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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

薬研堀慕情(Ⅷ)

澳門漫遊

 一夜明けて、3人はマカオではじめての朝を迎えた。朝陽が洋館1階の大きなフロアにさしこんでいる。その中央に置かれたおおきな円卓を囲んで、3人は椅子に腰掛けた。伸太は、円卓に並んだ料理の数々に目を白黒させている。

   「殿、昨晩の広東料理もたいそうな馳走でございましたが、この朝餉も尋常ではございませぬな」

 食卓にはすでに青菜の牡蠣油炒め、肉もやし炒め、饅頭、海鮮焼きそば、揚州チャーハンが並んでおり、さらに二人のメイドは続々と蒸し物を運んでくる。小柄で、つぶらな瞳をした小李(シャオリー)というメイドが、まず

   「小籠包でございます」

と言って、小さな蒸籠をテーブルにおいた。小籠包といえば江南の名物料理だが、マカオのそれはやや小振りで、スープを薄味にしている。こんどはポルトガル人のミレットというメイドが2種類の蒸し餃子を運んできた。一つは豚肉と黄韮の餃子、もう一つは蝦と白菜の餃子である。こういう蒸籠物が何種類もテーブルに並んでいき、その締めにピータン粥と竹升麺の小椀がひとつずつ客人の前に置かれた。

   「伸太も利蔵も、そう、がつがつ食らうでない・・・」
   「しかし殿、この料理はほんに美味しうございますな。このように旨いものを食べたことはございませぬ。広東の中国人はみな、朝からこれほどのごっつぉうを食べているのでございますか?」
   「金持ちはな」
   「百姓は貧しいのでございますか」
   「貧しい」
   「どれほど貧しいのですか?」
   「日本よりも貧しい」
   「・・・それにしても、たまりませんな。これで酒があれば・・・」
   「朝から酒が飲めるか。その茶が料理によくあうであろうが。飲茶(ヤムチャ)と言ってな、茶をのみ、軽食をつまむ。これが広東の風流じゃ。」
   「さようで。これはなんというお茶でございますか?」
   「水仙か鉄観音ではないかな」
   「烏龍茶とはまた違うのでございますか?」
   「烏龍茶にはさまざまな銘柄があるのよ」

 小李が控えめに口をはさんだ。

   「これは武夷山でとれた岩茶でございます。高山の岩山に自生する茶でして、なかなか手に入らないのですよ」
   「福建と江西の境に聳える武夷山か。武夷山にも行ったことはあるが、その岩茶とやらは、たいそう値が高く、とても買う気にならなんだな」と舌右衛門は答えた。


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  1. 2008/04/07(月) 00:32:33|
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薬研堀慕情(Ⅶ)

メイドのみやげ

 慶長十五年八月三日の朝、町人姿に身をやつした3名は堺の湊津にいた。もちろん飛行船などこの時代にあるわけがない。「飛行船」という冗談に目を白黒させた鮎の顔がふと浮かんだ。そこに電信音が鳴った。

   {出発の日ですね、お土産待ってます!}

という文字が並んでいる。

   「鮎殿でございますか?」
   「あぁ」
   「返信なされませんのか?」
   「・・・」

 舌右衛門は考えこんでしまった。どうも最近ひねくれていて、(所詮、営業メールだ)と割り切ってしまう自分に情けなくなるときすらある。今回もその思いは同じであり、とうとう返信せずに船に乗ってしまった。考えれば考えるほど、鮎のような若々しい美人が腹のでた中年男に惚れるはずがない、という結論に至る。とすれば、すべての電信は「営業用」という判断をくだすほかない。
   (十歳若かったらな、もっと積極的になれるのだが・・・)
   (おなごは男から金を巻き上げればよいのだからな)

 2日後の夕刻、船はようやくマカオの沖合に辿りついた。そこは阿媽角という岬の近くで、岸辺に阿媽閣という廟が建っていた。その廟の周辺の岸辺には、家船(えぶね)が群れて水上に大集落を営んでいる。船に住み魚介類の捕採に勤しむ海民をマカオでは阿媽(アマ)と呼び、その祖先を媽祖と呼んで阿媽閣に祀っているのだ。日本でも海女・海士をアマと呼ぶが、環東シナ海のひろい海岸域では沿海漁民の呼称としてほぼ共通しており、この国境なき海人集団がときに倭寇などの海賊に早変わりするのである。

