基調講演のあと10分ほど休憩の時間がとられました。その休憩時間には、智頭農林高等学校の生徒さんによる麒麟獅子舞が披露されました。涼やかな鐘の音と笛の音。そして太鼓の音に合わせて、力強い動く麒麟獅子に圧倒されました。
そして、14時50分からはパネルディスカッション。コーディネーターに鳥取県教育委員会文化財課歴史遺産室長の中原斉さん、パネリストに基調講演をおこなった文化庁参事官付主任文化財調査官の林良彦さん、岡山理科大学総合情報学部教授の江面嗣人さん、島根県大田市教育委員会教育部石見銀山課課長補佐の林泰州さん、そして智頭町長の寺谷誠一郎さんの合計5名を迎えて、「板井原-集落保存の課題と活用」と題しておこなわれました。
サブテーマとして、
1.これまでの板井原の取り組みとその成果
2.これからの板井原が歩むべき道
の2点に焦点を絞り、ディスカッションが始まりました。
まず、板井原の印象について、土のにおいや川・風の音がする「日本の原風景」ではないかということや、どこにでもあるけど失われつつある風景だということが指摘されました。また、学術的な要素をもう少し調査する必要があると、江面さんから指摘がありました。そして、この集落を守るには「保存と活用」が必要だと、中原さんがおっしゃいました。
次に、これからの板井原についてですが、活用の一つとして観光があり、利用すべきだという意見が出されました。そこで、大田市から来られた林さんの意見で、どこが文化財として価値があるのかということをどのように伝えるかということがあげられました。石見銀山では、官民協議でこれらのキーワードを拾い出していったそうです。また、寺谷町長は板井原を訪れた神戸の親子ののんびりした会話を聞いて、板井原では限られた人にゆったりと過ごしてほしいと思ったそうです。そして、「緑の風がふく 疎開の町」と銘打って、ストレスを抱えた人に訪れて欲しいともおっしゃっていました。
最後に、板井原保存会会長の原田さんが、
「ふるさとを大事に、ゆっくりのんびりすごせる場所にしたい」
と今後の板井原について語って、今回のシンポジウムは終了しました。
その後、板井原を訪れたことのないM君のために、板井原へと向かいました。
夕暮れ時で薄暗く、しかも雨まで降ってきましたが、ヒグラシのなく板井原はどことなくほっとできる雰囲気が漂っていました。今後の板井原がどうなるかはまだまだわからないけれども、今の雰囲気をそのまま伝えていって欲しいなと思いました。(部長)
- 2008/07/31(木) 00:44:56|
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7月27日、鳥取県智頭町で「
智頭町板井原集落保存シンポジウム」が催されました。このシンポジウムに、ホカノ、部長さん、ヒラさん、「魔法の山」で活躍してたM君が参加しました。智頭町板井原集落は、平成15年に智頭町の伝統的建造物群保存地区と決定し、平成16年に鳥取県の伝統的建造物群保存地区として選定されています。残念ながら国の重要伝統的建造物群保存地区には選定には至っていません。そこで、平成10年の伝統的建造物群の地区調査から10年経った節目の年に、集落の住民の高齢化や建物の老朽化などの課題はあるけど、板井原集落が持つ文化財としての価値を再認識していき、今後の保存活用を考える機会とするために開催されたのです。
シンポジウムは、
13:30 開会
13:40 基調講演「文化財としての町並み保存と活用について」
14:50 パネルディスカッション「板井原-集落保存の課題と活用」
16:00 質疑
16:10 閉会
という次第で進行していきました。
シンポは主催側が予想していたより盛況で、会場には多くの聴衆が詰め掛けていました。まず、開会にあたって寺谷智頭町長が挨拶されました。町長は板井原集落の保存を唱えられて今日に至ったこと、また町長に再選、復帰したからには保存、活用に力を注いでいきたいと熱弁をふるわれました。
基調講演では、文化庁参事官付(旧建造物課)主任文化調査官の林良彦さんが講演されました。林さんは伝統的建造物群の担当で、
1.伝統的建造物群保存地区制度の概要
2.平成20年度の保存対策調査実施地区の紹介
3.重伝建地区選定前後の比較写真
4.重伝建地区の紹介
5.重伝建地区の保存活用例と課題
という構成でスピーチされました。「重伝建地区の保存活用例と課題」で、NPO等との連動の必要性や重伝建制度だけでなく、その他省庁も含めた町並み整備関係制度の活用をすべきと主張されていたことがとくに印象に残っています。その関係制度としては、「世界遺産」、「重要文化的景観」、「景観法」、「まちなみ環境整備事業(国交省)」、「歴史まちづくり法(文科省、国交省、農水省)」を紹介されました。これらの制度と伝建地区の制度を有効に併用していくことが課題といわれていました。
講演では伝建地区を中心に話されていましたが、わたしとしては、もう少し「関係制度との調和を図りながら、いかに伝建地区制度を適切に活用していくか」という課題をお聞きしたかったです。とくに「景観法」「重要文化的景観」について話を振ってくればと、自分勝手な思いも抱いていました。そのあたりの話題がもっとあれば、聴講者たちに集落保存の他の道筋をより鮮明に提示できたのではないでしょうか。(ホカノ)
次回につづきます。
- 2008/07/30(水) 00:59:58|
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わたしが学期末でどたばたしている間、佐治の父母が奈良に1週間ばかり滞在し、家内や孫たちと遊んで帰ってきた。孫たちはいま期末試験の真っ最中だが、父母は金曜日の夜に家内を佐治の実家まで連れて戻ってきてくれた。家内の御国入りはじつに10ヶ月ぶり。作秋の引っ越し以来である。翌土曜日、わたしは佐治まで家内を迎えに行った。
この夏最高の熱さと言われた一日だった。が、佐治の家に入ると涼やかになる。父母は奈良の熱さにめげてしまっていたことだろう。佐治の実家には相変わらず「空調」というものが存在しない。扇風機で十分なのである。風通しの良さはこの上なく、窓外にひろがる緑をみているだけで、少しく癒された気分になる。
「そうだ、今夜は土曜夜市だよ、ふたりででかけてみたら」
と提案したのは義母だった。そうだな、久しぶりに「土曜夜市」を味わうのもわるくない。昼食をいただき、荷物をまとめて車を出した。しばらくして、家内の携帯が鳴った。ほかでもない、おばぁちゃんからで、
「土曜夜市に出るなら風鈴を買ってきて!」
という娘への伝言であった。長く使った風鈴がぼろぼろになってしまったのだという。
夕方七時をすぎてから、寺町の下宿をでた。袋川まで南下し、西に折れて若桜橋へ。そこで、案内係の方に訊いた。「風鈴を売っているお店はありますか」と。案内係の方はあるお店を教えてくださった。わたしたちは県庁向きに歩きはじめた。
人通りは多くない。子どものころを思い出した。小学校のころ、家族で土曜夜市にでるのが楽しみだった。そして、若桜街道は隅から隅まで賑わっていた。高校のころになると、友人たちと一緒に夜市に通うようになった。大学に進学してからも、帰省すると友人たちと夜市を冷やかした。そのころは、夜市そのものが目的というよりも、浴衣を身に纏った高校時代のマドンナたちとの遭遇を期待する下心のほうが大きかったのだけれども、そのような野心が報われたことなど一度もない。
風鈴をおいているというお店は、陶器屋さんだった。軒先にひとつだけ風鈴が吊されていたのだが、すでに短冊は破れていた。
「いまはね、空調が普及して、どの家も風鈴は買わなくなりまして、もうその1個しか
ないんですよ。それで良ければ、500円で結構ですけどね・・・」
そうか、風鈴と空調は両立しない物質文化だということがよく分かった。短冊の破れた風鈴を500円で売ろうというご主人の思惑は甘いと言わざるをえない。そんな風鈴、買うはずがないでしょ。
今年の夏は、東北に行く。空港には、南部鉄の風鈴がいまでもたんと吊されているだろう。少し値ははるが、南部鉄の鈴は心地よい風の音がする。
佐治の家だけが、あの涼やかな音を聞ける場所になってしまった。
- 2008/07/29(火) 00:09:05|
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25日(金)に前期最後のゼミがあり、その最後の最後に某助教を交えて、安土城見寺再建・学生競技設計に関するミーティングをおこなった。「見寺」は、滋賀県の特別史跡「安土城跡」にある臨済宗の寺院である。フロイスの『日本史』によれば、信長が本能寺で暗殺されるわずか19日前に竣工したとされる。主要な堂塔は甲賀など近隣の地から移築しており、安土城天守閣の壮麗さとは対象的に、やや質素な山寺の趣きを感じ取れる。当初は真言系だったようだが、17世紀の半ばに臨済宗に改宗した。文化年間の作という近江名所図絵の伽藍は改宗以後の姿を伝えるものである。当時の寺領は227 石5 斗余りで、18 世紀末には本堂、三重塔、仁王門、書院、方丈など22 棟の建物があったとされるが、安政元年(1854 年)、三重塔・仁王門を除いて主要な建物のほとんどを焼失してしまった。現在、本堂は礎石を残すのみとなっており、今回、見寺主催の本堂復元案コンペに応募している。礎石の配列をみると、禅宗様仏殿のような方3間(ないし5間)裳階付の平面とはまったく異なり、内陣と外陣を分かつ間仕切りの礎石列のほか、外陣の側には床束の痕跡も明瞭に残っている。また、身舎の入側筋の外側には幅半間の庇が四周をめぐり、さらにその外側には縁束の痕跡を残す。
この遺構をみる限り、いわゆる内陣・礼堂形式の平面が想定されるであろう。床はもちろん四半敷の土間ではなく、板張りもしくは畳張りと考えるしかない。くりかえすけれども、本堂も近隣地域からの移築であり、三重塔が15世紀中期の作となれば、本堂もその年代に近い現存例を探し出して復元のモデルとするほかないだろう。
コンペの作品提出まで2ヶ月を切り、模型製作や製図を始めたいところだけれども、その前提となる文献や絵図の解読、参考となる現存建築例の蒐集などがまだほとんど進んでいない。夜のゼミでは、某助教がこれからの作業進行と問題点について、細かく洗い出してくださった。途中から、教授もミーティングに加わられた。教授は、審査員を務められるものの、もともと「復元」の経験が多いだけに批判的なところも多分にもっておられ、わたしの説明に対して、「甘い」「分かっていない」「文献が読めていない」など、かなり厳しいコメントを連発された。
わたしの場合、なにより戦国時代~織豊期の時代性、そして、信長という人物に対する理解が浅い。この理解を深めない限り、コンペは惨憺たる結果に終わってしまうだろう。助教と教授のコメントを聞きながら、それを痛感した。
真夏の夕立ちは、アッという間に降り、アッという間に去っていく。ぼぉ~っとしていたら、ずぶ濡れだ。しかし、嫌な雨も夕立ち後には「打ち水」となって、心地よい涼しさをもたらす。いまの自分はずぶ濡れだが、これから清涼感に向かって疾走していきたい。 (Mr.エアポート)
- 2008/07/28(月) 00:14:00|
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ネタも切れてきたので、久しぶりに音楽のことでも書こうかな。
また、最近、楽譜を買ってます。ローラン・ディアンス、武満徹、ジャズ系ソロ、ウクレレ・ボッサ・・・もう、アマゾンのボタンを押すたんびに通帳の残額とサブプライム・ローンが頭をよぎるのだけれども、やはりね、楽譜は買います。今年のわたしは、昨年のように、
学祭に出るなどという愚行はしません。あれは、ともかく「場慣れ」のために必要だったのです。
六弦倶楽部第2回練習会に参加して、30年ぶりに人前でギターを弾いたところ、自分が自分でなくなってしまうほど緊張する事実を知ってしまったわたしは、Dr.ミフの助言に従い、ともかく人前でギターを弾く回数を増やさなければならない、と決心し、
学祭で大恥をかき、松江の
山陰ギターオフの会まででかけ、経験を積んだのであります。でも、その効果はなかなかでなかった。今年の正月あたりの演奏もひどいものでしたが・・・どうやら最近、少し落ち着いてきた感があります(と自分では思い始めている)。
人前でギターを弾くと、昨年の場合、実力の20~30%ぐらいしかでなかったんだけれども、最近50~60%は来てるかな、っていう実感がありましてね。おかしな比較だけれども、ブログのアクセスの伸び方に似てるんだな。一定のスパンをおいて、ぐい、ぐい、と伸びていく、そのステップアップをようやく感じ始めているところでして、こうなると、下手に演奏する必要はない。2ヶ月に1回という六弦倶楽部の周期は、わたしにはとてもありがたいのです。じつは、ちょっと辛いぐらいでしてね。だって、2ヶ月に一度、3つも新しい曲にトライしないといけないわけだから、これをマスターするのは大変なんです。
選曲ももちろん重要ですね。選曲で悩むから楽譜が増える。数ある楽譜のなかから、どの3曲をチョイスするか。与えられた時間と、3つの曲の難易度と相性と、なんやらかんやら考えて本番に望むわけですから。
で、昨日、『ギターソロのための日本のポップス Vol.2』というスコアが届きました。よくあるタイプのタイトルでしょ。「ライオン・ハート」とか、「TUNAMI」とか、「晴れたらいいね」とか、日本の代表的なポップスをソロ・ギター用にアレンジした楽譜集で、だれがどう考えても、これはアコギ・ソロのものだって思うでしょ?
ところが、譜面にTABがついていないの。これには驚いた。おそらく、大半のアコギストなら「そんなバカな、金返せ」って言うかもしれませんが、わたしの場合、最近ずっとTABなし譜面で練習しているので、逆に嬉しくなっちゃったっていうか、ファイトしてきてましてね。それにしても、不思議だな・・・いまごろTABのないアコギ・ソロの楽譜なんてありえないのに・・・。ここはネットで検索するしかない。だけど、編者の「竹内永和」という人物のバイオグラフィーを知るサイトをみつけることはできませんでした。ともかく、なにやらぼやけてグレーなのですが、驚いたことに、イヨラン・セルシェルが『ビートルズ・ソングブック(Ⅱ)』の1曲目で弾いている「ノルウェイの森」の編曲が竹内永和となっているんです。セルシェルがビートルズを弾く場合、自ら編曲するか、武満のアレンジかどちらかだと思ってたんですが、竹内永和のアレンジでも1曲弾いている。セルシェルが弾くということは、竹内永和というギタリストの実力はそうとうなもんだと考えざるをえませんね。まぁ、クラシック出身であるのは間違いないけど、コード進行をみるとジャズっぽいからねぇ・・・
この楽譜集を買ったのは、もちろんある企みがあるからで、それがなんなのかはもちろん未だ言えませんが、ちょっとした拾いものかもしれないな、この楽譜集。
- 2008/07/27(日) 00:14:34|
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昨日のプロジェクト研究1&3「魔法の山」発表会が、はやくも新聞記事になりました。今日、学生たちは某院生に指導されながら、自分たちの発表データを学内WEBにアップしていたようで、かれらにその新聞記事のコピーを配っておきました。
記者さん、どうもありがとう。学生たちも喜んでいます。
ただ、ひとつだけ間違いがありまして・・・最下段に「山の井戸にかつてオオサンショウウオが生息していた」という記載がありますが、これは「山の井戸にかつてカスミサンショウウオ(やハコネサンショウウオ)が生息していた」が正しい記載です。なんたって動物班は、今回、久松山の渓流
でカスミサンショウウオの幼生を捕獲したのですからね。その幼生たちとも、まもなくお別れです。
捕獲した2年のKさんに「いつ帰してあげるの?」と訊くと、「サンショウウオも別れを惜しんでまして・・・」とのこと。ほんとうに、そういう気持ちになるね。
良いプロジェクトでした。重ねがさね、関係者の皆様に御礼申し上げます。
- 2008/07/26(土) 00:03:58|
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前日のブログをアップしたら疲れてしまい、教授室の椅子を3台並べて横になった。またたくまに深い眠りに落ちてしまい、あとでエアポートが教えてくれたところによると、「腹を出して寝ていた」らしい。
午後4時20分。携帯が鳴った。
「ここはどこだ?」
と、そのとき思った。しばらくして、思考が停止していた。そうか、自分は教授室にいて、今日はプロ研の発表会の日で、打ち上げバーベQは午後4時、クラブハウスの水場に集合だった。メールを確認すると、「先生、どこですかー??」という学生からの悲痛なメールが・・・
わたしは脱兎のごとく、部屋を駆け出し、クラブハウスの水場に向かった。1・2年は退屈気に時間を過ごしており、3年生はまだ準備ができてないと言って、1・2年に声をかけてもいない。4年生はスタジオで野菜を切っているらしい。
各学年にいっせいに指示をだし、茶室「盃彩亭」に移動。これからまた大変で、曇り空から大粒の雨がポタリポタリ・・・一同、茶室や待合いに待避し、某院生は百均までブルーシートを仕入れに走った。雨が小降りになったところで、ブルーシート3枚を茶室の前の樹枝と繋いで雨よけを作った。
しばらくして、雨はやんだ。

