四万十川の清流 というわけで、今年も大晦日を迎えました。わたしの誕生日でございます。山羊座のO型、大晦日生まれのわたしは、いま四国を放浪中。なんて、真っ赤な嘘でして、3日前に旅から帰り、奈良で新年を迎えようとしております。
自分でもおかしな男だと思いますね。鳥取という日本を代表する田舎で日々生活しながら、旅にでてもまた田舎めぐり。ヨーロッパを旅しても、東南アジアを旅しても、中国を旅しても、日本国内を旅しても、いつだってわたしの神経は辺境に向いている。今回のターゲットは1年前に重要文化的景観に選定されたばかりの四万十川。以下に示す5つのエリアが同時に選定されたことで注目を集めました。
A.四万十川流域の文化的景観・源流域の山村(高岡郡津野町)
B.四万十川流域の文化的景観・上流域の山村と棚田(高岡郡檮原町)
C.四万十川流域の文化的景観・上流域の農山村と流通・往来(高岡郡中土佐町)
D.四万十川流域の文化的景観・中流域の農山村と流通・往来(高岡郡四万十町)
E.四万十川流域の文化的景観・下流域の生業と流通・往来(高知県四万十市)

12月に入ってから情報を集め、さてどういうアプローチで四万十川を攻めようかと結構悩んだのですが、高知からではなく、松山から宇和島を経由するのが最適であると判断しました。宇和島については、昨年、部長・ヒラ・リラックマの女子大生トリオが重要文化的景観「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の
段畑」と重要伝統的建造物群保存地区「
内子町八日市護国」を視察してレポートを書いてくれましたが、 2009年12月8日に西予市の「宇和町卯之町」が重要伝統的建造物群保存地区に選定され、ぜひみてみたいと思うに至ったのです(こちらは新年にレポートします)。そして、愛媛の宇和島から高知の四万十までそう遠くないことが分かり、「ホテル星羅四万十」という絶好の宿泊地を発見。四万十市西土佐のホテルは重要文化的景観E地区の流域にあって四万十川に隣接し、テナガエビやアオサのり、アマゴなど川の味覚をふんだんに味わえます。
レストランで朝食をとっているころ、窓外には靄のスクリーン。一面の視界が閉ざされ、四万十川はまったくみえません。少し憂鬱になって「いつもこうなんですか?」とウェイトレスさんに訊ねたところ、「晴れる日の朝はいつもこうなんです」とのお返事。期待に胸はふくらみましたね。果たして、レンタカーでのドライビングを始めるころから、ゆるりゆるりと靄が晴れていきました。その靄が晴れ間といれかわる境界の時間に幽玄な風景があらわれます。靄がうごめいてたなびく雲に変り、晴れ間の陽光が「日本最後の清流」に反射する。
[四国の文化的景観を往く(Ⅰ)]の続きを読む
- 2009/12/31(木) 04:14:59|
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コアの完成にむけて12月25日(構造補強3日目)
24日に引き続き、納戸の構造補強をおこなった。押入風コアの格子を取り付け、この部分は合板を取り付けるだけとなった。この日、新たに取り掛かったのは南側(厠側)の間口一間の障子部分だ。ここは、構造用合板で障子の半分を塞いで耐震壁に変える。合板によって片側の塞がれた障子は不格好なので、廊下側から見れば引き違い障子が2枚納まっているよう見えるように工夫した。廊下の先には厠がある。人が頻繁にとおる廊下なので、廊下側から合板が見えないように、敷居と鴨居を廊下側に出して合板を隠すことにしたのだ。廊下の幅が敷居分だけ狭くなるが、歩行を邪魔するほどではない。

敷居・鴨居の取り付けにかかるため柱間寸法を測っていると、柱の傾斜があきらかになり、部材加工に苦労することになった。障子自体はほぼ長方形なのだが、柱間は楕円形に変形している。敷居・鴨居のために両脇にも縦に柱状の材を取り付け枠を制作するのだが、その枠は障子にあわせることにした。柱と角度が違うので若干違和感があるかもしれないが、障子に加工を施すより新たに取り付ける枠を障子にあわせるのが良いと判断した。障子や柱などの古材に極力触らないようにすることが、保存修復のあり方として相応しいからである。
敷居・鴨居を制作していたとき、廊下の下の大引きが外れていることが問題になった。大引が外れているため、廊下の水平が保たれておらず、枠が設置しづらい。そこで、廊下の板を一枚めくり、外れている大引と土台を元に戻すことにした。土台はひどく腐蝕していたが、土台を持ち上げ西側の正常な状態の土台に繋ぎあらせることで問題は解決した。土台の差し替えも考えたが、それをするためには大規模な修復工事が必要となってしまうので、今回は元に戻すまでとする。
土台を元に戻したことで、納戸と奥座敷をつなぐ廊下が問題なく通れるようになった。ただ、板の強度がやや不安な箇所もあるので、体重を気にしている方は注意が必要かも??