 舌右衛門ら3名は小舟に乗り換え、家船の群れを掻き分けるようにして、港に着岸した。そこに、王賢尚と名乗る大柄の明人があらわれ、3名を出迎えた。

   「宗薫さまから文を頂戴しております」

という流暢な日本語を、その中国人は話した。

   「宗薫とは、堺の今井宗薫さまですか?」
   「さようでございます」


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  1. 2008/04/06(日) 00:49:56|
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薬研堀慕情(Ⅵ)

別れの盃

 マカオへの出立を5日後に控えた7月末の夕刻、舌右衛門は川釣りにでかけた。もちろん草叢の陰では伸太と利蔵が見張っている。舌右衛門は一刻ばかりで22尾のハエを釣り上げた。

   「大将、これをフライにしてくれ!」

 割烹料亭「飛鳥」の2階座敷では、清水多久左右衛門と岡村高堂が下呂舌右衛門を待ちかね、すでに酒を飲みはじめていた。

   「すまぬ、すまぬ。夏の川釣りはやめられんな」
   「今宵の首尾はいかがでございましたか」と多久左が問う。
   「大小あわせて22尾のシラハエじゃ。学名オイカワ、知っておるか?まもなくここにフライが並ぶぞ」
   「殿、お久しぶりにございます」と高堂が挨拶する。
   「堅苦しいことを言うな、まぁ飲もうぞ」

 この日の酒は「八上姫」という銘柄であった。

   「これはどこの酒かの?」
   「八上郡の曳田に酒蔵がございます」と多久左が答え、
   「近くに八上姫神社がございます」と高堂が続ける。
   「大國主命の側室か。辛口でうまい酒ではないか。八上姫も性が辛かったのかの?」
   「ははは、おなごは甘かったり辛かったり・・・」
   「許嫁はどちらじゃ?」と高堂に訊ねれば、
   「・・・このブログをよう読んでおりますゆえ、答えられません」
   「伸太と利蔵は加わりませぬのか」と多久左が訊く。
   「忍びには忍びの仕事をしてもらっておる」

と言って、舌右衛門は目を上下させた。利蔵は天井裏、伸太は畳の下に潜んでおり、間諜の侵入を防御しているのである。

   「なるほど、壁に耳あり、障子に目ありでございますな」
   「ここは大丈夫と思うがな。何度も密談に使ってきた。して、天球丸の普請は相変わらずか?」
   「はい、難渋しております」
   「それにしても、あの郭はなんのために造営するのじゃ」
   「大奥だと聞いております」
   「大奥というほど奥方や女官はおらぬではないか。広すぎるな?」
   「たしかに」
   「天球丸の石垣については、宮部さまの代から築造が始まったと聞いておりますが」
   「あぁ、下の腰巻石垣は宮部時代のものだが、当時の計画は頓挫したまま代が変わった。池田長吉さまの計画はまったく違うと聞いておる。高堂は指図をみておらぬのか?」
   「一度もみたことがございませぬ。ただ部材の加工について、細かな指示が届きます。その材のうち八角円堂の組物のような材が混ざっております。直角ではなく、135度に振れているのです。これの加工がなかなか大変でございます」
   「安土の天守閣でも再現する気かの?」


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  1. 2008/04/05(土) 00:40:54|
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『深奥的中国』展図録

s深奥的中国01表

 みんぱくから、『深奥的中国 -少数民族の暮らしと工芸』展の図録が送られてきました。なぜ送られてきたのかというと、わたしが短いコラムを書いたから。以下のコラムです。

   Column 1
   浅川滋男「アジアの縮図 -中国少数民族の住まい」(図録p.30-31)

 いきなり恥ずかしい話ですが、さっそく誤植を2ヶ所発見しました。とほほ・・・ 正誤関係を示しておきます。

★31頁中段 上から5行目
  (誤) の家が通年住居化と理解している。
  (正) の家が通年住居化としたものと理解している。

★★31頁 写真キャプション
  図8と図9のキャプションが入れ替わっています。

 なお、この原稿をどこかでみたとご記憶の方は、こちら をクリックしてください。

 『深奥的中国』展はすでに始まっています。開期は本年3月13日~6月3日。会場はもちろん国立民族学博物館です。なんとか見に行きたいものですね!

