十神林道班 私たちは谷口ジローの『魔法の山』に描かれている久松山に登り、鳥取城跡の遺跡を調べながら山登りすることになった。13:00に鳥取県庁に集合し、鳥取西高校横の門より山に入っていった。前回のプロジェクト研究は鳥取城の歴史を市役所でお話を聞かして頂きました。私たちは鳥取城のこと、久松山のこと、仁風閣の歴史をこれまでの演習で学んできた。今回は、今まで学んだ知識を頭に入れながら実際に久松山に入ることになった。実際に登山するのは初めての人がほとんどで、不安な気持ちと好奇心がいっぱいだった。
私たちは、まず鳥取城二の丸に足を踏み入れた。そこからの眺望で鳥取市を見渡すことができた。二の丸には桜の木が生えていて花見で賑わう場所だ。桜は散っていたが、ツツジは満開で、鳥取西校の生徒たちがまとまってお弁当を食べていた。

私たちはお稲荷さんの赤い鳥居をくぐり、山に入っていった。足場に石段が作られているが、天守閣があった元禄ころまでにはできていた山道なので、足場がの状態が良いとは言えない。登山している人が多く、何人もすれ違って挨拶しあった。私たちは登山を目的とするのではなく、遺跡の調査を目的として山に入ったのだから、周りに目を配ってデジタルカメラでの撮影や配布された地図にメモを書き込んだりしながら進んでいった。最初おもっていたよりも石垣は数多くあり、山の中で平らになっている「郭」には建物が建っていたのだろうなどと話をしながら進んでいった。自然の岩盤なのか人工的な石垣なのかを見極めるのが難しかった。おそらく、自然の岩盤を利用し、それを石垣で補いながら「郭」を作っていったのだろう。

↑中坂5合目あたりの石垣跡 ↓石段も文化財。8合目の「山伏の井戸」
[中坂を往く -魔法の「昭和の日」(Ⅱ)]の続きを読む
- 2008/04/30(水) 23:00:28|
- 史跡|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

4月29日は子どものころ「天皇誕生日」として国民の祝日であった。今では何と言う休日なのか知らない。さきほどみたTVニュースで「昭和の日」だと言っていた。初耳である。「昭和の日」があるのなら、「大正の日」や「明治の日」があったって良いと思うのだが、現実にはないのだから、「昭和の日」がなければならない理由はない。先日も「飛鳥」のオヤジが「休日が多すぎる」とぼやいていた(最近、巨人が弱すぎて機嫌が悪い)。わたしは二人の子どもを大学に通わせているが、GWのスケジュールは真反対で、姉の大学では全休、弟の大学では全出である。環境大学はというと、28日(月)のみ授業あり、以下休日(職員は出勤)。
今年の「昭和の日」は素晴らしい快晴であった。13時県庁集合。わたしはジャージ姿でビアンキに乗り県庁へ。すでにP1&3の大半のメンバーが集まっていた。27日に「決死隊」として登山した1・2年生2名(1名さぼり)をのぞく7名の1・2年生に加え、3・4年生も4名加わった。新3年生も全員集合。まずは、前夜、4年の部長とエアポートが作成してくれた地図等の資料と画板を全員に配布。

「今日の山登りの目的は山登りにあるのではないよ。久松山に登ることに
よって、久松山という城跡の自然と歴史に関するデータをえることが山登り
の目的です。だから、配った資料にたくさんメモを書き込んで! 写真を
撮った位置。珍しいものを発見した記録などね。こういうフィールドワークを
することが今日の目的です」
と、いきなりお説教がましいことを述べた。27日の「
西坂」登坂記事を反面教師としないければならない。決められたコースを歩き、「修験道のような登山」だと言って感想を述べても、なんの意味もない。どこに石垣の痕跡があり、どこに瓦片が落ちていて、水場や抜道をどういうふうに確保して、どんな植生に囲まれていたのか、記録すべきことは山ほどある。山登りをしながら、その「山ほどある情報」を記録にとっていない。2期生二人には面倒をかけたが、卒業後3年めの大先輩が引率しながら、引率された1・2年生が可哀想に思えたのである。

「昭和の日」、二の丸と天球丸の間の道を登りはじめた。上月棟梁のプレハブの前で、いきなりK教授にばったり(↑)。幸先のよいスタートを切った。まずは二の丸で市街を俯瞰。そこから、全員が大手にあたる「中坂」を上って山頂の天守跡に至り、「十神林道」班と「長田神社」班に分かれて山を下りた。各班のメンバーは、デジカメ撮影担当と地図への書き込み担当に分かれた。あとで長野県からきたMさんの書き込み地図をみせてもらったが、1年生とは思えぬ立派なものになっていた。また、兵庫県から来た同じ1年生のIさんは分厚い植物図鑑を持参していた。入学したての学生諸君がこれだけの準備をし、きっちりとした記録とりをしてくれたことがわたしはとても嬉しい。
さて、2班の構成を記しておく。
長田神社班: 2年Kさん・Kくん・Yくん、3年Oくん・Kくん・Uくん、4年部長
十神林道班: 教員A、1年Iさん・Mさん、2年Oくん
十神(とがみ)林道班の人数が少なかったのは、班分けの際、GW帰省する県外出身者で構成したことと、迎えのノビタ車に乗れる人数に制限があったためである。
以下、じゃんけんに負けた各班代表者のレポートを2回にわけて記す。

↑↓5合目の「久松中坂大権現」と周辺の郭?
[中坂を往く -魔法の「昭和の日」(Ⅰ)]の続きを読む
- 2008/04/30(水) 00:14:31|
- 史跡|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

27日午前、神魂神社に参拝し、出雲大社本殿の公開を意識し焦り始めたわたしは、出雲の設計事務所で働いている1期生の拓左、じゃなかったタクオに何度か電話した。そのときタクオは松江に来ていた。タクオは前日本殿を見学したらしく、いろいろ情報を教えてくれたが、電話で話し合う限りでは午後3時半の受付〆切には間に合わないという結論に達した。
わたしが焦っているもう一つの理由があった。5月16日に大学時代の恩師が出雲経由で鳥取に来ることが決まっていて、わたし自身が鳥取のホテルを予約していたのである。恩師が出雲経由にした理由は訊ねていない。とはいえ、その期間にも出雲大社本殿の公開があることを考えれば、理由を訊く必要などありはしない。なにせ、60年に一度の本殿公開なのだから、全国の歴史研究者や建築史研究者が出雲に集まるのは目にみえている。
師匠に、鳥取でこんなふうに質問されたら、どうしよう・・・
「なんや、あんた、まだ大社本殿、みとらんのか?」
こうみえても、わたしは出雲大社研究者の末席を汚しており、その名も
『出雲大社』というムック本まで出しているし、
古代出雲歴史博物館にはわたしが復元設計した模型まで展示されている。そんなわたしが、近隣の県に住みながら、恩師よりも昇殿が遅れたとなると、こんな恥ずかしいことはない。とにもかくにも、真っ先に昇殿しておかなければならない立場にあることを、米子への移動中、考え続けていた。
結果、カントリーパブハウス「夢」で、104を通じて出雲大社社務所に電話し、権宮司様のご厚意により、午後4時まで来着という条件で昇殿が認められることになったのである。くりかえすまでもなく、このため、六弦倶楽部
第6回練習会を中途退席することになり、メンバーの皆様には大変ご迷惑をおかけした。再度、お詫び申し上げます。

出雲大社には午後3時40分に着いた。拝殿脇のあたりで権宮司様と落ち合った。大変歓迎してくださったのだが、わたしのジーンズが行く手を阻んだ。タクオやだれだったかもう1名の方から、「ジーンズでの見学は駄目なんですよ」と念押しされていたのだが、わたしのジーンズは無印の黒で、ジーンズには見えにくいし、たぶん白装束を羽織ることになるから大丈夫だろうと踏んでいたのだが、やはり駄目だった。
「これ、ジーンズにみえますか?」
「みえますね、履き替えましょう。わたしのズボンがありますから、それでなんとか・・・」
「いや、それが、メタボでして、普通のズボンは入らないんです」
「ウェスト、何センチですか?」
「だからメタボということは85センチを超えておるわけでして、いま腰巻き振動ベルトを使って必死でエステしてまして・・・」
「とりあえず、ずぼん探してきますので、受付所で待っていてください」
ということで、わたしは受付所に坐ってまっていた。まもなく権宮司様は袋に二つのズボンを入れてもってきてくださった。急ぎ、ある場所でズボンを履き替えたのだが、やはりフックが届かない。仕方ない。ベルトをぐいっと引っ張り、ズボンが落ちないようにして、ベルトの部分をシャツで覆い隠した。さらにジャケットを着て、その上から白装束を羽織った。これで、フックの細部は完全に隠された。
わたしは権宮司様に連れられて八脚門から楼門をくぐった。たしか8年前、いちどだけ楼門をくぐり、本殿の足下まわりを一周し、写真を撮らせていただいたことがある。例の巨大な3本柱がみつかり、その調査委員会が組織されたばかりのころであった。
「ここに入るのは、福山敏男先生以来のことですよ」
と言われ、ことの重大さに驚きながら、およそ20分で八脚門の外にでた。
[出雲大社昇殿 ]の続きを読む
- 2008/04/29(火) 00:18:34|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

