楽しめるように作られているようだということも、説明される中でわかりました。月見窓と呼ばれる天窓からは亭主の位置から月が見られたり、点前座をクローズアップさせるために3つも窓が作られていたり、亭主の座る位置から外の景色を楽しむための窓があったり・・・。多彩な材の使用や高い床天井は公家好み、窓などの構成手法には織部や遠州の好みが反映されているという、さまざまな感性のコラボレーションによって出来た茶室でした。生で感じる茶室に感動!!の見学の時間でした。

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居初邸(天然図画亭庭園)
 2日目ラストは県越えして滋賀県大津市の堅田・居初邸に。ここはもともと平安時代に院の御所をお護りしていた北面の武士の家で、天正15年ごろから船運を仕切り代々大庄屋を勤めていたそうです。居初邸の中に天然図画亭と呼ばれる建物と庭園があり、国の名勝に指定されています。
 天然図画亭は庭に面して広い廻縁があり、庭に一番近い部屋にはお茶室があります。八畳に一畳の点前畳が付属していて、逆勝手になっています。また、結界が作り付けてありました。初めて見る形のお茶室に驚きました。
 庭の東部は琵琶湖に面した枯山水で、湖の先の三上山(滋賀県では近江富士とも呼ばれる)を借景として、室内から庭→湖→山の3セットで見ることがここの一番の贅沢とのことです。また、雨戸が普通のものと違い、ブラインドのように上から降りるタイプであるのが珍しく、気になりました。

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 この日訪れたどの場所も素敵でしたが、やっぱり茶道をやっているだけにお茶室をたくさん見学できて楽しかったです。しかし、普段茶道をしている中ではあまり茶室の形式などを考えたことがないので、分からないことばかりで悔しいなぁ・・・と思いました。研修旅行2日目は、貴重な体験ができたいい一日だったと思います!(部長)

  1. 2008/02/23(土) 01:42:54|
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京・近江の古建築を訪ねて(Ⅱ)

 研修旅行2日目。この日は無鄰菴(京都市左京区)→南禅寺金地院(京都市左京区)→曼殊院(京都市左京区)→居初邸(大津市本堅田)を回りました。初日のMr.エアポートのようには説明できませんが、まずは午前中に回ったところを紹介。

無鄰菴
 無鄰菴は明治27年~29年に明治・大正の元老、山県有明が京都に造営した別荘です。建物は木造2階建の母屋、レンガ造2階建の洋館と藪内流燕庵を模したという茶室の3つがあります。洋館は明治31年に建てられましたが、2階の壁面に江戸時代初期の狩野派の金碧花鳥図障壁画が飾られている部屋があります。ここで、明治36年に伊藤博文や当時の総理大臣・桂太郎らと会議を開いたこともあるそう・・・。この部屋は、花鳥文様の格天井や椅子、テーブルなどの家具によって、当時の雰囲気が残されていました。
 また、無鄰菴はその敷地の大半が庭園です。これは有明自らの設計・監督により、造園家の小川治兵衛が作庭したもので、東山を借景として緩やかな傾斜地の庭に琵琶湖疏水を取り入れ、三段の滝・池・芝を配した池泉回遊式庭園です。
 ただ、残念なことに母屋や茶室の屋根の改修中だったり、雪が降り積もっていたりと、写真で見るような風景は見られませんでした。それでも、静かに雪の降り積もる庭を奥から見渡したときには、庭のスケールの大きさを感じ、有明の庭に対する思い入れを思い知らされるようでした。

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南禅寺金地院
 南禅寺金地院は、応永年間に大業和尚が足利義持の帰依を得て北山に開創した禅寺であり、慶長の初め崇伝長老が南禅寺塔頭に移建して現在に至ります。建物は方丈・開山堂・東照宮などがあり、方丈の南側には鶴亀の庭園があります。このうち、方丈・東照宮は重要文化財で、鶴亀の庭園は特別名勝です。
 方丈は伏見城の遺構と伝えられていて、内部は狩野探幽・尚信兄弟の筆と伝えられる襖絵があります。南側の縁からは庭園が見渡せます。この鶴亀の庭園は、小堀遠州が直接指導して作庭した確実な証拠を残す庭園です。前面の白砂は宝船と海洋を同時に象徴しています。その向こうの大きな長方形の平面石は東照宮を拝むための石で、その左に亀島、右に鶴島があります。開山堂に続く、半円形に並んだ飛石はまっすぐな石と45°にふった石とが交互に並んでいて、見ていて心地良いリズムだと感じました。
 開山堂は方丈の南西に位置します。内部の左右両側には十六羅漢像が安置してあります。また、内部の石敷きは45°の向きになっていましたが、引率の先生から不揃いなのを隠すためだと聞き、改めて見ると確かに一つ一つが大きさが違ってラインが揃っていない事が分かりました。目の錯覚をうまく利用しているなぁと思いました。
 開山堂の南には東照宮が位置します。建物全体が漆で黒くなっていますが、長押の上の方に鮮やかな色の模様が入っていました。また、拝殿・石の間・本殿からできていて、京都では唯一の権現造です。
 建物は全体的に禅宗様でしたが、一部長押を使うなど和様も見られました。

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南禅寺三門
 金地院を見学したあと、次の出発時間まで余裕があったので、同じ南禅寺の三門の見学もしました。南禅寺の三門は天下竜門と号し、上層の楼は五鳳楼といいます。三門の柱はとても太く、二人で手を回してようやく届くほどでした。楼へは左右の山廊から昇降出来るようになっていますが、今は正面向かって右側からしか登れません。階段はとても急で登るのも降りるのも怖かったです。
 ぐるりと縁が回っているので、楼を一周してみると縁の外側の方が少し下がって斜めになっていました。もとからなのか、それとも下がっていってしまったのかと、少し疑問に思いました。

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 午前中は雪が降っていましたが、次第にやんできて午後には晴れていきました。そして、この日の午後には茶室を見て大興奮でしたが、それはまた続きで。(部長)


  1. 2008/02/22(金) 00:44:06|
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京・近江の古建築を訪ねて(Ⅰ)

 実に10年ぶりの京都である。たしか前回訪れたのは小学校のときだ。当時ではお決まりの奈良・京都の修学旅行コース。最近では沖縄、北海道、韓国だとか…。ふと思いかえると、当時の私は古建築にさほど興味はなかった。奈良の大仏・大仏殿をよそに、柱の穴をせっせとくぐり、京都の街並みよりも岡崎動物園の動物たちを見ては、ひたすらテンションを高くしたことを覚えている。
 今思えばちょっぴり恥ずかしいが、そんな小学生だった。そんな私が古建築に興味を持ったのは、岡崎動物園の後に訪れた清水寺で、清水焼の湯飲み茶碗に絵付けをする体験をしたときだ。とくに描きたい絵もなかった私は、思い出にと清水寺本堂の絵を描いた。が、ろくに見てもいないのに想像で描くのは予想以上に難儀であった。しぶしぶ清水寺のパンフレットを開いて真似たが、完成は誰よりも遅かった。さすがに小学生だけあって上手とは言い難い作品だが、細部には特に気を使ったことを覚えている。このとき初めて古建築が面白いと思った。あの舞台の下の組み物はどうなっているのか、複雑な屋根はどんな造りになっているのだろうかと疑問を胸に、ただただ絵筆を走らせていた。それが私が建築を学びたいと思ったきっかけである。
 今週の日曜日から大学の集中講義で、京都に2泊3日の研修旅行が催され、偶然にも再び京都を訪れた。残念ながら清水寺はコースには組み込まれていないが、古建築を学ぶことを志した起点だけあって、久しぶりに訪れると昔のことをふと思い出す。大学に入学後、まだ駆け出しではあるが建築について学んでいる。今回は、あのころの疑問を、自分の「目」を通して解く旅としたい。初日は「鹿苑寺夕佳亭」と「大徳寺、高桐院(向松軒)・大山院」の2箇所を見学した。