 図録の書籍情報を記載しておきます。

   編集: 国立民族学博物館(塚田・横山)
   発行所: 東方出版株式会社
   印刷: 日本写真印刷株式会社
   発行年: 2008年3月12日
   ISBN978-4-86249-108-4
   価格: 2000円(+税)



  1. 2008/04/04(金) 07:30:16|
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薬研堀慕情(Ⅴ)

分身の術

 殺気をおびた影は、舌右衛門と伸太と利蔵の3人を囲むように、急速に旋回しはじめた。そして、7人の忍びがあらわれた。7人の忍びはおなじ顔、おなじ装束をしている。その忍びはゆるりゆるりと平行移動しながら、いまにも3人に斬りかからんとしているが、7人の構えはみな違っていた。隙がない。

   「幻術じゃ、幻術に惑わされるな!」と舌右衛門が叫んだ。
   「分身の術でございますな」と利蔵。
   「どれが本物の忍びでございましょう?」と伸太。
   「あわてるな、伸太、花火をあげい!」

 伸太は「忍法パラシュート!」と小声で呻き、ぼ~んと何かを空に打ち上げた。空から小さなパラシュートがいくつか落ちてくる。パラシュートには花火が吊されており、火の粉をあたりに撒き散らした。境内が一瞬あかるくなり、7人の忍びを照らし出した。

   「そこじゃ!」と舌右衛門は太刀を一閃。

 忍びは地面に倒れ込み、その腹に利蔵の投げた十字手裏剣がくいこんだ。すでに6人の幻影は消えている。伸太が訊ねた。

   「殿、どうして本物の忍びがお分かりになったのですか?」
   「影がみえた。他の6人は火に照らされても、影ができなんだ」

 利蔵が覆面をはいだとき、忍びはすでに舌を噛みきり、死んでいた。

   「殿、この顔に見覚えは?」
   「ない」
   「どこの忍びでございましょうか?」
   「あの術はな、『飛騨の忍者赤影』にでてくる霞谷七人衆の術によく似ておったぞ」
   「甲賀者でございますか?」
   「傀儡甚内の術にも似ていたが、甚内は人形で分身を操るゆえ、むしろ夢堂典膳のおぼろ分身に近い技ではないかの。いずれにしても、甲賀者であろう」
   「すでに殿への密命が敵方に漏れているということでございましょうか」
   「そうとしか考えられんな・・・」
   「この死体、いかがいたしましょう」
   「捨て置け。仲間が始末するであろう。境内のどこかにまだ一人二人、忍んでおるかもしれんぞ。」

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  1. 2008/04/04(金) 00:02:41|
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薬研堀慕情(Ⅳ)

天の川へ

 薬研堀に沿う小道を北に上がっていくと寺町にでる。明慶寺という真宗寺院の伽藍の真ん中で二人は利蔵と落ち合った。これぐらい大きな広場で話すほうが敵方の忍びに話を聞かれる恐れもないのである。