一時はひどい雨で、何も食べないまま山をおりる学生もおり、その後も、女子学生が消えてしまうのではないか、と心配されたが、ある学生の決断が流れを反転させ始めた。雨上がりのバーベQ会場には、徐々に人があつまってきた。学生・院生のほか、教員が3名、市教委から2名、某OB記者が1名、計23名がバーベQを楽しんだ。
「魔法の山」プロジェクトが終わってしまった。
やはり、淋しい。そして、不安だ。後期に、またこういうプロジェクト研究ができるのか、どうか。
未だシラバスを考えていない。

- 2008/07/25(金) 12:45:45|
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なんとか発表会を終えました。集合時間が甘かった。集合9時20分としたのですが、みんな外付ハードディスクへのコピーに慣れていないし、配布資料の印刷もこの時間から始めるし、てんやわんやでした。昨夜のうちにやっとかなきゃいけなかったね。しかし、昨日は御所野の高田館長が来鳥されていて、その接待があったもので、早帰りしてしまったんです(その後、一戸で震度5の大地震があったそうで、・・・館長はまだ奈良にいらっしゃるはずですが・・・)。
まぁ、いろいろドタバタしましたが、今日の極めつきは、漫画のストーリーを話すことになっていたロックンローラ(ドラマー)の大遅刻。なんでも、車のガス欠だったというが、それにしてもね・・・・結果、以下のような順番での発表に変わりました。
1.谷口ジローとその作品(谷口)
3.風景データベースとデジタルマップ(前田)
4.久松山の植生(宮島)
5.植物標本データ(入江)
6.泉の精霊 オオサンショウウオ(北村)
7.カスミサンショウウオとハコネサンショウウオ(伊藤)
2.『魔法の山』のストーリー(荒川)
8.城跡の風景と歴史(岡)
9.仁風閣とロープウェイ基地(山崎)
10.精霊のイメージ -吸い付き婆の正体(岸本)
それでも、歴史班の8~10の発表に、なんとか2が間に合ったのは不幸中の幸いとしかいいようがありません。
まぁ、全員とても良い発表でした。なかでも効いたのは、最後の「精霊のイメージ」かな。久松山というただの「山」が「魔法の山」にトランスフォームする構造を歴史的に暴いた、と言えば大袈裟ですが、うまく解釈してくれたと思います。

