Lablog

鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

iPod(Ⅳ)

 とうとう16ギガ満杯になりました。
 最後はどのCDを入れようか悩んだんですが、
 トム・ウェイツを3枚選択したんです。
 イーグルスが『オン・ザ・ボーダー』でカバーしている
 「懐かしの55年」は、まるでシューベルツの曲のように
 C-Em-F-G7の爽やか路線でしたが、
 いつのまにやらトムは頽廃の世界に浸りきってしまいましたね。

 『ミュール・バリエーション』のリリースが10年前。
 その年、バークレーの大学を訪問したんです。
 ある有名な女性考古学者を尋ねたところ、彼女は
 修士課程の学生二人を夕食に連れてきた。
 一人は日本人の女性でした。とても綺麗な方で、
 すでに結婚されていたんですが、
 医学を専攻するアメリカ人の旦那様は東海岸の
 大学にいて、遠距離の真っ最中。
 女性准教授は、ディナーのあと、その大学院生に
 命じたのです。

  「わたしは採点があるから、あなた、どこかにお連れして」

 ひどく、緊張しました。

 「ブルースのライブをやっているバーがあるので、行きませんか」
 と誘われ、二人でライブを聴きました。
 「あのリード(ギター)、どう思います?」と問われたんですが、
 時差ぼけでものすごく眠かったこともあって、中途半端に
 「まぁ、いいんじゃないですか」と答えると、彼女は
 「そうかしら?」と不満を隠さない。

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  1. 2009/09/30(水) 00:19:10|
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第2回公開ワークショップにむけて(Ⅰ)

P1040944.jpg


襖の表装

 9月25日(金)。大学4年の夏休みも終わり、とうとう後期が始まった。思い返せば、今年の夏休みは卒業研究とアルバイトで終わってしまった気がする。というのも、11月に車検を控えていまして…。なぜ、あんなに車検の値段は高いのか、と思う今日この頃です。

 さて、卒業研究も10月21日(水)の中間発表が間近に迫り、その3日前の18日(日)には第2回公開ワークショップ』が開催されるわけで、いずれの準備も加速しなければなりません。まずは襖の表装張替え(の一部)を鳥取市内の表具店に依頼することになり、見積もりのために加藤家住宅までご足労いただいた。表具店のお二人は加藤家住宅を知っておられたが、活動の詳細についてはご存じなかったので、先生が詳しく説明された。
 やはりプロにみていただくとちがうものだ。はまっている建具を見て、ところどころ「おかしい」と示唆されるのである。まず敷居の溝に着目された。襖の場合は溝幅が7分でサネ幅が3分、板戸・障子の場合は溝幅が5分でサネ幅が6分と決まっている。たとえば、仏間・広間境の敷居は後者であり、修理以前にはたしかに板戸が納まっていたのだが、「この部分の襖が盗難にあった」という情報をえていたので、襖に戻そうと考えていた。しかし、溝幅からみて納めるべき建具は板戸であることがあきらかになり、盗難事件後にはめ込まれた板戸を戻すことになった。さいわい新しい板戸も「ケヤキの一枚板」を使った上等なものであり、若干傷みもあるが修理できないことはないので、これを再利用することにしたのである。

P1040935_20090926185824.jpg また、仏間の襖は1間を3分割したものであり、そのうち2枚は奥座敷の押入(内法幅約7尺5寸)にはめ込んでいることが判明した(←)。押入の内法寸法と襖2枚の全長には誤差があり、柱に打物をしてこの誤差を解消している。協議の結果、仏間に本来の襖3枚を戻し、奥座敷の押入の襖2枚は特注で製造していただくことにした。これにより、奥座敷と仏間は当初の建具配置が再現されるだろう。



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  1. 2009/09/29(火) 00:00:42|
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彼岸花

鳥取で彼岸花を撮れなかったので、
秋篠川の畔をぶらぶらしたのだが、
赤い花の影すら探しあてられないまま
母親の部屋に辿り着いた。

母は好物の無花果を食べながら
大相撲をみている。
赤房下の向こうに彼岸花が咲いていた。
真っ赤なミニスカートのワンピース。

銀座の方かもしれないと思ったが、
エスコート役がみあたらない。
一輪だけの曼珠沙華。

カメラは無意識を装いながら
土俵際の場違いな彼岸花を
執拗に追っていた。

01桟敷の彼岸花02アップ



  1. 2009/09/28(月) 00:00:08|
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iPod(Ⅲ)

 困ったものだ・・・また昨日も訊かれたのですよ、「その筋の方ですか?」と。環境大学で古民家を修理しているというだけで、その筋の方々と同じグループだと思われるのだから、ノビタを雇用する地方新聞の威力たるや、【県内においては】凄まじいものですな。県内でしか売れない新聞なのだけれども、県内80%の世帯が講読していて、紙面でがたがた騒がれると【県内における】知名度はおおいに高まり、あらぬ弊害をうむのです。
 なにが言いたいのかというと、「環境大学=その筋」という偏見が定着しつつあることを憂えているのです。知事のコメントが下方修正されてきているのも、この偏見が多少なりとも影響しているのではないか、と勘ぐりたくなる今日このごろ。じつは、8月の伯耆巡礼でも某住職から同じ質問をされたのですよ。

   「いえいえ、ちがいます。まったく逆の立場でして・・・・」

と力説すると、そのご住職は安堵した顔をされ、「そうですか、それなら結構です。あれは困ったものですな・・・実物をみれば歴然としてますから」とにこやかに語られた。

 その筋と言えばヤの字だが、なんやかやと因縁をつけて「金を出せ」と恫喝する方法はたしかにヤー様と変わらない。血税を無心し断られると、こんどは募金なんだそうだ。「募金なら結構じゃないですか」と答えたところ、「それが集まらないらしくて・・・」と困り果てた顔になって、一口*万円という額に辟易されている。「裸の王様」と揶揄されるのも無理からんところです。 

2009彼岸花02縦


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  1. 2009/09/27(日) 00:00:17|
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10月4日 オープンキャンパスのお知らせ

1004オープンキャンパス01圧縮

 さきの出雲地域高校訪問でも散々宣伝してきましたが、10月4日(日)にオープンキャンパスが開催されます。今年度のオープンキャンパスはこれでお終い。受験生諸君は、推薦系の入試の最後の決断をいままさに下そうとしていることでしょう。悩んでいる方もそうでない方も、ぜひ環大のキャンパスに足を運び、各種イベントに参加してください。

 建築・環境デザイン学科は6月と8月に引き続き、展示・イベント等をメディアセンターのギャラリーに集中させています。名付けて「建築・環境デザイン学科オープンアトリエ」。「研究室紹介コーナー」「作品展示」「学科紹介コーナー」だけでなく、図書館前のホワイエを利用した「オープンアトリエ」では体験授業、公開講評会、環境紙芝居、二級建築士製図などのミニ・イベントを催します。また、受付の横ではランドスケープ担当の教員が自ら「ガーデニング」を指導します。時間配分は以下のとおりです。

  ・体験授業 13:00~(ゼミ室5102)
  ・環境紙芝居 14:30~
  ・二級建築士試験製図に挑戦! 10:00~15:00(ゼミ室5103)
  ・水琴窟 公開 10:00~(学生センター1階屋外)
  ・ガーデニング体験 11:00~(受付横のギャラリー前庭)

 もちろんミニサッカーもありますよ。6月・8月と同様、学内外からの飛び入り大歓迎です。オープンキャンパス・デスマッチ第3戦の勝敗は飛び入り参加者の力量にかかっているのはまちがいありません。
 少年たちよ、また芝生で会おうぜ!!

2009オーキャン01表紙


 いつものように、休憩コーナーには抹茶・珈琲・クッキーなどを取りそろえ、教員・学生とくつろいでお話ししていただけます。高校の生徒さんはもちろん、県内外の皆様が気楽に遊びにいらっしゃることを心から願っております。

 下の小さな画像をクリックしていただけば、当日のスケジュールや会場へのアクセスが分かります。ぜひ遊びにきてください!
 2009オーキャン02 2009オーキャン03 2009オーキャン04

1004オープンキャンパス



  1. 2009/09/26(土) 00:40:19|
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スロージョギング(Ⅲ)

 あぁぁぁ、とうとう夏休みが終わっちゃいました。
 ・・・うぅぅぅん、ラストスパートが効かなかったですね。

 中国で食べ過ぎたんです。体重がGWのころに戻ったと思うほどね。だって、大同のホテルの体重計にのったら5㎏も増えてたんだから。前夜、刷羊肉(羊肉のしゃぶしゃぶ)を足るほど食べていたので5㎏増に現実味がないことはなかったのですが、エアポートは2㎏痩せたという。一同、エアポートの腹部を注視したのですが、だれがみても2㎏減は信じがたい。「体重計が壊れてるんだ」ということで一件落着したんですが、その後も五台山の精進料理、太原の餃子、平遥「徳居源客桟」のワインと創作料理に腹は膨らみ続けた。
 連日、ホテルの部屋の大鏡に映る体型を眺め、たしかにじわじわとGWのころに復元されていく変化を実感していた。これは深刻なことになったと、帰国したその日の深夜12時から1時間コースをスロージョギングした。胸がゆさゆさ揺れる。ちょっと異性の気持ちが分かったりしてね・・・それにしても、このゆさゆさは体重増加にともなう脂肪分以外のなにものでもないだろう・・・ところが帰宅後体重計にのると、出国前とまったく変わっていない。いきなり拍子抜けしたのだが、翌日もまた深夜に1時間走った。
 ここで体調を崩してしまった。いわゆる「けんびき」状態を引きづったまま、引っ越しの手伝いやら鳥取での公務をこなし、「シルバー連休」に突入。連休の初日、軽くジョギングしたのだが、あきらかに体がおかしい。短い距離を走るだけで息があがる。しばらくジョギングをあきらめた。
 ところが、走らないと鬱になる。「ソファに根が生えて動けない」シンドロームが心身を犯し始めるのだ。時間はあるのに仕事をしない。その結果、気持ちがどんどんネガティブになっていく。後期の開幕を控えているにも拘わらず、ハートはブルーになるばかり(いつものことだけど)。
 
 訪中の前後で、わたしの人生には画期的な変化が生じている。母に「適合高齢者専用賃貸住宅」に引っ越してもらったのだ。「適合高齢者専用賃貸住宅」とは、要するに、特別養護老人ホームが経営する介護系ワンルーム・マンションである。帰国後、ほとんど毎日このマンションに通っている。ここでも時間を浪費しているのは、まぁ、間違いない。
 
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  1. 2009/09/25(金) 00:10:54|
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勝てない夜

 ほんとに後期がはじまっちまいましたよ。
 昨日はガイダンス5つに会議が3つ。最後の会議は午後6時からで、わたしが議長なんすが、へろへろでして、会議終了後、尊敬する他学科の先輩から「要領わるいね・・・」と嗤われてしまう始末。おっしゃるとおりなんすが、人数の多い会議はたいへんなんすよ。こちらが準備している話題とは別のところで地雷が勃発するんだから。ゲリラと戦っているようなもんだな・・・

