Lablog

鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

オホーツクの夏(Ⅰ)

発掘風景


インターンシップの報告①: 北海道KT市TK町 8月27日 

 こんなに充実した一週間は、これまで経験したことがないかもしれません。
私は今、考古学漬けの毎日です。TO大の方たちと、朝7時に起きて食堂でまかないを食べ、8時半にはトコロチャシ跡遺跡で発掘作業を開始し、17時にTO大の寮に戻ってきて夕食後、19時からミーティング、遺物の洗い・注記作業を21時~22時まで行う日々を送っています。
 最初の頃は、自分以外みんなTO大の方たちで、食事・部屋・生活当番が少し気まずかったし、考古学の分野も初めてで戸惑いもおおいにありました。
 しかし、今ではこのハードな日々を乗り越えてきて、自分が北海道に行く前より大きく成長している実感があります。始めた頃は、ミーティングのスピード感や、発掘日誌の作成、野帳へのデータ記入など、なかなかついていけないこともありましたが、TO大の先生や学生皆さんの前で進行状況の発表や、発掘日誌をアドバイスを受けながら毎日提出していくうちに、必死で、先生・学生の話をメモにとって頭に叩き込んだり、博物館で勉強したりと、がむしゃらに頑張っています。
 実際に、石器・土器・骨などを自分の手で発掘できる機会はそうないと思います。この経験を今後の自分の武器に出来ればと考えています。
 これは、おまけですが、くだらなくて面白い話が聞けて、夜の宴会がめちゃくちゃ楽しいです。
 だけど、寮の周りには何もないし、テレビも新聞もろくに見れないので少し寂しいです。
 知っている顔が恋しいので、浅川先生が来られるのを楽しみに待ってます。(黒帯)

ガリ
↑40年前くらいのT大発掘隊が置き忘れて埋まった移植ゴテ ↓出土遺物(一部)
遺物


   
   
  1. 2008/08/31(日) 00:45:58|
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若桜を往く(Ⅵ)-町並み調査③-

20080827204331.jpg


 雨が降りそうで降らなかった8月27日(水)、M君、ヒラ、部長、ホカノの4名が若桜町の町並み調査をおこなった。この日は2名ずつ、2班に分かれて行動した。ヒラ・部長組は先日から続いて建物の類型別分布を調べた。一方、M君・ホカノ組は、通りから鬼ヶ城(鶴尾山)の見える範囲について調査した。その目的は、町並みの借景として鬼ヶ城がどう取り込まれているのかを確かめることである。

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 調査は歩いて稼げといわんばかりに、今日の出発地点の若桜駅から東へ行き、若桜橋を折り返し、本通りを通って西へ。西の端にあたる地域福祉センター前に来たら東へ戻る。そして、これを他の通りでも繰り返した。町中の大概の通りから鶴尾山を望むことはできた。ただし、屋根越しだったり建物と建物の間だったりと、鶴尾山が部分的に見える場所が多い。町中は遮蔽物が多いから当たり前だといえばそうであろう。それでも、城郭部分が視界に入るポイントは意外に多かった。

20080827204340.jpg

 今回の調査で、あるポイントがお気に入りな場所になった。町の東端にある親水公園付近である。鶴尾山の袂で、田畑がひろがっている。また、近くに町に流れる水路の取水口もあるし、それに伴う水路と堤がある。堤は土手に川原石で補強がなされている。かなり良質の文化的景観だと思う。

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 調査が終わったあと、不動院岩屋堂まで足を運んだ。岩屋堂は若桜の城下町から車で10分程度の場所にある重要文化財で、岩窟のなかに建てられている。三徳山三仏寺投入堂とよく似た立地であり、密教・修験道の舞台として強烈な聖性をアピールしている。ホカノ以外の3名は初めて訪れたらしい。初めて訪れた記念にと写真撮影をして、岩屋堂の雰囲気を満喫したあと、帰路についた。(ホカノ)



  1. 2008/08/30(土) 00:00:20|
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若桜を往く(Ⅴ)-町並み調査②-

IMG_9552.jpg


 8月25日(月)。今日は2回目の若桜調査。本日のメンバーはデザイン学科1年のM君、Mr.エアポート、ヒラ、部長の4人と、午後から参加してくださった先生の合わせて5人です。今日はうす曇の中、調査をスタートさせました。
 まずは、前回の続き。本通りの写真撮影と分布調査です。M君とMr.エアポートに写真撮影を任せ、ヒラと部長は一つひとつ建物の類型別分布を調べていきました。途中ぱらぱらと小雨が舞い、今回も雨になるかなぁ・・・と心配しましたが、じきに雨があがって一安心。写真組が本通りの若桜駅前まで撮り終わったところで、お昼ご飯をとりました。
 お昼ごはんを食べて一息ついたところに、先生が合流。今後の打ち合わせをおこないました。若桜での調査について、1棟1棟建物の細かい類型分布を調査していること、連続写真を撮っていることを説明すると、「そんなに細かくしなくていい」の一言。なぜなら、2年前の倉吉の場合は町家と町並みの調査が目的だったが、今回は広範囲の「文化的景観」の保全を目的とした調査なので、町並み調査に倉吉ほどのエネルギーをかける必要はない、という指摘でした。今のまま進めていくと、しなくてはならないことができなくなることに気付き、もうちょっと効率よくできる方法を考えなければならないと思いました。

P1180603.jpg そこで、午後からは先生とM君、ヒラと部長、Mr.エアポートの3班に分かれて、本通りと平行に並ぶ通りの連続写真撮影をおこなうことになりました。現地調査で零れ落ちたデータを写真から評価しなおすことが可能ですし、連続立面図の作成にも役立ちます。ヒラと部長は蔵通りで撮影していましたが、途中若桜のガイドをしている方から、若桜の蔵の役割を伺うことができました。そのお話によると、一国一城令の後に若桜は城下町から流通の拠点である宿場町に変貌を遂げたため、物を保管するための蔵がたくさん必要になったということです。その蔵がある民家の本通り側にカリヤがあり、カリヤでは運び手たちが休んでいたそうです。

IMG_9563.jpg

すいかIMG_9555
 そんな話を聞き、蔵通りを撮り終わると午後4時過ぎ。早めに終った先生とM君が、鬼ヶ城に登ったときに足をつけたカリヤの前で、大学から持ってきたスイカを冷やしていました。このスイカは2期生の西河♀さんのお中元です。ありがとうございます。合流した私たち3人は、そこからスイカを先生が足を清流に浸しているカリヤ(前回ホカノさんが足をつけた場所)まで運び、小さいイスを拝借してまな板代わりに使って、小さな包丁で切り分けました。短時間しか水路のなかに入れていなかったため、スイカはあんまり冷えていませんでした。しかし、もう秋が始まりそうな涼しい風の中で食べるスイカは、とてもおいしかったです。思えば、水で冷やしたスイカを食べるのは、2006年夏の尾崎家住宅以来のことですね。あのときはハンドで冷やしたスイカにみんなでむしゃぶりつきました。あれから、まる2年経ったんですね。懐かしい想い出です。

 大学に戻って、こんどは4409演習室でいろいろ打ち合わせをしました。そこには風邪で調査を休んだホカノさんもいました。そして、ホカノさんは2期生の歳蔵さんからあずかったフグの一夜干しなどをもってきていました。また、キム・ドク(別名タイガー戸口)さんのお土産「イカナゴの釘煮」も届いていました。これをみんなで食べながら、わいわい話し合いました。2期生の先輩のみなさん、ほんとうにありがとうございます! (部長)

  1. 2008/08/29(金) 00:32:34|
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レッティン・ゴー(Ⅴ)-六弦倶楽部第8回練習会

浅川02デュオ01


足踏み台からサポートへ

 さてさて、今回の演奏はこの3曲です。

   1.ミノアカ Mino‘aka
   2.トップ・オブ・ザ・ワールド Top of the World
   3.レッティン・ゴー Letting Go

 以下に解説しておきます。

1.ミノアカ Mino‘aka

浅川01スラッキー01縦 アローハ!
 前回と同様、ケオラ・ビーマーの教則本からハワイアン・スラッキーギターをトップバッターにもってきた。前回の「イサ・レイ」はFワヒネ・チューニング(CFCGCE)だったのに対し、今回の「ミノアカ」はタロパッチ(オープンG)・チューニング。正直、オープンGはあまりおもしろくない。「サンバースト」や「ムーンタン」で使い続けてきたダブルドロップDと1音しか違わないし、バンジョーもオープンGだから新鮮味を感じられないのだ。また、スラッキー・ギターは、文字通り、「緩い弦」であるところに特徴があって、とりわけ5弦と6弦の音の低さを強調したい。FワヒネのC-Fのほうが、タロパッチのD-Gよりも1音低く、よりスラックな表現が可能となる。それに、開放弦の響きもmaj9th系のFワヒネのほうが美しい。で、別のFワヒネの曲にしようかとも思ったのだが、その曲はなんと歌付きで、これはかなわないと判断し、タロパッチで演奏することにした。

浅川01スラッキー02縦 もちろん、この曲は少しずつ練習していた。ただ、このレベルだといつでも演れるという安心感があり、なかなか本気で取り組む気にならなかった。困ったものだ。結局、「奥の細道」のホテルでオリンピックをみながら練習し、なんとかいちおう暗譜し終えた。1曲めなので、もちろん緊張していて指も動かず数ヶ所間違えたが、アコギのスチール弦でもあり、サムピックの違和感はそう感じなかった。ギターはモーリスS92。足踏み台使用。
 ちなみに、ハワイ語のMino‘akaとは、「笑って!」という意味だそうです。


2.トップ・オブ・ザ・ワールド Top of the World

浅川02デュオ05 ご存じ、カーペンターズの大ヒット曲。第7回の練習会に鞄持ちとしてついてきたMくん、その練習会の帰り途に「次はデュオでいこう」、さらに「六弦倶楽部の演奏はスローバラードが多いからアップテンポの曲にしよう」という思惑で一致。で、かれの選曲が「トップ・オブ・ザ・ワールド」だったということです。編曲は江部賢一さん(『デュオ・ギターのしらべ』リットーミュージック、2007)。リードパートはMくんで、わたしは伴奏を受けもった。最初は1番と2番でパートを入れ替えようと提案したのだが、Mくんは伴奏パートはできない、というので、わたしが伴奏に徹した。伴奏はわたくし得意の3フィンガーでして、だいたい初見で弾けるんですが、じつは難しいところもあります。サビで、メロディ平行のコーラス旋律を弾きながら、オルタナティヴ・ベースを続けるところはシンコペーションがきつく、なかなかやっかい。言い換えるならば、伴奏パートはダブルリードギターの下側の旋律と伴奏をいっぺんにこなさなきゃならない。単純な3フィンガーでは決してない、と言うことです。で、このダブル・リードをあわせるのに結構苦労しました。爪が消えた原因の一つかもしれません。世の中に簡単な曲なんてないんですね。

[レッティン・ゴー(Ⅴ)-六弦倶楽部第8回練習会]の続きを読む
  1. 2008/08/28(木) 03:40:59|
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レッティン・ゴー(Ⅳ)-六弦倶楽部第8回練習会

