
というわけで、大晦日を迎えました。ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、大晦日はわたしの
誕生日でして、今年もまた営業用
バースデイ・メールがあちこちから届いております。

また1年棺桶に近づいたわけですが、先日の
四十九日法要での仏僧のお説教によりますと、臨死体験の成果などから「あの世」がほんとに存在する可能性があって、さらに同席していた従兄の科学者によると、宇宙物理学の4次元空間と宗教学の「あの世」はひょっとすると同じものかもしれない、との説まであるようです。で、大晦日の誕生日にアマゾンから立花隆『臨死体験』(古本で1円)と都筑卓司『四次元の世界-超空間から相対性理論へ-』(同196円)がどんぴしゃ届いたんです。これを読めば「死」が怖くなくなる。だって、死んだら4次元の世界に逝って、霊やUFOのように時空を飛びまわれるんだ・・・なんちゃって、読書する暇なんてあるわけないのです。
鳥取県埋文Cの原稿に追われてますからね。昨夜、ようやく序を書き上げて、編集者に送信したんですが、これから本文ですよ。先は長い。おまけに鼻風邪ひいちゃって、体調最悪です。
さきほどピヴォから連絡あり、帰省した岡村の指導のもと、エアポートとホカノの支援をうけて、加藤家住宅ツノヤの縁の修復の仮組が終わったとの報せをうけました。指導教官たるもの、現場にかけつけ、学生たちとともに体を動かし、夜は岡村の労をねぎらうぐらいのことはせんといかんのですが、体調は悪く、原稿に追われていて、奈良を動く気力が湧きませんでした。いや、岡村と学生諸君には謝るしかありません。ごめん! 「
倭文日誌」を読んで、しっかりコメントしますから、ご勘弁ください。

そういえば、昨日は宮本が事務所の社長からだと言って、出雲の蒲鉾をもってきてくれました。「だんだん」の蒲鉾です。そういえばそういえば、2~3日前にはノビタからも電話があったな。良い
グラッパがみつかったからプレゼントしたい、と。おそらく数万円のグラッパであろうと期待してるので、演習室においといてください。3万円の
カルヴァドスでも良いけどね。
今日は、ごらんのとおり、家族が誕生日を祝ってくれてます。音楽はやはりアマゾンから届いたばかりのフォープレイ『ビトウィーン・ザ・シーツ』。ボブ・ジェームス(kb)、ネイザン・イースト(b)、ハービー・メイソン(dr)にギターのリー・リトナーを加えた第1期フォープレイの2作めだったかな??
スムース・ジャズは、バースデイ・ケーキのBGMとして最適ですね。いまはギタリストがラリー・カールトンに替わっていて、ネット上の評価を読むと、リー・リトナー時代のほうが良かったという声が多いようなので、第1期・第2期の両方を取り寄せて聴き比べてみようと思ってます。ちなみに、フォープレイとは、もちろん Four Play のことですが、 Forplay にもひっかっけてるそうです。
おい、ノビタ! 分かるか、この掛詞(かけことば)?

↑デブの左のミルク・ソーサーが小鹿田焼です。柳宗悦の『
日田の皿山』(1955)も届きましたよ。うっすい古本なんだけど、高かったな・・・
- 2008/12/31(水) 16:37:40|
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ジェフ・ベックについては、『ブロウ・バイ・ブロウ』(1975)と『ワイアード』(1976)の2枚のLPだけもっていた。この2枚はジャズ・ロック=フュージョン系ギターインストの金字塔である。これに匹敵する作品といえば、ラリー・カールトンの『夜の彷徨』ぐらいしか思い浮かばない。
信じていただけないかもしれないが、学生時代、『ブロウ・バイ・ブロウ』収録のバラード「哀しみの恋人たち('Cause We've Ended As Lovers)」をよく練習したんですよ。今でもコード進行、覚えてるもの・・・出だしは、Cmadd9→A♭maj7→Fm7(13)→Csus4/C でしょ?
『ブロウ・バイ・ブロウ』 以前のベックについてはまったく興味がなく、『ワイアード』 以後のベックについては期待していたのだが、期待はずれのまま長い時間が過ぎて興味が失せてしまった。「哀しみの恋人たち」のような情感に訴えるギターは聴かれなくなり、ただ機械のように技巧的な演奏が耳障りになっていった。
この一月たらずのあいだに、その評価が反転した。またしてもユーチューブですよ。2006年の日本でのライブをみたんです。ジェフ・ベックは速弾きをなかば放棄し、音の選択とコントロールを最重視するギタリストに豹変していた。ずいぶん以前かららしいけれども、ベックはピックを使わず、ジョー・パスのような4フィンガーの肉引きで、小指は振動アームにひっかけて一つひとつの音に微妙な彩りを添えている。これを堕落とみる若いロック・ファンもいるようだが、インスト・ギタリストとしての頂点に近づく凄い進化だとわたしは感じた。
ふと、
ジャコ・パストリアスの演奏が頭をかすめた。1970年代、ウェザー・リポートのステージで「トレーシーの肖像」や「ティーン・タウン」を演奏するジャコの姿は神がかっている。ジャコの音楽は計算しつくされていた。じつに慎重に音を選択し作曲しており、即興のパートでもいたずらに指を動かそうとはしていない。
ベックも音を慎重に選択している。ジャコと違うのは、ベック自身、ほとんど作曲しないことだが、無駄なアドリブを避けて元曲の良さを引き出そうとしており、アドリブの部分もあらかじめ使う音を決めているように思われてならない。これと真反対のギタリストがアル・ディメオラであり、スティーヴ・ルカサーであり、
渡辺香津美だ。どんな曲を弾いても同じアドリブで、指を速く動かせばよいと思っている。
わたしの手元にはすでにベックのCDが4枚届いている。開封したのはまだ2枚だが、『ライヴ・ベック3 - Performing This Week... Live at Ronnie Scott's』(2008)はとくにお気に入りで、
九州のレンタカー紀行以来、長距離ドライビングには欠かせない音楽になってしまった。
今年、最も衝撃をうけたギタリストはジェフ・ベックだった。ハリーの『
ゲイトウェイ』とジェフ・ベックのライブシリーズはしばらく車の6連奏チェンジャーに納まったままだろう。
- 2008/12/31(水) 00:22:41|
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学生時代に近江坂本の町並み調査に参加していたことがあり、以来、蕎麦好きのわたしは坂本の老舗「
鶴喜」の味が忘れられなくなったんです。今年はどういうわけか、近江に行く機会が多く、
夏の訪問の最後に「鶴喜」に寄ったのですが、残念なことに、おおいに落胆してしまいました。緬は乾麺を茹でたもの、おつゆは缶売りの製品をそのまま使っている(に違いない)。でなければ、あんな味にはなるはずはありません。鶴喜は凋落してしまった・・・
その点、われらがそば切り「
たかや」の充実ぶりには胸を張れますね。とりわけ扇ノ山の辛み大根と蕎麦の相性は最高で、いまや蕎麦会における浅田真央かイチローのような存在に駆け上りつつあります。出雲だろうが、信州だろうが、越後だろうが、どことでも勝負できますよ、「たかや」は。そういえば、京都は御池の「
そば倉」が潰れてしまったから、辛み大根の「おろし蕎麦」と冬季限定「
牡蛎蕎麦」を食せるのは、わたしの知る限り、「たかや」だけになってしまいました。
「たかや」は音楽も良いのです。農業倉庫を改造した内装にバロック系の音楽がよくあう。しかも、ギターのセレクトが多くてね。ジョン・キング(ウクレレ)や
山下和仁の『無伴奏チェロ』もこの店で聴いて、さっそく取り寄せたんだから。いまや、猫も杓子もジャズをBGMにする店ばかりになってきましたが、「たかや」のバロックは、なんていうのかな、蕎麦の爽やかさとの相性という点でこれ以上のものはない、とわたしは思っています。
ところが、ひと月ばかり前、ジャズが流れていたんです。しかも、ガットギターのソロ。いったいだれだろう。ガット・ギターを使うジャズ緬じゃなかった、ジャズメンと言えば・・・アール・クルー?・・・ラルフ・タウナー??
全然ちがうのね。クルーは西海岸のフュージョン、タウナーはECMの代表選手ですからね、流れてる音楽はスタンダードなんです。ふと、ローラン・ディアンスの『
ナイト・アンド・デイズ』が頭に浮かんだんだけど、やっぱり違うよ。ディアンスはもっと難解な和音を多用するし、正直、奏法はこんなに緩くない。
うぅ~ん、いったい、だれなんだ!!???
悔しいけれど、マスターに訊ねるしかない。すると、あっさり、
「ジョー・パスですよ」
ときた。えっ、
ジョー・パスにガットギターのソロがあったなんて・・・恥ずかしい・・・全然知らなかった。頼んでCDジャケットをみせてもらったら、『枯葉』って書いてある。ジョー・パスの『枯葉』??
帰宅し、さっそくアマゾンで検索したところ、ありました。たしかに『枯葉』というアルバムがあった。値段は高いぞ。中古品のみで最低価格が7,999円。ここであきらめてはいけない。注文してもいけません。次に「Joe Pass」で検索するのです。そこに『Autumun Leaves(枯葉)』というタイトルのアルバムはなかったけれども、『枯葉』と同じデザインの『Unforgettable』というアルバムを発見。値段は格安で、caiman_america が906円で輸入盤を売りに出している(送料340円は別料金)。中身を確認して、『Unforgettable』=『枯葉』であるのは間違いないことが分かり、ただちに注文した次第です。
「アンフォゲッタブル」は、ご存知のように、ナット・キング・コールが1951年に大ヒットさせたラブ・ソングで、娘のナタリー・コールが1991年に父の歌声とオーバーダブしたデュエット版をリリースして話題になりました。一方、ジョー・パスのレコーディングは1992年の8月となってます。ナタリー・コールのリバイバル・ヒットにあやかって、『アンフォゲッタブル』をタイトルにしたのかもしれませんね。
さて、ジョー・パスにはもう1枚、ガットギターソロのアルバムがあることも分かりましたよ。1974年録音の『アイ・リメンバー・チャーリーパーカー』。個人的には、こちらのほうが好きですね。いずれも大人っぽいジャズ・バラード集で、蕎麦屋さんのBGMとしては最適ですが、長距離のドライビングにはちと刺激が足りない。明日、刺激のあるギタリストのお話をしますので、本日これまで。
- 2008/12/30(火) 00:06:52|
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父の四十九日が終わりました。閻魔大王の裁きを終え、父は極楽浄土に旅立ったはずです。
法要の会場は葬儀と同じでしたが、今回の仏壇は
平等院ではなく、夢殿風の六角円堂でした。
母が父の衣服を形見分けでもって帰れ、と言って座敷にどさっとひろげ、兄弟姉妹みなうろたえながら形見を選びました。正直、着れるものは少ない。わたしの腹には入らない、という物理的限界の問題が一つにありますが、いくらなんでもこのファッションはまだ早いな・・・・でも、おもしろいので、明治男の象徴たる褌とステテコを頂戴しました。ふんどしは布巾として使えそうなので、そっと研究室においておこうかな、と。部長やキム姉がなにも知らずに使う姿が目に浮かんだりしてね・・・