↑漫画班の発表 ↓植物班の発表

驚いたことに、聴講者がとても多かったんです。指定聴講のパートナー班以外にも自由(選択)聴講の学生がかなりおり、さらに新聞記者さんや市教委の方も聴きにきてくださいました。とても良い発表会になりましたね。
今回のプロジェクト研究は、谷口ジローの漫画を素材としながら、久松山の植生や動物(絶滅危惧種)と歴史・史跡をうまく絡めた点で、まさに「文化的景観」的アプローチになったと思います。聴講してくれたゼミの4年生や院生も勉強になったことでしょう。わたし自身、自然と文化の両面から久松山を知る手がかりを得てとても満足でした。
学生諸君、ありがとう!!
さて、これから打ち上げのバーベQです。

↑聴衆 ↓遅れてきたロックンローラー
[「魔法の山」発表会]の続きを読む
- 2008/07/24(木) 14:00:50|
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とうとう、発表会が明日に迫ってきました。明日は早起きだ、大変だ・・・なんちゃって、毎朝、熱くて暑くて、蒸し暑くて、自然に目がさめるから問題ないでしょう・・・
さて、コロポックルズから、学内WEB「魔法の山」の表紙が送られてきました(↓)。
どうです、なかなかセンスがよいでしょう!
さて、プレゼンはどうかな。下手でもいいから、誠実にね!!
- 2008/07/23(水) 15:41:22|
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プロジェクト研究1&3「魔法の山 -谷口ジローの風景」の
発表会が、早くも明後日に迫ってきました。じつは昨日、1年の I さんとMさんのコロポックル・コンビが学内WEB用の表紙作りをしたのです。えっ、コロポックルって何かって・・・そんなことも知らないの、大学の門前にある学生用アパートですよ。昨年までチャックも住んでたんですよ(彼女と・・・)。
さて、プロジェクト研究には発表会のほかにも、学内WEBでの成果公開が義務づけられております。ところが、発表会が終わったら、もうなんにもしない学生もこれまで少なくありませんでした。だから、わたしは言うのです。学内WEBにメンバーの成果がアップされない限り、その学生の成績は保留とする。発表会の日までにアップされているのが最善だが、どんなに遅くとも今月末がリミット!
これに違反する学生は、たとえ発表会でよいプレゼンをしたとしてもF判定(不可)になりますぞ。
さてさて、学内WEBというのは、学内のWEBですから、外部からみることはできません。しかし、学内WEBからはLABLOGに連載された
第1~14回の記事にリンクするようにしました。この表紙作りをしてくれたのが、ウルトラ仲良しのコロポックル・コンビでして、指導はかの某院生ですから怖いものはありません。
フランス語版『魔法の山』を使った素敵な表紙ができあがりましたよ。あとは、各メンバーが自分の成果をリンクするだけです。
さてさてさて、入試広報課からは「明朝プレスリリースを行う」とのことで、下の資料が添付されてきました。また、鳥取市教委からも発表会の聴講1~2名、バーベQへの参加3~4名との連絡が入りました。あとは4年生諸君の準備に期待しております。たのんまっせ!
で、わたしはですね・・・いま某講義の期末試験を作成しております。ふふふ、2年生諸君、ちゃんと勉強してますか?
- 2008/07/22(火) 20:36:57|
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いやぁ、みなさん、熱いですね。凄まじく、熱い。昨秋、
下宿を替わり、この夏には空調をとりつけねばならぬと覚悟を決めていたのですが、なんと1階
板間(アトリエ!)のガラス窓にくっついていた古いふるいタイプの空調がまだ動くことが判明したんです。とりあえず冷気がでてるのは間違いない。
おかげで、なんとかサウナ状態を回避できてはいるのですが、こんな旧式のエアコンをばんばんかけると、燃費がかさんでたまりませんので、1~2時間のタイマーでストップするようにしております。言い換えるならば、タイマーが切れると部屋は暑くなるわけですから、明け方まで仕事して眠たいはずなのに、熱気で早く目覚めてしまい、そこでまた旧式エアコンのタイマースイッチをいれるという人生の繰り返し。
こういう熱い日は、
川釣りにでて涼むか、ジャージに身を包み
ビアンキを漕いで大汗をかく、なんてことをすると素晴らしいのですが、じつは大変な量の仕事を抱えていて、この3連休も奈良に帰らず、ひたすら研究室で仕事をしております。なんとか今夜でケリをつけたい、と自ら奮起を促しながらも、なかなか頭がまわらず手も動かずというところに、いま某所から「鳥取西高 甲子園出場決定!」の報が届きました。
自慢じゃないけど、わたしは母校創立100周年の高2の時、
野球部が甲子園にでて、いきなり2回戦で仙台育英にあたって3-1で勝利したのですからね。で、それからあとの人生においては、何回か甲子園に家族で応援に行ったのですが、大敗の連続。今年はどうなるかな?
日にちと対戦相手によるか・・・右半身麻痺の患者を連れて甲子園の応援はきついかもしれんな。ともかくですね、1県1校のシステムでは最も甲子園に出やすいと言われている県なのだから、恥ずかしいゲームをしてほしくない。かりに負けたとしても、「良いチームでしたね」と賞賛される内容を示してもらいたいものです。
また、えらそうなことを言っておきますが、体力・体格では他県の強力高に敵うはずはないのだから、頭を使うしかない。メジャーリーグで流行りのスモール・ベースボールの原点は、日本のプロ野球にあり、そのまた原点は高校野球にある。西校には、その真髄をみせてほしい。
そして、監督の采配に注目したい。
- 2008/07/21(月) 14:59:24|
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わたしが、以前、過度のプロレス中毒症状にあったことは、なんどかお知らせしたとおりである。しかし、プロレスの斜陽たるや、みるにしのびない。
週間ファイト、週間ゴングなどの愛読誌が続々と廃刊していくご時世である。実際、華のあるプロレスラーはいなくなった。一人として名前が思い浮かばない。
プロレスを斜陽にした最大の要因は、プライドとK1の台頭にあった。とりわけ、総合格闘技プライドのガチンコ勝負は、プロレスの「芝居性」を大きく露出させ、ストロング・スタイルのファイトを好んだ新日系のファンをプライド支持に転向させてしまった(わたしもその一人)。リングスから引き抜いたアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラやエメリヤンコ・ヒョードル、あるいはK1出身のミルコ・クロコップたちがプライドのリング上で繰りひろげる凄まじいファイトは、プロレスの存在意義を消し去ってしまうだけの迫力が十分あった。
ところが、プロレスはまだ生き残っているのに(芝居だと分かっていても、プロレスを楽しめるファンは少なくないのか?)、プライドは消滅してしまった。なんでプライドが崩壊したのか、よく分からなかったのだが、いまネットを彷徨って関係記事を読みあさった限りでは、2003年末に開催された猪木の「男祭り」にヒョードルを参戦させるにあたって、プライドが暴力団を使って猪木側を恫喝したことに端を発するらしい。以来、プライドを主催するDSEと暴力団の関係が取りざたされるようになった。それどころか、どうやらDSEは「床の間の飾り」で、プライド興業を仕切っているのは暴力団そのものであることが次第にあきらかになり、これに驚いたフジTVとスカパーが一方的に放送打ち切りを決めた時点で崩壊は決定的となった。有名選手に支払う高額のギャラはフジが負担しており、テレビ放送なしで有力選手を招聘するのは不可能となり、多くのスターたちはアメリカのUFCに引き抜かれていった。
暴力団が格闘技の興業を仕切るのは力道山時代の常識だったが、馬場と猪木はそこから脱却していったのに、なんでまた再び暴力団が影響力をもちはじめたのか。よく分からない。
[プライド]の続きを読む
- 2008/07/20(日) 23:22:04|
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この夏が・・・ 梅雨が明けたとたん待っていたようなこの暑さ、一斉に鳴きはじめたセミの声が本格的な夏の初まりを告げる。ついに大学で迎える4度目の夏が来た。数多の受験生に向けられる「この夏が勝負だ!」というフレーズは、これから本格的に卒業研究を進めていく我々4年生にも通ずる。
昨日、
2007年度とっとり<知の財産>活用推進事業報告書『 山陰地域の弥生時代建築に関する実証的復元研究 』をようやくF印刷さんに入稿した。この報告書はⅢ部で構成され、第Ⅰ部と第Ⅱ部は昨年卒業した嶋田さんと横田さんの卒業研究が原文となっており、第Ⅲ部は昨秋加藤家でおこなわれたシンポジウム「弥生建築の実証的復元はどこまで可能か」の記録である。私はこの第1部と第2部の編集を担当したが、編集にあたり、先輩方の卒論を改めて読むとその素晴らしさに圧倒される。と同時に、先輩方と調査や作業を共にしたことを懐かしく思う。この感想については報告書が刊行した喜びとともにつづるとしよう。
それにしても編集作業はおもしろい。1ページのなかに、どれだけ文章をおさめて、どこにどの程度の大きさの図面を割り付けるのか。それによって文章と図のバランスは保てるのか。空白はどう使うのか。空白のままがよいのか、それともキャプションを入れるのか。文字のポイントと行間・マージン、見出しのサイズやフォントは適切かなど、一つ一つの要素を構造的に組上げ「美しく」かつ「読みやすく」していく。たった1ページに「デザイン」のエッセンスが凝縮されている。先生がおっしゃる通り、編集作業も一種の「設計」なのだ。もちろん先生のチェックや校正はシビアだが、そのたびに「あぁそうなのか、なるほど」と、いろいろな意見や知らない事を学ぶ。
編集を進めていくに連れ、ふと自分のことを考えると不安になる。「自分は納得がいく研究ができるのか」と。編集の肩休めに自分の卒論に関係する書物を読むが、ときおり心が焦る。しかし不安に思った分、おそらくこれを達成したときは何百倍もの財産が私に残るだろう。だから今までもたとえ厳しくとも、それをこなしていくのが楽しかった。こうして不安に思うことこそ成功への第一歩なのだと信じて、今はただ我武者らに突き進むしかない。そのためにも、
「この夏が勝負なんだ!」
(Mr.エアポート)