バーベキュー


消えた爪
 8月20日の午後6時すぎから、時空が暗転しはじめた。丹波橋のプラットフォームで受けた、たった1本の電話が心に闇を落とし、生活のリズムを少しずつ狂わせていったのである。
 まずは翌21日、京都のホームデンティストを再訪して仰天した。1週間前にとった歯形の蝋が熱さで変形してしまったので、型をとりなおすのだという。つまり、わたしはもう一度京都室町の歯科医院に通わなければ治療が終わらないことを知ったのだが、いったいいつ京都に通う時間がつくれるのか、いまなおスケジュールの余裕を見つけ出せないでいる。おまけに、馴染みの「そば倉」が閉店しており、辛味大根のおろし蕎麦がもう食べられないことを知った。
 室町から奈良に戻り、すぐに天理楽器に行った。そこで、ガットギター用のピックアップを購入した。8,000円だった。じつは、その1週間前にはアコギ用のピックアップも買っている。こちらは20,000円もした。この出費は大山貸別荘のウッドデッキで開催される六弦倶楽部第8回練習会に備えてのものだった。
 天理楽器から戻ると、家の錠が閉まっている。わたしは鍵を持ち歩いていない。オリンピックの重要競技が目白押しだというのに、わたしは家に入れないのだ。ワイフになんども電話し、買い物をしているだろうコープまで2度探しにいったが、彼女に会うことはできなかった。それから散歩道まで探しにいったのだが・・・

演奏01代表01
 22日の深夜、14日ぶりに帰鳥し、翌日午後からMくんと半日、ギター・デュオの練習をした。Mくんの選曲した「トップ・オブ・ザ・ワールド」である。はじめは二人とも、生のクラシックギターで練習した。途中から1台はピックアップをつけ、もう1台はエレガットに替えて2台のアンプから音を出した。昨年のウッドデッキ・ライブでは、マイクを使わず、アンプラグ(生音)かプラグインのどちらかだったのだが、生音で挑戦して、まったく音が通らなかったので、今年は苦手なアンプを使うしかないと決断したのである。だから、計28,000円もの出費をしたのだ。
 野球で日本がアメリカに敗れ4位が確定する瞬間を挟んで、まる半日(というか1日?)ギター・デュオの練習に費やした。おそらく「トップ・オブ・ザ・ワールド」を30回ばかり弾いただろう。そのとき、Mくんに親指の爪をみせた。3㎜ぐらい伸びていて、少し切ったほうがいいかな、なんて話をしていたのだが、その長い爪は演奏に抜群の威力を発揮している。ここ数ヶ月、調子が良いのは、その長い爪のおかげだろうと確信していた。
 深夜十時、デュオの練習を終え、Mくんが帰っていった。わたしはあまりに疲れていたので、すぐにはソロの練習に移行できなかった。馴染みの店でかるく一杯呑み、少しリラックスしてから練習を再開しようと決めて、久しぶりにその店に入り、大事件を知った。なにが起こっているのか、まだ書けないのだが、その事件を知るにつけ、わたしのメンタルはさらに負の方向にぶれていった。
 短時間で店を出て帰宅し、気力を振り絞り、ソロの練習を始めようと動きはじめた。ところが、爪が消えている。親指の先から飛び出た3㎜の部分が「ない」のである。信じられない。ほんの1時間ばかり前まで、その爪で「トップ・オブ・ザ・ワールド」を弾いていたのだ。この曲を弾きすぎたために、爪の付け根が一気に疲労し、なにかの拍子にポキッと折れてしまったのだろうか。
 わたしは、もともと肉弾きであった。しかし、この半年ばかり、すっかり爪弾きに慣れてしまい、とくに親指の爪はいまやなくてはならない自前のピックになっている。「ムーンタン」の成功も、この親指の爪があったればこそなしえたものである。それが消えてしまった。あわてて肉弾きを試みたのだが、うまく弾けない。思い切ってサムピックを使ってみたところ、弾きにくいのは間違いないが、肉弾きよりはマシなことが分かった。かくして、人前で使ったことのないサムピックでの演奏を余儀なくされることになった。この精神的ダメージは計り知れないものだった。

浅川02デュオ02遠景
 六弦倶楽部第8回練習会は、1年ぶりに大山貸別荘のウッドデッキで開催された。昨年、「サンデーモーニング・オーバーキャスト」を失敗した因縁の地である。驚いたことに、今回は最高級のコンデンサ・マイクが用意されていた。あらら・・・天理楽器に投資して入手したピックアップ2個はあっさり無用の長物と化してしまったではないか。まぁ、これについては、いずれどこかの会場で使うこともあるだろうから、たいした問題ではないけれども、頭がいたいのはサムピックを使わざるをえなくなった、わたしの親指である。昼食のバーベキュー・タイムでは、爪の管理と星野JAPANの話題で盛り上がった。
 やはり日本一になったことのない監督では世界に太刀打ちできない。第2回WBCは来年の3月に迫っている。監督の人選を急がなくてはならない。わたしは、日本人なら野村か落合、外国人ならボビー・バレンタインが良いのではないか、なんちゃって。とくに、落合とバレンタインは、日本シリーズを制した上で、日韓シリーズにも勝利している。落合の神経は太く、バレンタインはメジャーにも精通していて、韓国に対するコンプレックスをもっていない。なんて話をしているうちに、クジがまわってきた。
 わたしの出番は9組中4番に決まった。(続)

浅川04ピック複合


  1. 2008/08/27(水) 01:36:30|
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奥の細道(Ⅵ)

s02カラムシの皮(干す前のもの)と茎


御所野インターンシップ報告: 8月23日(土)

 3年のガードです。御所野でのインターシップも6日目となりました。
 午前8時30分、朝礼がおこなわれました。本日の連絡は、青森ユネスコ協会研修視察がある事とKK舘の学生さんが博物館実習が最終日だという事の二つでした。朝礼の最後にKK舘の方と御所野のみなさんで記念撮影をしました。
 朝礼が終わると、すぐに青森ユネスコ協会研修視察で使う会場の準備をしました。準備が終わると、カラムシの採取にでかけました。カラムシとは、昔の縄や服を編む繊維の材料となる植物です。採取したカラムシの繊維となる部分を剥く作業をしたのですが、この作業は思いのほか難しく、御所野の作業員さんはキレーにそして速く剥くのですが、素人の僕たちでは月とスッポンほどの違いがあり、単純な作業でも奥が深いと感じる事のできた作業でした。

s01カラムシの茎 s03カラムシ皮とり s04カラムシの皮を剥いたもの

s05カラムシの皮を干した物 【左上:カラムシの茎、上:カラムシの皮を剥ぐ、右上:カラムシの皮、左下:乾燥させたカラムシの皮】

 12時になって皮むきをやめ、昼食をとりました。昼食が終わると、SH都大学の学生さんたちとKK舘の方と自分の四人で何気ない話をしたのですが、KK舘の方はすごい勢いで話し、そして質問をするといった本当に明るく積極的な性格がもろに出ていました。自分はこの方とほぼ一緒に実習をしていて、この方はいつも積極的ですごいなと思うのですが、たまに奇想天外な発言をするので、この5日間とても楽しませてもらいました。本当にお疲れ様でした。

 午後1時から、御所野縄文博物館の高田館長が竪穴建物の屋根や柱について、あるいは竪穴建物の復元に関する内容の講義をしてくださいました。館長さんの話はとても興味深く聞くことができ、いつの間にか話にのめりこんでいる自分がいました。
 この後、御所野のみなさんと一緒に奥州街道に向かいました。写真撮影にお手伝いとして、一緒に街道をまわらしせていただいたのです。写真撮影のところどころで奥州街道についての話を聞かせていただいたり、一戸に関する色々な事を話してくださいました。その途中、国指定の天然記念物「浪打峠の交叉層」(↓)を見る事ができました。交叉層はとてもダイナミックでテンションがあがってしまいました。六日目のインターシップはこれで終わりました。

交差層03複合

 六日目のインターシップは大きな収穫があった一日でした。それは、自分が今後何をしたいのかみえてきた事です。残りの日々も、1日も無駄にしないように、KK館の方の言葉を借りますが、「人生のお土産」にしようと思いました。(ガード)

  1. 2008/08/26(火) 00:03:32|
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奥の細道(Ⅴ)

ギター001


木を喰う虫

 一夜あけて快晴。と言っても、東北は暑くありませんよ。今年は梅雨あけも早かったが、せっかちに秋がやってきているようですね。山田上ノ台遺跡(仙台縄文の森広場)では、紫と白のリンドウがまっさかり。竪穴住居もガイダンス施設も、すっかり遺跡公園の景観になじんできています。とりわけ、ガイダンス施設2階の展望室から、高館山を背景にみる住居3棟の景観は抜群ですね。

山田上ノ台02リンドウ01 8ヶ月ぶりに山田上ノ台を訪れた目的は、もちろん土屋根住居の維持管理のチェックのためです。今夏、東北は雨が多かったそうですが、竪穴住居に雨漏りはなし。入口や煙出以外からの入水はまったくみとめられなかったとのこと。安堵しました。なお、東北の大地震でも建物にまったく影響はなし。接地型の建築が地震に強いことが証明されたわけです。全体としてみれば、3棟の竪穴住居はきわめて健全な状態にあります。ただし、微細な変化がいくつか確認されました。

床面タタキのひび割れ01 ひとつは床面のクラック。タタキ(三和土)の床面のひび割れが激しくなっているというのですが、これはむしろ自然な感じがして良いとわたしは思いましたね。コンクリートみたいな三和土は、縄文住居には不自然ですからね。できれば、この上に枯れ草とムシロを敷いてほしいものです。


カビ01


屋外の椅子01  いちばんヤバイのは、10号住居の垂木裾部分で、ごく一部ながらカビが発生していることです。富山市の北代住居ではこれがひどくなって、梁や垂木が折れてしまいました。原因は屋根土がずりおちて周堤ふきんがふくれあがり、そこに水がたまって垂木尻を湿らせてしまうから。これについては、まず防水液剤を木材に塗布し、腐朽木材の直下から燻蒸をおこなって、さらに冬に屋根上の草が枯れた段階で裾にたまった土を一部除去するよう指示しました。
 左の写真(屋外の椅子)をみていただきたいのですが、木材というのは放置しておくと、こういうふうにキノコや菌類がばんばん生えてきます。炉の煙と生活する人の熱気があれば、これを防げるのですがね。ともかく土屋根の住居は湿度が高い。これが木材の腐朽を招くわけですが、最近、わたしは屋根に土を被せる最大の要因は「防火」だと思うに至っております。植物質の屋根では、ちょっとした失火で建物がすぐに焼けてしまう。それを防ぐために屋根に土を被せた。ところが、そのために建物は腐りやすくなった。でも、人が住んでいれば、防湿は防火よりも容易であって、建物が腐るまで人はそこに住めばよい。いざ建物が腐ってしまったら、土を剥ぐのも煩わしいし、湿って腐った木材をリサイクルできるわけでもない。だから、建物をわざと焼いて壊した。そうするのが、竪穴住居を平地に戻すにはいちばん楽なんだけど、土を被っているから完全燃焼しない。おかげで、数千年たった今日でも、発掘調査すると、各地で「焼失竪穴住居跡」が発見されるというわけです。

木食虫02垂木02縦 さてさて、もうひとつ、みたことのない虫害を知らされました。3つの住居跡の一部の部材に直径1㎜程度の穴がたくさんあいているのです。その穴から木くずが落ちて、下の部材に堆積したり、周堤の内側に散乱したり、という状態。どうやら小さいちいさいケムンパスのようなイモムシが(たぶん夜中に)木材のあちこちを移動しているらしく、その移動の足跡として穴があき、その穴からトノコのような粉末が下に落ちていくようです。興味深いのはすべての部材ではなく、限られた一部の部材が集中的に被害にあっていることで、ひょっとすると、これも部材の湿度と関係があるのかもしれませんが、実態はよく分かりません。
 わたしは、こんな虫害のこと全然知らなかった。造園業者さんの薦めで、防虫剤を一部の部材に塗布すると、その材で虫喰いはなくなったそうです。だから、被害をうけている部材すべてに防虫剤を塗布するしかなさそうです。それにしても、どんな虫が木材の内側を練り歩いて、糞のような木くずを排出しているのか。24時間ビデオをまわして、正体を暴いてみたいものですね。
 どなたか、この木喰い虫についてご存じありませんか?

