ストリート・スライダーズというロック・バンドの存在を知ったのは1982年のことである。
当時、わたしは北京語言学院の留学生楼にいた。北京語言学院は、大学や大学院に在籍する以前の留学生が中国語を学ぶカレッジで、たいていの大学院生は3ヶ月ばかり語学を学び、まもなく北京大学などの有名大学に移って専門領域を学び始めるのだが、わたしは北京語言学院に1年もいた。もう一人、いまやTO大学考古系の大教授となったOさんもまる1年、北京語言学院にいた。要するに、二人だけ中国語が下手だったのである。
当時の北京語言学院には、100~200人の日本人留学生がいた。わたしとO教授のような大学院生はごく少数派。大きく二つのグループに分かれていた。一つは商社を中心とする大企業派遣の社員たち。とんでもない高給取りなのに、留学のために手当までもらっているから、はぶりがいいのなんの。もう一つの大きな集団は、高卒グループである。
日本で大学進学を諦めた高卒生が北京語言学院に大勢いた。かれらは2年間、北京語言学院で中国語を学び、中国の大学に進学する。北京大学に入学するものもたくさんいる。北京大学は、日本でいえば東京大学にあたる最高学府である。北京大学に進学できない学生もいたが、北京大学に準ずる大学には入れた。そういう時代だった。
当時、わたしはジャズに嵌っていたころで、北京ではアコギで練習していた。おもにジム・ホールのコピー譜を使い、「酒と薔薇の日々」「マイ・フーリッシュ・ハート」「ステラ・バイ・スターライト」「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」「ミスティ」「ソフトリー・アズ・イン・ナ・モーニング・サンライズ」などのスタンダードばかり弾いていた。マイナーの7♭5とかメイジャーの7♭9とかをひぃひぃ覚えていた時代である。
高卒グループにロックン・ロールのバンドを組んでいる連中がいた。かれらのアイドルはストーンズとR.C.サクセションだったが、そこで「
ストリート・スライダーズ」の名前を耳にした。
「まぁ、ストーンズのコピーバンドって風なんすがね、すげぇんですよ、
やつら客席に向かって喧嘩しはじめるんですから」
語言学院バンドのリーダーは、たしかダイスケと言った。ダイスケは「ジャズのコード、教えてくださいよ」といいながら、スライダーズのリフを聞かせてくれた。カッコイイ、と思った。自分の知らない奏法に、正直、驚いた。
ダイスケたちはドラッグもやっていた。どこで仕入れたのか知らないが、やつらの部屋にはちゃんとマリファナがあった。質の悪いヤクなんです、とダイスケは言っていたが、マリファナの時間にサクセションやスライダーズの音楽は不可欠だ。
ストリート・スライダーズの結成は1980年、プロ・デビューが1983年だから、北京語言学院でバンドの名前を耳にしたころ、かれらはアマチュアからプロにはばたく揺籃期にあったことになる。その後の快進撃をここで解説するなんてばかばかしいからやめておく。
凄いバンドだった、としか言いようがない。ペンタングルが世界最強のフォーク・バンドで、おそらくあれに匹敵するアコースティック系のバンドは二度とこの世にあらわれないだろう、と思うのと同じぐらい、スライダーズに匹敵するバンドが今後日本にあらわれることはないだろう、と(たぶん多くの人が)思っている。
解散は2000年。わたしが研究所を辞めたころだ。
このバンドは再結成なんて、絶対しない。ありえないことで、もし再結成したら、スライダーズのファンは落胆するかもしれない。
毎夜のことだが、ユーチューブを彷徨っていて、たまたまスライダーズを検索したところ、ろくな音源がなかったのだが、リーダーだったハリーのソロに出くわして衝撃を受けた。スライダーズの名曲をアコギ1本、あるいはテレキャス1本で歌っている。そして、『GATEWAY』というソロの新譜アルバムの存在を知り、さっそく取り寄せた。
今年購入したCDは数十枚にのぼる(たいしたことないですね)。『GATEWAY』はわたしに最大の衝撃をあたえた。全曲、スライダーズ時代の作品。歌も凄いし、言葉も凄いし、ギターも凄い。
そして、悲しい。わたしが最も好きだった「エンジェル・ダスター」という曲は一人では歌えない。コーラスの部分はリードボーカル以外のメンバーが歌わなければ曲にならないのだ。それをハリーは、ダブル・レコーディングで処理している。
だれか歌ってやれよ。なんで、エンジェル・ダスターのコーラスまで自分で歌うんだ。ライブではどうすんだ・・・歌わないのかい。
- 2008/12/14(日) 13:06:41|
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