   「上方は物騒なことになって参りました」
   「大坂城か」
   「はい。関ヶ原の浪人どもが続々と入城しており、すでに数万の大軍にふくれあがっております」
   「大坂方は徳川の連合軍に勝てると思っているのでしょうか」と伸太が訊ねる。
   「勝てるとは思っておるまい。武士の意地ではないか。浪人たちは死場所を求めておるのよ」 
   「それが、淀君や大野治長は勝てる目算があるようなのでございます」と利蔵。
   「・・・独眼竜か?」
   「はい、伊達政宗さまが婿の松平忠輝さまを連れて大坂方に寝返るとの噂がまことしやかに流れております」
   「それは聞いておる。大坂方には事実上の総大将がおらぬから、伊達が城に入って総指揮をふるえば、たしかに恐ろしいことになるが、それでも徳川方の連合軍を打ち破ることはできまい」
   「それが、さらに強力な援軍が参るというのです」
   「だれじゃ?」
   「イスパニアの無敵艦隊です」
   「えっ!?」
   「幕府は伊達さまに命じてローマに使節を派遣するらしいのです。なんでも支倉常長という仙台藩の武将がその準備を進めておるとのこと」
   「噂に聞いたことがある」
   「ところが、南蛮の宣教師どもが伊達さまに『ローマからイスパニアにまわり、フェリペ国王に密書を送れ』との悪知恵を吹き込んだようでして・・・」
   「密書とは、軍艦を派遣してほしい、という嘆願書か」
   「はい。軍艦を派遣してくれれば、日本はキリシタンの国に変わると」
   「恐ろしいことを企むものじゃ・・・」
   「大阪方の筋書きは壮大でございます。伊達さまを総大将にして大阪城に十万の兵が籠城する。大坂城ならば十年の籠城にももちこたえられる。そのあいだに支倉に導かれたイスパニア国王の艦隊が難波の海にあらわれ、幕府軍に猛攻撃を加える」

 舌右衛門は、その筋書きに驚愕した。場合によっては、日本はイスパニアの属国になりかねない、という恐怖すら湧いてきた。

   「駿府の大御所(家康)はもちろん、このこと承知しておるのであろうな?」
   「はい。で、柳生宗矩さまを通じて伊賀の頭領、服部半蔵御師匠に伝令が下されました」
   「なんと?」
   「下呂舌右衛門さまに雨川(あまかわ)に出向いていただきたい、と」
   「なに、わしが七夕に天の川に行くのか」
   「おふざけはほどほどになさいませ。澳門(マカオ)に行ってほしいとの命でございます」

 当時、平戸ではマカオを「雨川」と漢字書きしている。マカオはアマカオとも呼ばれており、その音声を訓読みの漢字でなぞったのである。


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  1. 2008/04/03(木) 00:58:34|
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薬研堀慕情(Ⅲ)

七夕の黒髪

 鮎は黒髪に変わっていた。舌右衛門が所望していたとおりの髪の色である。ただ、自然な黒髪ではなく、茶と金の入り交じった巻毛を黒く塗りなおしたものらしい。その点、どこか人工的で不自然にみえる。
 舌右衛門は「髪を黒くしたから見にきて」という電信を受けたとき、驚き、嬉しく思った。その姿をこうして目の当たりにし、その驚きと喜びがぶり返してきたことはきたのだが、やはりどこかに納得できない気持ちも残っている。
   (わしのために髪の色を変えるなど、ありえぬわい・・・) 
    「殿、如何いたしました? この髪がお気に召しませぬか?」
    「いや、めっそうもない。ただ驚いておるのじゃ」
    「では、もう少し嬉しそうにしてくださりませ」
    「はは、嬉しい、うれしいぞ」
    「もう、・・・もそっと上手なお芝居ができませぬのか。今宵はこうして髪を黒くし、浴衣を纏い、七夕の夜をもりあげようとしておりますのよ」

 七夕が近くなると、茶屋中の娘が浴衣を着る。それがまた、客を呼ぶのである。鮎は縫物の才があり、浴衣も自ら手縫いしたという。群青に朝顔の花の咲いた色合いの生地で浴衣を縫い、ところどころにフリルのような白い飾りをつけていた。

    「そうそう、短冊を用意してございますのよ。殿も伸太さまも、短冊に願いを込めて笹に吊しましょうえ」

と鮎は言い、色とりどりの短冊と筆をもってきた。舌右衛門は筆をとった。

     弾け、サンバースト!