話は前後するが、出雲大社本殿の公開に急遽行くことになり、わたしはクジを引くまでもなく、1番が決まった。いつもは殿(しんがり)かブービーあたりが多く、出番を待ちくたびれて緊張感がましていったが、先駆けは初めての経験である。殿よりマシなんじゃないかな?
以下、演奏曲目について述べる。
1.Introduction to Sunburst ~ Sunburst (インストゥルメンタル)
とうとう「サンバースト」を人前で演奏してしまった。いったいいつから練習し始めたのだろうか。1月末の
第5回練習会まではまったく手を染めていなかったので、たぶん2月からだろう。したがって、3ヶ月近く練習したことになる。もし予定どおり、3月末に第6回練習会が開催されていたとしたら、間違いなく弾けなかった(3月末開催の場合、わたしは欠席していた可能性が高い)。誤解なきようにお伝えしておくと、年度末はあまりにも忙しすぎて、クラシックギターのレッスンは休止中です(まだ実質上の年度末は終わっていない)。だから、わたしは先生に「サンバースト」を指導してもらっておりません(先生はバッハの指導をされようとしてました)。一人しこしこ譜面とにらめっこしつつ練習した結果がこの日の演奏であります。
練習し始めたころ、この曲はひょっとしたら「マーリーの亡霊」よりも楽に弾けるかもしれない、という予感がした。それは、前半部分のメロディが美しく、メロディに誘われるように指が自然と動き始めたからである。この点はバッハの「プレリュード」とよく似た感触と言える。しかし、後半部分はきつかった。早引きの連続にコードを絡めるパートはできそうでなかなかできない。何度挑戦してもうまくいかなかった。ただ、予想以上に弾けるのは間違いなく、譜面にもついていける。これはたぶん「マーリーの亡霊」を一応暗譜し終えたことと、タブなし譜面で「
プレリュード」を演奏できるようになったことが実績として体内に蓄積されたからではないか、と勝手に思っている。
演奏曲の順番について、すいぶん思案した。前回、「プレリュード」の調弦がドロップDだったので、「
ひとりぼっちの旅」も同じ調弦にして編曲し、トップにもってきて練習曲にあてたのだが、うまくいかなかった。正月でお酒が入っていたのと、自分のギターではなかったのが原因の一部ではあったろうが、それにしても、2曲とも出来がよくない。
今回は、3曲のなかで最も難しい「サンバースト」をトップにもってくることにした。調弦はダブル・ドロップD。今回もシューベルツのフォークソングを取り上げることに決めており、「さすらい人の子守唄」をダブル・ドロップDでアレンジしたのだが、あえて「サンバースト」を先に演奏したのである。しかし、指が動かない状態で「サンバースト」を演奏するのは自殺行為であり、以下の二つのアイデアを考えついた。
①90年代に追加された「イントロダクション」を敢えて暗譜せずに、譜面をみながらゆるりと演奏し、「サンバースト」につなぐ。
②同じチューニングの「
ムーンタン」AパートをMCを兼ねて指ならしで軽く弾いてみる。
実際には②→①の順でウォーミング・アップしたわけだが、これは効果があった。「イントロダクション」では指がおろおろしていたのに、「サンバースト」に移行するころ指が動きはじめた。指とは逆に、神経は、いつもとは逆方向のテンションを示した。最初はあまり緊張していなかったんだが、演奏するにしたがってアガッていったのだ。でもまぁ最後まで弾けた。いつものように、エンディングでミスッたが、それ以外は・・・緊張感を差し引けばまぁまぁだったのではなかろうか。案外、曲とエレガットの相性が良いのかもしれない。
[弾け!サンバースト(Ⅴ)-六弦倶楽部第6回練習会]の続きを読む
- 2008/04/28(月) 00:33:56|
- 音楽|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

作戦を練るのが甘かった。まだだれにも言っていないのだけれども、26日(土)の夜、わたしは松江にいた。夕方まで寺町の下宿で練習し、夜になってから車で松江に移動したのである。なぜ松江に泊まったのか、というと、自分が設計監理した「八雲立つ風土記の丘」の奈良時代
復元建物(庶民住居)が竣工しているはずで、それをひと目見たかったのだ、情けないことに・・・
27日の朝、寝坊して駐車場料金を200円余計にとられた。米子に12時集合だというのに、ホテルのチェックアウトは10時半になってしまい、残された時間があまりにも短い。車を飛ばして「八雲立つ風土記の丘」へ。天気は最高、路ばたに躑躅が咲き乱れている。広場ではゴールデン・ウィークの余暇を過ごす子ども連れの家族や老夫婦がぽつりぽつり。2004年に訪れたイングランドの遺跡風景を思い起こした。遺跡を利用する人が多ければいいというものではない。
復元建物は竣工していた。出来がよいのかわるいのか、わたしには判断できない。評価は第3者にゆだねるしかない。チラシのような説明書を貼り付けた仮の案内板が立っていたが、建物のまわりにロープがめぐらされ、中には入れなかった。展示館に立ち寄って、旧知の方々に挨拶さえすれば、なんの問題もなく、建物の内部をみせていただけただろう。しかし、時間がない。ここは急ぐしかない・・・と思いながら、すぐ近くにある神魂神社に久しぶりに参拝したくなって、それを実践し、おかげで、社務所に貼ってあった出雲大社遷宮のポスターをみてしまった。
ここで、わたしの運命は転変する。そういえば、ご神体を仮殿に遷した出雲大社の本殿をGW中に公開しているではないか。なぜ気がつかなかったのだろう。あらかじめ気づいていれば、最初から大社本殿視察を含んだスケジュールを組めたのに、自分が設計監理した建物のことで頭がいっぱいになってしまっていたのである。

高速を飛ばし、12時に米子駅前のカントリー・パブハウス「
夢」についた。六弦倶楽部第6回練習会の会場である。代表を始め、メンバーはまだ数人しか来ていない。わたしは急ぎ104を通して出雲大社の電話番号を調べた。そして、社務所に電話し、旧知の某宮司様に電話をとりついでいただいた。受付は午後3時半までだが、午後4時までに来られるならば、ご案内いただけるというお返事をいただき、わたしはチョトロク代表に頭を下げた。練習会を午後2時すぎに抜けさせていただきたいので、できれば早めに演奏させてください、とお願いしたのである。代表ほか皆様には、わたしの我が儘をお許しいただいた。
このほかにも、いろいろチョンボをしている。チューニング・メーターの電池が切れてしまってmifuさんにお貸しいただいたり、足踏み台を地下駐車場の車内に置き忘れたため、パブのマダムに廃棄物となる直前の風呂椅子を貸していただいたり、代表に10部おわたししようとしてもってきていた加藤家の
パンフレット(
第4回練習会の写真が3枚掲載されている)をやはり車内に忘れてしまったのであった。神魂神社でわたしの頭のスイッチは「風土記の丘」から「出雲大社本殿」に切り替わってしまい、他の大半の事象がデリートされてしまったのである。
[弾け!サンバースト(Ⅳ)-六弦倶楽部第6回練習会]の続きを読む
- 2008/04/27(日) 23:52:46|
- 音楽|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
前回のプロジェクト研究1&3で3班に分かれての久松山探索が決まった。わたしは同窓のノビタ君とともに、1年生のT君とM君の2名、さらに新3年生のK君とO君のあわせて4名を引率した。わたしたちの班は十時半に県立図書館に集合し、「西坂」と呼ばれるコースを登っていった。西坂は県立博物館の裏手から松ノ丸と鐘ヶ平を抜けて山上ノ丸の西側に出るコースであるが、「鳥取城跡附太閤ヶ平」パンフレットなど一般の観光案内図には見学コースとして紹介されていない。市の坂田さんやノビタ君からは、「草が生い茂っていて歩きにくい」とか「標識ロープ(黄色と黒で編まれた縄)伝いに登る」などと聞かされており、一筋縄には登れないらしい。こういう条件もあり、西坂コースに挑む我が班は「決死隊」と呼ばれた。

↑西坂登り口にある立て看板
西坂は噂どおりの辛い道で、その雰囲気は修験道に似ている。道なき道をロープを頼りに登っていく。ここのところ雨の日が多く、足場の悪さを気にしていたが、思っていたよりは良かった。ただ、落ち葉が多く、これに足をとられることが多かった。道が倒木で塞がれている難所もあった。そこはスリムな人なら倒木の下を這って抜けることができた。だけれども、私みたいに太い人は倒れた樹をよじ登って越すしかなかった。もう登るのに余裕はない。松ノ丸で「まだ半分も来ていないのか」と思い、鐘ヶ平で「あと3分の1もあるのかよ」と思うほどであったが、なんとか山頂の山上ノ丸に着くことができた。そこからの眺めはすばらしく、見通しのよさは興奮ものだった。旧鳥取市域を見渡せるのだから気分は爽快になり、疲れも吹き飛ばしてくれた。

↑西坂の道なき道 ↓風景は樹木越しでしか見えない

↑松ノ丸周辺に残る石垣
[魔法の山 -久松山決死隊記]の続きを読む
- 2008/04/27(日) 23:51:56|
- 史跡|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
10分ばかり休憩があり、ダグ・スミスにバトンタッチ。身長192㎝の長身、ブロンド・ヘアーの長髪。インテリジェンスな眼鏡。爽やかを絵に描いたようなジェントルマンで、この方も、わたしと同い年でした。前にも紹介したように、2006年の
全米フィンガー・ピッキング・チャンピオンです。サム・ピックを使うギタリスト。ユー・チューブでみたイメージそのままのギタリストでしたね。左手と右手を両方使うタッピングも2曲やりましたが、
マサさんほど派手ではありません。非常にオーソドックスなギタリストで、たぶんクラシック・ギターの影響を受けており、バッハやシューベルトをアレンジして聞かせてくれました。
印象に残ったのはメドレーかな。1回めは「グリーン・スリーヴス~テイク・ファイブ」、2回めは「アベ・マリア~好きにならずにいられない」。前者は「グリーン・スリーブス」をまずオーソドックスな4拍子で弾き、変則的な5拍子の「テイク・ファイブ」に移行、そのままアップテンポの5拍子で「グリーン・スリーブス」に戻るメドレー。後者は、シューベルトの「アベ・マリア」を教会音楽らしいスローバラードで弾き、そのアルペジオスタイルのままプレスリーの「好きにならずにいられない」に移行するメドレー。二つの曲がとてもよく似ているのに聴衆は驚きました。ただ、和声にもうひと工夫欲しいところですね・・・

ダグ・スミスはボーカルも披露した。カントリー・フォークの楽しい唄で、フィンガーピッキングの伴奏付きだったから、ジェイムズ・テイラーの『
ワン・マン・バンド』を思い起こしたんですが、当たり前のことだけれども、ダグ・スミスはジェイムズ・テイラーではなかった。カーネギー・ホールを満席にするジェイムスとモダンタイムスというバーで40人の客を相手に歌うダグの違いは何なのか。その場にいれば、両者の違いは、あまりにも歴然としている。文字で表現しよう思えばできないことはもちろんないが、やめておこう。
ダグ・スミスのギターはマサさんほど大きく拡声されてはいなかった。アコースティック・ギター本来の音に比較的近い。しかし、それは魂を癒してくれるような音では決してなかった。ヨークの「
レッティン・ゴー」との距離はあまりにも遠い。
なぜ、アコースティック・ギタリストは生ギターの音を大切にしないのだろうか、とまたしても思い、CDを売りにきていたプー横丁のマスターに訊ねてみたところ、
「アレックス・デ・グラッシが200~300人の会場で完全にアンプラグドの演奏をしています」
と教えてくださった。アレックス・デ・グラッシのCDは1枚ももっていない。たぶん ウインダム・ヒルのオムニバスで1~2曲聞いた程度だろう。上のライブCDを買おうかどうか・・・たぶん買わないだろうな。
[Masa@モダンタイムズ(Ⅳ)]の続きを読む
- 2008/04/26(土) 00:00:47|
- 音楽|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