木食虫02垂木01



  1. 2008/08/25(月) 03:40:41|
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奥の細道(Ⅳ)

荒川高原牧場02門脇


遠野荒川高原牧場の文化的景観

 一関から高速にのり、前沢パークで昼食をとることになった。前沢は和牛で有名なところらしく、昼から豪勢にステーキかバーベQをたいらげて意気軒昂に旅を続けたいところだが、ガードくんは「夏野菜カレー」が良いといい、KK館大学の女史は「義経そば」にするという。して、おじさん二人は「そば定食」とあいなりました。
 ドライバーの館長は県内2ヶ所の重要文化的景観に大変興味をもっておられるのだが、一関はともかくとして、遠野の荒川高原には行ったことがないという。どうやら、そうとう山奥にあるらしい。
 ここでわたしがアドバイスしたひと言が致命傷となった。

   「インフォメーションで訊いてみたらいいですよ」

 館長はこの言にしたがい、結構ながいあいだインフォーメーションで案内係の女性と話をしていた。わたしは悠々と紙コップ珈琲をのみながら、テレビのオリンピックに目をやっていた。そして、再出発。

荒川10看板01荒川11木柵01
 インフォーメーションの指示は遠野に近い北上インターではなく、北寄りの花巻インターで高速を降り、早池峰(はやちね)山沿いの山道を行くのが早いというものだった。これが大きな間違いで、早池峰山沿いの山道は狭くて蛇行が激しく、地図上の距離感よりも目的地ははるかに遠かった。また、あまりの僻地であるためガソリン・スタンドがなく、いったん山下の町まで下って給油したりしたものだから、時間はどんどん経っていく。夕方の山道はガスに包まれ、はたして自分たちは日本で五番目に重要文化的景観に選定された「荒川高原牧場」に辿り着くのかどうか、不安な時間をすごした。じゃり敷きの山道に幾度となくあらわれる雉(きじ)たちが、その不安な気持ちを和らげてくれた。かつて、館長は一戸で雉が獲れたと言って、冷凍でその肉を送ってきてくれたことがある。わたしは、どうやって食べたらよいのか分からず困ってしまったのだが、蕎麦の出汁を雉肉でとるのが最高なのだそうである。だから、雉をみると、館長はなんども車を止めたり、スピードを緩めたりした。東北の山中で雉をみるのはめずらしいのだという。ともかく、雉の数は尋常でなかった。おまけに、雉どもは車や人をおそれていない。おそらく早池峰山の周辺が自然保護区になっているから、これだけの数の雉が棲息しているのだろうと館長は推測されていたが、われらが鳥取環境大学の裏山にも雉は少なからず棲んでいる。

荒川高原牧場03荒川高原牧場04牛01 
 岩手県遠野市の荒川高原牧場(約14100ヘクタール)は、日本で5番目に選定された国の重要文化的景観である。この牧場は、夏の放牧地である。旧南部藩地域では、夏に家畜を山で放牧し、冬は里の厩(マヤ)で飼育する「夏山冬里方式」を採用してきた。これが南部駒の生産に貢献し、遠野の馬事文化や曲家(マガリヤ)を生む背景の一つとなっている。また、ご存じ、柳田國男の説話集『遠野物語』(1912)とも係わりが深く、荒川高原牧場の選定は、「遠野」の文化的景観全体の保護にむけた第一段階でもあるという。
 荒川高原牧場は中世以来の長期に渡る放牧の長い歴史をもち、早池峰山を望む雄大な自然景観に包まれているのだが、なにぶんこの日はガスがたちこめており、その全貌をみることができなかった。晴天の日にきていたら、さぞかし爽快な気分になったであろう。大半の牧草地は溶岩が露出しており、おそらく地皮は薄い。いまは柵だけが残っているのか、と思って車を進めていたところ、馬と牛があらわれ、そしてまた車道を雉たちの群れが駆け抜けていった。
 帰りは遠野市街地に向かった。道路はよく、山道では一度もみなかった「荒川高原牧場」の案内板もいくつもあった。前沢のインフォメーションで余計な情報を得なければ、この道をきていたのだ。まぁ、いいか。早池峰山の麓で、たくさんの雉に接することができたのだから。

  1. 2008/08/24(日) 03:05:32|
  2. 景観|
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文化的景観としての板井原(Ⅰ)

IMG_0894.jpg


調査のはじまり
 智頭町板井原調査1日目。今日のメンバーはホカノさん、部長、ヒラです。まずは板井原の報告書を見つけようということで、智頭町役場に行きました。役場の中にある図書館で探したところ、同じものが2冊見つかったので、1冊借りさせてもらいました。その後コンビニでお昼ご飯を調達して、いざ板井原へ。
 板井原に着いて、まず一言。
   「・・・で?」
   「・・・あ。」
具体的に今日何をするか、漠然と「板井原に行く」としか考えていなかったため、着いたのはいいものの、しばらく考え込んでしまいました。やっとのことで出した今日の計画は、以下の通りです。

 ・以前板井原でゲットした地図を元に、集落を端から端まで見て歩く。
 ・地図と現状との変更箇所をチェックしたり、石垣などの工作物をチェックする。

 最初に今まで通ったことのなかった六尺道を通り、集落の入り口まで行きました。通るまで知らなかったのですが、ところどころ六尺道には杉のチップが敷かれており、踏みしめたときにふわふわして面白かったです。杉の産地の智頭ならではの道だと思いました。

IMGP5979.jpg IMG_0932.jpg  
左:六尺道 右:車道沿いのコスモス 


 それから車道を通り、逆に集落の奥のほうまでチェックです。こちらも六尺道からは見ることができなかった古い石垣を発見したりと、見る場所によって板井原のいろんな顔を見つけることができました。最後に中道を通って、一通りの建物チェックは終了。これにより、地図を作成してから無くなってしまった建物や、さらにその場所に新たに建て直されている建物など、いくつか違いを発見することができました。
 今回発見した報告書は10年前のものだったので、今後は 報告書→地図→今 の移り変わりを比較していきたいと思います。また、見る場所によって全く見え方も異なるというホカノさんのアドバイスもいただいたので、様々なところから板井原という集落を観察していきたいと思います。(ヒラ)

  1. 2008/08/23(土) 00:58:12|
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奥の細道(Ⅲ)

土砂崩れ01車窓01


一関本寺の農村景観

 平泉でタクシーの運転手に名物料理について訊ねた。蕎麦も美味しいところだが、「餅の文化圏」なのだという。餅とはなにか、と問えば、ずんだ餅とか柚餅子(ゆべし)とか。要するに、ここは伊達の藩領だったのである。少し北にあがると南部藩に変わる。とたんに、「餅」は消え失せる。
 今年6月14日早朝の「岩手・宮城内陸地震」は、まさにこの伊達藩と南部藩の境周辺で発生した。地震の規模はマグニチュード7.2、最大震度は6強(岩手県奥州市、宮城県栗原市)であったという。

土砂崩れ02
 視察の日は日本中が大雨の被害に曝されていた。とくにひどかったのは北陸と東北日本海側で、岩手・宮城の雨はそうひどいものではなかったのだが、一戸を7時半に出発したジープは予定時刻の10時になってもJR一関駅に着かなかった。車を運転するのは御所野縄文博物館の高田館長で、後部座席には前日インターンシップで一戸入りした研究室3年のガード君ともう一人。ガード君と同い年で、二戸出身の女子大生がスーツ姿で坐っていた。彼女はKK館大学の歴史学専攻で、「博物館実習」の初日なのだという。彼女以外の3人は顔見知りだが、彼女のことだけだれも知らない。「蔵をもちたい」だとか、「忍者になりたい」だとか、不思議な発言を連発する彼女に3人は圧倒され続けた。
 JR一関駅からただちに一関本寺をめざした。ところが、通行止めの道路が多く、はなから道に迷いっぱなし。こりゃ、今日の雨の災害かいな、と交通整理の方に訊ねると、「大地震の後始末」だとのこと。あちこちうろうろして、民家のような案内所を発見した。わたしたちはすでに重要文化的景観「一関本寺の農村景観」のなかにいたのであった。

骨寺11景観01ジープ3名

ギター
 本寺の語源は「骨寺」だという。鎌倉時代の『吾妻鏡』に村の四至が示されており、「陸奥国骨寺村絵図」二葉により中世村落のイメージを視覚的に想像できる。その絵図に「骨寺跡」「骨寺堂跡」の記載があり、鎌倉時代以前には「骨寺」と呼ばれる寺があったことが分かる。それは、おそらく分骨のための寺だったのではないか、と言われている。
 この地は平泉の全盛期に歴史にあらわれる。藤原清衡が蓮光という僧を中尊寺経蔵の初代別当に任命する。蓮光は、私領であった骨寺村を経蔵に寄進した。くだいて言えば、経蔵の維持費用を賄う荘園としたのである。以来、15世紀ころまで骨寺村は経蔵別当領であり続けた。二葉の絵図は、その時代の村落の姿を写したものと考えられる。その絵図と現状村落の寺社・水田・屋敷地の配置構成がよく似ているのだという。この文化的価値を高く評価した文化庁は、平泉の世界遺産登録プロジェクトに本寺地区を取りこむことを企てる。その流れは以下のとおりである。

本寺02絵図02縦01 看板02骨寺史跡 本寺02絵図02縦02

 まずは2001年4月、「平泉の文化遺産」が暫定リストに登載される。2003年6月、「平泉の文化遺産」の推薦資産に「骨寺村荘園遺跡」を追加。2005年3月、代表的な寺社や岩屋など9つの区域が国史跡「骨寺村荘園遺跡」として指定され、同年8月には、日本政府が世界遺産への推薦を決定するとともに、「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」と登録名を改称。ご存知のように、この前年(2004)、景観法の制定にともない、文化財保護法に「文化的景観」の制度が取り入れられ、2006年に「一関本寺の農村景観」が「近江八幡の水郷」とともに最初の重要文化的景観に選定された。今回の訪問で、なぜ「一関本寺の農村景観」が文化財保護法改正直後に重要文化的景観になったのか、よく理解できた。
 国や自治体の努力はみとめよう。お疲れ様でした。ただ、こうして活動の流れを振り返ってみると、いささか性急な感が否めない。「骨寺村荘園遺跡」と「一関本寺の農村景観」だけとってみても、もっともっと深い調査研究が必要だったのではないだろうか。
 願わくば、「一関本寺の農村景観」のなかに平泉の文化遺産が点在していれば、世界に類をみない高質の文化遺産と評価されていただろうが、両者は10㎞以上離れている。経蔵別当領という地位もまた、両者の関係が近しいという決定的な役割を果たしているものなのかどうか、わたしのようなぼんくらにはよく分からない。ただ、史跡を中核とする文化的景観の保存の手法を知れた点ではまことに勉強になった。

平泉と本寺の位置関係

本寺景観ゾーン


本寺01景観01民家01


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  1. 2008/08/22(金) 02:05:27|
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奥の細道(Ⅱ)

