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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

哀悼 江口一久先生

 安らかな死顔だった。これまでみたことがないほど穏やかで、安らかで、満足気な、寝顔のような死顔だった。

   「江口さん、あっちでもええ酒さがしといてね。また、どんちゃん騒ぎしましょうよ・・・」

と、棺のなかのかれに語りかけてはみたものの、もちろん返事はない。

 13日の夜、わたしは軽い脳梗塞で入院している母を見舞った。母は中国縦貫道沿いの小さな町に住んでいる。小さな町の小さな病院で小一時間、病床の母と語らい、たしか9時半過ぎに病院を出た。しばらくして、携帯が鳴った。西宮名塩パークに入って車をとめ、メールを確認してひっくり返った。

    もうご存じかもしれませんが、国立民族学博物館名誉教授の江口一久先生
    が本日、お亡くなりになりました。(以下、略)

 「もうご存知」なわけはない。だって、わたしは鳥取に住んでいるのだからね。

 江口一久先生(66)は、ひと言で言えば、民族言語学者である。大学院時代は中国とチベットの言語学的研究をめざしていたが、文化大革命の影響で中国にわたることができず、フィールドをアフリカに切り替えた。以来、毎年数ヶ月カメルーンの村落で過ごし、言語と昔話と音楽の採集を続けてきた。
 江口さんは、マルチ・リンガルで知られた学者さんでもある。英・仏・独語などは朝飯前、ヨーロッパなら、どこの国に行ってもその国の言葉で流ちょうな会話ができる、とある高明?な学者が絶賛していた。ほかにアラビア語も、スワヒリ語も、ベトナム語も、カメルーンのフルベ語もなんでもできた。中国語は、もちろんわたしより遙かに上手い。発音が違うのだという。わたしの中国語はモンゴル人か香港人が話す北京語によく似ているそうだが、江口さんの発音は北京語そのものなんだと、北京の偉い女性官吏が教えてくれた。
 なにより豪傑だった。キン●●の小さい官僚のような学者が増える一方のご時勢にあって、江口さんはみんぱく(民博)が世界に誇る「野獣」であった。とても優しく、思いやりのある天衣無縫の「野獣」だった。
 1980年代の終わりから1990年代の前半にかけて、わたしは江口さんとともに貴州のトン族やミャオ族、あるいは雲南のナシ族やモソ人の調査をした。江口さんは、わたしたち建築学者とは真反対の行動をした。わたしたちは昼間、黙々と調査をした。1日のノルマを決めて、何棟か実測し、ヒアリングする。夕食前に宿舎中庭にテーブルを出して食前酒を飲み始め、夕食をみんなで食べる。そのあとはデータの整理である。
 江口さんは、昼間、寝ている。仕事は夕方から始まる。わたしたちと酒を飲み、夕食をとった後、ふらりふらりとあちこちの民家を訪ね歩き、言葉や昔話や音楽について聞いてまわるのだ。問題は、どちらが深く「文化」を理解するのか、ということであり、わたしたちが江口さんに敵うはずはなかった。

 御所野遺跡のイベントに江口さんを招待したことがある。江口さんはカメルーンの民族衣装を身に纏い、アフリカ人のドラミングをバックに、フルベの昔話を聞かせてくれた。御所野から大阪まで一緒に帰り、京橋だったか、どこかの場末で飲み明かした。そのとき、結構ストレスが溜まっているようで、驚いた。自由人には自由人の辛さがあるのだな、と思ったものだ。

 最後にあったのは、3年前の退官直前。民博まで挨拶に行った。あの場末のストレスはどこかに消えていて、「楽しい研究生活だった」と満足気に話してくれた。ちょうどそのころ、わたしはバリとボロブドールに行く予定があり、

   「おい、ジャワ更紗のな、えぇシャツ1枚買ってきてくれよ」

と頼まれた。おっしゃる通り、ボロブドール見学のあと、ジョグジャカルタの市場で結構高級なジャワ更紗を買って帰り、垂水の自宅まで郵送でお贈りした。ささやかな退官記念の品である。

 そのシャツが何倍にもなって返ってきた。


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  1. 2008/06/18(水) 00:43:51|
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