打出遺跡SI01の復元 焼失住居の遺構解釈と上屋構造の復元について、富山市
打出遺跡で出土した焼失住居跡SI01(弥生終末期)を例にとって具体的に述べてみよう。
出土状況: 打出遺跡SI01は4本主柱をもつ隅丸方形の竪穴住居跡である。ただし、北辺が南辺に比べてわずかに短く、南辺では直線状の部分が2.0m弱みとめられるのに対し、北辺は扇状にまるまっている。規模は長軸8.4m、短軸7.6mを測るが、柱筋で比較すると、南側のP06-P09ライン上での竪穴幅が約7.4m、北側のP10-P11ライン上の竪穴幅が8.3mで、あきらかに北辺側がひろくなっている。柱間寸法をみても、棟通りにほぼ平行する桁行方向ではP09-P10とP06-P11が3.75m等間であるのに対し、梁行方向ではP06-P09が2.98m、P10-P11が3.10mを測り、やはり北側がわずかに長い。

床面積は壁溝内側で44.9㎡。ほぼ全面に地山土と類似した厚さ5㎝の貼床が施されており、壁溝(深さ約15㎝)も攪乱部分をのぞいて全域にめぐる。一方、床面のほぼ中央に楕円形のピットが複数重複してみつかっている。床面のほぼ中央にある複数のピットのうち、P03を排水用の「中央ピット」、P05を炉の痕跡と調査担当者はみている。入口については東辺のほぼ中央外側で、小ピット2基(P13・P14)が下層遺構SI04の床面でみつかっており、これを戸柱の痕跡としているが、竪穴のエッヂに近接しすぎており、深さも4~8㎝と浅いので、戸柱痕跡と断定できるわけではない。今回の復元では、直線部分の長い南辺に入口があったものと仮定した。

4本主柱穴には、いずれも柱痕跡が残っており、柱径は140~180㎝に復元される。
竪穴の深さは、遺構検出面から60cmを測る。調査担当者は旧地表面を遺構検出面プラス10cm程度と想定しているので、旧地表面からみた竪穴の深さは約70cmに復元できる。周堤については、近隣の高岡市下老子笹川遺跡の平地住居跡(弥生後期)などを参考にすると、幅2.5~3.0m、高さは50㎝前後に復元できよう。旧地表面との関係からみて、周堤の外側をめぐる周溝は掘られていなかったと考えられる。
炭化材と炭化茅: SI01は、竪穴内部のほぼ全域に炭化材を残す良質の焼失住居跡であるけれども、4本主柱の内側に炭化材と焼土が少なく、4本主柱の外側で炭化材と炭化茅を多く残す。これは、1)4本主柱より内側に天窓もしくは越屋根状の煙抜が存在していた可能性、2)主柱より内側の屋根に下地としての茅葺が露出していた可能性、のどちらかを示唆するものである。一方、主柱より外側に炭化材・炭化茅が多いのは、そこが土屋根に覆われて、不完全燃焼を強いられた結果とみなせよう。

なお、周堤に接する内側の棚上部分とその近くにも建築材は存在したはずだから、ここに炭化材が残っていても不思議ではない。実際、2005年に発掘調査された鳥取県琴浦町箆津の
乳母ヶ谷第2遺跡の焼失住居跡(弥生後期)では炭化材と炭化茅を周堤上に残していた。しかし、乳母ヶ谷は例外的に室内で火のまわりが著しく激しかった例と考えられる。大半の焼失住居では、周堤上もしくはその隣接部分に炭化材を残さない。木組の裾部分は炭化せず、木材が腐食して痕跡をとどめなかったものと推定される。
一方、屋根土の痕跡とみられる焼土については、主柱の外側に集中して10~20㎝ほど堆積しているが、北西隅の周辺のみほとんどみとめられない。これについては、a)北西隅の屋根に土を被せていなかった可能性、b)北西隅に火熱がそれほど及ばなかった可能性の両方が想定される。北西隅では、他の部分よりいくぶん量は少ないが、炭化材はたしかに残っている。したがって、土に覆われていた可能性は十分あり、2004年の段階では b) と解釈した。ただし、大阪府八尾南遺跡(弥生後期)の竪穴住居跡の隅に刻梯子が発見され、隅入の存在が最近あきらかになっており、仮にSI01が隅入であったならば、a)とみることもできよう。これについては、次回以降に検討したい。
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- 2008/10/10(金) 22:18:41|
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