毛越寺01


平泉

 平泉は3度目。1度目は小学生のとき、両親に連れられて、夏休みの団体旅行。観光バスに酔って苦しんだにがい記憶が微かに残っている。2度めは「秋田県の近代化遺産調査」をしていたころだから、十数年前になるのか・・・
 まずは中尊寺を歩いた。なんていうか、うまく表現できないのだけれども、オリンピックで実力の出し切れないアスリートのような心境になった。「あれ、おかしいぞ、こんなもんだったのか、もっと実力があったはずなのに、どうしたことなんだ・・・」という不安な気持ちが芽生え、1時間ばかり境内を歩いたのだが、その感覚が元に戻ることがなかった。金色堂にも、以前はもっと感動したような記憶があるのだけれども、齢を重ね美意識が変わってしまったのか、触覚が動かない。こういう密教寺院の境内では、なにより超俗的な聖性を期待してしまうもので、三徳山はその期待によく応えてくれる。ところが、以前お伝えしたように、高野山では境内と門前町の世俗化に辟易した。中尊寺境内にも土産物屋やレストランが入り込み、コンクリートの建物も2棟建っていた。歴史的建造物が多いことは多いのだが、年代は江戸末以降のものが大半で、目玉と言うべき金色堂(平安末)にしても、古材はたしか東文研に保管されていたはずだ。あの輝く小堂がどれだけオーセンティックなものなのかも疑問に思わざるをえない。・・・・ユネスコの判断もやむを得ないか、というのが偽らざる心境であった。だから、写真は1枚も掲載しないでおく。

毛越寺04

毛越寺03復元図
 一方、毛通寺庭園(特別名勝)には唸ってしまった。これは凄い。十分世界遺産に値する遺跡庭園だと再認識した。調査当時の遺跡の迫力も素晴らしかったのだろうが、整備が上手い。ごく自然に洲浜をみせて水を溜め、築山の石も倒れたままにしている。なにより、復元建物が1棟もない。池の周囲には礎石がごろごろあって、その派手な復元図も看板に示されているが、実際に建物を復元するのは一切控えている。だから、庭に迫力があるのだね。正直なところ、自分がてがけた平城宮東院庭園よりも毛通寺庭園の整備のほうが優れていると思った。これは調査に携わった考古学者や建築史学者がきわめて健全な思想の持ち主であったことを雄弁に物語っている。
 毛通寺に隣接して旧観自在王院庭園(特別史跡)もある。これももちろん良い遺跡で、整備の手法も毛通寺庭園と共通しているのだが、不思議なことに、毛通寺庭園ほどの迫力を感じ取れなかった。この遺跡は世界遺産に値するのか、と問われれば、答えはグレーだ。○とも×とも言い難い。このほか柳御所跡やら無量光院跡やらあるわけだが、まだきちんとした整備ができているわけではない。3年後に再挑戦というのは早すぎるのではないか。そんな短い期間で、平泉の何が変わるというのだろうか。
 わたしたちは、すでにシーギリア・ロックも、アンコールも、ハロン湾も、オークニーも知っている。

毛越寺05




  1. 2008/08/21(木) 04:17:50|
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若桜を往く(Ⅳ)-町並み調査①-

20080820001053.jpg

 前回鬼ヶ城に登ったときとはうって変わって、朝からあいにくの雨雨雨。今日から若桜の町並み調査を開始しました。本日の参加者はホカノさん、部長、ヒラです。まず若桜町役場を訪ねて、若桜町教育委員会事務局のTさんにご挨拶。こういった機会じゃない限り入ることのないところなので、部長もヒラも緊張による硬直状態・・・。なんとか自分たちが所望している都市計画図を出していただき、最終的に3種類の計画図をいただきました。Tさん、お世話になります・ありがとうございます。
 その後早速本通りの建物の分布調査に取り掛かりました!今回は若桜橋をスタートにして、若桜駅方面に進むルートです。橋を背に左側を部長が、右側をヒラが担当して、ホカノさんはアドバイス兼サポートにまわってもらいました。昼休憩をとるまでの1時間で合計約50軒を調査しましたが、雨の降っていて傘を差しながらだったので、思うように調査を進めることができず大変でした。

20080820001244.jpg

20080820001848.jpg
 しかし祈りが通じたからか、午後からは雨が上がったので、部長は引き続き建物の分布調査を、ホカノさんは連続立面図作成のための写真撮影を、ヒラはその撮影のためのスタッフ持ちをしました。しかし、雨があがったのはうれしいものの、太陽が差してきたため、今度は蒸し暑さとの闘いとなりました。それでもお互いに黙々と作業を進めていき、若桜橋から若桜駅前の通りまでの、右側全てと左側1/3ほどの分布調査と写真撮影を終えることができました。
 今回の調査で新たに発見したことですが、若桜宿内には多くの水路が巡らされていることから「若桜清流通り」との名が付けられ、国交省の夢街道ルネサンス認定地区に選ばれているそうです。そのことが表示されている建物の前には水路に下りることのできる「イトバ」と呼ばれる段があり、足をつけられるようにとご丁寧に小さいイスと足拭きタオルまで用意してありました。前回カリヤ前で水路に足をつけて涼をとったのは、あながち間違いじゃなかったみたいですね。今回はホカノさんが涼をとっています。
 次回の調査では、本通りで残った部分を中心に進めていきたいです。また他の通りでの分布調査も進めたいです。(部長&ヒラ)

  1. 2008/08/20(水) 20:06:45|
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奥の細道(Ⅰ)

宮畑02ギター


ギターを抱いた渡り鳥

 福島でおかしな辞令を頂戴した。委嘱状の期間が「平成20年8月1日から調査・検討の終了するまで」なんだって。これまでの最短期間は北見で頂戴した「平成19年2月1日から平成19年3月31日まで」という60日未満の委嘱状であったが、福島の場合、ひょっとすると、死ぬまで専門委員なんだろうか。困ったべや・・・
 さてさて、およそ5年ぶりに宮畑遺跡を訪れた。現場では、いったん埋め戻されていた焼失住居跡(縄文中期末)を再発掘調査していたが、週末の雨で水替えがやっとの状態。宮畑にしては珍しく、炭化材と焼土が両方ほどよく残る遺構なのだが、とても観察できる状態ではなかった。

宮畑01住居跡
 それから、ご覧の記念撮影。宮畑遺跡が全国に名を知られるようになったのは、直径90㎝の柱根をもつ掘立柱建物跡(縄文晩期)が出土したからで、市民公募の「じょーもぴあ」という愛称の刻まれた直径90㎝の1本柱が記念碑のようにそびえ立っているのでありました。で、みてくださいよ。あっしはギターを肩にかついでるんです。なにせ六弦倶楽部の練習会が間近に迫ってきて、また3曲演奏しなきゃなんないわけで、ホテルでオリンピックみながら運指の練習しようて魂胆でしてね。ワイフには「もってくの辞めなさい」って言われたんですがね、車で近鉄の駅まで送ってくれた息子は「もってったらいいやん」というのでもってきたんです。これは結構効果がありますね。
 えっ、隣の部屋がうるさいだろうって。関係ない、関係ない。どの部屋もみんな相当な音量でオリンピックを視てるはずなんですが、隣の部屋のテレビ音なんか、まったく聞こえてきませんからね。わたしはミュートを効かせて弦を弾いているので、テレビの音声にギター音をかき消されてます、あきらかに。

 福島から北行。午後1時半ころ平泉についた。ギターとバッグは駅前の土産物屋さんに預けたんですが、そのお店の女将さんが「野球が9回で勝ってるよ」と教えてくれたので、わたしはお寺めぐりをとりあえずほっといて、お店の畳部屋にあがり込み、カナダ戦の9回表裏をきっちり視たのです。いや、やっぱり上原は国際試合によく似合う。上原なら、キューバが相手でも最終回をきっちりおさえてくれるでしょう。それに引き替え、打線はオーラがないね。国内リーグでやってりゃいいよ、君たちは。ノーアウト2・3塁とか、ノーアウト3塁で打点なし。これがプロの選手の仕事でありましょうか。前途多難だわ・・・

平泉01テレビ>




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  1. 2008/08/19(火) 02:42:19|
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ベスト4の壁

 どこかの出版社が耳にしたら激怒しそうな話だから秘密にしおいていただきたいのだけれど、わたしはお盆休みのあいだ、「今日こそは原稿を書き始めるぞ」と何度も決意しながら、そのたびごとに臀部から根っこが生えだしてソファをまったく動けず、ただひたすらオリンピックをみていた。そして、仕事がはかどらないまま、東北行脚の旅に出てしまいましたよ。
 おそらく多くのかたが同じ心境だと思うのだが、今回のオリンピックでとくに興味を惹かれ、興奮し感嘆した競技はバドミントンと卓球だった。この両種目における日本選手の進歩は目をみはる。女子バドミントンダブルス、女子卓球団体、男子卓球団体はベスト4の戦に残った。みごとの一言である。とくに卓球というスポーツの心理戦と運動神経については、ただただ圧倒されて見入ってしまうしかなかった。
 世界のベスト4に進んだバドミントンと卓球の3種目は、昨日までにすべて敗れ去った。メダルに手が届かなかったことを、選手もファンも悔しんでいることだろう。しかし、世界3位を争う順位決定戦まで進んだことを誇りに思ってほしい。メダルをとった、とらない、なんて、どうでもいいことです。そんなことはマスコミがやっきになって報道すればよいのであって、問題はどんな内容のゲームをしたかに尽きるのではないかな。ソファに根を張って、熾烈な戦いを見続けたわたしたちスポーツファンは、一部のメダリストよりもあなたたちの戦いに間違いなく痺れたのだから、もう堂々とばんばんに胸をはって凱旋帰国していただきたい。いまのところ、ロナウジーニョよりも、コービー・ブライアントよりも、ベスト4に残ったみなさんのほうが断然輝いています、間違いなく!

 さて、なでしこJAPANもいよいよ準決勝だ。さきほど視た「ヤベッチFC」では、監督も選手も、メダル、メダルと騒いでいたが、くりかえすけれども、メダルなんて意識しなくてもいいから。すでに十分みなさんはわたしたちを満足させています。大事なことは、いい試合をすることですよ。無欲で、いつも通りの試合を心がければ、結果は自ずとついてくるから。その結果は「負け」かもしれない。バドミントンや卓球がベスト4という大きな壁にはね返されたように、女子サッカーもまた世界3強との差をみせつけられる可能性も多分にある。でもね、もうみなさんは世界のベスト4になったんだ。ベスト4になったから、まだあと2つも試合ができる。オリンピックという晴舞台で、6回も試合できるチームは世界で4ヶ国しかないんだから。これはもうすでにメダル獲得に値しています。だから、問題はゲームの中身なんだよ。前にも書いたけど、塚田さんの柔道決勝だとか、卓球女子団体の香港戦だとか、ああいう試合をしてくれるならば、わたしはメダルの獲得なんてどうでもいい。

 だってね、歴代の日本A代表(男子)でも、わたしがいまなお最も愛しているのは「ドーハの悲劇」のチームなんですからね。あの日のことは一生忘れない。ワールドカップやオリンピックの本戦でだらしない敗戦を重ねる代表チームよりも、「ドーハの悲劇」のチームのほうがはるかに素晴らしかった。

 もう一度書きます。なでしこJAPANのみなさん。メダルを意識せず、試合に臨んでください。世界は甘くない。あなたたちは打ちのめされるかもしれない。しかし、問題は打ちのめされる、その中身です。打ちのめされてもかまわないから、わたしたちを痺れさせてください。


 
  1. 2008/08/18(月) 08:13:27|
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神保町インターンシップ(Ⅳ)

