弥山からみた神話の世界 -大山登山 24日(月)は朝から大山登山に出発!・・・と意気込んでいましたが、米子では晴れているのに、遠望する大山は雲を巻いており、山麓から雨が降り出す始末。一度下ってコンビニで雨具を調達し、登山口に戻ったら雨はやんでいました。結局、予定より約一時間遅れの10時10分から登山を開始しました。登山口から頂上まで約2.8キロの夏山登山です。
いうまでもなく、大山は中国地方の最高峰(1,729m)です。約100万年前に火山活動が始まり、何度かの火山活動と休止を繰り返し、活動末期に今回登頂する弥山(1,710m)のほか、三鈷峰・烏ヶ山が作られました。そして、約1万数千年前の噴火を最後に火山活動が停止し、火山の一生を終えたと考えられています。もろく崩れやすい石英安山岩で構成されており、表土が薄く非常に浸食を受けやすい地質であるため、今も山の崩落が続いており、登山道も何度か整備されなおしたり、現在は通行禁止になっている道もあります。今回登った夏山登山道も整備された登山道です。

夏山登山道は5合目あたりまでは比較的緩い勾配で登っていきます。しかし、この緩やかな勾配が曲者で、歩いても歩いてもなかなか標高があがっていきません。そこで、1合目を過ぎたあたりで、体力のある学生4名は先に登って、教授は得意の「スロージョギング」ならぬ「スロートレッキング」でマイペースを保つことになりました。緩い勾配とは言っても、時々思い出したかのように膝の高さくらいの段差があり、意外と大変でした。
登山口から5~6合目あたりまではブナ林に囲まれています。大山のブナ林は西日本最大で、白い樹肌で直立する日本海側ブナ林と、枝を左右に広げ盆栽のような形の太平洋側ブナ林の両方の特徴を持っています。
5合目を過ぎるとだんだんブナ林が少なくなり、身長より少し高いくらいの樹木が多い灌木帯に変わりました。足元も土が減り、岩石が露出するようになり、雰囲気が急に変わってきます。6合目に到達すると一気に視界が開けて、冷ややかな空気に包まれ、トレッキングの苦しみを和らげてくれます。北は弓ヶ浜や日本海がひろがり、南は大山の北壁がそびえています。北壁は白い岩肌が多く見え、大山の地質のもろさを実感できました。このあたりから勾配もぐっと急になり、足元の石が不安定なので気を引き締めなければならず、まるで「修行」をしているように感じました。少し登ったところから下を見ると、高い木に覆われていないため他の登山者の様子がよく見えます。少し気を抜いたら足元が滑って、転げ落ちてしまうのではないかという恐怖にも襲われました。8合目あたりでは尾根を伝って歩くため、谷すじからの風が強烈に吹きつけ、本当に気を抜けないほどの強さ。

ところが、一転。北壁側から南壁側に移動すると、風は穏やかで一面高原のようなのどかな風景がひろがります。周りを見渡すと雲が自分たちより低いところに浮かんでいて、雲上の世界はまるで極楽のよう。植生を回遊する木道を歩き進み、ついに頂上に到達!
およそ2時間20分で頂上にたどり着きました。朝の雨が嘘のような快晴で、心地よい日差しとひんやりとした風と頂上からのすばらしい眺めが、それまでの疲れを癒してくれました。
頂上の石碑の向こうには、縦走禁止で入れない弥山や剣ヶ峰が見え、少しはなれたところに烏ヶ山があります。振り返って海側を見ると、弓ヶ浜や島根半島が一望できます。、まるで神話の世界が広がっているよう。大山を杭、弓ヶ浜半島を綱にして島根半島を引き寄せ国引きしたという『出雲国風土記』の神話そのものの絵巻物のようでした。その眺めを堪能しつつ、おにぎりで小腹を満たしていると、遅れて教授が到着。話を聞くと、途中すれ違ったおじいさんに「靴底に鉛がついとるの?」と言われてしまったそうですが、無事登頂できて何よりです。
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- 2009/08/31(月) 13:18:03|
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8月1日にアップした「
『月刊プレイボーイ』創刊号」という記事には即座に反応があった。と書いても、なんのことだか分からない読者もいらっしゃることだろうから、要点をおさらいしておこう。
2007年1月にアップした『月間プレイボーイ』に関する記事を読んだ70歳の元モデルさん(もちろん女性)から非公開コメントが入ったのは7月25日のこと。33年前に発行された『月間プレイボーイ』創刊号に、秋山章太郎撮影の自分の写真(グラビア7ページ)が掲載されているのだが、その創刊号を事情があって失くしてしまった。しかし、70歳になった今になり、若き日の自分の写真を見たくなったので、なんとか探しだして欲しいと懇願するメッセージが記してある。なにやら「探偵ナイトスクープ」じみた依頼だが、依頼者の気持ちが痛いほど伝わってきたので、まずは情報収集から始めようと決心し、今月1日に事情説明の記事をアップしたのだった。
たちまち、音楽仲間の一人から非公開コメントがあった。「古書を注文できるところがあるようですよ」と書いてある。
灯台もと暗し・・・わたしが文献集めで最もよく使っているサイトはAMAZONで、その次が「日本の古本屋」というサイトではないか。「日本の古本屋」は全国の古書店をほぼ網羅しているサイトで、欲しい書物やキーワードを検索すると、対象となる古書の所在地(古本屋さん)がずらりと表示される。欲しい物件はたいてい数ヶ所の本屋がもっていて、そのなかで最も安値をつけている古本を購入できる。
「日本の古本屋」サイトを開き「月間プレイボーイ」で検索してみたところ、数十軒の古本屋さんがヒットした。しかし、創刊号を所蔵していたのは1軒のみ。梅田の某古書店が創刊号を売りに出していたのである。値段は送料込み3280円。安い、と思った。即座にカートに入れ、注文のボタンを押した。まもなく受注メールが届き、そのメールの指示に従って、2~3日後に代金を振り込んだ。
古本屋で創刊号を発見し入手される状態となったことを、もちろん元モデルの古田さん(仮名)に連絡した。
隠岐巡礼中にその返信メールを民宿でキャッチした。彼女の喜びようは尋常ではない。ただ、細部に気になる表現が含まれているので、転載文(一部抜粋改変)を注意深く読んでいただきたい。
ありがとうを、幾たび繰り返した事でしょう。姉の看病で家を留守にして
おりました。姉はきっと良くなると想いつつもやりきれなさに押しつぶされ
そうな時に二度にわたるお便りを見付けました、早速お便りを下さった事に
大感激し、もう、見つけていただいた事に舞いあがりそうでしたが、
その次は、(私はそこに載っていないのではないか、他の月ではないか)等と
心配になって、お便りしてしまった事に罪の意識さえ感じております。
鳥取は私を育ててくれた舅が幼い頃住んでいたと聞いており、暖かい想いで
おります。本当に有難うございました。大変恐縮ですが隠岐よりお戻りになって
からお送りくださいますようお願いもうしあげます。
その日までどき、どきを楽しみたいとおもいます。
お暑さの折御身お大切になさってくださいませ。
本当に有難うございます。 古田
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- 2009/08/30(日) 13:59:14|
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8月27日(木)午後1時から、加藤家住宅で
第1回公開ワークショップ(左官工程)が開催されました。天候のぐずついた今夏の山陰でしたが、この日は朝から快晴。
学生たちはこのイベントのためにまる3日かけて会場設営に奔走し、この日も朝9時に集合して準備を続け、開会を待ちました。午前中に左官のSさんから学生は壁塗りの基本を学びました。まずはコテで反対側の塗り土を軽く掻き落とし、土置き台を小舞に押しつけながらコテに土を盛って小舞になでつけ平らに塗り重ねていく。言葉でいうのは簡単ですが、実践するのはなかなか難しい。わたしは駄目でした。下手くそです。が、学生たちはなかなか上手い。筋が良いと誉められてましたね。
いちばん難しい技術は「貫伏せ」です(↓)。柱をつらぬく貫(ぬき)の位置で壁厚がうすくなるため、そこに藁束をうすく貼り付け、その上からまた壁土を塗りつけるのです。Sさんの実演指導をみていて、なんと綺麗に納めるものだ、と感心し、同時にわたしには無理だと思ったのですが、やはり学生たちは難なくこなしていきました。

そうこうしているうちに開会の時間を迎えました。県市の文化財関係者がたくさんかけつけてくれましたし、遠くは埼玉のホカノ君、京都の山田先生やオカム君、出雲のIさんなどが続々と会場入りするのをみているだけで、心が躍っていきましたね。
縁のまえの杉苔の庭で、簡単な挨拶をした後、2班に分かれて活動開始。1班は外で足踏み土練り作業。いまは耕耘機やタンクローリーなどで土を練るのが当たり前になっているそうですが、わたしたちは足踏み土練りにこだわり続けてきました。1ヶ月前の新旧壁土混合時には
長靴を履いて土を踏みました。それは藁がまだ硬くて、素足を傷つける危険性があったからです。あれから1ヶ月以上たって、藁はすっかり土に馴染み、異臭を放つこともなくなっています。素足で練り土を踏みつけると、土の粘性が肌で感じられる。「このヌメリ感が病みつきになるで」と池田社長に言われ、午前中にさっそくわたしもやってみたのですが、たしかに気持ちいい。足だけはなくて、首までどっぷり浸かりたいと心底思いましたよ(それで少しは腹がへっこむかもしれない??)。
大きなもんじゃ焼きのような泥土のなかに次から次へと来場者が入っていく。いちばん長く泥のなかにいたのはホカノ君でした。かれは少年のような無邪気さを取り戻しており、大きな声をはりあげて、
「やっぱり、鳥取はいいですね!」
恥ずかしながら、ジ~ンときてしまいましたね。かれも楽しそうだが、わたしも嬉しい。感謝の気持ちがふつふつとわき上がってきました・・・

屋内では、もう一つの班が壁塗りを始めていました。来場者は計40名で、そのうち壁塗りを体験したのは30名前後でしたが、一人が塗る面積はたいしたことないので、妻壁の内側すべてを塗りきることはできないだろうから、壁塗り体験のあと、いったん塗土を剥がし、後日塗り直しをしようと思っていました。ところがところが、・・・・一般来場者の方はどんどん塗っていくし、それを受け継いだ学生とゼミのOBたちはさらに凄い勢いで壁塗りを続け、夕方までに妻壁内側の壁塗りをほぼ終えてしまったのです。
27日はイベントに徹して、実務は別の日に2日間おこなうことに決めていたのですが、イベントのその日に実務1日分の仕事をこなしたことで、残る左官工程は1日で済むことになり、経費の面では大助かりです。
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- 2009/08/29(土) 02:25:53|
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円仁の風景(Ⅹ) -蒼天に描くスカイライン 伯耆巡礼1日目に訪問した密教寺院について黒帯くんが語ってくれましたので、わたしは山岳信仰に係わる山嶺の景観についてお話しします。メインの大山については、今日は裾野からみた外観のみを対象とします。肝心の大山登山については、部長さんがレポートしてくれますので、お楽しみに。
鳥取を出発する8時半ころ、ポツポツと雨が降り始め、先行きを不安視させましたが、倉吉に入るころに雨はやんで、ほっと一息。集合場所の円形校舎から離れ、まもなく田園が広がる道ばたで大きく視界が開け、大山とそれに連なる山嶺の全体像が一望できました。
下の2枚の写真の左端に見える山々が蒜山山脈(上蒜山、中蒜山、下蒜山)、蒜山から右に向けて一気に低くなり突出している山が烏ヶ山(からすがせん)で。その右隣に大山(だいせん)、甲ヶ山(かぶとがせん)が連なっています。大日寺と転法輪寺はこの麓に境内を構えています。