 もうやけくそになって、夕方から深夜まで「」をやりたい放題やっちまいました。
 あの、麻薬のようなゲームですよ。
 「道」ではなくて「極」、「極道」の「極」のほう。
 で、勝てないの・・・頭ふらふらだから勝てるわけない。
 でも、負けたら、またやるんだ。
 勝つまでやるんだ・・・
 でも、ほんとにまったく勝てない、めずらしい夜だった。

  1. 2009/09/24(木) 00:18:24|
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ギターラの舞

『月間プレイボーイ』創刊号の顛末(Ⅱ)

 『月間プレイボーイ』創刊号に古田さん(仮名)のグラビアは含まれていなかった。
 (私はそこに載っていないのではないか、他の月ではないか)という彼女の杞憂は現実のものとなってしまったのである。
 中国山西の巡礼に旅立つ直前の8月末、思い切って古田さんに電話をかけてみた。「もしもし、古田さんですか」というわたしの声を聞いて、「あぁぁ、どなたなのか分かりましたよ」と彼女は答えた。お姉さんの看病に忙殺されていて、返事が遅れてしまったことを彼女は謝罪した。
 70歳とは思えぬ可愛い声、少し震えた声で話があるきはじめた。

 古田さんはモデルを専業としていたわけではない。彼女の本業はダンサーだった。もっと正確にいうと、バレリーナからダンサーに転身した方である。少女時代からクラシックバレーを学び、20歳のとき初めてパリに渡った。以来、パリと日本を往来していたのだが、30歳になって正式に帰国した。クラシックバレーでは食べていけないことを自覚し、モダンバレーとフラメンコに職業を切り替える。
 彼女は新宿東口のビル地下にある「ギターラ」という店でフラメンコを踊っていた。そこで秋山章太郎に見初められたのだという。それから、彼女は日劇ミュージックホールに打ってでる。そのことをとても恥ずかしそうに語った。

   「わたしはヌードじゃないんですよ。そういう方はまわりにいて、わたしは
   真ん中でモダンダンスを踊っていたんです・・・」

 どういうことかよく分からなかったのだが、問いつめるわけにもいかず、別の話題に移っていった。しかし、会話は螺旋を描いて日劇ミュージックホールに回帰し、彼女は恥ずかしそうに、少女のような震えた声で再び語り始めた。

  「日劇ミュージックホールの『ギャンブル』っていうダンスだったんですよ。
   『骨までしゃぶれ』なんてキャッチフレーズがついてましてね(笑)・・・わたしは
  真ん中でちゃんと服を着て踊っていたんです。わたしのまわりを黒服の男性が
  数名囲んで踊っていて、その外側におっぱいをだした女性のダンサーさんが
  いっぱいいたんです・・・イタリア人の男性が振付師でしてね・・・」

 いまネットを漁ってみたが、日劇ミュージックホールに関する情報は非常に少ない。ウィキペディアも書きかけの状態だが、その断片をつなぎあわせて解説にかえさせていただこう。

   昭和27年(1952)・・・、劇作家の丸尾長顕が日劇において設立。東宝の
   小林一三から「女性が見ても上品なエロチシズムの探求」という承諾を
   受けてスタートする。以降、数多くの優秀なダンサーたちや、コメディアン
   をそれぞれ輩出した。・・・・・・上演されるレヴューは主にトップレスの
   女性ダンサーによるものであったが、いわゆるストリップとは一線を画す。

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  1. 2009/09/23(水) 13:09:10|
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大根島の夕暮

 学生時代、サッカーチームの1年下に松江出身の後輩がいて、「目糞、鼻糞を嗤う」戦いをくりひろげていた。松江出身と言えば『孫子』の著者も同じだが、かれは文学部の先輩。サッカーの後輩は工学部。

 大根島は島根の領土か、鳥取の領土か。これが後輩との論戦の主たるテーマであった。
 松江の後輩はもちろん島根のものだと言い、わたしは違うと主張した。中海は島根と鳥取で領海を分けているのに、その境界線に浮かぶ大根島のすべてが島根の領土であるはずはなく、境界線より東側は鳥取のものだという無茶苦茶な論理で抵抗したものだ。

 その大根島を初めて訪れた。わたしはこれでも離島研究者のはしくれで、日本海に浮かぶ離島を研究テーマとしていた時期があったのだが、大根島をフィールドにしようと思ったことはない。中海干拓の影響があまりにも強烈で、大根島を「離島」のカテゴリーの外においやってしまったのだろう。
 中海干拓の中止は2002年、『離島の建築』を出版したのがたしか2000年だから、完全なすれちがいになる。
 干拓用の橋を抜けて大根島に入ると「島」の匂いがぷんぷんしている。文化人類学の成果に従うならば、「島嶼性」は定義しえないものなのだという。島が島であることのアイデンティティを抽出しようとしても無理だということ。しかし大根島には、島根半島や弓ヶ浜半島とはまったく異質な風景が間違いなくある。
 大根島は火山であるらしい。火口にあたるのが大塚山で、その標高は42m。地形は全体になだらかで、一面に畑がひろがっているが、かつては放牧も盛んだった。いまは牡丹栽培が有名。
 ちょっとおかしな喩えかもしれないが、済州島を模型にしたような感じがしないでもない。

 島の中央南寄りに「由志園」という庭園がある。門脇栄が昭和50年に完成させた和風庭園。庭をみたあと、土産を物色したのだが、大根を加工したものがまったくないことを不思議に思って、店のお嬢さんに「大根のお土産はないんですか」と訊ねた。

   「高麗人参を作っていたんです、秘密でね。
    ばれちゃいけないから大根島って呼んだんですよ・・・」

 たしかに店頭には「高麗人参」ならぬ「雲州人参」の商品が山のように並んでいる。高価な品ばかりで手がでなかった。

 上の地名起源には異説もある。「大根(だいこ)」を「タコ」の転訛とみる説。杵築御崎(きづきのみさき)のタコを捕らえた大鷲がこの島に飛来した。だから、「タコ島」という名前がついたのだと出雲国風土記は説く。
  浜辺に沈没した廃船の群れの向こうに島根半島のシルエットが映る。稲佐ノ浜とは質のちがう哀愁を感じ、二夕続けてシャッターを切り続けた。

10大根島


  1. 2009/09/22(火) 00:30:42|
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稲佐ノ浜の夕陽

 出雲の初秋を満喫した。

 今年もまた出雲の某高校から出前講義の依頼があり、その前後にレンタカーで高校訪問してまわったのだ。彼岸花はまだ田の畦に咲き乱れていない。ただ緑から黄金に遷ろいゆく稲の穂が風に揺れるのをみているだけで、得難いものを得たような気持ちになる。
 出前講義の演題は昨年と同じで、「天空の神殿-出雲あるいは杵築の大社」。1年前のブログを読み返すと、大学の授業用パワーポイントを使ったことをひどく反省し、高校生用にアレンジすべきだったと猛省している。
 自民党の長老たちのように懲りないわたしは、今年も同じパワーポイントを使い、同じことを悔いた。後半の「神話・歴史・復元」はよく聞いてくれていた。前半が駄目。「出雲大社と大社造の本殿」について話すのだが、とくに建築様式的な内容はまったくつまんないようで、みなさんよくお眠りでした。ここは大幅にカットだな・・・もし来年もチャンスが与えられるならば、「大社造の本殿」部分を削除しないといけません。といいつつ、来年お呼びがかかる保証はなく、かりにお声がかかったとしても、今年の反省を忘れて、また同じパワーポイントで話すかもしれない。

 1年が経つのは速い。速いけれども、物忘れはもっと速く進んでいる。

 初日の夕方、JR大社駅の近くまで蕎麦を食べに行ったら定休日で閉まっていた。稲佐ノ浜まででてみると、夕陽が海に落ちていく。ものすごく大きな大陽がいままさに水面に沈んでいこうとしていて、砂浜沿いの駐車場にはカメラ愛好者が三脚をたてて列をなし、ロマンチックなムードに浸るカップルも少なくない。
 なるほどこれが「天日隅宮」か・・・日本書紀では「天日隅宮」、出雲国風土記では「天日栖宮」と書く。いずれも訓みは「あめのひすみのみや」。陽が沈むところにある宮殿(神殿)という意味であり、定説としては、大和を中心として伊勢神宮が「陽がのぼる」側、出雲大社が「陽の沈む」側である。
 大國主の時代、海がもっと大社近くに迫っていたとすれば、天にもとどく高大な神殿から海になだれ落ちる大きな太陽が望めたはずだ。ロマンチックな夕暮を大國主も堪能していたんだろうか。

01稲佐ヶ浜の夕日


 
  1. 2009/09/21(月) 00:11:58|
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国際シンポ「大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観」予報(その1)

 これまで科学研究費で3年間(2007-09)、鳥取県環境学術研究費助成研究費で2年間(2008-09)、国内外の「文化的景観」に関する調査研究を進めて参りましたが、その集大成ともいうべき国際シンポジウムを下記の趣旨・日程・会場で開催する運びとなりました。国内の研究者だけでなく、中国建築史研究の第一人者、楊鴻先生を北京からお迎えします。
 今回は予報の1回めということで、取り急ぎシンポジウムの概要を以下にまとめてみました。
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   シンポジウム
   大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観

 趣旨: 鳥取県は三徳山に焦点を絞って世界遺産暫定リスト入りの活動を進めてきましたが、少し視野をひろげて山陰の密教寺院に潜む仏教以前の信仰や建築遺産、慈覚大師円仁の足跡、大山隠岐国立公園の自然と眺望景観などを包括的にとらえながら、その「文化的景観」の保全について考える国際シンポジウムを開催します。大山寺(伯耆)・三仏寺(伯耆)・不動院岩屋堂(因幡)・鰐淵寺(出雲)・清水寺(出雲)・焼火神社(隠岐)など山陰各地の密教系寺院の歴史と遺産について考察を加えながら、世界遺産の類例として国内は「紀伊山地の霊場と参詣道」「比叡山(古都京都の文化財)」「石見銀山」等、国外は世界遺産登録されたばかりの「五台山」(中国山西省)、世界自然遺産から複合遺産への脱皮をめざす「ハロン湾」(ベトナム)をとりあげ、遺産と景観の価値を相対的に検討します。

 日時: 2010年2月27日(土)10:00~17:00

 会場: 倉吉未来中心セミナールーム3(195席/予定) 
      〒682-0816 鳥取県倉吉市駄経寺町212-5 倉吉パークスクエア内
      http://www.miraichushin.jp/

 次第:

  開会挨拶 趣旨説明 10:00~

 第Ⅰ部 山陰の山岳信仰と建築遺産 10:10~  司会:浅川 滋男

  1.伯耆の山岳信仰  10:10~   倉吉市教育委員会文化課長
                                   眞田 廣幸

  2.円仁の生涯と布教 10:45~   天台宗典編纂所編輯長・長昌寺住職
                                   野本 覚成

  3.岩窟/絶壁型仏堂の分布と源流 11:20~  鳥取環境大学浅川研究室
                                   今城・大給
    
    昼食 11:55~


 第Ⅱ部 密教諸山と文化的景観  13:00~  司会:中原 斉

  4.中国五台山の仏教建築と文化的景観 13:00~ 中国社会科学院考古研究所教授・
                                   中国建築史学会理事長・ユネスコ顧問
                                    楊 鴻
    