神保町の夕暮れ

P1180454.jpg

 そもそも、これは私に来た話ではなかった。この時期に4年生がインターンシップに行くのは珍しい。卒論を控え、私の場合、見寺コンペも控えている。はっきり言って、欲張りだったと思う。インターンシップとは、就職活動を来年に控えた3年生が企業とはどのようなところかを実習を通して知る為のものであり、最近では2年生の参加も少なくない。時間の余裕はなかった。しかし私は知りたかったのである。私の進みたい世界は一体どのようなもので、どのような考えで、何をしているのか。その最先端に触れてみたかったのだ。

 現在、文化財保存計画協会は東京都内全域の近代和風建築の調査を委託されており、インターンシップ最終日を控えた3日間は足立区の近代和風建築の調査をおこなった。足立区は、江戸時代の五道の1つである日光街道が南北に通っており、江戸から真直ぐ日光を結んでいた。千住・草加など23宿があったとされており、街道沿いは宿場町として栄えていた。しかしながら東京大空襲の被害により当時の様子を残す建物は少ない。現在は、日光街道跡に商店街が軒並みをそろえている。
 まずは調査の下調べである。調査前日に足立区から提供していただいた近代和風建築のリストをもとに、「グーグルマップ」を利用して所在地を調べる。また航空写真だけでなく、先週よりサービスが始まった、パソコン上で街を実際に歩いているかのような映像である「ストリートビュー」をもとに、調査対象建築をざっと探した。とはいえ、恥ずかしながら私は近代和風建築については全く知識がない。明治から昭和20年代の建築が対象といわれても全く年代識別が出来ないのだ。準備が終了した後、ミーティングで調査担当のOさんから簡単に近代和風建築について教えていただいたが、言葉では簡単そうに聞こえるが、実際は複雑であった。

IMGP2320.jpg

 調査当日、Oさん、狩人、私の3人で、北千住駅から日光街道を北上し商店街内にある近代和風建築を探した。午前中はOさんのレクチャーを受けながら調査をし、目で見ながら近代和風建築を理解するようにつとめた。やはり街道沿いはほとんど新しい建物に変わっており、対象建築はなかなか見つからない。しかし街道を数キロ歩いて商店街を抜けると、一変して住宅街がひろがる。そのなかにちらほら古そうな民家や町屋、土蔵を発見することが出来た。この日は午前中から日差しが強く、文字通り滝のような汗が皆の額から流れる。こうしているとモリさんの倉吉の看板建築調査を思い出す。あの日も地図を片手にシラミつぶしに伝建地区周辺の看板建築を探した。しかし、今回は棟数も範囲も桁違いであった。何せ足立区は広い。東西に約10キロ、南北に約10キロ広がっており、徒歩で探すのには限界がある。
 そこで、午後から狩人と私は別行動で動き、荒川を境に北側を狩人、南側を私が担当した。南側は範囲は狭いが古地図を見ると日光街道沿いに街道が発展していたことから、対象建築物が多いと睨んだ。北側は範囲は広いため、今回は環状7号線周辺までに限定して調査した。南側は古くからある店の土蔵や町屋、住宅が点在しておりそれらは路地に集中している。一歩踏み込めはノスタルジックな世界なのだが、迷路のような道に住宅地図を持って歩いていても時々現在地を失う。そうして足立区を練り歩き、気がつけば夕暮れ。本日歩き回った成果は2人合わせて99棟に達した。


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  1. 2008/08/18(月) 00:19:33|
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月太郎さんへ(Ⅵ)

 残暑お見舞い申し上げます。
 鳥取のお盆はいかがですか?
 奈良は猛暑です。
 恥ずかしながら、オリンピック蟻地獄にはまり込み、
 お盆にやっつけちゃおうと思っていた仕事が
 まったくはかどりません。
 ほんと悲しいかな、夏休みに片づけなきゃいけない仕事が
 たんとあるんですよ。
 いや、生まれてくるんじゃなかった・・・

 さて、六弦倶楽部第8回練習会、近づいてきましたね。
 わたしは土曜日(23日)はちょっと難しい状況ですが、
 日曜日(24日)の本番はもちろん「練習」に駆けつけます!
 なんたって、六弦倶楽部は、いまや、おじさんアコギストの
 オリンピックですからね。

 で、今回はマンドリンやバンジョーをもっていかなくてよいですか?
 前回は弦が錆びていて、調弦がおかしかったので、今回、どなたか
 伴奏の依頼があるなら、弦を変えようと思っております。

 じつはですね、こういう私信をブログにあげてもつまんない、とある人に
 酷評されたんです。だもんで、月太郎さんのコメントについていた
 アドレスマークをクリックしたのですが、アドレスが文字化けしてしまって、

    エカシユ。。エカシユ。。エカシユ。ェ。ェ。ェ

 と表示され、メールを送れませんでした。
 というわけで、やっぱりブログに公開とあいなりました。

 すいませんが、お返事いただければ幸いです。


  1. 2008/08/17(日) 00:15:17|
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塚田選手へ

 昨夜おこなわれた女子柔道の決勝にアドレナリンがあふれ出た。

 塚田さん、あなたの銀メダルは石井選手の金メダルよりもはるかに多くの人の胸を打ちましたよ。このオリンピックでいちばんの戦いだった。北島の2冠すら、あなたの柔道魂の前には霞んでみえるようにわたしは思った。こんな勝負をみるのは10年に1度あるかないかでしょうね。

 塚田さんが残り11秒で中国選手に逆転1本負けした瞬間、なでしこJAPANが頭に浮かんだ。塚田さんの仇は必ずなでしこがとってくれる。そう確信していました。

 なでしこJAPANは、グループリーグ最後のノールウェイ戦で生まれ変わり、中国戦ではその勢いを持続させて、五輪アウェイの地で開催国を葬りさった。中国人コーチの作ったサッカーチームだから、たいしたことないと言えばそうなのだけれども、体格ではるかに上回る中国を相手に、地鳴りのような応援を静まらせる快勝はみごとの一言ではないか。
 日本男子のA代表や23歳以下代表は、なでしこを見倣いなさい。いま、なでしこは日本人がなすべき理想的なサッカーをやっている。わたしは、以前から、日本がめざすべきチームはメキシコ代表(男子)だと主張してきた。小兵ながら、すさまじい運動量とプレスで中盤を支配し、速いパスワークから得点を重ねる。スキルも非常に高い。日本人と変わらぬ体格でありながら、これまでしばしばセレソン(ブラジル代表)にも土をつけている。
 なでしこJAPANには、メキシコ代表のような強力な1トップはいないが、2トップのふたりをあわせて全員が走り回ってルーズボールを奪い、細かいパスワークから点をとる。デフェンスラインの押し上げは早く、セットプレーのアイデアも豊富だ。おそらく、オシムはなでしこのサッカーを高く評価しているだろう。これこそが、日本人に適したサッカーではないか。
 反町はもちろん岡田でさえ、まだなでしこレベルのチームを作れていない。

 なでしこはベスト4に進んだ。バドミントンのスエマエのように、ベスト4に進んでからの戦いは苦難に満ちているだろう。
 なでしこのみなさん、負けたっていいよ。塚田さんは決勝で負けたけど、わたしたちの胸に深いふかい楔を打ち込んだ。そういう試合をしてください。あと2試合。メダルなんて、どうでもいいから。お願いだから、塚田さんのように戦ってください。


  1. 2008/08/16(土) 13:11:54|
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神保町インターンシップ(Ⅲ)

インターンシップ、後半スタート 

 2週目!!
 私たちは先週月曜日から文化財保存計画協会でインターシップをさせていただいてます。最初の一週間は加賀の某銭湯施設の模型作りと、都内M市にある茅葺民家(K家住宅)の実測調査をしました。
 さて、二週間目がスタートしたわけですが、天候は良好。前回のブログでも述べましたが、先週の週始めは大雨・雷が続き、東京に歓迎されていないのでは?と思いましたが、雨も上がり晴の日が続くと、ようやく東京も僕らを受け入れてくれたのかなと思います。とはいえ社員さんが言うには、金曜日に天候が崩れるかもしれないとのことです。インターンシップ最終日が雨だとは…、もしや今度は別れが惜しいのでしょうか。
 月曜日と火曜日は先週調査をおこなったK家住宅と、それとは別にすでに実測されたN家住宅の実測図をCAD図に起こす作業をしました。実測図をCADで作図する作業はもちろんやったことはりますが、あるとはいえ、回数が少ないことと、今回は自分で実測した図面以外のものをCADにすることで、予想以上に時間がかかってしまいました。今回、K家住宅の実測調査で指導してくださった社員のRさんの実測図面を見せていただき、改めて実測図をわかりやすく、かつ必要最低限の数値を記入しておくことを学びました。必ずしも実測をした本人がその図面をCADに起こすとは限りません。やはり常に誰もが理解しやすく、美しく、かつわかりやすい実測をするべきだとしみじみと思いました。今後は、今回学んだことを生かしたいと思います。

宿舎とその界隈

台東区南千住にある「エコノミーホテルほていや」。一泊激安!です。
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周辺は宿泊施設が目白押し! 建設ラッシュのバブル時代によって上京した出稼ぎ労働者の宿泊施設が、今は激安ホテルとして生まれ変わっています。
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バブル期のなごりでホテルの周辺には飲み屋さんがいっぱい! 朝から開いている飲み屋も、ここでは普通みたいです。エアポートさんは「高田渡が居そうなとこだなぁ」って言ってました。(狩人)
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  1. 2008/08/16(土) 00:15:21|
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オランダ戦を終えて

 ここまで沈黙をまもってきたが、五輪グループリーグの最終戦を終えたので、一言のべておきたい。

 日本代表はこれで3大会連続グループリーグ敗退となった。3大会というのは、2004アテネ五輪、2006ドイツW杯、2008北京五輪である。それ以前の2大会は、2000シドニー五輪がベスト8、2002日韓W杯がベスト16で、監督がトルシェでなかったら、さらに上位にくいこんでいた可能性もあり、あの黄金世代の全盛期を思い起こすと、近年の不振は淋しい限りだ。日本サッカーの未来は暗い。
 さて、反町監督は第2戦のナイジェリア戦敗北(グループリーグ敗退決定)後のインタビューで、「やることはすべてやった。悔いはまったくない」と吐露し、われわれを唖然とさせた。それはそれは、反町監督ご自身には悔いはないだろう。しかし、日本代表を愛するサポーターにとっては、悔やんでも悔やみきれない3試合だった。なにより初戦のアメリカ戦が、反町サッカーの限界をよく示していた。
 いまさら、だれが空振りしただの、ポジションが悪かっただの、パスが遅いだの、ラインが深いだの、そういう技術論をどうこう言っても始まらない。
 問題は選手編成に尽きる。「オーバーエイジ3名を含む23歳以下」という縛りがあるとはいえ、オリンピックに出場する代表チームは日本のサッカーを代表するプレーヤーの集合としてみえなければならないはずだ。シドニー五輪のチームはほぼそのまま日韓W杯のチームに移行したし、アテネ五輪のメンバーもいまの日本代表の中核になっている。今回のチームをみると、A代表経験のある内田、永友、安田などのディフェンダーを別として、今後A代表にあがり、南アW杯予選を勝ち抜く戦力になる選手がいるのだろうか、と首を傾げざるをえなかった。
 たとえば、トップ下に陣取った谷口という選手、あるいは香川という選手がなぜあのポジションにいるのか、わたしにはさっぱり理解できなかった。ご存じのように、香川は将来を嘱望されている十代の選手で、岡田監督によりA代表に抜擢され、親善試合で中村俊輔と交代して試合にでたりしたが、なんら光るプレーをみせることなく、今回のグループリーグでも、その印象が変わることはなかった。
 