【↑蒜山山脈 左側から上蒜山、中蒜山、下蒜山】【↑大山山脈 左側から烏ヶ山、弥山、甲ヶ山】
山道を走り続けて広瀬廃寺、大日寺、転法輪寺を駆け足でまわり、ちょうど、お昼の時間となり、船上山手前の「三本杉」でお昼を頂きました。この頃には空も快晴、夏の気候を感じながら昼ご飯をいただきました。こんな景観の良いところでのお昼は格別で、皆リフレッシュできましたね。

【↑船上山】
お昼をすませて、赤碕の船上山がいちばん綺麗に観賞できるダムまで移動しました。ここでも皆から歓声が湧き上がりました。船上山は「屏風雨岩」とも呼ばれ、数キロにも及ぶ断崖絶壁が雄大さを放っています。鎌倉時代末期、隠岐を脱出した御醍醐天皇を、地元の豪族、名和長年が船上山頂に陣を敷いてかくまい、幕府軍を打ち破って、後の「建武の新政」の起点となった場所です。船上山の山並みにみな酔いしれ、教授も「鳥取とは思えないね」と仰っていました。まさにその通りで、ボク自身、20年近く鳥取に住んでいて、このような素晴らしい景観があること自体知らず、首都圏にはない古代の景観が息衝いていることにただただ感動しました。

【↑船上山の滝】
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- 2009/08/28(金) 13:13:24|
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円仁の風景(Ⅹ) -大日寺・転法輪寺とその周辺 隠岐・出雲に続く山陰巡礼の第2弾。8月23日(日)・24日(月)の二日間、伯耆の諸山を巡礼しました。23日は、休日であるにもかかわらず、倉吉市教育委員会のSさんが同行して下さいました。仏教考古学に詳しいSさんのガイドのおかげで、これまで知らない伯耆の一面を知ることができました。Sさんには感謝の言葉もありません。まずは初日の成果のうち、仏教寺院関係の事項について報告いたします。
1.広瀬廃寺

まず訪れたのは広瀬廃寺(倉吉市指定史跡)。この寺院跡は倉吉市広瀬の水田に立地しており、池(今は低い水田)を東・西・北3方から仏堂が囲む「浄土伽藍=浄土庭園」の遺跡であり、池の東には遣水(やりみず)の遺構も検出されています。北方建物は山裾の高い位置にある礎石建物で、正面五間×側面六間の規模。東方、西方建物は北方建物ほど礎石の配置が明瞭にはわかりませんが、配置関係から確認されることは摂関体制下の門閥主義に疎外された文人貴族の邸宅を模したもので、「寝殿造」住宅から「浄土伽藍」へ展開していく平安捨宅寺院の小型のものと推定されます。Sさんは広瀬川の対岸にある五輪塔についても丁寧に説明してくださいました。この寺院遺跡を最初にみたことは、後に続く大日寺や転法輪寺の起源をさぐる上で重要な意味をもつものだということがまもなく分かりました。

2.胎金山大日寺
つづいて、訪れたのが大日寺。平安時代に創建されたと伝えられる天台宗の古刹で、現在は小規模な寺院ですが、もとは広大な寺域をもっており、上院、中院、安養院の三院からなる三百宇の坊舎を有していたと伝えられています。先に見た広瀬廃寺も、発掘調査された「浄土伽藍」の境内以外に「**院」と呼ばれる子院をいくつかもっている可能性があるでしょう。立地もよく似ています。川に沿った街道沿いの細長い敷地に横長の境内を構えており、背後に山が控えています。付近には県史跡の大日寺古墓群があり、日本最古の紀年銘をもつ瓦経が出土しており、平安時代から鎌倉時代にかけての有力な地方寺院であったことがわかります。また、平田市の鰐淵寺にあった梵鐘は、もともとは大日寺にあったということでよく知られています。
さて、円仁との関係ですが、寺伝によると、承和8年(841)慈覚大師円仁の創建とも、永延2年(988)恵心僧都源信の創建とも伝えられているようで、前者の場合、円仁入唐中の創建となるので、御住職は「円仁創建伝承」にこだわっていらっしゃらないように見受けられました。以前、教授が紹介されていた「江戸時代の附会」説についても、「三徳山や大山寺は別格でしょうが、そういう可能性をもつ寺もあるでしょう」と頷いておられました。なんかサバサバした方で、ちょっと「悟りの境地」を感じちゃったりして・・・

また、住職のご好意で、本堂等建造物、厨子、仏像、瓦経などを間近で見せていただきました。庭の一部には、まるで石貨のような平べったい石造物が置いてありました。110cm×120cmの長方形の中心部分に孔(直径36cm)をあけたもので、石製の露盤ではないかと推定されているそうです。大日寺のご住職はとてもお優しい方で、今後も私の研究に協力してくださると声をかけてくださいました。もし、お言葉に甘えることがありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
ご住職と別れて、Sさんの案内で中院跡近くの「頼朝墓」と呼ばれる大型の五輪塔を見に行きました。周囲にもコの字状に五輪塔群が並んでいるのですが、ひと際大きく立派なものでした。これには梵字の刻印があるのですが、Sさんに「なんて書いてあるでしょう?」と問われたときは読めなかったんですけれど、後で五輪塔の五輪が宇宙を構成する五つの要素、すなわち「空」「風」「火」「水」「地」から構成されているという観念が映し出されているとすれば、そういう梵字が刻印してあったりしてなんて思ったのですが、どうでしょうか・・・
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- 2009/08/27(木) 13:20:41|
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26日(水)。ゼミ生は加藤家でワークショップ準備の最終仕上げ。わたしは学内でひとつ大きな会議をこなした。小中学校では2学期が始まり、大学では会議が再開したのだ。夏も終わりか。
加藤家での準備状況を視察した後、夕暮れの千代川に向かった。
全国でついに30万人を超えたというザコツリストのみなさん、ようやく夏の瀬でハエを釣りましたよ。今年の8月は例年以上に忙しくて、ずるずるここまで来てしまいましたが、天候も芳しくありませんでしたね。8月は熱くないといけない。熱い8月の午後、川にでて半日流し釣りをする。これが楽しい。1年に1度でいいから、子どものころの夏休みに戻りたい。ところが、あんまり暑くないんですね。日差しが強くない。川の水は多く、冷たくて、
昨年とは対照的に
クロカワムシが獲れない。
わたしが捕獲したカワムシはわずか6匹。涼しい夏、カワムシたちはどこに行ってしまったのだろうか。もう蜻蛉に化けちまったのかな?

水かさはザコツリストの敵です。「瀬」がないのは困る。浅瀬の「瀬」です。泡を立てながら石を舐めるように水が流れる「瀬」が大きな石や川岸の草むらにあたるところに「淀み」ができる。そこにハエがいるのです。ここがポイント。水量が増えると「瀬」は失せて「川」ばかりになる。わたしの仕掛けは「瀬」や「淀み」で効力を発揮するのですが、深い「川」では使いものにならない。
その仕掛けに苦しみました。原因は二つあるんです。一つは「目」。以前お知らせしたように、
老眼が進んでいるので、透明なテグスがまともにみえない。仕掛けをつくるのが大変なんです。
もう一つは「
爪」。
六弦倶楽部はどうしたことか、ここ4ヶ月ばかり練習会を開催しなくなってしまい、この先どうなるのだろうか、と案じている今日このごろですが、ギターをつま弾く右手の爪のほうは近年まれにみるよい仕上がりで、綺麗にとんがっています。
わたしの爪は、いま、ほんとうに綺麗なんです。われながら惚れぼれするほどなんですが、この爪が釣りの大敵であろうとは露知らず・・・テグスは結びづらいし、餌をひっかけにくい。そして、また今日もさんざん糸がもつれてくれました。釣り針はビーチシューズの靴底や短パンにひっかかるし、フィッシングの時間よりも、トラブルシューティングの時間のほうが長かったんじゃないか。
しかし、至福の時間は午後7時すぎにやってきました。ようやく入れ食い状態になったのです。浮きがよく見えないのだけれども、竿をひきあげると、ハエが釣れている。わずか30分ばかりのあいだに続々と釣り上げ、今夜の首尾は計11尾。6匹の餌で11尾釣れたのだから、まずまずの成果と言ってもよいでしょうね。ただ、さきほど確認したところ、いちばん味の良いチンカー(カジカ?)が網から逃げていた・・・残念・・・
夕闇に包まれはじめた橋のたもとで、川面をみつめながら竿をたれていると、いつもの郷愁に襲われる。郷里にいて郷愁とはおかしな心理ですが、たとえば昼間の会議は郷里にいながら別世界なんでしょう。郷愁とは、子どものころの自分を懐かしむ心情であり、河原にその幻影が映し出されてくるような気がしてしかたない。
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- 2009/08/26(水) 23:52:48|
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まず、最新のニュースから。二人のOBが公開ワークショップに参加します。これまで、そういう「噂」はあったのですが、本日、正式に二人から連絡が入りました。一人はホカノくん(現日本住宅**組合)、もう一人は山田講師(現京都大学)です。ワークショップはさておき、二人の顔がみたいという方はぜひ加藤家住宅まで足をお運びください。
・・・リンリンリン、あらら・・・今また電話のベルが・・・そうかいな、京田辺の岡村(数寄屋大工)も来るそうです・・・「
弥生町の夢」もう一度!!
左官工程のためのミーティング 8月22日(土)、盆休みもあけて、いよいよワークショップにむけて本格的な準備が動きだしました。
午前中はロフトにあがる階段の修景作業をピヴォさんとしました。簾を購入し単館の外側に取り付けるのです。簾は220cm×88cm。これを縦に2つ繋ぎ合わせ、長さ440cmの簾にして3枚並びで上から吊しました。
午後から、池田住研の社長さん、左官のSさん、建築家のKさんがいずれも倉吉から足を運んでくださいました。ここでいきなり教授からお目玉を・・・当然、まずはワークショップ当日の流れ(時間配分)を話し合うべきだったのですが、「次第」を書き込んだポスターを大学におき忘れてしまったのです。すぐさま私のミスをカバーしてくれたのがエアポートさんでした。エアポートさんは愛車(バイク)で大学までポスターを取りに行ってくださったのです。エアポートさん申し訳ありません。ポスターが届くまでのあいだに荒壁塗りについてお話を伺う事になりました。
はじめに、私たちが練り上げ発酵させた「土」が使えるのかお聞きしました。「使えない」と言われたらどうしようと不安でしたが、Sさんは「大丈夫です。十分使えます」と言って下さいました。この発言で私は少し安心。しかし、「でも、土の量が少ないかもしれない」と追加のひと言に私はドキり。私は、土練りの段階で、荒壁塗りする面積をみて土量は十分足りると考えていたのですが、Sさんによりますと、土壁は外側より内側を厚く塗らないといけないそうで、本当はもう少し量を増やさないといけなかったのです。これについては、池田住研の社長さんから「まだ旧土壁の解体土が残っているので、その土を足せばいい」というご指示をいただきました。私はまたしてもホッと胸を撫で下ろしました。