  5.世界遺産をめぐる現状と課題  14:00~
    -「紀伊山地の霊場と参詣道」「石見銀山」「平泉」などの事例から-
                                   奈良文化財研究所遺跡整備室長
                                     平澤 毅

  6.複合遺産としての大山・隠岐・三徳山  14:35~
    -世界自然遺産ハロン湾との対比を含めて-
                              鳥取環境大学建築・環境デザイン学科教授
                                     浅川 滋男
   
   休憩 15:10~

   討論・質疑 15:30~

   閉会 17:00

   懇親会 18:00~ 


 *シンポジウムに関する質問等は事務局までお問い合わせください。
   
   事務局: 鳥取環境大学 建築・環境デザイン学科 浅川研究室
         (担当:今城・岡垣・大給)



  1. 2009/09/20(日) 00:40:27|
  2. 講演・研究会|
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晋の道 -山西巡礼(ⅩⅠ)

R0017262-1.jpg


天龍山石窟

 太原の晋祠を訪れた後、その晋祠の背後にそびえる天龍山へ登り、一路頂上付近の天龍山石窟へ。山道を登れば登るほど、周囲には霧が立ち込めてしまい、本来ならば眺めがよさそうな場所からも、麓の様子がまったく見えないほど。ここでも「煙雨」に再会してしまいました。車で30分ほどかけて到着すると、10数メートル先が見えなくなるほどの真っ白な世界で、とても寒い! そんななか、谷筋を石窟目指して降りていきます。雨の影響か道はところどころ川のようになっていて、歩くのも一苦労。ようやくたどり着いたのは、天龍山石窟で最も大きい西峰の第9窟でした。

 天龍山石窟は天龍山の東西両峰の間にあり、全国重要文物保護単位になっています。『晋祠』(2007年)によれば、天龍山石窟の始まりは今からおよそ1500年前の東魏(534~550)まで遡ります。東魏の丞相だった高観の避暑宮として聖寿寺が造営され、石窟の開鑿も始まったと伝わっています。その後、隋、唐、五代まで約500年に渡って開鑿され続けました。この時期は中国の石窟芸術・技術発展のクライマックスだったようです。雲岡石窟は北魏の興安2年(453)頃から掘削され始めたので、天龍山石窟は雲岡の約100年後から掘削されだしたことになります。
 石窟は全部で25窟あり、その中でも第1窟、第2窟、第3窟、第10窟、第16窟は東魏から北斉時代の間に作られました。この5窟すべてを見てはいませんが、これらの石窟は古風で質朴でありながらも華麗広壮であるとのことです。さらに、天龍山で目を引くのは第9窟だと『晋祠』には紹介してありました。

P1030045-1.jpg その第9窟にたどり着くと、霧の中に建物が姿をあらわします。これは第9窟の前面に建てられた「漫山閣」です。中に入ると巨大な4体の仏像が出迎えます。上層には坐像の弥勒菩薩像、下層正面は十一面観音菩薩、左は獅子に騎乗した文殊菩薩、右は象に騎乗した普賢菩薩が立ち並んでいます。上層の弥勒菩薩は坐像でありながらも約8メートルの大きさで、さらに下層の十一面観音菩薩は約8.8メートルもあります。
 第9窟から続く崖沿いには西峰の石窟が並んでおり、どの石窟も同じように方形にくりぬかれています。そして、くりぬかれた入口以外の3面(正面・左・右)に仏像を彫刻しているのが、この天龍山石窟の特徴でもあります。また、多くの石窟の外側に垂木や桁材などの痕跡と見られる穴がたくさんあり、第9窟の漫山閣のように元は何らかの建物が存在していたのでしょう。第9窟も少し古い資料などを見ると今回見られた建物がなく、仏像が露出している写真が掲載されていました。石窟の中を見ると、多くの仏像は悲しいことに破壊されており、頭部のない像が並ぶ様子は異様に感じました。ガイドの田さんによると、20世紀初め頃に多くの仏像の頭部が、日本や欧米に流出してしまったといいます(関野、水野、長尾などの名前が田さんの口から続々でてきて、先生はそれを聞く度に苦い顔をされていました)。幸い第9窟の上段に鎮座する弥勒菩薩は無事だったそうですが、下段の観音菩薩なども首が奪われ、現在はレプリカが据えられているとのことです。

P1030006-1.jpg
【岩に食い込む第9窟の漫山閣(右)と建築材の痕跡が見られる第10窟(左)】

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  1. 2009/09/19(土) 00:21:56|
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晋の道-山西巡礼(Ⅹ)

聖母殿全景


太原の晋祠

 9月7日(月)、中国での調査旅行も残すところあと2日となった。初めて訪れた中国という国の文化に触れ、そのエネルギーに圧倒された旅ではあったが、調査旅行の中心となった山西省内にいるのも残りわずかである。
 この日は、園林風の祠廟建築「晋祠」(全国重点文物保護単位)と北斉(550-577)に掘削造営された「天竜山石窟」を訪れた。その後、太原駅から電車で北京まで戻る予定だ。 
 太原市内で一泊し、前日の夕食で一人あたり21個の餃子と、生ニンニク2片をたいらげた一行は、お互いの香りを気にしながらホテルを後にした。相変わらず冴えない天候の中、車に1時間ほど揺られて晋祠へとたどり着く。

 晋祠の創建年代は明らかになっていないが、最も早い記録としては、北魏(386~534)の文献に記載があるという。先祖を祀る霊廟であり、もとは周(前11世紀~前771)の創始者である武王の次男、唐叔虞を祀るために創建された。その後、幾度にも重なる修復、拡張がおこなわれ、現在は区画内に100余りの殿堂楼閣が軒を連ねている。
 とりわけ献殿(金)、聖母殿、魚沼飛梁(いずれも北宋)は「三大国宝建築」と称され、多くの建築群の中にあって突出した位置を占めており、それらは晋祠大門を入った正面の中軸線上に配置される。
 大門をくぐると、まず正面に見えてくるのは「水鏡台」である。明代に初建され、清の道光24年(1844)に再建された。これは舞台としての機能を備え、正面は聖母殿と相対している。一見、背面の単層裳階付の入母屋造重檐と、舞台となる単層巻棚式の入母屋造を併列させた双堂のようにも見えるが、ガイドブックによれば、舞台側は清の乾隆年間(1736-1795)に増築したようである。
 水鏡台を過ぎ、春秋時代の濠の上に架かる金人台、対越坊(牌坊)を抜けると献殿が見えてきた。

献殿概外観献殿内観 「献殿」は母を祀る聖母殿に供物をそなえるための施設として金の大定2年(1168)に建立された。間口3間の単層入母屋造で、構造は2重梁上に豕叉首を組んで棟木を支える。また、軒桁から母屋桁に架ける追い叉首も見受けられた。組物は内外とも二手先で、柱上と中備の部分で形式が異なる。どちらも尾垂木二本付に見えるが、柱上のものは手先方向の肘木の先端を木鼻状にしたものである。中備は尾垂木が下側のみで、上側は尾垂木風の彫刻を施した肘木となっており、尾垂木は内部の母屋桁まで達して桔木(はねぎ)のような役割を果たしている。天井のない化粧屋根裏だから、天秤式に軒を支える構造がよく理解できた。

魚沼飛梁R0017180_20090915184652.jpg 献殿からは「魚沼飛梁」を介して「聖母殿」の全体を見渡すことができる。古来、中国では円形の水溜りを「池」、方形のものを「沼」と呼んでおり、ここにいう「魚沼」とは、方形の池を指している。また、「飛梁」は橋の形状が翼をひろげる大鳥に似た姿にみえることで、この名がついたのだという。魚沼飛梁とはその名のとおり、魚沼に飛梁(架橋)を架けた姿をあらわす。当初の造営年代はあきらかではないが、北魏の頃から存在しており、現在の遺構は聖母殿建立の北宋天聖年間(1023-1031)と同時期と聞く。
 魚沼の中心部は方形のテラスのようになっており、四方を対岸と結ぶことで十字型の平面をもつ橋となっており、どこか浄土曼荼羅(変相図)の構成に似ている。構造は、水中から大面取の形状の石柱を立てて頭貫でつなぎ、柱上に木製の大斗と秤肘木をのせて梁を支える。また石造の高欄の平桁と地覆のあいだには、法隆寺金堂・五重塔などにも見られる卍崩しの文様が施されていた。卍崩しの文様の浮彫は雲岡石窟でもみたので、遅くとも南北朝に起源する意匠であるのは間違いない。
 魚沼飛梁を渡ると、眼前には一際大きな廟堂が姿を見せる。「聖母殿」である。

魚沼飛梁と聖母殿




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  1. 2009/09/18(金) 00:47:13|
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晋の道-山西巡礼(Ⅸ)

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世界文化遺産「古都平遙」(Ⅱ)-双林寺と鎮国寺

 平遥城内をめぐり、その歴史的な景観と街をとりまく雰囲気にすっかり酔いしれた私たちは、昼食をはさんで城外の双林寺と鎮国寺(いずれも全国重点文物保護単位)を訪れた。平遥古城と双林寺、鎮国寺は、「古都平遙」として1997年に山西省初の世界文化遺産に登録されている。

DSC05471.jpg 双林寺は、平遥古城から南西に約6kmの橋頭村に位置する。創建年代は北魏(386~543)にまで遡り、境内の碑文から北斉武平2年(571)の重修も知られる。もとの名は中都寺。今に残る大半の堂宇は明代(1368~1644)の再建にかかり、唯一大雄宝殿だけが金代(1115~1234)の遺構である。到着して驚いたのは、境内の周囲を高い城壁がぐるりと廻っていることだ。また境内への入口も古城を思わせるかのような堅固な城門である。これまで山西省で見てきた寺院で、このような防御施設をもつものはなかった。内部の境内は、「天王殿」「釈迦殿」「大雄宝殿」「娘娘殿」を中心軸上に並べた三進院で、その西側に「土地殿」「地蔵殿」「菩薩殿」、東側に「伽藍殿」「羅漢殿」「千仏殿」を配置している。

P1020684.jpg 天王殿は、尾垂木二本付の二手先で、中央扁額背面の中備に斜供を用いている。尾垂木の形状は仏光寺文殊殿などとはまったく異なり、先端を細くする明代の特徴がみとめられる。斜供は明代まで受け継がれていることがあきらかになった。一方、釈迦殿には斗供がなく、出桁のみでとてもシンプルなつくりをしている。小屋組はいずれも二重虹梁上に豕叉首を組みあげており、屋根は切妻で軒に反りはない。
 金代再建の大雄宝殿は、尾垂木一本の二手先で、仏光寺大殿と同様に軒小天井をもつが、二軒とする。内部の中央間には「藻井」という八角形の装飾天井を設けているが、その他はすべて化粧屋根裏。小屋組は二重虹梁に豕叉首を組み、屋根は入母屋で軒は反り上がっている。ふと庇の側柱に目を向けると柱は明らかに内転びしていた。わざと転ばせているのかどうか悩ましいところだが、教授がおっしゃるには、側柱と身舎柱を繋虹梁で結んでいないために構造的に弱く、800年の時を経て柱が内転びし、組物が外側に傾いたのではないかという。応県木塔と同様、急いで修理しなければならない建物であろう。

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 この寺院には、宋・元・明代の彩色塑像があわせて2000体以上も安置されており、その3分の2がほぼ完全な形で現代に伝わっている。とくに有名なのが千仏堂に鎮座する千寿観音像(↑↑いちばん上の写真)。フラッシュを焚く撮影は禁止されているが、レプリカを天王殿の前に展示しており、こちらを撮影できる。双林寺の塑像は全国的にも大変有名で、この日(6日)も、河北省石家荘の芸大学生が四天王像を前に、木ベラ片手に粘土を轆轤にのせ、顔の模写をしていた。境内を囲む城壁がいつの時代に作られたものか今回確認できなかったが、ひょっとすると、これら美しい塑像が多く残された背景と関係しているかもしれない。

P1020685.jpg


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  1. 2009/09/17(木) 00:30:25|
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第2回公開ワークショップの開催日決定!