法要には長女も東京から駆けつけて、一家五人が勢揃い。いま二人の娘は母親の部屋でくっついて眠っています。母親はリビングのストーブの前で眠っている。というわけで、いよいよ年末年始の休暇・・・・だが、わたしたちに正月はない。これから原稿、書きますよ。鳥取県埋蔵文化財センターのみなさん、ご安心ください。メールで催促がきましたが、入札は1月上旬とのこと。
1月上旬って、10日までだよね。
卒論・修論を書いている学生に負けず、目標を設定します。
1月2日: 脱稿
1月3日: 図版揃え
1月4日: 参考文献、註など仕上げ
この際だから、宣言しておきます。2006~2007年の青谷上寺地建築部材の調査研究以来、いままで講演録2冊(
楼観&
最長垂木)と
報告書1冊を刊行してきました。今回の県埋蔵文化財センターによる建築部材「考察編」は4冊めであります。この「考察編」は上記3冊の集大成と呼べるものになるはずです。一方、ここ2~3年の活動により、他の4つの機関・出版社より弥生建築に関する執筆依頼が寄せられました。ありがたいことではありますが、今回の「考察編」をもって、弥生建築に関する原稿の執筆はいったん打ち止めにいたします。研究の進展があれば別ですが、基本的にしばらく弥生建築に係わる文章の執筆は控えるということです。

理由はいろいろあります。まず、研究者たるもの、何度も同じ内容の原稿は書けない。これは研究者の倫理に係わる問題です。焼き直しの文章をあちこちに書いて原稿料を頂戴し、業績の数を増やすのもおいしい話ではありますが、それは恥ずかしいことでもあります(じつは原稿料なんて、最近もらえないんですがね。出版社からの現物支給が当たり前の時代になりました)。それに、焼き直しと言っても、時間とエネルギーを消耗します。なにより、わたしにはほかに取り組まなければならない
大きな宿題が残されています。まもなく、M尾くんやM次さんに編集者として最後の催促通知をだしますが、年度末はその仕事に集中したい。
あとはですね、考古学的な仕事に偏向したくない、とも思っています。わたしは考古学者ではありません。しかし、考古学の方がたは、わたしが縄文と弥生の専門家だと勘違いしている節がある。縄文・弥生にはもちろん興味はありますが、それはわたしにとって興味の一部にすぎません。正直、考古学的な論文を書いているとき、わたしはあまり知的な興奮を覚えない。われながら退屈な文章を書いてるな、と自嘲気味になることが少なくないのです。青谷の仕事は、その点かなり例外的ではありましたが、同じことを繰り返し書けば退屈になるばかりです。
というわけで、今日は四十九日の法要という一つの節目を終えて、年末年始返上の執筆宣言をしました。静かに書斎でキーボードを叩きますので。
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- 2008/12/29(月) 00:00:54|
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これまで常呂チャシ遺跡のオホーツク文化9号住居の復元については、いちばん古くて大きな
A期の遺構を対象に作業を進めてきたのですが、実際に建設されるのは新しくて小さめのC期だということが分かりました。先生は「A期のまま作業を進めて、実施設計でC期に応用してもらったっていいのだよ」とおっしゃいましが、やはり実際に建設される遺構の復元基本設計を避けて通りたくないという気持ちが強くなってきました。それで今、C期のラフ模型を制作しています。

A期に比べると柱穴も細くて、多少不安ではありますが、屋内空間を再構成してみました。添付した写真では見えづらいかもしれませんが、仕切りを少なく変更しています。これは、「関野(克)公式」という面積算出法に基づいています。一人あたりの居住面積を3㎡と仮定して、竪穴住居の居住人数を割り出す方法です。その結果、居住人数を9.6人と推定できたため、大きな居住スペースを4つ仕切れば足りるのではないかと考えました。これは柱穴の配置ともよく対応していると思います。
上屋については、A期で採用した4脚構造をここでも採用しましたが、屋根の面積も小さいので、A期で2組使った4脚を1組にするバージョンも屋根の片側に試作してみました。4脚1組の場合、母屋桁のスパンが最大6メートルになる箇所が出てきたので、構造は不安定であり、やはりA期と同じように4脚を2つ並べるほうが意匠・構造とも良いだろうと個人的には考えています。みなさまはどうお考えでしょうか? (黒帯)
- 2008/12/28(日) 00:12:31|
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重要文化的景観「小鹿田焼の里」 福岡県のうきは市と大分県の日田市は隣町。隈上川流域田篭地区のスモークレストランの駐車場でカーナビを「小鹿田焼の里」にセットしたところ、たしか距離は39km、運転時間は45~50分とでた。近いんだけどもが、日田といえば、このまえチャックは故郷がこのあたりだと言っていたな・・・
日田市皿山の小鹿田焼(おんだやき)は、宝永2年(1705)、朝鮮の役で拉致した李朝陶工の系列をひく柳瀬三右衛門が窯を開いた。小鹿田焼の窯元は代々長子相続で技術を伝え、弟子をとらない。開窯以来の伝統的な技法がよく残されている。昭和6年に柳宗悦がこの地を訪れて『日田の皿山』を著し、昭和29年と39年にバーナード・リーチが小鹿田に滞在して作陶活動したころから一気に世間的な評価をたかめ、昭和45年に国の無形文化財に指定された。

そして平成20年、つまり今年、九州初の重要文化的景観に選定。窯元がある皿山地区と棚田が広がる池ノ鶴地区が一括して選定されている。
いつも違和感がある。どの選定地に行っても不安になって車を降り、「ここ、重要文化的景観の地区ですか」と訊くのだが、皿山地区の場合、「はい、そうです」と言われてもまだ不安な感触が消えない。少し棚田を見過ぎたからなのかもしれないが、皿山地区をみわたしても植生らしきものは少なく、どちらかと言うと、伝統的建造物群に近い趣きがあって、ところが建物の多くは瓦葺きか鉄板葺きだから、町並みとしての「美」をそれほど訴えてこない。
やがて、ゴトンバタンという音が渓流のせせらぎと織りあって体を震わせ始めた。陶土を打つ唐臼の音だ。水車のように水の流れを利用して唐臼を杵が叩いている。調べてみれば、このゴトンバタンは「残したい“日本の音風景100選”」に選定されていることが分かった。集落には窯元の数だけ登り窯もあるから、たしかに「特殊な土地利用」になるのかもしれないが、むしろ地域の由緒を重視した選定という印象が強い。これで許されるなら、板井原だって重要文化的景観になる権利はあるだろうと思った。
器は買いましたよ。サラダボウルにもなるすり鉢とミルクソーサー。有田に比べれば、ずっと安くて済んだけど、安いから買ったわけではなくて、やはり実用的なものを選ぶんですね。
余談ながら、池ノ鶴地区にひろがる棚田の写真を民家の近くで撮っていたら、マルチーズに飛びつかれ咬まれてしまった。

[九州の文化的景観を往く(Ⅳ)]の続きを読む
- 2008/12/27(土) 00:00:09|
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蕨田の棚田 九州におります。目的は全国の重要文化的景観視察でして、個人的には
近江→
岩手→
北海道に続く第4弾、研究室としてはキム姉たちの
愛媛があるので第5弾であります。今日(22日)は佐賀でして、いちばんの目的は唐津市の重要文化的景観「蕨田の棚田」ですが、それだけではもったいないので、有田内山重要伝統的建造物群保存地区と吉野ヶ里歴史公園も視察しました。
最初に触れておくと、わたしが吉野ヶ里に言及するのはまずいのね。とくに復元建物については口を閉ざさなきゃいけない。ただ、「国営公園」の問題は大変ですね。えらい建設ラッシュでしてね。復元事業という名の開発が猛烈に進んでいる。国交省の管轄になると、こうなるんだ。ご存じのとおり、われらが平城宮も「国営公園」化が決まっていまして、当然のことながら、吉野ヶ里みたいに復元建物の建設ラッシュになるということですよね・・・世界遺産登録解除かな?? 世界文化遺産辞退を申告してから、大量の復元建物を建てればいい。