   「何でございますか、このサンバーストとやらは?」
   「吉他琴で弾く曲の名じゃ」
   「吉他琴とは、どのような琴でございますか?」
   「南蛮人がもたらしたギターラと申す6弦の琴でな、琴というよりもむしろ三味線か琵琶に近い楽器じゃのう」
    「それと七夕がどう関係するのでございますか?」
   「べつに関係はせんが、難しい曲でな、一所懸命練習して、鮎に聴かせようと思うておるのじゃ」
   「いつまで待てば、鮎はその曲を聴けるのですか?」
   「そうじゃな、あと二月か三月・・・」
   「そんなに待てませぬ」
   

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  1. 2008/04/02(水) 00:39:45|
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露は光らず

 昨日(31日)、チャックから電話があった。入社式を終えたという報告である。とても元気そうで、安心した。
 そうこうしていると、安土城コンペ(Ⅱ)にKyon2さんからコメントが入った。コメントは非公開になっているが、比較的長い文章である。なぜ非公開かというと、人妻がわたしに愛を打ち明けるとか、そういう内容では決してなく、チャックのことを心配した文面が綴られていた。
 つぎに手紙が届いた。チャックが3月28日に千葉県流山市の新居で書いた手紙である。手紙の前半は4409研究室と4410教授室の掃除について。潔癖性の性格を反省する必要もないのに、反省した弁解の一文を紹介しておく。

   「汚れてたから掃除をしたというよりは、頭の中を整理するために目の前の
   見える物を整理する必要があったのです」

 みなさん、見習いましょうね。頭の中を整理するために、部屋を片づけるのです!
 わたしも、まずは教授室の清掃から始めますよ。

 後半は座右の銘について。横山光輝『織田信長』2巻からの引用とのこと。

     露は光らず

 安土城に係わりはじめた途端に、チャックが信長の好んだ禅の言葉を送ってきた。
 なにかの因縁で、世界がまわり始めているのかもしれない。

露は光らず




  1. 2008/04/01(火) 15:17:13|
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安土城見寺再建学生コンペ募集要項

募集要項を転載します。
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 希代の革命家・織田信長が創建し、江戸時代にそのほとんどが焼失してしまった見寺。150余年の時を経て、あなたの構想によって、同寺、本堂を蘇らせてみませんか? 見寺では、あなたの豊かな発想が折り込まれた見寺本堂再建案を募集いたします。

主催 見寺
協賛 安土町教育委員会、安土町商工会、安土町観光協会
協力 滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科
    滋賀県立大学大学院近江環人地域再生学座

背 景
 見寺は滋賀県蒲生郡安土町安土山にある臨済宗妙心寺派の寺院です。天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって建立されました。開山は、織田一族の犬山城主織田信安の三男で禅僧の剛可正仲とされています。同寺院は織田信長が近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したと伝えられています。
江戸時代の寺領は227石5斗余りで、18世紀末には本堂、三重塔、仁王門、書院、方丈など22棟の建物があったことが確認されています。しかしながら、安政元年(1854年)主要な建物のほとんどを焼失してしまい、焼失を免れた三重塔と仁王門を除き、本堂も礎石を残すのみとなってしまいました。その後、伝徳川家康邸跡を仮本堂とし、現在に至っています。
 見寺は、150余年前に焼失してしまったこの見寺を再建したいという思いを暖めています。実現に向けては、文化庁の指導、財源など多くの問題がありますが、まず、案が必要になります。「信長公ならこんな空間を構想・実現したに違いない、という発見的・魅力的な再建案はできないか」、「若い学生たちの自由な発想に期待したい」というのがこの競技設計(コンペティション)の出発点にあります。

見寺本堂再建計画の条件
   A.復元を基本とします。
   B.すなわち、見寺本堂は旧位置(現在本堂礎石が残る場所)に再建するものとします。また、
   C.見寺本堂は木造にて再建します。
   D.外観に関しては絵図等を参照し、蓋然性のあるものとします。しかし、
   E.内部のディテールなどについては厳密な考証を必ずしも問いません。

共通参考資料
・特別史跡安土城跡発掘調査報告6-旧見寺境内地及び周辺地の調査-(滋賀県教育委員会 平成8年3月)
・安土町の社寺建築、安土町教育委員会、2004年3月
◆その他関連資料「信長公記」など)の収集、読解は各々が行うこととします。

s京都新聞0080118


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  1. 2008/04/01(火) 00:30:20|
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