障子の枠や半柱を作っていると、あっという間に陽が落ちてしまった。本日の作業はここまでだが、明日、鴨居・敷居の取り付けをおこない、合板を貼り付ければ完了となる。
[納戸にコアを作る-構造補強(Ⅱ)]の続きを読む
- 2009/12/30(水) 12:49:59|
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12月20日、卒業研究の参考になればとエアポート、アシガル、武内、私の4名で三徳山を考える鳥取県・鳥取大学合同シンポジウム「信仰の山-三徳山の世界」に参加してきました。私の卒業研究にも大きく関わる三徳山や山岳信仰、修験道の話まで専門家が実際に講演されると知り、このような機会を逃すまいと倉吉へ向かったのです。
シンポジウムの次第を紹介します。
会場 倉吉未来中心 セミナールーム3(定員195名)
プログラム
13:00~13:15 主催者あいさつ
13:15~14:35 特別講演:「三徳山-人と自然のいとなみ」 山折哲雄潤ツ
14:45~16:55 パネルディスカッション:「自然と人々の信仰からみた三徳山の姿」
コーディネーター 濱田竜彦
パネリスト 山本義孝、永松 大、山本邦彦
総括 山折哲雄
16:55~17:00閉会のあいさつ
まず、山折先生の特別講演では山岳信仰の成り立ちについて話されました。昔から、日本では死者の魂は抜け出て山に登っていき、やがて神になると信じられ、魂の行方に大きな関心が持たれていたといいます。山の世界はあの世、麓の世界はこの世で、そこを行ったり来たりするのが、死者の魂だと考えられていたのです。やがて、6~7世紀に仏教が伝来し、その影響を土着の神信仰が受けました。
その頃、太陽が沈む方角の西には生命の衰え、季節の衰えを象徴する魂の集合世界があるという信仰が世界中に存在していて、西のほうに浄土があるという理解がされていました。インドでも無限大という思想が発達しており、西の無限の彼方に浄土があるという考えでした。日本に仏教とともにこの考え方が伝わってきましたが、日本人にはこのように抽象的な「無限大」などの考え方を感じ取ったり、理解することが難しかったようです。そこで、日本では浄土はそのような彼方にあるのではなく、自分たちの生活圏を取り巻く山々にこそ存在すると読み替えていきました。ここで、インドにはない、国土のほとんどが山岳地に囲まれている日本ならではの山中浄土という考え方が生まれたのです。
また、仏教が伝わる際にインドの観音は男でしたが、中国そして日本に伝播するにつれて女性に近づき、やがて子供を抱いた母子神信仰に結びつきました。山岳信仰はこれ以降、母子神信仰により家族の絆、特に母と子の絆を重要視していた側面もあったようです。
この話を聞いて思い浮かんだのは、摩尼寺の竜女伝説です。この伝説では、帝釈天は男であるにも関わらず、産見長者の娘が帝釈天に変化したと描かれているので、どちらかというと女性的な印象を受けます。長者夫婦が所在知れずになった娘を必死に探したという記述も家族の絆を感じさせます。何か、観音が変化しながら伝わるプロセスと竜女伝説の成立が時期的に結びつきそうな気がしたのですが、どうでしょうか。
[シンポジウム「信仰の山-三徳山の世界」に参加して]の続きを読む
- 2009/12/30(水) 00:00:51|
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生きている景観 12月18日(土)~19日(日)、奈良文化財研究所が主催する第2回文化的景観研究集会に参加してきました。会場は研究所に隣接する奈良県歯科医師会館講堂で、全国各地からおよそ200人の方が集まりました。