 登録文化財「加藤家住宅」の修復に係わる第2回公開ワークショップの開催日が、  

    10月18日(日)

に決定しました。

 じつは同日、大学時代のサッカーチームの同窓会が上郡で開催される報せがあり、なんとかワークショップを16日(金)にずらせないものか、と動いてみたのですが、無駄な抵抗でした。同窓会は17日(土)・18日(日)の2日開催され、死ぬほど強烈なサッカー漬けスケジュールが組まれていて、まともに付き合ったら1週間は動けなくなるに決まっていますが、17日には入試関係の業務が入っていて、18日だけ参加しよう思っていたのです。これまで20年以上同窓会をさぼっていて、とくに最近は肥満と運動不足でお誘いがあっても返事すらしたくないほどの体調だったのですが、今年はご存じのように、スロージョギング、サイクリング、トレッキングにミニサッカーと鍛えこんできましたから、いつになく同窓会サッカーに色気がありましたね。ピヴォやタクオと同じフィールドでやってるんだから、OB会でもやれるだろうと密かに野心を抱いていたのですが、残念無念。

 まっ、わたしはワークショップの主催者ですので我儘は言えません。関係者の皆様の都合の良い日として10月18日開催が決まったのですから、研究室一同、その日に向かって準備を進めましょう。
 さて、8月27日に開催した第1回公開ワークショップは予想以上の大成功を納めました。来場者に左官工程の楽しさを存分に味わっていただけただけでなく、1日分の実務を完遂するという一石二鳥の成果に顔もほころぶというか、涙腺がゆるむというか・・・・ここで繰り返し御礼申し上げます。
 ただ、柳の下に2匹目の泥鰌はなかなかおりませんからね。次回はそうとう趣きの変わった会になるでしょう。テーマは「建具の納まりと軸部の補強」です。加藤家住宅は築後約280年の民家でして、2006年の修理前には柱が大きく傾斜し、建物も反時計まわりにねじれていました。当時の予算もまったく十分ではなく、小型の油圧式ジャッキを多数用いて柱をリフトアップし、根継等の修理を施すと同時に、柱の矯正と一部に構造補強を施しました。問題は2点あります。

  1)柱の矯正後、間仕切りの内法寸法に変化が生じ、建具の納まりに
   不具合が生じたこと
  2)2006年の修理後3年が経過し、柱が再び微少ながら傾斜する
   傾向がみられること

 以上の2点については、すでに地元関係者研究室OBの職人と2度検討してます。 これらの問題について関係者が一同に会し、市民公開のワークショップを通して議論・検討したいのです。文化庁の担当官と文化財建造物保存技術協会の主任技師さんも参加されます。
 というわけで、第2回ワークショップでは、これら専門家の「技」をみる機会を提供することになるわけですが、ならば市民参加の催しは何にするか。これについては、いま検討中でして、加藤家住宅の修復に足跡を残していただけるようなイベントを企画すべく頭をひねっております。

 
 さぁさ、学生諸君!
 前回のように格好いいポスターを作ってくださいよ!!
 ポスターが出来しだい、詳しい内容をお知らせいたしますので。

  1. 2009/09/16(水) 00:09:15|
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トップ10入り !-2009 FC2アクセス解析4・5・6月篇

 FC2サーバーに「ランキングを確認するNew!」という機能を確認したのは、たぶん盆明けのことで、その日は14位でした。翌日、21位に下がったんですが、以後13~19位を維持し、今月11日(金)には11位にまで駆け上がって「トップ10がみえてきた状況です」と書こうした13日、前日(12日)のランキングが発表されました。

 やりましたよ、みなさん。9位だって。

      9位!!

 ついにトップ10入りを果たしたのです!

 なんのことかと申しますと、FC2ブログ「学校・教育部門」のアクセスランキングです。その母数はと言いますと、10904人(のブログ・サイト)です。サーバーの表示をそのまま引用すると、「9位 (昨日:11位) / 10904人中 」。
 くりかえしますが、これはFC2ブログ全体の順位ではなく、FC2ブログのうち「学校・教育部門」という一ジャンルにおける順位です。12日のトップ20を示してみましょう。

  1位 受験勉強法Blog
  2位 受験4円
  3位 瓊浦高等学校の日々
  4位 コロコロザイーガ学園
  5位 TOEIC連続満点サラリーマンのブログ
  6位 きょういくブログ
  7位 YouTube無料動画で英語リスニング
  8位 ブログ 海外&帰国保護者のサロン 「ピアーズ@関西」
  9位 Lablog
 10位 日本語を教えよう
 11位 TOEIC Blitz Blog
 12位 受験で成功する為の塾の選び方や、医学部を目指す試験勉強法
 13位 大学受験の勉強法Tips
 14位 漢字検定に合格しよう!漢検・試験対策無料問題集★
 15位 English Time 英語学習ダイアリー
 16位 高校偏差値ランキング全国版(大学合格力)
 17位 東進衛星予備校大分中央校
 18位 今日のできごと
 19位 大学受験HACKS♪ ~大学受験の知恵と勉強法~
 20位 MY HEART LEAPS UP WHEN ...

 受験・資格・検定関係のサイトがずらりと並んでいるなかで、LABLOGは例外的なサイトとしてアクセスを集めているようです。ここに紹介できないのが残念なんですが、11日の16位に「鳥取県立倉吉東高等学校育友会(倉吉東高校PTA)」が入っていました。トップ20の常連ではないですが、県内に強力なライバルがいることを知り、褌の紐を締め直して切磋琢磨したい、と思うに至っております。

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  1. 2009/09/15(火) 00:00:21|
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晋の道-山西巡礼(Ⅷ)

城内遠景

 
世界文化遺産「古都平遙」(Ⅰ)-平遙古城

 9月4日、五台山巡礼を果たした一行は、道中に中国最古の建築を訪れ、太源を経由して「平遙古城」へと辿り着いた。ここにいう「城」とは都市(まち)のことである。
 平遙古城は山西省晋中市平遙県に位置し、その城壁もさることながら、城内の都市計画も含めて明清代の県城の姿をよくとどめており、西安古城(陝西)、荊州古城(湖北)、興城古城(遼寧)とともに中国四大古城としてよく知られている。平遙古城および城外周辺の鎮国寺・双林寺(共に全国重点文物保護単位)を含めた一帯は、「古都平遙」として1997年に世界文化遺産に登録されている。鎮国寺と双林寺については、後日のエアポート君にお任せするとして、私は平遙古城について報告させていただきたい。

旅館

 5日。平遙古城に到着するころには、すでに午後6時をまわっていた。城内の見学を翌日に控え、さっそく宿泊する「徳居源客桟」に向かう。到着して、ロビーと食堂を併設した部屋を抜けると、そこには縦割りの区画に院子(中庭)があり、院子を囲んで宿泊棟が配置されていた。「四合院」だ。四合院は中国における伝統的住居形式の典型で、主な特徴として、院子(中庭)を中心とした対称形の平面と閉鎖中庭型の配置があげられる。分布の範囲は全国に広がっているが、華北の四合院に対して、華南の三合院というイメージがある。

院子 ガイドの田さんによると、城内には四合院形式の建物が3700棟近く存在し、その多くは明・清代のもので、一部には元代のものも含むという。ちなみに、今回のホテルのように、改装して宿泊施設に転用しているものは100棟近くあるそうだ。
 今回のホテル「徳居源客桟」に限って言えば、内部の華やかな彫刻からして清代の建物であるのは間違いなかろう。正房・廂房はすべて客室に改装され、門房をロビーと食堂に利用していた。院子には椅子とテーブルを持ち出し、そこでも食事が出来るようになっている。私たちも院子にテーブルを並べて、教授の持ってきた柿ピーと、高価な中国産ワイン(円高のため、ドル紙幣を持て余していた教授のポケットマネーでご馳走していただいた)を堪能した。これがじつに心地よい空間で、こうした中庭の空間利用は、日本の町家においても応用可能であろう。

室内 また、部屋には炕(カン:ベッド状のオンドル)を備えており、客用のベッドとしている。寒くなると、炕は必要不可欠の暖房となるが、今回はもちろん熱を帯びていなかった。寝心地は悪くない。左の写真を見てお気づきの方もいるだろう、今回のベッドはツインではなく、いわゆるダブルベッドであった。伝統的な用語では「大床」とか「八脚床」というらしい。黒帯君と相部屋の私は、一抹の不安を抱きながら床に就いたのだが、彼は自身の卒業研究に大きく関係する五台山の巡礼を終えたこともあり、あまりの疲労にベッドまでたどり着くことができず、椅子の上で一夜を明かしてしまったそうだ。チェックアウトの際、「オンドルの感触だけでも・・・」と、ゴロリと横になったその顔は満足そうであったが・・・

院子での晩酌


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  1. 2009/09/14(月) 00:21:23|
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晋の道-山西巡礼(Ⅶ)

竹林寺内部


円仁の風景(ⅩⅣ)-竹林寺から南禅寺・仏光寺まで

1.竹林寺復興

 『入唐求法巡礼行記』によれば、円仁が五台山の竹林寺にいたのは承和七年(840)5月1日から16日までの16日間。1週間前、日本から天台宗の僧がツアーで竹林寺を訪れ、法要をしたばかりとガイドの田さんから教えられていたので、いまでも法要をおこなえる伽藍はいったいどのようなものなのか、と期待に胸を膨らませていたのですが、その実態は工事現場でした。

