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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

晋の道-山西巡礼(Ⅹ)

聖母殿全景


太原の晋祠

 9月7日(月)、中国での調査旅行も残すところあと2日となった。初めて訪れた中国という国の文化に触れ、そのエネルギーに圧倒された旅ではあったが、調査旅行の中心となった山西省内にいるのも残りわずかである。
 この日は、園林風の祠廟建築「晋祠」(全国重点文物保護単位)と北斉(550-577)に掘削造営された「天竜山石窟」を訪れた。その後、太原駅から電車で北京まで戻る予定だ。 
 太原市内で一泊し、前日の夕食で一人あたり21個の餃子と、生ニンニク2片をたいらげた一行は、お互いの香りを気にしながらホテルを後にした。相変わらず冴えない天候の中、車に1時間ほど揺られて晋祠へとたどり着く。

 晋祠の創建年代は明らかになっていないが、最も早い記録としては、北魏(386~534)の文献に記載があるという。先祖を祀る霊廟であり、もとは周(前11世紀~前771)の創始者である武王の次男、唐叔虞を祀るために創建された。その後、幾度にも重なる修復、拡張がおこなわれ、現在は区画内に100余りの殿堂楼閣が軒を連ねている。
 とりわけ献殿(金)、聖母殿、魚沼飛梁(いずれも北宋)は「三大国宝建築」と称され、多くの建築群の中にあって突出した位置を占めており、それらは晋祠大門を入った正面の中軸線上に配置される。
 大門をくぐると、まず正面に見えてくるのは「水鏡台」である。明代に初建され、清の道光24年(1844)に再建された。これは舞台としての機能を備え、正面は聖母殿と相対している。一見、背面の単層裳階付の入母屋造重檐と、舞台となる単層巻棚式の入母屋造を併列させた双堂のようにも見えるが、ガイドブックによれば、舞台側は清の乾隆年間(1736-1795)に増築したようである。
 水鏡台を過ぎ、春秋時代の濠の上に架かる金人台、対越坊(牌坊)を抜けると献殿が見えてきた。

献殿概外観献殿内観 「献殿」は母を祀る聖母殿に供物をそなえるための施設として金の大定2年(1168)に建立された。間口3間の単層入母屋造で、構造は2重梁上に豕叉首を組んで棟木を支える。また、軒桁から母屋桁に架ける追い叉首も見受けられた。組物は内外とも二手先で、柱上と中備の部分で形式が異なる。どちらも尾垂木二本付に見えるが、柱上のものは手先方向の肘木の先端を木鼻状にしたものである。中備は尾垂木が下側のみで、上側は尾垂木風の彫刻を施した肘木となっており、尾垂木は内部の母屋桁まで達して桔木(はねぎ)のような役割を果たしている。天井のない化粧屋根裏だから、天秤式に軒を支える構造がよく理解できた。

魚沼飛梁R0017180_20090915184652.jpg 献殿からは「魚沼飛梁」を介して「聖母殿」の全体を見渡すことができる。古来、中国では円形の水溜りを「池」、方形のものを「沼」と呼んでおり、ここにいう「魚沼」とは、方形の池を指している。また、「飛梁」は橋の形状が翼をひろげる大鳥に似た姿にみえることで、この名がついたのだという。魚沼飛梁とはその名のとおり、魚沼に飛梁(架橋)を架けた姿をあらわす。当初の造営年代はあきらかではないが、北魏の頃から存在しており、現在の遺構は聖母殿建立の北宋天聖年間(1023-1031)と同時期と聞く。
 魚沼の中心部は方形のテラスのようになっており、四方を対岸と結ぶことで十字型の平面をもつ橋となっており、どこか浄土曼荼羅(変相図)の構成に似ている。構造は、水中から大面取の形状の石柱を立てて頭貫でつなぎ、柱上に木製の大斗と秤肘木をのせて梁を支える。また石造の高欄の平桁と地覆のあいだには、法隆寺金堂・五重塔などにも見られる卍崩しの文様が施されていた。卍崩しの文様の浮彫は雲岡石窟でもみたので、遅くとも南北朝に起源する意匠であるのは間違いない。
 魚沼飛梁を渡ると、眼前には一際大きな廟堂が姿を見せる。「聖母殿」である。

魚沼飛梁と聖母殿




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  1. 2009/09/18(金) 00:47:13|
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