二番目に荒壁塗りの手順について話し合いました。まず、壁土が接する柱のマスキングをする必要があります。マスキングテープとポリマーカーを用いて柱を保護するのです。もちろん土間にもブルーシートを敷かなくてはいけません。以上の準備は、もちろん公開ワークショップ開催の前までに済ませておかなければなりません。
三番目は道具です。これについては、Sさんがお手持ちの道具を実際にみせてくださいました。鏝(コテ)は思っていたより多くの種類があり、どういったものが適当なのかを詳しく教えてくださいました。ほとんどの材料はホームセンターで揃えることができることがわかりましたが、練土を盛る木製の台については、ピヴォさんのおじいさんに製作を依頼することになりました。
四番目は「貫伏せ(ヌキブセ)」に必要な藁束の問題です。「貫伏せ」とは、土壁を塗る位置にある貫とその上下部分に荒壁施工後に貼り付ける藁のことです。あるいはその作業をさすと言ってもよいでしょう。貫の上面は土の塗厚が小さいため、後々ひび割れが生じやすいため、藁を被せて土でとめておくのです。「貫伏せ」の材料としては、藁以外に麻布や棕櫚(シュロ)なども使うそうで、地域によってまちまちです。「貫伏せの藁」は一握りの藁束の先端10cmを切り落とし、次に切った部分を持ち、長さ30cmに切り揃えます。それでも長さがまちまちの場合があるので、切り終えた後、叩いたり、振ったりして、長さが30cmのものだけになるようにします。これで一つの「貫伏せの藁」が完成します。これをワークショップまでにとりあえず10~15個作っておかなければなりません。「貫伏せの藁」を丁寧に作っておくことで作業がしやすくなるとのことなので、頑張って用意したいと思います。

五番目は荒壁塗りの現場確認です。荒壁塗りをする箇所は主屋の北側(妻壁内側)だけでなく、南側(ナンドと廊下の境の間仕切り壁)にもあります。南側は廊下の床が不安定で危険なので、左官職人さんに任せることになりました。現場をみてまわっている間、教授は荒壁のままでいいのか、中塗りまでしなくてもいいのか心配されていました。これについては、まず経費節約の問題があり、さらに因幡地方では荒壁仕上げの民家・土蔵が少ないこと、加藤家住宅においても荒壁仕上げでとめている部分があることなどから、今年度は荒壁までとすることになりました。
六番目の問題は「隙間」です。2006年におもに外側の荒壁塗りを終え、内側を放置した状態だったのですが、木の部材と壁土のあいだに隙間ができているのです。この隙間を埋めていく作業は素人では難しいので、やはり左官職人さんにお任せすることになりました。ワークショップ当日、Sさんみずから実演してくださるそうです。乞御期待!
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- 2009/08/25(火) 15:01:13|
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昨日(10日)は 鳥取南中学校で
加藤家住宅修復に係わる出前講義をしてきました。パワポの最後に、第1回公開ワークショップについてのチラシを示して中学生諸君に参加を呼びかけたのですが、最近の夏休みは短くて、ワークショップを開催する8月27日(木)にはすでに2学期が始まっているそうです。聴講してくれた2年生約200名にチラシを配布したのですが、残念無念・・・でも、ひょっとしたらチラシをみたご父兄が参加してくれるかもしれませんね。
というわけで、7月から
準備を進めてきた加藤家住宅修復の公開ワークショップ(左官工程)のスケジュールが正式に決まりましたので、以下に概要をお知らせいたします。
加藤家住宅修復プロジェクト
「セルフビルド&ゼロエミッションによる古民家の持続的修復」 第1回公開ワークショップ 日時: 8月27日(木)13:00~17:30
会場: 鳥取市倭文491 登録有形文化財「加藤家住宅」
次第: 13:00 開会挨拶
13:10 加藤家住宅の視察
13:30 左官職人による講習・実演と質疑
14:15 休憩
14:30 荒壁塗り体験
17:00 閉会挨拶
17:30 解散
主催: 鳥取古民家修復プロジェクト委員会
事務局: 鳥取環境大学 建築・環境デザイン学科 浅川研究室
(担当:宇田川、門脇)
これまで2度お知らせしましたように、加藤家住宅に係わる修復プロジェクトについては、
H21とっとり「知の財産」活用推進事業(鳥取県)に採択されるだけでなく、文化庁の「
NPOによる文化財建造物活用モデル事業」にも採択されました。今回の公開ワークショップはもちろん両事業の一環となるものです。公開ワークショップは民家の所有者や専門家だけのものではありません。ひろく一般市民のご参加を募っております。
なお、ご参加のおりには、作業服・長靴・手ぬぐい・軍手などをご持参くださいますようお願い申し上げます。また、詳細は下の画像をクリックしてください。
多数のご参加を心よりお待ちしております。

↑画像をクリックすると大きくなります。
- 2009/08/24(月) 12:37:13|
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11日から久しぶりに不動産を探しまわってました。自分のためじゃないんですけどね。最初はUR(旧公団)の事務所に行ったんです。自宅の近くに素晴らしい2LDKの空きがあることが判明。1階、67㎡で67,000円だって。ほんと、素晴らしい物件でした。全室バリアフリーが行き届いていて、患者に住まわせてやりたいと思ったんですが、今回はわたしたち夫婦のための不動産探しではありませんで、残念ながらパス。次に「適合高齢者専用賃貸住宅」という特殊な物件を包括支援センターから斡旋され見にいきました。これは1ルームマンションで狭いんですが、バリアーフリーと介護サービスが行き届いている。結局、こっちに決まって、いまは引っ越しの準備でてんてこ舞い状態です、トホホ・・・
大失敗だったのは、丹後半島まわりで鳥取に戻ったこと。やるんじゃなかった・・・娘が鳥取に行きたいと言い出したんですが、佐用が災害で危険な状態だったので、丹後半島をおおまわりしようということになったわけ。以前、家族で丹後半島を2度周遊したことがあり、海岸線の景色はこの世のものとも思えぬほど麗しく、海産物はもちろん牛肉が異常に美味しかったもんで、「あの夢よ、もう一度!」との想いが甘かった。「盂蘭盆会」中日の14日、高速道路はガラガラだったんですが、その終点の宮津で大渋滞が発生。あんな小さな町なのに、高速の出口から市街地をでるまで、車が動かない。原因は天橋立ですね。海水浴客がすごかった。余裕があれば宮津高校を訪問しようと思ってたんですが、高校訪問どころの騒ぎではなく、伊根に辿り着いたら夕方になってました。伊根から先の丹後半島と山陰海岸国立公園のビューが最高なんですよね。あの海岸線のドライブがごきげんでして、夕暮れの温い海に浸かってノホホンとしたかったのだけれども、結局、闇の中をひたはしり。眠くてしかたなかったんですが、娘と交替でなんとか10時間以上車で走りきり、まぁくたくたでした。
16日に初盆を終えて奈良に戻り、17日は上記「適合高齢者専用賃貸住宅」の件で奔走。18日は、鳥取の同僚が平城宮を訪れるというので、朱雀門で待ち合わせし、東院庭園を案内したんです。そのあと近くの喫茶店入ったんですが、そこはドッグ・カフェで、あやうく二人ともドッグフードを食するところでありました。平城宮はたしかに犬の散歩には最適ですから、その前後にドッグ・カフェを利用する愛犬家も少なくないのでしょう。
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- 2009/08/23(日) 13:29:05|
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1週間遅れの盆休みで長女が昨夜、東京から帰省。息子は2日前から東京の友人を訪ね、今朝、夜行バスで戻ってきた。東京からのお土産のお菓子がいっぱいあるもんで、家内はごきげん。行列ができるという「クリスピー・クリーム・ドーナッツ」はすごく甘いけど美味しい。ジョギングで疲れた体に染みいる味ですね。娘によれば、行列で並んでいると、サービスでドーナッツを1個くれるとのこと。息子はお台場やら秋葉原、渋谷などなどで遊んできたというので、
「秋葉原って、何があるのん?」
と訊ねると、
「メイド喫茶」
だというから仰天してしまった。「入ったのか」と訊くと、「うん」。蛙の子は蛙ですね。
いま、花巻東と大分明豊の試合が終わりました。菊池投手リタイアのあと逆転されて、明豊が6-4で勝つと思っていたら、9~10回に3点取り返して花巻の再逆転勝利。笑顔の勝利ですね。菊池がアクシデントで降板しようと、ピンチになろうと、最終回だろうと、すべての選手の顔から笑みが消えない。笑顔が幸福を呼び込むんだと感心しきり・・・若い佐々木監督の指導がいかに素晴らしいか、よく分かりました。自分の場合、反省しなきゃいけないことばかりだな・・・
さて、この記事がアップされるころ、わたしは加藤家住宅でワークショップの準備をせっせとやっていることでしょう。
やたら忙しい盆休みでした。まず「
隠岐出雲巡礼」シリーズで死んでしまった。なに言ってんの、学生にばっかり原稿書かせて、教師は極楽トンボじゃないの、と思っている読者は現実を知らない。学生たちはFC2の「下書」欄に下書をアップしてくるのです。1日分の下書を公開できる状態に仕上げるまでに3~5時間を要します。その修正はもちろん教師の仕事でございます。シリーズの最後のほうは、ほんと、発狂しそうだった。文章が下手で、歴史や建築に関する基礎知識が乏しいのは仕方ないとして(仕方なくもないのですが)、驚くのは写真なんですね。なんでこういう写真を使うのだろうか、わけの分からない写真ばっかり並んでいて、レイアウトも困ったものです。結局、ほとんどすべての写真を選びなおし、フォトショップで加工して、レイアウトしなおすんだから、執筆も写真選択もなにもかも最初から教師自らやったほうが楽なんですね。けれども、それだと「教育」になりません。というか、わたしの教育が駄目なんでしょう。みんな笑顔じゃないもんな・・・
まぁ、捲土重来だよね。次の「伯耆巡礼」「五台山巡礼」シリーズでは、大きく飛躍した姿をみせてくれることを期待しています。
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- 2009/08/22(土) 13:04:05|
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たまには公務の広報もしませんとね。
来たる9月17日(木)に実施される鳥取環境大学大学院一般入試(Ⅰ期)の願書受付中です。出願期間は8月17日(月)~9月9日(水)、研究計画書提出締切は9月1日(火)となっています。
推薦入試は6月に終えており、受験者・合格者ともすでに昨年の実績をうわまわりました。今年度はさらに大学院への進学者が増えるものと予想しています。昨年は「内定取り消し」の年でしたが、今年は「内定なし」の年ですからね。こんな時代にあくせくしたって始まりません。自分を安売りするのも得ではありませんよ。学生諸君は自分を磨くしかないのではありませんか。あと2年間、大学院修士課程で自分を磨きあげ、社会が必要とする人材に成長してほしいと願っています。

本学大学院の場合、学部とちがって理系・文系で授業料に差はありません。一律100万円(1年)です。もちろん、この額でも高いですね。しかし、授業料減免制度/鳥取環境大学優秀学生奨学金/日本学生支援機構奨学金/アパート代助成制度/兄弟姉妹施設費免除制度などの学生支援制度(←)が充実しています。これらの優遇制度を活用すれば、修士課程2年間の経済生活も決して苦にならないはずです。
大学院は「社会環境学」「環境デザイン」「情報システム」の3つの領域からなっています。それぞれの概要については下の画像をご覧ください。画像をクリックしていただければ拡大されますので、細かい文字まですべて読み取れます。
学内外の大学4年生諸君、あるいは社会人から大学院に進もうと考えている皆様、ぜひとも本学大学院の修士課程で学んでください。実りおおい2年になることを保証いたします。募集要項・パンフレットのお取り寄せは、本学企画広報課入試室までお問い合わせください。

