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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

3つの復元模型制作にむけて

プレゼン01門脇01

 30日(木)のプロジェクト研究は、再び加藤家住宅を会場としましたが、1年はロフトで限界集落に関わる座談会の録画を視聴、2年生は3年生がスタートさせた3つの復元模型に関わるプレゼンを聞きました。以下の文章を読むと、模型制作に燃える3年生とそれにしらけた反応を示す2年生のずれがよく分かります。復元建物の模型制作については、2年対象プロジェクト研究4(専門科目)「建築と都市の歴史」応用編のシラバスに明記しており、それを承知の上で、わたしを1位指名したのですから、教師としては当然のカリキュラムと考えていますが、正直、受講する2年生がこれだけ冷めた反応を示すとは思いませんでしたね。なんでわたしを1位指名したんだろう?? ただ、2年のS君が最後に書いているように、模型制作を続けるなかでやる気が生まれてくればよかろうかと思う次第です。昨年の後期は、2年がとてもレベルの高い模型を制作したので、今年も負けないで欲しいな。

 ともかく、チェスト! 
 自分を超えていこう!!

模型制作、本格的に始動! 
 本日はプロジェクト研究2&4で2年生に協力を求めるため発表をしました。トップはわたし(ガード)。岩手県一戸町の御所野縄文博物館でのインターンシップ報告とこれから取り組む野田遺跡の焼失住居跡(奈良時代後半)の概要説明です。次に黒帯君。北海道常呂町でのインターンシップ報告と常呂チャシ遺跡9号住居跡(オホーツク文化)の概要説明です。最後に.エアポートさんのパワーポイントデータを使って教授とアシガル君が発表しました。エアポートさんは、見寺本堂復元コンペの〆切日で、自ら滋賀県立大学まで作品をもっていくので、プレゼンできなかったのです。岩手や北海道の復元建物と違い、信長創建の寺院の複雑さに2年生は目をシロクロさせていました。
 わたし個人の発表について反省すると、まだ私が遺跡や遺構をよく理解できていなかったことで、2年生に不安を与えてしまったようです。発表を聞いた2年生から「難しそう」「不安だ」といった嘆きの声があがりました。
 しかし、そこは我が教授! そんな2年生にむかって一言。「チェスト! 自分を超えていきたいと思わないか!!」。 この一言と教授の熱い言葉で2年生もやる気をだしてくれたようにみえたのですが・・・。来週からはアシガル君の熱い指導のもとに、2年生も見寺本堂の模型制作に取り組みます。その熱さに乗っかって、私と黒帯君も本格的始動していきたいです。(3年ガード)
 
  チェスト!!

プレゼン03おおたび01


正直、あまり乗り気ではないですが・・・
 今回は、加藤家住宅にて3年生のインターンシップと安土城ソウ見寺の復元についてのプレゼンを聞きました。インターンシップについては2人の先輩が話をしてくれました。はじめは、岩手県二戸郡一戸町にある御所野縄文博物館。縄文時代の文化を体験したり、いろいろな建物を見学したそうです。そして、その経験をいかして野田遺跡の竪穴建物の復元に挑戦するそうです。奈良時代後半に作られたとされる竪穴建物です。柱の配置により屋根の形は2種類、予想されるそうです。蒸し焼きの状態で倒壊した建物跡で、垂木などの部材の位置がよくわかるそうです。
 つぎに、北海道北見市常呂町にあるトコロチャシ跡遺跡について聞きました。トコロチャシ跡遺跡のオホーツク文化住居は平面が5角形か6角形をしています。北海道には稲作が入ってこなくて弥生時代・古墳時代が存在せず、続縄文という時代が続いていました。その時代の終わりころから、オホーツク海の向こうから海獣狩猟民がやってきて、アイヌの祖先にあたる人びとと戦いながら文化を融合させていったそうです。海で船上生活を続けた人たちがオホーツク海の沿岸域に定住化した結果、その人たちの住居は、船の形に似た5角形・6角形になったのだろうと教授は推定されていました。
 最後に、安土城見寺本堂復元の話を聞きました。これは復元設計コンペの提出作品で、申請者である4年生は自ら提出に向かい、代わりに先生が説明をしてくださいました。この建築は、織田信長が作ったお寺です。本堂の1階に仏を祭り、それより高い位置に、「盆山」(信長のご神体)をおく2階を増築したのだそうです。織田信長は、自分の分身である盆山を仏よりも高い位置におくことで、自分が中世の神仏の上にあること示そうとしたとのことですが、そこまでして権力を誇示したいものかと思いました。
 すべての話が終わって、今後は3つの建物の模型作りを手伝うということになりました。正直、あまり乗り気ではないですが、やっているうちに楽しくなればいいと思っています。(環境デザイン2年S.T)

 それでは最後に、チェスト!

プレゼン02聴衆01


  1. 2008/10/31(金) 02:04:23|
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元気をだして(Ⅲ)-第9回六弦倶楽部練習会

12マダム03複合


ヨークの卒業式

 ソロの2曲めは今井美樹の「プライド」と竹内まりやの「元気をだして」のメドレー。演奏の前に、「この会場にいらっしゃるすべての女性に捧げます」という大見得を切りました。
 ことの発端は、以前にお知らせしたように、カラオケなんです。ある女性が歌った「プライド」にまわりのおじさんたちがジ~ンときちゃって、要するに、やられちゃって、こんな会話が交わされたのです。

  「あのね、8月末に大山の別荘のウッドデッキでギターの会があるんだけど、そこで『プライド』歌ってくれませんか。わたし、ギターで伴奏しますから」
  「えっ、そんな、とんでもない、人に聴かせられるようなもんじゃありませんから」
  「なにいってんの、いま、みんなうっとり聴いてたじゃありませんか」
  「えっ、でも、大山、遠いですね・・・わたし車に酔うんですよぉ」
  「自分の車、運転したらいいでしょ」
  「そうですね・・・でも、8月末は近すぎますよ、その次の会はいつですか」
  「10月」
  「会場は?」
  「倉吉の近くかな」
  「あっ、それじゃ、そっちにしていただけませんか。心の準備も必要だし、練習しないと恥ずかしいし・・・」

 ここだけの話なんですがね、薬研堀の鮎殿なんですよ、この歌のうまい人。ところがですね、わたしが夏のロング・バケーションを過ごして鳥取に戻ってきたら、彼女はドロンしてましてね。また、お茶屋辞めちゃったの・・・これで2度目だぞい・・・鮎殿は再び忍びの世界に戻っていったんですよ。になっちゃった。おやじたちのショックたるや、いかほどのものか・・・遠くは福島、岩手から東京にまでファンがおりましてね、衝撃は全国にひろがりつつあります。

09元気をだして01圧縮


2.メドレー: プライド ~ 元気をだして
 というわけで、苦心して「プライド」の伴奏アレンジを考え始めていたわたしは、歌手を失ってしまいました。大役を果たせる代わりのボーカルなんて、そう簡単にみつかりませんからねぇ・・・仕方がないんで、「プライド」を独奏用にアレンジし直すことにしました。調弦はまたしてもダブルドロップDです。ちょうどアレックス・デ・グラッシを聴いていたころで、タッピング・ハーモニクスを駆使しようと決めてたんですが、「ムーンタン」の経験からタッピング・ハーモニクスにはダブルドロップDが最適であると判断した次第です。理由は、下の4弦(DGBD)がGコード、上の3弦(DAD)がDコードに対応しているから。但し、全弦半音下げの2カポにしています。
 ここは難しいところですね。最初は12フレットの小型ギターで練習していたんです。12フレットのほうが、タッピング・ハーモニクスとパーカッシブ奏法を複合化しやすいし、弦のテンションもちょうどいい。ところが、弦を新品に張り替えたら調弦が不安定になってしまった。そこで14フレットのモーリスS92に変えて2カポにしたんですが、テンションがきつく、いったん全弦1音下げたところ、弾きやすくはなったんだけど、ハーモニクスが出にくくなってしまった。結果として、全弦半音下げの2カポに着地しました。余談ながら、プロのアコギストがしばしば2~3カポにする理由がわたしにはよく分からなかったのですが、今回の経験に照らすと、タッピング・ハーモニクスとパーカッシブ奏法を複合化しやすいからだと思えてなりません。
 「プライド」という曲はベースラインのクリシェと代理コードとして使われているA♭7が鍵を握ってます。キーGとした場合、A♭7コード(A♭CE♭G)をサブドミナント=Cコード(CEG)の代理としているわけです。

09元気をだして03タッピング その後、「プライド」だけじゃ単純だから、1曲メドレーでくっつけようと考えていたところ、なにかの拍子に竹内まりやの「元気をだして」が頭に浮かんだ。竹内まりやは、ご存知のように、出雲大社門前の旅館「竹野屋」の娘さんでして、わたしが京都の大学生だったころ、彼女は慶応に在学する女子大生シンガーソングライターで、すでに大スターでした。当時のヒット曲は「セプテンバー」と「不思議なピーチパイ」。その後、1982年の5月に山下達郎と結婚するんですが、同年8月29日にわたしも結婚しまして、そのまま北京に留学。ワイフは5日間だけ新婚旅行で北京生活を付きあってくれたんですが、すぐに帰国してしまいまして、わたしゃ涙にくれた。帰国後しばらくして、ワイフは竹内まりやの『Portrait』というアルバムを録音して送ってきてくれましてね。もう毎日、何回も聴いてました。日本とアメリカで離ればなれになった恋人が書いた手紙を歌にした「スペシャル・デリヴァリー」という曲の「ず~っと約束を破らな~い二人でいようね~」というフレーズが心に沁みて、新婚さんなのにひとりぼっちだった日々を励ましてくれました。そうそう、「ナタリー」という英語の曲も良かったな。バックにセンチメンタル・シティ・ロマンスを従えたカントリー風のポップスです。シティ・ロマンスのフラマンとコーラスが抜群に効いてます。

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  1. 2008/10/30(木) 00:03:12|
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元気をだして(Ⅱ)-第9回六弦倶楽部練習会

21第9回練習会(吉田撮影)02


ボルサリーノ

 さて、今回のわたしのソロ演奏曲は、以下の3曲です。

   1.ボルサリーノ Borsalino (インストルメンタル)
   2.メドレー: プライド~元気をだして(インストルメンタル)
   3.レッティン・ゴー Lettin' Go(インストルメンタル)

 今日は、ボルサリーノについて説明します。

1.ボルサリーノ Borsalino
 前2回はハワイアン・スラッキーをトップにもってきました。スラッキーギターは易しいとはいえないけれども、難しいというほどでもなく、なにより和声やメロディやリズムが新鮮で、とても楽しめました。おそらくケオラ・ビーマーの教則本が初心者向けだったのでしょう、3日ばかり練習すれば、人前で演奏できるレベルにはなるから、今回もその程度のインストをトップにもってこようと決めていて、なんとなく、チェット・アトキンスの「ボルサリーノ」が頭に浮かんだのです。
 チェット・アトキンスはすでに「わたしの好きな3大ギタリスト」の殿堂入りを果たしております(残りの2名については不確定)。ですから、もちろん、ビデオもDVDもCDも楽譜も結構たくさんもっています。たしかどこかの映像で「ボルサリーノ」がテーマソングのように使われる演奏をみた記憶があるのですが、思い出せない。なにより、わたしたちを魅了したのはトミー・エマニュエルとの共作『the day finger pickers took over the world』(1997)のトップにでてくる「ボルサリーノ」ですよね。天気の良い日に、あのアルバムを聴きながら運転すると、ほんと気分がよくなる。

08ボルサリーノ01立位置02顔02圧縮

 で、「ボルサリーノ」を聴いている限り、そんなに難しくはないだろう、という先入観を抱いてしまい、これが致命傷になりました。まずタブ譜がない。ネットを荒らしまわって、きわめて簡略的なタブ譜(http://www.allguitartabs.com/t/186700/tommy-emmanuel--borsalino--tab)を発見しました。
 でも、このタブにはまいった。間違いだらけでして、「ないほうがマシだ」とまでは言えないけれども、ほんと解読に苦労しました。なんとか正式なタブ譜を入手したいと探し回り、果てにはプー横丁にまで探してもらったんですが、結局入手出来ず仕舞い。3日間ぐらい、もう全然弾けなくて、あとはユーチューブを必死で目コピーして、練習会間際の10日間は「ボルサリーノ」の訓練に圧倒的に時間を費やしてしまい、それがまたしても「レッティン・ゴー」の不出来をもたらしたといえなくもありません。
 口では表現しにくいので、ともかく挑戦してみてください。ほんと、やっかいな曲です。トミー・エマニュエルの演奏はユーチューブとDVDの両方で確認しましたが、ちょっと上手すぎて参考にしにくいですね(やっぱり大柄で手の平の大きな人は有利だな)。むしろ、素人さんたちのコピー映像が大変役にたちました。