ゼミの一員になって早3週間が過ぎました。少しずつゼミになれてきました。金曜日のプロジェクト研究5では、3年生3名は環境デザイン演習4について教授のチェックを受け、色々とアドバイスしていただきました。教授のアドバイスを無駄にしないように頑張りたいと思います。
プロ研が終わると前々から予定されていた『ほたる』での新歓コンパが開催されました。最初にある程度の注文をし、みんなで乾杯!! 4年生の先輩方(男子)と3年生のU君はお酒を飲むペースがものすごく早くびっくりしました。新歓コンパが進むにつれて色々な話でもりあがりました。
そんな中、僕たち3年生に教授はとっておきの技を伝授されました。名づけて『鼻ようじ』! まず教授がのお手本をみせられ、その後に僕たち3年生が鼻ようじをやらさしていただきましたが、
教授の技のキレの前では、僕たちの「鼻ようじ」はまだまだ霞んで見えるぐらいのレベルです。何とかしてこの「鼻ようじ」を免許皆伝レベルまでに腕を上げるように努力します! それに僕たち3年生はこの技をやる事で本当のゼミの一員になれたと思っています。その後も教授の話や先輩達、3年生の話題で大いに盛り上がりました。
ごちそうさまでした。

↑↓忍法「鼻」ようじ!
[忍法「鼻ようじ」 -asalab新歓コンパ!]の続きを読む
- 2008/04/25(金) 23:55:28|
- 研究室|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

今日のプロジェクト研究1&3は前回に引き続き課外授業となりました。行った先は鳥取市の市役所です。晴天なら鳥取城跡の修復工事現場に行く予定もありましたが、2週続けて天候に恵まれずお流れになってしまいました。
市役所に向かった理由は鳥取城跡の歴史の概要を聴くためです。話を聴いた場所は市役所の四階の第四会議室、詳細を話してくださったのは坂田さんという教育委員会の文化財技師さんです。私たちは坂田さんから三つの資料をいただきました。「鳥取城跡附太閤ヶ平」パンフと「鳥取城を概観する」は鳥取城跡の歴史や図をまとめた資料、「鳥取城修覆願絵図」は嘉永三年(1850年)に描かれた鳥取城の絵図です。
私は鳥取県中部に住んでいるのですが、鳥取城跡のことはこれっぽっちも知らず、実際に鳥取城跡を見るまで鳥取城はちゃんとした城の建築物であると思っていました。しかしそれは間違いで、実際は石垣ぐらいしか残っていないことを知り、驚いたのは記憶に新しいです。そんなことなので、鳥取城跡の歴史なんか知っているわけもなく、今回のお話と資料配布は大変ありがたいものでした。聴いていて特に驚いたことは鳥取城を羽柴秀吉が二度も攻めていたことです。羽柴秀吉といえば、後に天下を統一する豊臣秀吉のことです。秀吉が鳥取城を攻めていたことを、何人の鳥取県民が知っているでしょうか?少なくとも私の周囲の人たちは知らないに違いありません。