鹿苑寺夕佳亭
 鹿苑寺金閣の東北方に位置する茶室。明治元年に焼け同7年(1874)に再建されたものである。金森宗和好みで成ったと伝えられる。「夕日に映える金閣が殊に佳い」ということから「夕佳亭」と名付けられた。外観は寄棟造茅葺屋根で妻入りである。前面に開放された土間を取り、そこに竈土(クド)を設ける。土間に面して三畳敷の茶室があり、西南に45度ふって二畳の上段の間が接している。おそらく草庵の小座敷と同様に狭く低い空間と、高くそびえる土間空間を開放的な出入り口で結ぶことにより、狭い茶室というイメージから寛大な空間を感じさせるのだろう。三畳敷の茶室内は、ノネ板張天井で、床の間は蹴込床で、床柱は南天の曲木を用いる。上段の間は、三方とも明障子と板戸を立てる。天上は確認できなかったが、配布資料の写真から網代張天井とみえる。

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大徳寺高桐院(向松軒)・大山院
 高桐院「向松軒」の建築物には客殿・書院・庫裏などがある。書院は千利休居士の邸宅を移築したもので、この書院に続いて二帖台目の茶室「向松軒」がある。「向松軒」は寛永5年(1628)細川幽斎公の長子忠興三斎公の手で建立されたものである。「常に松声を聞き且つ趙州無舌の茶味を嗜む因って松向と名づく云々」ということから「向松軒」と名付けられた。外観は切妻造檜皮葺屋根で妻入りである。東側に水屋を結合するが、給仕口を北側に設けることで客席から直接水屋が見えないようにしている。床の間は框床だが、入室厳禁のため床柱の木種は確認できず。茶室内の天井はノネ板張天井で、給仕用の間は網代張天井とする。腰壁は、点前座のみにあり客席には無い。茶室に珍しい黒壁は瞑想の場の感あって、簡素な中にも幽斎の雅味をたたえた名席といわれている。

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 大山院は大徳寺北派の本庵として、永正6年(1509)に六角近江守政頼がその子古岳宗亘を開祖に創立した禅寺である。本堂は、日本最古の方丈建築遺構とされ、国宝である。現在、屋根葺替え中のため素屋根で覆われており確認はできなかったが、縁側に展示している剥がした屋根の葺材からして、銅板葺(下地は檜皮葺か?)で、葺替え前の写真から入母屋造とみえる。本堂は6間からなり、北側には中央に仏間、西側に衣鉢間、東側に大書院を配す。南側には中央に室中を配し、天井は鏡天井で床は板張とする。また西側の壇那間・東側の礼間は根太天井で床は畳敷である。室中と壇那間・礼間を筬欄間で仕切り、上部を蟻壁にする。本堂の柱はすべて面取角柱とし、これらを建具で仕切り、室内は襖を立て、側面は舞良戸を立てる。室中正面の入口は藁座を設け桟唐戸を立てる。また室内、側面ともに長押を通している。本堂の四面に鶯張の縁をめぐらせ、南側を広縁とし落縁を設ける。この本堂の東に有名な石庭があり、手前に大きな船形の石「宝船」と「牛」の石を置き、奥にやや小さめの山形の石「比叡山」を配し、遠近法を用いて表現されている。この庭を南北に分断して花頭窓、腰掛付きの小廊下をかける。

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 初日、とにかく大学で学んだことから注目した。おそらく間違いや、おかしな表現も多いであろう。はたしてこの旅は自分の成長できる糧となるのだろうか。そんなことを考えながらも、初めて聴く鶯張の縁の音は、私の心を少しだけ10年前の少年期に引き戻した。(Mr.エアポート)

  1. 2008/02/21(木) 00:17:07|
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『史記』

 『史記』を読んで滅入ってしまった。
 この国に生まれて『史記』を通読する人が今いったいどれぐらいいるだろうか。わたしが『史記』を最初に購入したのは20代の半ば、北京に留学していたときだ。いちおう中国の歴史を学ぶ大学院生の端くれとして二十四史ぐらいはそろえようと、王府井の中華書局に通い、少しずつではあったけれども正史を買いためていった。いうまでもなく、『史記』はそのトップバッターである。
 で、中華書局本を読んだのか、なんて馬鹿げた質問をしないでください。読めるわけがない。結構なプロでもすらすらとは読めないでしょう。だから、たしか平凡社から出ていた和訳本も買った。
 で、和訳本を読んだのかって、読むはずないですね。何度か読もうとしないことはなかったのだが、とても睡眠薬代わりの愛読書となるような代物ではなく、これもまた本棚の飾りと化したまま。
 じゃぁ、どの『史記』を読んだのかって、言わずとしれた横山光輝本です。漫画の『史記』を読んで滅入ってしまったのだ。殺戮と権力闘争の繰り返しに辟易し、たまらない気持ちになる。戦い続けた武将たちも苦しかっただろうが、読む側も辛い。アマゾンを経由して各地の古本屋から各巻を買い集めているので、『史記』と『徳川家康』が時間差攻撃のようにして手元に届くのだが、家康という人物の寛容さと器量の大きさにはただただ圧倒され感心させられる一方で、『史記』を読めば読むほど気持ちが暗くなる。
 春秋戦国の乱世から劉邦(高祖)~武帝の漢代まで、よくもまぁこれだけ人を殺せるものだ。40万人生き埋めなんて、へっちゃらですよ・・・中国では人命など塵芥にすぎないのか、と嘆きながら、毛沢東の残虐ぶりを思い出した。中国の歴史を知らずに『マオ』を読めば、毛沢東の異常な残忍さに吐き気さえもよおしてしまうが、こうして『史記』を読んでから『マオ』を読めば、なんだ中国史では昔からこうなんだ、と納得してしまうから恐ろしい。


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  1. 2008/02/20(水) 00:38:54|
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日本代表ベストメンバー

 昨夜は風邪でダウンしていたが、息子が医者にもらって残していた風邪薬とユンケルを服したら少し体調が上向きになり、なんとかブログを書き終えた。ところが、そのあとユンケル効果で眠れなくなってしまい、やることもないので、日本代表のことを考え始めたのであった。
 なにぶん弱い日本代表をみせられた直後だけに、現状で日本代表のベストメンバーを選ぶとしたらどうなるだろう、と考えた結果が下の図である。