↑ 入稿中に「北から来たの」さんがあらわれました。前回のお中元「プ
レミアム・モルツ」に引き続き、今回は大量のソフト・ドリンクの差し入れです。
今度のバーベQは1・2年対象だから、まさにぴったりの贈り物だね。毎度ありがとうございます! それにしても、ほかのOBは何してんだ!!
さて、教師が手にしているのがなんだか分かりますか? 『
薬研堀慕情』の第1稿(235p)でございます。まだまだ書き直しますので。
さてさて、エアポートの言うとおり、たしかに「この夏が勝負なんだよ・・・銭があ~ればね」。
[『 山陰地域の弥生時代建築に関する実証的復元研究 』入稿!]の続きを読む
- 2008/07/19(土) 13:05:37|
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プロジェクト研究発表会のお知らせ 17日(木)、最後のプロ研1&3の授業を終えました。1週間後に控える発表会に向けてのプレゼン練習を「漫画・風景班」「歴史・史跡班」「自然班」の順で10名全員がおこないました。この日、わたしのコメントは辛口でしたね。最近、1・2年のゼミでは学生を誉めることに徹して、あまり貶さないように心がけているのですが、なにせ最終授業でして、最初で最後のプレゼン練習なので、ちと気合いを入れるためにモードを切り換えた次第です。
では、発表会のスケジュールと概要をお示しします。
日時: 7月24日(木) 09:45~10:45
会場: 鳥取環境大学13講義室
発表:
第Ⅰ部 漫画・風景班 1.谷口ジローとその作品(谷口)
2.『魔法の山』のストーリー(荒川)
3.風景データベースとデジタルマップ(前田)
第Ⅱ部 自然班 4.久松山の植生(宮島)
5.植物標本データ(入江)
6.泉の精霊 オオサンショウウオ(北村)
7.カスミサンショウウオとハコネサンショウウオ(伊藤)
第Ⅲ部 歴史・史跡班 8.城跡の風景と歴史(岡)
9.仁風閣とロープウェイ基地(山崎)
10.精霊のイメージ -吸い付き婆の正体(岸本)
わたしたちのチームとセットで発表する指定聴講のチームは「鳥取市中心市街地主要街道の調査研究」です。アドバイザはお馴染みの某准教授です。
夕方5時ころから、
打ち上げのバーベQを予定しております。
会場は再び裏山の茶室「盃彩亭」前です。このたびのプロジェクトでは、鳥取市教育委員会のみなさまをはじめ、多くの方がたのお世話になりました。紅茶専門店「
ダウラ」のマスターも忘れられませんね。皆様方には、ここに記して感謝もうしあげます。
ご多忙のおり、お願いするのも恐縮ですが、もしお時間が許すようでしたら、学生たちの拙い発表を聴きに来てやっていただければ嬉しく思います。とはいっても、やはり勤務時間中に職場を抜け出すのはなかなか難しいでしょうね。ですから、せめて、打ち上げのバーベQ大会にでもお越しいただければとお願いする次第です。
今回の「魔法の山」プロジェクト、学生はしんどかったかもしれませんが、わたしはほんとうに楽しかった。良い学生に恵まれ、身近にありながらこれまで遠い存在だった久松山の魅力を思い知らされました。それもこれも、みなさまのご援助の賜です。繰り返し感謝申し上げます。
- 2008/07/18(金) 17:20:12|
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先週末には今年度の大学院修士課程の推薦入試がおこなわれたが、こんどは修士研究中間発表の日程が発表された。
われらが某院生くん、2度目の中間発表会であります。昨年はハロン湾からの帰国直後で、調査の概要をお伝えするにとどまったが、あれから1年、こんどはハロン湾クアヴァン村の過去・現在・未来のCGをアニメーションで披露することになるでしょう。
昨年度も、中間発表の段階ではいちばん進んでいたんですがね、その後の失速たるや・・・まぁ、これ以上は言いませんが、今年こそ期待しております。
なお、大学院中間発表会は
9月24日(水)。環境デザイン領域は14:20~16:20で、発表者は6名です。われらが某院生くんの発表時間は14:40~15:00。「世界(複合)遺産」「文化的景観」「水上居住」「CGアニメーション」「GPS測量」などに興味をおもちの方は、ぜひ聞きにきてやってください。今年は4年生も国内の文化的景観をテーマに卒業研究をする学生がいるはずです。そういう学生は必聴!っですよ。
それにしても、後期が9月24日から始まるなんてね。早すぎるわ・・・もう少し休ませてくれ!
- 2008/07/16(水) 21:26:15|
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明け方まで授業の準備やら採点をしていたのに、9時代から携帯の電話がリンリン鳴る。わたしに午前中から電話できる方は、たいへん度胸のある御仁ですよ。
リンリンの主は
守山のキウリ男さんでした。一度めのリンリンは無視したんですが、2度めのリンリンには仕方がないから、出たのね。
「なんじゃ?」
と、ひと言。
「今日の午後の委員会のことなんですが・・・・」
わたしは適当になにごとかを口から発して不機嫌に電話を切り、再び眠りに落ちた。前夜、委員会の開始時間を確認し、ヤフー路線図で乗るべき近鉄電車とJRも調べている。そうすると、開始時間ぴったりに会場入りできることも分かっている。にもかかわらず、信頼されていないのだ。

下之郷の委員会は午後1時半から3時間続いた。いちばん問題となっているのは、「体験学習館」(仮称)が史跡指定地内にあることで文化庁からクレームを頂戴しているという点で、解決策についていきなり委員長からふられたので、以下のように答えた。
1)文化庁はお膝元の平城宮で大規模な仮設建物(「仮設」と称しているが、
実際は「常設」)は何棟も建設してきたので、偉そうなことを言う資格はない。
2)「体験学習館」を「覆屋(遺構展示館)」兼用と位置づければ、史跡指定地内に
建設することの意義を積極的にみとめざるをえない。ただし、環濠の遺構を
密封型建築の中で露出すると遺構の劣化を招くので、遺構上に保護層を設け、
その直上に遺構そっくりのレプリカを複製し、出土状況をみせる。そのレプリカ
の上はアクリル板で覆い、透明のフロアとすれば、面積も十分確保できる。
なんてことを、ほとんど即興でしゃべったら、そこそこ賛同を得た(ように思っている)。ほかの議題もいろいろあったけれど、ここでは省略させていただきます。

