籠の鳥 月が変わって、旧暦の9月に入った。日本ならば、秋風のそよぐ清々しい気候に遷ろいでいるところだが、マカオの暑さはほとんど変わらない。
その日も3人は、いつものように、朝食というよりもブランチとして長い時間をかけ、飲茶を味わっていた。蒸籠物をはこぶ小李とミレットがほぼ同時に厨房に消えた瞬間、ひとりだけ伎楼遊びを続けている伸太が、舌右衛門に耳打ちした。
「サラ殿がご機嫌斜めでございますぞ」
舌右衛門は思わず皿と箸を卓におろして、顔をあげ窓外を見通すように目を大きく開いた。古本屋通いと資料整理が楽しく、学者のさがと言ったらよいのだろうか、何かを学び始めると夢中になって、他のことが頭から消えてしまう。おまけに、身近にいて気づかなかったミレットというメイドの魅力に心身とも犯され始めていた。だからといって、サラのことをほっておいてよいわけではない。なにより、自らの仕事を完遂するためにはサラとのコミュニケーションは不可欠であり、それを失念していた自分が情けなくなってしまった。
食後、二人のメイドに
「出かける。今夜は帰ってこれない」
と伝えた。二人は淋しげな顔をした。
十字楼では、サラが待っていた。部屋に入っても、ベッドに腰掛け、膝を組んで動かず、うつろな眼で舌右衛門をみつめている。
「やっといらっしゃいましたわね」
「申し訳ない。仕事に没頭していたもので」
「わたしね、最初は貸し切りって楽だなって思ったんだけど、あなたの来ない日がこんなに退屈だとは思わなかったわ。あんまり退屈だから、マスターにお客をとりたい、って頼んでみたのよ。だけど、駄目だって言われたの。だったら、せめて外出させてほしい、ともお願いしたわ。でもやっぱり駄目だって言われた」
「うん、いま君はわたし以外の人物と接触しないほうがいい。はっきり言って、危険なんだ。じつは十字楼を王賢尚の手下がいつも見張っていて、君をガードしているんだよ」
「あなた、だれかに狙われているの?」
「日本で、いちど刺客に襲われてね。マカオまでは追ってこないとは思うんだけど・・・」
「その刺客はどうなったの?」
「斬ったよ」
「あなたが狙われるのはあなたの問題で、仕方ないとしても、なぜわたしまで狙われなければならないの?」
「敵方はわたしを警戒しているというよりも、わたしが君から聞き出す情報を警戒しているんだ。つまり、その情報がわたしに伝わらなければいいのだから、かれらの方法としては、わたしを殺すか、情報源である君の口を封じてしまうかの、どちらかを選択することになる」
「あなた、何者? 007のような人なの??」
「いや、あんなにハンサムでもないし、あれほど強くもない」
「そういう意味じゃなくて、ジェイムズ・ボンドのような諜報活動をするスパイなのって訊いているのよ」
「いやいや、わたしはただの学者さ。西洋の事情を調べてほしい、と依頼されただけなんだ」
学者という職業は嘘ではない。しかし、いま自分が遂行しつつある任務は徳川方に与する諜報活動であり、その点において自分はかりそめのスパイであることに、舌右衛門は後ろめたさを覚えた。
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- 2008/04/14(月) 00:47:46|
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