08ボルサリーノ01立位置02顔01圧縮


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  1. 2008/10/29(水) 02:00:58|
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元気をだして(Ⅰ)-第9回六弦倶楽部練習会

20第9回練習会(吉田撮影)01


高田渡三部作 序章

 25日(土)の卒業研究中間報告会で学生はクタクタヘトヘトになってしまったらしいけれども、指導するこちらだってヘトヘトでして、とくに今回はピヴォが諸悪の根源でしたね。ふだん、ちゃんと活動していないから三徹なんてことになるんですよ。わたしは三徹しろっなんて言っていない。自業自得なんだから。
 まぁ、とにかく土曜日はへとへとでして、打ち上げもせずに帰宅したわたしはただちに「ボルサリーノ」と「Jポップ・メドレー」の練習を開始し、夕方の八時過ぎからちょいとそこまで出かけまして、「飛鳥」で軽く一杯ひっかけ、家に戻って2時間ばかり仮眠してから、「レッティン・ゴー」の練習に没頭しようと思っていたのです。
 ところが、目覚めたら朝の4時。あ~~ぁ、生まれてくるんじゃなかった。「レッティン・ゴー」なんて難しい曲は何度も何度も弾き込なきゃ駄目なんです。が、朝の4時ですからね・・・おまけに、フラット・マンドリンの弦を替えようしたところ、弦の端部を覆う金具をスライドさせることができなくて、右往左往。じつは、わたくし、フラマンの弦を替えるの初めてでして、完全なパニック状態に陥ったのです。さんざん試行錯誤したあげくギブアップ。楽器屋さんに任せるしかないと判断し、朝からしばらく仮眠をとりましてですね、昼前に「駅前の楽器屋さん」に直行! 楽器を預けて帰宅し、車に荷物を積み込んだのであります。そして、カレーライスと紅茶の昼食をとって「駅前の楽器屋さん」に戻ると、金ピカに輝く弦が8本張り終えてありました。代金800円。安いものだ。
 というわけで、フラマンの問題は解決したのですが、「レッティン・ゴー」の弾き込みが足りなかったのはヘルプレスでして、車で聴く『ハウザーセッション』とのレベル差が縮まらない現実を感じながら、車を西行させたのでありました。

01クロバデール圧縮

 午後3時過ぎには今回の会場、東郷湖西南畔のレストラン&雑貨屋さん「クロバデール」に到着。珈琲を飲んでくつろいでいたら、代表と月太郎さんが到着。まもなくセッツァンもあらわれて、4時過ぎから準備が始まりました。今回は倉吉在住のDr.ミフに幹事をお願いしておりまして、ウディなレストランがミニ・コンサート会場に早変わりしました。参加メンバーは9組10名。常連ではヒロさんが欠席でしたが、まぁ、いつものメンバーです。ほかに主婦と坊やが4組。学生1名。ゲスト・ドラマーとその友達さんもいらしたから、総勢18名ですね。

07ギター3本圧縮

 わたしはあみだクジで7番があたりましたが、マイク・セッティングとの関係で、歌物を最初にやることになり、マコトさんとチョトロク代表がオリジナル・ソングを披露しました。ついで、月太郎さんの登場です。月太郎さんからは、10月10日に以下のメールを頂戴しておりました。

  (略)練習会ももう少しですが、又マンドリンとバンジョーをお願いします。
  「夕暮れ」「生活の柄」の二曲をやりたいのですが、キーは「夕暮れ」がC、
  「生活の柄」がGでやります。それと今回、門永さんと同じ境港ということで
  先日某所で練習していたのですが、スライドギターをあわせてみました。
  なかなかいい感じでしたので一緒にお願いします。(略)   月太郎

 というわけで、わたしと月太郎さんは4時過ぎにさっそく音合わせをしたんです。もう一発でOKですね。なんの問題もなし。「生活の柄」のコーラスもどんぴしゃで決まりましたよ。本番はこれに門永さんが加わりました。高田漣ばりのスライドギターを期待しておったんですが、なんかPAの調子が悪かったみたいで、もったいなかったな。

04夕暮れ01トリオ01圧縮
 

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  1. 2008/10/28(火) 00:27:33|
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2008年度卒業研究中間報告会

IMG_3395.jpg


 25日(土)、2008年度卒業研究中間報告会がおこなわれました。
 ASALABは午前に「論文」、午後に「制作」が発表。お昼は「そば切りたかや」で一息をつき、ピヴォくんは「辛味大根おろしそば」で午後からの発表に向け気合を入れた。
 今年度卒業予定者の研究題目は以下のとおり(学籍番号順)。

1052007 今城 愛 (論文)

 ・文化的景観としての中世山城と城下の町並み 
    -若桜鬼ヶ城とその周辺環境を中心に-
  Medieval Castle Sites and Castle Town's Townscape as Cultural
  Landscape -Mainly about Wakasa Onigajo Castle and its
  Surrounding Environment-

1052009 岡垣 頼和 (論文+制作)

 ・中世城郭関係遺構の解釈と復元 
   - 安土城見寺本堂の設計を通して-
  Interpretation and Reconstruction of Architectural Ruins Excavated
  in Medieval Castle Sites -Through the Design of Soukenji-temple
  Main Hall in Azuchijyo-castle-

1052018 木村 歩 (論文)

 ・限界集落と文化的景観 
   -智頭町板井原と三朝町中津のケーススタディ-
  Marginal hamlets and their Cultural landscape ―Case studies on
  Two villages, Itaibara and Nakatsu―

1052045 福井 浩人 (制作)

・ 続・加藤家住宅修復プロジェクト -縁の修復と裏門の復元-
  Reconstruction of corridor’s handrail and the back gate by self-build
  and zero-emission in the Kato Family's Residence

 以下、中間発表についての4年生のコメント(発表順)
   

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  1. 2008/10/27(月) 00:23:13|
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「エコフェスタ in 2008」で講演!

 先日、訪問者があり、なんと、来年11月のシンポジウムへの出演要請を受けました。「建築考古学」関係の催しなので、本家本元の楊鴻先生を呼べないものか、と打診したんですが、難しいみたいですね・・・
 それはさておき、今年の11月も講演が一つあります。いつもお世話になっているリファーレンいなばさんからの依頼でして、お断りするわけにはいきませんね。というわけで、エコフェスタ2008「環境講演会」の講師を務めることになりました。
 日程・会場は以下のとおりです。ご来場をお待ち申し上げます!

    エコフェスタ in 2008 環境講演会 

  日時: 11月16日(日) 11時~12時
  会場: リファーレンいなば 3階ステージ
  講師: 浅川滋男(鳥取環境大学環境デザイン学科教授)
  演題:  「廃材による家づくり -環境大生の挑戦ー」


エコフェスタ2008


  1. 2008/10/26(日) 00:26:36|
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第4回「限界集落」アンソロポロジー

大根01


「幻の大根」を復元!
 今日(23日)は、八頭郡智頭町の板井原という集落に行きました。大学からその集落まで、40~50分くらいかかりました。智頭宿から板井原へ行くまでの道がとても急な上り坂で、カーブも多かったです。すごく山の中に入っていく気がしました。杉の木がたくさん生えていたのが、とても印象的でした。トンネルができるまでは孤立していたそうなので、それで伝統的な景観が保たれているのだと思います。ここは平成13年に県選定伝統的建造物群保存地区となり、県の選定は全国でここだけだそうで す。

大根02こうこ 板井原集落は、周囲の山々にすっぽりと沈み込んでいるのが特徴で、日本の山村集落の原風景を残しています。平家落人の隠れ里として伝えられていて、昭和の時代にタイムスリップしたようでした。茅葺屋根の家もありました。家の中にも入ってみたかったです。大部分の建物が、50年以上も経過しており、中には約270年経過した建物も残っているそうです。建物はあるけれど、人が住んでいるのかは分からなかったです。屋根の上や木の上にあった藁縄のリングが気になりました。どの家にも薪が置いてあったので、五右衛門風呂などに使われていると思います。夏は涼しくて過ごしやすいようですが、冬になると豪雪で動けなくなるので、下の町に降りる人が多いそうです。冬には、2世帯程度になるそうです。高齢者の方が多いようなので、農作業など大変だと思いました。
 家の周りには畑があり、大根や白菜など野菜が栽培されていました。そこの大根は「板井原大根」と呼ばれ、成長しても小さく、漬物にするとおいしいそうです。「板井原ごうこ」というお土産品として、喫茶店でも売られていました。昭和35年頃までは山焼きをした土地で栽培されていたそうですが、それ以後はなくなってしまったそうです。しかし、食文化も復元保存しようという気運が高まり、40年ぶりに幻の大根になっていた伝統的な野菜を復活させ、昔ながらの大根を生産することができるようになりました。花も植えられていて、少し先に行くと田んぼもありました。食べ物は自給自足の生活のようでした。家や畑の近くに稲木という野菜などを干しておくためのものがありました。

 柿01 謎のリング 学生01

民家と白菜 この集落は、伝統的な焼き畑と定畑、水田稲作の合間に、山仕事、養蚕、炭焼きといったものが主な暮らしだったそうです。炭焼き体験施設や水車小屋がありました。周りの山には、智頭杉が植林されていて、今も植林が続けられているそうです。本当に緑の豊かなところだと思いました。それに、川の水がとても澄んでいてきれいでした。野菜やお米もきっと美味しく作れると思います。川に降りるための石段があったり、家の近くに水路があったりしたので、洗濯や野菜を洗うことに利用していると思います。水がきれいなので、植物だけでなく動物にとっても、住みやすい所だと思いました。歩いている途中でカニを3匹発見しました。
 帰り道では、赤波川を見て帰りました。岩に甌穴という穴が開いていました。暗くてよく見えなかったのが残念でした。滝があり、水の力でこのような景観になるなんてすごいなと思いました。
 最後に、喫茶店「野土香」で飲み物をご馳走していただき、ありがとうございました。先生、とっても美味しかったです。ごちそうさまでした。
 先輩方にもいろいろな説明をしていただいて、ありがとうございました。私は鳥取のことはあまり知らないので、どこかに出かけたり、話を聞いたりすることがとても楽しいです。これからもいろいろな話を聞かせてください。よろしくお願いします。今日は、お疲れ様でした。(環境政策学科1年N.Y)

稲木


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  1. 2008/10/25(土) 00:45:00|
  2. 景観|
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2008インターンシップ報告会

インターンシップ01岡垣


 22日夕刻、インターンシップ報告会が開かれました。
 ASALABからは最多の5人が発表しました! 5人それぞれ、東京・北海道・岩手・鳥取と各地に散らばって濃い経験をしてきたようです。先生の直前までの指導もあり、皆しっかりとしたプレゼンができました。

インターンシップ02大給 しかし、残念だったのが聴衆の少なさです。先週、突然スケジュールの変更通知があり、1教室での報告会が2教室に分けられることになりました。結果、16講義室の発表者7名のうち5名がASALABという構成になってしまい、他研究室の学生がほとんど客席にいない状況が生まれてしまったのです。大勢の人に聞いていただけなかったのは、ほんとうに心残りでした。

 さて、打ち上げは「南海飯店」へ。そこで、ついにアシガル君の重要任務が決まりました!
 コンペの延長で、見寺本堂の復元模型(たぶん1/20)をつくることになったのです。アシガル君は手先が器用なので期待できると思います。
 ほかの3年生も、岩手と北海道の復元の仕事に本格的に取り組むこととなりました。
 それぞれ、研究は違っても皆でがんばりましょう!  (黒帯)
 チェスト!!     


  1. 2008/10/24(金) 00:28:52|
  2. 講演・研究会|
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トンコリ届く

トンコリ1001全景


 鳥取に戻り、現実に戻って、早くも演習三昧の人生です。今日の3・4年ゼミは、途中まで上機嫌で発表を聞いていたのですが、最後のピヴォの発表で一気に不機嫌になりました。わたしが留守中、卒業研究中間発表の準備をほとんどしてないことがわかったからです。まぁ、留年したいんでしょう。

 さてさて、樺太アイヌの五弦琴トンコリが届きました。北海道KT市の担当官自作のトンコリです。残念なことに、中央のへそ(空洞)にはめ込まれたガラス製のラマトフ(魂)がボディの内側に落ちてしまったました。ありがたいことに、トンコリの概説書付き。これがないと、弾けないもんね。そうだな、できれば新年の六弦倶楽部で、なにか1曲弾ければいいかな・・・

トンコリ1002陰毛 トンコリを梱包する段ボールには、北海道産樹木の樹皮もたくさん同封されてました。後期に制作するオホーツク文化住居模型のためにと、白樺などを送ってくださったのです。まぁ、鳥取にはないもんね、こういう樹皮は。ありがたい限りです。
 さっそくお返しを送るように、黒帯くんに指示しました。わたしが返事を書くより、インターンシップにやってきた若い学生が御礼をこめて文を書く方が良いと思うんですよ。

 ついに3年生もコンペのサポートに入りましたよ。
 チェスト!!