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 システムは、またしても4-2-3-1。べつに4-4-2でもよいのだけどね。GKは川口(ほんとはもっとでっかいプロレスラーのようなキーパーが欲しい)。4バックは左から、中田浩、中澤、トゥーリオ、駒野。わたしはオシムのいうポリバレントの支持者で、ポリバレントを実践するには、サイドバックの片方にボランチ兼ストッパーのできる選手をおいておくべきというのが持論である。これまで何度もそういう主張をしてきた。中田浩はこれにぴったりの人材だ。こうしておけば、敵が1トップであろうと、2トップであろうと、3トップであろうとただちにそれに見合う守備の陣形を組むことができる。鶴翼の陣だろうが、雁行の陣だろうが、なんだっていけるぜ。中田はときに3バックの左ストッパーであり、ときにウィングバックであり、ときにボランチのひとりになる。中田はサイドアタッカーとしてはやや落ちるが、欧米の強豪と対戦する場合、ストッパータイプの選手が2名では少ない。守り切れないとわたしは考える。相手が弱ければ、加地や内田を使ってもよいが、強くなるといけない。ストッパータイプが3人か4人欲しい。
 ボランチは鈴木と稲本で、大方異論のないところでしょう。
 中村俊輔はボランチとトップ下の中間のようなポジション。あまり前に出すぎると仕事をさせてもらないので、ピルロのようなポジションで前線をコントロールするのが良い。守備の負担はやや軽減させてやる。
 残りの3人、つまり松井と高原と大久保は3トップでも2トップでも1トップでもよいだろう。ともかく、動きまわること。高原が左に流れて、大久保は中央に切れ込み、あいた右サイドには駒野があがる。逆に左サイドのアタックは松井にまかせる(中田浩はやや引き気味のポジションとする)。
 北朝鮮戦の先発メンバーと比較するとですね、このベストメンバーと重なるのは中澤と鈴木だけ。道理で弱いわけだ・・・


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  1. 2008/02/19(火) 04:52:17|
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青谷の特番 NHK総合でリメイク!

 昨日から体が重く、いつもの「けんびき」症状か、と思っていたのだが、今回は違う。微熱があり、胃腸が痛む。食欲がないから、とくに悪いもの-たとえば中国産の餃子とか賞味期限きれの食品とか-を食べてはいないので、食あたりではないだろう。
 風邪なんだ。風邪をひいてしまった。風邪のウィルスに胃腸をやられてしまって、今日はずっとお粥です。

 夜7時から、サッカーの東アジア選手権(対北朝鮮)をテレビでみた。このまえ松江に出張していた夜、たしかキリンカップの放映があって、30分ほどみていたが、あまりにつまらない試合なので、ちょいとそこまで出かけてしまった。今夜は、とりあえず最後までみた。やはり退屈な試合だった。ヨーロッパのサッカーと何が違うのか、考えながらみていた。蓋しディフェンスの裏を突く動きの速さとパスの精度ではないか。パスのスピードにも問題がある。あんなゆるゆるのパスではインターセプトを喰らいます。「カウンターして頂戴」とお願いしているようなものだ。スコアは1-1だったが、現状では実力通りの結果だと言わざるをえない。

 「行列のできる法律相談所」を経由して、10時からはETV特集「人間国宝 弥生の謎に迫る」をみた。3人の人間国宝の顔が、戦国時代の老将にみえて仕方なかった。横山光輝の読み過ぎである。それにしても、職人の言葉は重い。研究者たちの言葉は軽く、研究者が監修して作ったCGもまた軽い。職人の作品と言葉には重みがある。この番組にCGは必要なかったのではないか。あれだけ苦労して作ったCGの存在意義をあまり感じなかった。CGなどなくても、十分魅力ある番組であり、むしろ軽率なCGなどないほうが番組の質が向上したような気がしてならない。
 流れからみれば、某考古学者がわずかな考古学的情報を頼りに想像を逞しくして、「青谷上寺地が日本海沿岸のいろんな集落に木器を供給したセンターであった」と発言し、その発言をうけてCGが流れる。まだ、こんなことは言えないでしょうね。日本海沿岸でこれからどんな遺跡が発見されるかわからないのだからね。それに、青谷上寺地の場合、低湿地で異常に木器の残りが良かったのは事実だが、他の遺跡では存在したはずの木器がほぼ消滅しているだろうから、どこがセンターだなどという言い方はいまのところ控えたほうがよいのではないか。木器の伝播・拡散についても不明なら、集落内の構造についても不明であって、やはりCGを作るべきではなかった、なんて書いたら、NHKは怒るかもしれないが、これはあくまで自己批判です。

 さて、ディレクターからの連絡によれば、特番のリメイク・バージョンが今月29日に放送されるとのこと。日時と番組名を紹介しておきましょう。

   日時:2月29日(金)PM8:00~(43分)
   番組名:「ふるさと発スペシャル」
       (総合テレビ:中国5県エリア)

 ETV特集を見逃した方は、是非ご覧になってください。

  1. 2008/02/18(月) 00:45:15|
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それ行け、床下編集室

 加藤家住宅のパンフレット作成中。編集は「床下にもぐる女たち」に任せた。いま彼女たちを「床下編集室」と呼んでいる。編集室の2名がもがき苦しんでいるさまは、自らブログで吐露しているので、ご存知の向きもありましょう。
 その嘆息からすでに20日が過ぎた。

 振り返るには苦々しい記憶になってしまったけれど、卒業研究公聴会の打ち上げ会場はイタリア料理のマンナ。みんな懐かしいのは「ほたる」だろうが、3日ほど前、栄養失調に悩むけんボーを連れて4年生と食事したばかりだったので、豪勢にマンナとした。マンナの晩餐は息苦しかった。左サイドハーフをのぞくゼミのメンバーが勢揃いした「最後の晩餐」であり、卒業生たちを「よくやった、よくやった、やっぱりうちのゼミがイチバンだ」と自画自賛しながら、カンパリとアルゼンチン・ワインをぐびぐび呑み、パスタとピザをがばがば食べて、最後はクレジット・カードの支払い代金にアブラ汗をたらたら流しながらも、みなに感謝しながらグーグー眠るという目論見がもろくも崩れ去っていたからだ。
 この目算をぶちこわしにしたのは、いうまでもなく公聴会に潜り込んでいたエイリアンである。余談ながら、わたしが不在にしていた翌日の深夜、渦中の人物が演習室にあらわれ、「床下編集室」の女子学生に恫喝まがいの叱責をするというおまけがついて、学内が騒然となった。しかし、その行為により、公聴会における過激な言動の病的な背景が読み取れ、わたしもチャックも逆に一抹の安堵と憐れみを感じた次第である。

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 それはさておき、マドンナ、じゃなかった、マンナの晩餐では、公聴会の話題があまりできないので、最後に「床下編集室」に矛先が向いてしまった。わたしが向けたのかもしれないが、なにより記憶に残っているのは、ハルさんの一言。

   「何をそんなに苦しんどるん?」

 同感です。わたしは「世の中に編集ほど楽しいものはない」と思っている人類の一人であり、どうしてまたこういう仕事が苦しいのか理解できないのである。ハルさんは倉吉報告書の表紙を描いた芸術家の卵であり、トマトさんはその報告書の100ページを編集し、チャックは加藤家住宅報告書135ページの編集をした。みな、なぜ?という疑問が消えない。
 床下編集室の2名は、学年で成績抜群の秀才であり、同じレベルであろう先輩諸君の業績を振り返っても、タクオ、ピエール、社長、キム・ドク(別名タイガー戸口)などはアドバイスらしいアドバイスをするわけでもないのに、センスの良いパンフレットや報告書を作りあげてきた。かれらはそれを楽しみながら実行したはずで、わたし自身、かれらのデザイン・センスに教えられるところが少なくなかった。

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  1. 2008/02/17(日) 00:40:49|
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クエンカ兄弟デュオ・リサイタルのお知らせ

 「ホセルイス・ゴンザレス追悼10周年」と銘打つコンサートが米子で開催される。スペインから招聘されるクエンカ兄弟のリサイタル。
 日時と会場は以下のとおり。

  日時: 3月13日(水)開演19時~
  会場: 米子市文化ホール イベントホール

 クエンカ兄弟の略歴については、チラシの裏を参照されたい。気になるのは、ピアノ(兄)とギター(弟)の二重奏であること。解説の濱田滋郎は「両楽器のコンビにおける従来の常識を超えた画期的なデュオである」とし、「とにかくアンバランスになりがちな」ギターとピアノの「二重奏の宿命がものの見事に拭いさられ繊細で奥の深い新しい美的空間が見えてくる」と述べている。

