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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

居住の技術 -弥生時代(Ⅲ)

松菊里型住居の拡散と土屋根

 鳥取県における松菊里型住居の最古例は琴浦町の上伊勢第1遺跡竪穴住居1(弥生前期後葉)である。この住居跡は旧地表の削平が著しく、竪穴のエッジ部分を残していない。遺構検出面では、平地面に5本の主柱穴が配列し、その中央に楕円形ピットと2柱穴をともなう。竪穴のエッジは検出されていないが、五角形主柱配列との平行関係から類推すれば、竪穴の形状は円形に近いものであったろう。濱田竜彦[2006]は、縄文晩期(古海式併行期)の伯耆町三部野遺跡で近似する5角形主柱穴配列が認められることから、以下のように述べている。

   事例が少なく、推測の域をでないが、上伊勢第1遺跡竪穴住居1の主柱穴の
   配置は三部野遺跡例に近似しており、在地系譜の住居に、いわゆる松菊里型
   住居の属性が付加されているようにみえる。

 山陰には縄文晩期までに松菊里型住居のなかのいわゆる「北牟田型」が伝来しており、濱田の推定にしたがうならば、その平面は在地系縄文住居と松菊里型住居の重層としてとらえうるであろう。わたしもこの見方を支持したい。山陰では、その後、弥生中期~後期前半頃の集落遺跡で松菊里型住居が散見される。鳥取市の下味野童子山遺跡SI-01はその末端に位置づけうる遺構であり、建築史学の立場からなにより注目したいのは、それが「神辺型」(あるいは李健茂のいうB型)の焼失住居跡であるということだ。いずれまとめて述べることになるけれども、焼失住居跡として炭化物を多く残す竪穴住居跡の大半は土屋根の上屋構造に復元される。土屋根で覆われていたからこそ、火災時にあっても、密封状態の住居内部は酸欠状態となり、木造の部材は不完全燃焼のまま倒壊してしまう。これが草屋根であれば、もっと燃えやすく、炭化材は多く残らない。下味野童子山遺跡SI-01の場合、板状垂木と目される炭化部材の上側に屋根土と推定される焼土が堆積していることからも、土屋根の上部構造であったのは間違いと思われる。
 松菊里型住居が土屋根に復元されることについて、わたしは驚きの念を禁じ得なかった。弥生時代の土屋根と草屋根の分布構造の違いについて、以下のような単純な図式を描いていたからである。

  近畿・山陽・北九州=平野部=環濠集落 =草葺き住居(源流は松菊里型)
  北陸・山陰・東北 =山間部=高地性集落 =土屋根の住居(源流は縄文住居)

上はあくまで地域性を示す大枠の図式であって、たとえば、近畿・山陽・北九州の山間部に縄文系の土屋根住居が存在することは承知の上で呈示したものであった。一方、下味野童子山遺跡SI-01の場合、縄文系の土屋根住居が卓越するとみていた山陰地方の高地性集落で発見された松菊里型住居であるが、上屋構造は草葺きではなく、土屋根に復元される。これについては、「北牟田型」の平面と同様の理解が可能であろう。「北牟田型」の松菊里型住居が在地系の多角形配列住居の中心部に松菊里型の「中央ピット+2本柱」が導入された平面の重層性を示すのと同様に、土屋根の松菊里型住居も大陸系の平面に縄文系の屋根が複合化した重層的建築として理解することも不可能ではないのである。ただし、後者の場合、古い松菊里型住居の屋根材料があきらかになっているわけでもない。初期の松菊里型住居は最古例の北九州でみるように、環濠集落や水田稲作との複合性が顕著であり、どうしても低湿地の「草屋根」という先入観を抱きがちだが、それはあくまで推定の域をでないものである。

松菊里型住居の拡散 一方、岡村道雄[2008]の焼失建物資料集成によれば、広島市の塔之原遺跡、広島県庄原市の和田原E地点遺跡、広島県高田郡の植谷遺跡、愛知県海部郡志賀公園遺跡などで、炭化材や焼土層をともなう焼失遺構としての松菊里型住居が確認されている。なお、岡村は現在、全国47都道府県のうち8都府県のデータを集成した段階であり、そのうち広島と愛知に焼失遺構としての松菊里型住居が確認された、ということである。したがって、全国的に集成が進めば、さらに多くの地域で土被覆の松菊里型住居例を知ることになるであろう。いずれにしても、松菊里型住居(の一部?)は山陰に伝播する以前から土で覆われるようになった可能性がきわめて高いと言える。こうなると、国内の起源地である北九州の様相が気にかかるが、現状では土屋根に復元しうる松菊里型住居の焼失遺構はみつかっていないようだ。しかし、焼失遺構が存在しないから「草葺き」であると断定することはできない。
 たとえば、以下のような点が気にかかる。検丹里遺跡などに代表される朝鮮半島無文土器時代の環濠集落は丘陵上に営まれ、環濠は「濠」(水を溜めた堀)ではなく「壕」(空堀)であった。また、魏志馬韓伝や後漢書馬韓伝には、馬韓の住居が中国の「塚」に似た土饅頭のような姿の竪穴住居であることを記している。こうしたデータを参考にするならば、導入期の松菊里型住居が草葺きであったと言い切れる保証はない、というのが現状である。
 なお、縄文と弥生の土屋根は、建物の上屋に土を被せるという点で共通しているが、下地は異なっている。弥生時代の多くの焼失住居跡で垂木上に茅を検出するのに対して、北海道・東北地方の焼失住居跡の集成を進めている高田和徳によれば[浅川編2008]、後期頃までの縄文住居で茅がみつかることはほとんどなく、下地は樹皮を想定すべきであるという。すなわち、縄文時代の「樹皮葺き下地+土被覆」から、弥生時代の「茅葺き下地+土被覆」への変化があったと言えるわけで、これは「茅葺き」が弥生時代にひろく普及していたことの証と言える。

  1. 2008/10/05(日) 00:51:01|
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