↑左から社会環境学領域、環境デザイン領域、情報システム領域の概要説明です。
- 2009/08/21(金) 04:01:01|
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隠岐出雲巡礼エピローグ2 全行程を終えた最終日の夕方、時間に余裕があったので、教授がアポをとられ、河本家住宅(県指定文化財)を訪問することになりました。
じつは、加藤家住宅修復プロジェクトの一環として裏門の復元をすることになっていて、
発掘調査した2007年にいったん復元図(基本設計図)を描いているのですが、類例調査をまったくしていないので、わたしとガード君で何棟が実測しようということになったのです。ついては、これまで研究室で調査した河本家・尾崎家などからスタートしようということで、まずは下見をさせていただきたく、河本家にお邪魔することになりました。
河本家の場合、
家相図があるところも大変な魅力です。家相における裏門がいったいどの方向にあり、どう意味づけられているのかを研究する材料としては抜群なんですね。幸運なことに、加藤家にも家相図が残っているので、両者を比較することもできます。
わたしは河本家住宅は初めての訪問でして、噂どおり、客間の欄間には驚愕しましたが、家相図の大きさにも度肝を抜かれました。畳二畳半ぐらいの大きさがある幕末の家相図です。ご夫婦のお話によると、家相図と現状の間取りには異なる点が何ヶ所かあり、土蔵の場所や庭の石の配置も少し違うそうです。そして、何より残念だったのは、裏門が今はもうなくなっていることでした。
教授によると、家相図は「改修設計図」の意味があるそうです。ある時点の建物の間取りや配置を変えることで、家相をよくする。そういう意図があるから、絵図の制作年の状況を必ずしもあらわすものではないそうです。ともかく非常に大きく精緻に描かれた家相図ですので、これをきちんと撮影し、CADで平面図・配置図をおこし、現状との異同点を知るところから出発するほかありません。
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- 2009/08/20(木) 04:20:56|
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今年のGWは外出もせず、
デスクワークに集中し、文化庁の「NPOによる文化財建造物活用モデル事業」の企画提案書を作成していました。大学の研究室はNPOではないので申請資格はありませんが、2006年度、
HOWTECに助成申請するにあたって技術者・文化財関係者等とともに「鳥取古民家修復プロジェクト委員会」を組織しています。文化庁の募集要項によれば、NPOに準ずる組織であればよいということで、「鳥取古民家修復プロジェクト委員会」の代表者として文化庁に企画提案書を提出しました。なお、ここにいう「NPOに準ずる組織」は定款を有する組織でなければなりません。
活用モデル事業名称は以下のとおりです。
「セルフビルド&ゼロエミションによる民家の持続的修復」
7月3日にメールで「内定」の報せがあり、7月中旬には青木保文化庁長官名の「採択」通知が郵送で届きました。その後、「事業計画書」を作成し、これも受理され、昨日ようやくネット上の公開を許可する旨のメールが届き、ここにみなさまにお知らせする次第です。
今年度、文化庁の「NPOによる文化財建造物活用モデル事業」に採択されたプロジェクトは全国で12件。鳥取県でこの事業に採択されたのは初めてのことでして、とりあえず責務の一端は果たしたという安堵感を抱いています。
さて、「セルフビルド&ゼロエミションによる民家の持続的修復」という事業名称については聞き覚えのある読者も少ないないでしょう。
H21とっとり「知の財産」活用推進事業に採択された「セルフビルド&ゼロエミッションによる古民家の持続的修復」とよく似ています。どこが違うかというと、「ゼロエミション(ゼロエミッション)」と「民家(古民家)」の二つの術語に微妙な差があるだけなんですが、これは文化庁の申請書で事業名称が20文字以下と定められていることから生じたもので、事業名は基本的に同一と思っていただいてかまいません。
ただし、内容まで同じというわけではありませんよ。いずれも登録文化財加藤家住宅の修復をテーマとしていますが、「知の財産」のほうは修復そのものを対象としているのに対して、文化庁事業のほうはあくまで「活用」をテーマとしています。セルフビルドによる市民参加の修復こそが民家の「活用」であり「管理」であって、日々の修復活動に加えて公開ワークショップを2回開催することを唱っているのです。
LABLOGの読者ならばすでにご承知のとおり、7月から公開ワークショップの
準備を進めており、来たる8月27日(木)には第1回公開ワークショップ(左官工程)を開催します。これについては、ぜひこちらの
広報をご覧ください。
以下、「続き」に事業概要を掲載しますので、ご参照いただければ幸いです。
[「NPOによる文化財建造物活用モデル事業」(文化庁)に新規採択!]の続きを読む
- 2009/08/19(水) 01:48:09|
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隠岐出雲巡礼エピローグ1 「岡野某とザ・ラバール」という
バンド名をご存じの方は、そうとうな通ですね。このブログの強烈な愛読者以外、このバンドのことは知らないはずです、ぐふふ・・
ザ・ラバールのラバールというのは松江にあるカフェの名前で、いまは倉吉におるというヤッサン2号が2年前に短期間フロア係を務めていたお店です。要するに、スタバの地方バージョンですね。
7日(金)、平田の鰐淵寺から安来の清水寺に移動する途中、ラバールで昼食をいただきました。

ラバールの目の前には国史跡「田和山遺跡」があります。6月15日に燻蒸時の失火で焼け落ちた土屋根住居をついにこの目でみたのです。火災時の状況については
6月22日のブログを参照していただきたいのですが、思っていたほど焼けていないですね。やはり酸欠による蒸し焼きの状態で、とくに壁板の半分はまったく炭化してませんでした。妻木晩田のほうがはるかによく焼けています。よく焼けて炭化しているほうが遺跡としては「残り」が良いことになります。焼けていない材は長い年月のなかで土壌化してしまうので、たとえば1000年後に遺跡として検出されると、なんの痕跡も残さない。
この住居はこの先どうなるのか心配していましたが、火災保険に入っていたのと、ボランティアのみなさんが再建に協力するとのことで、そう遠くない将来に往時の姿を回復するのではないか、という期待を抱きました。もちろんわたしも協力しますよ。
昨日のレポートの最後に、「建築が脇役となって特殊な場所性を強調するほうが聖性を顕示できる」という結論が示されていました。それはなにも山岳密教の空間だけに限られたことではありません。田和山もまた「山」であり、復元建物が添景となっている今の状態こそが最善であるとわたしは思っています。
聞けば、田和山は花火の眺望ポイントとして人気を誇っているそうです。田和山から宍道湖を望む景観は絶景ですね。その景観が「松江の宝」であることに、一人でも多くの市民に気付いてもらいたいものです。

- 2009/08/18(火) 12:58:49|
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円仁の風景(Ⅸ)-瑞光山清水寺 安来の瑞光山清水寺が隠岐・出雲最後の巡礼地となりました。瑞光山清水寺は用明天皇2年(587)、尊隆上人によって開山された古刹と伝え、とすれば、開山は浮浪山鰐淵寺よりもさらに古いことになります。縁起によれば、一滴も水が出ない山だったが、尊隆上人が一週間祈願し続けたところ、水が湧き出て、雨季にも濁らず乾季にも枯れなかったため、清い水の出る寺として「清水寺」と名づけられたとのこと。その後、承和14年(847)11月に慈覚大師円仁が訪れて光明真言会をひろめ、それを機に天台宗となったそうです。


左の境内案内図をクリックしていただくとよく分かるのですが、清水寺の境内にはたくさんの堂塔が軒を連ね、伽藍がじつによく整備されています。山陰でこれだけ広大かつ建築物の多い伽藍をもつ仏教寺院は珍しいでしょう。伽藍の中心をなすのは、ここでも根本堂です。その規模は鰐淵寺よりもひとまわり大きく7間四方で、全体に床を張っています(鰐淵寺は四半敷)。屋根は入母屋造のこけら葺で、軒のみトチ葺の二重軒付としています。組物は出三斗、中備は間斗束。軒の出はおそらく13尺ばかりあって長いのですが、それを二手先や三手先ではなく、出三斗で処理しているところが驚異というか、あぶなっかしいというか、おもしろいところです。礼堂(外陣)内部には梁行方向の柱筋すべてに虹梁を架けてその尻を挿肘木で支え、虹梁の中間あたりに大斗を載せ、そこまでを格天井、そこから外に向かって化粧垂木をかけています。4隅の木鼻のみ絵様があり、江戸時代中期の様式とみうけられますが、これは後補であり、他の材の風蝕は一様に進んでいます。若い僧に年代をうかがってみると、明徳4年(1393)建立の中世仏堂であることが分かり、教授も納得。もちろん重要文化財に指定されています(鰐淵寺根本堂は県指定文化財)。
ちなみに、外陣・内陣の境には「大悲閣」の扁額が飾られていました。

このほか護摩堂、毘沙門堂などの小型の仏堂や神社がいくつもあり、それらすべてについて語る余裕はありませんが、おもしろい建物だと思ったのは鐘楼です。内転びのきつい4本の通柱をたちあげた楼造ですが、楼造というよりも、東南アジアの高床住居のような趣が感じられます。床は4本柱に差し込まれた手挟(たばさみ)のような持送りで支えています。
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- 2009/08/17(月) 13:00:52|
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円仁の風景(Ⅷ)-浮浪山鰐淵寺 8月7日(金)は4日間に及ぶ隠岐出雲巡礼の最終日。まず、平田市の鰐淵寺へ向かいました。アシガル君がレポートしているように、前日(6日)、出雲大社を訪れる道中ずっと弥山をおっては車を停め、撮影を繰り返していました。島根ワイナリーのなかのバーベQ店の名が「弥山」でして、たしかにワイナリーからみる山貌は際だった円錐形に映ります。