委員会のあと、調査用プレハブの前でバーベQ大会となり、短い時間ではあったが、参加させていただいた。主催は「下之郷じいちゃんず」。下之郷遺跡の整備活用をサポートするボランティアのみなさんです。いやいや、夏野菜の美味しいシーズンでしてね、サラダ菜に肉をのせ、コチュジャンを絡ませて食べるとうまいんだから。それと、エゴマがすぐ裏の畑でとれたりしてね。エゴマをキムチのニョクマムに浸したものを白ご飯に巻いて食べると韓国風なんですがね。ただ、キウリだけは相変わらず苦手でして、苦手にも拘わらず、キウリ男はまたしてもわたしの前でキウリの浅漬けをちらつかせるのであります。
キウリのことはさておき、ほんとうに、楽しいひとときをありがとうございました。
[下之郷じいちゃんず ボッサ]の続きを読む
- 2008/07/16(水) 00:53:14|
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先日、尾崎家住宅をご案内した
恩師の、そのまた先達にあたる大学時代の恩師からお手紙と論文をお送りいただいた。これまでお手紙を頂戴したことはあるけれども、今回、驚いたことにワープロ打ちがしてあった。80代も半ばになられたはずだが、ついにパソコンへの挑戦を始められたらしい。
ここにお手紙の一部を抜粋させていただきます。
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拝啓、梅雨もそろそろ明ける気配のようですが、日中は暑くなり
ました。ご無沙汰いたしております、元気にお過ごしのことと存
じます。(略)
今年から京都慈照寺の国宝銀閣の修理が始まっています。著名な
建物のことですので、マスコミ関係でいろいろな話題が取り上げら
れています。
銀閣のこの度の修理は長年の疑問を明らかにするいい機会です。
その一つである銀閣の呼称と銀箔による飾りについて考え、小論に
まとめてみました。建築研究教会の発行する小誌に発表する機会を
得ました。ここに同封してお送りいたします。ご参考になれ
ば幸いです。
昨今、世間と接触する機会が少なくなりましたが、情報量の
多いこの時代に、(略)新聞に目を通すだけでは不十分と思い、
遅れ馳せながらPCとの取り組みを始めました。なかなか
手強い相手で時間がかかりそうです。
今後ともよろしくお願いします。お体に気をつけて下さい。
まずはお礼まで 敬具
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江戸時代の文献、たとえば『洛陽名所集』(1658)は、慈照寺について、「院の仮庭に閣あり、銀薄(箔か)にして彩しければ、銀閣寺とも云うなり」とあって、銀閣はかつて銀箔をはっていたものがはげ落ちてしまったのだろう、と推定している。その一方で、本居宣長の『在京日記』(1757)をはじめ、『山州名跡志』(1711)、『思出草』(1793)などは、銀閣は名のみが「銀」であり、銀箔貼付を否定する見解を披露している。
現在、銀閣(慈照寺観音殿)の修理が進められており、2006年に建築部材が銀箔で飾られていたかどうか、痕跡の有無を確認するための科学的調査がおこなわれた。恩師は、この点について、「このような科学的分析によるまでもなく、関係資料を検討したところでは、観音殿を銀箔で飾ることの事実はないと判断できる」と結論づけられている。
東求堂のことを思い出した。大学2年の設計演習で東求堂の断面図をトレースした。慈照寺東求堂が、日本建築史上、どれほど重要な存在なのか知らないままケント紙に烏口でトレースし、何度も失敗して、その失敗を修正仕切れないまま提出したら、尾崎家に来られた恩師にお叱りをうけた。このたびの恩師は慈照寺研究の権威であり、最大の功労者である。
卒業してから分かるんだな。教鞭をとっていただいた先生たちの偉大さを。いつまでもお元気で、銀閣の修理をみとどけていただきたい。
- 2008/07/15(火) 00:29:34|
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昨夜、テレビで「ホームレス中学生」をみて、恥ずかしながら、目頭が熱くなってしまった。父母のいなくなった兄妹弟が貧しく、辛い生活を続けているのをみて湿っぽくなったのではない。子どもたちの大好きな母親が大腸ガンで入院し、闘病生活の末、亡くなってしまうシーンをみて、思い出してしまったのだ。
2006年
11月10日、奈良県立病院で昏睡状態に陥っている患者の姿に接し、わたしは頭が真っ白になってしまった。東京から駆けつけた長女は比較的しっかりしていたが、下の娘と息子は泣いていた。患者はなんとか体調を回復させ、いったん退院したものの、翌年2月に2度も
再出血を繰り返し、再び春先まで長い入院生活を送った。2度めの出血を知ったときのわたしの動揺は尋常ではなかった。県立病院から車で鳥取の下宿(田園町)に戻った後、暗い部屋で何度も大声で喚いて頭を抱えた・・・「ホームレス中学生」の薬師丸ひろ子の闘病生活があのころの記憶を不意に蘇えらせたのである。
その患者が退院後、2度めの誕生日を迎えた。いつものように、家族4人で
東鮨に行った。長女は東京から母親に長電話をしてきた。じつは、つい1週間ばかり前まで患者は腰痛を訴えていた。脳内出血とは無関係なのだが、杖歩行の負担からなのか、一時はひどい痛みで立ち上がることもできず、外科医から安静を指示されていた。それもほぼ治ったようで、いま家事をしている。
左脳の奥にある脳動静脈奇形は、
放射能治療により順調に枯れているが、未だ完全に壊死していない。ただし、再出血の可能性はほとんどないだろう。
誕生日おめでとう。この世にいてくれて、ほんとうに良かった。
じつはじつは、息子が昨日、運転免許をとった。今日はその練習で、なんども車を運転した。東鮨との往復も息子が運転し、次女が助手席でアドバイスした。来春、次女は就職だが、これで次女がいなくても、息子が母の生活を支援できる。さっそく、月曜日に県立病院まで検診につれていってくれるそうだ。おかげで、わたしは朝まで仕事ができる。ありがたい。
それにしても熱い一日だった。まだ梅雨はあけていないはずなのに、ずっと雨は降らないし、今日の最高気温は35°だって。奈良に比べれば、鳥取はずっと涼しいよ。
- 2008/07/14(月) 01:05:20|
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11日(金)のゼミ(3、4年)は、裏山の「盃彩亭」(廃材でつくる茶室)の修復活動をしました。盃彩亭はわたしが環境大学に入学する前にオープンキャンパスで見学させてもらい、とても感動した、思い出深い茶室です。およそ3年ぶりにみた茶室は荒れ果てていて、少し落胆しましたが、8月3日のオープンキャンパスで見学に来る高校生にもぜひ茶室を見て感動してもらいたいと思い、私は高校時代の作業着に身を包みヤル気満々で修復に取り掛かりました。
まず、皆で茶室の掃除をしました。室内は蜂が巣を作っていて飛びまわっていたり、畳の裏には見たことないいような虫が大量に住み着いていたりと苦戦しましたが、4年生たちの殺虫剤攻撃や3年生のほうきでの掃き掃除により、とてもスッキリと清掃されました。

そして、今回の修復リーダーであるピヴォさんが決めた担当に分かれて、破損箇所の修復をしました。白い紙の破れてしまった太鼓襖は、ピヴォさんが狩人くんを引き連れて、ダンボールを加工して修復し、不要となってT研究室から頂戴してきた竹の透かし障子紙を貼りました。腐って崩れてしまっていた外のテーブルは、4年のエアポートさんと2名の3年で丸太の切断にてこずりながら作り直しました。正面のあかり障子は、4年の先輩女子2名を中心に、太鼓襖で使ったのと同じ障子紙を貼り替えました。湿った畳もいったん外に出し、下地から清掃して畳を敷き直しました。
修復を終えると、とても良い雰囲気の茶室が蘇りました。唯一問題として残ったのは、床の間の掛け軸が朽ち果てていたことです。この地蔵さんの掛け軸は、今春卒業したハルさん(4期生)が2年のときに制作されたものです。今回の修復活動には、エアポートさんの仲良しで、ハルさんの書道部の後輩にあたるナオキさんが制作しなおすことになりそうです。

暑い午後の作業に、みんなお疲れモードでしたが、打ち上げにはたくさんの人が来て賑わったし、スタミナのある食材もたんと食べられて、とても楽しかったです。とくに、今回の茶室修復でのピヴォさんの食材調達、米持参メールや修復でのリーダーシップに感心させられました。
皆さん、ほんとうにお疲れ様でした! (黒帯)

↑↓障子の貼り替え
[「盃彩亭」修復2008]の続きを読む
- 2008/07/13(日) 00:08:37|
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11日(金)の3・4年ゼミは、オープンキャンパスに向けての茶室の修復活動をおこないました。リーダーはピヴォくんです。なかなか見事な差配をみせてくれましたよ。この修復活動の詳細については、あした黒帯くんがレポートすることになっているので、楽しみにお待ちください。
さて、小生、本日は打ち上げのための料理係です。3限の講義「建築と都市の歴史」が終わるやいなや、大学前のジャスコに駆け込んで肉類の買い出し。野菜はピヴォくんが実家からばぁちゃん調達の良品をもってきてくれました。で、わたしは修復活動からひとり離れて、クラブハウス横の水場でコツコツと野菜を切ったのです。カボチャの切り方が難しいね。途中から「魔法の山」プロジェクトのメンバー、Mくんが助っ人にきてくれました。

さてさて、お酒類ですが、「北から来たの」さん(2期生)からお中元をいただきまして、なんとサントリーの
プレミアム・モルツをみんなでたっぷり味あわせていただきました。ついにサッポロを抜き、業界第3位に躍進したサントリービールの原動力となったプレミアム・モルツですよ。打ち上げにはもったいほど高価なビールに一同狂喜した次第です。
「北から来たの」さん、ほんとうにありがとう! ご両親にもよろしくお伝えください。
お中元と言えば、このまえの日曜日に
久松山に登ったタクオからも頂戴していましてね。こちらは肉、ソーセージ、魚の薫製詰め合わせでございます。いや、おいしかった。とくにソーセージがジューシーでしたよ。
ゼミの卒業生諸君、みな薄給でしょうから、お中元なんて無理しないで、なんて絶対言いませんので、ほかのOBもどしどし送ってきてくださいね。ちなみにビールはまだ結構あります。ですから、それ以外がいいな・・・こんどの「魔法の山」の打ち上げも茶室のまわりでおこなう予定であります。期待してるぜ、ノビタも、西河♂♀も、社長も、モリさんも、チャックも・・・

今日の打ち上げには、ゼミ以外のメンバーにもあちこち声をかけました。おかげさまで、1年生1名、2年生3名、4年生4名がバーベキュー・パーティに参加してくれました。賑やかでしたよ。とくに4年生は、うちのゼミメンバーの親しい友人たちが顔を揃え、とてもよい雰囲気でしたね。
いや、みんなお疲れ様でした。黒帯くん、はよブログの記事、送ってきてね!
- 2008/07/12(土) 02:27:42|
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今回はめずらしく13講義室でのゼミとなりました。3つの班ごとに発表しましたが、歴史・史跡班と自然班は「まとめ」の作業に入っています。歴史・史跡班はとくにプレゼンテーションが上手く、とても解り易く感じました。動物班は、地域によって違うサンショウウオを示していました。植物班は、久松山の植生分布について整理しています。ただ、先生のいう久松山の「遠景」を「円形」と聞き間違えているところがおもしろかったです。歴史班、植物班ともに、よくまとめられていたと思います。今回のゼミの最後には、発表会での順番とテーマを決めました。次回は、発表会に向けてのプレゼンテーションを全員がひとりずつする予定です。

