遊子水荷浦: 段畑の歴史 麓で出会った方から、段畑の歴史を教えていただきました。段畑が開拓されたのは、伊達家文書にみえる「山勝手次第開くべし」に従うならば、約300~350年前からと推定されます。それまではマイワシ漁が盛んだったのですが、しばらくして、サツマイモなどの栽培が始まりました。その後、不漁期にともなって段畑開墾が進み、1850年頃までには斜面のほとんどが畑地となったのです。近代になって一旦豊漁期を迎えますが、再び不漁期となり、養蚕が開始され、耕地の半ばが桑畑へと姿を変えました。しかし、恐慌により繭価が暴落、そして戦争に突入し、サツマイモの増産政策(国策)により再び耕作が主流となったのです。ところが、1950年以降、サツマイモから早堀りのジャガイモの栽培に変わり、現在に至るそうです。
1999年、段畑を文化財として保護しようという話がもちあがったそうです。しかし、「段畑や文化財だけじゃ飯は食えねぇんだ!」と住民に猛反対され、話は立ち消えになってしまいました。ところが、年々段畑の耕作放棄が進み、「段畑を守っていかなくては」という意識が芽生え始め、2002年から文化財にしようという取り組みが再開したとのことです。段畑を保護する上で一番大切なことは、住民がその価値を認識することであるとして、当時の市長が住民のお宅を一軒一軒訪問し、価値を理解していただけるよう話をしてまわったというエピソードを教えていただきました。そのとき、「生活の安定」についても深く議論され、この地で収穫されたジャガイモは業者がすべて高額で購入することが決まりました。これで、保存にブレーキをかけていた不安が解消されたのです。
遊子水荷浦の段畑は、およそ幅110m、高さ80mの範囲に残存しており、その斜度は46°という急勾配です。斜面は南向きにひろがっており、日当たりの良さによって夜になっても土の中が暖かいため、良質のジャガイモが収穫されます。さらに海から吹く潮風が、みかんと同様にイモを甘くする作用をもたらしているとのこと。また、土がさらさらで水捌けは良いのですが、その分土地はやや痩せ気味だそうです。このため、ジャガイモ以外に栄養を取られないよう、ジャガイモの栽培時期以外は何も植えず、畑を休ませて次の栽培期に備えているとのことでした。だから、イモの栽培をしない今は、ほとんどの畑に何も植わってない状態なのです。こういうこだわりによって段畑のジャガイモはブランド化されたのです。

(左)段畑と養殖場 (中)湾を見渡せる「魚見の丘」。養殖業を営む上で、死んでいった貝や魚などを供養するために設けられた慰霊塔。 (右)急斜面にできた溝。ここを荷物を持って歩いた。その溝の一部にレールが走っている。
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- 2008/09/19(金) 00:49:19|
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