この弥山の西麓に出雲大社があり、東麓に鰐淵寺があります。言いかえるならば、弥山を媒介にして出雲大社と鰐淵寺は表裏一体の関係になっているわけです。昨日も述べたように、弥山は出雲国風土記には「三前山(みさきやま)」とみえるのですが、神仏習合の進む中世に仏教宇宙を表現する「弥山」と名を改めます。この時期、鰐淵寺は出雲大社に対して大変な影響力をもったようです。とりわけ、尼子氏による寺社支配が強化されると、大社境内の寺院化が進み、大社における仏事の導師を鰐淵寺僧侶が務めるまでになりました。しかし、江戸時代寛文度の造替から、一気に仏教化の反動が強まり、鰐淵寺と大社の関係は疎遠になっていくのでした。
浮浪山鰐淵寺の縁起は、驚くべきことに、推古2年(594)にまで遡ります。門前にある「浮浪山 一条院 鰐淵寺」の看板の説明を抜粋しておきます。
推古2年(594)智春上人が推古天皇の眼疾を浮浪の滝で祈って平癒された
ので、その報償として建立された勅願寺である。天竺(印度)霊鷲山の良地
が欠けて波に浮かんで来た土地で浮浪山と称す。上人密法を修し給う折、
誤って碗の仏器を滝壺に落とされ、鰐魚(わに)が鰓(えら)にかけ浮かび
上がったことにより寺号を生じる。
伝教大師が比叡山に天台宗を開かれると、慈覚大師の薦めもあり、日本で
最初の延暦寺の末寺となる。(後略)
智春上人の看板に記された説明書は以下のとおりです。
信濃の神僧智春上人は遊化して伯州北の浜まで迎えにきた智尾、白滝、
旅伏の三翁の船に来り旅伏山に着き
コゾノケフ 詠メシ月ハ カハラネド コヨヒタビフス 空に充カナ
と詠し、翌日、現在の蔵王の滝にして釈迦文佛より命を受けて開山した。
もともと弥山(三前山)、天台ヶ峰、鼻高山、旅伏(たぶし)山とつらなる北山の山嶺は密教、修験道の聖地であり、とりわけ鰐淵寺浮浪滝およびその背後の絶壁に穿たれた蔵王宝窟と蔵王堂(↓)は出雲における蔵王信仰の拠点とされてきました。
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- 2009/08/16(日) 12:31:39|
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出雲大社「平成の大遷宮」御本殿大屋根特別拝観 8月6日(木)午後4時に古代出雲歴史博物館で先発隊と後発隊が合流し、応接室で正装に着替えました。教授は、美保神社で買ったという「出雲國神仏霊場巡拝」の白い装束を身にまとっておられました。ふだん着慣れない礼服で、みんな似合ってるのかどうか怪しい限りでしたが、いちばんきっちり着こなしていたのは轟くんでしょうか。
博物館では館長さんと学芸部長さんがお迎えに来られ、まずは部長さんのご案内で館内の常設展示をみせていただきました。最初に「金輪御造営差図」について説明をうけました。この差図は以前、平安時代の大社本殿平面図と目されていましたが、今では鎌倉時代宝治度造替の正殿が火災で焼失後、仮殿を本殿としていた時代に正殿の復興を請願するために制作された図面とみる意見が有力になっているそうです。木材3本を金輪で束ねて1本柱とし、その柱口が1丈(約3m)もあったというのですから、社殿にいう棟高16丈(約48m)説を裏付ける重要な史料とされる一方で、その信憑性が疑問視視されてきたのですが、2000年に3本柱が3ヶ所で出土し、「金輪御造営差図」に示されたデータの一部は間違いなく史実に対応することがあきらかになりました。
発掘調査の成果に基づく復元模型(1/50)が5棟展示されていて、そのうち教授の復元案は低いほうから2番目でした。それでも棟高は42m弱あります。平安時代の「寄木の造営」で使われた最澄の材が30mあり、その材を心柱に使ったと仮定すると、だいたいこれぐらいの高さになるのだそうです。教授の案の特徴は、3本柱のうちの1本を通柱として桁・梁を受け、他の2本を床束とみなしていることです。こうすることによって、3本の掘立柱すべてが建物の床か屋根を地面に引き寄せるというお考えです。他の復元案には、掘立柱の特性を重視せず、現存する礎石建物にならって床上と床下で構造を分割しているものがありましたが、教授は「それでは床上の神殿が吹き飛ばされてしまう」と批判的でして、掘立柱の構造と礎石建物の構造は違うのだという認識をもたなければいけないとおっしゃっていました。

博物館をひとまわりして、大社本殿の見学です。大社へむかう途中、博物館の裏から「弥山」が眺望できました。じつは、博物館に至るまでの道すがら、ずっと弥山をおって、何度か車をとめ写真を撮影していたのです。出雲国風土記には「御前山(みさきやま」とみえる山ですが、おそらく中世の神仏習合の時代に「弥山」という名に改められてと推定されます。弥山とは、もちろん須弥山の弥山です。仏教のユートピアを示す三角錐状の空間であり、御前山の山頂はみごとな尖り円錐形をなしています。弥山のこちら側の麓に出雲大社があり、反対側に鰐淵寺があります。鰐淵寺については、明日、部長さんが細かくレポートしてくださるはずですので、ご期待ください。
大社本殿のご神体はすでに仮本殿たる拝殿に遷座されていて、まずは拝殿に参拝しました。そして、八脚門のなかに足を踏み入れました。八脚門の内側に入れるのは正月の5日間だけだそうでして、教授もこれまで八脚門をくぐったのは2度しかないそうです。そして、楼門です。残念ながら、写真撮影が許されたのはここまでです。ですから、本殿大屋根の状況を画像でお伝えすることはできません。

本殿は大きな鉄骨の素屋根で覆われ、足場が組まれていました。近年の文化財建造物の修理には、こういう大きな素屋根を立てて広い作業床とし、一般公開のルートとして兼用することが少なくありません。基礎にはコンクリートが使われていますが、境内の地下に眠る遺構面を壊してはいけないので、まずgは玉砂利を敷いてシートを敷き、さらに玉砂利を敷いてから、その上に基礎を築いています。60年に1度と言われる式年遷宮では、おもに屋根修理がおこなわれます。今回の特別拝観は、解体前の屋根を公開しています。ご案内いただいた若い宮司さんと教授が交互に屋根について説明していかれました。本殿は檜皮葺で、檜皮葺軒付のいちばん下に蛇腹板が並んでいます。檜皮葺きのプロポーションを決定づけるのが蛇腹の4隅におかれる「駒形」という小さな材であり、出雲の職人さんたちは、それを「トメ」と呼んでいるそうです。

宮司さんの説明によりますと、大屋根の軒付より上の部分で使われている檜皮は4種類あり、長さによって4尺皮、3尺5寸皮、3尺皮、2尺5寸皮に分けられています。平の部分では、軒側3分の1が4尺皮で、その上の3分の1上が3尺5寸皮、あと残った3分の1の半分が3尺皮、残りの半分が2尺5寸皮となります。この葺き替え技術により、美しい流線型を描いていることがわかります。
本殿の屋根勾配は軒のところで40~42度。檜皮葺は5寸勾配(26度)が基本なので、たいへん傾斜がきつい印象をうけました。教授によれば、「茅葺から檜皮葺への変化を示すものか、雨水処理対策のどちらかだろう」とのことです。
一般の拝観者は足場の2階までしかあがれないのですが、わたしたちは宮司さんに導かれ、5階まであがっていきました。そこには、工事用の空中廊下があり、踏板が透けているので、高所恐怖症の教授は悲鳴を上げ、汗が噴出し、足がガクガクと震えておられました。空中廊下は、堅魚木より高い位置にあります。下からみると小さい千木や堅魚木がいかに大きいのかを実感できますし、その巨大な装飾材を如何に屋根に固定していたのかを知ることもできました。
ほんとうに滅多にできない貴重な経験をさせていただきました。隠岐出雲巡礼の計画を練っているころ、「出雲大社には興味ない」と公言してまわりを呆れさせていたガードくんまで「拝観できて良かった」と感動していました。ご案内をいただいた大社の皆様、博物館関係者の皆様に、研究室を代表して感謝申し上げます。ありがとうございました。
さて、古代出雲歴史博物館の設計は槇文彦です。アルミやガラスを多用したインターナショナル・スタイルのデザインですが、一部に鉄骨で千木を表現したり、収蔵庫の外壁にタタラの色彩を取り入れて地域性を取り入れています。私の卒業研究は「史跡と共存する現代建築」なので、いろいろ考えさせられました。大社という史跡の近くに建つ建築物として賛否両論はあるかと思いますが、
白い博物館には「清楚さ」がつよく感じられ、長い時間いたくなる作品だと思います。「清楚」「清浄」という点では大社の本質に近いものを感じます。一方、出雲という地域性・土着性をどの程度表現するのが適当なのか、これはとても難しい問題だと思いました。インターナショナリズムとリージョナリズムを相反するものとしてとらえるのではなく、両者のバランスよい融合によって、よい建築が生まれるのではないか、という感想をもちました。自分の卒業設計の参考にしたいと思っています。
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- 2009/08/15(土) 12:54:40|
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故郷の社 私(アシガル)は事情があって隠岐巡礼には参加できませんでした。ただ、6日(木)の出雲大社「平成の大遷宮」御本殿大屋根の葺き替え特別拝観をのがすわけにはいかないので、期末試験を終えた3年生2名を従えて出雲古代歴史博物館で本隊と合流しました。出雲大社の特別拝観については、旅程全体のクライマックスとして明日の報告に残すことにして、今日は黒帯くんとガードくんの故郷(ふるさと)に鎮座する神社についてレポートします。
1.「大社造」本殿最古の遺構 -神魂神社 後発隊の3名は、6日、松江市大庭の神魂(かもす)神社を経由して出雲をめざしました。また、7日にも院生のお二人が「まだみていない」ということで視察を希望され、結局2度も参拝することになりました。2回めは教授も同行されており、いつものごとく、学生たちに質問を浴びせられましたが、一同沈黙・・・

神魂神社と言えば、教授が2年次に講義された「建築と都市の歴史」授業を忘れることはできません。教授は第3講義「天空の神殿」のなかで、出雲大社の歴史と建築について詳しく述べられた上、大社造最古の遺構は神魂神社本殿であるとして、出雲大社本殿と神魂神社本殿の違いを詳しく語られました。ここで建築(造替)年代を確認しておくと、出雲大社本殿は延享元年(1744)、神魂神社本殿は天正11年(1583)です。もちろん、いずれも国宝建造物。
じつは、黒帯くんの実家は神魂神社の近くにあります。「建築と都市の歴史」授業では、第1回の調査レポートとして「GWの連休を利用して神社を訪問し、その本殿をスケッチしてレポート用紙裏側に貼りつけるとともに、その神社の歴史をまとめなさい」という課題があり、黒帯くんは神魂神社本殿をレポートして
優秀作品に輝いたのでした(←)。だから、神魂神社の歴史と構造形式についてはとても詳しいと思っていたのですが、教授の質問にまったく答えられません。況や、ガード、アシガル、黒猫をや、ってところです。教授の以下のような質問はされました。
問 出雲大社本殿に比べて神魂神社本殿が「大社造」の古式を示すと言われる
その要素をあげなさい。
エアポート先輩だけはニヤニヤとして、他の学生の様子をうかがっていましたが、だれも答えられないので、おもむろに口を開き、
解1) 棟高に対する床高の比率が大きいこと
解2) 棟持柱が前にせり出していること
と指摘されました。教授は、さらにもう一点の解を要求されましたが、これには院生も答えられません。
解3) 柱間に対する柱径が太いこと。大社に比べて神魂は木柄が全体に太い。
木柄の太さは、古代出雲大社の巨大さの名残ともとらえられると言います。このほか大社本殿と神魂本殿の違いとしては、千木の形状もよく指摘されるところです。大社が男千木、神魂が女千木ですが、これは祭神の性差(オオクニヌシvsイザナミ)をあらわすものと言われています。さらに平面についても対照的で、御神座の位置は、神魂が扉からみて左奥に位置しており、出雲大社とは真反対になります。縁起によれば、千木と平面の違いを、大社本殿の「男造」に対して神魂神社は「女造」と呼び分けています。
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- 2009/08/14(金) 12:51:17|
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隠岐の「大社造」変態 隠岐・出雲の旅2日目(8月5日)。前日の悪天候から一変、すばらしい天気に恵まれ、真夏の隠岐にふさわしい天候となりました。2日目となる今日は隠岐島前の調査になります。朝方のフェリーに乗り、いざ西ノ島へ出発!!
さて、隠岐の神社と言えば、重要文化財の水若酢(みずわかす)神社と玉若酢(たまわかす)神社があまりにも有名ですね。道後にある両社の本殿は「隠岐造」という隠岐特有の様式で一括されます。「隠岐造」はちょっと変な様式なんです。平面はあきらかに「流造」なんですが、正面からみると「大社造」風にみえなくもない。当初は流造の外観をしていたのでしょうが、ある時期、それを無理矢理、「大社造風」にみせようと改修したのだけれども、「大社造」そのものというよりもむしろ「大鳥造」か「春日造」に近い外観になってしまった。とはいえ、それを「大社造」変態と呼べないことはないわけで、隠岐文化の出雲化を物語る物証であるのは間違いないでしょう。今回は、あえて「隠岐造」の神社を外し、明日アシガル君が報告する出雲側との対比をめざして、島前に境内を構える「大社造」変態の例をとりあげてみます。
1.由良比目神社 【鎮座地】〒684-0211 島根県隠岐郡西ノ島町大字浦郷922(旧隠岐国知夫里郡)
【祭神】由良比女命
【旧社格等】郷社 隠岐國一宮 式内社
由良比目神社は、島後の水若酢神社とともに隠岐一宮とされています(ほんらい一宮が二つあるのはおかしいですが、島前と道後で1社ずつ選ばれたのでしょうか?)。
「イカ寄せの浜」として知られる由良の浜の近くに境内を構え、鳥居をくぐったすぐ先に神門があります。教授の説明によりますと、「神社の境界にはただ鳥居と垣だけがあって、門や回廊があったはずはないのだけれども、宮殿や寺院の影響でそれらを導入するようになった」とのことで、神門(随神門)は「寺院の仁王門の影響だろう」と説明されました。神門は平屋建入母屋造平入で、和様を基調としながらも台輪や拳鼻など禅宗様の要素が散見されます。組物は三ツ斗に実肘木。年代は、虹梁絵様の様式から幕末~明治初期。絵様の渦が丸いか楕円か、線が太いか細いか、若葉が渦に離れているか、くっついているかで年代が判定できるのだそうです。拝殿は桁行5間×梁行4間。入母屋造平入で、向拝に軒唐破風をつけています。向拝の組物は出三斗。中備の龍の彫刻はとても迫力があります。昭和9年に改築。


