先日夕刻、奈良の自宅をでて京都に向かった。近鉄ではなく、車での移動だ。以前は、よく京都-奈良を車で往復したものだが、ほんと何年ぶりだろうか。宇治川から伏見御香宮あたりの渋滞にひっかかると京都に着くのは遅くなると心配していたが、車はすいすい進み、気がつけばJR京都駅の手前まできていた。そして、もう一つのことに気がついた。
ギターを奈良の家においてきてしまったのだ。六弦倶楽部第6回練習会が次の日曜日に迫っていて、まぁ少しは練習をせなあかんってことで、練習会で使うはずのクラシック・ギターをもって帰っていたら、忘れてしまった。間抜けを絵に描いたようなものだわね。さっそく娘とワイフに電話するが、とても京都までもってきてくれそうにない・・・・というわけで、わたしは次の練習会、おんぼろの
エレガットか、
リファーレン500円モデルのどちらかで、またしても難曲に挑まなければならない。阿呆でしょ!?
さて、なぜ京都かというと、木屋町のバー「モダンタイムス」で、
住出勝則とダグ・スミスのライブがあって予約のメールを入れていたから。予約したからといって、べつに前金を払っているわけでもなし、行かなきゃなんないこともないのだけれど、行ったんですね。おかげで、奈良にギターを忘れたんですが・・・
京奈和自動車道から、マサさんの最新CD『ボーン・トゥ・グルーヴ』をがんがん鳴らして、快調に車は国道24号線を走り抜け、京阪三条近くのタワーパーキングに入庫した。
モダン・タイムスでの開演は19:30~・・・遅めなんですね。もう少し早くしてくれれば、深夜バスでも使って帰鳥できるところなんだけど、この時間に始められると、自家用車で帰るしか手がない。おかげで、酒が飲めない。しらふで演奏を聴いてました。
さて、演奏ですが、まずマサさんが50分。1曲めのファンキーなナンバーでいきなりガビーンと衝撃を受けたんですが、音がエレキギターみたいでしてね、
アンプ嫌いのわたしはちょっとがっくり。40人ぐらいしか入らない小さなバーなのに、なんであないに大きく拡声せなならんのか、わたしには分かりませんね。でも、ギターの技術はたいしたもんだ。これは認めざるをえない。
ただ、トークがね・・・すべってましたね・・・滑っていることを自覚せずにはしゃいでいるところが、どうにもこうにも悲しく・・・そして、下ネタを連発するんですね。おまえが言うな、とお叱りを受けるでしょうが、下品ですね、この人。女性もたくさん来ていたけれど、みんな引いちゃってましたね。このわたしが、わたしのようなオヤジまでもが引いてしまったもの。下ネタをステージでやると、これほどいやらしく聞こえるものだということが、聞く側になってよく分かった。講義では、絶対に下ネタ風のギャグを言ってはならぬ、と肝に銘じました。
繰り返しますが、マサさんの音楽は決して悪くない。技術も高い。それはよく分かるんだけど、トークでしらけてしまって、それが音楽の質を低下させてしまうから恐ろしい。音楽もトークもその人間の分身だから、トークで人間をみてしまい、それが音楽にまで映し出されて、もういいやこの人って思えてしまうんでしょうね。恋愛で一気に恋が冷める時のような感覚とでもいうか・・・
ひとつ収穫あり。マサさんも、やはり「
アガる」んだそうです。自分の部屋で炬燵に入ってギターを弾いているとき、自分は世界でいちばん上手いと思うほど弾けるのに、人前では実力の20パーセントしかでないんだとか。だれかさんたちと同じこと言ってるじゃありませんか。そう言えば、同い年じゃありませんか・・・(続)
- 2008/04/24(木) 15:00:04|
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凱旋帰郷 宗薫との面談を終えると、舌右衛門と伸太はただちに国元への帰途についた。大坂はなにぶん物騒になっているので、まずは海路で播磨の湊津に入り、姫路経由で陸路を北上することにした。