さてさて、唐津市の重要文化的景観「蕨田の棚田」は素晴らしい。参りました、白旗です。北海道の
平取をみて、「これなら全国どこの田舎でも重要文化的景観になれる」と思ったものですが、「蕨田の棚田」は「名勝」指定されてもおかしくないほどの審美的価値をもった「文化的景観」です。これに匹敵する風景を探すとなると大変だ。鳥取県内にはないかもしれない。しかし、「文化的景観」にとって審美的な価値は最も重要な要素ではないはずなんです。その地域の歴史を反映する土地利用の特殊性がみとめられることが重要なはずで、それが美しいかどうか、は二の次だから、ここにいう「景観」とは視覚的風景ではなく、人文地理学的な景観であって、だから平取や本寺だって重要文化的景観の選定対象になるのだと、わたしは勝手に思っている。
「蕨田の棚田」はすでにそうとう大々的な「介入」がなされています。ひとつは石垣の修復ですが、もう一つは棚田のオーナー制度。いちばん高いところにある「大平の棚田」はすでに地域農民による耕作が放棄されたのでしょうが、佐賀だけでなく、長崎や福岡の方々がオーナーとなって耕作が続けられています。こういう制度は棚田に限らず、過疎地の休耕田にもっと採用されるべきでしょうし、板井原のような過疎集落の空家もまたセカンドハウスとして都市居住者に売却もしくレンタルすべき時代を迎えているように思います。いちばんよいのは、空家と休耕田をセットで提供することでしょうが、これには行政がそうとう力をいれて支援する必要があるでしょうね。

[九州の文化的景観を往く(Ⅰ)]の続きを読む
- 2008/12/24(水) 00:38:34|
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20日(土)、数寄屋大工になって4年目の1期生、岡村が加藤家を訪れ、卒業研究でツノヤ縁の修復に取り組むピヴォら現役学生を
指導した。
とくに問題になっているのは、手摺りの真下にある大引の差し替えである。この方法はやっかいで、ピヴォはこれまで何度も池田住研を訪れて社長に意見を求め、もちろんその成果をゼミで報告してきたのだが、このまま学生だけで修復を進めてよいものかどうか、わたし自身迷っていたので、奈良で岡村に面会した際、加藤家の現場をみて欲しいと依頼したのであった。
当日、わたしは出張のため立ち会うことができなかったが、かわりに鳥取市教委の佐々木さんが立ち会ってくださって助かりました。この件、岡村くんにはお詫びするとともに、佐々木さんには深く感謝申し上げます。
なお、このプロジェクトは研究室がモットーとしている「セルフビルド&ゼロエミッション」を実践するものであり、材料費をゼロとすることを前提としています。長さ270cmの大引材を確保するのは大変なことで入手を諦めかけていましたが、池田住研から材を提供いただきました。この件についても、この場を借りて深謝申し上げます。
以上については、加藤家住宅ホームページ附属のブログ「
倭文日誌」にピヴォが詳細に記録を残しておりますので、ぜひともご参照ください。
・「大引の加工」については、
こちら をクリックしてください。
・「加藤家欄干修復現場検証会」については、
こちら をクリックしてください。
- 2008/12/23(火) 00:00:32|
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住居復元に関わるようになってから、「せめて一度だけでも遺跡で焼失住居跡を見てみたい」と感じていました。そんなところに、兵庫県赤穂市の有年牟礼(うねむれ)遺跡の焼失住居跡(弥生中期後半)の調査指導依頼が先生にあり、21日に学生4名も同行させていただくことになりました。院生のホカノさん以外は3年生(狩人・ガード・黒帯)で、焼失住居跡を生で見るのは初めてでした。
実際に遺構をみると、サスと思われる斜材が求心方向に倒れ込んでいます。その他の炭化材も面的にひろがっているようで、じつは繊維方向(↓左)にもある程度の規則が読み取れそうです。先生は、最初から最後まで「繊維方向」の精査を訴えられていました。このほか、6本主柱穴の跡(↓中)がみえました。近くてみると見難いのですが、トレンチの上にあがって遠目でみると、有機物が粘土化した円形の痕跡が分かりました。興味深いのは、サス状の材が柱穴の位置ではなく、柱穴と柱穴の中間に存在したことです。一方、床と壁の境にある壁溝(暗渠)の痕跡はAさんが線をひくのですが、私たちにはなかなか見分けることができませんでした(↓右)
さて、炭化材は真ん中寄りに残っていて、周りのほうには、ほとんど見ることができません。これは、壁に近い部分が生木の状態で腐り、土に還ったためだと先生は言いました。こういう焼け方をするのは土が屋頂まで覆っていて、完全燃焼する時間が非常に短い例だとも聞きました。一般的には、中央部分がよく焼けて、炭化材は壁際でよく残るのだそうです。こういう焼け方をする建物では、土が屋頂まで達していなかった可能性が高いとのことです。今回の焼失住居では、焼土塊も多くはなかったですが、これもまた焼け方が激しくなかったことを物語っているようです。中央部分がよく焼けている建物では、焼土も多くなるそうです。

普段、図面や写真とにらめっこしながら復元に取り組んでいる私にとっては部材をイメージしやすくなったし、焼け方なども勉強になりました。なにより、教育委員会のAさんに調査指導する先生の横で話を聞く私。知識の乏しい未熟者の私にとっては、先生の近くにいるだけで有意義な知識が蓄えられる気がして、とても楽しく思えました。私の関わっているオホーツク文化住居は葺き方などが違い、焼けるのが早く、炭化材があまり残っていません。屋根は白樺の樹皮で覆われていたと推定しています。構造によって焼け方が異なってくるということを改めて感じました。(黒帯)
追記 22日に新しい調査成果が送信されてきた。左写真の赤丸は柱穴と中央ピットを示している。サス状の求心方向の材が柱穴と柱穴の中間位置にあることにはとくに注目されたい。縄文系の多角形主穴はサスの真下にあって、テント状のサス(力垂木)を支えるために出現したものと推定することも可能だが、この調査例をみる限り、主柱間にわたす梁状の横材でサスを支えたことになる。一方、右写真は炭化材上部の焼土の断ち割り。あきらかに地山系粘土が焼けたものである。

このように焼土が少ないのは、竪穴中央部に炭化材が多く残ることと相関性がある。焼け方が弱く、中央部のみ炭化したので、その周辺のごく一部しか屋根被覆土が焼土化しなかったのである。これと対照的なのが宮畑遺跡(縄文中期末)で、炭化材をほとんど残さないほどよく焼けており、竪穴の全面に厚さ25~40㎝の赤焼土が堆積する。これは粘土が高温で焼けたために土屋根が一定時間、ドーム状に自立していたことを示している。すなわち、土屋根住居の焼け方には以下の3段階が認められる。
1.有年牟礼遺跡のように、中央部に炭化材が集中して残り、周辺部に炭化材
は存在しない。焼土も少ない。これは不完全燃焼の典型。壁際の材は炭化
すらせず、土壌化した。
2.中央部に炭化材が少ない反面、焼土が集中。炭化材は壁際に残る。越屋根
の周辺は土で覆われていなかった可能性が高い。この焼け方の場合でも、
周堤上には炭化材を残さないのが一般的だが、
箆津乳母ヶ谷第2遺跡SI3・SI4 のように周堤上に炭化材を残す遺構も例外的に存在する。ただし、
この場合、壁から内側の炭化材はやや少なく、3のような赤焼土堆積の
範囲がひろくなる。
3.竪穴の全面で炭化材は少ないが、分厚い焼土が床面にひろく堆積。通風が
よく、完全燃焼しており、地山系粘土の屋根被覆土が燃焼により硬化し、
ドーム状に自立していた。
屋根を土で覆う目的の第一は「防火」である。草葺きや樹皮葺きの竪穴住居は失火で燃えやすい。燃えれば、またたくまに「全焼」である。これを防ぐために草や樹皮の上に土を被せた。土を被せると、屋根材だけでなく、室内全体の湿気が高くなって、失火による火災が起こりにくくなる。その反面、湿気によって、屋根材や木材は腐りやすくなるので、一定期間を経て、住居の廃棄もしくは焼却を余儀なくされる。建物の解体による部材の再利用は実践しにくい。廃棄の場合、土屋根の住居は自然に崩落し土壌化していくが、それには時間がかかる。そこで、饅頭状の高まりを平地化するため意図的に住居を焼いた。その遺構が「焼失住居」として全国各地の遺跡で発見されるのである。(A)
[有年牟礼遺跡と龍野]の続きを読む
- 2008/12/22(月) 12:44:17|
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今年も残りわずか、年末にむけて忙しい日々を送られている皆様、ガードです。本日は今年最後のプロジェクト研究とその後にあった忘年会(18日)について報告させていただきます。
今年最後のプロジェクト研究は2年生と引き続き野田遺跡焼失住居の復元作業をおこないました。今年最後のゼミということもあり、冬休み中のことや2年生の分担についても話し合いました。復元については、前回報告した復元図の作成に取り組んでいます。前回までは手描きだったのですが、今はCADで試行錯誤しながら、2年生のM君と一緒に表現しているところです。模型の状態は前回から更にバージョンアップしたものになっています。