さて、問題の本殿が2間×2間の「大社造」変態です。
3日前に黒帯くんが説明したように、ここにいう「変態」とはアブノーマルではなく、バリエーション(もしくはサブタイプ)のことです。由良比目神社本殿の場合、木階を覆う切妻屋根が正面全体を覆って棟持柱を隠しており、外観は「大鳥造」や「春日造」に近いものとなっています。隠岐ではこの様式を「明神造」とも呼ぶそうですが、出雲本土側にも同じ様式の大社造は少なくありません。問題は一番上の写真にみるとおり、細部装飾の華やかさです。まず組物ですが、軒下を禅宗様の三手先にして派手に作っています。さらに妻飾りは二手先にしてケラバを深くしており、禅宗様特有の反りのある尾垂木を中心とした意匠に目を奪われます。腰組も強烈な二手先です。とくに隅の鬼斗にのる肘木が手先を三方向にひろげているところがなんとも賑やかですね。鬼斗と言えば、中国にも朝鮮半島にも存在しない部材なので、「和様」というイメージが強いですが、禅宗様にも使われています。野小屋と鬼斗は、中国の禅宗建築に存在しない日本の禅宗様の重要な要素です。
ここまで禅宗様の影響が強い大社造本殿をみたことがない、と教授もおっしゃっていましたが、由良比目神社本殿の正面は千鳥破風と軒唐破風を併用した宮殿(くうでん)タイプの意匠をとっており、神仏習合ごちゃごちゃのデザインになっているところがじつにおもしろいと思いました。年代はおそらく明治以降で、拝殿の建築時代にちかいのではないかと思われます。
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- 2009/08/13(木) 12:32:02|
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国賀海岸の風景に酔う 8月5日10時55分、西ノ島の浦郷港から国賀海岸めぐりの遊覧船に乗船し、1時間半の船旅がスタートしました。幅12メートル、長さ335メートルの「船引運河」を通って中ノ島、西ノ島、知夫里島に囲まれた内海から外海へ。
国賀海岸は隠岐島前西ノ島の北西海岸で、約10㎞にわたって海食崖や海食洞が連続し、隠岐を代表する景勝地です。全体に黒っぽい印象を受ける岩肌が多いですが、部分的に白灰色の岩層や鉄分を含む赤色の岩層なども含み、リアス式海岸の景観にアクセントをつけています。国賀海岸は昭和13年には国の名勝天然記念物に指定され、昭和38年には大山隠岐国立公園に指定されています。
もともと島前の3島(西ノ島、中ノ島、知夫里島)は、西ノ島の焼火山(たくひざん)を中心とする火山群で、焼火山を囲む山々と中ノ島、知夫里島を外輪山とした、カルデラ火山だと考えられています。熊本の阿蘇山とその外輪山が、頂部の火口をのこして海に沈んだような地形です。焼火山は中性火山岩(粗面岩)の火砕岩類からなる火砕丘で、国賀海岸を含む外輪山は塩基性~中性の火山岩(粗面玄武岩・粗面安山岩などの火砕岩)や溶岩からなっています。

船引運河を抜けて北を望むと、真正面に雄大な日本海の水平線。右手には西ノ島北部の断崖、左手にはこれから向かう国賀海岸へ続く断崖がひろがっています。そこからさらに20分ほど進むと、国賀海岸の中心「摩天崖(まてんがい)↑」が姿をあらわします。高さ約260メートルの断崖で、粗面玄武岩や粗面安山岩の溶岩が何層も重なったものが、浸食や岩盤の崩落・崩壊を繰り返すことで、岩盤の中の固い部分が突出してデコボコした岩肌があらわれています。
摩天崖の南西の海岸部には波食洞が連続しており、「通天橋」(↓)もここにあります。通天橋は巨大な岩のアーチ型架橋のようになっています。以前は船で下を通れたそうですが、約90年前に上の岩盤が崩落したため、現在は叶いません。通天橋は摩天崖と比べて赤っぽく見えます。鉄分を多く含む岩が酸化することでこのような色になったようです。

この日は天気がよく、海も穏やかだったため、条件が良い日しか通れないという「明暗の岩屋(あけくれのいわや)」にも入りました。遊覧船が通れるぎりぎりの幅の狭い洞窟で、しかも、内部でくの字に曲がっているため、中ほどまで進んでライトを消すと真っ暗になりました。どのようにこの洞窟が形成されたのか、自然の造形は驚くことばかりだと感じました。

国賀海岸にはこのほかにも多くの奇岩、岩礁、洞窟、断崖があります。大きな岩が風と波で削られた「鬼ヶ城」。黒い岩肌の中に白い岩肌があって刻まれた豆腐のように見える「豆腐岩」。観音様のようにもローソクのようにも見える「観音岩」。洞窟をくぐった正面に白い岩肌が滝のように見える「滝見の岩屋」。驚くほど変化に富んだ海岸線が続いています。一方、断崖絶壁の上をみてみると、なだらかな牧草地となっており、その穏やかさは岩壁とは対照的です。牛馬が放牧され、遊歩道も整備されており、「遊歩百選」に選定されています。次に島前を訪れるさいは、ゆっくり遊歩道を歩いて国賀海岸の景色を堪能したいですね。
余談ですが、ガード君は前日のフェリーからずっと船酔い状態が続いており、国賀海岸遊覧でそれはピークに達してしまいました。他の乗船客は全員、立ち上がって競うようにデジカメのシャッターを切り続けているのに、ガードくんは船室のソファ椅子に横たわったまま・・・・わたしたちは国賀海岸の風景に酔いしれ、ガード君だけ船酔いに苦しんだ1時間半でした。
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- 2009/08/12(水) 13:27:07|
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焼火神社と隠岐の廃仏毀釈 隠岐2日目(8月5日)。島後から隠岐汽船「しらしま」で西ノ島に渡り、島前最高峰の焼火山(たくひざん)を目指した。昨日の悪天候とは打って変わって、真夏の日差しにフェリーのデッキが心地よい。本日ようやく中国地方も梅雨明けとのこと。島前は、海面上昇にともなって誕生したカルデラ火山の火口部であり、島全体が急峻で地皮が薄い。そのため島内に平野と呼べる地域はほとんどなく、港周辺の平地に集落が形成されている。焼火山の中腹からみた内海(↑)は、カルデラの火口部分が水没した状態をよく示している。
焼火(たくひ)神社は山腹の絶壁・斜面を利用して本殿と拝殿を通殿がL字形につないでおり、権現造(ごんげんづくり)のバリエーションにみえなくもない。しかし、焼火神社は明治の廃仏毀釈以前、真言宗の寺院「焼火山雲上寺」であった。本尊の地蔵菩薩だけでなく、焼火権現を併祀していたことを評価され、隠岐では唯一建造物の取り壊しを免れ、神社として生まれ変わったのである。
岩窟からあぶれでるかのように建立された彩色豊かな本殿は、銅板葺の軒唐破風付一間社流造で、床は岩壁に接地しておらず懸造ではない。拝殿は銅板葺の入母屋造妻入で正面向拝に軒唐破風をつける。平面は桁行四間×梁間三間。方位は拝殿と直交する。両者を通殿がつなぐ。

建立年代は、本殿が享保17年(1732)、通殿が明治35年(1902)、拝殿が寛文13年(1673)。いずれの建物も複雑に変化を遂げている。修理を担当した原田技師の報告によれば、明治35年の大改修工事の際、本殿は桁から上を6寸持ち上げた状態で内陣内部を大きく変更しているが、桁から上は享保の姿をよくとどめているという。ただし、文政十年(1827)に瓦型銅板屋根の全面葺き替えをおこなったとのこと。ひとつ訝しくおもうことがある。軒唐破風付流造の本殿はあまりに「神社本殿」らしく、廃仏毀釈以前の仏堂の姿としてふさわしくない。私見ながら、軒唐破風付流造の屋根は廃仏毀釈運動にともなってなされた明治期(おそらく明治35年)の大改修の一つではないか。
通殿が明治35年の新築であることはすでに述べた。ただし、寛文13年の棟札には本殿・通殿・拝殿が一連で記載されており、元から屋根のかかった廊下が存在したのであろう。拝殿は17世紀に遡る建築で、内陣の虹梁絵様は時代の様式をよく示している(↓左)。その一方で、向拝の絵様は18世紀前期の様式を示しており(↓右)、文政十年の屋根葺き替え時の増設とみるべきだろう(軒唐破風をつけたのは明治35年かもしれない)。

