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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

推定「卑弥呼の館」の復元をめぐって

01巻向ブログ01背景付

 奈良県桜井市教育委員会が発掘調査中の纒向(まきむく)遺跡で、邪馬台国の女王、卑弥呼の居館とも目される超大型建物(約240㎡)が出土した。纒向遺跡は一部の考古学研究者が早くから邪馬台国の最有力候補地として注目してきたが、前方後円墳の出現期にあたる3世紀前半(弥生時代終末期~古墳時代初期)に超大型の建物が存在したことで波紋をなげかけている。
 わたしは11月2日(月)、纒向遺跡の発掘調査現場を訪れ、調査担当主任から丁寧な説明をうけ、さらに最新の情報を描き込んだ2枚の調査図面をご提供いただいた。以後、鳥取環境大学建築・環境デザイン学科浅川研究室は纒向遺跡の超大型建物の復元に取り組んできた。
 わたしたちが今回の建物復元にこだわってきたのは、青谷上寺地出土建築部材の分析が未だ十分なされていない、という認識をもっているからである。ここではっきり述べておくが、本研究の目的は纒向の超大型建物が「卑弥呼の館」であるか否かを検証することではない。いまや青谷上寺地の建築部材なくして弥生建築の復元は不可能であり、今回の研究目標も、青谷上寺地の部材をできるだけ多く用いて、弥生時代から古墳時代への移行期における超大型建物の構造・意匠を復元するとどうなるのか、という点に主眼をおいている。幸い、纒向遺跡の超大型建物の柱穴から復元される柱径は約30㎝と細く、木柄が小さく繊細な加工に特徴がある青谷の部材を適用するにふさわしい遺構と判断している。
 要するに、この研究は2006年の「弥生時代最長の柱」、2007年の「弥生時代最長の垂木」による弥生建築復元研究の延長線上にある応用研究であり、弥生建築研究の最前線にあるものと位置づけている。

01巻向ブログ02遺構配置図


1.遺構の出土状況

 超大型建物跡は南半を6世紀の溝で削平されており、厳密にいうと桁行4間×梁行2間分しか検出されていない。そのような遺構を桁行4間(19.2m)×梁行4間(12.4m)とみなす根拠を調査主任に問うたところ、西側で検出された棟持柱の柱穴が縦長形状であり、近接棟持柱の掘形である可能性が高いのだと答えられた。たしかに他の柱穴は梁行方向(南北)に長い形状を呈しているのに対し、近接棟持柱穴だけが、それに直交した東西方向に長い形状をしている。この柱穴を近接棟持柱とみる意見にわたしは賛成であり、棟通りを対称軸として梁間が4間に復元しうるという考え方にも賛同したい。
 おそらく後世の掘削が激しかったのであろう、柱や床束を納めた掘形の深さは20㎝程度しか残っていない。ただし、東北隅の柱穴のみ2段掘りにしていて深さ約70㎝を測る。2段掘の深い部分は直径35㎝前後であり、この点から柱径は約30㎝に復元される。
 桁行方向の柱間寸法は約4.8m。柱間の中点に床束の痕跡が整然と並ぶ。梁行方向の柱間は約3.1m。

01巻向ブログ02遺構平面図


2.平面の復元

 床束が柱穴と平行に並んでいることから、当然、高床建物に復元される。上屋の外観については不明だが、奈良県寺口和田1号(5世紀前半)、岡山県法蓮37号墳(5世紀中期)、大阪府今城塚古墳(6世紀前半)などで出土した入母屋造の家形埴輪を復元モデルとして考察した。
 寺口和田や法蓮の家形埴輪のようなシコロ葺き入母屋造は、急勾配の大屋根とゆるい勾配の庇屋根に分かれている。これを超大型建物の平面にわりあてると、中央の2間×2間が身舎(もや)で茅葺、まわりの4面が板葺(もしくは樹皮葺き)の庇に復元できる。古代建築の間面記法を使うなら「2間4面」の平面である。
 ここでまず注目したいのは、超大型建物の正面が偶数間であるということ。正面が偶数間の建物は8世紀以降少なくなるが、古墳時代の大型建物は偶数間が主流を占めるようであり、飛鳥浄御原宮で発見された東西8間(約23.5m)×南北4間(12.4m)の大型建物も古墳時代大型建物の系列のなかでとらえることが可能かもしれない。
 偶数間の場合、中央に柱が立つので、その位置に階段を設けることができない。では、どこに階段があったのか。今回、わたしは思い切って4隅に切込階段を設けることにした。一つには、縁束の位置が妻側の柱から2.4m離れており、階段の勾配を45度と仮定すると、床高2.4mとなって、高床としてはちょうどよい高さになる点に目をつけていた。
 しかし、なにより意識したのは紫宸殿の平面である。年中行事絵巻に描かれる平安宮紫宸殿は十字形平面をしていて、4隅に切込階段を備えており、その伝統は京都御所紫宸殿にまで受け継がれている。奈良時代における紫宸殿相当の建物は内裏正殿で、細見啓三氏は階段を復元建物模型の外側4隅に設けているが、隅間の柱間は15尺もあり、ここに切込階段を設けるべきだったとわたしは思っている。そういうわたし自身、長屋王邸宅正殿の復元にあたって、階段を外側に設けてしまったのだが、やはり隅間が異様に長く(発掘当初は14尺で後に15尺に修正)、そこに切込階段を設けるべきだったと悔やんでいる。なお、奈良時代における十字形平面住宅の例として藤原豊成板殿があり、それは後の寝殿造の正殿(寝殿)にあたる貴族住宅の一部とみられる。