姫路の藩主、池田輝政は池田長吉の実兄である。二人の父、池田恒興は尾張時代から織田信長の重臣であり、本能寺の変の後には秀吉に仕えた。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで嫡男の元助とともに討ち死にし、池田家の家督は次男の輝政が相続した。秀吉の時代、輝政は豊臣一族に準じるほど厚遇されたが、関ヶ原では徳川方に与し、戦後、播磨国姫路城52万石に加増された。これに対して、三男の長吉は因幡国鳥取城6万石の加増にすぎず、弟がこれに不満をもっていたとしても不思議ではなかろう。
舌右衛門と伸太は姫路城の威容にみとれながら城下を進んだ。
「同じ池田家でもえらい違いでございますな」
と伸太がぼやく。「門や」という蕎麦屋で、舌右衛門は姫路藩に仕官している兄と落ち合うように連絡をとりあっていた。
池田恒興には輝政と長吉のあいだに生まれた娘がいる。この三女こそが後の天球院である。天球院は摂津三田城の山崎家盛に嫁いだ。もちろん当時は「天球院」とは呼ばれていない。名は不明である。鳥取城の「天球丸」に移ったから「天球院」と呼ばれたのか、天球院という諱(いみな)に因んでに新しい郭を「天球丸」と呼ぶようになったのかはよく分からない。本書では前者の立場をとるが、どちらにしても、この時代の名は不明であり、いまは「鬼姫」と仮称しておく。
関ヶ原の後、山崎家盛は若桜鬼ヶ城3万石に転封され、鬼姫と長吉の姉弟は隣り合う若桜と鳥取にいた、ということになっている。しかし、鬼姫と家盛の不仲は三田城時代から抜き差しならぬものになっていて、鬼姫はすでに若桜を離れ、姫路城の輝政のもとに身を隠しているという風聞が流れていた。不仲の原因は、鬼姫が鬼姫であったからである。鬼姫は、化け猫を退治したり、城に押し入った賊を薙刀でたたき斬ったりする男勝りの孟女であったと言われる。山崎家盛はそういう気丈な性格の鬼姫を毛嫌いし、側室を溺愛した。
舌右衛門の父母は兄夫婦と同居しており、その本家の屋敷に立ち寄って一休みし、土産物でもおいていきたいところだが、マカオ出張の件は密命であり、家族や近臣以外には漏らしていないから、このたびは表敬を遠慮し、ただ兄に会うだけにとどめた。
「父上、母上はお元気にされておられますか?」
「あぁ、元気すぎてまいっておるわ・・・いつまでも子を子どもと思うておる・・・」
「・・・さてさて、お城におわすという鬼姫さまはご機嫌麗しうございますかな?」
「あぁ、姫路城では輝政公も扱いに苦慮しているらしいのだが、最近また若桜に戻られたという噂も聞いておるぞ」
舌右衛門は、ただ天球院の情報だけを聞きたかった。それを聞くために兄を呼び出した。聞きたいことを聞いてしまったので、蕎麦をするりとたいらげ、蕎麦湯を2杯飲むと、ただちに別れの挨拶をした。
姫路から北上し、因幡街道に出る。近畿でいう「因幡街道」とは、因幡では「上方往来」と呼ばれ、後に参勤交代路になる。夕刻、播磨平福の宿に着いた。「雲突城」の異名をもつ利神城の城下を上方往来が貫く町並みのなかにある旅籠に泊まった。裏手には川に沿って酒蔵が軒を連ねており、その酒蔵で造る地酒は辛口のよい味がした。
日があけて、二人は因幡街道をさらに北上した。大原宿から志戸坂峠を越え、智頭宿で昼休み。智頭宿から用瀬宿を経由して渡一ツ木まで馬を走らせ続けた。ここで馬ごと渡し船にのり、千代川を横切る。しばらくすると「お茶屋」があり、倭文まであと2里だということは分かっていたが、伸太が名物の蓬団子を食いたい、というので、馬を休ませることにした。今の河原町大字河原のあたりである。伸太は蓬餅の団子をぱくぱく食べている。
[薬研堀慕情(ⅩⅩⅡ)]の続きを読む
- 2008/04/24(木) 00:06:48|
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