円仁の風景(Ⅹ) -大日寺・転法輪寺とその周辺 隠岐・出雲に続く山陰巡礼の第2弾。8月23日(日)・24日(月)の二日間、伯耆の諸山を巡礼しました。23日は、休日であるにもかかわらず、倉吉市教育委員会のSさんが同行して下さいました。仏教考古学に詳しいSさんのガイドのおかげで、これまで知らない伯耆の一面を知ることができました。Sさんには感謝の言葉もありません。まずは初日の成果のうち、仏教寺院関係の事項について報告いたします。
1.広瀬廃寺

まず訪れたのは広瀬廃寺(倉吉市指定史跡)。この寺院跡は倉吉市広瀬の水田に立地しており、池(今は低い水田)を東・西・北3方から仏堂が囲む「浄土伽藍=浄土庭園」の遺跡であり、池の東には遣水(やりみず)の遺構も検出されています。北方建物は山裾の高い位置にある礎石建物で、正面五間×側面六間の規模。東方、西方建物は北方建物ほど礎石の配置が明瞭にはわかりませんが、配置関係から確認されることは摂関体制下の門閥主義に疎外された文人貴族の邸宅を模したもので、「寝殿造」住宅から「浄土伽藍」へ展開していく平安捨宅寺院の小型のものと推定されます。Sさんは広瀬川の対岸にある五輪塔についても丁寧に説明してくださいました。この寺院遺跡を最初にみたことは、後に続く大日寺や転法輪寺の起源をさぐる上で重要な意味をもつものだということがまもなく分かりました。

2.胎金山大日寺
つづいて、訪れたのが大日寺。平安時代に創建されたと伝えられる天台宗の古刹で、現在は小規模な寺院ですが、もとは広大な寺域をもっており、上院、中院、安養院の三院からなる三百宇の坊舎を有していたと伝えられています。先に見た広瀬廃寺も、発掘調査された「浄土伽藍」の境内以外に「**院」と呼ばれる子院をいくつかもっている可能性があるでしょう。立地もよく似ています。川に沿った街道沿いの細長い敷地に横長の境内を構えており、背後に山が控えています。付近には県史跡の大日寺古墓群があり、日本最古の紀年銘をもつ瓦経が出土しており、平安時代から鎌倉時代にかけての有力な地方寺院であったことがわかります。また、平田市の鰐淵寺にあった梵鐘は、もともとは大日寺にあったということでよく知られています。
さて、円仁との関係ですが、寺伝によると、承和8年(841)慈覚大師円仁の創建とも、永延2年(988)恵心僧都源信の創建とも伝えられているようで、前者の場合、円仁入唐中の創建となるので、御住職は「円仁創建伝承」にこだわっていらっしゃらないように見受けられました。以前、教授が紹介されていた「江戸時代の附会」説についても、「三徳山や大山寺は別格でしょうが、そういう可能性をもつ寺もあるでしょう」と頷いておられました。なんかサバサバした方で、ちょっと「悟りの境地」を感じちゃったりして・・・

また、住職のご好意で、本堂等建造物、厨子、仏像、瓦経などを間近で見せていただきました。庭の一部には、まるで石貨のような平べったい石造物が置いてありました。110cm×120cmの長方形の中心部分に孔(直径36cm)をあけたもので、石製の露盤ではないかと推定されているそうです。大日寺のご住職はとてもお優しい方で、今後も私の研究に協力してくださると声をかけてくださいました。もし、お言葉に甘えることがありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
ご住職と別れて、Sさんの案内で中院跡近くの「頼朝墓」と呼ばれる大型の五輪塔を見に行きました。周囲にもコの字状に五輪塔群が並んでいるのですが、ひと際大きく立派なものでした。これには梵字の刻印があるのですが、Sさんに「なんて書いてあるでしょう?」と問われたときは読めなかったんですけれど、後で五輪塔の五輪が宇宙を構成する五つの要素、すなわち「空」「風」「火」「水」「地」から構成されているという観念が映し出されているとすれば、そういう梵字が刻印してあったりしてなんて思ったのですが、どうでしょうか・・・
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- 2009/08/27(木) 13:20:41|
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