話が終わった後、私たちは今回のプロジェクトの本題である谷口ジローの作品『魔法の山』を配布されました。私はこの漫画を見るためにこのプロ研に入ったと言っても過言ではないので、大変嬉しかったです。しかし、ただ見るだけではいけません。ゴールデンウィーク中に感想文を書かなければいけません。量はワード一枚以上だそうです。さらにゴールデンウィーク中に鳥取城に決められた班ごとに登らなくてはいけません。私の班は27日、他の2班は29日に登るそうです。ただ登るだけではなく、登って解った事、気づいたことを整理し、いずれパワーポイントとして表現するようにも言われました。登山は大山に登って以来なので不安で堪りません。が、このところ新鮮味というものが欠けている生活にはいいかもしれません。これを機にまた体力作りを始めるべきかもしれません。(環境政策学科1年 T.K)
[第3回「魔法の山」 -谷口ジローの風景-]の続きを読む
- 2008/04/25(金) 10:02:24|
- 史跡|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
先日夕刻、奈良の自宅をでて京都に向かった。近鉄ではなく、車での移動だ。以前は、よく京都-奈良を車で往復したものだが、ほんと何年ぶりだろうか。宇治川から伏見御香宮あたりの渋滞にひっかかると京都に着くのは遅くなると心配していたが、車はすいすい進み、気がつけばJR京都駅の手前まできていた。そして、もう一つのことに気がついた。
ギターを奈良の家においてきてしまったのだ。六弦倶楽部第6回練習会が次の日曜日に迫っていて、まぁ少しは練習をせなあかんってことで、練習会で使うはずのクラシック・ギターをもって帰っていたら、忘れてしまった。間抜けを絵に描いたようなものだわね。さっそく娘とワイフに電話するが、とても京都までもってきてくれそうにない・・・・というわけで、わたしは次の練習会、おんぼろの
エレガットか、
リファーレン500円モデルのどちらかで、またしても難曲に挑まなければならない。阿呆でしょ!?
さて、なぜ京都かというと、木屋町のバー「モダンタイムス」で、
住出勝則とダグ・スミスのライブがあって予約のメールを入れていたから。予約したからといって、べつに前金を払っているわけでもなし、行かなきゃなんないこともないのだけれど、行ったんですね。おかげで、奈良にギターを忘れたんですが・・・
京奈和自動車道から、マサさんの最新CD『ボーン・トゥ・グルーヴ』をがんがん鳴らして、快調に車は国道24号線を走り抜け、京阪三条近くのタワーパーキングに入庫した。
モダン・タイムスでの開演は19:30~・・・遅めなんですね。もう少し早くしてくれれば、深夜バスでも使って帰鳥できるところなんだけど、この時間に始められると、自家用車で帰るしか手がない。おかげで、酒が飲めない。しらふで演奏を聴いてました。
さて、演奏ですが、まずマサさんが50分。1曲めのファンキーなナンバーでいきなりガビーンと衝撃を受けたんですが、音がエレキギターみたいでしてね、
アンプ嫌いのわたしはちょっとがっくり。40人ぐらいしか入らない小さなバーなのに、なんであないに大きく拡声せなならんのか、わたしには分かりませんね。でも、ギターの技術はたいしたもんだ。これは認めざるをえない。
ただ、トークがね・・・すべってましたね・・・滑っていることを自覚せずにはしゃいでいるところが、どうにもこうにも悲しく・・・そして、下ネタを連発するんですね。おまえが言うな、とお叱りを受けるでしょうが、下品ですね、この人。女性もたくさん来ていたけれど、みんな引いちゃってましたね。このわたしが、わたしのようなオヤジまでもが引いてしまったもの。下ネタをステージでやると、これほどいやらしく聞こえるものだということが、聞く側になってよく分かった。講義では、絶対に下ネタ風のギャグを言ってはならぬ、と肝に銘じました。
繰り返しますが、マサさんの音楽は決して悪くない。技術も高い。それはよく分かるんだけど、トークでしらけてしまって、それが音楽の質を低下させてしまうから恐ろしい。音楽もトークもその人間の分身だから、トークで人間をみてしまい、それが音楽にまで映し出されて、もういいやこの人って思えてしまうんでしょうね。恋愛で一気に恋が冷める時のような感覚とでもいうか・・・
ひとつ収穫あり。マサさんも、やはり「
アガる」んだそうです。自分の部屋で炬燵に入ってギターを弾いているとき、自分は世界でいちばん上手いと思うほど弾けるのに、人前では実力の20パーセントしかでないんだとか。だれかさんたちと同じこと言ってるじゃありませんか。そう言えば、同い年じゃありませんか・・・(続)
- 2008/04/24(木) 15:00:04|
- 音楽|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
凱旋帰郷 宗薫との面談を終えると、舌右衛門と伸太はただちに国元への帰途についた。大坂はなにぶん物騒になっているので、まずは海路で播磨の湊津に入り、姫路経由で陸路を北上することにした。
姫路の藩主、池田輝政は池田長吉の実兄である。二人の父、池田恒興は尾張時代から織田信長の重臣であり、本能寺の変の後には秀吉に仕えた。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで嫡男の元助とともに討ち死にし、池田家の家督は次男の輝政が相続した。秀吉の時代、輝政は豊臣一族に準じるほど厚遇されたが、関ヶ原では徳川方に与し、戦後、播磨国姫路城52万石に加増された。これに対して、三男の長吉は因幡国鳥取城6万石の加増にすぎず、弟がこれに不満をもっていたとしても不思議ではなかろう。
舌右衛門と伸太は姫路城の威容にみとれながら城下を進んだ。
「同じ池田家でもえらい違いでございますな」
と伸太がぼやく。「門や」という蕎麦屋で、舌右衛門は姫路藩に仕官している兄と落ち合うように連絡をとりあっていた。
池田恒興には輝政と長吉のあいだに生まれた娘がいる。この三女こそが後の天球院である。天球院は摂津三田城の山崎家盛に嫁いだ。もちろん当時は「天球院」とは呼ばれていない。名は不明である。鳥取城の「天球丸」に移ったから「天球院」と呼ばれたのか、天球院という諱(いみな)に因んでに新しい郭を「天球丸」と呼ぶようになったのかはよく分からない。本書では前者の立場をとるが、どちらにしても、この時代の名は不明であり、いまは「鬼姫」と仮称しておく。
関ヶ原の後、山崎家盛は若桜鬼ヶ城3万石に転封され、鬼姫と長吉の姉弟は隣り合う若桜と鳥取にいた、ということになっている。しかし、鬼姫と家盛の不仲は三田城時代から抜き差しならぬものになっていて、鬼姫はすでに若桜を離れ、姫路城の輝政のもとに身を隠しているという風聞が流れていた。不仲の原因は、鬼姫が鬼姫であったからである。鬼姫は、化け猫を退治したり、城に押し入った賊を薙刀でたたき斬ったりする男勝りの孟女であったと言われる。山崎家盛はそういう気丈な性格の鬼姫を毛嫌いし、側室を溺愛した。
舌右衛門の父母は兄夫婦と同居しており、その本家の屋敷に立ち寄って一休みし、土産物でもおいていきたいところだが、マカオ出張の件は密命であり、家族や近臣以外には漏らしていないから、このたびは表敬を遠慮し、ただ兄に会うだけにとどめた。
「父上、母上はお元気にされておられますか?」
「あぁ、元気すぎてまいっておるわ・・・いつまでも子を子どもと思うておる・・・」
「・・・さてさて、お城におわすという鬼姫さまはご機嫌麗しうございますかな?」
「あぁ、姫路城では輝政公も扱いに苦慮しているらしいのだが、最近また若桜に戻られたという噂も聞いておるぞ」
舌右衛門は、ただ天球院の情報だけを聞きたかった。それを聞くために兄を呼び出した。聞きたいことを聞いてしまったので、蕎麦をするりとたいらげ、蕎麦湯を2杯飲むと、ただちに別れの挨拶をした。
姫路から北上し、因幡街道に出る。近畿でいう「因幡街道」とは、因幡では「上方往来」と呼ばれ、後に参勤交代路になる。夕刻、播磨平福の宿に着いた。「雲突城」の異名をもつ利神城の城下を上方往来が貫く町並みのなかにある旅籠に泊まった。裏手には川に沿って酒蔵が軒を連ねており、その酒蔵で造る地酒は辛口のよい味がした。
日があけて、二人は因幡街道をさらに北上した。大原宿から志戸坂峠を越え、智頭宿で昼休み。智頭宿から用瀬宿を経由して渡一ツ木まで馬を走らせ続けた。ここで馬ごと渡し船にのり、千代川を横切る。しばらくすると「お茶屋」があり、倭文まであと2里だということは分かっていたが、伸太が名物の蓬団子を食いたい、というので、馬を休ませることにした。今の河原町大字河原のあたりである。伸太は蓬餅の団子をぱくぱく食べている。
[薬研堀慕情(ⅩⅩⅡ)]の続きを読む
- 2008/04/24(木) 00:06:48|
- 史跡|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
知恵くらべ 家康のとった複数経路による情報収集策が当然のこととは思いながらも、自分たちがワン・ノブ・ゼムにすぎないことを改めて知ってしまうと、マカオで死んだ利蔵のことが急に不憫になってきた。うつむき黙ってしまった舌右衛門に宗薫が「どうなされましたか」と問う。
「いえ、ふと討ち死にした忍びの顔が浮かんでしまいまして・・・」
「・・・・そのことについては言葉もございません。お悔やみ申しあげます」
「いえ、あれが忍びの宿命であり、本分を遂げたといえばそうなのです」
「ところで、マカオの賊は赤影に扮装していたそうにございますな」
「はぁ、妖艶で身軽な赤影でございました。ただし飛騨の忍者ではなく、甲賀の忍者であるところが漫画とは異なっておりましたが・・・」
と答えた瞬間、宗薫の目が獲物を狙う鷹のようにキラリと光った。
「その赤影の正体、身に覚えはございませぬか」
「・・・ございませぬ」
「下呂さまを仕留めることができたにも拘わらず、資料だけ奪って逃げたのですから、おかしな賊でございますな?」
と繰り返される問いに、舌右衛門はうすら恐ろしいものを感じた。
(この男はなにもかも見抜いているのではないか。自分よりもはるかに深いことを知っているのかもしれない・・・)
凍てりついたような空気を和らげようと、宗薫は話題を変えた。
「国元への土産はたんと買われましたかな?」
「はぁ、奥が病んでおりますゆえ、漢薬、西薬を問わず薬を大量に仕入れました。また医学書、薬学書もたんと買いました。ほかにも大量の書物と、趣味で弾いておりますギターラを1台・・・・」
「薬はいざしらず、それでは下呂さまのものばかりではございませぬか。ほかには何か?」
「好物の白葡萄酒を箱買いして帰ろうと思ったのですが、堺までなら運べても、国元まで陸路で運ぶのは容易ではございませんゆえ、瓶で3本だけ持って帰って参りました」
「それは少なすぎますな・・・この屋敷には蔵が十棟ありますが、じつはそのうちの1棟はワインセラーにしております。わたしが10本ばかりみつくろって、お国元へ送らせましょう。書物も大変な量でしょうから、こちらに置いていってくださいませ。あとで葡萄酒と書物をまとめて荷駄で送らせまする」
「・・・かたじけのうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます。」
[薬研堀慕情(ⅩⅩⅠ)]の続きを読む
- 2008/04/23(水) 00:43:55|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
複数の経路 上座から宗薫が名をなのり、これをうけて舌右衛門が面(おもて)をあげ一通りの挨拶をした。
「お付きの方はどうなされました。ご一緒にお話ができれば、と思っておりましたが」
「あれは忍びの者にございますれば、庭に控えさせております」
「今日はよろしいではございますか。忍びの方もマカオでは大変なご活躍だったとか。せめて縁の上にでもあがって、お顔をみせていただけませぬか」
「いえ、忍びには忍びの分と役割がございますゆえ」
ということで、二十畳の間では宗薫と舌右衛門の一対一の対話が繰りひろげられた。それは、対話でもあり、知恵者同士の腹の探り合いでもあった。
「では、改めて御礼申し上げます。このたびのマカオでの大任、まことにご苦労さまにございました」
「いえ、大事な資料を賊に奪われてしまい、まことに恥ずかしい限りにございます」
「いやいや、下呂さまが御生還なされたことがなによりでございますぞ。昨夜、お預かりした直筆の文書を拝読いたしましたが、見事なものでございますな。中身も新鮮で興味深いものでしたが、下呂さまの文体は独特な抑揚がございます。戯作者にでもなれそうなお方だと拝察いたしましたぞ」
「とんでもございませぬ。ただの田舎侍にございます」
「下呂さまはどこで学問を修められましたのですか」
「京で十年あまり漢学を学びました。師匠が近江の方でして、そのつてもあり、近江に所領をもたれていた池田長吉さまに仕官することになったのですが、関ヶ原の後、転封になりまして・・・」
「ご出身はどちらですか?」
「父は播磨の者ですが、わたしは因幡で生まれました」
「それでは郷里に戻られたというわけですね」
「おかしな縁で時間がまわっておりまする」
雑談もひととおり終わり、核心めいた部分に話が及んでいく。
「下呂さまは2度お命を狙われたと聞いておりますが」
「はい、国元でいちど、マカオでいちど、あわせて2度襲われました」
「今日を境に、もうそのような危険な目にあわれることもなくなるでしょう。ご安心くだされ」
「なぜでございますか」
「下呂さまの集めた資料はすべてこちらでお預かりいたしました。とりあえず電信で大要は大御所(家康)さまにお知らせいたしますが、文書は至急何通か筆写し、複数の経路を使って確実に駿府にお届けいたします。これから先、下呂さまが生きようと死のうと、昨日いただいた文書は確実に大御所さまの手に渡るのですから、敵方は下呂さまに刺客を向ける意味がないのでございます」
[薬研堀慕情(ⅩⅩ)]の続きを読む
- 2008/04/22(火) 11:07:24|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
市中の山荘 慶長十五年九月十六日の夕刻、舌右衛門と伸太をのせた船は堺の湊津に着岸した。今井宗薫の手の者十名以上が二人を湊で出迎え、厳重に警護し、堺市五ヶ荘花田の今井屋敷まで導いた。宗薫は関ヶ原の功により河内・和泉二国の代官を命じられており、豪商であると同時に武家でもあった。その屋敷は織田有楽斎から譲り受けたもので、東西29間(約55メートル)×南北32間(約61メートル)の規模であったという。
離れの一部屋に二人は案内され、重要な資料はすべて大番頭風の男に手渡した。その日はすでに夜が更けていたので、宗薫との面会はないと伝えられた。大番頭風の男は、
「夕食は何になさいますか、なんなりとご用意いたしますが」
と舌右衛門に訊ねた。舌右衛門は湯漬けを所望した。大番頭風の男は呆れたような顔をして目を見開き、
「そんなご遠慮なさらずとも。獲れたての魚もございます。刺身でも煮付けでも・・・」
と説得したが、
「いえいえ、ほんに湯づけが食べたいのです。沢庵と梅干と塩昆布をつけてくださいませ」
と舌右衛門は念を押した。マカオで毎日食べてきた中華料理とポルトガル料理にも飽き、日本に帰ったら、とりあえず湯づけを食おうと決めていたのである。舌右衛門と伸太は、沢庵と梅干と塩昆布を湯漬けに混ぜて、何杯も腹にすすりこみ、「日本人に生まれて良かった」としみじみ語り合った。
[薬研堀慕情(ⅩⅨ)]の続きを読む
- 2008/04/22(火) 00:00:40|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

3月1日の
入稿以来、何度かの校正を印刷会社と重ね、1ヶ月半が過ぎた。そして、ついに4月18日(金)のゼミの時間、完成した加藤家パンフレットを100部受け取りました。奇しくも、その日は加藤家での
3・4年ゼミ。加藤家のパンフレットを、その舞台となった加藤家で受け取ることができ、感激一入です。
全16頁カラー刷りのパンフレット構成は以下のようになっています。
1.表紙(p.1)
2.ようこそ加藤家住宅へ(p.2-3)
3.『
倭文日誌』をふりかえって(p.4-6)
4.
ロフト座談会(p.7-13)
5.茅葺き屋根をあきらめましょう?(p.14-15)
6.裏表紙(p.16)
加藤家住宅でのこれまでの活動を「ぎゅっ!」と盛り込んだ16ページです!
思い返せば、パンフ作成に取り掛かったのは昨年11月。最初は手書きで、新年が明けてからは覚えたての「イン・デザイン」というソフトをフルに使っての編集作業。その間には何度も立ち止まってしまったり、アイデアがつきかけたりと苦労の連続でした。そこから考えると、今こうして加藤家のパンフレットを手にしていることが嘘のようです。そして、完成したパンフレットを手にした今、
大城さんの言葉がよみがえってきます。
パンフレットができたときにやっと「皆さんありがとうございます」と思えるよ。
今なら実感を持って、「ありがたい」と言えます。わずか16ページのパンフレットですが、これを編集する中で多くの人に助けてもらって、完成することができました。本当に浅川先生をはじめ、一緒に編集してきたヒラ、ゼミの皆さん、パンフレットに協力してくださった皆さん、ありがとうございました!!(部長)