  1. 2008/10/23(木) 00:30:31|
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北京余話

masao.jpg


 ねぇ、みなさん、この写真の人物に見覚えはありませんか?
 北京のオリンピック公園で「鳥の巣」に入れなかったわたしは、チケット発売所あたりをうろついていたんですが、マサオ君そっくりの人物を発見してしまいました。
 ね、そっくりでしょ!? 

 ちょっとヤーサンっぽいけど、ぼんぼんぽくて、黒づくめの衣装で、腹の出方もお父さんそっくりだし(わたしもこのレベルですが)、まわりにSPらしき方がたも何人かいてね。なかなか愛嬌のある笑顔してましたよ。たしか、半島から北京に戻ってたはずだから、オリンピック公園にいたって、なんにもおかしくないでしょ。東京ディズニーランドにだってあらわれる方だから、北京のオリンピック公園なんか朝飯前ですよね。

金正男01 そういえば、北京滞在中、同僚から恐ろしいメールを頂戴したんです。鳥取にも、マサオくんのお父さんとよく似た方が約1名いらっしゃるそうです・・・・くわばら、くわばら・・・


  1. 2008/10/22(水) 00:05:15|
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我従北京回来了

北京04鳥の巣01


「鳥の巣」の悲劇

 いやぁ、ほんと生まれてくるんじゃなかった・・・またまた、やりました、大チョンボ!
 じつは15日夜のレセプションもバスに乗り遅れてしまい、結局、近くの餃子屋さんで夕ご飯を食べたんです。おかげで、原稿は進みましたがね・・・D社の担当者は分かってるんかな。弥生の連載、終わらせたんですよね、北京のホテルで。あぁぁぁ、しんどかった。

 17日(金)はポストツアーの日。午前9時出発だとばかり思っていたところ、8時15分にバスがでるというので、慌てたのなんの。バスには乗ったものの、肝心の「鳥の巣」入場券を部屋に置いてきてしまったんです。若い二人の同僚がいれば、こういうことはおきなかったはずなんですが、かれらは初めての北京でして、故宮&天壇ツアーを選んだのね。わたしは故宮も天壇も飽きるほど行ったので、オリンピック公園ツアーを選んでこのザマです。でも、バス・ツアーの案内役(中国建築学会の女性通訳)がよくしてくれました。いったんもう駄目だって言われたから、「算了、我走!(もういい、わたしは行きます)と言って、道ばたのタクシーに乗りこもうとしたんですが、彼女はそこまで駆け寄ってきてくれて、「等一下! 一起去、我想弁法(ちょっと待って! 一緒に行きましょう、なんとか手だてを考えてみるから)」と言って、わたしを引き留めてくれたんです。それから、彼女はあちこちに電話してましたね。で、なんとか水立方(アクア・キューブ=国家水泳場)に入れるようにしてくれました。

北京03水立方04外部全景01

 その案内役の姓は李さん。河北省出身。
 中国の場合、歳下の女性については、「小」を姓の前につけて呼ぶと親称になります。李さんなら、「小李」(シャオリー)と呼ぶのね。逆に歳上の男性の場合は、「老」をつけて呼びます。たとえば羅さんなら、「老羅」(ラオルオ)というふうにね。
 さてさて、小李と言えば、みなさん、覚えてますか。『薬研堀慕情』にでてくるマカオ洋館のメイドの一人(利蔵の恋人)でして、わたしはつぶらな瞳をもった小柄な少女をイメージしてました。またしてもここだけの話ですが、1983年に浙江省天台山のホテルで出会った小張(シャオチャン)という服務員をモデルにしてます。
 一方、北京の小李は、なんと身長173㎝のモデルさんのようなスタイルの持ち主でした。かの松下奈緒が174㎝だから、そうか、松下奈緒と相対すればこんな感じなんだと思ったりしてね・・・・なんちゃって、どうでもいいことですが、小李は水立方に入らなかったので、ここで離ればなれになってしまった。これが致命傷でね、結局、「鳥の巣」にわたしは入れなかったんです。でも、べつに全然悔いはなかった。北京の小李は最大限の尽力をしてくれたと、ただただ感謝しています。じつはダフ屋がいて、「鳥の巣」のチケットを60元(1000円)で売ってたんですが、チケットを2重買いしてまで中に入りたいというほどの執着心はありませんでした。

 北京03水立方03内部全景01 北京03水立方02天井01 北京03水立方04外部全景02鳥の巣

 「鳥の巣」を諦めたわたしは、ひとり北京飯店へ。北京飯店のロビーでは5種類ぐらい無線ランが飛んでいて、ネットに自由にアクセスできるので、そこで昼食をとりながら3時間ばかり仕事をしましたよ。下の写真は、北京飯店からみた長安街ですがね、ご覧のとおり、北京は「霧の町」から「スモッグの町」に変わってしまいました。

スモッグの町01



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  1. 2008/10/21(火) 00:24:25|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅸ)

blogウィルタ族テントs


コンクルージョン

 以上、松菊里型住居の構造復元から出発して、焼失住居跡および八尾南遺跡建物9から復元される細部と構造の検討を経て、最後に隅入の問題を構造と結びつけて考察した。
 これまでの考察を整理しつつ、そこから展開する重要事項を補筆してまとめとしたい。

 1)弥生住居の原型といえる松菊里型住居の構造は、三脚もしくは四脚をベースとす円錐形テントの煙出部分を2本柱で支えた越屋根で塞ぐものと推定される。とくに2本柱との関係を考えた場合、四脚をベースした左右対称構造の可能性が高い。
 2)弥生住居は在地の縄文住居と融合することによって、周囲に多角形配列をもつ「北牟田型」に変容する一方で、それとは独立の動きとして屋根に土をかぶせる変容がおきた可能性がある。ただし、土被覆については、朝鮮半島西南部から北九州への伝来時期から発生した可能性もあり、必ずしも松菊里型住居の縄文化と断言できるわけではない。
 3)焼失住居では炭化材の上面で茅がしばしば検出されるので、土屋根住居の下地として茅葺きがなされていたことを示している。それはまた、弥生時代に茅葺き屋根がひろく普及していたことの証拠ともいえる。一方、縄文時代の住居跡で茅がみつかることはほとんどなく、縄文住居の葺材・下地材としては樹皮が多用されたものと想像される。
 4)焼失住居跡の大半は土屋根に復元される。ただし、竪穴の掘削土はほぼ周堤で使いきってしまうので、屋根の被覆土はどこか他の場所から運搬してきたものであろう。ただし、焼土層は地山系の粘質土が一般的であり、これをどうして確保したのか、検討を要する。
 5)これと関連して、屋根土の範囲には全面被覆と部分被覆の両方があったものと推定される。小型・中型の住居では全面を覆うだけの土を確保しえたであろうが、打出遺跡SI01にみるように、大型住居ではおそらく梁・桁のあたりまでしか土で覆われていなかったであろう。全面被覆か部分被覆かは、焼失住居の出土状況によってある程度判断できる。
 6)屋根を土で覆う技術は縄文時代から継承されたものだが、その第一の目的は「防火」であった可能性が高い。防火という点では、できるだけひろい範囲を土で覆うほうがその機能を期待できる。
 7)周堤は屋根の木組を安定させる機能をもつ一種の基礎である。竪穴を掘った土をいったん取り置き、木組を組んでからその木組の裾に土を塗りつけるようにして周堤を築いていったものと想定される。
 8)弥生時代の竪穴住居の壁はアンペラ状の材を周壁に貼り付けたものだが、その留め方はあきらかでない。縄文時代においては壁材の基礎であった壁溝は、弥生時代においては排水用の暗渠として機能した。暗渠としての壁溝は中央ピットと放射状の排水溝で結ばれ、周堤を貫いて住居外に排水される場合もあった。
 9)壁溝はそれをまたぐ横木の上に板で蓋をした。その蓋はアンペラ状の壁材の裾で隠され、さらにその上に床面を覆う植物質のマットが覆った可能性が高い。
 10)弥生住居のなかには隅入の平面構造をもつものがあり、上部構造にケツンニ(三脚)を用いると、隅入の構造を実現できる。
 11)柱のない無柱型の円形平面が3本主柱や4本主柱の構造に変化していくのは、上部構造を受ける3本ないし4本のサスを柱で支持したものと想定され、その結果として、隅にサスを配する構法が生まれた可能性がある。これはとくに多角形主柱配列の場合に採用された可能性が高い構法である。この「隅サス」構法は、構造に安定感をもたらすけれども、隅入の平面構造とは矛盾する。隅入を実現させるには、主柱の位置(すなわち梁・桁の接合位置)ではなく、主柱間の梁・桁上にサスを配する構法が有効な場合もあることを示している。

 blogテント1s テント3s



  1. 2008/10/20(月) 00:43:41|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅷ)

blogクズマ正面s


隅入の構造

blog八尾南梯子s 八尾南遺跡竪穴建物9では、西南隅に刻梯子が立ったままの状態でみつかった。入口が建物の隅にあった証拠と言ってよいだろう。従来、竪穴住居の復元では、家屋文鏡などの影響からか、妻入とする例が圧倒的に多く、まれに平入に復元される場合もあった。わたし自身、縄文住居の平面モデルを再構成するにあたって、埋甕の位置や柄鏡型住居の門道の位置を重視し、一方の妻側の中央に入口を配することを通例としてきた。これに対して、福島市宮畑遺跡の焼失住居(縄文中期)の復元模型制作時に調査担当者から隅入の可能性を強く示唆されたのだが、多角形柱配列の隅にはサスを配すべきという先入観が強く、隅入の復元を放棄した。

 blog猫山遺跡住居  blogクズマC2期s blogクズマ平面

 一方、鳥取県では、古墳時代にくだるけれども、倉吉市の上神猫山遺跡(↑左)で隅入の門道が2方向で確認されており、さらに近年、同じ倉吉市のクズマ遺跡で地盤を固くたたき締めた門道を南隅にともなう住居跡(↑中:遺構図、↑右:復元平面図)が発見された。古墳時代後期の5号住居跡(C2期)である。平面はやや東西に短い隅丸方形を呈する。住居の床面は建替にともない貼床して整えている。貼床層は最大で16cm程度の厚みがある。貼床層の断面観察では大きく上下2層に分けられる。最終時(C2期)の床面は削平されていたが、壁溝は残っている。C2期の床面規模は南北5.8m、東西5.4m、壁高は住居西辺で最大1.5mもある。主柱穴は4本で柱間は、4辺とも2m前後を測る。
  なお、猫山遺跡・クズマ遺跡の隅入住居跡に共通してみられる特徴として、導線の方向を指摘できる。門道が隅に設けられるとはいえ、門道中心線は隅の柱を向いておらず、その延長線は妻側柱間の中点に達する。

 復元にあたって、まずケツンニ構造が思い浮かんだ。ケツンニを用いれば、隅にサスをおく必要はないので、隅入の構造が容易に復元できる。しかし、この試みは失敗した。4本主柱の配列がほぼ正方形をなすため桁行方向の寸法が短く、両側に3脚を組めないのである。そこで、考え方を改めた。建築史学における竪穴住居の研究史上重要な役割を果たした『鉄山秘書』高殿の図(↓)を参照することにしたのである。図に描かれた高殿(たたら)は梁・桁の上下で構造を分離している。下層は垂木を扇状にめぐらせるのに対して、上層は梁・桁上にケツンニ風の三脚とオダチを2組立てて棟木を支え、その上に垂木をわたして切妻の屋根を作っている。そして、なにより注目したいのは、隅に鳥居状の入口を設けていることである。すなわち、梁・桁の上下で構造を2分割することによって隅方向からの出入りを実現している。

blogたたら高殿s
 


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  1. 2008/10/19(日) 13:37:22|
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産官学連携フェスティバル2008