昨年度おこなわれた第1回研究集会のテーマは「文化的景観とは何か? その輪郭と多様性をめぐって」でした。今回のテーマは「生きたものとしての文化的景観 変化のシステムをいかに読むか」選定済みの重要文化的景観やこれから取り組みを始める地域など、実際の活動に携わっている方々から、そのエリアの文化的景観について何を評価したのかなどを具体的に聞くことができ、とても興味深かったです。
今回の研究集会では「変化」が大きなテーマでした。これまでの文化財は「不変」のものを変更しようとすると強い規制をかけていましたが、文化的景観はそもそも生活や生業を含み、変化を含むものとなっています。この変化をどうとらえるのかということが議論の中心となっていました。報告の中では、土地利用やその土地の歴史の重層性、建物などの目に見える「有形のもの」と人々の記憶などとして受け継がれてきた「無形のもの」をキーワードに据えて変化をとらえていました。
特に印象深かったのは、先日12月11日に重要文化的景観に加えることが答申された長崎県の「平戸島の文化的景観」です。平戸島の文化的景観は、島という地形を生かして棚田などの農地や居住地を形成した集落景観を示すと同時に、隠れキリシタンを含む様々な信仰が融合して生まれた独自の伝統に基づく、社会的・空間的特性を示すものとなっています。ここでは、土地の変化を追っていくなかで、現在に残る土地の利用方法や記録されている昔の姿の他に、信仰のなかで聖地とされている場所などの無形の要素を加えて、文化的景観の形成過程を把握していました。ただの山と集落の位置関係という有形の要素だけではなく、聖なる山とそれを信仰する人々との距離感などという無形の要素を合わせて、その土地のもつ歴史と変化をとらえています。
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- 2009/12/29(火) 00:00:34|
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↑納戸構造補強前
12月23日より加藤家住宅構造補強の工事が始まった。
そもそも、なぜ構造補強が必要となったのかというと、建物自体の癖によって軸組が修理前と同じ反時計回りの回転を少しずつ始めたためだ。構造補強を施さなければ、今後一層回転が進み、柱の傾斜がひどくなる可能性が大きい。今年調整しなおした建具がまた使えなくなる状況がおきくると予想される。
この問題については、2006年修理工事の段階から問題化しており、土間側には補強柱を1本立てて四角い「コア」構造を作り、変形をとめることに成功した。しかし、反対の座敷側は意匠上重要なスペースであり、安易に構造補強してしまうと空間の質をおとしめてしまうと危惧され、手つかずの状態だったのである。第2回公開ワークショップにおけるプロ・グループの課題は、座敷側の構造補強をどうするか、に焦点がしぼられていた。ワークショップでは文建協の安田主任技師から積極的な提案をうけた。やはり座敷側にコアを設けると、室内外の景観を損なうので、表側は現状のままとし、背面の納戸に隠れたコアを作ろうという絶妙のアイデアが提示されたのだ。もちろん、構造補強もローコストでおこなわなければならない。そのため、構造用合板(厚いベニヤ板)を用いて箱状の構造物を作ることになった。もともと納戸は改変が大きく、古材の残りもよくないので、新しい梁材の下に柱を立てて西側半間と南側一間に合板をはめる。西側の敷居境には半柱をたて横桟でつないで、その両側に合板をうちつける。南側は古い柱とつないで同じ方法で合板をはめていく。いずれも立派な耐震壁である。さらに西側の両開き障子は敷居を廊下側に出して目隠しとし、その内側半間は同じ合板壁にする。これも耐震壁である。こうして壁の面積を増やして水平剛性を高め、これ以上軸部の変形が進むのを防ごうという考え方である。