さて、問題は廃仏毀釈以前の「焼火山雲上寺」についてである。
縁起によると、一条天皇のころ西ノ島の海上に夜、あかあかと燃えさかる火があり、それが数日間続いた後に飛行し、島前最高峰の大山(現在の焼火山)に入った。驚いた村人はこれを追って登ってみると、山頂近くに高さ数十メートルの岩壁がそそり立ち、あたかも「仏像」のように見え、村人はこれを拝み、一宇の堂を建てて祀ったのが始まりだという。さて、現状の本殿をおさめる岩窟は当初から存在したのか、「一宇の堂」とは何にあたるのか。村人が大きな岩壁を仏像に見立てて祀ったという縁起を鵜呑みにするなら「一宇の堂」が存在したことになる。ここにいう「堂」は「建築」を意味するのか、それとも仏龕(ぶつがん)型の岩窟を意味するのか、あるいはまた両者が複合したものなのか。昨日、黒帯が「壇境の滝」の絶壁に残る小さな岩窟型仏龕をみて摩尼寺「奥ノ院」の岩窟に想いを馳せたように、わたしも摩尼寺のことが頭に浮かんで離れなくなってしまった。
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- 2009/08/11(火) 00:24:09|
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壇鏡の滝 4日(火)の午後3時ころ、隠岐道後の「壇鏡の滝・壇鏡神社」を訪れました。鳥居をくぐり、参道を歩いてゆくと、まず左手に1本の滝が視界に納まり、随神門をくぐると、今度はもっと高くて迫力のある滝が右手にみえました。この2本の滝で十分圧倒されるのですが、さらに絶壁にくいこんだ神社と滝の向こうに穿たれた小さな岩窟をみて、わたしたちの胸はいっそう高鳴りました。また、滝壺から流れる渓流にはオキサンショウウオが多数生息しており、自然生態系の豊かさと場所の清らかさを雄弁に物語っています。ちなみに、この滝は平成2年に「日本の滝百選」に選定されています。
隠岐の歴史的な社寺建築を理解する上で「廃仏毀釈」を避けて通ることはできません。明治3年(1870)前後に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐に隠岐の仏教寺院はことごとく巻き込まれ、取り壊されるか神社に衣替えさせられました。壇鏡の滝の下流にも密教の寺院があったそうですが、廃仏毀釈の命により解体され、いま岩陰にくいこむ壇鏡神社の本殿と拝殿が新築されたのです。本殿の様式はいわゆる「大社造変態」ですね。ここにいう変態とは、もちろんアブノーマルではなく、バリエーションのことです。
寺院がどこにあったのかはよく分かりませんが、神社の本殿・拝殿がたつ岩陰は有力な候補地でしょう。社務所管理人さんは「下の鳥居の近辺」と言われていましたが、そんなに自信はないようでして、摩尼寺「奥の院」や焼火(たくひ)神社を参考にするならば、壇境も本堂と岩窟が近接していた可能性はあるでしょう。本堂が壊されるとき、本尊を滝の後の岩窟に移したと伝承されており、岩窟を覗いてみると、中央に本尊らしい仏像が置かれ、その両側に石仏を配していました。岩窟は半円形の断面を呈し、横幅が約2m、高さも約2mを測ります。仏像・石仏は小さなものです。
この岩窟をみて、摩尼寺「
奥の院」の岩窟を思い起こさないわけはありません。摩尼寺「奥の院」の岩窟は壇鏡のそれよりも大きく直径が5m前後あり、岩窟の奥に仏龕を備えています。さらに、近接した距離に平坦な敷地を造成し、そこに本堂らしき礎石建物を建てています。摩尼寺「奥の院」における礎石建物と岩窟の関係が、壇鏡における本堂と岩窟の関係にだぶってみえてくるでしょう。
問題は、岩窟の正面に木造の懸造建築がつくられていたかどうかなんですが、これについては、後日、エアポートさんが島前西の島の焼火(たくひ)神社、部長さんが平田市の鰐淵寺浮浪滝について説明してくださいますので、楽しみにお待ちください。「建築」の存否はさておき、滝の背面にある岩窟が密教の小型仏堂であったことはまちがいないでしょう。
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- 2009/08/10(月) 00:28:04|
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道後の民家とカマド 8月4日(火)、あいにくのお天気でしたが、隠岐出雲巡礼の初日をむかえ、隠岐道後で調査をおこないました。この日は、大学を早朝5時半に出発、七類港に8時前に着きました。ほんとうは9時発のフェリー「おき」に乗りたかったんですが、搭載車の予約に失敗し、9時半の「くにが」に変更。これが遅いフェリーでして、西郷に着いたら午後2時になってしまいました。着岸後、全員で玉若酢(たまわかす)神社を参拝し、4日間の巡礼の成功を祈願し、調査がスタートを切りました。その後、二班に分かれ、1班は民家の調査、2班は密教遺産と自然景観の調査を分担します。
1班の行程: 佐々木家住宅→都万目の民家→水若酢神社→西村の船小屋
→中村の船小屋→卯敷の船小屋
まず私たちは佐々木家住宅(重要文化財)へ向かいました。佐々木家住宅に到着すると石置杉皮葺の屋根がいきなり私たちの目をひきます。

道後釜の佐々木家住宅は天保7年(1836)の建築で、構造形式は平屋建切妻造平入、屋根は上に述べたように石置き杉皮葺です。平面は六間取り。この平面と構造形式は隠岐民家の特徴をよく示しており、桁行十間半、梁間六間半弱と島内最大規模を誇ります。築後約170年も経つ民家であるため腐朽劣化が進み、平成14年から全解体修理をおこなって、当初復原がなされました(その際、環境大学の1期生と2期生がインターンシップに来ています)。修理は平成16年に完了。総経費は3億4000万円だったそうです。
ふと我に返ると、佐々木家住宅の管理をされている方が目の前に立っていました。この方は私たちが学生であるということを伝えると、丁寧に説明をして下さいました。まず、大黒柱の修復についてです。大黒柱は、長い歴史のなかで虫食いにあってしまい、空洞化が進んでいました。これを丸々取りかえれば作業は楽なのですが、「材料のオーセンティシティ」を尊重し、虫食いにあった部分をボーリングでくりぬき、空いた部分に新しい材を詰めたそうです。このボーリングを使った修復を初めて知り、単純に「すごい」と思いました。
次に説明していただいたのが茶だんすです。この茶だんすは島根県の有形民俗文化財に指定されています。おもしろいことに、上側の戸が一見引き違いに見えるのですが、じつは引き出しになっています。この細工には初めエアポートさんも気付かず、なぜ開かないんだと苦戦していました。管理者曰く、「泥棒よけ」だそうです。このトリックに驚愕!!

説明を聞いたあと、カマドを実測調査しました。佐々木家住宅のカマドは加藤家とは違って、カマド本体が土造で、土間に置いていたカマドをそのまま板間にあげた感じのカマドです。加藤家との共通点もみのがせません。水場(ナガシ)とカマドの配置関係がそっくりですし、そのナガシは石造になっています。ただ、これは当初の配置を示すものではないようです。幕末頃の家相図をみると、カマドのは玄関方向と平行する配置であり、今の配置は明治25年の家相図と一致したものですから、加藤家で推定したのと同じ「明治のモダンキッチン」という理解が不可能ではありません。これは私たちにとっては大きな収穫となりました。
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- 2009/08/09(日) 00:06:49|
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久方ぶりの青天に夏らしい季節をようやく感じた8月3日(月)、4月に視察した県立高校東グラウンドの発掘現場を再訪しました。教授は午後2時すぎからダウラでH県教委の方がたと面談しておられ、どうやら遺跡整備関係の委員就任依頼の打診があったようですが、「縄文・弥生関係の活動を控える」という今年度の方針にぶれはなく、お断りになった模様です。
ダウラにはエアポートさん、市のSさんが続々と集結し、最後にわたしが松岡利郎先生(大阪府立だいせん高等聾学校)をエスコートして揃ったのが3時すぎでした。
松岡先生は日本建築史の専門家で、城郭復元を得意とされています。鳥取城の二ノ丸や御三階櫓を復元された実績があり、今回のご来鳥も鳥取城関係の史料収集が目的です。わたしはこれまで松岡先生に鳥取城関係の発表論文や復元図をご提供いただけないか、と何度かお願いする手紙をだしてきたのですが、いつでも先生は迅速に史料をお送りくださいました。自分の卒業研究に係わる基礎資料がどんどん増え、心底感謝申し上げる次第です。
そんな松岡さんが資料収集のためご来鳥されるというので、今回はぜひ直接おめにかかってお話をうかがおうということで、わたしとエアポートさんと教授、さらに以前、市の博物館時代に松岡さんに鳥取城の復元図(模型のための図面)を依頼したSさんの4人が集結したのです。さいわい、三の丸外側の発掘調査現場もちょうどみごろであり、この現場をみていただきながら、お話を伺おうということになりました。
なお、松岡先生は難聴の障害を抱えられており、質問は筆談の形式をとりました。ダウラでアイスティーを飲みながらの問答です。
ボクは松岡先生に質問するリストを前日にプリントアウトし、アンケート形式の質問リストの空白部分にコメントを書いていただきました。松岡先生はともて気さくな方で、丁寧にコメントを書いてくださいました。質問の前半は三ノ丸御殿に関することで、復元の参考となる城郭や、三ノ丸御殿の中で重要な場所などを教えていただきました。御書院や御居間、走櫓などが重要だと松岡先生は考えておられるようです。後半は、史跡と共存する現代建築についての質問で、松岡先も城跡の活用について深い考えをお持ちのようです。
この意見は卒業研究の重要なテーマであり、今後、中心的な位置を占めることなるだろうと思いました。この日、松岡さんにお目にかかり、さまざまな意見を伺えたことに心から感謝申し上げます。
対談のあと、松岡さんやH県教委の方がたとご一緒に発掘調査現場を視察しました。現場の進捗状況については、エアポートさんが後日レポートすることになっていますが、ブログに現場の状況を書いてよいのかどうか、まずはお伺いをたててみます。 【アシガル】

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- 2009/08/08(土) 00:05:25|
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深夜のETC走行でタイヤが
パンクし、レスキュー車に救われたのがボーナス支給直前の6月下旬。あのとき修理の関係で、車内に溢れていたCDをいったん車外に持ち出しました。これが大層な量でして、狭い車内をCDが如何に圧迫していたか、思い知らされましたよ。
これもまたiPod購入の動機付けになりましたね、まちがいなく。そして、iPod購入と同時に、奈良の自宅、鳥取の下宿、車内のCDすべてを整理し始め、「同期」させる序列によってグループ分けしていったのです。やっぱり愛しているCDとそれほどでもないCDには、相当な開きがある。それを何段階かに分けていきました。
「同期」は奈良自宅の2階でおこなっているんですが、古いXPだから遅いのなんの・・・週末は1階のリビングで仕事をこなしながら、2階で延々とiTunesの作業にあけくれています。それでもまだ、わたしがもっている全CDのうちの1/4程度しか「同期」できていません。
ひとつおもしろい事実に気がついたんですね。ギターマニアならみなさん同じでしょうが、音楽のジャンルは関係なしに、つまり、ジャズもクラシックもフォークもロックもカントリーもブルースも、もうなんでもかんでもギター関係のCDを集めているんじゃないですか。少なくとも、わたしはそうなんです。それで、どのジャンルのどのギタリストのCDがいちばん多いのか確かめてみました。
ジョー・パスでした。
わたしの場合、ジョー・パスのCDがいちばん多いんです。これはジョー・パスがいちばんお気に入りのギタリストであることを意味しているわけではありません。ジョー・パスはまちがいなく大好きなギタリストの一人ですが、ベスト3に入るというほどではない。ジョー・パスのCDが多い理由はたぶん二つあります。一つは、1000円未満の安い輸入盤がネット上に出回っていること。もう一つは、ジョー・パスの演奏が安定して高いレベルを保っていることです。ジャズ奏者の場合、アルバムごとに出来不出来の差が結構激しいのですが、ジョーパスはその振れ幅が小さく、安心して高レベルの演奏を聴くことができる。余談ですが、ジョー・パスの場合、
お得意のソロよりも、デュエットやトリオのほうに良い演奏が少なくないですね。
大学生のころ、例の『ヴァーチュオーゾ』シリーズのソロ第1弾がでて、その「カセットテープ」を買いました。ちょっと無味乾燥に聞こえるから、車内音楽には向いていなかったけれども、ともかく技巧の凄まじさに度肝を抜かれ、さらにそのコピー譜面をみて「諦観」に近い無力観に襲われました。
こんなもん、弾けるはずがない・・・
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- 2009/08/07(金) 00:00:13|
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ボーナスがでた直後の週末、iPodを買った。娘が欲しいというので、電気屋についていって、わたしも買ってしまったのだ。娘は「
事実上の内定取り消し」事件後、専門学校に通い始めてから大学時代の浪費癖がなくなり、高校3年生のころのように勉学に集中するようになっている。バイトも一切やっていない。だから、お金をもっていないはずなのだが、
「定額給付金で買う」
と言うので、異を唱えるわけにもゆかず、結局ボーナスで補助金まで出してやることになった。
わたしは娘とまったく同じiPodを買った。
なにぶん機械音痴でしてね・・・携帯もパソコンもこの世から消えてしまえばよいのに、と思っている世代の代表者です。携帯機能の、たぶん一割もわたしは知らない。
ギターを愛していることはみなさんご承知のとおりでして、ギターにとどまらず、たくさんの(安価な)弦楽器をもっているのですが、じつはあんまり「道具としてのギター」に興味が湧かない。板がローズウッドで、ネックが何で、弦高が何㎜で・・・とか、こうるさいこと言いたくないのね。お金もかけたくない。高田渡は死ぬまでヤイリを弾いていたでしょ。若いころは、マーチンのラベルをヤイリに貼って欺してたって話を聞いて、わたしゃ嬉しくて仕方ないんです。
ギターじゃないよ、ハートだよ!
要は、ギターが大好きで上手くなりたいと渇望しているんですが、ギターというインストルメント自体にそれほど執着がない、という事実と「機械音痴」がしっかり糸でつながっていると言いたいわけなんです。機械音痴の人間はマニュアルを読むのが苦手というか、大嫌いでして、その代わり、人に聞けば良いと思っている。鼻からiPodなどという文明の利器が使いこなせるとは思っておりませんもので、だからこそ、娘と同機種を買っておけば、すべて娘がなんとかしてくれるという甘い期待をもっているわけです。娘に補助金を交付した理由は、じつはそこにある。
iPodがアップル社の製品だということも、まったく知らなかった。でも、いまはアップル社の戦略が手に取るように透けてみえる。
「同期」(synchronize)というシステムがくせ者ですね。コピー&ペーストではなく、「同期」というシステムを採用することで、著作権の侵害から逃れられるばかりか、パソコンに蓄積していく音源データを消すに消せない。音源データが他のデータを圧迫し、パソコン容量の極限にもっていくまでたいした時間は要らないでしょう。結果として、他のデータを外付ハードディスクに移さざるをえなくなるのだが、またぞろ続く「同期」のおかげで再びパソコンはパンクしてしまう。そうではなくて、iTunesに関わる音源データをすべて外付ハードディスクに移すこともできるし、学生に聞くと「同期の解除」という機能もあるようだが、しかし、「ウィンドウズXPでは不具合が生じる場合があります」という注意書きを読むにつけ、ウィンドウズ内でiTunesをあまり触りたくない、という意識がすでに根付いてしまった。じっさい、iTunesによってパソコンの速度が異様に遅くなったり、iPodに文字化けが生じたり、といったトラブルを体験している。
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- 2009/08/06(木) 00:00:47|
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芝生のソックスダービー第6戦 8月2日(日)のオープンキャンパス2日め午後2時半過ぎから、ソックスダービー第6戦がおこなわれました。この日は公開試合ということで、オープンキャンパスに来ていた小学生3名と環境政策学科1年のミッキー君も飛び入り参加。小学生の一人は
6月のオープンキャンパスに参加していた少年です。その少年(以下、少年C)は我がSソックスに加わることが決まりました。メンバーは以下のとおりです。
Aソックス: 教授、黒帯、黒猫、小学生A、小学生B、ミッキー
Sソックス: タクオ、エアポート、アシガル、ガード、轟、少年C
前半戦、いきなりAソックスの小学生A・Bと標的黒帯が守護神エアポートさんの守るゴールを立て続けに脅かす。小学生A・Bは若葉台のサッカーチームに所属していて、ボールコントロールがじつに上手い。われらが仁王門、エアポートさんをさんざん苦しめた。しかも、後方にはフットサル部に所属するミッキー君がボランチの位置でゲーム・コントロール。そこにチャンスとあらば、ディフェンスの位置から交互にゴールを狙ってくる教授と黒猫君の姿が・・・。そしてあっという間に2失点。