漫画・風景班がこの1週間でおこなったことを書きます。
漫画『魔法の山』で描かれている風景と実際の風景を照らし合わせたデータと、デジタルマップをほぼ完成させました。はじめは、デジタルマップを作る上で、完成への見通しが立たなかったのですが、院生のホカノさんに手がかりを教えていただき、ほぼ完成させることができました。感謝しています。
漫画『魔法の山』で、ほら穴とお化けのことで知りたいことがあったので、7月7日(月)に、聞き取り調査に行くことになりました。まず、久松地区公民館と連絡をとりました。幸運にも、「久松山を考える会」会長の岸根さんとお話ができることになりました。岸根邸は裁判所の近くにあり、190年の歴史のある建物でした。岸根邸の茶室は、以前環境デザイン学科の1期生が卒業研究のテーマにしていたそうです。私は、私たちがどんな研究をしているかを説明しました。岸根さんはそれを聞いて、感心していたようです。「久松山を考える会」がどんな活動をしているかを聞きました。久松山の西坂道は、「久松山を考える会」が舗装を行ったそうです。ロープを取り付けたのも「久松山を考える会」です。他に、何枚か資料をもらいました。その中には、「久松連山ルートマップ」という地図も含まれていました。中坂道、西坂道以外にも、久松山の周辺には何種類か登山道が存在します。まだ登ったことのない道があるので、登ってみたいと思いました。
さらに収穫がありました。谷口ジローのお母さんがご存命で、樗谿神社をよく散歩されているのをみかけるそうです。近い将来、谷口ジローのお母さんのお話を聞ける機会があるかもしれません。
肝心の、ほら穴、お化けのことについてのはっきりとした回答が得られなかったのは残念でした。そのことについて岸根さんは、「わからない」と言っておられました。久松山に詳しい「考える会」の会長さんがなにもご存じない、ということは、ほら穴の中にひろがる空間やお化けの話は、谷口ジローの創作なのではないかと推測されます。今回の調査を元に、発表へとうまく繋げられたらいいと思います。(環境デザイン学科1年「漫画・風景班」M.T)
- 2008/07/11(金) 00:34:48|
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9日の午後、県庁で某委員会があり、出席した。研究所時代の先輩が二人も同席する会議で、会議後の喫茶店で「太ったな、デブだな、なんとかせんかい」とのお叱りをさんざん頂戴してしまった。まぁ、事実だもんね。今夜はもう山登りもできないし、ビアンキも漕げない。残るは室内バイクだけか。ペダル踏んでみますかね・・・
さて、同じ会議の委員で鳥取の情報誌を編集されている方もいる。その情報誌の第3号を頂戴した。地方で編集したとは思えない都会的な紙面デザインや構成力に驚かされる。エネルギーを感じさせる雑誌だ。
そのような雑誌を、なんでわたしが1冊頂戴できるのかと言えば、青谷上寺地遺跡の建築部材で復元した「楼観」のCGを提供しているからです。
その雑誌には、恐るべき特集が組まれているのです。「学会騒然の大仮説 邪馬台国山陰説」だって。勘弁してくださいよ・・・ずいぶん以前から「出雲王朝説」を主張する研究者はおりまして、この点については、なお検討の余地がなきにしもあらず、と思っていないことはないけれども、「邪馬台国山陰説」なんて成立するわけがない。いま古代史や考古学の専門家の大半は、邪馬台国は大和にあったと考えております。北九州説は風前の灯火か、灯火が消えたか、という状況でして、これを権威の名のもとに信望せよとは口が裂けても言いませんが、「邪馬台国山陰説」はないよね。いちおう特集は読みましたが、とくに目新しい視点もデータもありゃしない。たとえば、山陰に素晴らしい遺跡が多いったって、近畿や九州はもっと多いんだから、その点をはっきり述べてもらわんと話になりません。
執筆者は在野の研究者ですね。古代史マニアから、こういう研究者に変身し、著書を出してらっしゃらる方は日本全国にたくさんいます。なにせ古代の文献資料は限られているし、考古学の資料はモノであって、どんな解釈でもできるから、アマチュアの方でもオリジナリティの高い「仮説」が呈示できないことはありません。しかし、繰り返しますが、特集を通読した限り、なにも新しい視点なんかありませんね。「邪馬台国は山陰にあったんだから、あったんだ」としかわたしには読めませんでした。
で、ともかくちょっと迷惑なのは、「邪馬台国山陰説」の根拠の一つにわたしたちが復元した楼観CGを使われていることです。あんな貧相な物見櫓が、邪馬台国にあったはずはないのです。復元した本人が言っているのだから間違いない。唐古・鍵遺跡で出土した土器絵画・掘立柱建物跡・柱根などをみれば、大和にあったであろう邪馬台国の楼観は、もっともっと豪壮なものだったに違いありません。鳥取の楼観だから、あれだけ木が細くて、背が低いのね。ああいう貧相な楼観しかないこと自体、青谷あたりに邪馬台国がなかったことを雄弁に物語っているのです。
[楼観と邪馬台国山陰説??]の続きを読む
- 2008/07/11(金) 00:12:40|
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昨夏のハロン湾調査で
特別顧問を務めたひらちゃんから6月末にメールが入った。ハロン湾調査のデータ整理が進んでいないことを謝罪しつつ、まもなくカナダのケベックで開催される世界遺産会議に出発するとの連絡である。さすが8年間、虎ノ門と霞ヶ関で高級官僚生活を送っていただけのことはあるね。ケベックでの会議は、事実上、世界遺産の当落を決する場なのだから、かれにはがんばってもらわなければならない。
あれから2週間ばかり時間が流れた。そして、今日の昼ころ、ハロン湾調査の
副隊長を務めた同僚から携帯に短いメールが届いた。
「ペナン・マラッカ 世界文化遺産登録となりました。めでたし」
とある。かれはマレーシア出身で、2002年の夏休みに、わたしを連れてマレーシア各地を案内してくれた。もちろんペナンとマラッカも訪れた。植民地都市の世界遺産登録をめざしている、という話をそのとき聞いた記憶もある。それが実現したのだから、ほんとうにおめでたいことだ。
しかし、その瞬間、わたしは平泉のことが頭に浮かんだ。短いメッセージながら、ペナンとマラッカのことしか書いてないということは、平泉は「落選」したのではないか。そう直感したのである。
猛暑の梅雨は峠を越していた。久しぶりのさわやかな空気のなかを、ビアンキは爽快に走り抜けていく。そして、大学でネットにアクセスし、直感が現実であることを知った。
いまから8年前まで、わたしは毎年なんども岩手県に足を運んでいた。一戸町の御所野遺跡(縄文中期)の復元整備のためである。御所野の委員会で、県教委の幹部と顔をあわせた。かれらは「平泉の世界文化遺産登録」をよく話題にあげた。わたしは訊ねたものだ。
「何をテーマにしているのですか」
と。 県の担当者(すでに故人となっている)は即答した。
「浄土伽藍・浄土庭園です」
わたしは、(えっ)という顔をして、こう反応した。
「浄土伽藍・浄土庭園の本場は京都でしょ・・・?」
平泉に「登録延期勧告」が通達されたとき、だれもが昨年の石見銀山を思い起こしたはずだ。石見銀山の
延長逆転満塁サヨナラホームランに国民一同狂喜したことをだれも忘れていないだろう。しかし、柳の下に2匹めの泥鰌はいなかった。
[世界遺産悲喜こもごも]の続きを読む
- 2008/07/10(木) 00:42:19|
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ブレスケアと「吸い付き婆」の関係について考えたことはありませんか。
前夜、焼肉か餃子かイタメシを食べたガールフレンドが部屋にやってきた。ではでは、いつものごとくというタイミングになっても、
「ちょっと待って」
ともったいぶっている。女はキャンディらしき物体の詰まったプラスチック容器をビニール袋から取り出した。
「それ、何?」
「さっきね、ローソンで買ってきたのよ」
「だから、何?」
「ブレスケアよ」
そして、女はプラスチック容器の蓋をあけて、水色のブレスケアをポイッと口に放り込むのだ。
「あぁぁぁ~、これっ、なかなか効くわね~~、はぁぁぁ~」
こういう状態に陥った場合、決してあせってはいけません。ことを急ぐとえらいメにあいますぞ。いまではもう懐かしく美しい想い出の一コマとして微かな記憶と残像にのこるのみですが、ブレスケアを含んだ口の中は
「吸い付き婆」状態に変化しております。
『魔法の山』の冒頭部分、城山のお濠で釣りする大人が子どもたちをからかう場面は、間違いなくセクハラというか、放送禁止用語が連発されており、この漫画を教材として良かったのかな、と冷や汗がたらりんこんとこぼれ落ちるのですが、しかし、あれはストーリー上なくてはならない伝承であり、城山(久松山)のイメージを捉えるに不可欠な話題なのであります。
政策学科2年のK君は、この伝承が『鳥府志』の記事に由来するかもしれないという発言をして周囲を驚かせました。城内の井戸に婦人が何度か落ちて死んでいるのね。その霊が吸い付き婆であり、祠さまだという発想であります。そして、吸い付き婆や祠さまは地上にでてくると、オオサンショウウオに姿を変えてしまうというアイデアを谷口ジローは披露しています。が、久松山にオオサンショウウオがいた可能性は低く、むしろ井戸にたむろしていたカスミサンショウウオかハコネサンショウウオの「
異物」としてのイメージが井戸で死んだ女の霊と重なりあっているのではないか??
それはさておき、「吸い付き婆」の被害にあった男はあとで後悔して、
「ねぇ、一粒頂戴よ」
と女に頼み、ブレスケアを口に入れてみる。ここで、すべての謎は氷解する。石棒が水虫と化したのは何故か、よく理解できてしまうのです。
ねちゃねちゃしてるのね。ねばねば、というほどではないけれど、ねちゃねちゃしている。これが粘膜から離れない。これで吸い付かれちゃったんだから、水虫になっても仕方ありません。訳が分かって、男は少しほっとしたりしてね・・・
今日の噺、お分かりになりましたか?
お分かりになった方は、ぜひとも拍手をくださいね。お分かりにならなかった方はメールをください。そっと教えてさしあげます。
では。
- 2008/07/09(水) 00:35:22|
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イチローみたいにクールに言いたいよね。「まぁ通過点ですから」なんちゃって、・・・6月のユニークアクセス(UA)がついに6000件を突破しました。1日平均200名以上の方がLABLOGにアクセスしてくれたんです。やっぱり
ユーロのおかげかな。ほかに
六弦倶楽部第7回練習会も大成功だったし、その一方で江口さんの
悲報もあったり・・・感無量です。では、4・5・6月の
ユニークアクセス(UA)とトータルアクセス(TA)の変化をお示ししましょう。毎度のことですが、以下の表記は、月総数(1日平均)をあらわします。
2008年4月 UA=5093(170) TA=12339(411)
5月 UA=5543(179) TA=12525(404)
6月 UA=6089(203) TA=12517(417)
これは
前年度同期と比べれば倍増に近い飛躍的な伸びを示しており、今年の
1~3月と比べても、6月の場合、UAで1,000件近い増加をみせています。いや、ほんとうにLABLOGも成長したと涙にくれているのですが、じつは7月に入って、UAの一日平均は190件弱まで下がっています。してみれば、やはり6月のアクセスはユーロのおかげなのかな・・・
つぎに、ヤフーやグーグルなど検索エンジンによるアクセス総数の推移をみると、
4月:3030 5月:3403 6月:3233
となっています。これを都道府県別にみておきましょう。左から4月→5月→6月のパーセンテージを示しています。
1位 鳥取24.22% → 鳥取21.36% → 鳥取23.42%
2位 東京16.02% → 東京16.20% → 東京16.88%
3位 大阪08.87% → 島根10.49% → 大阪08.24%
4位 島根08.50% → 大阪07.58% → 島根07.84%
5位 兵庫05.30% → 兵庫06.35% → 神奈川04.24%
6位 神奈川03.69% → 神奈川04.84% → 愛知04.09%
7位 千葉03.20% → 愛知03.33% → 京都03.99%
8位 京都02.71% → 千葉03.01% → 兵庫03.89%
9位 岡山02.40% → 京都02.79% → 千葉03.24%
10位 愛知02.34% → 岡山02.20% → 福岡02.19%
埼玉02.34%
1位の鳥取は不動ですが、そのパーセンテージは減ってきており、2位東京との差が以前に比べると詰まってきたようです。そのほか大阪、神奈川、愛知、千葉などの都市圏からのアクセスが増えていますね。島根は4位が多いのですが、5月にアクセスが増えているのは「八雲立つ風土記の丘」の
復元建物が竣工したのと(まだ中をみせてもらってないぞ!)、「
出雲大社昇殿」の記事が関係しているのでしょう。前回(1~3月)、3ヶ月ともベスト10に顔を出していた石川はあっさり姿を消しました。
続いて、検索エンジン使用のサーチワード順位をみてみましょう。左から4月(5月)[6月]のパーセンテージを示しています。
1位 浅川研究室 2.34% (浅川研究室 2.64% ) [浅川研究室1.82%]
2位 t 1.38% (塩崎綾 2.41%) [塩崎綾 1.54%]
3位 lablog 0.98% (t 1.67%) [江口一久1.17%]
4位 変則チューニング 0.85% (ロフト階段 1.02%) [t 1.14%]
5位 塩崎綾 0.65% (変則チューニング 0.85%)[変則チューニング 0.83%]
6位 浅川滋男0.56% (lablog 0.73%) [弥生時代の考古学 0.71%]
相変わらず「
変則チューニング」というサーチワードが上位にくい込んでいます。あの記事を書いたころは、ほとんど変則チューニングを使っていませんでしたが、先月の六弦倶楽部では3曲すべて変則でしたし、いま練習している2曲も変則です。でも、もう少ししたらレギュラーの練習曲に戻る予定。ほかに注目すべきは、なんといっても塩崎綾さんですね。おそらく「
催涙スプレー事件」が発端なんでしょうが、このアクセス解析に名前がでるので、また検索されるといった「悪循環」に陥っているのではないかな??
そして、6月が江口さんです。人気がありましたからね、江口さんは・・・繰り返し、ご冥福をお祈り申し上げます。
- 2008/07/08(火) 19:03:00|
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もう1ヶ月以上前のことになるが、5月26日(月)から30日(金)までの5日間、産経新聞大阪本社夕刊で「神遷る 出雲大社」というコラムが連載された。担当は山崎さんという松江支局の記者で、いちど電話取材を受けた。
わたしのコメントは5月29日(木)の第4回の掲載されている。文化財に関わるメディアの報道は、とかく誇大になりがちだが、この記事は抑制が効いていて感心させられた。某研究所で長く発掘調査現場の記者発表をおつきあいした経験から言うと、記者さんたちは担当者の発表やコメントの前からすでに記事を書いている(書いていないと、翌日の朝刊に間に合わない?)。その記事に、わたしたちの発言をあわせていくので、内容を読んで愕然とすることがしばしばあった。それに比べると、このコラムはきわめて健全である。
たとえば、出雲大社境内遺跡で発見された
大型本殿(鎌倉初期)については、
「構造的にみて48メートルの建物は建たないが、40~41メートルは
あったはず」と冷静だ。
式年遷宮にともなう
現本殿の公開の感想についても、
「今まで図面でしかわかりませんでしたが、目でみたのは初めて。
(ご神体のある)内殿は切妻、妻入りではなく、大社造とはまったく
違いました。正面左奥の小さな祠のような客人座など新しい発見も
ありました。とにかく、研究者として中が見られて安堵しました。」
という記載で、わたしの発言がよく伝わっている。よく伝わらない記事が多いなかで、よく伝わる記事を書いていただいたことに感謝したい。