なお、構造補強すると、視覚的なマイナス要素となると思われるかもしれないが、廊下側からは障子と木舞壁しかみえない。補強前とまったく景観が変わらないのである。内側は居住スペースに凹みができるが、その凹み部分はじつは押し入れ風の収納スペースとなっているので一石二鳥の効果がある。
12月22日には先生を交えて、池田住建さんと最終の打ち合わせをした。構造用合板は部屋側を真壁にし、押入れとなる面は、大壁にすることになった。現在、木舞壁となっている部屋の角の壁は構造用合板で内壁部分を覆うことにした。そうすることでより構造的な強度が得られる。南側の障子は廊下側に新たに敷居・鴨居を作り、壁の外側に障子を納める。敷居は現在あるものをずらすことにしたが、鴨居は新たに付け足すことになりそうだ。

12月23日は部材の表面を何種類ものカンナを使って削り、寸法を合わせることから始まった。余談だが、ヒノキや杉の削りカスなどが大量に出たので、袋に取っておきイロリ・カマドの燃料として保存する。この日は他にも残っていた板間中央の建具の正や裏木戸の指導などをしていただいたので、半日の作業となってしまった。翌日の準備にほとんどの時間を費やした。
[納戸にコアを作る-構造補強(Ⅰ)]の続きを読む
- 2009/12/28(月) 00:32:04|
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雪が積もり、寒さが一層増してきました。冬至も向かえ寒さの厳しい時期になってしまいましたが、23日の天皇誕生日から軸組の構造補強が始まる。加藤家住宅修復プロジェクトは大詰めに差し掛かり、他に妻壁の中塗り、裏木戸の復元、一部の建具修理を残すのみとなった。
構造補強を翌日に控えた22日(火)、まず建具の修理が始まった。第2回ワークショップの際、歪んでのびた板戸の一枚板を池田住建さんに預け、矯正をお願いしていたのだが、そのケヤキの一枚板がようやく元の板戸の框に納まった。さらに板戸がスライドしやすいように上下の框を削り修正し、左右の框にはオカムさんが残していった打物を取り付けた。ケヤはもともと変形しやすく、板だけでなく框(縦桟)も外側に湾曲していた。板は矯正したとはいえ、元の真っ直ぐの状態には戻らなかったが、前回見たときより断然平たくなっていた。
その板をはめ込んでみたところ、やはり長軸部分には隙間ができてしまった。枠自体が曲がってしまっているため、こればかりはどうしようもないとのことだった。しかし、一枚はめ込んで配置してみると、表具屋さんが「ケヤキの一枚板は良いもの」だとおっしゃっていた理由がよく分かる。扉自体の重厚感が良い。扉が重たいため開け閉めが大変だが、調整したことによって動かしやすくなった。敷居に蝋を塗ってやれば更に動かしやすくなるだろう。

板をはめる前(左) はめた後(右)
どうだろうか、ケヤキの建具をはめたことで、土間から奥の間を見るとまた室内の風景が変化したのがよく分かる。打物も後日古色塗をして目立たなくなれば、より空間の質が向上するのだろう。
池田住建からは2006年度の修復工事で大活躍された虎キチのNさんが来られた。建具の修理と構造補強はNさんお一人の仕事である。構造補強は3日ほどかかるが、その設計図はわたしが描いた。だから、工事の記録もわたしがとる。建具修理の後、先生とくっ付いてきた数名で構造補強の最終確認をおこなったが、その内容などはまた今度ということで、あしからず…。
次回は具体的な構造補強の説明と作業の内容をお届けします。明日以降、構造補強の記録も随時アップしていくのでチェックしていただけたら幸いです。(黒猫)
- 2009/12/27(日) 00:00:24|
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メリークリスマス!
みなさまはどんなイブを過ごされたでしょうか?