DSC01709


 2008年10月17日、鳥取県民文化館あらため、とりぎん文化会館にて催されました。フェスティバルは鳥取県環境学術研究振興事業の研究成果発表の場も兼ねており、平成18年度の研究成果がパネルで展示しています。浅川研究室は「ローコストによる古民家修復手法の開発(Ⅱ)」のパネルを展示、ポスターの前に資料を置く机が設置されているので、加藤家住宅のパンフレット知の財産の報告書を並べました。
 今年の産業技術フェアと共催で、19日までありますが、残念ながらポスター展示は17日のみでした。小学生の工作展示、大学、高専高校の紹介ブースを設けていたのは昨年度と違い特徴的な点でした。参加者は昨年と比べ、少なめといったところでしょうか。午後4時を回るとて発表者が集まり、会場に賑わいができました。そこでは「特許」という言葉をよく耳にし、参加者の研究の熱意を感じとれた催しでありました。(某大学院生)

DSC01712
↑手前のポスターが浅川研究室の展示

産官学フェス08
↑出展したポスター(画像をクリックすると拡大します)

  1. 2008/10/18(土) 00:38:14|
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第3回「限界集落」アンソロポロジー

 教授が北京に出張中のため、15日(木)のプロジェクト研究はゼミの4年生と大学院生が1・2年生を引率し、夏休みにさんざん調査をおこなった若桜を訪れました。以下はじゃんけんで負けた1年のHくんと2年のYさんの感想文です。

三百田で説明

 今日は若桜町に行ってきました。まず、屋堂羅地区にある「若桜郷土文化の里」の三百田氏住宅、若桜町歴史民俗資料館、無動山永福寺の山門に行きました。三百田氏住宅は県の保護文化財で、とても綺麗で落ち着く民家でした。若桜町歴史民俗資料館の中にオルガンがあり懐かしく思いました。楽しかったです。無動山永福寺の山門は京都にある阿吽堂みたいでとても迫力がありました。
 次に屋堂羅地区の奥にある棚田を見に行きました。田んぼの周りにはイノシシの電気柵がたくさん設置してありました。あと、近くには相撲の土俵がありました。周りを山に囲まれていたので、田舎で森林浴をしている気分になりとても気持ちがよかったです。聞いた話によると、斜面に沿って作られている、整備していない棚田だから文化的価値が高いそうです。
 次に若桜橋に行ってきました。若桜橋は昭和9年7月31日に完成した、鉄筋コンクリートでつくられた長さ83.3m、道路幅5.5mの、国登録有形文化財・土木学会選奨土木遺産のアーチ橋です。昭和20年までにつくられた橋で若桜橋のようなアーチが3つあるものは鳥取県内では例がないそうです。
 最後に若桜宿・鬼ヶ城周辺に行きました。カリヤ通りや蔵通りやお寺を周ってたくさん歩いたので疲れました。若桜の道の駅でアイスクリームをおごっていただいて食べました。僕はバニラ味でした。とてもおいしかったです。(環境政策学科 H.M)

縁側でひと休み

 今日は若桜町の文化財の見学に行ってきました。最初に訪れた三百田氏住宅は、立派な茅葺き屋根がどっしり構えられていて、ひと目から圧倒されました。今建っている敷地はもともとは八頭高校若桜分校の校舎跡で、建物自体は因幡最奥の山村「吉川」の集落から移築復元したそうです。
 中に入ってみると、一見すると先週訪れた加藤家住宅と似た印象でした。この三百田氏住宅は「広間型三間取り」という最初の建築当時(17世紀)の一般的な農家のつくりです。修復されていることもあるのかもしれませんが、木材などがとてもしっかりしていて、頑丈に見え、とても何百年も前の建物とは思えない安定した感じを受けました。現在の「リフォーム」と同じく昔の人々も生活や家族の変化に合わせて家をつくりかえていたそうで、修復当時は「広間型三間取り」ではなくなっていたようですが、修復に際してもともとの形に戻されたそうです。内部には当時の生活の一部を教えてくれるような昔の道具などが置いており、それを見て回るのも楽しかったです。二階にもあがりました。わらじを編む機具が置いてあったのですが、昔はそれぞれの家で作っていたのでしょうか?
 三百田住宅の隣には無動山永福寺の山門がありました。無動山永福寺は、県の保護文化財に指定されている大日如来像(胎蔵界、金剛界)を本尊とした寺として知られており、現在廃寺となっていますが、山門の方はここに移転復元されました。白木もそのまま残っており、趣があります。
 三百田住宅との間に山門を挟んで建っているのが、若桜町歴史民族資料館です。山陰合同銀行若桜支店の社屋だったもので、明治40年頃に創建されました。若桜支店の社屋新築にあたってここに移転復元したものです。耐火のための白壁で、明治時代の典型的な土蔵造りです。銀行らしい…というかとてもどっしりとした、なんとも言えない風格がありました。安心してお金を預けられそうな威厳のある面差しをしていると思いました。銀行だったことから内部には金庫もあり、今は展示場となっていますが、やはり銀行の面影が残っています。昔のオルガンなども残っており、まだ音は出るようです。それもそれですごいことだと思います。
 上記の三つの建物は若桜町屋堂裏地区の「若桜郷土文化の里」内にあり、ここからはかつて鶴尾山に構えていた鬼ヶ城も見えます。屋堂羅という地名の由来には諸説あるそうですが、一説によると、鬼ヶ城から放った矢がこの地区にあったお寺のお堂まで届いて刺さったことから、「屋」はもともと「矢」だったのではないか、と言われているそうです。文章では表現できませんが、結構な距離なので、本当にそういうことがあったら地名にもなるかと思います。屋堂裏地区の棚田も見てきました。比較的ゆるやかな斜面に作られた棚田で、すでに稲はかりとられていましたが、雄大な景色でした。

民族資料館より鶴尾山を見る


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  1. 2008/10/17(金) 00:14:39|
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我在北京(Ⅲ)

司会01


Architectural Heritage and Urban Context

 16日(木)。学会での司会と発表、無事に終わりました。
 午前の司会は、わたしがファースト・ネームになっていることに昨夜気づいて、れれれ・・・聞いてないぞ、聞いてないぞ、・・・(と喚きながら帽子を投げ、しばらくまって帽子を拾い)、「クルリンパ!」なんてダチョウ倶楽部したりしたわけじゃありませんがね。
 当日、驚いたのは、司会のパートナーを務める中国建築学会の李先生がまったく英語を話せなかったことです。通訳がいることはいるんですが、時間を浪費するばかりだから、結局、わたしがセッションⅣ「建築遺産と都市の文脈」の前半(午前の3時間)を事実上仕切りました。

 発表はすべて英語です。中国人も韓国人も日本人もみな英語でスピーチするのです。で、内容がよく聞き取れているかと言えばそうでもないんですけれども、やはりパワーポイントの威力は強力でして、資料とあわせてみれば、だいたい言いたことは分かりますね。でも、不安が払拭できなかったので、マルチ・リンガルの同僚に司会席の対面に坐っててもらいました。客席に聴衆は多く、質問も結構あって、活気あるセッションになりましたよ。もっとも、質問者は5名ほどに限られていて、うち二人はわたしと同僚だったんですけれども。こういう学会では、質問することもマナーの一つなんです。意地悪で質問するんではなくて、発表をねぎらうために基礎的な質問をしてあげるのです。質問されたプレゼンテイターは、自分の発表に反応があったことを素直に嬉しく思うものです。
 というわけで、わたしは今回のセッションを十分楽しめました。これは収穫ですね。もともと学会などあまり好きではないし、国際学会ともなるとヒアリング能力にコンプレックスがあるから、どうしても億劫になっていましたが、今回は少しだけ自信めいたものが芽生えましたね。というか、こういう会に日本人研究者(とくに歴史関係の研究者)はもっと積極的に参加しないといけないと思うようになりました。ちょっとした自己変革です。

 司会02 司会03 会議場01外観

チョン発表01

 午後は二人が午前とは違う二つのセッションに分かれてスピーチしました。一人はインドの植民地都市、もう一人はハロン湾水上集落の居住動態と文化的景観についてのプレゼンテーションです。とくに後者はたくさんの質問を頂戴しました。他の発表では質問がほとんどないのに、ハロン湾の発表だけは質問が目白押しだったんです。ハロン湾の水上集落は来聴者におおきなインパクトを与えたようです。
 セッションも終わり、夕方から琉璃厰に行きました。古書と骨董の街です。北京はいまがいちばん良い季節で、夕暮れの爽やかな空気に包まれながら、北京の下町を堪能しました。なんちゃって、じつは、また本をどさっと買ったんですがね。どうやら、ファイトして来ましたね・・・カムバック賞を狙いましょうか・・・

 チョン発表02客席 山田発表01 ルリチャン01町並み


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  1. 2008/10/16(木) 23:38:30|
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我在北京(Ⅱ)

王府井01教会01


馬尾

 15日午後、学会の合間を縫って、中国社会科学院考古研究所を表敬訪問した。が、昼休みだったので、旧知の研究員はだれも居なかった。受付に何冊か贈呈する報告書を預け、楊鴻先生に電話連絡してもらった。
 楊鴻先生はわたしの恩師である。中国で、わたしは二人の学者に師事した。一人は同済大学時代(上海:1983-84)の指導教官だった陳従周先生。中国庭園史の大家で、書・画・詩の才に長けた「最後の文人」でもあった。過去形で書かざるをえないのは、陳先生がすでに身罷られてしまったからである。楊先生は、学術振興会の特別研究員として考古研究所で学んでいたときの指導教官(1991)。専門はずばり「中国建築史」だが、発掘調査された遺構から上部構造を復元する達人であり、その点において「建築考古学」の専門家という見方もできる。楊先生は奥様とともに河北の保定におられた。携帯電話につながって、明日(16日)に北京に戻ってくるから、もう一度連絡をとりあおうということになった。

 さて、考古研究所の門前に書店があって、文物考古関係の書が山のようにそろっている。考古研究所附属の書店といっていい。4人の女性店員がいて、とても親切にしてくれた。昨夜のホテルでは、レジストレーションからチェックインまで、とても段取りがわるく、ホテル・カウンターの女性たちの愛想も良くなかった。結果、「中国は変わっていない」という印象を強くしたのだが、考古研の書店でその悪印象が覆されたのだ。女性たちは、みな人民服を思わせる上着を着ていた。それだけで、十分、あの寒々しい80年代の人間関係を思い起こさせる。しかし、彼女たちの態度は80年代とはまったく変わっていた。ともかく「本を売ろう」という意欲が感じられるし、買い手に対する物腰がとても柔らかで気持ちよい。
 その書店には、中国の建築史、造園史、都市史に関する本がずらりと並んでいた。今日は根性をいれて本を買うことに決めた。この冬に広州を訪れたときには、本を買うことにずいぶん躊躇したが、今日は本を買いたくなった。ここは一般の本屋ではなく、プロのための本屋だ。8年ぶりに北京を訪れ、この8年間にどれだけ新しい専門書が出版されているのかを目の当たりにしたわたしは、体内に残っている中国研究者としてのDNAが騒ぎ出してしまったのである。

 日本には世界に誇る中国建築史の研究者が1名いる。でも、1名だけなんだな、世界に通用する研究者は。わたしは、兄弟子ともいうべきその研究者に追いつきたいと思ったことが何度もある。が、どうしても「文献研究」という世界に馴染めなかった。わたしはフィールドワーカーだ。研究室に閉じこもっているわけにはいかない。そう思って、文献学的中国建築史の世界から離れていったのだが、日本が世界に誇るその研究者の後継が育っているとはいえない。その状況はいまも変わっていない。わたしを追い越していった若い世代がいるのかどうか・・・
 
 なにがいいたいのか、というと、要するに、思いっきり本を買ったんですよ。わたしが中国の専門家であった時代と同じように、欲しいと思ったり、必要だと思った本を全部買った。もちろん、手で持ち運べる量ではないから、船便で送ることにした。わたしの触覚が大きく中国に反応したとはまだ言えない。しかし、これだけ買えば、8年のブランクはそこそこ埋まるだろう。それだけの量の本を買った。
 書店の女性たちとは、とても仲良くなった。人民服のような上着は、懐かしく、とても新鮮で、80年代ならば髪型も男子に似た短髪だっただろうが、今日は4人のうち二人がポニーテールにしていた。人民服とポニーテールのアンバランスはなんとも魅力的で、いや、ほんとに、ここだけの話にしておいていただきたいのだけれども、わたし、ポニーテイルに弱いのね・・・で、ついつい口を滑らせて聞いてしまったんです。

