壇鏡の滝 4日(火)の午後3時ころ、隠岐道後の「壇鏡の滝・壇鏡神社」を訪れました。鳥居をくぐり、参道を歩いてゆくと、まず左手に1本の滝が視界に納まり、随神門をくぐると、今度はもっと高くて迫力のある滝が右手にみえました。この2本の滝で十分圧倒されるのですが、さらに絶壁にくいこんだ神社と滝の向こうに穿たれた小さな岩窟をみて、わたしたちの胸はいっそう高鳴りました。また、滝壺から流れる渓流にはオキサンショウウオが多数生息しており、自然生態系の豊かさと場所の清らかさを雄弁に物語っています。ちなみに、この滝は平成2年に「日本の滝百選」に選定されています。
隠岐の歴史的な社寺建築を理解する上で「廃仏毀釈」を避けて通ることはできません。明治3年(1870)前後に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐に隠岐の仏教寺院はことごとく巻き込まれ、取り壊されるか神社に衣替えさせられました。壇鏡の滝の下流にも密教の寺院があったそうですが、廃仏毀釈の命により解体され、いま岩陰にくいこむ壇鏡神社の本殿と拝殿が新築されたのです。本殿の様式はいわゆる「大社造変態」ですね。ここにいう変態とは、もちろんアブノーマルではなく、バリエーションのことです。
寺院がどこにあったのかはよく分かりませんが、神社の本殿・拝殿がたつ岩陰は有力な候補地でしょう。社務所管理人さんは「下の鳥居の近辺」と言われていましたが、そんなに自信はないようでして、摩尼寺「奥の院」や焼火(たくひ)神社を参考にするならば、壇境も本堂と岩窟が近接していた可能性はあるでしょう。本堂が壊されるとき、本尊を滝の後の岩窟に移したと伝承されており、岩窟を覗いてみると、中央に本尊らしい仏像が置かれ、その両側に石仏を配していました。岩窟は半円形の断面を呈し、横幅が約2m、高さも約2mを測ります。仏像・石仏は小さなものです。
この岩窟をみて、摩尼寺「
奥の院」の岩窟を思い起こさないわけはありません。摩尼寺「奥の院」の岩窟は壇鏡のそれよりも大きく直径が5m前後あり、岩窟の奥に仏龕を備えています。さらに、近接した距離に平坦な敷地を造成し、そこに本堂らしき礎石建物を建てています。摩尼寺「奥の院」における礎石建物と岩窟の関係が、壇鏡における本堂と岩窟の関係にだぶってみえてくるでしょう。
問題は、岩窟の正面に木造の懸造建築がつくられていたかどうかなんですが、これについては、後日、エアポートさんが島前西の島の焼火(たくひ)神社、部長さんが平田市の鰐淵寺浮浪滝について説明してくださいますので、楽しみにお待ちください。「建築」の存否はさておき、滝の背面にある岩窟が密教の小型仏堂であったことはまちがいないでしょう。
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- 2009/08/10(月) 00:28:04|
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