ゼミが終わり、いよいよ待ちに待った忘年会!!
今回の会場はいつもの「
ほたる」や昨年の「
月や」ではなく、大学に近い「とりでん」です。じつは、私ガードのバイト先でして、食べ放題・飲み放題コースの忘年会となりました。今回は幹事を3年生にすべて任せられていたのでかなり心配でしたが、始まってみれば大盛り上がり、ピヴォさんがワインをジョッキで飲めば、教授も負けじとワインをジョッキで頼み乾杯!!
そのかたわらでは2年生がダウンし、黒帯君は一人デザートにむさぼりつき、狩人君は釜飯とから揚げに夢中。アシガル君にいたってはわけがわからなくなっていました。
忘年会も終盤、ここで事件発生! な、なんとピヴォさんと2年生M君の忍法「
鼻ようじ」!!
そして本家本元の教授の忍法「鼻ようじ」!! さすがは本家本元、年季が違いました。
「いや~でもまさかピヴォさんのあんな姿が見られるなんて驚きです。」
そして、最後には教授の誕生日を祝うバースデーデザートとアシガル君と黒帯君が選んだ我々ゼミ生からのプレゼント。教授も喜んでいただけたみたいでほっとしました。
これで今年最後のゼミでのイベントは終わりです。教授・ゼミ生の皆様、この1年お疲れ様でした。
それではまたお会いしましょう。(3年 ガード)
- 2008/12/21(日) 03:46:56|
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起・承・転・結 12月18日のプロジェクト研究2は、発表に向けてのまとめの作業をやり始めました。
はじめに、先生とキム先輩を交え、どのように発表するのか話し合いました。限界集落の現状と歴史をよく知ることが大切だそうです。
発表は「起承転結」で、4人それぞれが担当のパワーポイントを作ります。
「起」: まず限界集落とは何かを説明します。今までに見てきた上板井原だけでなく、下板井原、中津、茗荷谷を限界集落の例として紹介したいと思います。今までにいただいた資料や、山間集落実態調査の資料をもとにまとめていこうと思っています。
「承」: 板井原の立地、歴史、土地利用などを説明します。また、
ゼンリン地図から板井原と中津の人口変遷を説明します。土地利用としては、主に「
焼畑」を紹介します。ゼンリン地図から世帯数はわかったのですが、人口はわかっていません。キム先輩に、人口について調べられる資料が公文書館にあるも知れないと教えていただいたので、電話をして調べてもらっているところです。また、町史を使って歴史の概要を調べます。
「転」:
板井原ごうこ(沢庵)の特殊性を紹介します。私たちは実際に板井原ごうこを食べたので、その感想だけでなく、「焼畑」との係わりについても触れたいです。先輩にいただいた航空写真から、焼畑が行われている場所がよくわかりました。写真は見てすぐにわかるので、どんどん使っていきたいです。
「結」: 板井原住民との
座談会や
研究会の記録を精査し、これから板井原はどういう方向に向かおうとしているのかを説明します。そこでずっと暮らしている人、都会を体験して帰ってきた人、はじめてこういうところで暮らす人、限界集落を勉強してきた私たちの意見を入れていこうと思います。年齢や今まで経験した生活などが、考えの違いに関わっていると思います。
今日は、サブタイトルと誰がどこを担当するのかを決めました。サブタイトルは、「限界集落とは何か? 」です。タイトルは次回、決めることになりました。担当を決めた後、それぞれの作業になりました。月曜日に、ある程度はしなければならないこと考えていましたが、思うようにできないところもありました。
発表まであと残りわずかです。1月からは発表の練習になるので、各自がパワーポイントを作っていかなければなりません。今まで実際に限界集落と呼ばれているところに出かけたり、その土地の特殊な漬物を食べさせていただいたので、その経験が生かせたらと思います。
先生、先輩方、今日も私たちの指導をしていただいてありがとうございました。(環境政策学科1年N.Y)
- 2008/12/20(土) 11:19:17|
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昨日(18日)午前、環境大学入試広報課より記者クラブにむけて情報発信された「続・加藤家住宅修復プロジェクト」について、数社から電話で取材を受けました。明日、すなわち20日(土)午前9時より活動を公開しますが、わたしは出張で不在ですので、ここに補足説明しておきます。
現在、環境大学環境デザイン学科4年の福井くん(5期生=ピヴォ)が「続・加藤家住宅修復プロジェクト」と題する卒業研究に取り組んでいます。加藤家住宅(登録有形文化財)の修復は2006年度にはじまり、2007年度まで県市からの研究費・補助金をうけて修復を進めていましたが、今年度は修復に係わる研究費等はまったくありません。しかし、ここで修復活動を中断してはならないと判断し、福井くんに卒業研究としてオモヤに付属するツノヤ(明治4年竣工)の修復に取り組んでもらうことになりました。
浅川研究室が2004年度の「
廃材でつくる茶室」プロジェクトからモットーとしてきた「セルフビルド&ゼロエミッション」をここでも持続的に実践しています。「セルフビルド&ゼロエミッション」とは廃棄物を最大限活用して建設材料費をゼロとし、学生が自主的に建設活動を実践することをさします。研究費や補助金がなくとも、このコンセプトを実践することによって、加藤家住宅の修復は持続されていきます。来年度はカマドと裏門の復元をおこなう予定です。

さて、加藤家住宅は18世紀の古民家ですが、オモヤに付属するツノヤは明治4年の増築でして、そこには厠・浴室が置かれており、全体のデザインは数寄屋風の華やかなものです。正面側の手摺り(高欄)も明治初期の時代性をよく示す派手なデザインをしていますが、一部が破損し、手摺りと縁を支える大引も腐朽してきています。
初めは単純な修理で済むと思っていましたが、研究が進むにつれ、修復は容易ではないことが分かってきました。そこで、県内の大工職人さんに応援を求めようかとも考えたのですが、よくよく考えてみれば、研究室OB[1期生]の岡村くんが京都で数寄屋大工の修行をしています。岡村くんは卒業研究として「廃材でつくる茶室」プロジェクトを牽引した1期生で、その作品は環境デザイン学科銅賞を受賞しました。先週末に奈良で
会食した際、たまたま今月19~20日、岡村くんは法事のため帰省するというので、現場で福井くんを指導して欲しいと要請したところ、快諾してくれました。結果、以下の日時に岡村くんと研究室メンバー合同の修復活動をスタートすることになりました。
12月20日(土)午前9~11時 出席予定者: 岡村(研究室OB[1期生]、現在は数寄屋研究所「
心傳庵」大工)
福井・岡垣(研究室4年[5期生])、宇田川(研究室3年[6期生])他
佐々木(鳥取市教育委員会文化財課)
なお、修復の現状については、加藤住宅HP付属のブログ「
倭文日誌」をご参照ください。
- 2008/12/19(金) 09:03:29|
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『建築大百科事典』なる書物が朝倉書店から出たのですが、じつは嬉しくもなんともありません。わたしに依頼されたテーマは「都城」だったんです。研究所をでてから6年めの2006年に「
東亜都城建築史草稿」を3回に分けてブログに連載したのは、この百科事典のためだったんですね。
当時から不安でした。編集者に愚痴ったものです。
「こういう大きな本はね、わたしみたいな下っ端が苦労して原稿書いても、編集・監修の
大先生たちが原稿書かないから、いつまで経っても、結局、本はでないんだから・・・」

予測は大当たり。おまけに、わたしの原稿は長いと言われ、中国篇と日本篇に分割されましてね。カッコイイ題目に変えろ、とも言われたんですよ。依頼原稿の題目が「都城」だったから、それにあわせただけなのに・・・それからずっと音沙汰なく、この夏に校正原稿が届いた。今度は図がなくて分かり難いから、さらに文章を圧縮して図を挿入せよ、という指示あり。たしかにそうだと思います。自分が編集者でも、そう指示したくなるでしょう。しかしですね、そういう指示はもっと早く頂戴したいものです。まる2年間ほったらかしにしておいていまさら遅い、と言ってわたしは、その指示に従いませんでした。そんな余裕があれば、D社の原稿や県埋文Cの原稿に集中しなければならないのです、今年は!
で、11月末日にこの大事典は目出度く刊行されました。
B5版上製函入り 752頁、定価29,400円(税込)、初版700部 執筆者には、残念ながら、1冊の献呈もありません。ただし、以下の優遇割引あり。
1)最初の1部を「私費」に限り定価の65%[税込19,110円]
2)2部目以降は通常割引の85%[税込24,990円、公費可]
ちなみに、小生に支払われる原稿料は約1万円。せめて原稿料とイーヴンになるぐらいの割引にしてくれないとね・・・買う気になりませんよね。というわけで、わたしは、この超高価『建築大百科事典』の購入を諦めました。ただ、扱いがちょっとひどいので、抜刷を要求したところ、製本がばらばらになった悲惨な抜刷が1部だけ届きましたよ。これでも業績の一つですので、とりあえず、浅川の執筆部分を示しておきましょう。
・3-36「都市と条坊の萌芽 -古代中国」
『建築大百科事典』朝倉書店、2008:p.258-259
・3-37「都市と宮殿の中華的世界 -古代日本」
『建築大百科事典』朝倉書店、2008:p.260-261
さきほど述べましたように、抜刷は1部しか頂戴しておりませんので、親しい皆様にもお配りすることができません。どうか皆様、ふるって朝倉書店の『建築大百科事典』をお買いあげください!
- 2008/12/18(木) 12:52:40|
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ついに
サロマ湖の牡蠣をいただくことができました。
というのも、夏の
インターンシップでお世話になった北海道常呂町のTさんのご好意で、このような良い思いができているわけです。本当にありがとうございます!!
14日に届いた北海道の牡蠣の量と魅力にテンションのあがった私は、アシガル君とその日のうちに食べてしまおうと計画しましたが、「ゼミの日にみんなで」と先生に諭されました。私とアシガル君は二日間お預け状態だったので、今日のゼミがとても待ち遠しかったのです。だから、早めに加藤家に行き、牡蠣をせっせと洗ったのです。12月にしては格段と暖かい一日だったので、まだ救われましたが、それでも辛い下準備でした・・・