竹林寺1 円仁が五台山に滞在したころ、竹林寺は五会念仏(念仏の調音を五種類に分別した音楽的な唱名法)の中心道場として栄えていました。その五会念仏に魅了された円仁は帰国後、比叡山に常行堂を建立して五会念仏(引声念仏)の普及を図ったといいます。円仁が修行にやってきた時には、六つの「院」があり、それぞれの院には40人もの僧侶が生活をしていたというから、とても大きな寺院だったと思われます。しかし、上に述べたように、4日午後に訪問してみると復元工事の真っ最中で、当時の風景を想像することはまだできません。円仁ゆかりの手がかりをなにか見つけられないかと奥に進んでゆくと、復元されつつある大雄宝殿の裏側に「日本天台入唐求法沙門円仁慈覚大師御研鑚之霊跡」と刻まれた石碑を発見。日本の天台宗の僧侶が昭和17年に建てた石碑です(「続き」の一番下の写真)。
 ほかに何かないものかと辺りを見渡すと、復元工事の進む戒壇が目につきました。円仁の弟子が竹林寺の戒壇で「戒律を受けた」という記述が記憶に残っていたわたしは、建設中の戒壇を見て、本当に円仁が知る戒壇の姿に復元してほしいと思いました。

 文化大革命で境内の文化財の99%が破壊された竹林寺の実態を目の当たりにし、一同途方に暮れていましたが、まもなく教授が気をとりなおして提案されました。

  「せっかく竹林寺を訪れたのだから、円仁が過ごした時代の建築に想いをめぐらせてみよう。
  復元中の大雄宝殿は唐代の様式に復元しているようだが、わたしの目からみて違和感を
  感じないわけではない。いまは復元建物を精査し、明日訪れる南禅寺・仏光寺大殿と比較
  してみよう。」 

 こういう意識をもって、翌5日、南禅寺と仏光寺の古代建築を視察することになったのです。 

仏光寺大殿全景


2.仏光寺大殿・文殊殿

 円仁は五台山を出発した後、仏光寺近くの道を通ったそうです(立ち寄ってはいません)。そんな仏光寺の開山は北魏に遡り、祖師塔と呼ばれる北魏時代の密檐式磚塔が境内に残っています。現存する大殿は唐代857年に建てられたもので、中国で2番めに古い木造建築です。
 大殿へ上がる階段の両側にヤオトンを見つけたのですが、元は崖をくり抜くだけの土だらけのものが、境内の中でもあり、壁面や天井も綺麗にコートされていました。それにしても、寺の敷地内にヤオトンがあるなんて面白いですね(境内の外側の絶壁にもヤオトンがいくつかみられましたが、すでに廃墟と化した模様です)。階段を上り、さっそく大殿を観察し、考察を始めました。いつもように、教授が「なんでもよいから、大殿の特徴を一言ずつ述べなさい」と問われ、4人の弟子が順番に答えていくのです。それを3巡くりかえしました。

仏光寺大殿(軒下) 大殿は間口7間、奥行4間。平屋の入母屋造です。組物は柱上が四手先で、壁付き部分はすべて通肘木にしていますが、秤肘木(はかりひじき)状の浮彫を施しています。この点は、大同でみた善化寺大殿(金代)や次に取り上げる南禅寺大殿(唐代)でも同じです。おもしろいのは、頭貫上に中備がないことです。頭貫と一段めの通肘木のあいだは白い壁塗りとなっているにも拘わらず、一段目の通肘木の上には二手先の組物がのっているのです。構造的にはきわめて不安定であり、おそらく中備の二手先を支持する束が小壁の内側に隠されているのだろうと推定したのですが、後にその反例にであうことになります。
 中備の二手先は丸行手前の軒小天井を受ける桁を支えていて、一手目の肘木には大仏様繰型のような形の装飾がみられました。壁付の通肘木は千鳥状に配された巻斗で上下の材を繋いでいます。ここでもやはり素朴な「校倉造」風の構造をみてとれると言ってよいでしょう。
 内部は虹梁の上に蟇股を半分にしたような材をおいて斗をのせ、上側の虹梁をうけています。二重虹梁蟇股のバリエーションとして理解できますが、二重虹梁の上に豕叉首(いのこさす)を組み上げています。堂内側の組物は三手先です。大仏様や法隆寺金堂と共通する「手先にひろがりのない」タイプの組物です。唐招提寺以降の仏堂に常用される曲線的な支輪はなく、直線的な材を使っています。

仏光寺(文殊殿) 続いて文殊殿。金代1137年に建立された仏堂です。平屋の切妻造。組物は二手先で通肘木と丸桁を同じ列に持ってきていることが確認できました。中備に斜供を採用していますが、真ん中の斜供が長く、隅に行くにしたがって少しづつ短くなっています。中国建築の場合、柱間寸法が均等ではなく、中央間が一番長く、脇間、端間といくにつれて少しずつ短くなるため、斜供の長さも変わるのです。双林寺など他の寺院の諸堂を見学した結果、斜供は明清代まで受け継がれていくことが分かりました。
 さて、中備の斜供も二つの尾垂木をもつ二手先にみえますが、上下の尾垂木が平行ではなく、上側の材はほぼ水平となっています。内側と材の対応関係を確認すると、尾垂木は下の1本で、上側の材は水平材の木鼻にあたることが分かりました。軒は一軒丸垂木です。
 内部は、強烈な「減柱法」によって大空間を確保しています。菩薩像や法会のための空間をひろくとりたいのでしょうが、長大な梁を何本もかけていて、構造的に大丈夫なのかと不安になるほどです。小屋組には豕叉首を使っています。教授が1990年代に訪問された時には、文殊殿の腐朽・劣化が著しく、大殿よりも危険な状態にあったとのことですが、すでに修理を終えて健全な姿に戻っていました。

仏光寺1


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  1. 2009/09/13(日) 00:15:47|
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ガーナ戦評

 救世主は本田ではなく、稲本だった。

 5日の夕方、世界遺産の町並み保存地区「平遙」の四合院住宅を改修したホテルで無線ランが繋がり、オランダ戦の結果を知った。

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 両チームのメンバー一覧をみて、「まっ、妥当な結果だ」と頷き、タクオもまた首を縦に振った。

 平遙には欧米からの旅客が多く、中国内では珍しいことに、米ドルが使える。わたしはネパール巡礼の際に交換したドルをたくさん残していたものだから、急にリッチな気分になり、美人の女将さんがいるカウンターに行って中国産最高級のワインを2本続けて注文した。ドルで払って、お釣りは中国元・・・
 四合院中庭のテーブルで、ワインを飲みながら、サッカー談義に花が咲く。

 ボランチかサイドバックに大型の選手が必要だと前から思っていたのだが、実際に名前をあげるとなると、今野ぐらいしか思い浮かばない。そのときタクオが稲本の名前を口にした。

   「そうだ、稲本がいい。あれはフィジカルが強いし、勝負勘がある」

 アジア予選を戦った日本代表は小兵のチームだ。180㎝を超える大型の選手は闘莉王と中澤だけ。日本がアジアに誇る、この大型のダブル・ストッパーも、9日のガーナ戦では屈強な相手フォワードに歯が立たない。3失点のうちの2点めと3点めは、1対1の個人戦で闘莉王と中澤がワールドクラスのストライカーに通用しないことを明白にした。これを補うのは、ボランチとサイドバックのカバーしかない。どんな局面でも、2対1の数的有利をつくっておかないと、日本の守備は蹂躙されてしまう。安全策をとるならば、背後に一人スウィーパーを余らせて3バックにする手もあるが、そんな古典的な戦術をとれば攻撃が手薄になる。
 闘莉王と中澤の前にあって、その中間にドガンと構えるセンター・オブ・ミッドフィールドが欲しい。いわゆるワイパーのポジションだが、たんなる「掃除役」にとどまらず、攻撃の起点となってゲームメークでき、ときに前線にまでかけあがって得点を狙える選手でなければならない。ミランやアヤックスにおけるかつてのフランク・ライカールト、国内ならば鹿島アントラーズ全盛期のジョルジーニョがこの理想像にあたるであろう。
 いまの日本でこの大役を務めうる選手は稲本しかいないのではないか。

 劣勢のガーナ戦後半、次々と選手交替がなされた。タッチラインの外で待機する交替選手のなかで稲本はひときわオーラを放っていた。玉田にも似たオーラを感じた。この二人がなにかをするかもしれない。そう思って試合をみていたら、1-3となって、オランダ遠征は2連敗か・・・
 そこから信じられないような逆転劇が始まった。ガーナが3日前にW杯アフリカ予選の試合を終えたばかりで疲れきっていたのは事実である。かつての日本ならそんなガーナを崩すこともできなかっただろう。ところが、まず玉田がガーナの守備陣を切り裂いた。玉田のスピードは世界の強豪にも通用するだろう。そして、稲本が脅威のクロスとミドルシュートで試合をひっくりかえした。だれがどうみても、この試合のMVPは稲本である。

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  1. 2009/09/12(土) 00:45:56|
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ワークショップのあとに(Ⅰ)

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左官工程完了

 9月に入り、夏の暑さも和らいで秋の香りが少しずつ強くなってきました。
 食べ物のおいしい季節到来です!

 9月7日(月)。朝8時半に加藤家住宅に集合。第1回公開ワークショップの左官工程で塗り残した部分の荒壁塗りに取り組んだ。ワークショップ参加者が協働して塗りあげた荒壁はすでに固まっており、それを見た左官のSさんは「カビが生えることなくきれいに固まっている」と驚かれていました。夏の暑い時期に荒壁を塗るとカビが生えやすいという問題があったのですが、「この家は天井も高く、扇風機を回していたことで無事に成功したのだろう」とおっしゃられていました。
 今回は妻側内壁の残りと風呂、勝手口、西側廊下、アイノマ、ナンドなどの小舞壁を新たに塗ったほか、ひび割れ・隙間・剥落などの破損部分の修復もおこないました。今回、左官工事はSさんたちプロ2名に任せ、我われ学生、魯班営造学社2名はサポートにあたった。職人さんと学生(及びOB)の役割分担は、3年前の修復工事の時のようでもある。

P1040678.jpg 公開ワークショップの時と同じように準備を済ませ、いよいよ左官工程が始まった。ピヴォさんはSさんに付き、本格的な左官の修業モードに。脚立にのった塗師の鏝板に荒土をヤリでスッと渡すという作業(↑↑いちばん上の写真)。これがなかなか難しいようで、土がうまく離れなくて初めは悪戦苦闘していた。Sさんのアドバイスを一つひとつ真剣に聞き、小1時間たったころには、かなり早くできるようになっていた。この技を習得すると、高いところに土をパスできるようにもなるというのだから、職人さんの技はすごいものだとただただ感心するしかありません。
 一方、屋外では、荒土運びと藁を叩く作業が淡々と進んでいた。藁を叩いておくと貫伏せの作業効率が増すと教えられた。左官作業はものすごいスピードで進んでいき、1時間たったころには、東側妻壁を塗り終えていた。

 新鮮だったのは10時の休憩。ただ休憩を取るわけではなく、作業状況や次の作業について話し合うミーティングを兼ねていた。学生だけで作業する場合、こういった時間のとり方は今まであまりしなかったので、今後1日中作業するときは参考にしようと思いました。

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  1. 2009/09/11(金) 00:06:52|
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晋の道 -山西巡礼(Ⅵ)