01巻向ブログ03復元平面図


3.屋根の復元

 桁行柱間寸法(約4.8m)と梁行柱間寸法(約3.1m)が著しく異なること、そして、近接棟持柱が存在することから、常識的には超大型建物の屋根は切妻造に復元すべきだと考える研究者も少なくないであろう。しかし、それでは格式の高い入母屋造の家形埴輪に近づくことはできない。それでは、法蓮37号墳家形埴輪のようなシコロ葺き入母屋造の屋根をどのようにしたら作ることができるのだろうか。
 桁行と梁行で柱間寸法が1.7mも異なる建物の柱筋にあわせて垂木をまわすと、「ふれ隅」になって庇屋根が不恰好きわまりない。そこで、妻側の柱筋から3.1mの桁上に大瓶束を立て、束上に梁・桁を載せれば45度方向に隅垂木を渡せる。この構法により、妻側は全面扇垂木、平側は大瓶束よりも外側の隅間のみ扇垂木、中央2間は平行垂木になる。これで真隅(45度)の綺麗な庇屋根ができあがる。
 庇屋根は板葺きとした。青谷上寺地遺跡でおびただしい板材が出土しているが、これまで厚めの材を床板、薄めの材を壁板に採用したにとどまっている。今回、改めて板材を観察しなおしたところ、厚さ1cmで、長さ1~1.6m、幅19~24cmの材を複数確認できた。木舞と結ぶ穿孔も残っている。こういう厚さの板で葺く屋根を「トチ葺き」と言う。現代のトチ葺きは上面がたいらだが、3世紀前半という時代を考慮し段葺きにした。
 板葺庇の4隅にできる降棟については、寺口和田1号墳の家形埴輪にきわめて装飾的な表現がみられるが、斜め方向からの写真しか入手できなかったので、今回の復元では単純な箱棟とした。
 大屋根は家形埴輪に倣って外転びのある切妻造とする。今城塚をモデルにして、棟木を内転びの近接棟持柱で支える。この場合、近接棟持柱は庇屋根を貫いてしまい、雨仕舞いに難があるけれども、柱と屋根の接点で雨が漏っても柱を伝って水は外向きに流れる。あるいは庇に水が落ちてくるだろうが、床をスノコ縁にしておけば地面に水が落ちていく。

平側断面-階段つき2


 大屋根の棟は杉皮で覆い、千木で押さえる。千木の形状は群馬県駒形神社埴輪窯跡出土の家形埴輪を参考にした。その形をみると、笄(こうがい)にあたる材を板状千木の上側から刺し込んでいる。押しピンのような形をした栓である。こういう「蓋つきの栓」が青谷上寺地では大小さまざま、おびただしい量で出土しているが、その用途が不明だった。今回、屋根勾配にあわせた傾斜をもつ蓋付きの栓が確認された。
 破風板も青谷上寺地出土の板材を応用した。わたしはこれまで青谷の出土材に破風板が含まれるのか疑問視してきたが、『青谷上寺地遺跡出土品調査研究報告4 建築部材(考察編)』(2009:p.76)で渡辺晶氏が3枚の板材を破風とみる解釈を示している。渡辺氏の復元では屋根勾配がゆるく、板葺か樹皮葺の破風としか考えられないが、左右の破風の交差点に△の隙間ができており、わたしは氏の「破風説」を支持していなかった。しかし、今回、勾配を茅葺屋根にあわせて45度以上にすると、交差点にできていた隙間はなくなった。青谷上寺地出土の材が茅葺屋根の破風であることが実証されたといえるだろう。
 茅葺については、これまでの弥生建築復元では、穂を下にして葺く「逆葺(さかぶき)」を採用してきたが、今回は葺厚を厚くするため「本葺」を採用した。当初は厚さ60cmを想定していたのだが、そうすると破風が大きくなりすぎて不恰好にみえるので、葺厚を40cmまでおさえた。逆葺のまま厚さ30cmでよかったのかもしれない。

ブログ10makimuku.4

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  1. 2009/11/11(水) 00:00:00|
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asa

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