今日のメニューは焼き牡蠣と酒蒸し。酒蒸しはどの家でもできるでしょうが、牡蠣をイロリで焼けるのは加藤家ならではのことです。ASALAB以外、こんなご馳走が食べられる研究室はないですよね! イロリで焼く牡蠣から磯の香りが部屋中にひろがり、ゼミ生一同とても興奮していました。発泡スチロールの箱いっぱいあって食べきれるかと心配していた牡蠣も、みるみるうちに無くなっていきました。心から美味しさに感動しました。大学生活の良い励みになりました。
そうそう、忘れてはいけません。牡蠣以外にも、タクオ先輩からいただいたウィンナーとハムもイロリで焼きました。宮本先輩から頂戴した黒エビスとよくあいましたよ!!

加藤家でゼミをおこなうことになったのは、もともと4年生の皆さんの
卒業写真を撮るためでした(ピヴォさんが取り組んでいる
縁の修復について議論することもこの日の目的でした)。カメラの前に並ぶ4年生と院生の姿を見ていると、なんだか少し寂しい気分になりました。先輩たちにはいろいろなことを教えていただきました。課題に取り組む姿勢とかも、4年生に刺激を受けました。皆さんが卒業するまでの時間を大切にしたいし、たくさん良いところを吸収したいと感じました。
イロリで焼く食材がなくなっても、みんな、なかなか炉端を立ち去ろうとはしませんでした。この暖かい時間がいつまでも続けばいいのに・・・だれもがそう思っていたんじゃないでしょうか・・・


さて、オホーツク住居復元の進行状況ですが、復元平面図と復元断面図を描き始めました。まだ至らない点がたくさんあり、先生の助言と軽いプレッシャーを受けました。私は自分に少し甘いところがあるので、先生のプレッシャーは良い薬になります。(笑)
また、規模が一番小さく、新しいC期の構造についても考えたいと思っています。やらなければならないことがたくさんありますが、牡蠣パワーで体力をつけたので、年末年始も頑張ります! (黒帯)
[サロマ湖の牡蠣(Ⅲ)]の続きを読む
- 2008/12/17(水) 12:42:55|
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新しい眼鏡ができあがって、ミキまで取りに行ってきました。遠近両用の2台目なんですが、2年前にその1台目をなくしてしまい、その先代の縁なし眼鏡(近視のみ対応)をかけていたのです。
眼鏡をかけないほうがよい、と8年ばかり前に言われたことがあり、その旨、ミキの店員にお伝えしたところ、「これがお似合いです」と言ってでてきたのが昨日までの縁なし眼鏡でして、たしかに眼鏡のないときとあるときの差をそれほど感じない。
今回のは太縁であります。なんでかっていうとですね、アゴの下の肉がたるんできて、顔をあわせたとき、まずそこに目がいくようになってきた(らしい)。これを回避するために、眼鏡の太縁に視線が集中するのを狙ったのですが、さて功を奏すか否か。じつは、もうひとつ眼鏡を作ろうとしてたんです。ピンクに近い赤のフレームで、近視のみ度入りのサングラス。たとえば、峰不二子みたいなおねえさんを助手席に乗せてさっそうとドライブするとき、つまり非日常のカジュアル用で作ろうか、と思ってたんです。買おうかどうか迷っていて、とりあえずフレームを確保してもらってたんですね。わたしゃ買うつもりでいたんですが、このまえ「よくお似合いです~よ~」を連発した二人の女性店員が消えている。代わって担当した男性店員はそんなに誉めてくれない。それにね、・・・冬のボーナスが悲惨でありまして、購買欲をそいだのは間違いありません・・・
で、いま職場をうろついてみたのですが、だれもなんにも言ってくれない。
- 2008/12/16(火) 12:45:25|
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週末には青谷上寺地の委員会が青谷であり、そのまま東京に飛んだ。翌日、多摩にあるTM社の模型制作工房で
宮畑の指導をした。竪穴住居はなんとかなりそうだが、大型掘立柱建物は苦戦しそうだ。そもそも、縄文時代の大型掘立柱建物を「復元」すること自体、資料的に不可能なことなのだが、いくらそれを主張しても、考古屋さんは「復元したい」という。「復元したい」という気持ちだけあって、あとは建築の専門家に任せればなんとかなると思っているのだから困ったものだ。資料がないものをどうして復元できるのか。
その大型建物はすべて1間×1間の4本柱構造で、柱の直径が60~90㎝の一群と、25~40㎝の一群に大別できる。不思議なことに、直径の大きなグループのほうが柱間はややみじかい。柱径が細くて柱間の長い遺構と柱径が極太で柱間がやや短い遺構の上屋をどのように差別化するのか、正直、思案にくれている。今年度が実施設計だというのに、模型制作の進捗は遅々としたまま・・・
多摩のウナギ屋で昼食をとり、新横浜にでた。いまは、すべての「のぞみ」が新横浜で乗れるようになっている。新横浜から2時間ばかりで京都に着き、奈良に戻ったら、あちこちからお歳暮が届いていた。そのなかの一つが上の写真である。「北から来たの」さんから贈られてきた「デンドロビューム」という蘭で、そのあでやかさに驚いた。それにしても、なんでわたしに蘭なのだろう。正直、わたしには不似合いだと自覚しているが、ワイフや娘はとても喜んでいる。ありがとうございました!
帰宅直後から我が家のメンバーはテレビに釘付け。待ちに待った浅田真央のフリー演技のまっ最中に携帯が鳴った。タクオが奈良に来ているのだ。サッカー部同期の
リベロが奈良で挙式し、その2次会に呼ばれ、キャプテンだった聡とともに山陰から車を飛ばして駆けつけたのだという(我われの世代には「2次会」という感覚が分からない)。岡村も来ていた。みんなサッカー部1期生なのだ。
そして、日曜日の昼にわたしも加わって
奈良ファミリーのウナギ屋で会食した。結婚式とはなんの関係もない。ピヴォが苦しんでいる
加藤家住宅ツノヤの縁の修復について資料をみせ、協議したのだ。すでに大工になって4年がたつ岡村にはとくに有益なアドバイスがしてもらえるのではないか、と期待していた。その場に、どういうわけか、鳥取市文化財課のSさんも同席していた。Sさんは奈文研の「中世城館」の研修で2週間近く、西大寺に滞在していたのである。かくして、環境大学サッカー部OB(1期生)3名とSさんとわたしの5名で2時間ばかり話が弾んだ。そして、解散。
夕食もお歳暮を食べちゃいましたよ。西河夫妻からいただいた「鳥ミンチ寄鍋」。おいしかった。スープの味が抜群で、最後の雑炊が決まりましたよ! 西河夫妻は研究室にもビール1ケース贈ってくれました。まさにOBの鏡ですね。何度も書いてきたように、こういうお歳暮、お中元のたぐいは今後いっさいお控えいただかなくても結構でございます。OBのみなさん、西河夫妻を見倣いましょうね。わたしは現役学生とノビタにお小遣いをしゃぶりつくされ、寒い寒い冬を送っています。
まだ冬は終わっていません。今ならまだ間に合うよん!