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円仁の風景(ⅩⅢ)-大花厳寺と大白塔

 昨日の五台山巡礼行程のなかで最も重要な位置を占める顕通寺と塔院寺について、少し詳しくレポートしておきます。

1.顕通寺

 顕通寺は五台山の寺院が集中する台懐鎮の中心地に境内を構えています。寺伝によると、顕通寺が創建されたのは後漢時代の永平11年(68)。中国に仏教が伝来した後漢時代、当時の都、洛陽(河南省)に最初の寺院「白馬寺」が創建されます。寺伝が正しいならば、その翌年、顕通寺が創建されたことになります。台懐のある山の姿がインドの霊鷲山に似ているので「霊鷲峰」と命名し、その前方に「大孚霊鷲寺」を建立したというのです。
 『古清涼伝』によると、北魏の太和年間(477~499)、孝文帝が五台山を訪れた際に霊鷲寺を再建し、寺院の前に花園があったことから「花園寺」とも呼ばれるようになりました。唐の則天武后(在位690~704年)の代に「大花厳寺」と改称され、明の太祖の時に重建されて「大顕通寺」の額が下賜されました。万暦34年(1606)には一旦「永明寺」と改称されましたが、清の康煕26年(1687)に「大顕通寺」に戻りました。1982年2月、全国重点文物保護単位に指定されています。

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【無量殿】

 顕通寺の伽藍には中軸線上に7つの仏堂が建てられていますが、なかでも大雄宝殿(木造)、無量殿(磚造アーチ式)、銅殿(真鍮製)の3堂が有名です。大雄宝殿(↑↑一番上の写真)は顕通寺の正殿であり、清の光緒25年(1899)に再建された建物。単層裳階付の重檐で、大屋根は四阿(寄棟)ですから故宮太和殿と同形式ですが、礼堂ともいうべき外陣を附属させています。外陣も重檐ですが、大屋根は棟に熨斗瓦のない「巻棚」の切妻造。二つの建物が並列しているので、一種の双堂(ならびどう)とも言えますが、前後2棟の軒を接して樋で雨水をうけるのではなく、外陣後面屋根の軒を内陣正面の大屋根の上に被せ、内陣の軒から雨水を落とすようにしています。頭貫の上に組物はなく、通肘木を多用する校倉造のような構造となっています。
 大雄宝殿の背後にたつ無量殿は、ほんらい「無梁殿」と書くべき建物です。無梁殿とは「梁のない建物」を意味しますが、それは磚造アーチ式構造のことです。焼成レンガ(磚)をアーチ状に積み上げた構造で、教授によると、南京に古い遺構があるそうです。顕通寺の場合、無量寿経の「無量」が「無梁」と同音なので、一種の掛詞にしたのでしょう。
 無量殿は明の万暦34年(1606)に建立され、崇禎9年(1636)に重修されました。外観は単層裳階付に見え、三手先の組物を詰組にしてびっしり並べています。無量殿の後方に鎮座するのが銅殿です。こちらも明の万暦34年(1606)の建立。入母屋造の重檐で、単層裳階付。内部には真鍮製の小仏が一万体納められてるとか。

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【銅殿】

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  1. 2009/09/10(木) 00:57:29|
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晋の道 -山西巡礼(Ⅴ)

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円仁の風景(ⅩⅡ)-五台山巡礼

 9月3日夕刻、五台山に入山した。円仁が在唐9年間のなかで最も長く滞在し修行した仏教の聖地である。これまで「円仁の風景」シリーズで数おおくの場所や寺社をとりあげてきたが、山陰各地の諸寺については、円仁が確実に開山・再興に係わった証拠がなく、いうまでもないことだが、比叡山以外では五台山が最も重要な位置を占める。
 天候はあいにくの小雨。平野部では晴れていても、標高約2500mの台懐鎮は雲に巻かれていることが少なくない。標高こそ違うけれども、「比叡山の煙雨」を彷彿とさせた。五台山は山西省忻州地区五台県の東北部に位置し、五つの山(東台・西台・南台・北台・中台)の峰が台懐鎮を囲むように連なっている。五台山の地皮は薄く、樹木の生育を阻んでおり、それが山嶺を「台」のようにみせる。五台山には現在47の寺院が境内を構える。9月4日に主要伽藍の集中する台懐鎮の中部と南部を巡礼した。

1.台懐鎮中部の古刹

P1010911.jpg 前夜の予定では、108段におよぶ菩薩頂の参道を徒歩であがり、境内に入る予定だったが、あいにくの天候のため、門前までバスで移動した。菩薩頂は、北魏孝文帝(在位471-499)の時代に創建され、明の万暦年間に再建された。もとは文殊菩薩の道場だったが、永楽帝(在位1402- 1424)のころからモンゴルとチベットのラマ教信徒が五台に入り、大ラマが菩薩頂に居住するようになったことから、本寺が五台山におけるラマ教寺院の首位となった。明代から境内の拡張が進み、清代にいたっては清朝の少数民族懐柔政策によって大いに栄え、建築も清の様式に刷新されていった。視察中、幸運にも、大雄宝殿でラマ僧の集団読経に接し、一同その姿にみとれてしまった。このように、五台山は中国仏教とラマ教(チベット仏教)の寺院が共存しており、漢族だけでなく、チベットや青海省から少数民族が参拝に訪れている。

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 菩提頂の空門をぬけて石段を下り、顕通寺と塔院寺へ。いずれも台懐鎮の中心に位置する主要伽藍で、とりわけ顕通寺は五台山のなかの「五大禅寺」の一つで、なおかつ「十大青廟(漢族寺院)」のトップとしてあまりにも有名である。巨大な煉瓦造の「無量(梁)殿」(明代)や壁面に1万体もの仏が祀られた金色の「銅殿」(明代)は圧巻。明日、顕通寺と塔院寺については、同行した部長さんが詳しく述べるので、お楽しみに。もちろん、円仁の『入唐求法巡礼行記』にも登場しております。
 ちなみに、塔院寺の大白塔の下で、はじめてマニ車を体験した。マニ車を右回転でまわしながら、塔のまわりを3周する。ガイドの田さんによれば、1回目は家族のこと、2回目は友人のこと、3回目に自分のことを祈りながら経筒をまわすとのこと。わたしたちは時間の余裕がなく、それぞれの思いを胸に1周だけした。

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 塔院寺から南に約500m下ると、元代創建の殊像寺がある。現在の堂宇は明の弘治~万暦年間の再建にかかる。顕通寺、塔院寺、菩提頂、羅候寺とともに五大禅場の一つに数えられ、また青廟十大寺院の一つにも数えられている。空門をぬけると真正面に文殊閣があり、五台山最大の文殊菩薩像が祀られている。これは文殊騎獅像とも呼ばれ、文殊菩薩が獅子にまたがっており、像の高さは9.3mもある。

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 以上、中部の4寺を午前中に視察し、午後は「続き」に示す南部の2寺を視察したあと、時間に余裕があったので、台懐鎮では最も高い山頂に境内を構える黛螺頂をめざした。黛螺頂へあがる階段は、1080段! 菩薩頂と龍泉寺の10倍ある。聞いただけで、煩悩がわきおこってきそうだが、五台山を訪れた記念として登ってみようということになった。伯耆巡礼の大山登山とはまたわけが違う。20分前後の山登りだったが、それなりの苦しさを伴った。それでも何とか頂上に一番乗りすると、五台山台懐鎮の風景が一望でき、そのパノラマにすっかり心が洗われた。黛螺頂は、明の成化年間(1465-1488)に創建され、万暦年間と清康煕・乾隆帝の代に再建・補修された。悪天候で五台登頂を果たせなかった乾隆帝の命により、境内には五台の本尊たる5体の文殊菩薩を祀っている。このため、黛螺頂に登ることを「小台山参拝」という。私たちも小台山参拝を果たしたわけだ。

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  1. 2009/09/09(水) 00:20:30|
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晋の道 -山西巡礼(Ⅳ)

近景


 応県木塔

 懸空寺を巡り、その圧倒的な佇まいと壮大な景観に興奮冷めやらぬ一行は、渾源市街地の永安寺(元代建築/全国重点文物保護単位)を経由したあと、昼食をはさんで応県の仏宮寺釈迦塔(全国重点文物保護単位)に足を運んだ。

 この仏宮寺釈迦塔は俗に「応県木塔」と呼ばれ、建立年代は遼の清寧二年(1056年)に遡る。中国最古の木造塔であると同時に、世界最大の木造塔としてあまりにも有名であろう。八角五重塔で初重のみ裳階つきだが、内部は複雑で各層の中間に暗層をもうけており、実際には9層の構成。八角形平面の一辺はそれぞれ三間で、初重のみ大壁で柱を隠す。
 軒を支える組物は、各層さまざまな手法が施されている。二手先・三手先・四手先を層によって使い分け、二層では中備に斜供を使っている。各層の斗供の微妙な違いは、規則的な木組の中に有機的なやわらかさを醸し出している。
 世界最大の木塔の規模は、初層直径が約30メートル、高さは相輪を含めると67メートルにも達する。一体なぜそのような高さが必要であったのか疑問に思っていたのだが、遼が北宋に対して「監視塔」の意味合いで建てられたとの説もあるらしい。たしかに、仏塔というよりは城郭の隅櫓と言ってしまった方が当てはまるかもしれない。

全景

 ただ、その木搭に一歩足を踏み入れると、内陣には高さ11メートルの釈迦像が鎮座しており、八角形の内壁には釈迦像に似た壁画が描かれている。早速、教授が写真に収めようとシャッターを切ると、なにやら監視員が近寄ってきた。案の定、撮影禁止のようである。ただ、ここだけの秘密にしてほしいのですが、田さんも交えて交渉すると、パンフレット(7元)を買ってくれれば、フラッシュなし撮影してもよいという。なんともいい加減なものである・・・
 とはいえ、一同さっそうと7元を握り締め、パンフレットを購入した。
 初層も足早に見終え、急勾配の階段を上ると暗層にたどり着き、ここで、教授から構造についてご説明いただいた。

暗層 この暗層というのは、1層にとっての天井裏に当たる部分になり、大規模な木搭を構造的に安定させるために非常に重要な部分である。その構造は、一言でいうなら校倉造。太い横木を相欠にして4~5段積み上げており、これが応県木塔の構造的安定性に大きく寄与していることは疑いない。側柱筋でも通し肘木を多用しているのは、校倉造の応用と言えなくもないだろう。なお、軒の中備にあたる箇所には、内部から控え柱と巻斗で補強している。このほかにも、各所に筋交を用いて構造の強化を図っている。また、暗層の架構は全体に木柄が太く、外観とはうって変わって城郭建築のような荒々しい印象を受けた。

破断台輪 2層にあがると周囲に高欄付きの縁が廻され、内陣には、釈迦三尊と脇侍菩薩の五体の仏像が安置されている。その開放的な空間構成もさることながら、目を奪われたのが、破断された台輪であった。荷重がうまく配分されず、集中してしまった箇所が圧縮により破断してしまったのだろう。また、斗供についても巻斗が欠損している箇所が見受けられた。聞くところによると、今現在、東北に22度近く傾いているという。もともと柱が内転びにはなっているものの、各所の傾き具合の違いが目視でも確認できるほど顕著であった。あきらかに危険な状態である。(次ページ写真参照)