 反町監督は、アジア地区予選突破に貢献した多くの選手を切り捨て、「ハートが強い」という基準をもって、23歳以下の選手を大きく入れ替えた。また、オーバーエイジ枠として大久保と遠藤の招聘を企てたが、いずれも失敗。結局、自らの選考基準で選んだ23歳以下の選手だけでチームを構成した。ナイジェリアやオランダという優勝候補がいるグループを勝ち抜くために、その選手編成で十分だと判断したのだから、結果としての敗北は監督の責任以外の何物でもない。いや、監督の責任というよりも、反町という人物に監督を委ね続けた日本サッカー協会の責任なのである。
 アジア地区予選の渦中にあって、反町監督の選手編成や采配を疑問視する向きは少なくなかった。しかし、最終的に日本代表(23歳以下)はライバルを上回り、本選出場を果たした。日本サッカー協会は、この功を評価し、反町監督の続投を決めた。ドイツW杯のジーコについても同様である。ジーコは1次予選からさんざん苦しみ、選手編成や采配で多大な批判をうけ続けたが、協会は最終予選を突破した功を評価し、本戦の監督として続投させた。しかしながら、ドイツW杯でも北京五輪でも、本戦グループリーグの結果は悲惨なものだった。アテネの山本監督から数えて、同じ結果を3度続けて招いたことを日本サッカー協会は素直に反省しなければならない。

  いまや、サッカーという競技において、アジア予選を勝ち抜くのは当然のことだ。Jリーグで監督経験のある程度の人材ならば、アジア予選は勝ち抜けるという認識を協会はもったほうがよいだろう。問題はアジア予選ではない。本戦のグループリーグを勝ち抜いて、日本代表チームを世界のベスト16からベスト8に導くだけの能力がある監督を見極め、招聘することが協会に課された使命ではないか。たとえ岡田武史が南アW杯地区予選を勝ち抜いたとしても、本戦の監督は必ずしも岡田でよいわけではない、という事実を歴史に学ぶ必要がある。

五輪フォーメーション
 さて、今回の選手編成が良くない、とはじめに書いた。当然、わたしならどうしたか、述べておくべきだろう。まず、オーバーエイジ3名としてトゥーリオ、中澤、今野を招集する。この3名は守備能力だけでなく、得点能力が高い。また、前線ではゲームメーカーとして広島の柏木、サイドアタッカーとしてセルティックスの水野を呼ぶ。システムは、ユーロを制したスペインに倣って、4-1-4-1。キーパーは西川。4バックは左から永友、トゥーリオ、中澤、内田のA代表で固める。1ボランチは今野。今野は常に引き気味として、トゥーリオのオーバーラップをサポートする。ハーフ陣は左から安田、本田圭、柏木、水野。1トップは李。
 どうですか、このメンバーなら南アW杯のレギュラーに成長していくと思いませんか!?

 
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  1. 2008/08/15(金) 00:31:49|
  2. サッカー|
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「和」の空間 -中世の座敷と技術-

リーフレット表

 ゴジラじゃなかった・・・、ミニラでもなくて・・・、チギラという人物が実在するのです。じつはまだ一度しかおめにかかったことがない。倉吉でおめにかかりまして、どういうわけか、ホテル松本さんと一緒にいるので訳を聞いたら同級生だという。わたしは二人に鯛焼きをご馳走したのでした。
 その、チギラさんから展示の案内メールが送られてきましたので、ここに広報させていただきます。


「和」の空間 -中世の座敷と技術-

  会場:  福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 展示室
    東求堂おこし絵図(福井工業大学図書館蔵)、朝倉記(春日神社蔵)、
    大鋸(15c復元、財団法人竹中大工道具館蔵)、
    中世の屋根材、釘ほか(国宝唐招提寺金堂建築部材、唐招提寺蔵)、
    重要文化財 手斧(草戸千軒町遺跡出土、広島県立歴史博物館蔵)、
    重要文化財 茶筅・茶杓(朝倉氏遺跡出土)、引手金具(朝倉氏遺跡出土)
    など総数101点を展示

  展示解説: 8月16日(土)、8月30日(土)14時~ チギラさん担当

  大工道具実演: 8月16日(土)14時半~(30分間程度)
     直井光男棟梁による大工道具(ヤリガンナやチョウナ)の実演。
     西岡常一棟梁とともに薬師寺(奈良)の金堂と西塔を再建された
     直井さんは、一乗谷朝倉氏遺跡の町並立体復原も携わった方です。
     また、武生市の大塩八幡宮(重要文化財)や今立町の大滝神社
     (重要文化財)、最近では福井城の御廊下橋復元など数多くの
     文化財工事に関わっていらっしゃいます。今回直井さんのご好意に
     より、展示解説の後に大工道具の実演をしていただけることに
     なりました。子供さんも参加させていただけるそうなので、夏休みの
     この機会にぜひお越しください。小学生でも体験できます。
     
      会場/福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館エントランスホール 
           福井市安波賀町4-10
      対象者/特定なし
      申込み締め切り/なし
      定員/なし

  問合せ先/福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 0776(41)2301
  備考/無料(14時からの展示解説を聞かれる方は入場券が必要です)


  1. 2008/08/14(木) 00:51:19|
  2. 講演・研究会|
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雑魚釣りの快楽(Ⅴ)

川

 お待たせしました。全国25万人を超えたザコツリストのみなさん、大好きな8月になり、いつもの川辺に戻ってきましたよ。
 今年は梅雨のあがりが早かったからか、川の水量が少なくて、水温がたぶん上がっており、岸辺のすぐ近くでクロカワムシがたくさん獲れた。いつもは餌集めで結構苦労するのだが、この日は浅瀬で石をめくれば必ず川虫の巣があり、すぐに20匹ばかりの餌が集まった。
 そうそう、そういえば、もうひとつ優れものをゲットした。ビーチサンダルがみあたらないので、旧国道53号線の「リーバー」で買おうとしたのだが、そこでサンダルの横に「ビーチシューズ」なる商品を発見。これは川釣りには最適ですね。これまで何足、ビーサンを川に流したことか。ビーチシューズは川底の石にも滑らないし、水にも流されない。余分にもう1足買っておいてもよかったぐらいだな。
 この日は、ときどき雷はなったが夕立はなし。午後3時から6時過ぎまで、川風に吹かれながら、極楽の時間を過ごしましたね。近くの岸辺で子ども連れの若夫婦がいて、奥さんのほうが声をかけてきた。お馴染みの問いかけである。

   「なに釣ってるんですか?」
   「雑魚ですよ、ハエとか、ウグイとか」
   「アユじゃないんですか?」
   「アユを釣るとね、遊漁料8,000円とられますからね」
   「アユ釣りと他の釣りで区別はつくんですか」
   「アユは餌では釣れないんですよ。こういう餌の流し釣りでは、
   アユは釣れません」

 彼女は千葉の出身で、「お嫁さんになってこちらに来たんです」という。小さなお子さんを二人釣れていて、途中から旦那さんも会話に加わった。

   「釣りデビューしたいんですよ」

と、その若夫婦は言う。もちろん、雑魚釣りを薦めたりはしない。

ビーチシューズ 道具 さかな

 わたしは「釣り」という遊びにこだわっているわけではない。ハエが釣りたいわけでもなく、ハエが食べたいわけでもない。ただ、子どものころ、夏になると毎日川遊びをしていた、その世界に一年に1度か2度戻りたいだけなのだ。そこに戻ると、懐かしい風景に包まれるだけでなく、夏の猛暑からものがれられる。大袈裟だと思われるだろうが、ふと、母の胎内に戻っていくような錯覚をおぼえる。わたしは、この、年に一度か二度の川釣りのために故郷に戻ってきたのではないか、と思うことすらある。
 おもしろいことに、兵庫にいる兄が同じことを言うのだ。定年よりも早く職場を辞めて故郷に戻り、民家を買ってリフォームし、川釣りをして暮らすんだ、と。わたしは、いつでも「辞めとけ」と兄を諭す。故郷は遠きにありて思うもので、実際はそんなに良いところじゃない、必ず幻滅するから、と。この日、釣りを終えて、兄の家に寄った。一時退院していた母を見舞うためだ。兄に釣った雑魚をみせて、「要らない?」と訊いたら、「要らない」と言われた。兄もハエが食べたいわけではないのだ。
 深夜、奈良に戻り、フライにして食べた。この日の収穫は、シラハエ4尾、チンカー4尾、ウグイ1尾、アブラハエ16尾だったのだが、俎板に並べたところ、チンカーが1尾消えていた。小さいチンカーだったので網の目をくぐって逃げたのだろう。チンカーというのはドッカーの小さいやつでしてね、因幡以外の人にはわからんでしょうが、よそではゴリというのかな? ともかく、ハゼの仲間だからなかなか美味いんです。
 夫婦でフライをつまんでいたところ、デブがあらわれた。大きなアブラハエを1尾やったらよく食べた。そして、すぐに寝てしまった。

美代子とデブ デブ01さかな デブ02寝る



  1. 2008/08/13(水) 00:01:50|
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若桜を往く(Ⅲ)-屋堂羅の棚田と建築-

八東川からみた鬼城

 町からいったん「道の駅」に戻り、かき氷(1名のみソフトクリーム)で喉を潤し、まずは八東川をめざしました。中州公園に車をとめ、みんなは川に降りていきました。ノビタさんとホカノさんは雑魚釣りの餌にする川虫を探していましたが、2匹しか捕まえられなかったようです。八東川は幅の狭い川だと思っていたのですが、中洲公園を過ぎるともうひとつ橋があり、当初の川幅は二つの橋を含むほど大きかったことが分かりました。川からみる鬼ヶ城もなかなか壮観です。

IMG_1603_1.jpg IMGP5697.jpg 浄善寺からみた棚田と杉林
【↑左:鬼ヶ城から見た屋堂羅地区、中:お寺から見た鬼ヶ城、右:屋堂羅の棚田】

浄善寺山門 民家園01 無動山永福寺山門
【↑左:浄善寺、中:三百田氏住宅と歴史民俗資料館、右:永福寺山門】

 そこから屋堂羅地区の谷筋をあがっていきました。浄善寺というお寺の境内にあがり、鬼ヶ城や近隣の棚田・杉林をみわたしました。そこからさらに谷をあがり、屋堂羅川の流れもみました。このあたりの風景は、鬼ヶ城の天守跡からもよくみえました。鬼ヶ城・城下町とともに、八東川・屋堂羅川、そして屋堂羅地区の棚田・杉林・寺社などを一体の文化的景観として評価することは決して不可能ではないと思われました。ちなみに、教授によると、浄善寺の山門は古く、18世紀後半に遡る可能性もあるそうです。
 谷の入口には民家園もあります。「県民の建物100選」に選ばれている三百田氏住宅(17世紀末)、若桜町歴史民俗資料館(旧山陰合同銀行)、無動山永福寺山門が移築されています。この敷地は、八頭校若桜分校の校舎跡でもあり、一種の史跡に歴史的建造物を移築している点を高く評価すべきでしょう。もちろんここからも鬼ヶ城はよくみえます。また、対面の森には神社があることも分かりました。屋堂羅地区は文化遺産、文化的景観の宝庫と言えそうです。