- 2008/12/15(月) 13:08:26|
- 研究室|
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ストリート・スライダーズというロック・バンドの存在を知ったのは1982年のことである。
当時、わたしは北京語言学院の留学生楼にいた。北京語言学院は、大学や大学院に在籍する以前の留学生が中国語を学ぶカレッジで、たいていの大学院生は3ヶ月ばかり語学を学び、まもなく北京大学などの有名大学に移って専門領域を学び始めるのだが、わたしは北京語言学院に1年もいた。もう一人、いまやTO大学考古系の大教授となったOさんもまる1年、北京語言学院にいた。要するに、二人だけ中国語が下手だったのである。
当時の北京語言学院には、100~200人の日本人留学生がいた。わたしとO教授のような大学院生はごく少数派。大きく二つのグループに分かれていた。一つは商社を中心とする大企業派遣の社員たち。とんでもない高給取りなのに、留学のために手当までもらっているから、はぶりがいいのなんの。もう一つの大きな集団は、高卒グループである。
日本で大学進学を諦めた高卒生が北京語言学院に大勢いた。かれらは2年間、北京語言学院で中国語を学び、中国の大学に進学する。北京大学に入学するものもたくさんいる。北京大学は、日本でいえば東京大学にあたる最高学府である。北京大学に進学できない学生もいたが、北京大学に準ずる大学には入れた。そういう時代だった。
当時、わたしはジャズに嵌っていたころで、北京ではアコギで練習していた。おもにジム・ホールのコピー譜を使い、「酒と薔薇の日々」「マイ・フーリッシュ・ハート」「ステラ・バイ・スターライト」「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」「ミスティ」「ソフトリー・アズ・イン・ナ・モーニング・サンライズ」などのスタンダードばかり弾いていた。マイナーの7♭5とかメイジャーの7♭9とかをひぃひぃ覚えていた時代である。
高卒グループにロックン・ロールのバンドを組んでいる連中がいた。かれらのアイドルはストーンズとR.C.サクセションだったが、そこで「
ストリート・スライダーズ」の名前を耳にした。
「まぁ、ストーンズのコピーバンドって風なんすがね、すげぇんですよ、
やつら客席に向かって喧嘩しはじめるんですから」
語言学院バンドのリーダーは、たしかダイスケと言った。ダイスケは「ジャズのコード、教えてくださいよ」といいながら、スライダーズのリフを聞かせてくれた。カッコイイ、と思った。自分の知らない奏法に、正直、驚いた。
ダイスケたちはドラッグもやっていた。どこで仕入れたのか知らないが、やつらの部屋にはちゃんとマリファナがあった。質の悪いヤクなんです、とダイスケは言っていたが、マリファナの時間にサクセションやスライダーズの音楽は不可欠だ。
ストリート・スライダーズの結成は1980年、プロ・デビューが1983年だから、北京語言学院でバンドの名前を耳にしたころ、かれらはアマチュアからプロにはばたく揺籃期にあったことになる。その後の快進撃をここで解説するなんてばかばかしいからやめておく。
凄いバンドだった、としか言いようがない。ペンタングルが世界最強のフォーク・バンドで、おそらくあれに匹敵するアコースティック系のバンドは二度とこの世にあらわれないだろう、と思うのと同じぐらい、スライダーズに匹敵するバンドが今後日本にあらわれることはないだろう、と(たぶん多くの人が)思っている。
解散は2000年。わたしが研究所を辞めたころだ。
このバンドは再結成なんて、絶対しない。ありえないことで、もし再結成したら、スライダーズのファンは落胆するかもしれない。
毎夜のことだが、ユーチューブを彷徨っていて、たまたまスライダーズを検索したところ、ろくな音源がなかったのだが、リーダーだったハリーのソロに出くわして衝撃を受けた。スライダーズの名曲をアコギ1本、あるいはテレキャス1本で歌っている。そして、『GATEWAY』というソロの新譜アルバムの存在を知り、さっそく取り寄せた。
今年購入したCDは数十枚にのぼる(たいしたことないですね)。『GATEWAY』はわたしに最大の衝撃をあたえた。全曲、スライダーズ時代の作品。歌も凄いし、言葉も凄いし、ギターも凄い。
そして、悲しい。わたしが最も好きだった「エンジェル・ダスター」という曲は一人では歌えない。コーラスの部分はリードボーカル以外のメンバーが歌わなければ曲にならないのだ。それをハリーは、ダブル・レコーディングで処理している。
だれか歌ってやれよ。なんで、エンジェル・ダスターのコーラスまで自分で歌うんだ。ライブではどうすんだ・・・歌わないのかい。
- 2008/12/14(日) 13:06:41|
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俺の実家じゃん!? 11日も先週に引き続き、自分たちの作業の続きをしました。今日は「議論・組み立て」の予定だったので、はじめにみんなで、発表するときにパワーポイントに絶対載せたいことなどを話し合って決めました。また自分たちが一番言いたいことや、限界集落を知ったときの第一印象などをもう一度確かめました。
僕の限界集落に対する第一印象は「俺の実家じゃん!」でした。でも実際に限界集落まで足を運んだりして調べていくうちに、僕の実家の地域とは置かれている状況や環境が全然違うことを実感しました。今の僕の意見は、限界集落は残したいけど、一番大事なのはそこに住んでいる人たちの考えであって、いくら周りの人が意見を言っても、最終的には住民の方の考えを尊重すべきだと思います。だから部外者の人が出過ぎたことをするのはよくないと思っています。そもそも限界集落とはそこに住んでいる人たちのものだから、周りの人はあまり手を加えずに見守るのがみんなのためになると考えています。

先生から「人口の変化」と「土地利用の変化」を必ず発表に入れるということを言われました。人口の変化については、僕とNさんが担当です。ゼンリン地図や資料を使って人口の変化を比較しました。僕は板井原の担当で、近年では人口や世帯数が減少してきていることがわかりました。わかっている範囲では、一番世帯数が多かったのは昭和の前期で22世帯115人でした。一番世帯数が少なかったのは2000年に入ってからで、10世帯前後です。しかし、資料によって数値が違ったりしました。それは板井原に通っている人を含める場合と含めない場合があるからです。ほとんどの住民は、村に通ってはいるけれども、夜は智頭の町に戻ってしまいます。しかも、夏と冬とで常住者の数が違って、とくに冬は村を離れる人が多く、近年では冬の常住世帯は2~3世帯程度らしいです。また1997~2001年にかけては、一気に6世帯も減っていました。1980~1990年代はあまり世帯数が変わっていないことも地図から読み取れました。
今の時点でまだパワーポイントを作成していないので、少し焦りを感じています。でも、僕は実際、思ったより速く順調に作業ができていると感じています。完成までの道のりはまだ長いと思うけど、授業以外の時間でそれを補っていければいいと思っているので、余裕をもって楽しくできたらいいです。
授業の途中に先生が「板井原ごうこ」を持ってきてくださって、おいしく食べさせていただきました。ただ、「火間土」で食べたこうことは味が違っていて、いろんな味付けがあることを知りました。そしてなんといっても授業中に**できるというこの上ない事件が発生しました。
先生、ありがとうございました。 (環境政策科1年 H.M)
[第11回「限界集落」アンソロポロジー]の続きを読む
- 2008/12/13(土) 12:26:07|
- 景観|
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こんにちは!TO.YOです。
11日の演習で、プロジェクト研究4の今後の方針が固まったので、ここで報告させていただきます。
今期のプロジェクト研究の成果として、各2年生は以下のテーマを分担します。
・Y-TN
前回の建築見学ツアーを終えて書いた「
三徳山三仏寺建造物の構造形式と建築年代」の内容をより深めて、発表会でプレゼンテーションを行う。
・TO.YO
同じく前回の建築見学ツアーでの尾崎家「
陰陽五行の松」の内容を深め、発表する。
・M.J
3年生が取り組んでいる
野田遺跡焼失住居復元の模型作りの2年リーダーとなって、その復元・制作過程をまとめて、プレゼンテーションで発表する。なお、M.Jくん以外の二人も、模型作り含め、野田遺跡焼失住居復元のサポートをします。具体的には、私が文献の整理、Y-TNくんが模型作り+α、M.Jくんは図面の作成をそれぞれ担当します。
発表会での発表は別々ということになりましたが、2年生全体でチームを組んで各々がしっかり貢献し、一つの成果を残せるよう、頑張ります!
そういうわけで、今日は野田遺跡・竪穴住居のラフ模型作りの続きを行いました。先輩の力もお借りして、いいものができるようがんばります! (環境デザイン学科 2年 TO.YO)
[第11回「建築と都市の歴史」応用編]の続きを読む
- 2008/12/12(金) 12:32:04|
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卒業して就職してはや9ヶ月。どういうわけか、また就業の地でブログを書いている。先週の土曜日(6日)の夕方、荒れ狂う空から予定より30分遅れで鳥取空港に着陸した。天気のせいか
『父の暦』のような感慨にふけることもなったが、4年もの記憶の蓄積が、確実に鳥取を異国の地ではなくしていた。表向きは連日ブログを賑わせている
第1回「文化的景観」研究会への参加だが、故郷が恋しかったのではないかと問われれば、首を縦に振らざるを得まい。銭がなければ、君、やっぱり帰ったほうが身のためなのです(帰るのにも銭がかかったのだけど)。7日(日)は某大学院生様のお陰?で普通の休日を過ごし、8日(月)は研究会開始まで大学内で旧交を温めていた。私にとっての就職課の花がいなくなっていたのはちょっとショックだった。箱は変わっていないのに、中身はいろいろと変わっていた。でも教授室は相変わらずだったなぁ…あぁ、中身が変わってないからか(笑)←ごめんなさい。
研究会開始の1時間前に現地に到着し、「ご無沙汰です」と「はじめまして」のご挨拶。いちおう社会人らしく名刺を出してはみたものの、自分に不釣合いな肩書きがいっそうちぢこまってしまいそうな方たちばかり。それでも楽しく過ごせたのは、皆さんが寛大なお心をお持ちだからで…いやはやなんとも。そして寒空の下、板井原の集落を散策し、「野土香」のコーヒーで体を暖め、いざ研究会へ。

正直なところ、文化的景観に関しては不勉強なところが多く、気の利いた言葉ひとつ浮んでは来ない。学生時分同様、必死でメモを取っていた。発表が終わり、討論に花が咲き、粛々と研究会が進む中、ひとつの言葉が頭をよぎった。
「せっかくなんだから、ホームスティとかしちゃえばいいのに」
先生の胸のうちにもそれはあったらしく、帰りの車でその話にもなった。実際におこなおうとすれば越えなければならない関門は多いと思う。なかなか難しいことは百も承知である。ただ、ここはベトナムではない。ましてや修復中の加藤家でもない。足がないのなら住んでしまえ。自分が学生の頃ならこういうことは考えなかったかもしれないが、学生から社会人になった今だからこそ、言えるのだと思う。こうして自由に浸っていられるのは学生時代だけだということを。利害を抜きに飛び込めるのは、学生時代だけだということを。(チャック)
[チャックの板井原]の続きを読む
- 2008/12/11(木) 12:07:08|
- 講演・研究会|
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12月8日、
第1回「文化的景観」研究会を智頭町板井原の「火間土」にて開催しました。大学研究室から10名(及び研究室OBのチャックも!)、県教育委員会文化財課歴史遺産室から3名、智頭町教育委員会から1名、板井原集落保存会の有志6名が参加しました。加えて平澤毅主任研究員(奈良文化財研究所)を迎え、計22名のミニ・シンポジウムとなりました。研究会の主題「文化的景観」とはCultural Landscapeの訳語です。まだ日本では馴染みない用語かもしれません。もしかしたら世界遺産に登録された石見銀山遺跡や文化財保護法の「重要文化的景観」などでお聞きの方もいらっしゃるかもしれません。「文化的景観」の概念は世界遺産では1992年に、日本の文化財保護法では2004年に導入されました。平澤さんは文化財保護法に「文化的景観」を取り入れる際、文化庁に所属されており、法改正に関われていました。いわば「文化的景観」のプロです。