とうとう完成・・・。
そんな大っ事な日に、その場にいることができなくて大変悔しい思いをしております。しかし完成したパンフレットを手にとって眺めていると、「あぁ、できたんだ」と「ありがとうございました」という想いでいっぱいです。
もともと絵を入れたり重要なことは目立つようにしたりと、ノートまとめをすることが好きだったため、編集の話を聞いたとき、ただ単純に「やってみたい」と思いました。それから約3ヶ月間くらいは自分の想像と現実のギャップに苦しむことになりましたが。
そんな日々を乗り越えられたのは、私を取り巻く多くの方々のおかげでした。名前を挙げるときりがないですね、絶対。本当に皆さん、お世話になりました!ありがとうございました!!
ここに掲載する画像は表紙と一部のページのみです。他にも加藤家の歴史や屋根・ロフトづくりについておもしろい記事が満載されています。もちろん、それは加藤家住宅の修復に関わったすべての人たちの汗と涙の結晶です。
ただ・・・たったひとつ心残りは、今年の3月に旅立っていった先輩方の卒業までに刊行できなかったことです。パンフ作成でどれほど助けていただいたことか。これだけは悔やんでも悔やみきれません。チャックさん、ハルさん、トマトさん、けんボーさん、やっと完成することができました。できるだけ早くお送りしますので、新住所をお知らせください。ぜひ見てくださいね。(編集長=ヒラ)
[加藤家住宅パンフレット 刊行!]の続きを読む
- 2008/04/21(月) 00:51:13|
- 研究室|
-
トラックバック:0|
-
コメント:2
利蔵の死 そういえば利蔵の姿がみえない。右太腿の傷が深かったのであろうか、別室で治療を受けているにちがいない。きっと小李が寝ずの看病をしているのだろう。舌右衛門は急に利蔵のことが心配になり、王賢尚に問うた。
「利蔵はどこにおります? 手裏剣を足にくらって動けなくなっておりましたが、毒消しの薬をたんと飲ませましたゆえ、毒も効いてはおらぬと思うのですがな・・・」
その瞬間、部屋が真っ暗になった。灯りが消えたのではなく、真っ暗な空気が流れ、長い沈黙が支配した。黙っていてもしょうがない、という顔をして、うつむいていた王賢尚が語り始めた。
「殿、落ち着いて聞かれませ」
「はぁ?」
「利蔵どのは討ち死にされました」
舌右衛門はしばらくその言葉の意味を解せず、まもなく頭の中が真っ白になった。
「利蔵が死んだと!? なぜ、・・・なぜ利蔵が死んで、わしが生きておるのじゃ。わしを殺さねば、意味がないではないか」
「殿と伸太どのが意識を失ってからも、利蔵どのは賊と戦われたのでしょう。ひょっとすると、毒消しの薬を大量に飲んだことが災いしたのかもしれません」
「毒消しの薬が効いて、みだれ髪の痺れ薬に体を麻痺させることもなかったと?」
「事の真相は分かりませぬが、賊が殿のお命を奪うのをなんとしても防ごうとして、斬り合いになったものと思われまする」
「しかし、わしは生きているではないか。ならば、利蔵を殺す必要もないではないか」
「いえいえ、そこは斬るか斬られるか、の世界です。斬らなければ斬られる。賊はそう判断しただけのことでございましょう」
「分からぬ。利蔵を斬ったのなら、わしも斬ればよいではないか。さすれば、日本にどんな報も伝わらぬ。なぜ、わしを生かしたままにした・・・・」
「殿が背負われていた資料を奪うことが賊の目的であり、殿を殺すことが目的ではなかった、と理解するほかありません。それ以外のことは想像しようにもできませぬ・・・」
利蔵の遺体は隣室に安置されていた。ミレットと王賢尚に支えられながら、その部屋に入ると、ベッドの横で小李がしくしく泣いている。舌右衛門は利蔵の顔を覆う白い布をめくり、利蔵の死顔と対面した。
「利蔵、・・・伊賀者らしい最後であったの・・・」
とだけ語りかけ、合掌した。まわりの者もみなこれに倣った。王賢尚が問う。
「遺体はいかがいたしましょうか。お望みのとおりにいたしますが。塩づけにして日本に運ぶということでしたら、その方法も考えまする」
「いやいや、遺体を日本に運び帰るなどめっそうもないことです。遺髪だけ日本に持ち帰りますので、遺体はマカオに埋葬していただけますか? 伊賀に戻しても、このような下忍には墓らしい墓もできませぬ。それよりこちらで立派な墓を作ってやるほうが供養になります。小李も墓参りしてくれることでしょうし」
「わかりました。ただし、葬儀はカトリック式になりますが・・・」
「かまいませぬ。忍びに宗教など関係ありませぬゆえ」
「では、今宵を通夜とし、明朝、神父を呼んで葬儀をおこないましょう」
[薬研堀慕情(ⅩⅧ)]の続きを読む
- 2008/04/20(日) 15:26:01|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
冥土のミレット 翌朝十時ころ、舌右衛門はぼんやりと目を覚ました。体はまだ痺れていて、視覚も定かではない。
(ここはどこだ、わしは生きているのか、死んでいるのか)
ベッドの脇には、ミレット、ポルトガル人の医師、王賢尚が並んで腰掛けており、ミレットは舌右衛門の額に流れる汗をくり返し拭き取っている。
「どうやら意識が回復し始めたようですな」
とポルトガル人の医師が漢語で呟き、舌右衛門のまぶたを開け、眼球をじっと覗いた。
「殿、わかりますか、ミレットです。メイドのミレットですよ」
(冥土のミレット・・・やはりここはあの世か・・・)
それから四半刻ばかりして、ようやく舌右衛門の意識は正常に近づいた。伸太は同じ部屋のベッドに横たわっている。流石に若い分だけ伸太の回復は早かったが、いつものおしゃべりは影を潜めている。舌右衛門が口を開いた。
「ここはわしの部屋か?」
王賢尚が答える。
「そうです。下呂さまのお部屋ですぞ。わたくしどもが見えますか? あちらのベッドには伸太どのも横になっておられます」
たしかに、ミレットと白衣の男と王賢尚の顔が眼前にある。
「なぜ、わしは生きているのじゃ? だれかがわたしを助けたのですか??」
「広場に倒れられているのを早朝、町の者が発見し通報して参りました。だれかが助けたというよりも、賊が殿を仕留めずに消えたとしか考えられません」
「わたしたちは貴公の指示で館に戻ろうとしておったのですぞ。貴公らはわたしらを探しに行かれなかったのですか?」
「わたくしどもは十字楼に何の指示も出しておりません。賊の罠だったのです。この館にいても、十字楼にいても、警護は固い。殿たちをなんとか人気のない夜の広場に誘いだしたかったのでしょう。変装して遣いの者に化けるか、だれかを金で雇って十字楼を訪ね、マスターに帰宅の指示を出したものと思われます。」
「それに、まんまと引っかかったというわけか・・・」
[薬研堀慕情(ⅩⅦ)]の続きを読む
- 2008/04/20(日) 00:30:08|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
赤影見参! 十字楼からセナド広場に向かう小路を歩きながら、
「殿と利蔵はようございますな。宿舎に戻っても伽をしてくれるおなごがおりますからな。わしだけ一人寝じゃ・・・」
と伸太はこぼす。舌右衛門は伸太と利蔵に説いて聞かせた。
「この、夢物語のような生活もまもなく終わる。昨日で情報集めの目途はたった。あとは帰国の準備を進めるだけじゃ。ともかくな、命あっての物だねだ。この夜道も気をつけよ!」
小路を抜けると仄かな光が少しずつひろがっていった。セナド広場は月あかりに照らされて、まるで洋画のセットのようなムードを醸し出している。
「殿、昼間の喧噪が嘘のような閑けさですな。ロマンチックではございませぬか・・・」
と呟く伸太の口を利蔵の手が塞いだ。
「人の気配がします」
「通行人ではないのか?」
「いえ、屋根の上の暗闇でなにかが動きました・・・」
という利蔵が、ぎゃっと叫んで地面に倒れた。利蔵の右太腿に手裏剣がくい込んでいる。2階建洋館の軒先から、さらに手裏剣が飛んでくる。舌右衛門は太刀を抜き、飛んでくる手裏剣を打ち落とした。
「手裏剣には毒が塗ってあるぞ。伸太、急ぎ利蔵に毒消しを飲ませよ、急げ!」
暗闇から黒装束の男が飛び出した。忍者だ。屋根を飛ぶように駆けながら、手裏剣をマシンガンのように投げつけてくる。舌右衛門は倒れた利蔵の壁になるように立ちふさがり、次々と手裏剣を切って落とす。伸太はしゃがみこんで、利蔵の太腿の付け根を布で縛って止血し、何種類かの毒消し薬を飲ませた。
[薬研堀慕情(ⅩⅥ)]の続きを読む
- 2008/04/19(土) 14:14:18|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

春雨は春の陽気を薄らがせ、肌を湿らす寒さとともに自身を現実世界へと呼び戻す。気付けば4月も半ば、やらねばならないことは山ほどある。しかしながらこうも連日のように降られると、さすがに気分も湿っぽくなる。こんなときこそ雨音に耳を傾けながらゼミをするのも加藤家ならでは。やっぱりここは心地いい。
加藤家住宅に着くと、富士印刷の
社長がお待ちかねであった。ついに加藤家住宅
パンフレットが完成し、とりあえず100部だけ加藤家までもってきてくださったのだ(↑)。このパンフについては、本日就職活動で不在だった編集長が帰学次第、正式にブログで紹介するので、しばらくお待ちください。

というわけで、今日のゼミは、久しぶりに加藤家でおこなった。というか、2008年度初めての加藤家でのゼミである。新3年生には始めて加藤家を訪れた学生もいる。今年度も加藤家住宅活用の柱となるのはASALABであり、これからもしばしば第2研究室としてゼミで活用していくことだろう。はやく3年生たちにも、加藤家住宅でのゼミに慣れていただきたいものだ。
活動は修復建築スタジオにおいている尾崎家住宅模型(宮本制作)と加藤家住宅模型(安田制作)の搬入から始めることにしていたが、院生さんが尾崎家住宅模型を破損してしまったため、加藤家住宅模型のみの搬入となった。搬入したものの、模型をおく台がみあたらず、これについては左サイドハーフ君が担当者として検討することになった。次に2階のロフトで4年生と院生が1週間の研究成果について、教授のチェックをうけた。現在、4年生はチャックさんとケンボーさんの卒業論文を報告書へ衣替えするための編集作業を開始したところ。論文に目を通しながら作業を進めていくと、さすがの金賞、銀賞の論文とあって先輩方のレベルの高さに気圧されると同時に気合が入った。