   「その髪型、中国語ではなんていうんですか。日本では英語の外来語でね、
    ポニーテイルって言うんですよ、子馬の尻尾、っていう意味なんだけど・・・」

 すると、彼女たちは笑いながら答えた。

   「そうそう、馬尾(マーウェイ)よ、馬の尻尾ね、中国でも」

 
 さて、午後7時からレセプション。あまり得意ではない。

王府井02ロッテ01




  1. 2008/10/15(水) 23:51:57|
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我在北京(Ⅰ)

The 7th ISAIA

 先週、ふと不安が芽生え、ある演習の休憩時間に同行する教員に訊ねたのね。

   「あのさ、まさか・・・セッションの司会なんかまわってこないよなぁ?」

 その教員は答える。

   「だって、まだ打診ないでしょ。大丈夫ですよ」

 そうだ、そうだ、まだ全然そうゆう打診はありません。だから、セッションの司会なんかさせられる覚えはないのであって、わたしゃ、自分のプレゼンが終わったら、さっさとホテルの部屋にもどって原稿書くぜ・・・だって、あのD社のKという編集担当が五月蠅くてしかたないし、次の原稿も待ってるし、そうだ、六弦倶楽部の練習会も近づいてるじゃないの・・・

 えっ、なんの話かって?
 北京で国際学会があるんですよ。2年ごとに日本と中国と韓国で会場もちまわりなんです。4年前は松江だったんですよ。あのときは特別シンポジウムの司会をしました。
 北京は、本音を言うと、あんまり行きたくないんですね。ずっと住んでたところなのに、懐かしいっていう感情が湧き起こらない。不思議な町です。上海はもう少し愛着があるんですが、北京は、まぁどうでもいいやってか・・・なんども日本人の案内をしましてね、故宮(紫禁城)なんか30回以上行ってますからね。法隆寺もそれぐらい行ったけど、やっぱり故宮のほうが多いだろうな・・・ところが、同行する二人の若い教員はウキウキしてるんですよ。二人とも北京が初めてだそうでして、「不到長城非好漢!」、なんちゃって、あんなもん、つまらんぜ・・・わたしゃ行きません。ひたすらホテルに缶詰です。

 さて、演習が終わり部屋にもどってパソコンを開いたら、学会事務局からメールが入ってた。以前、たいへんお世話になった恩人のような方からのメールです。以下、そのやりとり。

> ご無沙汰しております。突然のお願いで大変失礼を致します。
> 来週のアジアのシンポジウムに参加戴けると思いますが、浅川先生にセッションの司
> 会をお願いできませんでしょうか? 司会は、中国建築学会の司会者と二人ペアとな
> ります。
> お願いしたいのは、
> session 4 Architectural heritage and urban context
> 10月16日(木)午前です。
> 不躾なお願いで大変申し訳ありませんが、
> 何卒ご検討頂きたく、宜しく御願いいたします。

>> ご無沙汰しております。
>> ヤな予感がしてたんですよね・・・
>>中国側の先生が司会で、わたしは副司会という立場なら、
>> なんとかなるかもしれませんが、
>> ・・・英語は相変わらずひどいものです、
>> よく聞き取れませんからね、
>> あぁぁぁ・・・

> 早速の返信有り難うございます。大変恐れ入ります。
> メインの司会は中国側ですので、日本側は副司会というお立場で結構かと思います。
> 何卒どうか宜しく御願い致します。

 はぁぁぁぁ・・・生まれてくるんじゃなかった。

 さきほどレジストレーション(登録)とチェックインを済ませて、ようやく部屋に入ったところです。

  1. 2008/10/14(火) 23:26:32|
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アシガル君のブログデビュー!!

200810141.jpg

 どうも皆様、はじめまして。後期ゼミからの新メンバーの仮称「フォレスト」改め「アシガル」です。今日はブログデビューということで緊張しながら書いています。え~と、簡単に自己紹介をさせていただきます。生まれは鳥取県鳥取市で、鳥取育ちの21歳の男の子です。後期からASALABでお世話になります。皆様、よろしくお願いします。

 話は変わりますが、今日は3・4年+院生の合同ゼミでした。某大学院生ことホカノさんが中心となってキビキビと仕切っていました。3年生は先週おこなったインターンシップ報告会の練習で指摘された問題点を手直ししたものを発表。4年生は卒業研究の中間発表の練習です。ちなみにボクは、この夏インターンシップには行かず、バイトと自動車学校の日々でした。なので、今日はタイムキーパーと写真係です。

 3年生は先週に指摘されていた所を改善していて、写真を背景などに活用し現場の雰囲気がとてもよく伝わり、かなり分かりやすく見やすいものになっていました。とても、まとまったものになっていると思います。
 次に4年生の卒業研究なんですが、ボクは4年生の卒業研究を拝聴したことがなく、今日しっかりと聞くことができ、今後の卒業研究への勉強になりました。

 200810142.jpg 200810143.jpg 200810144.jpg

 ボクは今日、相手に何かを分かりやすく的確に伝えるということはとても難しい事で、膨大な情報の中から重要だと思うものを選びまとめることは難しく辛いことだと思いました。しかし、こういったことの積み重ねが自分の人生を形成し、未来につながると思います。そして、ボクも次のインターンシップは参加して自分の進みたい道を探したいです。(アシガル)


  1. 2008/10/14(火) 20:13:19|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅶ)

洞の原住居03壁の編物圧縮


壁の構造と壁溝

 縄文建築シリーズ(『縄文時代の考古学』第8巻に修正加筆掲載)の主役として登場した岩手県一戸町の御所野遺跡では、西区で縄文中期末の焼失住居群がみつかった。とりわけ大型住居では炭化材の残存状況が良好で、垂木や梁・桁と推定される材だけでなく、竪穴の壁に並ぶ土留めの丸太材もしく半裁材が直立した状態で残っていた。この焼失状況は「壁溝」の機能を決定づけるものとして注目される。すなわち、竪穴のエッジで検出される浅い壁溝は、土留めの壁材の裾を納める基礎として理解されるのである。
 ところが、弥生時代以降の壁材は大きく変化している。群馬県の黒井峯遺跡(古墳時代)では、竪穴住居の壁に張り付くように植物質の編材が付着しており、鳥取県米子市古市宮ノ谷遺跡の焼失住居跡(弥生後期)では、薄いヘギ板の編物が壁土に付着した状態で床面に崩落していた。こういう出土状況を参考にして、妻木晩田遺跡では洞ノ原2号住居の壁材に編材を用いて復元している。
 こういうアンペラ状の壁材の場合、壁溝を壁材基礎としてとらえることはできない。これについては、近年、大阪八尾南遺跡の住居群が圧倒的な情報をもたらしている。ここでは最も保存状況が良好であった竪穴建物9の壁と壁溝に関わる記載[報告書第1分冊:p.218-223、第3分冊:p.458-459]を抜粋・要約しておこう。

 壁構造: 東壁の周壁下半では斜方向に貼り付けられたヨシの茎束のような植物繊維が検出され、他の周壁際でも剥がれ落ちた貼り壁が壁溝の上に載っていた。茎束は網代のように完全に編まれた状態ではなかったが、黒色粘土を挟みつつ数枚を異なる方向に貼り付けており、剥落した貼壁の一部では部分的に編まれている状態も認められた。この数枚の壁材を貼り付ける造作は一度の施工なのか、数度の補修を反映するものかは分からない。また、貼り壁を押さえた方法については不明とせざるをえない。
 壁溝: 特筆されるのは、竪穴建物2や6の壁溝で部分的に認められた溝の蓋受けと考えられる造作が良好な状態で検出されたことで、壁溝全体にわたって100本に及ぶ横木が溝に直交して渡されていた。これらの横木には、ミカン割りや半裁した材、あるいは板・角状に分割した材が用いられており、小枝を使用していた竪穴建物2や6に比べると一段と手間が掛けられている。横木の設置に当たっては、一端を壁面に刺し込み、もう一端の上に貼床を施すことで固定を図っており、加えて南壁側では横木をより安定させるために約2.4mの板材が壁の溝の内肩に沿って埋め込まれていた。横木の上に植物の茎束や樹皮が溝に平行して被せられ、その上に周壁に貼られた茎束が連続して垂れ下がっている様子を観察することができた。以上から、壁溝は除湿・排水のための暗渠溝であったことが判明した。

 八尾南遺跡竪穴建物9の出土状況をみる限り、弥生住居の壁溝は暗渠溝であり、それを跨ぐ横木をたくさん渡して板などで蓋をし、その蓋をおそらく壁材の裾で覆っていたのであろう。一方、床面に注目すると、「床面全体にわたって茶褐色を呈した薄い有機物層の広がりが認められ、植物質の敷物が敷かれていた可能性」が想定されている[報告書第1分冊:p.219]。常識的には、信州秋山郷の茅壁中門造の土座住まいにみるように、枯草で下地のパウンドを作り、その上に筵状の編材を敷いたのであろう。想像の域をでないけれども、壁溝の蓋はまず壁材の裾で隠し、次にその全体を床面のマットで覆ったのではないだろうか。

 さて、暗渠としての壁溝は中央ピットの機能とも深く相関性をもって存在したようだ[報告書第1分冊:p.225]。八尾南遺跡竪穴建物9の中央ピットは3段掘りになっており、その2段目から下に箱状の構造物が設置されていた。そして、中央ピットから西に排水溝がのびて壁溝と合流し、その溝は周堤を貫いて周堤溝と合流しつつ、さらに西にのびる(総長約11m)。この排水溝も、室内では壁溝と同様の横木が渡され、蓋で覆われていた。こうしてみると、中央ピットと壁はともに土中から滲みだした水分を溜める水溜であり、排水溝はその水を竪穴住居の外側に排出することを目的として設置されたものであろう。ただし八尾南遺跡では、他の竪穴建物の中央ピットで「炉」とみられる遺構もあるらしく、機能を水溜めに限定することを控えるべきとしている[報告書第3分冊:p.459-460]。

洞ノ原復元住居2号01全景圧縮
↑上下2枚の写真は妻木晩田遺跡洞ノ原地区2号住居。内部の中央ピットから排水溝がのびて周堤を貫き周堤溝に合流し、さらに外にのびている。

  1. 2008/10/13(月) 20:45:45|
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二つの報告会

長城01

 いや、後期になって、いきなりせわしくなってきましたよん。あと三月で2009年ですからね。ヤになっちゃいますね。また歳とっちゃいますね、・・・わたしの誕生日は大晦日ですからね。山羊座のO型ですから、みなさん、プレゼントは早めに準備して、冬休み前に渡すようにしましょうね・・・

 れれれ・・・なんでこんな話になってしまったのだろうか。ともかく時間が加速してきました。10月22日(水)にインターンシップ報告会、25日(土)に卒業研究中間報告会が開催されます。で、コンペの〆切は10月30日だから、大変だ、たいへんなんだ・・・
 お暇な方などいないでしょうが、気が向いたら、聞きにきてやってくださいね。 

2008年度 環境デザイン学科インターンシップ報告会   
10月22日(水)16:20- @16講義室

 18:00-18:10 1052045 福井 浩人 
         (有)池田住研(倉吉市 ) 9/1~9/12
 18:10-18:20 1052009 岡垣 頼和  
         (株)文化財保存計画協会(千代田区) 8/4~8/15
 18:20-18:30 1062002 宇田川恭平 
         (株)文化財保存計画教会(千代田区) 8/4~8/15
 18:30-18:40 1062004 大給 友樹  
         北海道北見市教育委員会(常呂チャシ遺跡他) 8/20~9/1
 18:40-18:50 1062007 門脇 史知
         岩手県一戸町教育委員会(御所野縄文博物館他) 8/18~8/28
 
  *岡垣と宇田川は発表順が入れ替わる可能性があります。


2008年度卒業研究中間報告会
10月25日(土) @16講義室(論文)/13講義室(制作)

1.論文部門  
 11:00-11:12 1052007 今城 愛
        「文化的景観としての中世山城と城下の町並み 
            -若桜鬼ヶ城とその周辺環境を中心に-」
 11:12-11:24 1052009 岡垣 頼和
         「中世城郭関係遺構の解釈と復元 
            -安土城見寺本堂の設計を通して-」
 11:24-11:36 1052018 木村 歩
         「限界集落と文化的景観
           ―三朝町中津と智頭町板井原とのケーススタディ―」

2.制作部門
 14:46-14:58 1052045 福井 浩人
       「続・加藤家住宅修復プロジェクト -縁の修復と裏門の復元-」

落折01
↑平家落人伝説で知られる若桜の落折集落(戸倉峠)

  1. 2008/10/12(日) 14:01:58|
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『山陰地域の弥生時代建築に関する実証的復元研究』刊行!