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 つい最近、アンドリュー・ヨークと門光子のデュオに失望したばかりなので、はたして本当に「新しい美的空間」がみせてもらえるのか、まことに気になるところではある。ヨークと門の二重奏を聴いた限りでは、そもそもピアノとアコースティック・ギターの相性は良いものではなく、かりにPAで音のボリュームを対等にしえたとしても、ギターの音色が変わりすぎて興が冷めてしまうに違いないという感想を抱いた。これが濱田のいう「宿命」であり、クエンカ兄弟はこの大いなる矛盾を如何に克服するつもりなのだろうか。

 ちなみにジャズの世界では、ピアノとギターの相性は少しましかもしれない。それは、いうまでもなく、フル・アコースティックギターの音が電化していることによる。しかし、だからといって、ギターとピアノの相性が「良い」とまでは言えないだろう。だれだって真っ先に思い浮かぶのは、ビル・エバンス&ジム・ホールの『アンダーカレント』だが、あの傑作は「例外」と思っておいたほうがよい。ジム・ホールの作るギターの音色がアンプで拡声されたものでありながら、まことにメロウな響きをもっているからなしえた二重奏であり、音色だけでなく音楽性の全体からみて、巨匠ビル・エバンスとサシで勝負できるギタリストはジム・ホールただ一人であった、おそらく過去も現在も・・・
 3月13日か。わたしは何処に居るだろうか。鳥取県内にいれば、米子に駆けつけることはできる。それ以外の場合は厳しい、残念ながら。

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  1. 2008/02/16(土) 00:04:29|
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牡蛎そば

 バレンタインに京都へ。京都と言えば歯医者です。わたしのホーム・デンティストもお歳を召され、夕方の診察はなくなった。だが、お昼には元気に患者を診られている。じつはこのドクター、相当な音楽通。スラッキーギターの「緩いチューニング」を教えてくださったのもドクターである。今日は写真を1枚みせていただいた。左からバンジョー、中国琴、ウクレレ(マーチン)、スティール・ギター、フラット・マンドリン、二胡、テナーサックス、ギター(マーチン)がソファの上にずらりと並んだ写真。中国琴は8000円だったそうだが、あとは高い楽器ばかりである。ドクターはとくにハワイアンがお好きで、スティール・ギターの関係からカントリーにも興味がひろがっていったそうだ。
 
 歯医者の後はいつものように「そば倉」で、いつもの「辛み大根おろし蕎麦」・・・とはいかなかったのですね、今回は。「牡蛎そば」という冬季限定メニューがあって、聞けば「生食用の牡蛎を霜降りして蕎麦にトッピングする」という。
 食べました。美味しかった。

 じつは先週、久しぶりに蕎麦切り「たかや」を訪れ、「鴨南蛮」を注文したところ、主人は問う。

  「あれっ、いつものメニューじゃないですね?」
  「えっ、寒いからねぇ、たまには暖かいのもね。」

 注文してまもなく、柱の貼り紙に気が付いた。冬季限定「牡蛎南蛮そば」。もう間に合わない。鴨よりは牡蛎がよい。体に良いのです、牡蛎のほうが。お勘定のときに訊いたんだ。

  「牡蛎南蛮って、どんな料理ですか?」
  「牡蛎を焼きましてね、白ネギとあわせて蕎麦にのせるんです」

 京都の生牡蛎蕎麦よりも、鳥取の牡蛎南蛮のほうがうまそうだね。こんど食べましょう。

  1. 2008/02/15(金) 00:00:14|
  2. 食文化|
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2008卒業研究展のお知らせ

 環境デザイン学科は卒業研究公聴会を終えて、残すは梨花ホールでの卒業研究展のみとなりました。卒業式を別格にすれば、4期生にとって最後の行事ですね。
 今年度は3月5日~9日の5日間。会場は、例年通り、県民文化会館ホールです。ぜひともご来場ください。

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  1. 2008/02/14(木) 00:53:00|
  2. 建築|
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卒業研究公聴会を終えて

 卒業研究公聴会は、無事ではありませんでしたが、なんとか終わりました。感想を卒業生自らの言葉でお伝えします。

嶋田 喜朗(論文)
「@青谷上寺地遺跡 -弥生時代『最長の垂木』をめぐる復元考察を中心に-」

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 今日という日が思い出にかわるのは、明日に希望を抱いたときである。2年前の2006年2月9日。私はうすっぺらんな大学2年生を終え、今はまだ見ぬasalabの雰囲気を味わうため、諸先輩方(2期生)の公聴会での発表を見ていた。今年と同じく大荒れの天気で、開始が大幅に遅れたのを覚えている。内容を覚えているかと問われれば、あんまりと答えるしかないが、卒業するためにはひと山越えねばならんのだなと、ひしひしと感じていた。今だからわかることだが、先生が「全盛期」とおっしゃるのも無理はないと思う。
 1年前の2007年バレンタインデー。嫌いなチョコではなく、クッキーをもらったという甘い思い出はおいといて、私はとある公聴会発表を聞いて、とても怒っていた。そしてその怒りは呼び鈴の音色とともに発表者へと・・・まぁそれもおいといて。現場にいたモリさんや「北から来たのさん」にはその思いが伝わったらしく、笑いながらなだめていただいたことを覚えている。
 そして今年。私はいつぞや叱られたことを思い出す。「評論家ではなく、主体者になれ」と。そして聴講者として2年間を過ごした私は、今日初めて主体者として矢面に立った。いや、矢面に立ったつもりだったと言ったほうがよかろうか。結局、今日もまた先生に助けていただいた。なんにせよ、私の発表・質疑応答の時間であったのだから、責任を持って自分で対処すべきであったとも思う一方、一人ではどうしようもなかったのだとも思う。
 批判は真摯に受け止めなければならない。人の考え方は一様ではないのだから。ただどうせ叩くのであれば、地面に埋めるのではなく、上下左右いずれかに伸びるよう叩いてくれれば、まだ芽も出ましょうに。
 私はいま、主体者としての重圧に苛まれている。暗中模索、南無阿弥陀仏。(チャック) 

松本 朋子(論文)
「谷口ジローの風景 -昭和の鳥取・町並みを探る」

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 1年間あっと言う間に過ぎ去り、公聴会の日を迎えてしまいました。谷口ジローさんという素晴らしい漫画家を卒論の題材に使わせていただき、作中描写から戦後昭和の風景を分析するという特殊な内容によく挑戦する気になったものだと思います。この一年で、一番街中を歩いた年ではないかと思います。ひとつひとつ、虱潰しに探していくうちに季節は夏から秋に変わり、天候の変化を見てはびくびくしていたものです。
 元々漫画は好きだったので取り組むことに抵抗は無かったのですが、研究進行に関しましては力不足の感も否めず、ここまでこれたことも指導してくださった浅川教授、ご協力いただいた皆様のおかげです。
 ここに厚く感謝の意を述べたいと思います。本当にありがとうございました。公聴会についてですが、あの時の辺りに漂うなんとも言えない空気が印象に残っています。(とまと)

