周堤の意味 遺構から建物を復元するにあたって、まず最初になすべき作業は地形の復元である。発掘調査で遺構を検出する面は先史・古代の人びとが生活した地面ではない。大半の場合、旧地表面は後世の整地などによって削りとられており、遺構があらわれる検出面は旧地表面より20~50センチばかり低いレベルにあるのが一般的である。これをもとの地形に戻す作業は容易ではないけれども、発掘調査を担当した考古学者と共同で旧地形を復元的に再現しておかなければならない。とりわけ竪穴住居の場合、旧地表面の掘削により、竪穴が浅めに検出されるので、当初の深さを執拗に検討しておく必要がある。

竪穴周囲の旧地表面には周堤がめぐる。一般の竪穴住居跡では、周堤の痕跡をとどめる遺構は少ない。後述するように、竪穴の掘削土は周堤土として使われるものと思われるが、住居廃棄後は再び竪穴に埋め戻される。ただし、
周堤溝がしばしば発見される。周堤の外側にあって雨水や地中の水分を溜めて排水する溝で、地面に傾斜がある場合、馬蹄形を呈する。周堤が立体的に姿をとどめるケースは例外的であるけれども、上の写真(↑)にみるように、妻木晩田遺跡の洞ノ原地区では大型円形住居の一つに、幅3~5m、高さ30~50㎝の周堤が残っていた。この住居の周堤に、垂木やサスなどの斜材を掘りこんで埋めた痕跡はまったくみとめられない。これは、竪穴の周辺に小屋組を組んでから、その木組の裾を土で固めたことを示すものである。都出比呂志が指摘したように、竪穴の掘削土と周堤の土はほぼ同量と推算できるが、掘削土をそのまま周堤として竪穴の周囲にもりあげたのではなく、掘削土はいったん穴から離れた位置にとりおいておき、まず竪穴を覆う木組を組んで、その後、木組の裾に土を練りつけるようにして周堤を盛り上げ、固めていったとみるべきであろう。
参考までにのべておくと、これは、古代中国建築における「暗礎」の手法とよく似ている。暗礎の場合、基壇を築成する中途段階で、礎石を配し、柱を立てる。柱を立てた状態で、基壇の版築を続けていくのである。こうすると、基壇上面に柱自体の痕跡は残るけれども、その掘形の痕跡は存在しえない。この基壇と暗礎の関係が、竪穴住居における周堤と斜材の関係に近いとわたしは考えている。
なお、大阪の八尾南遺跡では、ほぼ完全な姿で周堤が出土した。そして、垂木の掘形痕跡が周堤上にみつからない一方で、周堤の一部外側に凸凹状の遺構を発見したことから、その凸凹遺構を垂木の接地痕跡と判断して、周堤の外側に垂木を接地させる復元案を想定している。これについては、以前
批判したように、とても支持できない。上に示した木組の基礎としての周堤の意味がまったく失われてしまい、周堤の機能そのものが不明なアイデアであって、建築学の常識を無視し、遺構の出土状況を過度に尊重した解釈である。その過度に重視された凸凹の小ピットは、周堤まわり全域で確認されているわけでもなく、垂木の接地痕跡とみるには無理があるだろう。一方、群馬県の黒井峯遺跡(5世紀)では、火災流に押し倒された垂木が周堤からはねあがった痕跡が明瞭に残っている。垂木材が周堤の内部に納まっていた証拠である。

↑ラフ模型(妻木晩田遺跡SI-43、以下すべてSI-43の復元模型もしくは復元図)
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- 2008/10/08(水) 15:57:53|
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