松菊里型住居とはなにか 弥生時代の住居は、縄文時代の晩期に朝鮮半島からもたらされた「松菊里型住居」と縄文住居の重層として展開する。「松菊里型住居」が最初に発見されたのは、1968年のことである。韓国忠清南道の休岩里遺跡でみつかった住居跡は、円形平面の中央に大きな楕円形ピットをもち、左右対称の位置に2本の主柱穴が掘られていた。この特異な住居平面が発掘当初から注目されていたとすれば、「休岩里型住居」という呼称が与えられて然るべきであった。しかし、休岩里遺跡の報告書は1990年になってようやく刊行されたため、1975年から調査が始まった同じ忠清南道の松菊里遺跡での発見例が先行して有名になってしまったという経緯がある。それを学術用語として、最初に論文で使用したのは日本人の中間研二[1987]であった。中間は、「松菊里型住居」を朝鮮半島無文土器(青銅器)時代中期の住居としている。日本の縄文時代晩期から弥生時代中期にほぼ併行する時代である。

休岩里および松菊里での出土以降、今日に至るまで、続々と「松菊里型住居」の発見例が報告されているが、その分布は朝鮮半島西南部にとどまらず、日本列島西部のほぼ全域にひろがり、その東限は愛知県あたりであるという。これだけひろい範囲でみつかるからには、当然のことながら、平面も多様化してみえるのだが、「松菊里型住居」と呼ばれる類型に共有される特徴は、平面の中央に設けられる楕円形の中央ピットとその内側もしくは外側に近接して設けられる左右対称の2本主柱である。床面の平面形状は円形もしくは楕円形が大半を占めるが、まれに隅丸長方形を呈する場合もある。また、<中央ピット+2本主柱>以外の外周域に4本柱もしくは多角形配列の主柱をともなう類型も少なくない。とくに日本の出土例については、石野博信[1985]が<中央ピット+2本主柱>のみの平面を「神辺型」、<中央ピット+2本主柱>の外側に多角形配列の主柱をもつタイプを「北牟田型」と呼び分けて類型化している。じつは後者、すなわち「北牟田型」こそが、縄文時代の住居に特有な多角形主柱配列の平面に朝鮮半島起源の松菊里型住居の中心部分が取り込まれた「縄文+松菊里」重層の状況を平面的に示すものと考えられる。
一方、李健茂は朝鮮半島で出土した松菊里型住居を類型化するにあたって、中央ピットのみで柱穴がまったく存在しないC型を設定している。A型は2本主柱が中央ピットに内接するタイプ、B型は2本主柱が中央ピットの外にでるタイプ、C型はいわば「無柱型」である。A型とB型を一括して松菊里型とするのは問題ないとしても、2本主柱の存在しないC型までも松菊里型に含めてよいものかどうか、もちろん議論の分かれるところであろう。ただし、松菊里型住居の場合、楕円形中央ピットの存在がきわめて特異であり、その機能について幾多の推論がなされてきたが、作業場説、灰穴炉説、水溜穴説など、いずれの解釈も一長一短で、未だ決定的な理解を得るに至っていない。作業をするために楕円形の穴を掘る意味があるとは思えず、灰穴炉や水溜穴だとすれば、A型のようなピット内接柱は水に浸かるか火に焼かれることになる。A型を原初型と理解するならば、2本主柱を一括して地面に掘り入れるための地業のような役割(いわゆる布掘)として理解できなくもないだろうが、B型の場合、柱がピットの外に出るのだから、中央ピット=布掘地業説も成立しがたい。これについては、C型=「無柱型」の構造を検討するにあたって、再度考察を加えてみたい。

さて、日本国内におけるこの種の住居の最古例は、福岡県糟屋郡粕屋町の江辻遺跡(前5世紀)の環濠内部でみつかった11棟の住居遺構である。ここでは、松菊里型住居群に数棟の梁間1間×桁行5間の掘立柱建物(おそらく高床倉庫)が複合化し、水田稲作の痕跡も確認されている。江辻の松菊里型住居は円形平面で、楕円形中央ピットに2本主柱が外接している。この住居跡の復元は江辻の南西約8㎞にある福岡市板付遺跡(前4世紀)の整備で実践された。復元された上屋構造は2本の主柱を棟持柱として短い棟をもつ寄棟造であり、不思議なことに、出入口以外に煙抜の開口部を備えていない。これでは中に住む人が薫製化してしまうから、正しい復元であるとは言えないであろう。
それでは、松菊里型住居の上部構造をどう考えるべきなのであろうか。(続)
- 2008/10/03(金) 01:30:47|
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