1階では3年生がイロリに火をつけた。チャックさん卒業後、さてだれが火付け役の後継者となるか、乞御期待!である。イロリに薪をくべ、網を敷き、炭火でじっくり炙ったトウキビはみんなの大好物。もちろん定番のジャがバターも。
ロフトでの演習チェックが終わり、全員でイロリを囲み、炙りたての
トウキビとジャがバターにかぶりついた。教授が車で奈良に帰るので、今日はアルコールなしとした(来週のコンパでたんと飲みましょう!)。イロリで炙ったトウキビとジャがバターは格別である。こうしてゼミでイロリを囲んでいると、卒業した先輩方とのひとときを思い出す。ふと周りを見れば、新3年生と新4年生。気付けば自分も4年生。気合が入れどいまいち実感がわかず、いまだ心の春の陽気とともにただただイロリの火をじっと眺めていた。
明日もまだ春雨は降るらしい。(Mr.エアポート)

↑ジャガイモは網の上では焼けませんね。ホイル包みにして炭火に放り込まないとあきません。
- 2008/04/19(土) 00:34:44|
- 研究室|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

今日のプロジェクト研究1&3は課外授業で、鳥取市の
仁風閣と鳥取県立博物館へ出かけました。私は鳥取市出身なので、仁風閣の名前と場所は知っていたのですが、実際に建物の中に入ったの
は今日が初めてでした。仁風閣の外観の第一印象はというと、本当に立派でお洒落な建物で、フランスルネサンス様式という名のとおり、中世のヨーロッパの建築物はこのような造りだったのだなぁと感じたりしました。内部も本当に立派で様々な展示物が飾ってありましたが、その中で私が一番驚いたのが、木造の螺旋階段です。階段を支える支柱もなく、1階から2階まで巻貝のようにのび上がっています。木造の階段が螺旋状に曲がっている状態で造られたと知りびっくりしました。教授がおっしゃっていたとおり、本当に日本人の木造の建築技術は素晴らしいものだと実感しました。

宝隆院庭園をひとまわりして、次に鳥取県立博物館へ。小学生のときから何回か博物館へ行ったことはありますが、本当に久しぶりの訪問でした。目的は、私たちの研究テーマ「魔法の山」の鍵を握る山の精霊(オオサンショウウオ)の見学です。生け簀で買われているオオサンショウウオは、体長60~70センチといったところでしょうか。昔見たときより若干小さくなったかな?と思いましたが、おそらくそれは私の勝手な思い込みでしょう(笑)。しかし、そのとなりにはそれよりもさらに大きいサイズのオオサンショウウオの標本が展示してあったのです。私は飼育されているオオサンショウウオの存在は知っていましたが、あのビッグサイズの標本が展示してあるのを見たのはこれまた今日が初めてでした(笑)。体長約140センチのその姿は、死体ではあっても、ものすごい威圧感を放っている様にさえ感じられました。
今日の課外授業は自分にとっても本当に納得のいく内容であったと思います。鳥取市在住なのでまた機会があれば自分で足を運んでみて、あらためて実感できる何かを求めに行こうと思います。(環境デザイン学科2年 A.K)
[第2回「魔法の山」 -谷口ジローの風景-]の続きを読む
- 2008/04/18(金) 00:42:53|
- 漫画|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

