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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

隠岐出雲巡礼(Ⅲ)

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焼火神社と隠岐の廃仏毀釈

 隠岐2日目(8月5日)。島後から隠岐汽船「しらしま」で西ノ島に渡り、島前最高峰の焼火山(たくひざん)を目指した。昨日の悪天候とは打って変わって、真夏の日差しにフェリーのデッキが心地よい。本日ようやく中国地方も梅雨明けとのこと。島前は、海面上昇にともなって誕生したカルデラ火山の火口部であり、島全体が急峻で地皮が薄い。そのため島内に平野と呼べる地域はほとんどなく、港周辺の平地に集落が形成されている。焼火山の中腹からみた内海(↑)は、カルデラの火口部分が水没した状態をよく示している。

 焼火(たくひ)神社は山腹の絶壁・斜面を利用して本殿と拝殿を通殿がL字形につないでおり、権現造(ごんげんづくり)のバリエーションにみえなくもない。しかし、焼火神社は明治の廃仏毀釈以前、真言宗の寺院「焼火山雲上寺」であった。本尊の地蔵菩薩だけでなく、焼火権現を併祀していたことを評価され、隠岐では唯一建造物の取り壊しを免れ、神社として生まれ変わったのである。
 岩窟からあぶれでるかのように建立された彩色豊かな本殿は、銅板葺の軒唐破風付一間社流造で、床は岩壁に接地しておらず懸造ではない。拝殿は銅板葺の入母屋造妻入で正面向拝に軒唐破風をつける。平面は桁行四間×梁間三間。方位は拝殿と直交する。両者を通殿がつなぐ。

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 建立年代は、本殿が享保17年(1732)、通殿が明治35年(1902)、拝殿が寛文13年(1673)。いずれの建物も複雑に変化を遂げている。修理を担当した原田技師の報告によれば、明治35年の大改修工事の際、本殿は桁から上を6寸持ち上げた状態で内陣内部を大きく変更しているが、桁から上は享保の姿をよくとどめているという。ただし、文政十年(1827)に瓦型銅板屋根の全面葺き替えをおこなったとのこと。ひとつ訝しくおもうことがある。軒唐破風付流造の本殿はあまりに「神社本殿」らしく、廃仏毀釈以前の仏堂の姿としてふさわしくない。私見ながら、軒唐破風付流造の屋根は廃仏毀釈運動にともなってなされた明治期(おそらく明治35年)の大改修の一つではないか。
 通殿が明治35年の新築であることはすでに述べた。ただし、寛文13年の棟札には本殿・通殿・拝殿が一連で記載されており、元から屋根のかかった廊下が存在したのであろう。拝殿は17世紀に遡る建築で、内陣の虹梁絵様は時代の様式をよく示している(↓左)。その一方で、向拝の絵様は18世紀前期の様式を示しており(↓右)、文政十年の屋根葺き替え時の増設とみるべきだろう(軒唐破風をつけたのは明治35年かもしれない)。
 01タクヒ拝殿内陣絵様01 01タクヒ向拝絵様01

 さて、問題は廃仏毀釈以前の「焼火山雲上寺」についてである。
 縁起によると、一条天皇のころ西ノ島の海上に夜、あかあかと燃えさかる火があり、それが数日間続いた後に飛行し、島前最高峰の大山(現在の焼火山)に入った。驚いた村人はこれを追って登ってみると、山頂近くに高さ数十メートルの岩壁がそそり立ち、あたかも「仏像」のように見え、村人はこれを拝み、一宇の堂を建てて祀ったのが始まりだという。さて、現状の本殿をおさめる岩窟は当初から存在したのか、「一宇の堂」とは何にあたるのか。村人が大きな岩壁を仏像に見立てて祀ったという縁起を鵜呑みにするなら「一宇の堂」が存在したことになる。ここにいう「堂」は「建築」を意味するのか、それとも仏龕(ぶつがん)型の岩窟を意味するのか、あるいはまた両者が複合したものなのか。昨日、黒帯が「壇境の滝」の絶壁に残る小さな岩窟型仏龕をみて摩尼寺「奥ノ院」の岩窟に想いを馳せたように、わたしも摩尼寺のことが頭に浮かんで離れなくなってしまった。

01タクヒ隣の岩窟


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  1. 2009/08/11(火) 00:24:09|
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asa

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