今日は、お久しぶりのガードが加藤家住宅裏門復元の進捗状況をレポートさせていただきます。
林業試験場での製材 12月16日(水)。裏門の建築部材となる木材を製材するために、ナオキさん、黒猫君、ガードが河原町の林業試験場に行ってきました。11日(金)に学内で池田住研社長さんとのミーティングした際、「墨入の前に製材しなければならない」とアドバイスをいただいていたからです。じつは学内のインテリア工房で製材を予定していたのですが、機材が十分でないという指摘をうけ、林業試験場で製材することになったのです。急なことでしたが、先生には文書を作成していただき感謝申し上げます。
林業試験場に到着して職員の方々に挨拶し、ただちに木材をトラックから積み降ろす作業に移りました。最初は手作業をしていたのですが、フォークリフトでヒョヒョイっとあっという間にトラックから降ろしていただきました。その後すぐさま製材が始まりました。大きくカットする材には機械丸ノコ、少ししかカットしない材には自動カンナを使って製材をします。機械丸ノコを私達が扱うのは危険なので補助を担当、自動カンナはカットする厚さを設定していただき私達で挑戦させていただました。
まず機械丸ノコを使い、大きくカットしていきます。ここでは私とナオキさんが補助をします。「芯、赤身を残して加工してください」とお願いしたところ、試験場の職員さんは「お安い御用」と言わんばかりにすぱすぱと切断していきます。大きくカットした後、自動カンナを使って仕上げの微調整をして大きい木材の製材が完了です。

次に少ししかカットしない木材を製材していきます。はじめに少しお手本を見せてもらって、実際に私達も作業に挑戦しました。自動カンナは意外にも簡単で、初心者の私でも上手く操作できました。しかも、プロが加工したかのように木材が美しく製材されていくので感動です。林業試験場の方にも「面白くてしょうがないだろう」と私の顔を見て言われていました。
午前中にはなんとか無事全ての製材が完了し、美しい木材に仕上がりました!
最後になりましたが、林業試験場の職員のみなさんには本当にお世話になりました。ありがとうございます。今後は、墨付けをおこない、加工に入っていく予定です。今の勢いのまま頑張って、年内までには仮組まで完成させたいです。(ガード)

左(製材後) 右(製材前)
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- 2009/12/26(土) 00:00:14|
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鳥取古民家修復プロジェクト委員会が展開している「セルフビルド&ゼロエミションによる民家の持続的修復」事業については、11月24日付けの中間報告書を文化庁に提出しましたが、「
NPOによる文化財建造物活用モデル事業」(文化庁)第2回委員会における「委員から意見」について連絡がありました。3月に開催される報告会でまとめてほしい内容等についてのコメントは以下のとおりです。
○
各班共通事項 1)文化財の通常時の利用状況や建造物と団体との関係を知りたい。
2)活動のPRではなく、事業趣旨(文化財建造物の管理の支援、活用の促進)に即した発表を期待する。
3)イベントをしたことによる効果の分析と今後の展望。
○
「セルフビルド&ゼロエミションによる民家の修復」事業についてのコメント 4)
修理を一般人が携われる部分と専門家がやる部分に分けて行うことに非常に可能性を感じる。 5)民家の修復についての情報を楽しみながらやる部分と技術的な部分に分けて発信してほしい。後者の例としては民家は地震に弱いと思っている人は多いが、こういう補強方法もあるといったようなことが発信できないか。
6)実際にローコストになりうるのかその検証を行ってほしい。
5)については、いままさに補強工事が始まっています。まもなく黒猫がレポートすることになっていますので、お楽しみに。6)はもう言うまでもありませんよね。今年のこの予算でこれだけの仕事をやっているのですから、圧倒的なローコストなんですが、個人情報については公開できませんのでご了解いただきたいですね。
なお、
事業報告会の日程は平成22年3月17日(水)午後からと決定しました。発表者と同行1名の計2名が東京にいくことになります。関東在住のOB諸君、同窓会をやりましょうか?