横田 研二(論文)
「とっとり建築アルケオロジー: 縄文・弥生・古墳時代住居の復元」

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 昨日の午前中に公聴会の本番を済ませてきました。前夜、中間発表以上のプレッシャーを感じつつ、教授から指摘された部分の修正・確認をしてました。前日にもかかわらず指摘された部分がかなり多く、不甲斐なさを悔やみながらの作業でした。それでも、本番の時間は待ってくれません。前日の練習会で聞いた、チャックさんやトマトさんのパワーポイントと比べると味気ない内容でしたから。そのまま納得のいかないデータを抱えて本番の時間がきたのです。発表の準備には2年生、3年生も手伝ってくれ模型の搬入も無事すみ、チャックさんの発表が始まりました。自分の内容と照らし合わせると、やはり自信がなくなり、その為か、チャックさん、トマトさんの発表中もずっとそわそわと落ち着かない時間でした。意外にもチャックさんの発表へのコメントが多く、気持ちがより小さくなってしまいました。実際に発表を始めると、先生に修正される部分もあり、詰めの甘さが露呈しました。それでも、発表を聞きにきていた先生からは好評を得ることができ、ほっと胸をなでおろした次第です。
 あとは、展示会に向けての作業です。今回のような情けない結果にならないためにも、早め早めに手を打っていこうと思った今日の公聴会でした。
 先生のご馳走してくれたイタリア料理は大変おいしかったです。ご馳走様でした。(けんボー)

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城間 美乃(制作)
「下龍点睛 -ハロン湾の文化的景観2007-」

 10月の中間発表から何が変わったんか考えてみる。恥ずかしいけれども(主観的、な、)自己評価も。
・研究内容90点: 何よりも素晴らしいチャンス(出会い)があったおかげで、自身の能力範囲外の取り組みが出来た実感がある。それは制作の最中も同じで、テーマを決めた7月から今まで、作る目的が全くブレなかった。表装なしでマイナス十点。そして制作物なので、見る人それぞれの評価によってもっとマイナスされても仕方が無い。
・プレゼンテーション20点: しどろもどろだった。しかも、発表途中でパソコンのバッテリーが切れ、流れが滞った。ゼミ生が助けてくれていたので何とか続ける事が出来たが、後半が特に言葉足らずであった。「何も考えなくても体が動いた」中間発表とは間逆であるようにおもう。でも、ただ準備したモノを流しただけの前回よりも、今回の方がより、周囲の反応を受け取りやすかった。(私からは上手く答えが出ませんが)
 ・・・まだまだ振り返るべき点はある。でも、まだまだ卒業研究展というイベントが残っている!もうちょい、もうちょい現物へ向き合っとく。(ハル)

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↑ハロン湾の自然景観(上)と文化的景観(下)


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  1. 2008/02/13(水) 03:28:12|
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スラッキーギター入門

 3連休を利用して、半年前に買った教則DVDをいくつかみた。なかでも印象深かったのが、ケオラ・ビーマーの『ハワイアン・スラッキーギターの芸術』とポール・メスリングの『ジャンゴ・スタイル ジプシージャズギター』の2作。時間がないので、今夜は『ハワイアン・スラッキーギターの芸術』だけとりあげておこう。
 わたしとスラッキーギターの出会いは10年ばかり前になる。当時、オータさんのウクレレにはまっていて、ハワイの弦楽器音楽を漁っており、日本にも山内雄喜というスラッキー・ギタリストがいることを知った。たしか1~2枚CDを買った記憶がある。そのころの印象は、ともかく「ゆるゆるの変則チューニング」というぐらいのもので、何度か6連奏チェンジャーに納まったが、まもなくお蔵入りした。

 そもそも、ハワイにギターが伝来したのは1830年頃のことで、当時、マラヨ・ポリネシアンたちはギターの正式な調弦を知らないでいた。自分たちの民謡にあうチューニングを独自に考えて伴奏楽器としていた。模範となる調弦がないのだから、大げさにいうならば、ギタリストの数だけ調弦があるような状況がしばらく続いていたらしい。それが、19世紀末になっていくつかのスタイルに収斂していき、それでもなお私的な場での演奏しか認められていなかったという。公の場でスラッキーの演奏がおこなわれるのは1950年代以降のことである。
 ケオラ・ビーマーがまず紹介するのはFワヒネ・チューニング。ワヒネとは「女」を意味する。開放弦でCFCGCEという並び。厳密に表現するならば、A音を抜いたFmaj9コードで、1弦の1フレットと3弦の2フレットをおさえればFコードとなる。ビーマーは「とても美しいチューニングだ」と自賛している。これを試してみたところ、たしかに開放弦で見事な和音を奏でられる。DADGADに比肩しうるチューニングであろう。
 ビーマーが次に紹介するのはB♭ワヒネ・チューニング。開放弦でFB♭CFAD。こちらもB♭キーのmaj9コードである。ネットで調べると、ワヒネ調弦にはさらにCワヒネ(CGDGBD)、Dワヒネ(DADF#AC#)もあるようで、前者はやはりmaj9コード、後者はmaj7コードである。maj7やmaj9はジャズバラードで最もよく使うテンション付きの主和音であり、はたしてスラッキーに古くからジャズの影響があったのかどうか。常識的にはハワイアンのスケール(音階)がmaj7やmaj9とよくあっているということなのだろうが。

 ビーマーはオープンGチューニング(GDGDBD)も紹介している。ハワイではこれをタロパッチ(タロイモ畑)と呼ぶ。ほかにも何種類かチューニングがあるようだが、きりがないので、このあたりでやめておく。

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  1. 2008/02/12(火) 00:09:56|
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モロコを食べる夜の町

 松江の仕事は昼に終わり、妻木晩田に移動した。例の竪穴住居復原設計が煮詰まらない。隅サスで納まらないから、アイヌのケツンニ(3脚構造)構造への方針転換を指示したが、平面が正方形に近いため、なお納まらなかった。ついで、サス兼用の垂木(力垂木)を用いる架構を指示した。今回4種類のバリエーションを模型で示されたのだが、結局、ケツンニの構法に近い近世民家風のサス構造で納まるという結論が得られた。ようやく得られたのである。
 この理解は、現在ケンボーがまとめに入っている卒論の方向性ととてもよく似ている。ケンボーはケツンニ構造の源流とも言える円錐形テント(3脚もしく4脚の構造)を使って縄文住居と松菊里型住居の復原に成功し、隅入の古墳時代住居は桁・梁上にケツンニを組むことで高殿(タタラ)的な2層入母屋造に復原した。テントの構造がここまで影響を残しているのであって、結果としていえることは、ケツンニと複合する小屋組からみれば隅入はごく自然であり、入口は従来想定されていた妻側正面ではなく、隅か平側正面にくる可能性が高いということである。ケンボーの卒論が妻木晩田の小屋組復原と共振したことは研究史上、意義深いことである。

 午前と午後、3時間ずつ復原建物を指導したわたしは帰りの列車のなかでぐったりきてしまった。喉が痛い。窓外の日本海と雪景色を眺めながら、こんな寒い夜に大学まで戻る気力は失せてきた。一杯引っかけて家に帰るしかない。

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 で、「飛鳥」に行った。したら、どうですか。ごらんのとおり、モロコがいっぱい泳いでいる。なんでも河原町の中井に休耕田を利用したホンモロコの養殖場があり、そこの代表者が試食用にもってきてくれたのだという。外観はわれらが「雑魚釣りの快楽」でお馴染みのハエによく似ている。ハエよりもややこぶりだ。女将さんが天ぷらにしてくれた。これが美味い。隣に坐っていたおじさん二人も同じものを食べて、