最初の2失点は、いずれもガンバのユニフォームを着た小学生A君のドリブル・シュート! 抜けるはずのない仁王門守護神の股間をいともたやすくかれは抜いていくのでした。3点めは教授。第5戦ではセットプレーからの左足のダイレクトでしたが、この日は中盤から前戦へのゲームメークの流れのなかから右足のダイレクト・シュートを決めました(←)。この日は、環境デザイン学科の女子学生やコロポックルズが応援にきており、それを意識してだろうか、教授は左手の人差し指ををたかだかと掲げたのでした。
いきなり0-3と劣勢を強いられたが、タクオさんの指示のもと逆襲開始! 残念なことに、前回からの参加の少年C君はこの日調子が悪かったのか、なかなか活躍できない。タクオさんが1点返したものの、Aソックスの猛攻はゆるまず、少年A君がハットトリックを決めるなど、前半を1-5の大劣勢で折り返すはめに。
この日は、前夜の雨で芝生が濡れており、滑る、すべる。このコンディションに全員が悪戦苦闘。中でも私はすべりにすべって、まったく活躍の場面がない。後半にむけて捲土重来!
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- 2009/08/05(水) 00:09:28|
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戦犯の策謀 まさか今回の試合を解説することになろうとは・・・いや、本来はですね、今回の担当は両チーム全員一致で戦犯に指名されたガード君のはずなんですが、執筆担当をのらりくらりと交わす術はさすがですね、あれぐらいのずる賢さを試合でも見せてもらいたいものです!
と、いうことで、今回は私、タクオが書かせていただきます・・・。
Aソックスの三勝一敗で迎えた第五戦、劣勢に立たされている我がSソックス。これ以上引き離されたくない重要な一戦を前に、Sソックスのリーダーである私はどういった戦術で挑もうか思案していた。
まず怖いのは、第3戦で鮮烈なデビューを果たしたピヴォくん。あの吸い付くようなボールコントロールと、セットプレーからの3点シュートの決定力は高く、存在自体が脅威である。また、教授の鉄壁と最終ラインからのフィードに加えて、黒帯君ほか二名の機動力も正直厄介だ。
ただ、私が出場できなかった第4戦はエアポート君の鉄壁を中心に善戦したようで、少なからず第5戦に向けた光明も見出していた。
結論から言えば、今回は「1-2-1-1」を採用。ゴール前には前節でも評価の高かったエアポートを置く。その周りにアシガル・轟コンビを衛星のように配置し、「どちらか一人はディフェンスに残ること」を指示した。彼らにはシュートコースを消すことと、教授のフィードに対してスペースを埋めることを期待した。そして真ん中には私が陣取って、トップにはわりと動きの良いガードを配す布陣を敷こうと考えた。
7/31(金)の夕刻、雨上がりの比較的動きやすい気候の中で、ダービー第5戦は開催された。
スターティングメンバーは以下のとおり。
Aソックス: 教授、黒帯、竹内、ピヴォ
Sソックス: タクオ、ガード、アシガル、轟、ナオキ
お気づきだろうか? そう、エアポート君がいない。欠場(バイトのため)を知らされたのはその日の午後で、大事な一戦を前にSソックスは守備の要を欠いた布陣を強いられた。戦術の変更も考えたが、飛び入り参加してくれることになった、魯班営造学社技術員のナオキ君をそのまま代役としてストッパーの位置に置いた。
そして、いよいよKick Off!
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- 2009/08/04(火) 00:13:58|
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第9章 散花と麝香の腕輪p.54-59:今城訳
1.ある日の早朝、賈宝玉は瀟湘館へ行って林黛玉とおしゃべりをした。
彼は意識的にではないのだけれども黛玉の機嫌を損ねる話をしてしまった。
黛玉はたちまちむっとして、泣きながら外へと出ようとしたため、
賈宝玉は急いで許しを請うた。
【セリフ】
賈宝玉:「いい子だから、機嫌を直して。私は二度と言わないから。」
2.この時、襲人(賈宝玉付きの侍女)が来て、
「旦那さまが宝玉さまを呼んでいますよ」
と言った。賈宝玉がおっかなびっくり庭に出て初めて薛蟠が自分を
騙したのだと気づいた。
3.薛蟠は言った。
「明日は私の誕生日ですから、だれをおいてもあなたには来ていただいて
にぎやかに過ごしましょう。」
賈宝玉は(無言で)ただ歩いていった。
4.賈宝玉は夜になってようやく家に帰ってきた。林黛玉は怡紅院に向かおうと
してあちこち見渡すと、薛宝釵が怡紅院に入っていくのが見えたので、
沁芳橋のあたりで水鳥が水遊びするのを眺めていた。
5.しばらくして、林黛玉は怡紅院に着いた。ふと見ると院門は閉まっており、
すぐに門をたたいて誰かに門を開けさせようとした。
【セリフ】
林黛玉:「私ですよ、それなのに戸を開けに来ないの?」
6.女中はみな動きたがらず、そのうえ黛玉の声を聞き分けられなかったので、
「おぼっちゃま(賈宝玉)が、どんな人でも入ってくることは許さないと
おっしゃいましたよ」と言いとぼけた。
7.林黛玉はそれを聞き、門の外で怒りのあまりあきれ返ってしまった。
彼女は部屋の中から賈宝玉と薛宝釵の楽しげな笑い声が聞こえてくるので、、
自分は独りぼっちで居候の境遇にあると思ってしまい、外壁の入隅に立ち、
悲しくなって泣き始めた。薛宝釵が出てきた後、黛玉はようやく瀟湘館へ帰った。
8.翌朝早く、賈宝玉は林黛玉に会いに来た。林黛玉は侍女の紫鵑に部屋を
片付けるよう言いつけた後、身を翻して出て行った。
9.賈宝玉は林黛玉が自分を相手にしないのを知った。さっぱりわけが分からない
まま、たくさん花が散っているのが目に入ったので、服の前おくみに花びらを
くるみ花塚に向かって歩いていった。
10.歩いていると、突然近くから小さな泣き声が聞こえてきた。宝玉は足を止め
注意深く聞いたところ、ひどく悲しみを覚え、その痛みが心を突き刺した。
[『紅楼夢』第9章]の続きを読む
- 2009/08/03(月) 00:00:50|
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一年でいちばん大好きな8月がやってきました。昨日は夏休みオープンキャンパスの初日で、建築・環境デザイン学科の「
オープンアトリエ」も多くのお客様でにぎわいました。
それにしても、天候が8月らしくありませんね。梅雨はあけたのか、あけてないのか。おかげで、6月に好評を博した「
かき氷」の魔力が薄れてしまいました・・・でも、子どもだちには結構人気でしたよ。
1日(土)、わたしは進学相談コーナーにはりついておりまして、ちょっとサッカーのできるような状況になかったんですね。でも、今日(2日)の午後あたり、なんとしてでも
デスマッチにトライしてみようと思っています。ちなみに、ソックス・ダービー第5戦はオーキャン設営を終えた7月31日夕刻に駐車場でおこなわれました。結果は、一人少ないAソックスが6-4でSソックスを倒し、3連勝。通算成績を4勝1敗、得失点差+10としました(わたしも1点取ったよ!)。試合の詳細については、負けたチームが報じることになっているのですが、敗者どもは執筆を厭い、押し付け合いのたらいまわし状態になっている模様でして(どうやらいま書き始めたようです)、ここに速報でお知らせした次第です。
2日(日)も引き続きオープンキャンパスでして、おもなイベントは以下のとおりです。
・環境紙芝居 13:00~
・二級建築士試験 製図に挑戦! 10:00~15:00(ゼミ室5103)
・ガーデニング体験 8月1日(土)・2日(日) 11:00~
わたし個人は13時から古民家修復についての面談がギャラリーであり、14時からリクルートの取材を受けることになっています。昨日、リクルートの担当者と下打ち合わせをしました。「明日はどこにいらっしゃいますか」と聞かれたので、「オープン・アトリエ(ギャラリー)にいるか、前庭でサッカーしてるか」と答え、さらに「ジャージ姿かもしれません」と付け足したところ、ぎょっとした顔をされてしまいましてね。
まぁ、ジャージを纏う研究科長もわるくないのではないでしょうかね??
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- 2009/08/02(日) 00:14:58|
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