 午前中は快晴でお日様がぎらぎらと照らしましたが、夕方帰る頃になってから急に天気が崩れ、しまいには雨が降ってきました。そんな暑い中、もくもくと山登りをして、街中を散策しました。せめて、山登りの間だけでも曇っていて欲しかったです。この夏休みには何度もお世話になるので、今回の暑さを踏まえて暑さ対策を万全なものにして、調査に臨みたいです。(ヒラ)

ツタの絡む杉




  1. 2008/08/12(火) 00:36:21|
  2. 景観|
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神保町インターンシップ(Ⅱ)

「地震、雷、火事、親父」
 日常、人々の恐れるものをその順に列挙して言う語である。東京に来て早々、天候が悪くなり、大雨と雷に祟られた。その後天気は回復したが、まさか「地震」まで来るとは思わなかった。とりあえず「火事」は置いといて、「親父」だけには注意しなければ…。ちゃんと資料集めしています。

 文化財保存計画協会でインターンシップをさせていただいて、早一週間。最初の課題であった加賀の某温泉施設の復原軸組模型も期限とされた3日以内に無事完成した。同インターンシップ中の狩人と上手く作業分担が出来たためか、指導してくださったKさんより、作業ペースおよび完成度ともに良好という評価をいただいた。個人の模型ではなく会社のものであることからその責任は大きく、手を抜くなどもってのほかである。しかしながら、何をおこなうにも当然期限といものは存在する。この板挟みの緊張の中、私も狩人も黙々と作業に集中していた。
 後にKさんから「模型は美しく作ることも大切ですが、そこから問題点を導き出すことも大きな役割の一つです。ここをこうしてみたらより良くなくなるというイメージをすることも必要なことです」とインターンシップ日誌の所見欄にコメントをいただいた。これを読んだときには赤面してしまった。確かにその通りである。たとえどのような責任があったとしても模型は目的を果たす為の手段であり、それ自身が目的ではない。もちろん作品としてのクオリティーも重要だが、模型を通して何が表せるのか何が良くて何が悪いのかを試行錯誤する為の物であり、あくまでも過程なのである。会社の物だという意識があったとは言え、少なからず表面上のできばえに満足していたのは確かだった。インターンシップとは会社の補佐ではなく、一社員として業務をこなし、その問題点を発見し改善しなければならないことを感じた。

P1010439.jpg

P1010440.jpg

P1010441.jpg




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  1. 2008/08/11(月) 00:39:29|
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若桜を往く(Ⅱ)-若桜城下の町並み-

蔵通り10寺02複合

 お昼ごはんを食べた後、若桜の町並みを見学しました。最初に若桜駅前に出て、手動の機関車転車台の上にのっていた蒸気機関車を見ました。若桜駅は『鳥取県の近代化遺産』に掲載されており、若桜鉄道は登録文化財になっています。最近整備計画が進んでいるようですが、見学に入場料が必要ということで、ちょっと全員、腰が引けてしまいました。少し前まで、プロ研などでは駅の待合い室を利用していたりしたそうです。先生によると、手動の転車台は珍しいそうです。朝早く着いたときにちょうど機関車が転車台の上に乗って、3人でまわしているところを見ました。初めて見たので、「たった3人でまわせるのか!」とびっくりしました。

転車台 若桜駅 若桜駅構内整備事業

 若桜駅を後にして、寺通り/蔵通りを歩きました。その入口で、おじさんが蔵に沿う水路から柄杓の大きくなったような道具を使って水を汲み、道路に打ち水をしていました。灼熱の小路に一瞬、冷気がひろがります。家の前に水路があるお宅の玄関先には、同じような道具がおいてあることが多く、水路の水をおじいさんと同じように使う習慣があるのかなと思いました。寺側では2ヶ所ほど板塀で修景して、内側の壊れかけの建物を隠したりしていました。蔵側でも土蔵の外観の修景が進んでいました。先日、倉吉でお世話になった堂計画室のIさんは、若桜の町並み報告書を作られた方ですが、補助金制度があるにも拘わらず、土蔵の所有者が自力で土蔵を修景をしているそうです。

水をまくおじさん
 若桜宿は鬼ヶ城とともに整備された中世末の城下町に起源し、いまでもその骨組が残っていますが、建造物は明治期の度重なる火災により焼失してしまいました。それでも、明治中期以降の町家・土蔵・寺院をよく残し、江戸時代の宿場町の風情を感じ取れます。重要伝統的建造物群保存地区に選定されている倉吉でも、江戸時代の建物はほんのわずかで(江戸時代には茅葺きが多かったようです)、大半の建物は明治期のものですから、若桜の町並みが倉吉に劣るということは決してありません。
 そこから、本通りに出ました。本通りはカリヤ通りともいい、「県民の建物100選」に選ばれています。カリヤとは1.2メートルほど道路に張り出した町家の庇のことで、何度も大火の被害にあい、防火のために家を道路からセットバックさせたことに因む呼称といわれています。カリヤとは「借り屋」からきているそうです。

カリヤ通りの町家


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  1. 2008/08/10(日) 00:46:59|
  2. 景観|
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若桜を往く(Ⅰ)-鶴尾山鬼ヶ城-

二の丸西面の石垣


 8月7日(木)。午後から天候が崩れるらしいとことで、午前9時に大学集合、10前には若桜の「道の駅」に到着した。参加メンバーは教授、ノビタ&ホカノ、部長さん、ヒラさん、M君の6名です。この日の目的は、若桜鬼ヶ城の登山、旧城下町地区の町並みと周辺の棚田等の視察である。ここでは、鬼ヶ城について記す。

 若桜鬼ヶ城は、若桜宿の背後にそびえる鶴尾山(標高452m)に築城された。戦国時代16世紀から元和の一国一城令まで存続した山城の跡である。この城は山陰と山陽・上方を結ぶ交通の結節点にり、その重要性から戦国時代には山中鹿之助や毛利氏などがこの城をめぐって争った。鳥取城が秀吉によって落城する、と荒木氏が城主となり、関が原以後、山崎家盛が城主として入城した。しかし、家盛の死後、大阪の陣を経て、家治の時代に備中成羽に転封となった。一国一城令後、鳥取藩32万石の領主となった池田光政により、城郭や石垣は取り壊され、今に至っている。
 城郭の遺構は標高260~300mにあり、尾根の中腹から先端部分にかけてある「古城」地区と山頂一帯にある主郭部とに大別される。宿内からの登山口は2箇所ある。ひとつは町民体育館の裏手、もうひとつは若桜小学校の裏手で、それら2つの登山道は城山の4合目付近で合流する。

三の丸虎口手前の石垣
三の丸の石垣
 今回、上りは若桜町民体育館の裏手の登山道をつかった。登山道は整備されている。登山の難度としては鳥取城の中坂と同じぐらいで、西坂に比べればずいぶん楽だった。鶴尾山(鬼ヶ城)と久松山(鳥取城)では、植生の違いが明らかにある。鶴尾山は杉が裾野を中心にひろい範囲を占めている。一方、久松山は照葉樹と落葉広葉樹の混交林、すなわち原生林的な植生が広範囲に残っている。鶴尾山に杉林が多いのは、もちろん若桜が林業で栄えてきたからである。6合目辺りから、遺構らしきものが見えてくる。はっきり石垣と分かる遺構は山頂近くになって識別できる。そこはもう主郭のなかである。主郭には本丸、天守、二ノ丸の西面に石垣が観察できる。また、三ノ丸には2つの虎口(コグチ)が残る。主郭部分からの景観は、八東川に沿って田園風景が広がっている。それは主郭を中心とした放射状に谷間が広がっているように見えた。(ホカノ&ノビタ)

主郭からの景観

 主郭部分をぐるりと散策したのち、若桜鬼ヶ城を去った。下山後、「道の駅」に戻って昼食をとった。そこで、若桜鬼ヶ城と鳥取城の比較について意見を出し合った。鳥取城のある久松山のほうが、「文化的景観」としてみれば、高い評価をあたえうるとの教授のコメントがあった。上にも述べたように久松山は原生林が広範囲にひろがり、渓流や井戸などの水系も豊かで、そこにカスミサンショウウオなどの絶滅危惧種も残存している。しかも、中坂や西坂には数多くの石垣、郭の遺構があって、原生林的な植生と文化遺産として城跡遺構が複合化し、それだけで十分「文化的景観」を味わえる。一方、鬼ヶ城の鶴尾山の場合、水系が見当たらず、植生は林業の隆盛を繁栄して、杉の植林地がひろがり、原生林を体感できる場所がそれほど多くない。遺構の面でも、山頂付近に集中して登山道の近辺ではごくわずかに石がころがっている程度である。ここで注目されるのは、むしろ若桜の地場産業としての杉の植林地であって、それこそが鬼ヶ城の「文化的景観」の特殊性を示すものではあるけれども、山頂付近では杉の根っこが石垣を崩壊させている部分が認められるのは残念なことである。わたしは、人工的に為された植林は自然だと言えるのか、疑問に思ったが、教授からは「それは文化的景観」だと教えられた。
 若桜駅の近くに蔵通り、寺通りがあり、その名の通り、土蔵や寺が何箇所かあった。また、山に近い側の町中で堀にしては小さすぎるが、若桜鬼ヶ城の内堀かもしれない小川を発見した。護岸は古めかしい石積であったがけれども、かりに内堀とするなら、これは江戸時代以降のもので、当初はもっと幅の広い水路だったのかもしれない。この水路が内堀であるならば、外堀は八東川としか考えられない。八東川では、鮎釣りをしている人がいた。(環境デザイン学科1年 T.M)

若桜鬼ヶ城の杉林

  1. 2008/08/09(土) 00:30:19|
  2. 史跡|
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お久しぶりです、ノビタです。

20080807173536.jpg


 今回は僕がLablogを書きます。

 なんたって、鳥取城のことなんだから。

門の発掘01
 8月6日(火)。教授と某院生と僕で鳥取城跡の発掘調査現場へ向かいました。案内していただいたのは、鳥取市教育委員会文化財課のSさんとHさんです。Hさんは、以前のブログでも紹介されているように、僕の小学校の先輩です。
 まず最初は、鳥取西高校近くの「太鼓御門」の発掘調査現場を案内していただきました。
 太鼓御門は鳥取城の大手通りにある門で、名前は門の上に時を知らせる太鼓を置いたことに由来します。太鼓御門の現場では、門の礎石を据えるための根石が、断面で検出されていました。江戸時代に起こった石黒火事の後の造成土を切り込んでいます。その造成土をパックするように、凝灰岩の石敷と長方形の礎石が出土しており、石敷の正面には基壇の縁石に相当する石列もみつかっています。これは、明治以降の鳥取一中(現鳥取西高)に関わる施設の遺構と推定されます。鳥取城跡では、幕末期の姿に整備復元することを基本方針とするそうですが、幕末と明治の面を見分けるのは大変に難しいとのことです。ですから、上の凝灰岩石敷も当初は幕末のもので、それを明治以降にも継承した可能性があります。

20080806182534.jpg

 次は天球丸です。僕の卒論のテーマとなった場所で、久々の訪問でした。当時はほぼ解体されていた左翼部分も今ではほぼもとの通りに直されて勇壮な姿を取り戻しています。今回ご案内いただいたのは、天球丸で発見された石垣の奥から新たに発見された石垣でした。僕の卒論では、当時発見された下層の石垣が光政期、上層の石垣が光仲期としています。その後の調査研究で、下層が宮部期、上層が長吉期ではないかとも言われていましたが、今回発見された石垣を観察すると、隅石に長吉期に特有な加工痕がみとめられること、上層石垣と下層石垣の間に工程差をあらわす薄い土層が確認されることなどから、下層が長吉期、上層が光政期以降ではないかという新しい見解を得るに至ったようです。この件は金曜日に記者発表するそうですが、教授はトレンチの面積が小さすぎるので、結論を得るには、もう少しひろい範囲での発掘調査が必要だとコメントされていました。