  「こりゃ美味い、ワカサギより上品な味だ」

と絶賛する。驚いたことに、モロコ料理では、鱗を取らないし、内臓も取らない。生きたモロコにそのまま小麦粉をまぶしてザーッと揚げるだけ。食べてみれば、鱗も骨もまったく感触はなし、身はもっちりしており、内臓はほんわかと微かな苦みを感じさせるが、その苦みが酒にあう。ワカサギよりも美味いという根拠のひとつはこの内臓の苦みの程度にあって、つまりワカサギの内臓のほうが苦いのである。

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  1. 2008/02/11(月) 00:35:44|
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2007年度卒業研究公聴会のお知らせ

 卒業研究公聴会の日が近づいてきました。今年度は2月12日(火)・13日(水)の両日開催されますが、ASALABは12日のお昼時に集中しています。
 会場は論文部門が14講義室、制作部門が26講義室です。どうぞ聴きにきてやってください。

11:00-11:20 嶋田 喜朗(論文
   @青谷上寺地遺跡 -弥生時代「最長の垂木」をめぐる復元考察を中心に-

11:20-11:40 松本 朋子(論文)
    谷口ジローの風景 -昭和の鳥取・町並みを探る
  
11:40-12:00 横田 研二(論文)
    とっとり建築アルケオロジー: 縄文・弥生・古墳時代住居の復元

13:00-13:20 城間 美乃(制作)
    下龍点睛-ハロン湾の文化的景観2007-

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↑卒業研究で制作した妻木晩田の桁行3間高床倉庫。今年度の復元研究がETVのCGアニメーションにも大きく貢献しています。


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  1. 2008/02/09(土) 00:09:13|
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ETVで青谷上寺地遺跡の集落復原CG放映!

 いつぞや京都駅のラ・タンで某ディレクターと密談したお話をしましたが、あれは「青谷上寺地遺跡集落復原CG指導」の依頼だったんです。オドロキ、モモノキでしょ。これまでの発掘調査で弥生時代の建物跡が数棟しかみつかっていない遺跡の「集落」を復原しようという試みなのだから、無謀というほかない。話を伺った瞬間、「やめよう」と思ったんです。某研究所時代のわたしなら完全に撤退していたでしょうが、ご時世も変わり、わたしも変わり、いろいろ考えたあげく、1週間後には「承諾」の返事をしました。しかし、この作業はわたし一人でできるわけはないので、県の関係者と「ワーキング・グループ」を作って臨むという条件をだしたんです。
 建物跡が少ないとはいえ、これまで発掘調査した遺構・遺物から最大限の情報を引き出して青谷上寺地の集落イメージをふくらませる一方、山陰の弥生集落論との不適合を少なくすることがまずは肝要であり、さらに建築部材による復原研究をふんだんに取り込むことに努めました。
 結果はまぁまぁというところじゃないでしょうか。寺町のNHK(新居の近所)や大学の演習室でなんどか打ち合わせがあり、昨夜NHKで最終校正を終えてきました。

 番組名と放送時間をお知らせしておきます。

  番組名: 人間国宝 弥生の謎に迫る 
        ~青谷上寺地遺跡 木製品1万2千点の世界~
  放送日: 2008年 2月17日(日)
        PM 10:00~(59分) NHK教育テレビ

 ちなみに、「続き」を読んでいただければ分かりますが、この番組は「人間国宝の方々が弥生の木器制作に挑戦する」ことに主旨がありまして、集落のCGはその余興のようなもの?です。が、3分ばかりのCGに現在までの調査&復原研究の蓄積が圧縮されておりますので、乞ご期待!
 なんちゃって、アンテナのないわが家では番組がみれないのね、とほほ・・・・

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↑教授作「集落配置エスキス」のver.3。さらにバージョンアップしていきました・・・

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  1. 2008/02/08(金) 00:23:22|
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山村カメラマンの建築写真展

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 松江市在住の山村カメラマンから「個展」のお知らせが届きました。山村カメラマンは、「仁風閣を映す」でご紹介したとおり、重要文化財・国宝建築を撮影する全国行脚を続けておられます。研究室との関わりでは、尾崎家住宅報告書の表紙と口絵数枚を撮影していただきました。
 今回は「国宝建築シリーズ」「山陰建築文化財シリーズ」「海外の建築と街並」の3つのパートからなる個展のようです。展示期間・会場等は以下のとおりです。

  期日: 2008年3月1日(土)~6日(木) 9時~17時
  会場: タウンプラザしまね(市町村振興センター)1Fホール
      松江市殿町8-3
  協賛: (社)日本建築家協会(JIA)島根地域会
      (社)島根県建築士会  島根県技術士会
      NPO法人まつえ・まちづくり塾  写真家集団「アイ」

 それでは各シリーズの案内(本人執筆)と写真の抜粋です。

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1.国宝建築シリーズ
 「国宝」は文化庁の専門スタッフがつくる原案をもとに、絵画、彫刻、工芸品、書籍・典籍、古文書、考古資料、歴史資料及び建造物を対象として、文部科学大臣の諮問を受けた文化審議会において、指定すべきかどうか議論した結果を文科相に答申して決まるという仕組みになっています。そのうち「国宝建造物」は、平成20年1月現在、合計213件あります。1990年代から全国の国宝建築を撮り続けてきましたが、2004年早稲田大学芸術学校で建築写真を専門に学ぶ機会があり、それからは大型(4×5判)、中型(6判)で全ての国宝建築を撮り直す作業を進めています。

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2.山陰建築文化財シリーズ

 山陰地方にも国宝、重文のほか、多くの建築文化財があります。折にふれ、そのときによいと感じた建造物を、あるがままに撮りつづけております。郷土の誇りとなる文化財の存在を、写真という形で、皆さんに伝えていきたいと思います。

3.海外の建築と街並-インド・フィンランド
 国内の建築文化財ばかりを撮ってきましたが、昨夏業務で行ったフィンランドの街がすばらしく、これからは外国の建築や街並も対象にしていこうと思いました。今回は、フィンランドのヘルシンキ、タンペレの街並と、昨秋建築家の皆さんとツアーを組んで初めて行ったインドの聖跡(仏教・ヒンズー教・ジャイナ教など)の写真から選んでみました。旅行中で小型カメラの手持ち撮影なので、伸ばした映像があまり鮮明でないのが残念ですが。

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  1. 2008/02/07(木) 00:57:16|
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レッティン・ゴー(Ⅱ)

 「レッティン・ゴー」に続く第1部の2曲め「アルバイシンの丘」も快調だった。ところが、3曲めの「キンダーライト組曲」から、ヨークは調弦に悩まされ始める。とくに3弦。フレーズとフレーズのあいだの短い休息を使って、巻きねじに手をやるシーンが目立つようになった。1度や2度ではなく、ひっきりなしにチューニングの微修正を試みる。3弦だけではなく、2弦や4弦にもそれは伝染していった。うぅぅん、これはやはり、いささか興ざめの感が否めない。弦がまだ安定していないのだろう。いったい、何日前に弦を張ったのか・・・とても期待していた「マイ・フェイバリット・シングズ」でも調弦の不安定さは納まらなかった。
 それでも第1部最後の曲、つまり「マーリーの亡霊」のころには弦も安定するようになってきた。この曲は、ほんとうにおもしろい。ジャズやブルースをアレンジして演奏するクラシック・ギタリストがいないことはない。しかし、レゲエだからね、この曲は。しかも、レゲエの曲をアレンジしたのではなくて、レゲエをイメージさせる作品をコンポーズしているのだから、凄いの一言だね。もちろんじっと指の動きをみつめていた。すでにわたしはこの曲を暗譜している(つもり)。しかし、どうしても弾けない部分があって、楽譜の指示とは異なる指使いで誤魔化している。そこをヨークはもちろん楽譜どおり弾いてみせた。高速のコード・ポジション・チェンジ。もうすこし練習すれば、ヨークと同じ指使いができるようになるだろうか。