*「NPOによる文化財建造物活用モデル事業」による
第1回公開ワークショップについては、
こちら 第2回公開ワークショップについては、
こちらをご参照ください。また、平成21年度採択の21事業については、文化庁の
こちらのサイト に一覧が示されています。
[【文化庁NPOモデル事業】の中間評価]の続きを読む
- 2009/12/25(金) 00:56:39|
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驚愕のスケッチ 12月17日(木)。今回のプロジェクト研究では、パワーポイントによる初めての発表練習をおこないました。順番と内容は以下の通りです。
(1)序(2)摩尼寺「奥の院」(3)不動院岩屋堂
(4)岩屋山千手院(5)スケッチ(6)まとめ
今回の発表練習で、各自さまざまな課題が見えてきたので報告いたします。
序 センと呼ぶ山の分布が中国地方全体でみえてきたので、やはり日本全国で調べて分布図にしてみよう、ということになりました。これにより、須弥山(弥山)と共通する「セン」、すなわち古い呉音を残す山(仏教の聖山・修行地)の分布がより明確になります。また、東アジアの地図を使って仏教が日本に伝来した時代の流れを示してはどうかというコメントもありました。仏教伝来以前の固有の山岳信仰に「雑密」「神道」「純密」などが重なっていく経過を年表にするなど、内容の濃い部分になる重要な担当セクションとなりそうです。
摩尼寺・摩尼山 発表は仁王門・本堂・奥の院などを網羅していました。力作ではありますが、研究の焦点を絞るため、今回のプロジェクト研究に関わりの深い「立岩」と「奥の院」に焦点をしぼった発表にすることが決まりました。摩尼山全体については模式図で示し、細かい説明は龍女伝説や円仁再興伝承と係わりの深い「立岩」「奥の院」をクローズアップしていくのです。一方、竜女伝説に登場する円護寺についても調べておくことになりました。
不動院岩屋堂・岩屋山千手院 不動院岩屋堂と岩屋山千手院は関係性深い寺院なので、合同で発表することになりました。不動院岩屋堂については、今の発表では建築に視点が傾きすぎています。周辺環境や岩窟内の状況を織り交ぜることが大切だどいうアドバイスをいただき、視野をもっと広げなければならないと感じさせられました。この二つの寺院が関係あることに気づく契機となったのは、不動院岩屋堂管理人の方からいただいた資料と情報です。不動院と千手院は細い窟道で通じているという伝承があり、「岩屋堂」と「岩屋山」という名称もよく似ています。文献資料は少ないですが、ヒアリングやゼミの皆さんが測量し作成した図面、スケッチなどの材料をふんだんに利用して厚みのある発表になるように改善しなければなりません。
[第12回「修験道トレッキング-山の歴史をあるく」]の続きを読む
- 2009/12/24(木) 00:11:39|
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ポスターと予稿集が完成しました! 2月27日に開催するシンポジウム「大山・隠岐・三徳山-山岳信仰と文化的景観-」の正式なポスター(↑)と予稿集風チラシ(↓)が完成し、現在、各地に配布中です。年内に届くところもあれば、新年になるところもあるかもしれません。
予報1の段階とスケジュールが若干変わっています。講演者は同じですが、一人あたりの講演時間を少し長くしております。それでも討論・質疑時間は1時間以上確保できているのですが、その反動で、昼休みが50分しかとれなくなってしまったんですね。ちょっと心配ですが、倉吉からの情報によりますと、会場となる倉吉未来中心の内外にはレストランが多いとのことでして、なんとか凌げるのではないか、と楽観しております。
それでは正式な情報を以下に示します。
シンポジウム大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観
日時 2010年2月27日(土)10:00~17:00
会場 倉吉未来中心 セミナールーム3
〒682-0816 鳥取県倉吉市駄経寺町212-5 倉吉パークスクエア内
主催 鳥取環境大学 建築・環境デザイン学科
共催 鳥取県教育委員会
後援 鳥取県、倉吉市教育委員会、三朝町、三朝町教育委員会、大山町、