2006年度に住宅総合研究財団の助成をうけた「
蛋民の家船居住と陸上がりに関する文化人類学的研究」の成果論文が『住宅総合研究財団研究論文集』№34(2007年度版、全488頁)に掲載されました。研究助成採択時にはタイトルに「蛋民」という用語を使っていましたが、実際の調査研究では広東の「蛋民」よりもベトナム漂海民のデータが多くなり、査読者から全体を総括する概念として「水上居民」という用語を用いるほうが適切であるとの指示があり、タイトルを下のように変更してます。
以下、文献の基礎情報を記しておきます。( )内は執筆者を示します。
長沼・張・浅川 「水上居民の家船居住と陸上がりに関する
文化人類学的研究 -中国両広とベトナムを中心に-」
1.はじめに (長沼)
2.ハロン湾水上集落の調査
2.1 ベトナム水上集落調査の概要 (浅川)
2.2 ハロン湾と水上集落 (浅川)
2.3 クアヴァン水上集落と筏住居 (張)
2.4 居住動態に関する予察 (張)
3.「蛋民」の陸上がりと社会変容 (長沼)
3.1 両広の「蛋民」
3.2 蛋民から職業集団へ
3.3 陸上がりにともなう水上人の変容
3.4 創られる水上人
4.水上居民の居住動態に関する比較検討 (長沼・浅川)
出典: 『住宅総合研究財団研究論文集』№34 : p.65-76
発行年: 2008年3月31日
発行所: 住宅総合研究財団
発売所: 丸善株式会社 出版事業部
印刷所: 株式会社 七映
ISSN 1880-2702
定価: 2,520円(税込み)
本論文には2006年度のチャック、エアポートの「
越南浮游」、2007年度の某院生、ハルさん、エアポートの「
越南浮浪」の成果がふんだんに盛り込まれております。
いまとなっては懐かしい想い出ですが、某院生くんにとっては想い出でもなんでもなく、修士論文のテーマそのものですね。まずはこの論文をよく読んでください!
- 2008/04/17(木) 08:17:31|
- 文化史・民族学|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
夜更けのノック これまで調査したすべての成果から判断する限り、当時の日本が最も警戒すべき国はスペインではなく、むしろオランダであると舌右衛門は判断せざるをえなかった。
歴史学的にみて、この推測は決して誤っていない。オランダ東インド会社は1624年に無政府状態にあった台湾に侵攻し、安平にゼーランジア城、台南にプロビンチア城を築いている。その2年後、スペインはオランダに対抗して台湾北部の淡水にサン・ドミンゴ城、基隆にサン・サルバドル城を築いたが、1642年にオランダはスペイン勢力を一掃し台湾の独占的植民地経営を成し遂げたのである。
いうまでもなく、オランダと徳川幕府との関係は良好であった。のちに鎖国が始まっても、中国とオランダだけが平戸に入港・居留を許される。オランダが台湾を拠点として、徳川幕府への働きかけを強めた賜である。
舌右衛門は考えにかんがえた。かりに伊達政宗の使節をローマに派遣したとして、スペインの艦隊は日本にあらわれるだろうか。その可能性は低いと言わざるをえない。スペインはなお西欧の強国であったが、大西洋の制海権を新興国イギリスが脅かしており、一方、アジアにおいても、属国であるはずのオランダが軍事と経済の両面で優位にたっている。徳川幕府を崩壊させるだけの海軍力がスペインにないはずはないのだが、かりに大軍をもって日本に侵攻した場合、大西洋の制海権をイギリスに奪われかねないし、徳川幕府に与するオランダとの海戦も覚悟しなければならない。
「何むつかしい顔してるの?」
とサラが問いかけてきた。
「勉強疲れさ・・・」
と舌右衛門は答える。
「それじゃ、ワインでも飲んだら。ねぇ、夕食は広東にする? それともポルトガル料理??」
「広東料理をお願いしようかな。量は少なめでいいから」
二人はサラの部屋で円卓を囲んだ。大きな鯛の蒸し物が円卓の中央に置かれている。舌右衛門は箸を使い、サラはナイフとフォークを使って、鯛の身をほぐし、口に運んでいった。白いワインとの相性はとても良い。
「ねぇ、これで仕事は終わったの?」
「あぁ、だいたい西洋の事情は理解できたよ」
「じゃぁ、もうわたしは用なし?」
「いや、まだすぐに帰国するわけじゃないからね」
沈黙の時間が流れ、サラは視線をそらしながら、ぶっきらぼうに言葉を発した。
「ねぇ、わたしをあなたの国に連れて行ってくれない?」
「どうしてまた、そんなこと言いだすの?」
「あなた以外の男に抱かれるのが煩わしくなってきちゃった」
「こんな年寄りの相手をするより、もっと若くてお金持ちの男を選んだほうがいいんじゃないかい。わたしには君を惹きつけ続ける自信はない。それに、マカオのほうがずっと刺激的で楽しいところだと思うけどね」
「日本に大きな町はないの?」
「江戸や大坂は大都会さ。そういう都市なら、君も気に入るかもしれないが、わたしの故郷は田舎町だから、きっと退屈になってマカオに帰りたくなるだろうね」
「どんなところ?」
「夏は結構涼しくてね、居心地はいいんだけど、冬には雪が積もる。寒いよ」
「ロンドンだって雪は降るし、寒いわよ」
「ロンドンの食べ物は美味しいの?」
「いえ、マカオのほうがだんぜん上ね。こんなに美味しい魚料理は食べられないもの。あなたの国の食べ物は?」
「海産物はとても美味しい。ただ、日本人は生の魚や貝を好んで食べるんだ」
「魚や貝を生で食べるの?」
「そう、新鮮な魚介類は生で食べるよ。信じられないだろ?」
[薬研堀慕情(ⅩⅤ)]の続きを読む
- 2008/04/16(水) 13:46:25|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
無敵艦隊の実態 書店や図書館で集めた英語の資料は、それほど多くはない。サラに手伝ってもらえば、和訳の仕事は3日ばかりで終えることができた。
スペインとイギリスは16世紀前半までは友好関係にあった。しかし、1558年のエリザベス1世即位にともなって情勢は大きく変化する。ひとつには、植民地をめぐる利権闘争が背景にあった。カリブ海域におけるスペインの独占体制がイギリス船の進出によって犯され始めたこと、そして、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中でしばしばイギリスの海賊に襲われたのだが、エリザベス女王その人が黒幕であることがあきらかになった。カトリックとプロテスタントの宗教対立も深刻であり、カトリックの覇者を自任するスペインには周辺諸国の敵意が集中した。エリザベス1世はフランドル地方(フランス北端部からベルギー西部)の反スペイン闘争を積極的に支援し、さらに、スペイン国王フェリペ2世がスコットランドでのカトリック再興を託していたメアリー・スチュアートを処刑した。
スチュアートの処刑に怒ったフェリペは、イギリス上陸作戦を決意した。1588年の7月下旬、130隻の大艦隊がリスボン港から出航した。将兵は約3万で、上陸後の侵攻のため、うち約2万が陸軍の兵士であったという。迎え撃つイギリス艦隊の総数は小型船を中心に約200隻、海賊あがりのドレーク将軍率いる海軍の兵士が約1万5千。
スペイン艦隊はもともと波穏やかな地中海に適したガレー(人力で漕ぐ大型船)による海戦を得意としており、帆船への移行が遅れていた。スペインの艦船は1000トン級の大型船が多数を占め、ガレー船仕込みの接近戦を仕掛けてきたが、イギリスは機動力と速度に勝る小型船で一定の距離を保ちながら長距離砲を放ち、次々にスペインの大型船を撃沈していった。
ドーバー海峡の初戦でいきなり大敗北を喫したスペインは、南方の帰還路を塞がれ、北に逃げるしかなかった。イギリスはこれを追撃する。どのような戦さでも、追っ手は圧倒的に優位であり、スコットランドからアイルランドにかけての外洋でもスペインは連戦連敗。半時計まわりでブリテン諸島を一周し、リスボンに帰還したとき、約2万の兵士と80隻の艦船を失っていた。まさに壊滅的な敗北である。しかも、それは、わずか10日間のできごとであった。
サラは自慢げにこう言った。
「ねっ、わたしの言ったことに間違いはないでしょ!?」
「そうだね。アルマダの海戦っていうのは、君が生まれる1年前の出来事だったんだ・・・」
「無敵艦隊っていう名前がアイロニーだっていうのも、分かったでしょ?」
たしかにスペイン側は、この艦隊を「最高の祝福を受けた大いなる艦隊(Grande y Felicísima Armada)」と自称している。「無敵艦隊(Armada Invencible)」とは、戦勝に沸くイギリスが皮肉をこめてスペイン艦隊に与えた呼称だったのである。
ただ、アルマダの海戦が、スペインとイギリスの政治的=軍事的立場を完全に反転させたとまで理解していよいのかどうかは微妙であった。フェリペ国王は2年間で海軍を再建したため、以後もしばらくスペインの大西洋支配は揺るがなかったと言われる。しかし、イギリス遠征の失敗は、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」に象徴される軍事行動を神への奉仕と信じて疑わなかったスペイン国民に深刻な動揺を与えた。アルマダの敗北が、スペイン没落の予兆となったのは間違いない。
[薬研堀慕情(ⅩⅣ)]の続きを読む
- 2008/04/15(火) 00:32:03|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
籠の鳥 月が変わって、旧暦の9月に入った。日本ならば、秋風のそよぐ清々しい気候に遷ろいでいるところだが、マカオの暑さはほとんど変わらない。
その日も3人は、いつものように、朝食というよりもブランチとして長い時間をかけ、飲茶を味わっていた。蒸籠物をはこぶ小李とミレットがほぼ同時に厨房に消えた瞬間、ひとりだけ伎楼遊びを続けている伸太が、舌右衛門に耳打ちした。
「サラ殿がご機嫌斜めでございますぞ」
舌右衛門は思わず皿と箸を卓におろして、顔をあげ窓外を見通すように目を大きく開いた。古本屋通いと資料整理が楽しく、学者のさがと言ったらよいのだろうか、何かを学び始めると夢中になって、他のことが頭から消えてしまう。おまけに、身近にいて気づかなかったミレットというメイドの魅力に心身とも犯され始めていた。だからといって、サラのことをほっておいてよいわけではない。なにより、自らの仕事を完遂するためにはサラとのコミュニケーションは不可欠であり、それを失念していた自分が情けなくなってしまった。
食後、二人のメイドに
「出かける。今夜は帰ってこれない」
と伝えた。二人は淋しげな顔をした。
十字楼では、サラが待っていた。部屋に入っても、ベッドに腰掛け、膝を組んで動かず、うつろな眼で舌右衛門をみつめている。
「やっといらっしゃいましたわね」
「申し訳ない。仕事に没頭していたもので」
「わたしね、最初は貸し切りって楽だなって思ったんだけど、あなたの来ない日がこんなに退屈だとは思わなかったわ。あんまり退屈だから、マスターにお客をとりたい、って頼んでみたのよ。だけど、駄目だって言われたの。だったら、せめて外出させてほしい、ともお願いしたわ。でもやっぱり駄目だって言われた」
「うん、いま君はわたし以外の人物と接触しないほうがいい。はっきり言って、危険なんだ。じつは十字楼を王賢尚の手下がいつも見張っていて、君をガードしているんだよ」
「あなた、だれかに狙われているの?」
「日本で、いちど刺客に襲われてね。マカオまでは追ってこないとは思うんだけど・・・」
「その刺客はどうなったの?」
「斬ったよ」
「あなたが狙われるのはあなたの問題で、仕方ないとしても、なぜわたしまで狙われなければならないの?」
「敵方はわたしを警戒しているというよりも、わたしが君から聞き出す情報を警戒しているんだ。つまり、その情報がわたしに伝わらなければいいのだから、かれらの方法としては、わたしを殺すか、情報源である君の口を封じてしまうかの、どちらかを選択することになる」
「あなた、何者? 007のような人なの??」
「いや、あんなにハンサムでもないし、あれほど強くもない」
「そういう意味じゃなくて、ジェイムズ・ボンドのような諜報活動をするスパイなのって訊いているのよ」
「いやいや、わたしはただの学者さ。西洋の事情を調べてほしい、と依頼されただけなんだ」
学者という職業は嘘ではない。しかし、いま自分が遂行しつつある任務は徳川方に与する諜報活動であり、その点において自分はかりそめのスパイであることに、舌右衛門は後ろめたさを覚えた。
[薬研堀慕情(ⅩⅢ)]の続きを読む
- 2008/04/14(月) 00:47:46|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
古本漁り イスパニアの大艦隊がアルマダの海戦でエゲレス軍に大敗して壊滅したというサラの話を聞いて、舌右衛門は大きな衝撃をうけた。しかし、それはサラの生前の出来事であり、どこまで史実に近いのかは分からない。また、かりにアルマダでイスパニア艦隊が壊滅していたとしても、それから20年以上の歳月が流れているわけだから、イスパニアの軍事力が回復している可能性も十分あるだろう。
これから先は又聞きでは駄目だと、舌右衛門は判断した。より客観的で確実な証拠を探し求める必要がある。とりあえずは古本屋を中心に書店をくまなく探索することに決めた。この本屋めぐりには、メイドの小李とミレットにも同行してもらうことにした。利蔵と伸太はマカオの街の地理には明るくなってきたけれども、もちろん語学はさっぱりできない。小李の漢語とミレットのポルトガル語は資料探しの有力な武器になる。資金は潤沢にあるのだから、本を細かく選び分ける必要などない。とりあえず、「キーワードはArmadaだ」と全員に示しはしたが、そのキーワードがみあたらなくても、関係ありそうな資料は欧文であろうと、中文であろうと、手当たり次第購入するよう指示した。買いためた本の運び屋として、利蔵と伸太はよく機能した。
その一方で、舌右衛門は王賢尚を通じて、マカオの公立図書館と公文書館での資料閲覧の要望書を当局に提出していたのだが、予想どおり、公文書館への立ち入りは認められなかった。ただ、役人への鼻薬が効いたのか、図書館での閲覧については許可がおりた。図書館にも小李とミレットが同行し、舌右衛門を加えた3人で関係ありそうな文献を筆写していった。
夕食後、二組に分かれて資料を整理した。読める文献は日本語訳し、ノートにペン書きしていく。舌右衛門の部屋では舌右衛門とミレットが欧文の資料を整理し、利蔵の部屋では利蔵と伸太と小李が中文の文献を整理した。ただし、伸太はしばしばひとりで夜遊びにでかけるようになった。小李はとぼけたコメディアンのような伸太をおもしろい男だとは思っていた。しかし、伸太と利蔵のどちらかを選ぶとなると利蔵がタイプらしく、利蔵と小李は次第に仲睦まじくなっていった。
伸太にしてみれば、3人で利蔵の部屋にいても「居場所がない」という疎外感を覚えるだけ。ならば、夜遊びにでるしかない。舌右衛門もそれを咎めはしなかった。
[薬研堀慕情(ⅩⅡ)]の続きを読む
- 2008/04/13(日) 00:30:46|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

4期生が旅立ってから約半月・・・本日から2008年度版浅川研究室が始動いたしました。今日はゼミで3年と4年&院生が初対面。
すでにお馴染みな人、逆に初めましてな人もいますが、ここで
新メンバー3名をご紹介いたします。
・U.Kくん(彼はすでにお馴染みさんですね)
・Kくん(一昨年、加藤家で活躍した彼が再び登場)
・Oくん(うちの研究室とは初対面です)
それぞれの自己紹介を済ませ、これからの活動を確認したのち、歓迎のお茶会with巨大ケーキ。少々固かった雰囲気もこれで一気に和やかなムードとなりました。

しかし、お気付きでしょうか?ここにいる人数は先生を含めて9名。と、いうことは10等分したケーキが一つ余るということ。しかも他のより1.5倍くらいサイズアップしたものが。
そこで、先生から①新研究室の名簿作りをする人、②本日のブログ担当者、③そしてケーキ2個目を食する人を決めるじゃんけん大会を開催すると提案。でもケーキは2等分して初仕事をしてくれる①と②の担当者2人にプレゼントすることになりました。
あ、①も②も名誉ある仕事。ここは勝者を担当にしましょう。
じゃーんけーん・・・
ブログを書いている時点で、結果はお分かりでしょう。私がじゃんけん勝ち抜きました。そして3年代表に負けました。だから今こうして書いております。私に勝ったOくんはきっと今名簿作りに励んでいることでしょう・・・ね?