 さて、上にみたように、ヨークはたんなる演奏家ではない。ギタリスト=コンポーザーであるところが、最大の魅力であろう。自分で作曲した曲を自分で演奏する。軽音楽の世界では自然な行為がクラシックの世界では自然ではない。作曲とギターを学び、両者を合体させて実践する。ヨークとディアンスが、ロックやジャズで育った若い世代に指示される所以である。

 第2部は門光子さんという女性ピアニストが登場。1曲めは門さんのためにヨークが書いたピアノ・ソロの曲「祈りと踊り」。続く2曲めの「サクラ変奏曲」は門さんとヨークの共演。ここで問題発生。PAのバランスに難あり。客席ではほとんどピアノの音しか聞こえなかった。まれにギターの音が前にでることもあったが、PAで拡声された音声は第1部で「魂が癒される」と感じた生ギターの音ではなかった。こんなギターの音を聴くために、わたしたちはヨークを聴きにきたわけではない。それから3曲ソロに戻り、またマイクなしとなって、ギターの生音を聴いた。ほっとした。しかし、最後の「サンバースト」ではまたピアノとの重奏になり、ギターの音が聞こえなくなった。ソロの「サンバースト」が聴きたかった。ヨークが弾くソロの「サンバースト」・・・聴きたかった。

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  1. 2008/02/06(水) 00:19:23|
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レッティン・ゴー(Ⅰ)

 ついに本物の「マーリーの亡霊」を聴いてしまった。目の前のステージで、アンドリュー・ヨークが自ら演奏する「マーリーの亡霊」。
 昨年10月14日にお知らせしたとおり、わたしはヨークの来日公演チケットをファミマで入手した。あれから3ヶ月あまり経ち、ついにヨークをライブでみる日がきたのだ、先月のことなんだけれども。

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 どのタイミングでこの記事を書くべきか。少し考えていて、昨夜ようやく執筆体勢に入った。ところが、コンサート会場で手に入れた次第やら楽譜やらがみあたらない。たぶん大学に置き忘れてきたのだろうとタカをくくっていて、さきほど戻ってきたのだが、こちらにもどこにもない。あんなに大切にしてリュックサックにいれていたのに、どうしてこうなるんだろう。車の中か、下宿のアトリエか・・・???

 このショックは並大抵のものではないのだが、気力を振り絞り、ネットのサイトを漁りまわって、なんとか次第の復原に成功した。チョペさん、引用させていただきました。ありがとうございます。

 第1部  レッティン・ゴー
      アルバイシンの丘
      キンダーライト組曲
      マイ・フェイバリット・シングズ
      ラメント
      マーリーの亡霊
 第2部  祈りと踊り(ピアノソロ)
      サクラ変奏曲(ギターとピアノのための)
      スケリーズ
      コール
      織り込まれたハーモニー
      サンバースト(ギターとピアノのための)
 アンコール 巨人たちのアベニュー

 1曲目の「レッティン・ゴー」を聴くだけで十分価値のあるコンサートだった。開演前、ホールに設けられたグッズ売り場にお客が殺到していて、わたしもその戦列に加わったのだが、平積みにして置かれた「レッティン・ゴー」の楽譜が飛ぶように売れていく。1曲だけで1200円もするのに。それが、わたしの一歩手前で売り切れてしまった。こんなに多くの素人ギタリストがヨークの新作に挑戦しようとしてるんだ。それだけでも驚きである。

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  1. 2008/02/05(火) 00:05:23|
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アクセスに異変?

 節分に、奈良でも雪が積もりました。寒いね、底冷えだ。鳥取は大雪なんだろうな。鳥取に生まれ育った方には理解できないでしょうが、京阪神では雪が「降る」ことはあっても、「積もる」ことは滅多にないのですよ。スーパーはくとに乗る気力が萎えてしまいましたね。

 さて、先月のユニークアクセス(UA)がついに5000件を突破!・・・と報道したいところなんですが、実数は4944件(1日平均=約160件)。なんだたいしたニュースじゃないね、とお思いかもしれませんが、これまでの最高値は4500件余りで、ここ3ヶ月の推移は横ばい状態でしたから、2008年を迎えて大きな伸びをみせたのは間違いありません。
 ところで、ユニークアクセス(UA)とは何なのか。復習しておきましょう。UAはアクセスした「人数」に近い値を示しています。でも、厳密には「人数」でもない。FC2の定義によれば、「訪問者の重複アクセスを数えていない場合の測定結果」です。FC2の場合、1時間ごとに測定値がでて1日のアクセス合計が示されるので、同じ人が1時間以内に何度アクセスしても測定値は「1」ですが、1日=24時間では最大値として「24」回測定値としてあらわれます。
 一方、トータルアクセス(TA)は、「訪問者の重複アクセスを数えている場合の測定結果」でして、これが世にいう「アクセス」ですね。ASALABの場合、月に9000~11000件のアクセスがあるので、年間のアクセス数は10~12万件と理解してください。オープンしてから3年足らず、これまでのアクセス総数は25万件を超えています。
 この1月、トータルアクセスには大きな変化がありませんでした。しかし、ユニークアクセスがあきらかに増えています。正月三が日はひどかったんですよ。88、100、121という値で先が思いやられるな、と思っていたところ、7日あたりから猛烈な伸びを見せ始め、平日で180~190、土日でも130~150を維持し始めました。昨年までは平日が140~160、土日が100~130ぐらいでしたから、あきらかな伸びを示している。これはどうしたことか、と訝しがっていたところ、ついに1月25日に「202」を記録しました。2005年4月のオープン以来、1日のユニークアクセスが200件を突破したのは初めて。ドイツ・ワールドカップ中にもなかったことです。嬉し涙にくれました。ところが、4日後の29日には、なんと「224」がでて、またたくまに記録更新。
 なぜアクセス数が増えているのか、正直なところ、よく分かりません。25日の記事は「湯たんぽ」、29日の記事は「大城さんがやってきた!」なんです。しかし、その日に書いた記事の内容とアクセス数は必ずしも相関するわけではない。でも、やっぱり大城が福の神なのかな・・・


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  1. 2008/02/04(月) 00:00:35|
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薬研堀慕情(Ⅰ)

鮎の茶屋

 慶長十五年六月のある夕刻、下呂舌右衛門は自宅の座敷で電子映像をみながら酒を酌み交わしていた。

    「伸太、今回の大和蹴鞠団はあまり強くないのぉ」
    「はぁ、なにぶん、あの爺古とか申す伯剌西爾人の監督の采配が訳わかりませぬゆえ」
    「利蔵、その爺古とか申す南蛮人を始末できぬか?」
    「はっ、できぬことはございませぬが、とりまきを甲賀者が固めております故、利蔵ひとりではたやすい仕事とは申せませぬ・・・」

 伸太と利蔵は舌右衛門の側近ではない。伊賀から3年契約で雇いいれた間忍(しのび)のものであった。いつもは床下か天井裏に潜んで舌右衛門と密談におよぶのだが、この夕刻は大和蹴鞠団と朝鮮蹴鞠団の試合があり、舌右衛門は蹴鞠好きの伸太に電子映像を馳走していたのである。利蔵もその恩恵にあずかった。