- 2008/07/07(月) 12:42:29|
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何日か前に
ぶるぶる振動腰巻きベルトの記事を締めくくるにあたり、「今週末は久しぶりに鳥取におりますので、また山に登るかな」を書いてしまったのが運の尽き。出雲のタクオからメールが入った。
丁度、両親も鳥取に帰ってきているので、もし、先生との都合が
合えば帰鳥しようかと考えています。山登りもご一緒したいです
し(僕も最近腹が・・・)
というわけで、日曜日に3度目の久松山登山が決定した。じつは岡村も友人の結婚式のため帰鳥していたのだが、目的は結婚式なのだから、山登りができるわけはない。
いや、生まれてくるんじゃなかった、ほんとに。
梅雨も終わったと錯覚させる猛暑の一日。タクオは午後2時ころ、寺町にあらわれた。ゆえあって、駅裏の「無印」に行くことになり、最近はまっている「水出しアールグレイ」など数品を購入。じつはわたしだけまだなにも食していなかったので、タクオを無印においたまま「砂丘そば」を食べに行った(稲荷寿司も食べた)。しばらくすると腹がぐるぐる鳴る。これはわたしの持病である。30代前半に胆石の手術をし、胆嚢を除去しているので、胃腸の油分解吸収能力が弱く、便通がよい、というか、代謝がよい、というか・・・さっそくシャミネのトイレに足を運んだ。これが不吉の前兆であった。