↑名誉ある仕事を担当することになった2人
それでは年生のみなさん、これから一緒にがんばりましょう。そして、ブログをご覧になってる方もそうでない方も、新生浅川研究室をよろしくお願いします。(ヒラ)
[2008年度ASALAB始動!]の続きを読む
- 2008/04/12(土) 00:00:32|
- 研究室|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
昨年度後期のプロジェクト研究2&4「
歩け、あるけ、アルケオロジー」は「
とっとり知の財産活用推進事業」と連動し、各方面で好評を博しましたが、今年度前期は10日からプロジェクト研究1&3「魔法の山 -谷口ジローの風景-」という1・2年生の3学科合同演習が始まりました。
トマトさんが
卒業論文でとりあげた『
父の暦』と『はるかな町へ』に引き続き、谷口ジローが昭和の鳥取を描く最新作『
魔法の山』を手がかりに、鳥取城跡を探索しようとする演習です。
メンバーは1年生5名、2年生5名の計10名。全員が1位志望で、なによりでした。これを4年生・院生5名がサポートします
以下、シラバスの講義概要を転載します。
--------------------------------
鳥取城の城跡がある久松山(きゅうしょうざん)には戦国時代に掘られた秘密のトンネル(抜け道)があちこちめぐっているのですが、いまはその入口がどこにあるのかもよく分かっていません。その迷路のようなトンネルを深く進んでいくと、山の中心部に聖水の湧く泉があり、山の精霊が棲んでいるんですよ!? その精霊は、ときに山の外まで遊びにでてきます。山の外にでると、精霊はオオサンショウウオに姿を変えてしまいます。ひょっとすると、県立博物館の水槽に飼われて展示されているオオサンショウウオも「山の精」なのかもしれませんね。だとすれば、早く泉に返してやらないと・・・
以上は鳥取出身の漫画家、谷口ジローがヤングジャンプ誌に連載した「魔法の山」(フランス語訳されてヨーロッパでは単行本になっています)のストーリーの一部を示したものです。今回のプロジェクト研究では、谷口ジローの漫画に導かれながら、久松山を駆けめぐり、その秘密の世界に忍び込んでみましょう。
--------------------------------
つい
先日のべたように、わたしはこれまで意識的に鳥取城跡を避けてきたところもあり、いままで天守跡のある山頂にすら上っていません。しかし、このプロジェクトを進めるからには城跡を歩きまわらねばならないと観念しています。ちょうどいま、鳥取市は久松山の中世城郭遺構の踏査も進めており、そういう事業に貢献できれば嬉しいかぎりです。市の関係者のみなさんや石垣修復現場のみなさんには、いろいろご支援をお願いするかもしれませんが、なにとぞよろしくお願いいたします。
あっ、そうだ、伸太もいた!
そちも参加せい!!
[第1回「魔法の山」 -谷口ジローの風景-]の続きを読む
- 2008/04/11(金) 00:34:29|
- 漫画|
-
トラックバック:0|
-
コメント:2
ビフォー・アイ・ワズ・ボーン サラの部屋で、好物の白い発砲性ワインを飲みながら、ふたりはよく話をした。中国語が7割、英語が3割の、途切れとぎれの会話ではあったが、日増しに意思の疎通はよくなっていく。
「どうして、こんなところで遊女をしているの?」
「どこの国の男も同じことを訊くのね、もううんざり。なぜ知りたいの?」
「まぁ、訊いておいてもよいかな、と思ったぐらいさ」
「その程度の理由なら、あまり話したくないわね。だって、話し始めると、とても長くなるのよ。いろんなことがあって、複雑にこんがらがっていて、わたしの語学力ではきちんとした説明はできないわ、残念ながら。ただひとつ言えることはね、いまこうして生きているだけマシだってこと」
「それなら、話題を変えよう。いまヨーロッパでいちばん強い国といったら、どの国なのかな?」
「いちばん強いって、どういう意味?」
「軍事的にさ。戦争したら、どこが強いっていう意味だよ」
「そりゃ、わたしの国でしょうね?」
「イギリスかい?」
「そう」
「どの国の人も、自分の国がいちばん強いと思っているんじゃないかい?」
「そうかなぁ・・・、オランダはオランダのほうが強いって思ってるのかな、やっぱり」
「日本人はみな、イスパニアが強国だと信じているんだよ」
「イスパニアって、スペインのこと?」
「スペインはもう落ち目ね」
「いつごろから落ち目なの?」
サラは話をさえぎった。どうやら話題に退屈しているらしい。
「ねぇ、葉巻を吸わない? マスターがハバナ産の上等な葉巻を用意してくれてるのよ」
サラはまるい缶から太い葉巻を1本取り出し、口にくわえて火を点け、口紅のついた葉巻の吸い口をそっと舌右衛門の唇におしあてた。舌右衛門はしばらく煙をくゆらせていたが、葉巻をいったんサラにかえすと、同じ質問を繰り返した。
「だからさ、スペインが没落したのはいつごろからなんだい?」
サラは葉巻の煙をふっと吹き出しながら、
「ビフォー・アイ・ワズ・ボーン」
と答えた。
舌右衛門は眼を見開き、「ハウ・オールド・アー・ユー?」と問う。サラは、女性に年齢を訊くなんて失礼よ、という顔をしながら、
「21」
と素っ気なく答えた。
[薬研堀慕情(ⅩⅠ)]の続きを読む
- 2008/04/10(木) 00:19:12|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
伎楼通い 利蔵と伸太は中国の女とばかり遊んでいた。「日本語の分かる女」という条件を伎楼の主に伝えると、相手してくれるのは中国の女ばかりだったのである。すでに、二人とも目の下にうっすらと隈をっつくっている。伸太は「腰が痛い」と嘆き、利蔵は「膝に痣ができました」とこぼすのであった。
「ならば、遊郭通いをやめればよいではないか!」
と舌右衛門は二人を叱責した。
「昔からな、男を骨抜きにするのは酒色だと言われていることぐらい、おぬしたちはよく知っていようが。中国の宦官たちは、若いころから皇帝に酒とおなごを与え、自分の思い通りに操ってきたのだぞ」
「ほとんど骨抜き状態でございます」と伸太。
「阿呆! そもそも、なぜ遊郭に通っているのか、わかっているのか?」
「必要な情報を集めるためでございます」
「であろうが。だからこそ、わしはエゲレスのおなごを探し出したのじゃ」
「しかし、利蔵もわたしも言葉が分かりませんゆえ、もうひとつ情報集めになりませぬ」
「だから、どうだというのじゃ」
このころふたりは伎楼遊びにも飽きだしており、多くの中国女と比較して、「メイドの小李のほうが可愛い」と思うようになっていた。それに、小李は日本語がべらぼうに上手く、なんとでも話が通じるのである。これ以上の情報源はない。利蔵が思いきって切り出した。
「王賢尚さまはメイドに伽をさせてもかまわぬ、とおっしゃいましたが、小李を部屋に呼んでよろしうございますか?」
「伸太はどうなのじゃ。小李を利蔵に与えてもかまわぬか?」
「いえ、わたしも小李を好んでおりますれば」
「ならば、かわりばんことするか?」
「いえ、そういうわけには・・・・ご勘弁ください」と利蔵。
「ならば、奪いあうしかあるまい。小李に訊いてみよ。ふたりのうち、どちらを好いておるのかと?」
「負けたほうがミレットを頂戴するということでよろしうございますか?」
「ミレットは日本語がしゃべれんであろうが。あのポルトガル娘から話を聞くことができるのはわしだけじゃ」
「それは狡い・・・」
[薬研堀慕情(Ⅹ)]の続きを読む
- 2008/04/09(水) 00:06:36|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
曼徳倫の夕べ 王賢尚は3人を「曼徳倫」という名の海辺のレストランに案内した。コロアネ島南端の聖フランシスコ・ザビエル教会の門前から海に向かう回廊を利用した食堂群のひとつで、潮風にあたりながら、海鮮料理を浴びるように食べ、ワインを飲んだ。近くの海岸線には、家船が散見される。どうやら近くに船上生活者の大集落があるらしく、そこから魚介類をレストランに売りに来ているのだ。波よけ石垣のところどころに平底の浅い籠が並べられていて、聞けば、牡蠣の剥き身を干しているとのこと。これも船上生活者が潜水して採取してきたものである。
伸太と利蔵は貝の酒蒸しや、大蒜のたっぷり効いた蝦の炒めものに舌鼓をうつ、というよりも、むしゃぶりついている。とくに驚いているのは、鰯の炭火焼きである。
「殿、これは日本でいつも食べている鰯の焼き物ではありませぬか。七輪で火をおこし、網焼きにする鰯と同じでございますな!」
「あぁ、あれも平戸経由でポルトガル人が日本に伝えたものではないかな」
「さようでございますか。ほかに日本に馴染み深いものはございますか?」
「金平糖」
舌右衛門はもちろん料理も食べたが、なによりシャンパンのような白葡萄酒が懐かしく、その酒を舌でころがしながら、五重奏団の生演奏にじっと耳を傾けていた。
「殿、あれが吉他琴という楽器でございますか」と伸太が訊いた。
「倭文の屋敷にギターラを1台おいておる。目にしたことはないのか?」
「覚えがありません。どこで手に入れられました?」
「平戸じゃ。平戸の楽市でぼろぼろのギターラをみつけた。ただ同然の値であったから買うたのじゃ。でもな、少し修理して弦を張り替えたら、なかなか良い音がするようになってのぉ」
「そのギターラでサンバーストという曲を練習されているのですか」
「あぁ。奥にはいつも叱られておる。うるさい、うるさい、近所迷惑だと・・・」
「この店の楽団の演奏はいかがですか?」
「哀愁があってよいな。本物は違うわ」
「ギターラの横で、中風の患者のように手を震わせている小さな楽器はまた違うものなのですか?」
「あれはマンドリンと言ってな、8弦の楽器じゃ」
ギターラの伴奏にマンドリンがトレモロでメロディを奏で、厚化粧の歌手が唄を絡めてくる。その哀愁深い旋律は、ときに日本の民謡を思い起こさせるときすらあった。案外、スケール(音階)が近いのかもしれない。
王賢尚が話題に加わった。
「ギターラの本場はイスパニアにございます。ポルトガルの弾き手でも独奏者をめざすものはイスパニアで師匠をみつけ、何年も修行を積むと申します」
「そうですか。それなら、イスパニア艦隊が日本を占領するのも悪くありませんな」
「・・・??」
「はは、冗談、冗談でございますぞ。だはは・・・」
「殿はそれほどギターラがお好きなのですか?」
「えぇ、まぁ、少々。あれを弾いていると時間を忘れまする」
「あっ、9時をまわりました。お楽しみでしょうが、まだ仕事が残ってございます」
「まだ仕事があるのですか?」
「そろそろ伎楼に参りましょう」
[薬研堀慕情(Ⅸ)]の続きを読む
- 2008/04/08(火) 00:36:32|
- 小説|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
次のページ