「知の財産」表紙

 お待たせしました、お~またせしました、ほんとにおまたせいたしました。

 2007年度とっとり<知の財産>活用推進事業「山陰地域の弥生時代建築に関する実証的復元研究」の成果報告書が、入稿後84日めの本日、ようやく搬入されました。やった、やったぁ・・・と喜んでいたところ、さっそく誤植を2ヶ所発見(いつものことだね)。急ぎ、修正のシールを作っていただきました。また今回も、ゼミのメンバーで手分けして、シール貼りしなきゃなりません。
 今月はコンペ〆切やら発表やら目白押しで、各所への郵送は来月にずれこみそうです。卒業論文を書いた4期生2名をはじめ、研究協力者のみなさん、昨年11月のシンポジウムに参加されたみなさん、もうしばらくお待ちくださいね。
 なお、いつものように増刷分を頒布しますので、入手希望の方はご一報ください。

 以下、目次と図書情報を記しておきます。


  山陰地域の弥生時代建築に関する実証的復元研究

                 目次

 第Ⅰ部 青谷上寺地遺跡出土部材による弥生時代建築の復元
   第1章 研究の目的と概要
   第2章 弥生時代「最長の垂木」の発見
   第3章 「最長の垂木」による大型掘立柱建物の復元
   第4章 妻木晩田遺跡高床倉庫の復元
   第5章 まとめ
 第Ⅱ部 竪穴住居復元三題 
   第6章 研究の背景と目的
   第7章 西日本を代表する縄文集落 -智頭枕田遺跡SI-01 の復元
   第8章 弥生住居の源流 -下味野童子山遺跡SI-01 の復元
   第9章 古墳時代の隅入住居 -クズマ遺跡5 号住居の復元
   第10章 まとめ
 第Ⅲ部 シンポジウム「弥生建築の実証的復元はどこまで可能か」記録
   第11章 全国の研究動向
   第12章 山陰地方の焼失住居と出土建築部材
   第13章 弥生集落遺跡整備と復元建物
   第14章 討論

編集・発行: 鳥取環境大学浅川研究室(担当:エアポート&床下編集室)
印刷:     富士印刷株式会社
総ページ数: 133ページ
発行日:    平成20年3月31日

  1. 2008/10/11(土) 22:08:09|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅵ)

打出模型01


打出遺跡SI01の復元

 焼失住居の遺構解釈と上屋構造の復元について、富山市打出遺跡で出土した焼失住居跡SI01(弥生終末期)を例にとって具体的に述べてみよう。

出土状況: 打出遺跡SI01は4本主柱をもつ隅丸方形の竪穴住居跡である。ただし、北辺が南辺に比べてわずかに短く、南辺では直線状の部分が2.0m弱みとめられるのに対し、北辺は扇状にまるまっている。規模は長軸8.4m、短軸7.6mを測るが、柱筋で比較すると、南側のP06-P09ライン上での竪穴幅が約7.4m、北側のP10-P11ライン上の竪穴幅が8.3mで、あきらかに北辺側がひろくなっている。柱間寸法をみても、棟通りにほぼ平行する桁行方向ではP09-P10とP06-P11が3.75m等間であるのに対し、梁行方向ではP06-P09が2.98m、P10-P11が3.10mを測り、やはり北側がわずかに長い。

ブログSI01種別確定版0109.jpeg 床面積は壁溝内側で44.9㎡。ほぼ全面に地山土と類似した厚さ5㎝の貼床が施されており、壁溝(深さ約15㎝)も攪乱部分をのぞいて全域にめぐる。一方、床面のほぼ中央に楕円形のピットが複数重複してみつかっている。床面のほぼ中央にある複数のピットのうち、P03を排水用の「中央ピット」、P05を炉の痕跡と調査担当者はみている。入口については東辺のほぼ中央外側で、小ピット2基(P13・P14)が下層遺構SI04の床面でみつかっており、これを戸柱の痕跡としているが、竪穴のエッヂに近接しすぎており、深さも4~8㎝と浅いので、戸柱痕跡と断定できるわけではない。今回の復元では、直線部分の長い南辺に入口があったものと仮定した。

打出002床面平面 4本主柱穴には、いずれも柱痕跡が残っており、柱径は140~180㎝に復元される。
 竪穴の深さは、遺構検出面から60cmを測る。調査担当者は旧地表面を遺構検出面プラス10cm程度と想定しているので、旧地表面からみた竪穴の深さは約70cmに復元できる。周堤については、近隣の高岡市下老子笹川遺跡の平地住居跡(弥生後期)などを参考にすると、幅2.5~3.0m、高さは50㎝前後に復元できよう。旧地表面との関係からみて、周堤の外側をめぐる周溝は掘られていなかったと考えられる。

打出03全景

炭化材と炭化茅: SI01は、竪穴内部のほぼ全域に炭化材を残す良質の焼失住居跡であるけれども、4本主柱の内側に炭化材と焼土が少なく、4本主柱の外側で炭化材と炭化茅を多く残す。これは、1)4本主柱より内側に天窓もしくは越屋根状の煙抜が存在していた可能性、2)主柱より内側の屋根に下地としての茅葺が露出していた可能性、のどちらかを示唆するものである。一方、主柱より外側に炭化材・炭化茅が多いのは、そこが土屋根に覆われて、不完全燃焼を強いられた結果とみなせよう。

打出01出土02圧縮 なお、周堤に接する内側の棚上部分とその近くにも建築材は存在したはずだから、ここに炭化材が残っていても不思議ではない。実際、2005年に発掘調査された鳥取県琴浦町箆津の乳母ヶ谷第2遺跡の焼失住居跡(弥生後期)では炭化材と炭化茅を周堤上に残していた。しかし、乳母ヶ谷は例外的に室内で火のまわりが著しく激しかった例と考えられる。大半の焼失住居では、周堤上もしくはその隣接部分に炭化材を残さない。木組の裾部分は炭化せず、木材が腐食して痕跡をとどめなかったものと推定される。
 一方、屋根土の痕跡とみられる焼土については、主柱の外側に集中して10~20㎝ほど堆積しているが、北西隅の周辺のみほとんどみとめられない。これについては、a)北西隅の屋根に土を被せていなかった可能性、b)北西隅に火熱がそれほど及ばなかった可能性の両方が想定される。北西隅では、他の部分よりいくぶん量は少ないが、炭化材はたしかに残っている。したがって、土に覆われていた可能性は十分あり、2004年の段階では b) と解釈した。ただし、大阪府八尾南遺跡(弥生後期)の竪穴住居跡の隅に刻梯子が発見され、隅入の存在が最近あきらかになっており、仮にSI01が隅入であったならば、a)とみることもできよう。これについては、次回以降に検討したい。

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  1. 2008/10/10(金) 22:18:41|
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第2回「限界集落」アンソロポロジー

記念撮影001


 第2回のP2&P4は1・2年が合同で、登録文化財「加藤家住宅」を訪問し、そこで4年生ヒラさん(別名キムさん)の卒業研究に係わる発表を聞きました。ヒラさんの卒業論文題目は「限界集落と文化的景観」です。以下、ジャンケンで負けた2年(P4「建築と都市の歴史」応用編)のT君の感想文とヒラさんの反省文です。 
 とにかく、チェスト!!

加藤家デビュー!
 「加藤家住宅」に到着しての第一印象は驚きでした。土壁に瓦屋根(庇)に鉄板の屋根・・・不思議な感覚でした。しかし実際、鳥取県東部に残る茅葺屋根民家の大半は茅の上から鉄板で覆っているそうで、これまた驚きました。鉄板で覆った茅葺屋根は断熱層の役割も果たしているそうです。修理前の加藤家住宅には鉄板(トタン)の下にあるべき茅が撤去されており、断熱効果が得られず雨漏りもするということでした。新しく茅を葺くには1500~2000万円ぐらい費用がかかるので、加藤家住宅では杉の板(地域産材)を二重に張り、その中間部分を空洞にして断熱層を作り、上側の板の上に防水処理をして鉄板を被せたものと聞きました。この構造は防水・断熱効果が非常に高いそうです。
 玄関に入ると昔ながらの土間がひろがっていました。(その「昔」に私は生まれてないですが・・・)ひんやりとした空気と土壁の匂いで幼いころ通った書道教室を思い出しました。中にあがると畳と板間があり、そこに小さな囲炉裏が切ってありました。テレビや写真では見たことはありますが、囲炉裏を実際に目で見るのは初めてでした。囲炉裏は屋根裏から見つかった江戸時代の自在鉤を一部に使って復元したそうです。
 加藤家住宅は江戸時代からあるものをできるだけ形として残しつつ修理をしたのだと先輩に伺いました。囲炉裏のほかにも、柱・梁もほとんどが昔の形のまま残っています。腐敗が進んだ柱などはジャッキアップして根継(ねつぎ)する方法で、古い材を残しつつも修復したそうです。1階は大きく修理されながらも、古い材がよく目に付き、しかしながら綺麗な内装をしていて、とても江戸時代からあった建物とは思えませんでした。

ロフト見学001

 屋根裏に床板を張って作られたロフトに上がると、上に鉄板が乗っていただけという古い屋根のサスも新しいサスと混在する形で残っていました。そして、古民家には不似合いな洋風のインテリアがレイアウトされていました。「不似合い」とは言いましたが、屋根裏は1階とは少し違って欧州のログハウスのようで、洋風のインテリアと間接照明(?)がとてもいい雰囲気を醸し出しています。それらの家具は先輩方がプロジェクト研究(2006年度前期)で、廃棄家具を修復したものだそうです。そして、ロフトの手すりには床下から発見された江戸時代の梯子を使っていました。こういうリサイクルを「セルフビルド&ゼロエミッション」というそうです。「自分たちで建物や家具をつくり、廃棄物を再利用して建設材料費をゼロに近づける」という意味です。

 内装の見学を終え、縁側でたわいもない話をしながら(「たわいもない」って(笑))少しおしゃべり・・・その後は庭を見学しました。裏庭に蔵が7棟もあったというお話を聞き、たいそう立派なお宅だったと想像しました。
 建物の見学を終え、4年生の先輩の発表を聞きました。テーマは『限界集落の今とこれから』。限界集落とは65歳以上の人口比が50%以上の集落で、次の代を継ぐ人が少なくなって集落の機能維持が困難になり限界に達している集落のことを言うそうです。限界集落の例として、東伯郡三朝町の中津という集落と八頭郡智頭町の坂井原という集落の紹介がありました。坂井原で本当に生活しているのは1世帯のみで、冬の間は行き来をすることさえ困難な地域だそうです。
 発表と質疑応答の後、囲炉裏端で焼いたとうもろこしとジャガイモをいただきなが、星座&血液型トーク等等をしました。が!その時挟まったとうもろこしが歯にいまだに挟まったままで、この文章を書いている現在も気になって仕方ありません(笑)
 まあ、そんな感じの「加藤家住宅デビュー!」でした。(環境デザイン学科2年T.Y)

 杉苔001 池001 花001


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  1. 2008/10/09(木) 22:53:36|
  2. リサイクル|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅴ)

妻木山43号08周堤01松尾頭02縮小

 
周堤の意味
 
 遺構から建物を復元するにあたって、まず最初になすべき作業は地形の復元である。発掘調査で遺構を検出する面は先史・古代の人びとが生活した地面ではない。大半の場合、旧地表面は後世の整地などによって削りとられており、遺構があらわれる検出面は旧地表面より20~50センチばかり低いレベルにあるのが一般的である。これをもとの地形に戻す作業は容易ではないけれども、発掘調査を担当した考古学者と共同で旧地形を復元的に再現しておかなければならない。とりわけ竪穴住居の場合、旧地表面の掘削により、竪穴が浅めに検出されるので、当初の深さを執拗に検討しておく必要がある。