 ふと電信音が鳴った。

   「・・・・あっ、いまね、サッカーの試合みてるから・・・・」

と答えて、舌右衛門は手機を切った。

    「どなた様でござりますか?」

と伸太が訊く。

    「・・・鮎よ、鮎じゃ。」
    「あっ、鮎姫がお呼びでございますか? さっそく薬研堀へ参りましょう。」
    「阿呆、おまえ、蹴鞠が視たいのではないのか?」
    「いえ、まぁ、その、あの茶屋には美しいおなご衆が多ござりますゆえ」
    「鮎の電信はな、本気ではない。営業じゃからの・・・」
    「そうでしょうか、なんと申されておりましたか?」
    「このまえの占いの続きしようねって。」
    「あれは楽しうございましたな。拙者、鮎さまも殿のこと、まんざらではないと思いまするが・・・」
    「おまえはわしを出汁にして、あの茶屋へ日参しようという魂胆がみえみえじゃ。鮎はわしに惚れてなどおらぬわ。」
    「では、行かぬのでございますか?」と利蔵が訊いてきた。
    「おまえも行きたいのか? 」
    「はい、無論でございます。まだ行ったことがございませんゆえ、是非・・・」 

 試合は引き分けに終わった。

   「靄靄とした気持ちを晴らすには、茶屋へ行くのが一番にござりまするぞ」

と伸太がせかす。

    (3人分か、また金がかかるわい)

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  1. 2008/02/03(日) 20:21:09|
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エドクラストンを弾く(Ⅲ)

 六弦倶楽部第5回練習会のオープニングに遅刻したわたしは、チョトロク代表以外の方がどういう挨拶をされたのか聞いていません。いったいみなさん、一年の計をお話しになったのかどうか。
 わたしは冗談めいたショート・スピーチにとどめました。それにしても、今回の練習会は良い薬になりましたね。出来は悲惨なものです。会の2日前までは欠席しようと決めていたのに、思い返して参上したものの、練習不足は甚だしく、緊張のレベルも予想以上に高かった。出来の悪さから言えば、大山の別荘でおこなわれた9月初旬の第3回練習会に逆もどりした感がありました。あれから学祭、第4回練習会と徐々に緊張の糸はほぐれてきていたんですが、今回は駄目だった。「今回も」というべきか。
 捲土重来を期すとはいえ、年度末の忙しさは尋常でなく、ギター練習に専心できるような余裕はありません。じつは、クラシックギターのレッスンも4月まで休もうとしています。だから、コンクールへの参加など夢のまた夢。ただ、いちど大きなステージを経験してみたいとは思っています。客席と離れた大きなステージで演奏しても、こんなにあがるのかどうか、試してみたいんです。が、テープ審査は2月に迫っており、とても時間が足りません。

 さてさて、今年の音楽目標は何なのか。まず音楽の方向性ですが、2つの軸が固まってきています。

1.古いフォークの継承
 ウディ・ガスリーに起源し、ランブリン・ジャック・エリオットや初期のディランに受け継がれる民謡・伝承歌としての古いフォークを再評価し、ギター、フラマン、バンジョーなどで演奏し、歌をうたう。高田渡はもちろんこの系列の日本代表です。今回はまた月太郎さん、じゃなかったディランさんにやられちゃった。「ミスター・タンブリンマン」最高ですね。あれならすぐにバンジョーであわせられますよ。「ザ・ウェイト」も良かった。リードギターが弾きたくなりました。さて、同じフォークではありますが、この系列とややずれるのがブラザース・フォアの世界でしょう。こちらのフォークは「社会派」とは一線を画しますが、美しいメロディー&ハーモニーと素朴な歌詞で人の胸を打つ力がある。いわばカレッジ・フォークの源流です。今回初演したシューベルツの「ひとりぼっちの旅」はこちらの路線ですね。坂庭省悟の音楽は、「高田渡」的要素と「シューベルツ」的要素が融合していて、わたしの指向性と非常に近いものです。坂庭さんほど、楽器がうまくはなれないでしょうが。こういう古いフォークを六弦倶楽部のメンバー複数で演れるようになれるのなら、とても嬉しいですね。
 もちろんこの分野に限るというわけではありません。いろいろな「歌」に挑戦してみようと思っています。「歌」にあわせて「歌伴」を考えるのは、とても楽しい作業ですから。

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  1. 2008/02/02(土) 00:16:02|
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エドクラストンを弾く(Ⅱ)

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 六弦倶楽部第5回練習会におけるわたしの演奏曲目は以下の3曲です。もちろんギターはチョトロク代表のエドクラストン。ラインをアンプにつないだ状態で3曲弾きました。

   1.ひとりぼっちの旅(ヴォーカル付)
   2.無伴奏チェロ組曲1-1(インストルメンタル)
   3.Days of Wine and Roses 酒と薔薇の日々(インストルメンタル)

 選曲には悩みましたよ。練習していないんだから、ヨークの「サンデーモーニング・オーバーキャスト」「マーリーの亡霊」はもちろんのこと、これまで演奏した「スィート・メモリー~少年時代」「ビートルズ・イン・G」「やさしく歌って~ミッシェル」「貝殻節」などで再挑戦するのが合理的かつ自然であり、今はそうすべきだったと反省しているんですが、参加するか否かで悩みながらも、やはり処女作を聴かせたいという気持ちが強く、2以外は初演となりました。全般的にひどい出来でしたね。猛省が必要です。

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1.ひとりぼっちの旅(ヴォーカル付)
 NHK「みんなの歌」でお馴染み、シューベルツ晩期の代表作です。作詞・北山修、作曲・はしだのりひこ。「みんなの歌」では4人のメンバーのアコーステッィクな演奏で、杉田ジローがリードボーカルをとり、サビで全員がハモるフォークバンド本来のアレンジでした。その後、各メンバーのソロ・シングルの1曲として発売された際には、青木望編曲のオーケストラをバックに作曲者のはしだのりひこが自ら歌っています。前者を好むファンのほうが多いのではないでしょうか。とくに、イントロのアルペジオが印象的でした。
 いつものように、ヴォーカルでスタートして指慣らしというパターンだったんですが、声が震えていて、おったまげちゃいましたね。歌でこんなにあがったことないんだけど、ほんとにあがって声がでなかった。ワインのせいかな・・?? 
 この曲を選択した理由は、原曲がDキーだったからです。2曲めのプレリュードもDキーでして、おまけに6弦Dドロップ。2曲めのための指慣らしと割り切って「ひとりぼっちの旅」も6弦Dドロップでアレンジしたんです。ところが、これがおもしろかった。不思議なもので、レギュラーで伴奏しているとただのフォークなんですが、6弦をDに下げるだけで重厚感がうまれ、ぐっと和声が高尚になります。まず「みんなの歌」のイントロでスタートし、少しずつ複雑なコードをとりいれて行きました。たとえば、Aパートは原曲ではD→F#m→G→A7なんですが、わたしはD→F#m7→G6→Em7onAに変えています。サビの部分でもど真ん中のA7をディミッシュ・コード(A7♭9)に変えて構成音を分解(アルペジオ)し、Em7に繋ぎました。間奏は青木望編曲のシングル・バージョンを採用。伴奏はインストとしても結構楽しめるアレンジになったはずなんです。ワイフも「大丈夫」と太鼓判を押してくれましたが、緊張すればチャラだから。だって1曲めですからね。声が震えているんだから、指は動かないわね。
 もう少しインストの時間を長くのばし、ヴォーカルを最後に絡めるようにきちんとアレンジして捲土重来!ですかね。

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  1. 2008/02/01(金) 00:00:26|
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本家魯班13世

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