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  1. 2009/09/08(火) 00:53:25|
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晋の道 -山西巡礼(Ⅲ)

懸空寺4



渾源の懸空寺

 3日目(9月3日)は、まず山西省渾源の懸空寺を訪れました。三仏寺投入堂とよく似た懸造(中国では「吊脚楼」と呼びます)の建物としてよく知られており、LABLOGでも一度登場したことがあります。黄土高原の広大な平地を眺めつつバスに揺られていると、歴代王朝の挙行する山岳祭祀の対象として最高位の「五岳」のひとつに数えられる北嶽・恒山が眼前にあらわれました。絶壁にもたせ掛けるように建てられた懸空寺を発見して一同大興奮です。

 懸空寺は北魏後期に創建されましたが、何度か修復・拡張されており、現存している建物は清の時代以降のものだそうです。たしかに、建築様式の細部をみると、北京の故宮に似ているような気がします。入口(山門)付近には安全の守り神を祭る石造の祠があるのですが、教授は「これは木造建築よりも古いものかもしれない」と注意深く観察し、何か引っかかるものがあるようでした。

祠 懸空寺3

 懸空寺でともかく驚いたのは、複数の楼閣がただ板を並べただけの狭い通路で繋がっていて、気を付けながら歩かないと崖下に落っこちそうになるほどスリル満点でした。縁の下には、細い柱がたくさん並んでいるのですが、実は荷重をあまり受けていなくて飾りみたいなものだと聞き、柱を少し触れてみるとゆらゆらと揺さぶられたのには本当にヒヤヒヤしました。それでは、どうやって建物を支えているのか。階ごとに岩壁に差し込まれた梁によって荷重を支えたり、バランスをとっているのです。これには驚くほかありません。

懸空寺2



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  1. 2009/09/07(月) 10:03:54|
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晋の道 -山西巡礼(Ⅱ)

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大同の善化寺

 さてはて、みなさんが少し前の教科書で習った中国はいかがなものでしたでしょうか。ほぼ間違いなく、道路を埋め尽くす自転車の写真が掲載されていたことと思います。そのようなイメージを持ち続けて20余年。今回、初めて中国の中心市街地に来たわけですが、今や自転車の数は指を折るほど。北京から離れた大同でも自動車が中心で、その脇を数台の電動バイクや電動自転車が往来する時代。なんだか田舎者が都会に出てきたような気がして、恥ずかしくなってしまいました。

 さて、雲崗石窟を見学した後、大同南門里にある善化寺を訪れた。昨日の故宮もそうだが、市街地を歩いていていきなりこういう歴史的建造物の固まりが現れるのだから、建物の規模や印象には思わずたまげてしまう。
 善化寺は遼・金時代に伽藍が整備された寺院で、全体平面は今も当初の規模を保っている。主要な堂・門を中軸線上に配置しており、前方が「山門」、中間が「三聖殿」、後方が「大雄宝殿」となっている。この軸の周囲を回廊が巡っており、東西回廊の真ん中にそれぞれ「普賢閣」と「東楼」が建つ。このうち、大雄宝殿は遼代の建築で、普賢閣、三聖殿、山門は金代のものだが、東楼や回廊は最近の復元である。この日(2日)も、ところどころで復元整備の工事をしていた。

斜めP1010633-1


P1010630-1_20090903050758.jpg 山門は間口五間の長方形平面で大壁造をしている。単層の寄棟屋根で外観はずっしりとした荘厳な印象を受ける。柱の上部には粽がみられ台輪があり、組物においても尾垂木二本付の三手先で、日本でいう禅宗様とよく似ている。一方、内部は化粧屋根裏のためか外観に比べて軽やかで、左右に立つ四天王像がより一層大きく見える。
 山門をくぐると間口五間の「三聖殿」があらわれる。まず目に入ったのはウワサに聞いた「斜栱」だ。斜栱は扇垂木上に材がひろがる独特の組物で、日本ではお目にかかれない。三聖殿のものは三手先の大型で、ちょうどハスの花が咲いたような印象を受けた。これが中備となって扁額の左右にあるのだから装飾的にも華やかだ。主な斗栱は尾垂木二本付の三手先で、屋根は山門と同様に寄棟、鴟尾、走獣がある。内部は、「華厳三聖」の塑像が並んでいるが、その来迎柱は吊束のようになっており、その手前に別の柱を立てている。ここで思い出すのは見寺の復元だが、見寺本堂の場合、来迎柱の礎石位置がセットバックしていたため、類例に倣って手前に太瓶束を設けた。しかし、三聖殿の架構の場合はその逆で、この意味はまったく不明だ。また、入ってすぐの左右の身舎柱が省かれており、そこを太瓶束のようなもので架構を組んでおり、礼堂を思わせる。しかし、同じ列の中央二本の身舎柱は存在している。
 以上、とても不思議な架構をしている。小屋組はというと、二重虹梁を立ち上げ、その上に豕叉首を組み、屋根を支えている。教授は叉首のことをもっぱら気にされていた。
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 三聖殿をぬけると、左右にそれぞれ「普賢閣」と「東楼」が見える。普賢閣は二重の楼閣で、屋根は入母屋造。薊県の独楽寺観音閣がこのスタイルでは最古のものだと教授に教えていただいた。東楼は普賢閣に倣って復元されたもので様式は金代のようだが、新築とあって見た目はやはり新しい。
 復元された回廊を通り、一番高い基壇のうえに建つ「大雄宝殿」へ。建物の前には広大な月台があり、その左右に「鐘亭」と「鼓亭」がある。大雄宝殿は間口七間の単層寄棟造で、基本構造は三聖殿と同様に二重虹梁を立ち上げ、その上に豕叉首を立ち上げる。内部の中央間の部分には「藻井」という八角形の装飾天井があるが、その他はすべて化粧屋根裏。また、扁額に隠れているが、三聖殿とは異なり、組物に五手先V字形の斜栱を確認した。斜栱は装飾的であると同時に、構造的にも優れたものであろう。また、隅の組物の納まりも複雑で、中備(巻斗)の間隔が急に狭まり、組物が密集している。
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  1. 2009/09/06(日) 00:29:13|
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晋の道 -山西巡礼(Ⅰ)

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世界文化遺産 雲岡石窟

 北京から寝台列車に揺られ、深夜1時に到着した山西省の大同。北魏の時代、文成帝は初めここ大同に都しました。そのときの首都の名は「平城」。どこかで聞いたことがありますね。
 翌朝(2日)、ホテルで今回お世話になる通訳ガイドの田(デン)さんと合流し、さっそく雲崗石窟へ見学に向かいました。雲岡石窟(かつては「雲崗」と書かれていましたが、いまは「雲岡」が正式名称です)は敦煌の莫高窟、洛陽の龍門石窟と並び、中国三大石窟のひとつで、2001年には世界文化遺産に登録されています。北魏文成帝の時代、興安2年(453)頃から石窟の掘削が始まり、2代献文帝の時代に造営が大きく進みましたが、3代孝文帝の代に洛陽に遷都してからは国家的な造営は停止しました。ただし、その後も私的な造寺造仏は正光年間(520~525)まで続きました。
 雲岡石窟に近づくと、斜面のいたるところに穴が掘られているのが道路からでも分かります。車を降りてさらに近づくと、そのスケールの大きさに圧倒されました。とにかく、大きい。山のふもとの斜面が東西約1キロに渡って掘削され、その中には仏像が彫られていたり、塔が彫られていたりと様々です。
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 たとえば、一番東に位置する第1窟・第2窟には、掘削された穴の中央に塔が彫られています。これは信仰上の意味だけではなく、石窟を支える構造材の役割を果たしています。塔は木造密檐式の様式が見て取れ、平三斗や人字形中備が鮮明に表現されています。他にも壁面に建築物の一部が彫られている石窟がたくさんあり、北魏時代の建築様式を知る必要不可欠の仏教建築遺産となっています。

 石窟内の仏像は多種多様で、その仏教的な理解を記すのは、わたしの理解を超えています。ただ、そのなかで一番記憶に残ったのは、第20窟の「高さ約14メートル」の仏像です。これは「露天の大仏」とも言われています。かつて、すべての石窟の正面には木造建築の礼堂が軒を連ねていたそうですが、いまそれを残すのはわずかになり、さらに20窟の場合、庇のように大仏を覆っていた石窟の前面が1000年前に崩壊してしまいました。以来、風雨にさらされやすい状況となってしまっています。

 第5窟・第6窟の正面には、清代に造替された木造建築の楼閣が残っています。楼閣の1階部分が前室、石窟が後室という構成になり、これを見たエアポートさんは、まるで「内陣礼堂造」のようだと感じたようです。前室が礼堂(外陣)、後室が内陣という空間配置であるという、ひとつの可能性を感じさせるものでした。また、第5窟の仏像は雲崗石窟の中で最も大きく、高さ17.7メートルもあります。第6窟には中心に巨大な塔があり、こちらには仏陀生誕から涅槃までの物語や大小様々な仏像約3000体が彫られていました。

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  1. 2009/09/05(土) 00:22:04|
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七夕の会(Ⅱ)

五節句を楽しむ会 -民家の活用

五節句を楽しむ会 河本家に到着した朝、門前の看板がいきなり目に入った。そこには「五節句を楽しむ(七夕の会)」と書いてある。節句ごとに河本家では催しを開催しており、ちょうどその一つの節句、七夕にあたってしまったらしい。なぜ、8月の終わりに七夕とはこれ如何に。旧暦の七夕はおよそ一月遅れなんですね。
 実測や写真撮影に熱中していると、奥様が来られ、「人数が思ったより少ないからあなたたちも参加しときなよ。お昼もご馳走するから」と言われ、タクオさんと2人ホイホイと会場(母屋)のほうへ。本当は調査に専念するべきなのでしょうが、「民家の活用」を学ぶのもまた大切でして、ありがたく参加させていただくことにしました。
 参加者は15名程度。後半にはテレビ局まで取材にやってきました。山陰歴史館の職員の方が七夕の意味や由来などを解説され、住民の方から地域独特の七夕の風習がないかなど質問がありました。最後のほうには、ドレスアップした女性がきれいな歌声で「たなばたさま」と「赤とんぼ」を歌われ、『たなばたさま』はみんなで合唱しました。その後、お昼をご馳走になり、食後には抹茶までいただきました。ありがとうございます。
 今回、予想外の参加でしたが、初めて来たという若い女性からは「機会があればまた参加したい」とうれしい感想が聞けました。交流・情報交換の場としての民家の活用の一端を学べてよかったと思います。

河本家分家について

河本家分家1

 最後にタクオさんが調査した河本家分家について、簡単ではありますが、レポートしておきます。
 この分家は現在、空き家になっており、隣家がこれを管理されているそうです。このままでは、解体することになってしまいそうなので、何とか保存できないか、活用できないかという危惧があり、わたしたちに調査を依頼されたそうです。
 分家は旧街道を挟んだ本家の向かいにあり、棟を道路に平行にして町屋のようなたたずまいをみせています。享保2年(1801)に分家したという記録があるようで、所蔵の古文書には商工業者としての階層が伺える記載もあるようです。茅葺屋根を瓦葺に替えたのはだった40年ほど前。築200年とのこと。