 妻木山43号11復元の基本02縮小 童子山地形s クズマ模型1-1s

 竪穴周囲の旧地表面には周堤がめぐる。一般の竪穴住居跡では、周堤の痕跡をとどめる遺構は少ない。後述するように、竪穴の掘削土は周堤土として使われるものと思われるが、住居廃棄後は再び竪穴に埋め戻される。ただし、周堤溝がしばしば発見される。周堤の外側にあって雨水や地中の水分を溜めて排水する溝で、地面に傾斜がある場合、馬蹄形を呈する。周堤が立体的に姿をとどめるケースは例外的であるけれども、上の写真(↑)にみるように、妻木晩田遺跡の洞ノ原地区では大型円形住居の一つに、幅3~5m、高さ30~50㎝の周堤が残っていた。この住居の周堤に、垂木やサスなどの斜材を掘りこんで埋めた痕跡はまったくみとめられない。これは、竪穴の周辺に小屋組を組んでから、その木組の裾を土で固めたことを示すものである。都出比呂志が指摘したように、竪穴の掘削土と周堤の土はほぼ同量と推算できるが、掘削土をそのまま周堤として竪穴の周囲にもりあげたのではなく、掘削土はいったん穴から離れた位置にとりおいておき、まず竪穴を覆う木組を組んで、その後、木組の裾に土を練りつけるようにして周堤を盛り上げ、固めていったとみるべきであろう。
 参考までにのべておくと、これは、古代中国建築における「暗礎」の手法とよく似ている。暗礎の場合、基壇を築成する中途段階で、礎石を配し、柱を立てる。柱を立てた状態で、基壇の版築を続けていくのである。こうすると、基壇上面に柱自体の痕跡は残るけれども、その掘形の痕跡は存在しえない。この基壇と暗礎の関係が、竪穴住居における周堤と斜材の関係に近いとわたしは考えている。

 なお、大阪の八尾南遺跡では、ほぼ完全な姿で周堤が出土した。そして、垂木の掘形痕跡が周堤上にみつからない一方で、周堤の一部外側に凸凹状の遺構を発見したことから、その凸凹遺構を垂木の接地痕跡と判断して、周堤の外側に垂木を接地させる復元案を想定している。これについては、以前批判したように、とても支持できない。上に示した木組の基礎としての周堤の意味がまったく失われてしまい、周堤の機能そのものが不明なアイデアであって、建築学の常識を無視し、遺構の出土状況を過度に尊重した解釈である。その過度に重視された凸凹の小ピットは、周堤まわり全域で確認されているわけでもなく、垂木の接地痕跡とみるには無理があるだろう。一方、群馬県の黒井峯遺跡(5世紀)では、火災流に押し倒された垂木が周堤からはねあがった痕跡が明瞭に残っている。垂木材が周堤の内部に納まっていた証拠である。

妻木山43号10模型作り01ラフ02縮小
 ↑ラフ模型(妻木晩田遺跡SI-43、以下すべてSI-43の復元模型もしくは復元図)

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  1. 2008/10/08(水) 15:57:53|
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玄人のひとりごと

 今日のゼミは3年がインターンシップ報告会、4年が卒業研究中間発表会の練習で、なかなか大変でした。でも、みんなよく準備してました。ただ、若干不安な人が約1名いますね・・・なんとかしてくれるでしょうが・・・  チェスト!!

 で、どういうわけか、さっきまで、麻雀をやっていたのね。相手は、よそのゼミの学生です。メンバーが3人しかいなくて、うち2人は初心者に近いレベルなもんで、わたしが加わらざるをえなかったというのが実情であります、ゴホン!
 麻雀をやったのは、何年ぶりだろうか。某研究所時代、発掘調査現場の休み時間によくナポレオンをやっていたんですよ、これが賭けトランプでしてね・・・1点1万円なんだから、みんなびくびくしながらカードをきってたもんです。なんちゃって、まったく嘘ですが、賭けはしないけれども、勝敗表を壁に貼ってまして、現場班でだれがいちばん強いか、一目瞭然でしたね。
 ナポレオンというカードゲームは、慎重でポーカーフェイスの男が強いに決まってるんです。だれがナポレオンになるか、みんな牽制しあうなかで、わたしのように「人のよい玄人」は負けを覚悟でナポレオンになってやるんだ。でもさ、どうしても勝ちたい輩は沈黙したまま時の経つのを待っている。負けるが勝ちってことを分かってないんじゃありませんかね・・・

 で、現場の打ち上げで、麻雀をやった記憶があるんですね。ナポレオンと麻雀を両方やったのが、たぶん15年ぐらい前ですよ。だから、15年ぶりに麻雀をしたんです。相手は学生ですが、容赦はせんのね。やっぱり1点1万円ですからね。素人だろうがなんだろうが、1点1万円なんだから。
 半チャンでまるまる3時間かかりましたよ。おかげで原稿はまったく進まず、授業の準備もできない・・・でもね、半チャンもこなさずに終わるわけにはいかない。
 今日のわたしは「負けない麻雀」に徹しました。敵がテンパッたら、降りていく。降りながら、チートイツ狙いに方針を切り替えて、じっと耐えながら反撃を狙っているんですが、結局、流局が多くて、時間をくいました。「東」場は配パイがわるく、ひたすら我慢の展開。右脇の3年生M君が快調に飛ばし、ポイントを増やしていきました。わたしは結局、「東」場では一度もあがれなかった。しかも、「東」場の最後に、リーチをかけた親のYさん(初心者)に、ドラを振り込んでしまったのです。Yさんは、なんとチートイツの単騎待ちでした。
 
   単騎のドラ待ちって、ドラマッチクね・・・

 「リーチ、チートイツ、ドラドラ」の親マンで、わたしは彼女に12000点も献上してしまったのです。あいかわらず、女子に弱いね・・・金額にして、1200万円、とほほ・・・
 しかし、その直後、反撃に転じたのよ。急に配パイが良くなり、今度はわたしがリーチ。ふりこんだのはYさんでした。「リーチ、リャンペイコー、ドラドラドラドラ」の倍マン。16000点だから、あっさり1600万円を取り返したのです。そして、「南」場の1局目、親になったわたしは2巡目でリーチ。「リーチ、タンヤオ、ドライチ」の手に対面のドラゴン君がふりこみ、5400点ゲット。しかし、その次の局では、ベテラン雀士M君のリーチに対してテンパッてしまい、リーチ返しが仇となって「ロン!」。3900点を失った。その後、親になったM君の局を流すため、ポンした「白」のみの役であがり(1000点)、「南」場も最終局へ。何度かの流局を経て、わたしは「メンタンピン、イーペイコー、ツモ」の満ガンであがり(8000点)。このときリーチ棒が4本たまっていたので、実質的には12000点獲得した。
 で、結果はですね、1位がM君で42000点、2位がわたしで40000点でした。やはり初心者のYさんとドラゴン君は沈んでしまいました。ご存じのとおり、元金は25000点なので、わたしの勝ち点は15000点。今日のシノギは1500万円でございます。
 3時間で1500万円だ。ギャンブルはやめられんね、だっはっはっは・・・


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  1. 2008/10/07(火) 23:45:16|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅳ)

s妻木山43号06茅堆積01


南谷大山から妻木晩田まで

 わたしが初めて焼失竪穴住居跡と出会ったのは1992年のことである。鳥取県羽合町(現湯梨浜町)の南谷大山遺跡でみた2棟の焼失竪穴住居跡に大きな衝撃をうけた。床面上に「垂木」と推定される板材や棒材が集中して横たわっており、その上には炭化した茅が「垂木」に直交して堆積していた。おもしろいものだと思った。こういう焼失住居跡を研究すれば、竪穴住居の上屋構造は「想像復元」の域をはるかに超えて「実証的復元」のレベルに近づける。この実証的復元に向けてのチャレンジがなによりわたしを魅了した。ちょうどそのころ勤務先の平城宮跡では朱雀門・東院庭園・第1次大極殿の復元プロジェクトが併行して進んでいたのだが、かすかな情報しかない遺構から複雑きわまりない上屋構造をパッチワークのように「想像復元」する事業そのものに、わたしは多大な不信感を抱いており、その反作用として、焼失竪穴住居跡の実証的復元研究に没頭していくようになったのである。

南谷大山01 南谷大山の焼失竪穴住居跡ASI01(弥生時代後期後葉)とBSI20(古墳時代前期前葉)は、主柱よりも内側がよく焼けており、炭化木材は主柱の外側に集中していた。この焼失状況を重視し、当時は梁・桁までを茅葺き下地の土屋根、梁桁より上を茅葺きとする「二段伏屋」式構造に復元したのだが、茅葺き下地にのる土の範囲については未だよく分かっていない。屋根全体にひろがる場合もあれば、屋根の裾側にしか載らない場合もあるだろう。これについては後述する。

 その後、1996年に岩手県一戸町の御所野遺跡西区で縄文中期末(約4000年前)の焼失住居群が発見され、調査から施工までの全プロセスに係わった。これについては、すでに縄文建築シリーズで詳述したとおりである。さらにその後、2000年に鳥取県の妻木晩田遺跡で、日本有数の焼失竪穴住居跡がみつかった。それは妻木山地区のSI-43(弥生後期)である。弥生時代の住居跡として、上部構造の情報を最もよく残す遺構であると断言できる。弥生時代の住居を復元するにあたって、妻木晩田遺跡妻木山SI-43を避けて通ることはできない。

妻木山43号01全景02縮小

妻木山43号02平面01焼失状況02縮小 SI-43は隅丸方形の竪穴住居跡である。平面規模は長軸方向(北西-東南)で4.98m、短軸方向(北東-南西)で4.62mを測る。竪穴の床面直上からは、妻木晩田9期の土器片が出土しており、存続年代は弥生時代後期後葉(2世紀後半)頃と推定される。主柱穴の底径は22~30㎝であるが、驚いたことに、柱穴P4上には高さ8㎝、径10~12㎝の炭化した柱材が立っており、その地下部分は空洞化していた。床面の深さは遺構検出面から約40㎝。主柱穴の位置は隅に近く、壁から50㎝ほどしか離れていない。柱間寸法はP1-P2が228㎝、P2-P3が275㎝、P3-P4が252㎝、P4-P1が258㎝を測り、長軸すなわち主軸の北東側があきらかに縮んでいる。一般的に竪穴住居の入口は主軸のどちらか一方にあるとされるが、南西側には壁溝が検出されているので、柱間の短いP1-P2側を入口とみた。中央ピットP5は竪穴の中心ではなく、わずかにP1-P2側に位置する。この配置もまたP1-P2側が入口にあたることの裏付けとなるかもしれない。山陰地方の竪穴住居に特有な中央ピットについては、妻木晩田遺跡では中央ピットから1条もしくは複数の溝が周壁にのびており、さらに周堤を貫いて竪穴の外にまでのびる例が多数検出されている。この溝は床面に滲み出す水分の排出溝とみまなしうるので、中央ピットは水溜の可能性が高いであろう。SI-43ではP5を囲むようにして、赤褐色もしくは暗赤褐色の焼土面が3ヶ所に残る。水溜の周辺に地床炉を配していたということであろう。
 妻木山43号02平面02床面02縮小 妻木山43号03垂木01平行01 妻木山43号05柱穴01




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  1. 2008/10/06(月) 05:12:54|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅲ)

松菊里型住居の拡散と土屋根

 鳥取県における松菊里型住居の最古例は琴浦町の上伊勢第1遺跡竪穴住居1(弥生前期後葉)である。この住居跡は旧地表の削平が著しく、竪穴のエッジ部分を残していない。遺構検出面では、平地面に5本の主柱穴が配列し、その中央に楕円形ピットと2柱穴をともなう。竪穴のエッジは検出されていないが、五角形主柱配列との平行関係から類推すれば、竪穴の形状は円形に近いものであったろう。濱田竜彦[2006]は、縄文晩期(古海式併行期)の伯耆町三部野遺跡で近似する5角形主柱穴配列が認められることから、以下のように述べている。

   事例が少なく、推測の域をでないが、上伊勢第1遺跡竪穴住居1の主柱穴の
   配置は三部野遺跡例に近似しており、在地系譜の住居に、いわゆる松菊里型
   住居の属性が付加されているようにみえる。

 山陰には縄文晩期までに松菊里型住居のなかのいわゆる「北牟田型」が伝来しており、濱田の推定にしたがうならば、その平面は在地系縄文住居と松菊里型住居の重層としてとらえうるであろう。わたしもこの見方を支持したい。山陰では、その後、弥生中期~後期前半頃の集落遺跡で松菊里型住居が散見される。鳥取市の下味野童子山遺跡SI-01はその末端に位置づけうる遺構であり、建築史学の立場からなにより注目したいのは、それが「神辺型」(あるいは李健茂のいうB型)の焼失住居跡であるということだ。いずれまとめて述べることになるけれども、焼失住居跡として炭化物を多く残す竪穴住居跡の大半は土屋根の上屋構造に復元される。土屋根で覆われていたからこそ、火災時にあっても、密封状態の住居内部は酸欠状態となり、木造の部材は不完全燃焼のまま倒壊してしまう。これが草屋根であれば、もっと燃えやすく、炭化材は多く残らない。下味野童子山遺跡SI-01の場合、板状垂木と目される炭化部材の上側に屋根土と推定される焼土が堆積していることからも、土屋根の上部構造であったのは間違いと思われる。
 松菊里型住居が土屋根に復元されることについて、わたしは驚きの念を禁じ得なかった。弥生時代の土屋根と草屋根の分布構造の違いについて、以下のような単純な図式を描いていたからである。