20080806182706.jpg


 久々に鳥取城を訪れて大変嬉しかったです。いやあ、お城ってホントにいいもんですね。それではまた。(ノビタ)

天球丸

 *天球丸の上層と下層の年代観に関するノビタ説は、こちらの報告書に掲載されております。頒布可能です。


  1. 2008/08/08(金) 00:08:54|
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小鹿渓の風景と集落

三朝町の限界集落を訪ねて

 8月5日(火)。晴れ時々くもり、午前11時半、教授宅集合。まもなく、3台の車に分乗し、わたしたちは三朝に向かった。メンバーは教授のほか、某准教授、某助教、ホカノさん、ノビタさん、部長さん、黒帯くん、ガードくん、Mくん、そして私ヒラです。・・・意外に大人数。
 12時半、三朝町役場到着。まもなく、県教委のハマダバダ1号さんがあらわれました。まずは、役場のロビーで資料をいただき、本日訪れる小鹿渓地域の概要をハマダバダさんからご説明いただいた。そして、小鹿渓のいちばん奥に位置する集落「中津」へ出発。
 最初のチェックポイントは「神倉(かんのくら)」。倉は「坐(くら)」という意味を持っているそうで、集落の平面にそそりたつ冠巌(かんむりいわ)が神が降臨し坐す場所だというのが地名の意味だろう、といわれています。
 次のチェックポイントは「丹戸」集落。ここは名勝に指定されている「小鹿渓」の入口にある集落です。鉄板に覆われていますが、茅葺き民家が数棟残っています。冬には2mも雪が積もるそうで、豪雪地帯であるからでしょうか、軒を高くしています。厳密にいうと、小壁を長くとって軒を高くしているのです。民家の戸数は多くはありませんが、あちこちで作業風景がみられ、この集落が持つ生活感が伝わってきました。

20080806025059.jpg
 そして目的地、「中津」集落に到着。ここは平家の落人集落だとの伝承があり、実際、「安徳天皇陵」(←)があるのには驚きました。ちなみに近くの俵原という集落は源氏の集落だとの伝説もあり、中津と俵原では婚姻を禁じてきたそうです。ハマダバダさんのお話によると、中津は昭和30年に34世帯、人口172人という記録が残っており、平成2年に9世帯、人口21人まで減ってしまったようですが、現在ではさらに過疎が進み、おそらく5・6世帯のみとのことです。「65歳以上の人口が過半数を占める」という定義に従うならば、中津は典型的な「限界集落」とみなせるでしょう。集落では、トタンと茅がパッチワーク状態になった屋根の民家もあれば、骨組を露出させた民家、崩壊したも民家などがあり、さらにはすでに民家は消えて雑草が生い茂る旧宅地がひろい範囲にひろがっています。

  「住むことこそが家の一番の保存方法。」

ふとそんな言葉を思い出しました。
 さて、集落をぞろぞろと散策し、最後に三朝から来ていた小学生たちのキャンプ地(旧小学校分校グラウンド)の脇道の草をかき分けて入ったところで木製の鳥居を発見しました。奥に拝殿がみえます。正面からみる風情はなかなかのものでした。そこで、ガードくんが鈴をガラガラと鳴らしてなにやらお祈りしたりして・・・

・・・ところが、裏へまわってビックリ。ほ、本殿はいずこ?!
なっ、なんと拝殿の裏には、本殿の礎石 の・み ありました。ご本殿はどこに行ってしまったのでしょうか??

中津写真【左:冠巌、右上:パッチワーク屋根、右下:消えた本殿】

 教授は、これまで本殿のなくなった神社をみたことがない、と驚嘆されていました。集落の人びとにとって、神社の本殿は心のよりどころですから、それがない、ということの意味は計り知れないでしょうね。この一ヶ所の風景がなにもかもを凝縮させているようにみえたのは、わたしだけでしょうか。(ヒラ)


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  1. 2008/08/07(木) 00:15:25|
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神保町インターンシップ(Ⅰ)

 わたくし、狩人は8月4日からインターンシップで東京の文化財保存計画協会に来ております。Mr.エアポートさんと一緒のインターンシップです。2日の夜バスに乗って鳥取を出発し、3日の朝に東京に着きました。以後、私たちは南千住のホテルに滞在しています。ホテルマンのお話によりますと、バブル時代の建設ラッシュによって上京していた労働者の方がたの宿場町だったところらしいです。たしかに周りには同じようなホテルが多く、飲み屋街もあります。東京というイメージとは違い、ガラッとしていて、鳥取の銀座商店街のような趣きがあります。

 バブル時代の町のその後はどうなったのかって?
 正直、少し怖く感じています。ただこの宿にした理由は、一泊の値段が3000円以下で激安だったからです。このあたりの宿を利用する人は、国内外から来た観光客や長期主張の人などで、宿にも町にも外国の方が多いです。ともかく安く泊まれるので観光、買い物等にお金をかけられるわけです。宿泊だけが目的の人にはお勧めです。以下、これまでの活動記録です。

8月4日(月)~5日(火)  インターンシップ開始
 文化財保存計画協会は神保町の岩波書店ビル13階にオフィスを置いています。県庁や市役所のようなオフィスをイメージしていたのですが、実際には「研究室」のような雰囲気でして、とても和みやすい場所だと感じ入りました。
 今回わたしたちは、某温泉旅館の復元にあたっての1/10の構造模型作り、民家の実測調査と取りまとめをしていくということで、建造物第1室の部署のみなさまにお世話になることになりました。今週ははじめの3日間、模型作りをさせていただくことになりました。
 初日(4日)は、作成に必要な模型材料をリストアップし、購入。しかし、思ったよりも、リスト作りに時間がかかり、模型を作りはじめるころには午後3時ごろになっていました。そこから頑張って、なんとか敷地模型の制作を終えました。そうそう、昼休憩には研究室のOBチャックさんとご飯に行き、いろいろと会社の話を聞き、また積もる話をしました。
 2日目(5日)は模型制作の続きをしました。社内のみなさんに結構誉めていただき、本当にうれしかったです。エアポートさんも一緒なので順調に進んでおります。2日めのお昼には、担当部署の方に食事を誘っていただき、このあたりの大学の話、安土城・見寺の話、会社のことなどいろいろと教えてくださいました。勤務時間が終わると、会社の皆さんが歓迎会を開いていただきました。仕事の話以外にも、政治、ゴルフ、大晦日のテレなど多ジャンルの話で盛り上がっていました。この歓迎会の雰囲気もどこかゼミの打ち上げに近いものを感じるような気がしました。(狩人)



  1. 2008/08/06(水) 10:41:14|
  2. 研究室|
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風鈴(Ⅱ)

風鈴01仮吊り01横

 いましがた、佐治の実家に風鈴を届けてきた。
 近江の旅でみつけたのである。彦根に「京橋夢キャッスル・ロード」という商店街があり、そこの蝋燭屋さんで売っていた。キャッスル・ロードは「お城通り」ということで、たぶん昔の大手ではないかと思えるのだが、ただそれはイメージだけで、実際は間違っているかもしれない。しかし、「大手」だと思わせる道幅と町並みを誇示している。ただし、文化財に関わる者ならば、この商店街の道幅と町並みが城下町時代のものではないことはひと目で見抜ける。だれがどうみても、これは「作られた城下の町並み」だ。たしか、国交省系の町並み整備でおこなわれた復元もどきの開発で、文化庁の建造物関係者は激怒したとか、しないとか・・・
 中国雲南の麗江(世界文化遺産)ほど悲惨ではないが、木造の歴史的建造物はどこに行ってしまったの、と少しく悲しい気分になることはなる。しかし、やはり麗江と同じように、この城下まがいの商店街は客足で賑わっている。すでに、間違いなく、彦根の「顔」ではないか。

夢京橋キャッスルロード
夢京橋キャッスルロードの町家
 お茶したお店のご主人によると、キャッスル・ロードにはさらに2店、風鈴を売る店があるというが、この商店街では火曜日を定休日とするお店が多く、他の2店は閉まっていた。だから、蝋燭屋さんで風鈴を買った。値は安くないだけあって、良い音がする。この差はなんだろう。鳥取という山陰の田舎町では、すでに土曜夜市にでても風鈴が買えないのである。風鈴を売らない理由を、店主は「空調が普及したから」と説いた。それが彦根では、あっさり買えてしまう。

 風流の意識の差とでもいうべきか。山陰という、日本のなかでは夏に比較的涼しい地にありながら、空調に頼り、風鈴を捨ててしまった人たちと、琵琶湖のほとりにあって、なお風鈴の音を楽しもうとする人たち。ふと、京都ではどうなのだろう、と思った。あの死ぬほど暑い京の町衆は、すでに風鈴を捨ててしまったのかどうか。坪庭に接する縁に、あれほど似合う夏の風物もないだろう。
 そういえば、「風鈴」のブログ記事を読んで、「風鈴なら百均にありますよ、たしか200円でした」と教えてくれた鳥取人がいた。・・・無粋の極みではありませんかね。

 佐治の家では、まず室内の鴨居に風鈴を仮吊りした。いい雰囲気だ。しかし、鐘の音は聞こえない。そこで、ばぁちゃんは扇風機をまわした。いい音がする。外は暗くなっていたが、そのあと軒先に風鈴を吊した。
 佐治では、清涼な風鈴の音が聞こえる。

風鈴03複合


  1. 2008/08/06(水) 00:00:43|
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オープンキャンパス「茶室」公開

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 真夏のオープンキャンパス、全日程が終わりました。例年、2日目の来場者数は1日目より少ないといわれています。今年は、加えて3日の日曜日に鳥大・鳥短とオープンキャンパと競合してしまい、集客数はボチボチといったところでしょうか。事実、「鳥大のオープンキャンパスを見てから、環境大学に来ましたと」いう生徒さんがいました。
 そんな開催2日目、浅川研究室では恒例の「廃材でつくる茶室」を公開しました。茶室公開スタッフは、ホカノに部長さん、途中に茶道部現部長さんに応援に来てもらいました。今まで公開してきたなかでは最小人数のスタッフで迎えていましたが、いつもどおり、お抹茶・お菓子を用意、じつは昨年に続き、かき氷も振舞おうと準備していたのですが、製氷に失敗してしまい、隠れメニューで終わってしまい残念でした。

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 さて、オーキャンの案内資料では「廃材茶室」と記されているだけでした。茶室公開スタッフの人数の関係で呼び込みもできないし、放置しておけば来場者が見込めないだろうと思いたち、自前の案内板を用意し、キャンパスガイドスタッフに「たくさんの方を案内してきてください」とお願いました。そのおかげもあり、キャンパスのいちばん端にあたる茶室「盃彩亭」まで足を運んでいただけました。来場者の中には、OBの「とまとさん」も含まれています。しかも、差し入れに炭酸飲料「こどもののみもの」をいただきました。ご足労、ご協力いただいた皆様に感謝です。

 さて、末筆になりましたが、今回の公開に際して、掛け軸を新調しました。前作がすでに朽ち果ててしまったのです。新しい掛け軸の制作は書道部のナオキ君に依頼しました。「森羅万象」と雀を描いてくれました。オープンキャンパスの前日には、表装までしてくれました。多謝! 多謝!! です。(ホカノ)

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  1. 2008/08/05(火) 00:31:47|
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