研究会は午後4時半から始まって9時にまで及びました。学生一人ひとりのプレゼンテーション発表後には、まず平澤さんからコメントをいただき、さらに他の参加者からも講評いただきました。発表は大学院や学部の中間報告会の内容を基にしましたが、教授からは調査の概要や成果、文化的景観の提案・計画を提示するなどバージョンアップするようにと指示されていました。このバージョンアップが迷走してしまい、理解しにくいものになっていたかもしれません。お互い練習やチェックをして発表に臨んでいれば、迷走を避けることができたと思います。この点は、非常に反省すべき点です。
人が住んでいる場所には必ず「文化的景観」がある、という平澤さんのご指摘はとくに印象に残りました。人びとの生活や生業の変化に応じて景観は不断に変化しているから、「文化的景観」の保護は変化を凍結するのではなく、許容しているのが特徴である。そのため「文化的景観」は変化を許容する範囲、景観をどのようなモデルで維持していくかの指標が重要であることがみえてきました。また「文化的景観」の提案・計画するのであれば、制度をよく理解し、ガイドラインに沿って一定の区域を設定し、その区域の景観の意義を明文化していくことが必要不可欠であるのが見えたのが収穫ではないかと思っております。
論文の提出締め切りまであと2ヶ月と迫っています。この研究会で得た収穫をぜひとも論文に活かしたいと思っています。(某大学院生)
[速報 第1回「文化的景観」研究会]の続きを読む
- 2008/12/10(水) 12:56:13|
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三徳山三仏寺建造物の構造形式と建築年代
11月17日の
建築ツアーに参加し、私は三徳山の投入堂とそこに至るまでの多くの文化財建造物に興味を持ち、その構造形式と建築年代について調べようと考えた。
三徳山三佛寺は三徳山全体が境内とされており、投入堂の標高は900m、登山道入口から投入堂までの標高差は200mである。三徳山自体が国の「名勝」及び「史跡」に指定されており、国宝である投入堂(蔵王堂・愛染堂)、国の重要文化財である納経堂・地蔵堂・文殊堂、鳥取県指定の保護文化財として本堂・不動堂・元結掛堂・観音堂・鐘楼堂(以上 三徳山三佛寺建造物群)があり、さらに、未指定文化財として香楼院・輪光院・正善院・皆成院などが存在する。
本堂は現在、修復工事が行われていて、仮の本堂が建っている。こけら葺の向拝1間唐破風付きの宝形造で桁行5間半、梁間5間である。江戸時代後期の建立と推定され、天保十年(1839)に再建された。今回の解体修理にともなう調査の結果、屋根が建立当初「とくさ(木賊)」葺であることが判明している。
板葺きの屋根は葺板の厚さによって呼び名が異なる。「こけら葺」は板葺の中でも最も薄い厚さ2~3ミリの板を使う手法で、板葺といえばこけら葺といわれるほど日本の文化財建造物によく用いられている。本堂に用いられていた「とくさ葺」は厚さがこけら葺のおよそ2倍の6ミリのものが使われている。とくさ葺は江戸時代まで社寺建築に用いられたが、次第にこけら葺や銅板葺へと移行していった。宝形造は寄棟造の特異なものであり、屋根がすべて三角形になって中央の一点に寄せられた造りのものをいう。宝形造の代表的な建築は法隆寺の夢殿である。八角形の宝形造だがこれも三角形が中央の一点に寄せられている。


登山道を登っていくと文殊堂、そこから100mほどで地蔵堂を見ることができる。この二つの建築はいずれも室町時代後期のものと推定されており、文殊堂・地蔵堂ともに桁行三間、梁間四間である。いずれも入母屋造だが、文殊堂は背面軒唐破風で、地蔵堂は背面妻中央に軒唐破風がついている。そして二つの建築は「懸造」である。懸造は別名「舞台造」とも呼ばれ、京都の清水寺がその代表である。文殊堂・地蔵堂が清水寺と異なる点は、崖に建てられているのにもかかわらず勾欄がないことである。二つの建築に共通点が多いのは文殊堂が地蔵堂を模して少し後に建てられたからだと考えられている。
地蔵堂からもう少し登ると鐘楼堂がある。鐘楼堂は鎌倉時代の創建と推定され、こけら葺の切妻造である。大正14(1925)年の修理で大半の部材が取り替えられたことが惜しまれる。
そこから「馬の背」と呼ばれる難所を過ぎると。国の重要文化財「納経堂」があらわれる。こけら葺の春日造で、1082年に伐採された材が使われていることがわかっている。平安時代後期の「春日造」として報道された有名な建物である。春日造とは、春日大社に代表される神社本殿の様式で、切妻造の妻入で屋根が左右に反り、前側にも庇が付けられたものを言う。
そして、建物の半分が洞窟内に建てられた不動堂の裏側を通り抜けると元結掛堂がある。庇に縁をつけるが、階段は省略されている。この手法は納経堂も同様に用いられている。不動堂・元結掛堂、いずれも納経堂と同様、こけら葺の春日造で、江戸時代に建築と推定されている。そこから少し先にある不動堂はこけら葺の春日造で庇には縁を設け、勾欄をめぐらしている。江戸時代末期のものと推定されている。

こうしてようやく奥院投入堂に到着できる。文殊堂・地蔵堂と同様に懸造で建てられており、桁行一間、梁間二間の桧皮葺流造である。桧皮葺とはヒノキの樹皮を用いて葺かれたものを言う。日本独自の優雅な屋根葺き手法である。流造とは切妻造の平入で屋根が左右に反り、前側の庇も身舎の屋根が続いて、「へ」の字になっている屋根形式で、日本の神社本殿のもっとも代表的な様式として知られている。このように本体部分は流造だが、脇の庇と隅に落屋根をともない、屋根全体の形状は年中行事絵巻に描かれた平安宮紫宸殿とよく似た屋根形式としても注目されている。
以上が三徳山三仏寺の文化財建築である。 (環境デザイン学科2年 Y-TN )
参考文献 『三徳山とその周辺』鳥取県立博物館、『鳥取県の近世社寺建築』鳥取県教育委員会、『鳥取県の歴史散歩』山川出版社、『鳥取県の山』山と渓谷社、『三徳山の歴史と美術』第17回国民文化祭三朝町実行委員会、『週刊日本遺産 三徳山 大山』朝日新聞社
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- 2008/12/09(火) 12:44:25|
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先週から2度、京都室町の
ホーム・デンティストに通った。左の奥歯を3本も治していただいたのです。なんか知らないうちに医療費が高くなっているなぁ。銀の値段があがっているのだろうか。
地下鉄の烏丸御池で下車し、二条室町の歯科までとことこ歩いていくのだが、ある変化にふと気付いた。町家を改修したお洒落なレストランが増えているのだ。その多くは洋食屋さんなのだが、なかに「和のふれんち」を売り物にしている「たま妓」という名の京町家を発見。治療が終わり、ドクターから「30~40分ぐらいはモノを食べないでくださいね」と指示された。いつものことである。
でも、お腹が減っている。目覚めてから何も食べずに京都に飛んできた。昼下がりにお腹はぐぅぐぅ鳴りっぱなしだ。「たま妓」に入ろうと決めた。少し高くつきそうだが、まぁいいじゃないか。京都のお店は高いが美味しい。それに手がこんでいるので、食卓にメニューが届くまで時間がかかる。治療した奥歯には、時間がかかるほうがよいのだ。
玄関をあけると、もんぺのようなユニフォームを着た若い女性店員があらわれた。残念なことに、「午後2時でお食事は終わってしまいました」と言われた。ほんとうに食べるものが何もないのか訊ねたところ、「スコーンとスープのセットならありますが」と言われて、渋々了承。

玄関脇の板間は満席だったので、奥の畳座敷に通された。前後の庭が小雨に濡れて、露の色香を漂わせている。スコーンとスープのセットだけではなく、食後のドリンクも欲しかったので、畳座敷で「玉露」を注文した。
しばらくして、板間のカフェに席があいた。板間のテーブルに、
梅味のジャムをつけるスコーンと聖護院蕪のスープが運ばれてきた。美味しかった。が、量があまりにも少ない。玉露はたっぷりある。
「あのぉ・・・こんなに量が少ないとは思わなかったので、ガトー・ショコラも」
とウェイトレスさんにお願いした。しばらくして、奥から女将さんがあらわれた。風格のある中年の美人だった。ははぁぁ・・・「たま妓」とはこの女(ひと)のことか・・・。厳密にいうならば、この女将が祇園か先斗町で「現役」だったころの源氏名ではないのか。
女将は若い店員の対応に不満があるらしい。
「ほんとうに気が利きませんで、申し訳ありません。お料理をお作りしましょうか。
どうぞ、ご注文ください」
わたしは驚いてしまった。とりえず小腹はおさまっていたからだ。
「えっ、・・・じゃぁ、メニューをみせていただけますか」
「いえ、ここではサラダから魚と肉のメイン・ディッシュまでフルコースにしています」
「えっ、・・・それじゃ、やっぱりガトー・ショコラを」
斜めとなりのテーブルに坐っていた初老の夫婦が、この会話を聞いて微笑んでいた。