  近畿・山陽・北九州=平野部=環濠集落 =草葺き住居(源流は松菊里型)
  北陸・山陰・東北 =山間部=高地性集落 =土屋根の住居(源流は縄文住居)

上はあくまで地域性を示す大枠の図式であって、たとえば、近畿・山陽・北九州の山間部に縄文系の土屋根住居が存在することは承知の上で呈示したものであった。一方、下味野童子山遺跡SI-01の場合、縄文系の土屋根住居が卓越するとみていた山陰地方の高地性集落で発見された松菊里型住居であるが、上屋構造は草葺きではなく、土屋根に復元される。これについては、「北牟田型」の平面と同様の理解が可能であろう。「北牟田型」の松菊里型住居が在地系の多角形配列住居の中心部に松菊里型の「中央ピット+2本柱」が導入された平面の重層性を示すのと同様に、土屋根の松菊里型住居も大陸系の平面に縄文系の屋根が複合化した重層的建築として理解することも不可能ではないのである。ただし、後者の場合、古い松菊里型住居の屋根材料があきらかになっているわけでもない。初期の松菊里型住居は最古例の北九州でみるように、環濠集落や水田稲作との複合性が顕著であり、どうしても低湿地の「草屋根」という先入観を抱きがちだが、それはあくまで推定の域をでないものである。

松菊里型住居の拡散 一方、岡村道雄[2008]の焼失建物資料集成によれば、広島市の塔之原遺跡、広島県庄原市の和田原E地点遺跡、広島県高田郡の植谷遺跡、愛知県海部郡志賀公園遺跡などで、炭化材や焼土層をともなう焼失遺構としての松菊里型住居が確認されている。なお、岡村は現在、全国47都道府県のうち8都府県のデータを集成した段階であり、そのうち広島と愛知に焼失遺構としての松菊里型住居が確認された、ということである。したがって、全国的に集成が進めば、さらに多くの地域で土被覆の松菊里型住居例を知ることになるであろう。いずれにしても、松菊里型住居(の一部?)は山陰に伝播する以前から土で覆われるようになった可能性がきわめて高いと言える。こうなると、国内の起源地である北九州の様相が気にかかるが、現状では土屋根に復元しうる松菊里型住居の焼失遺構はみつかっていないようだ。しかし、焼失遺構が存在しないから「草葺き」であると断定することはできない。
 たとえば、以下のような点が気にかかる。検丹里遺跡などに代表される朝鮮半島無文土器時代の環濠集落は丘陵上に営まれ、環濠は「濠」(水を溜めた堀)ではなく「壕」(空堀)であった。また、魏志馬韓伝や後漢書馬韓伝には、馬韓の住居が中国の「塚」に似た土饅頭のような姿の竪穴住居であることを記している。こうしたデータを参考にするならば、導入期の松菊里型住居が草葺きであったと言い切れる保証はない、というのが現状である。
 なお、縄文と弥生の土屋根は、建物の上屋に土を被せるという点で共通しているが、下地は異なっている。弥生時代の多くの焼失住居跡で垂木上に茅を検出するのに対して、北海道・東北地方の焼失住居跡の集成を進めている高田和徳によれば[浅川編2008]、後期頃までの縄文住居で茅がみつかることはほとんどなく、下地は樹皮を想定すべきであるという。すなわち、縄文時代の「樹皮葺き下地+土被覆」から、弥生時代の「茅葺き下地+土被覆」への変化があったと言えるわけで、これは「茅葺き」が弥生時代にひろく普及していたことの証と言える。

  1. 2008/10/05(日) 00:51:01|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅱ)

松菊里型住居の上屋構造

 2007年2月5日、妻木晩田遺跡事務所の体験学習室で、鳥取県主催の2006年度「課題対応スキル向上事業」が開催された。そのときのテーマは「考古遺跡発掘調査担当職員に対する古建築講座」。実質的には焼失竪穴住居跡から、その上屋構造を復元しようという試みである。当日、24名の文化財主事が講座に参加し、5班に分かれて遺構から1/20スケールの復元模型を制作することになった。その5つの住居遺構のなかに、未知の松菊里型住居が含まれていたのである。

下味野データ 鳥取市の下味野童子山遺跡SI-01は弥生中期中葉の松菊里型住居で、2002年に千代川左岸の丘陵部(標高約40m)でみつかった。竪穴の平面は円形を呈し、復元径は約4.2m、遺構検出面からの深さは最大で58cmを測る。竪穴の際には深さ5cmばかりの壁溝がめぐり、主柱穴は中央ピットの外側にあって、2柱の柱間寸法は1.70m。主柱穴の中間には、松菊里型住居特有の楕円形ピットをともなう。土層断面に柱の痕跡はみとめられず、埋土は焼土ブロックや炭片を多く含む灰黄褐色粘質土であった。竪穴の内部では、掘り下げ当初から、焼土および炭片の出土が目立ち、主柱穴間周辺および北側壁面一帯にかけて厚い焼土に覆われ、柱穴P-02東側付近の床面で東西に軸をもつ板状の炭化材が複数検出された。これは垂木材と推定される。住居の中央には後世の根堀とみられる径2mの円形の撹乱穴もあり、その周辺部で焼土が確認された。北西側壁面は削平されている。さらに、住居の東半で壁面に沿う位置に土圧で潰れた土器8個体分が床面から出土した。以上の出土状況からみて、あきらかに焼失住居であり、土器はある程度元の位置を反映していると考えられる。
 また、SI-01の山側の外周行域に弧状の溝SD-01が掘られる。SD-01はSI-01の周堤溝と考えられる。SI-01の竪穴壁からSD-01までの距離は約80cm。溝の残存長6.8m、幅1.3m、深さ40cmを測る。断面は椀状で、埋土からSI-01と同時期の土器片などが出土している。

童子山遺跡写真1s 昨日、江辻遺跡の松菊里型住居平面を使った板付遺跡の復元建物を批判したが、わたし自身、下味野童子山遺跡SI-01の知見を得る以前に、松菊里型住居の復元について検討した経験はない。板付の復元建物については、ただ「煙抜がない」という一点において上屋構造の復元が間違っていると直感したまでのことである。
 2007年2月の講座では、下味野童子山遺跡SI-01の上屋構造を男女5人のメンバーで復元していただいた。もちろんわたしは復元に口を挟んだ。松菊里型住居に特有な2本柱を頂点として二つのケツンニ(3脚)を組み、両者の頂部を短い棟木でつないで垂木を扇状にめぐらせるよう指示したのである。模型の出来映えは上々で、会の終了時に「今回の遺構復元では最も学術価値が高い試み」だと講評した。しかし、会の終了後数日して、その復元案に疑問を抱くようになった。下味野童子山遺跡SI-01の平面はほぼ円形を呈しているにも拘わらず、2組のケツンニをベースとする屋根構造は円錐形にならない。垂木尻の軌跡が楕円形を描くのである。ここに平面と構造の不一致が露呈した。復元の考えかたが間違っていることの証にほかならない。
 その後、わたしは当時のブログに朱色で以下のように追記している。

 追記: 今回はケツンニを2本使って棟をつないだが、平面はほぼ完全な円形を呈しており、2本使うべきかどうかについて考え直していた。おそらく、ケツニンは1つでその頂点は円形平面の中心に位置する。その頂点から竪穴の全周をめぐるように垂木が配列する。これは円錐形テントの構造と同じである。2本の棟持柱は煙出(越屋根)の棟木をうけるために配置されたもので、棟木は円錐構造の頂点と2本の柱で支持されていたのではないか。こういう構造は草屋根には適しているが、土を被せていたとしたら垂木が撓んできたであろう。いちど模型をつくりなおしてみるほかなさそうだ。(2007年2月10日記)

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  1. 2008/10/04(土) 00:21:00|
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居住の技術 -弥生時代(Ⅰ)

板付02


松菊里型住居とはなにか

 弥生時代の住居は、縄文時代の晩期に朝鮮半島からもたらされた「松菊里型住居」と縄文住居の重層として展開する。「松菊里型住居」が最初に発見されたのは、1968年のことである。韓国忠清南道の休岩里遺跡でみつかった住居跡は、円形平面の中央に大きな楕円形ピットをもち、左右対称の位置に2本の主柱穴が掘られていた。この特異な住居平面が発掘当初から注目されていたとすれば、「休岩里型住居」という呼称が与えられて然るべきであった。しかし、休岩里遺跡の報告書は1990年になってようやく刊行されたため、1975年から調査が始まった同じ忠清南道の松菊里遺跡での発見例が先行して有名になってしまったという経緯がある。それを学術用語として、最初に論文で使用したのは日本人の中間研二[1987]であった。中間は、「松菊里型住居」を朝鮮半島無文土器(青銅器)時代中期の住居としている。日本の縄文時代晩期から弥生時代中期にほぼ併行する時代である。

松菊里02 休岩里および松菊里での出土以降、今日に至るまで、続々と「松菊里型住居」の発見例が報告されているが、その分布は朝鮮半島西南部にとどまらず、日本列島西部のほぼ全域にひろがり、その東限は愛知県あたりであるという。これだけひろい範囲でみつかるからには、当然のことながら、平面も多様化してみえるのだが、「松菊里型住居」と呼ばれる類型に共有される特徴は、平面の中央に設けられる楕円形の中央ピットとその内側もしくは外側に近接して設けられる左右対称の2本主柱である。床面の平面形状は円形もしくは楕円形が大半を占めるが、まれに隅丸長方形を呈する場合もある。また、<中央ピット+2本主柱>以外の外周域に4本柱もしくは多角形配列の主柱をともなう類型も少なくない。とくに日本の出土例については、石野博信[1985]が<中央ピット+2本主柱>のみの平面を「神辺型」、<中央ピット+2本主柱>の外側に多角形配列の主柱をもつタイプを「北牟田型」と呼び分けて類型化している。じつは後者、すなわち「北牟田型」こそが、縄文時代の住居に特有な多角形主柱配列の平面に朝鮮半島起源の松菊里型住居の中心部分が取り込まれた「縄文+松菊里」重層の状況を平面的に示すものと考えられる。

 一方、李健茂は朝鮮半島で出土した松菊里型住居を類型化するにあたって、中央ピットのみで柱穴がまったく存在しないC型を設定している。A型は2本主柱が中央ピットに内接するタイプ、B型は2本主柱が中央ピットの外にでるタイプ、C型はいわば「無柱型」である。A型とB型を一括して松菊里型とするのは問題ないとしても、2本主柱の存在しないC型までも松菊里型に含めてよいものかどうか、もちろん議論の分かれるところであろう。ただし、松菊里型住居の場合、楕円形中央ピットの存在がきわめて特異であり、その機能について幾多の推論がなされてきたが、作業場説、灰穴炉説、水溜穴説など、いずれの解釈も一長一短で、未だ決定的な理解を得るに至っていない。作業をするために楕円形の穴を掘る意味があるとは思えず、灰穴炉や水溜穴だとすれば、A型のようなピット内接柱は水に浸かるか火に焼かれることになる。A型を原初型と理解するならば、2本主柱を一括して地面に掘り入れるための地業のような役割(いわゆる布掘)として理解できなくもないだろうが、B型の場合、柱がピットの外に出るのだから、中央ピット=布掘地業説も成立しがたい。これについては、C型=「無柱型」の構造を検討するにあたって、再度考察を加えてみたい。

松菊里01 さて、日本国内におけるこの種の住居の最古例は、福岡県糟屋郡粕屋町の江辻遺跡(前5世紀)の環濠内部でみつかった11棟の住居遺構である。ここでは、松菊里型住居群に数棟の梁間1間×桁行5間の掘立柱建物(おそらく高床倉庫)が複合化し、水田稲作の痕跡も確認されている。江辻の松菊里型住居は円形平面で、楕円形中央ピットに2本主柱が外接している。この住居跡の復元は江辻の南西約8㎞にある福岡市板付遺跡(前4世紀)の整備で実践された。復元された上屋構造は2本の主柱を棟持柱として短い棟をもつ寄棟造であり、不思議なことに、出入口以外に煙抜の開口部を備えていない。これでは中に住む人が薫製化してしまうから、正しい復元であるとは言えないであろう。
 それでは、松菊里型住居の上部構造をどう考えるべきなのであろうか。(続)

板付01


  1. 2008/10/03(金) 01:30:47|
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