河本家分家 (40)


 これまで民家の調査はほぼ加藤家に限られていましたが、河本家と周辺の民家に触れ、大きく視野がひろがりました。卒業研究にむけての貴重なマイルストーンになったと思います。
 お世話になった皆様に感謝申し上げます。

  1. 2009/09/04(金) 13:38:02|
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七夕の会(Ⅰ)

実測風景

 隠岐出雲巡礼の最終日に河本家住宅に立ち寄り、脇門と家相図の調査についてご快諾いただいたことはすでに報じたとおりである。。早くも、その日が来てしまった。
 8月29日(土)。加藤家住宅での第1回公開ワークショップが大成功をおさめた日の翌々日である。
 調査メンバーは、私(黒猫)、ナオキさん、タクオさんの3名。私は家相図の写真撮影と倉長家(河本家の隣家)の現状配置の調査、ナオキさんは河本家脇門の実測、タクオさんは河本家分家の調査を受けもった。

隣接する家相図

倉長家家相図封筒 家相図撮影のために、土蔵を改装したアトリエの2階を使わせていただきました。倉長家の家相図をひろげ、写真を撮り始めたのだが、どうやって真上からきれいな写真を撮るかが大問題。脚立の上に乗り、三脚を取り付けたカメラを家相図の真上まで伸ばし、セルフタイマーでシャッターをきる。写真を見てみると、結構うまく撮れていた。撮影の途中、倉長家のご主人から「二つの家相図は繋がるよ」と言われ、二つを河本家の繋げてみると、たしかに敷地境界線がピッタリと合った。二軒分の家相図は圧巻であり、めったにお目にかかれないものに出会えたと思った。

 倉長さんから旧街道や昔の敷地利用について教えていただいた。さらに母屋の話をしていると、「どおせなら家に来るか?」と誘われたので「是非、お願いします!」と即答し、タクオさんと3人で隣家に向かった。母屋は改装・増築がなされていたが、柱や梁は太い材が多く、式台なども残っていた。残念だったのは、倉長家でも河本家と同様、裏門が消滅していること。内部の調査をしたタクオさんは「倉長家を本格的に調査すれば、卒論として十分通用するものにできるだろうな」とおしゃってました。建物の歴史性、河本家との関連性を調べていけば、面白い論文になるのは間違いないでしょう。
  さて、2つの家相図を改めてみてみると、母屋に対する裏門の位置が同じであることに気付く。また、2つの家相図は、川合清丸という人物が描いたとされる。倉長家の家相図に「瑞穂舎撰」と記されており、瑞穂舎が川合清丸の号だということだった。裏門と家相図の関連性について研究していくためには、もちろん家相の基礎をしっかり学ばなければなりません。

2枚の家相図


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  1. 2009/09/03(木) 00:50:25|
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伯耆巡礼(Ⅳ)

13本堂横の岩窟01


円仁の風景(ⅩⅠ)-大山寺の岩窟と湧水

 弥山を満喫したASALAB一行は、脱兎のごとく山肌を駆け下りた。山陰独特の蒸し暑い真夏の天候も、山頂に登れば風が気持ちよく、日差しもどこかやわらかい。雲の向こうにひろがる神話の舞台は想像以上に美しく、皆すっかり酔いしれた。気づけば、時計の針は1時半をまわっている。今日は、日が暮れるまでに大山自然歴史館、大山寺、大神山神社奥宮を巡らなければならない。このミッションを成功させるために、学生はもと来た「夏山登山道」を降りて、閉館時間が一番早い大山自然歴史館を目指した。靴底に鉛をつけた先生は、直接大神山神社へ続く「行者谷コース」に針路を変更し、後に境内で落ち合うことにした。日差しが照りつける岩肌は乾燥して滑りやすく、ごつごつした石に足をとられた。それでも後半は走りながら石段を駆け下り、約1時間半で下山。無事、自然歴史館を訪れることができた。自然歴史館では植生や地形・地質を始め、大山の生い立ちや大山の山岳信仰の歴史などが紹介してある。今回は資料を調達する程度であったが、時間があればゆっくりまわってみたいところだ。トイレ休憩を済ませて息を整え、先生が待つ大神山神社奥宮を目指して参道を上がっていった。

10賽の河原01

 のどはカラカラ。1.5リットルのペットボトルも空っぽ。今夏の巡礼では、いったい何段の石段を上り下りするのだろうか。どうやらこの大神山神社の石畳は700mもあり、自然石を使った参道としては日本一だそうだ。登山後の疲弊した体には、あまりにもキビシイ。石畳の石と石の隙間に足をとられ、何度も転倒しそうになった。アシガルはあまりのしんどさに竹杖を突いている。それでも石畳の周囲は樹々に囲まれ、木漏れ陽が心地よく、苔むした石畳の脇を流れる清流に涼を感じた。手水鉢で口を清めると、疲れた体も少し回復した。
 大山寺から移築された唐破風の神門をくぐり、ふと境内を見上げると石段の先に先生がおられた。学生よりもほんの少しだけ早く奥宮に到着していたらしく、石垣に腰をかけて体を休めておられる。すっかり待たせてしまったと思った学生たちは最後の力を振り絞り、境内へとつづく石段を一気に駆け上がり、拝殿へと向かった。が、先生はまったく立ち上がろうとはしなかった。そして、一言。

   「高山植物の写真を撮ろうと思って、屈伸したら立てなくなっちゃった…」

 話をうかがうと、下山時に分かれた「行者谷コース」は、分岐点から1㎞ばかり急峻な行者道が続き、下山時は「足が嗤う」状態をはるかに超え、「足に激痛が走る」状態の連続だったという。私たちが下山し自然歴史館に入ったころ、先生はちょうど「賽の河原」(↑)におりたところで、そこから奥宮まで1.5㎞と記す道標をみたとき、いったいあとどれだけかかるのか想像できなかったという。しかし、「賽の河原」を越えると、沢沿いの比較的なだらかなコースになり、なんとかかんとか奥宮に辿り着いたばかりで、いったん座り込むと動けない、というのが真相だった模様。

12奥宮


1.大神山神社奥宮

 明治八年、神仏分離・廃仏毀釈による大山寺号廃止にともない、大智明大権現の社殿を大山寺より分離し、この社殿を大神山神社奥宮としたもので、大己貴命(大国主命)を祀っている。元の社殿は1653年に建立されたものだが、1769年に火災で焼失。現在の建物は1805年(文化2年)に再建されたもので、拝殿・本殿を幣殿で結び、拝殿の両側に長い翼廊をつけた、壮大な権現造だ。幣殿内部は畳敷で63畳もの大空間がひろがっている。組物は出組を用い、柱・梁・長押などほとんどすべての部材に彩色が施されており、格天井には花鳥人物が描かれていて、豪華を極めている。
 先生は先に奥宮に到着した際に、すでに拝観をすませていたらしく拝殿で宮司さんとお話をしておられた。 一方、学生は、奥宮で拝観をすませると、畳に根をはって動かなくなった。登山後の畳は格別で、色彩豊かな空間に包まれながら一行はしばし休息。それでも今日は急ぐ旅! 奥宮の隣にある八棟造・権現造の摂社・下山神社(文化二年↓)をぐるりと参観し、大山寺本堂を目指した。
 さて、先生は祭神・大国主命と権現造の関係を訊かれたそうですが、廃仏毀釈の影響からか、宮司さんは「このあたりが(日本における)仏教の起源地なんでしょ」と発言されたそうです。先生から「意味が分かるか?」とあとで質問されたのですが、さっぱり分かりませんでした。あとで説明をうけた内容を要約しておきます。

DSC_3952.jpg 神道というのは、日本古来の宗教のように思われているが、じつは天武・持統朝(7世紀後半)ころに「作られた宗教」である。当時、日本最初の都城「藤原京」が誕生し、中国的な律令制度が日本全国を支配し始めた。仏教はそれよりも前の欽明朝(6世紀前半)に日本に伝わり、普遍性をもった宗教として日本に浸透し始めるが、このような仏教・都城・律令などの外来文化の波及に対する反動として「神道」が組織化されたという見方が有力である。とすれば、仏教は神道よりも古くから日本に根付いていた宗教ということになる。奥宮の宮司さんは、そのことを暗示しながら、しかもその起源地が山陰あたりにあると遠慮気味に言おうとされていたのであろう。そしておそらく、ここにいう仏教とは、百済から欽明朝に伝えられた正式な仏教ではなく、民間レベルで大陸から伝わってきた山岳仏教のことを言っているのではないか。

11下山神社01


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  1. 2009/09/02(水) 00:30:18|
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大王の旗

 1年ぶりの北京で、また北京飯店のラウンジにしけこんでます。北京飯店はラッフルズ・ホテルの傘下におさまったようで、英文名称が Raffles Beijing Hotel となっていることにいま気づいたところです。今回の目的は、山西省の仏教建築遺産を訪問することです。メンバーは、わたしのほかにタクオ、エアポート、部長、黒帯の4名。さきほど北京飯店内にある日本料理店「五人百姓」で昼食をいただき、いま4名は故宮参観中です。

 わたしは一人、荷物の番人。夕方、北京駅から列車で大同に向い、五台山、太原を経由して7日に北京に戻り、8日夜に帰国の予定です。

 下は今朝の中華民航便で頂戴した「環球時報 GLOBAL TIMES 」紙。ご覧のように、鳩山由紀夫次期首相の顔が1面大写しになっています。どうぞクリックしてください。画像が爆発的に大きくなりますので。大見出しだけ訳しておきましょう。

   日本は「大王の旗」を換えた!

 「大王の旗」か・・・なかなか上手い表現ですよね。記紀にいう「大王(おおきみ)」とは天皇のことですからね。これまでは自民党が天皇の「旗」だったわけだ。その旗が民主党に換わった。なるほどね・・・・いうまでもなく、日本における天皇(大王)は「国家の象徴」ですから、ここにいう「大王」は「国家(権力)」の暗喩なのでしょう。
 さきほどラウンジの小姐にこの1面をみせて、「知ってる?」と訊ねたら、首を横にふられてしまいました。だから、説明したんです。日本に革命がおきたんだ、「解放」されたんだって。日中友好にとっては、自民党より民主党のほうがずっとよいんだってね。
 彼女たちにしてみれば、どうでもよいことなんでしょうが。 

 そうそう、iPod もってきたんですよ。わたしのことだから、どこかに落としてなくしてしまうこと必至だとご心配の向きもあるでしょう。とりあえず、スーツケースの鍵と同じホルダーにつないでおりますが、両方なくしちゃったら話にならんわね。
 いま、ノーマン・ブラウンをがんがん鳴らしながら、この雑文を書いてます。

 ではまたいずれ。

01環球時報


  1. 2009/09/01(火) 17:00:32|
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asa

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