女将はさらに頭を下げた。ほんとうに気が利かなくて、初めからお料理を出しましたのに、と繰り返し謝罪されるので、こちらのほうが恐縮してしまう。だって、食事タイムは2時までと5時以降なんだから、若い店員はその規則にしたがって行動しただけなんだもの。さらに驚いたことに、しばらくして、ワイングラスに入ったゼリー状の一品がテーブルに運ばれてきた。人参をすり下ろしたジュレで、女将からのサービスだという。いや、まいったな・・・
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- 2008/12/08(月) 14:43:09|
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オホーツク文化住居についてアップしたその日に、
サロマ湖の牡蠣が届いた。いや、Tさん、毎年、ほんとすいません。ありがとうございます。なんたって、量が尋常じゃありませんからね。大鍋に3杯分ですから、食べるほうも大変でして、ごらんのとおり、
デブも手伝ってくれました。

ちなみに今夜は日本酒ではなく、白ワインで蒸しました。グラスに入っているお酒は、スパークリング・ワインです(シャンパンと呼べるほどの値段のものじゃありません)。
デブは夕食のテーブルにつくのが日課になってますが、牡蠣はとくに好物で、よく食べましたね。ほんらいなら、模型を制作している学生諸君に牡蠣を食べさせてあげたいところですが、このなま物を放置しておくのは危険ですので、わが家の4人+1匹でたいらげちゃいました。ごめん。
- 2008/12/07(日) 12:00:40|
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後期から常呂チャシ遺跡9号住居(A期)の復元に取り組んでいる。4度の模型の作り直しで、ようやく完成への道筋が少し見えてきたように思う。現在の状況としては、棟持柱のほかに、大きな四脚とを2組用いて棟木を支える構造を採用している。2日のミーティングでは、さらに両端にサスを用いて構造を安定化しよう、ということになった。
遺構図から読み取れる柱穴の数が少なく、その配置も他の住居址とも異なり、近辺で復元されているオホーツク文化住居の類例を参考にすることも困難だった。苦慮した結果、4脚を使用することにしたわけだ。住居の内部こそ、今まで復元されている住居と大きな違いはないものの、わたしの案は過去に復元されたオホーツク住居とあまり類似していないため、地元の専門家のみなさんはどう感じられるでしょうか? 少し不安でもあります。

わたしは復元に挑戦するようになって、大学生活が楽しくなった。今までは、適当に過ごしてきた薄っぺらい毎日に厚みが増した気がするからだ。現在では、美しくてかっこいい模型を作りたいと素直に思える。初めての復元で、まだまだ知らないことがたくさんある。もう一歩踏み込んで知識を深めて、資料などをみる眼を鍛え、何が正しくて、美しいかを試行錯誤しながら考えることで、復元する楽しさをさらに感じられるようになればと思う。
2年生の皆さんにもプロ研の一環で手伝っていただくことがあると思います。できたら、復元の面白さを少しでも感じ取ってもらって、共有できたらいいなと考えています。自分をステップさせる手がかりを見つけられるかもしれません。
カッコつけました(笑) すいません! (黒帯)
- 2008/12/06(土) 12:52:53|
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地図の貼り合わせと図書検索 12月4日のプロジェクト研究2は学内4409演習室でおこなわれました。今回の活動は、2班に分かれました。1班は、県立図書館でコピーしたバラバラの
ゼンリン地図を貼り合わせるグループ。2班は、月曜日におこなった資料集めの中で浮き上がった問題などを先輩にアドバイスをしていただきながら解決していくグループです。ちなみに、私は後者の問題解決チームでした。

ゼンリン地図チームの作業はコピーして半ページずつに分かれている地図をくっつけて、元の本の見開きページのように見ることができるように復元するものです。この作業はまず、見開き半ページを取り出し、その本の「のど」にあたる部分に少し残っている余白を切り落とします。台紙の上に左右のページを貼り付けていくのですが、これが本当に大変そうでした。余白を切り落とすのも、カッターの扱いに慣れていないために、真っ直ぐ刃が動かず、なかなか難しかった、とのことでした。そして、片割れをくっつけてもコピー不具合のために見開きページの真ん中の辺りがないものもありました…。
さて、今日のもうひとつの作業は、研究の資料として使えそうな著書を探しているときに出た疑問、問題の解決でした。先週の話し合いで
研究の軸が一応決まったので、それに関する資料を月曜日に探しに行きました。一番身近である学校の図書館で探したのですが、板井原や中津と言った場所の資料は見つかりませんでした。やはり、学校の図書館では「板井原」「
中津」「板井原ごうこ」など、郷土に関する資料は少ないようでした。実際探してみたと言っても、図書館に設置されているパソコンの書籍検索機能で検索してヒットした資料を見てみるくらいしかできておらず、書籍の探し方もイマイチわかっていなかったと思います。
今日のプロジェクト研究では、書籍の探し方、中津や板井原などの資料を先輩方はどう探しているのか、ということを中心に聞いてみました。まず書籍の探し方ですが、私たちは単純にその調べたいことにしか注目していなかったような気がします。上板井原のある場所は字が市瀬(智頭町)なので、そこをもっと詳しく調べたらまだ隠れている上板井原の情報が出てくるかもしれない、と気付かされました。地名辞典を使い、板井原と引いてみて、その説明に出てきた地名をまた引いていく、というテクニックも教えていただきました。
いつも先輩方にはお世話になっているのですが、今日はとくにお世話になりました。お忙しい中、私たちの面倒まで見ていただき本当に感謝しています。ありがとうございました。
[第10回「限界集落」アンソロポロジー]の続きを読む
- 2008/12/05(金) 12:55:53|
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12月に入り、気温も低く冬の到来を感じずにはいられなくなってきたました。
どーも、お久しぶりのガードです。いま取り組んでいる岩手県一戸町野田遺跡の焼失住居は、奈良時代終わりころの小さな竪穴住居です。平面は隅丸方形を呈し、内部に柱穴はありません。
はじめに遺構図を読み解くところから取り掛かりました。最初は遺構図を見てもピンとこなくて、「このままの状態で完成するのか!?」と今までにないくらいの不安が波のように押し寄せてきました。が、長男「狩人」君のアドバイスによりなんとか不安のビックウェーブを乗り切ることができ、遺構図の解読が出来るようになりました。炭化材の向きや大きさ、種類から垂木、小舞、サスなどの材を特定し、模型を作り進める事が出来ました。この段階で一番思案したのが、サスや垂木など屋根材の勾配をどの程度にするかという事です。そこで、いくつかの勾配パターンを試作し、これがしっくりくるかなと言う事で7/10にいったんは落ち着きました。
そこからは破竹の勢いです。越屋根をつけ、入口をつくり完成形が見えてきました。しかし、ここでカマドという壁にぶちあたりました。自分は以前のプロジェクト研究で原寸のカマドを作ったことがあったのですが、古代のカマドに関する知識がまったくなく、手が止まってしまいました。そこで教授にすすめられた文献やインターンシップでお世話になった
御所野縄文博物館の高田館長に連絡をとってデータを送っていただき、カマドのデザイン、煙突の位置などを決めることが出来ました。館長さん、お忙しい中、ご指導ありがとうございました。
そして現在、復元断面図を描いています。2日の夜、自分で手描きした断面図を教授にチェックしていただきました。越屋根が大きすぎるので小さくすること、屋根の下地を葦葺きとするので勾配を8/10にすること、などのアドバイスをうけました。下が現在の野田遺跡焼失住居復元のラフ模型です。来週までに手描き断面図を完成させ、その後、本番模型の制作、CADでの断面図、平面図、レポートの作成と進めていく、今年中に全部終わらせ、楽しい新年にしたいと心の底から思います。
それではまたお会いしましょう。(3年ガード)
- 2008/12/04(木) 12:44:54|
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いい加減、コンペのネタも終わらせないといけないのですが、ほかにネタがないので、遅れてでた日本海新聞と産経新聞の記事を掲載しておきます。じつは、公開審査翌日の
速報を読んだノビタが「弊社にリークしてもよいですか」と電話で問うてきたのですが、わたしは即、「ダメ」と答えました。27日の
記者発表まで抜け駆けはなし、ということでお断りしたのですが、その結果、「弊社」の記事は12月1日までずれこんでしまったわけです。で、その記事を読んだ倉吉の建築家から、以下のメッセージを2日に頂戴しました。
おめでとうございます。
ここ最近暗い話が多く聞かれていましたが、今朝の新聞を見て
ヤッタァー、と思わず声を出してしまいました。
ほんとに良かったですね!!
これからも、じっくりと焦らず進んでください。
皆様の今後の活躍を期待しております。
いや、ほんとにありがとうございます。これからもゼミ生一同、精進いたしますので。

なお、他紙の記事は、
こちら をごらんください。いずれの記事も画面をクリックすると拡大されます。
- 2008/12/03(水) 12:50:55|
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