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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

薬研堀慕情(ⅩⅣ)

無敵艦隊の実態

 書店や図書館で集めた英語の資料は、それほど多くはない。サラに手伝ってもらえば、和訳の仕事は3日ばかりで終えることができた。

 スペインとイギリスは16世紀前半までは友好関係にあった。しかし、1558年のエリザベス1世即位にともなって情勢は大きく変化する。ひとつには、植民地をめぐる利権闘争が背景にあった。カリブ海域におけるスペインの独占体制がイギリス船の進出によって犯され始めたこと、そして、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中でしばしばイギリスの海賊に襲われたのだが、エリザベス女王その人が黒幕であることがあきらかになった。カトリックとプロテスタントの宗教対立も深刻であり、カトリックの覇者を自任するスペインには周辺諸国の敵意が集中した。エリザベス1世はフランドル地方(フランス北端部からベルギー西部)の反スペイン闘争を積極的に支援し、さらに、スペイン国王フェリペ2世がスコットランドでのカトリック再興を託していたメアリー・スチュアートを処刑した。
 スチュアートの処刑に怒ったフェリペは、イギリス上陸作戦を決意した。1588年の7月下旬、130隻の大艦隊がリスボン港から出航した。将兵は約3万で、上陸後の侵攻のため、うち約2万が陸軍の兵士であったという。迎え撃つイギリス艦隊の総数は小型船を中心に約200隻、海賊あがりのドレーク将軍率いる海軍の兵士が約1万5千。
 スペイン艦隊はもともと波穏やかな地中海に適したガレー(人力で漕ぐ大型船)による海戦を得意としており、帆船への移行が遅れていた。スペインの艦船は1000トン級の大型船が多数を占め、ガレー船仕込みの接近戦を仕掛けてきたが、イギリスは機動力と速度に勝る小型船で一定の距離を保ちながら長距離砲を放ち、次々にスペインの大型船を撃沈していった。
 ドーバー海峡の初戦でいきなり大敗北を喫したスペインは、南方の帰還路を塞がれ、北に逃げるしかなかった。イギリスはこれを追撃する。どのような戦さでも、追っ手は圧倒的に優位であり、スコットランドからアイルランドにかけての外洋でもスペインは連戦連敗。半時計まわりでブリテン諸島を一周し、リスボンに帰還したとき、約2万の兵士と80隻の艦船を失っていた。まさに壊滅的な敗北である。しかも、それは、わずか10日間のできごとであった。

 サラは自慢げにこう言った。

   「ねっ、わたしの言ったことに間違いはないでしょ!?」
   「そうだね。アルマダの海戦っていうのは、君が生まれる1年前の出来事だったんだ・・・」
   「無敵艦隊っていう名前がアイロニーだっていうのも、分かったでしょ?」

 たしかにスペイン側は、この艦隊を「最高の祝福を受けた大いなる艦隊(Grande y Felicísima Armada)」と自称している。「無敵艦隊(Armada Invencible)」とは、戦勝に沸くイギリスが皮肉をこめてスペイン艦隊に与えた呼称だったのである。
 ただ、アルマダの海戦が、スペインとイギリスの政治的=軍事的立場を完全に反転させたとまで理解していよいのかどうかは微妙であった。フェリペ国王は2年間で海軍を再建したため、以後もしばらくスペインの大西洋支配は揺るがなかったと言われる。しかし、イギリス遠征の失敗は、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」に象徴される軍事行動を神への奉仕と信じて疑わなかったスペイン国民に深刻な動揺を与えた。アルマダの敗北が、スペイン没落の予兆となったのは間違いない。  

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  1. 2008/04/15(火) 00:32:03|
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本家魯班13世

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