3時ころから中坂を登り始めた。最初から息が切れる。ふらふらしていて、ときどき後ろを歩くタクオのほうに体が倒れそうになることが何度かあった。5合目の中坂神社に着いたら、もう完全にグロッキーしている。これまで、こんなことはなかった。
学生たちと一緒に登ったとき、かれらが「登山は久しぶり」と大騒ぎするので、「こんなものは登山のうちには入らない。ヒッチハイクのレベルだろう」と諭したものである。そのわたしが動けないのである。8合目を過ぎて、体に異変を感じた。タクオに紙を借り、竹藪に踏みいってゲーリー・ピーコックの2回目(1回目はシャミネ)。山登りとゲーリー・ピーコックの関係は浅くない。3年前の
三角山登山がそうだった。あれ以来の症状である。わたしは8.5合目の「山伏井戸」手前の地べたに坐り込んで動けなくなった。この日の症状は三角山のときよりもひどく、なんと嘔吐感まである。それをタクオに告げると、「顔が蒼いですよ」とかれは言った。
そこで嘔吐感が消えるまで坐りつづけ、再び山上をめざしたが、9.5合目でまたダウン。しばらく坐り込んだ。その後、なんとか山上の丸の天守跡に辿り着いた。その記念写真がいちばん上に示したものである。無印で買い込んだ2リットルの茉莉花茶(ジャスミン・ティー)はすでに空になっている。
下りは東坂を選んだ。こちらは勾配は緩くて楽なんだ。もし腹部に異変が生じたら、こんどはタオルしかない、と覚悟していたが、長田神社におりるまでに体調はどんどん回復していった。
長田神社の建物ははじめてみた。本殿は仏教寺院の宮殿(くうでん)や近世城郭に多い「八棟造」。入母屋造の屋根正面平側に千鳥破風を付け、その前の向拝軒を唐破風にする意匠である。石見八幡宮の本殿がこの形式だったことをよく覚えている。因幡一ノ宮「
樗谿神社」の本殿の屋根はこれより素朴で、入母屋造に千鳥破風も軒唐破風もつけず、正面向拝を流造のようにみせていたはずだ。長田神社本殿は絵様からみる限り、幕末以降の作であり、その時代性が屋根の派手さの背景にあるのかもしれない。
[またしても、ゲーリー・ピーコックについて]の続きを読む
- 2008/07/06(日) 23:56:34|
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7月4日(金) 梅雨あけかとも思わせる猛暑快晴
智頭枕田復元住居模型の展示をみる 本日のプロ研(3・4年ゼミ)は、またしても智頭を訪問しました。院生、4年とわたし(狩人)が先発、教授と他のメンバーは授業があるので後発し、板井原で合流しました。
あっ、そういえば、ペンネームの「狩人」ですが、今わたしがはまっているゲーム「モンスターハンターポータブル2ndG」の「ハンター」からとったものです。お時間のある人、興味のある方はぜひ!
さて智頭を再訪したのは、5月末に町に搬入し、6月第3週から
智頭町総合センター ロビーで展示されている智頭枕田遺跡SI-01復元模型を見学するためです。私は枕田住居模型の製作者として奥深い思い出があります。昨年度後期のことですが、ケンボーさんの卒業研究で竪穴住居の復元模型を3棟制作したのです。私はまだ2年でして、同じ環境デザイン学科2年のOさんとケンボーさんの共同制作で、3棟のうち縄文の竪穴住居復元模型(智頭枕田)を担当しました。出来上がるまで、何度も作り直し、また作り直し、試行錯誤の末やっと完成した模型だったのです。
展示は7月11日(金)までです。あと1週間ですね。常設展示ではありませんので、ぜひとも展示期間中に足をお運びください。なお、次の展示は冬に企画されており、登録有形文化財「
石谷家住宅」でのお披露目になるそうです。
モルジュのカレー さて、模型を見終わったピヴォさんが「おなかすいたわ~! 早くカレーを食べに行こう」というので、先発メンバー全員で板井原集落の近くにある「フォレストリア用瀬」という施設に移動しました。このなかにレストラン「モルジュ」(↑)があります。事前に集めた情報では、チキンカレーが美味だということで注文したのですが、カレーは5食分しか残っておらず、ホカノさんだけピラフとなりました。カレーはセットになっていて、デザートとドリンクがついてお値段は1,300円とやや張りますが、チキンは簡単にほぐれてとろけたりしてなんともおいしかったですね。ぜひ来店して食べてみてください。食欲がそそります。そして
おいしい。
板井原でのゼミ その後、板井原で後発組と合流しました。板井原は4年・院生はいちど来ており、3年生を案内してくれました。先輩や先生の説明を聞きながら見学し、初めて来たわたしたち3年はのどかな雰囲気とマイナスイオンを感じながら、村の内や外を歩きまわりました。板井原はすでにゼミでパワーポイントのプレゼンなどをみていましたから、とても期待していたのですが、やはり重伝建地区などとの差を感じてしまいました。先生は、前から「伝建」ではなく、「
文化的景観」として評価すべきだとおっしゃっています。わたしたちは、まだ「文化的景観」という概念について認識が足りないのだろうと思います。
集落散策のあと、恒例?の「野土香」でのゼミとなりました(↓)。「知の財産」報告書の編集が最後の詰めに入っているらしく、4年生は真剣に先生のチェックをうけていました。また、ホカノさんは今年の購入器材についてのリストとカタログをもってきていました。3年はイロリ端で気楽にくつろいでおりました。
[再び智頭から赤波川へ]の続きを読む
- 2008/07/05(土) 02:43:10|
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7月3日 晴れのち曇りのち雨
久松山ロープウェイ基地跡を訪ねて 今日は久松山ロープウェイの基地跡(現鳥取市埋蔵文化財センター)へ行きました。1970年の大阪万博の際、帰りの観光客を沢山呼び込む観光名所をめざしていたチラシがネット上でも公開されています。当時、まだ国史跡に指定されていなかった山の片側に建てられたそうです。策動の開業は、万博前年の昭和44年(1969)で、廃止は7年後の昭和51年(1976)だそうですが、すでにそれ以前ら休業状態になっていたそうです。休業になった理由は経営上の不審と文化庁の警告の両方が考えられるそうです。その後、昭和60年に「鳥取城跡保存管理計画」が答申され、昭和62年8月10日に史跡指定範囲が拡大され、久松山のほぼ全域が国の史跡となったということです。

頂上付近のロープウェイ基地と違い、始発場所のほうなのでとても大きく、切符売場や食堂跡、看板などがいくつもありました。また、奥の機械室や宿直室なども見学しました。機械室は老朽化が進み入口だけの見学でしたが、とても広くで下が深くコウモリが飛んでいました。宿直室に行くまでの部屋の壁に沢山の落書きがあり、とても暗くて懐中電灯で照らしていただきましたが、久松山の防空壕の時より怖く、不気味に感じました。
ただ、乗り場からは山がひろく見渡せ、おそらく中継の柱であったと思われるY字状の構造物も確認できました(↓)。

ロープウェイの見学が終わり、ロープウェイ下のレストラン跡(現会議室)で今週の成果の発表をしました。
まずは自然班で今日は植物班の二人が休んでいたので動物班だけ発表でした。今回の動物班の発表で、私が見た県立博物館のホルマリン漬けのオオサンショウウオは仁風閣が博物館だった頃のオオサンショウウオではないと聞き、「魔法の山」に出てくるモデルのオオサンショウウオは私が見た県立博物館のホルマリン漬けのオオサンショウウオではないんじゃないかと思いました。
次に漫画班による発表で漫画のコマと実際の風景を載せたデータシートを元に発表していましたが、地図上にもっと分かりやすく番号を振り分かりやすくすれば良いと私も思いました。漫画班は最後に岡野さんから教わった事をしていたので次回の発表が楽しみでした。
吸い付き婆の正体? 最後に我々、史跡班の発表で、まず岡君がロープウェイについて発表し、K君が大まかにまとめたプレゼンの発表と新たに発見、付け加えた事を発表しました。最後に漫画に出てくる重要な役割の「吸い付き婆」の正体について、『鳥府志』の記載から自分の仮説を発表しました。じつは私は以前、K君からその話を聞いていました。K君は「何も発表する事がなくなった時の切り札として残しとく?(笑』)と話していて、それをとうとう今回披露したのです。この仮説には、先生も感心されていました。江戸時代の城内にあった井戸に婦人が落ちて死んでしまい、それが化けてでるという説話があるのですが、先生はそれを五輪塔のイメージ(地下に降りていく抜け道の仮説)と結びつけると発表会全体の良いオチになる、と言われました。
そろそろプロジェクト研究の発表会が近づいているので次回は今日先生に指摘された改善ポイントなどや新しい情報を入れた発表があると思います。今日の発表よりまた一段と優れたものが出来ると思い、とても期待しています。私も新たな情報を見つけ良いプレゼン発表が出来る様にしたいと思います。今日は以前も仁風閣などでお世話になった市教育委員会の方がたがお忙しい中、わざわざ来て頂きました。本当に有難うございました。(環境政策学科2年「歴史・史跡」班Y.D)
[第12回「魔法の山」-谷口ジローの風景]の続きを読む
- 2008/07/04(金) 12:38:04|
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いつものように、教授室の椅子を4つ並べてぐぅぐぅ寝ていたら、携帯電話のリンリンに呼び出された。チャックからの電話だった。
昨年の「
チャックと部長のインターンシップ」に引き続き、今年も東京の某文化財系コンサルへのインターンシップを考えている3年生がひとりいて、どこかの民家だったか、歴史的建造物の解体修理現場の仕事を手伝ってもらいたい、という上司からの指示を伝えてくれた。
できれば、その現場でインターンシップしてきてほしいのだが、なにぶん東京で2週間生活しなければならないので、出費がかさむ。問題の3年生が行くかどうか、まだ分からない。
チャックに「元気か?」と問えば「元気です」と答えるが、「先生は?」と問われれば「死にそうだ、生まれてくるんじゃなかった」と答えるしかない。すると、チャックは「腰巻き振動ブルブルがあるじゃないですか」と笑う。
効かないのよ、効きません。VIB-HOTは効かないので、
買わないほうがよいですよ。
とくに1家で2個も買うのは阿呆としかいいようがありません!
さて、いま死にそうになっている最大の理由は、昨年度「知の財産」報告書を編集しているからなんだ。新4年生たちががんばってレイアウトしてくれたのだが、『
薬研堀慕情』の連載に熱中し、
ユーロに熱中し、
ギターに熱中していたわたしはテキストの校閲をほったらかしにしていた。いまごろになって、ようやく校閲に取りかかり、まずチャックの卒論を直し、次にケンボーの卒論を直し、さらにさらに昨秋加藤家で開催した
シンポジウムの討論原稿を発言者の順番をぐちゃぐちゃに入れ替えながら編集しているところなのです。昨夜、ケンボーの発表に対する討論まで終わり、残すはチャックの発表に対する質疑応答のみとなった。
これからやります・・・少し眠ったので体力は回復してきたからね。
- 2008/07/03(木) 20:04:36|
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