大山町教育委員会、三徳山世界遺産登録運動推進協議会、とっとり建築集団、
朝日新聞鳥取総局、毎日新聞鳥取支局、読売新聞大阪本社、産経新聞鳥取支局、
山陰中央新報社、中国新聞鳥取支局、共同通信社鳥取支局、時事通信社鳥取支局、
日本経済新聞社鳥取支局、新日本海新聞社、NHK鳥取放送局、BSS山陰放送、
日本海テレビ、山陰中央テレビ、テレビ朝日鳥取支局、日本海ケーブルネットワーク、
いなばぴょんぴょんネット、鳥取中央有線放送(株)、株式会社中海テレビ放送、
エフエム山陰
次第
10:00 開会挨拶 趣旨説明
第Ⅰ部 山陰の山岳信仰と建築遺産 10:10 報告1: 眞田廣幸(倉吉市教育委員会文化財課長)
「伯耆の山岳信仰」
10:50 報告2: 野本覚成(天台宗典編纂所編輯長・長昌寺住職)
「慈覚大師円仁が残した山陰の仏教」
11:30 報告3: 今城愛・大給友樹(鳥取環境大学浅川研究室)
「石窟寺院への憧憬 -岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流-」
12:10 昼食
第Ⅱ部 密教諸山と文化的景観 13:00 特別講演: 楊 鴻(中国社会科学院考古研究所教授
・中国建築史学会理事長・ユネスコ顧問)
「中国五台山の仏教建築と文化的景観」
14:15 報告4: 平澤 毅(奈良文化財研究所遺跡整備室長)
「文化的景観と世界遺産-『紀伊山地の霊場と参詣道』
『石見銀山』『平泉』などの事例から-」
14:55 報告5: 浅川滋男(鳥取環境大学建築・環境デザイン学科教授)
「複合遺産としての大山・隠岐・三徳山
-世界自然遺産ハロン湾との対比を含めて-」
15:35 休憩
15:50 討論・質疑
17:00 閉会
*シンポジウムに関する質問等は本ブログにメール・アドレス付でコメントしていただければお返事いたします。あるいは下記事務局に直接お問い合わせください。
事務局: 鳥取環境大学 建築・環境デザイン学科 浅川研究室
(担当:今城・岡垣・大給)

↑予稿集(左)表紙 (右)裏表紙

↑同上p.2-3「
楊鴻先生と語る」
*クリックすると、画像が拡大表示されます。
本シンポジウムの広報は、環境大学HPの「
お知らせ」にも掲示されています。
- 2009/12/23(水) 00:04:37|
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智頭枕田縄文遺跡の会から推定「卑弥呼の館」講演のチラシが届きました。ちょっと地味なチラシで広報効果を心配しておりますが、日本海新聞の「やまびこ」欄に広報関係の記事を投稿されたようです。
今回のお知らせを「第2報」としたのは、直前にだめ押しの「第3報」をアップしようと思っているからでして、今後変更はありません。なお、上のCGはアエラに大きく掲載されたものです。そろそろ使っても雑誌の売れ行きには影響しないだろうと判断しましたが、もちろん転載厳禁ですので、ご注意ください。
智頭枕田縄文遺跡の保存活用を推進する会 考古学講演会 主催: 智頭枕田縄文遺跡の会
後援: 智頭町教育委員会 鳥取県教育委員会 新日本海新聞社 鳥取環境大学
日時: 正月17日(日)午後2時~4時
会場: とりぎん文化会館 第2会議室
講師: 浅川 滋男
演題: 推定「卑弥呼の館」をめぐって
-青谷上寺地の建築部材による纒向大型建物の復元-
前回の公立埋文協の講演をさらにバージョンアップした一般向けの公開になります。もちろん未公開の復元CG連発ですので、お楽しみに!

↑クリックすると拡大表示されます
*この講演については、環境大学ホームページの「
お知らせ」コーナーでも紹介されています。
- 2009/12/22(火) 00:00:00|
- 講演・研究会|
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忘年会でiPod用スピーカーと真っ赤なiPodケースをバースデープレゼントされました。嬉しくないわけはないんですが、きっかわさんからスピーカーを手渡されたとき、ちょっと不安な顔してみせたことを学生たちは気づいただろうか??
音楽は(たぶん)わたしがこの世の中でいちばん好きなモノかもしれないのだけれども、前にも述べたように、
機械が苦手なのね。だから、小さなスピーカーを目の前にして、うまく使いこなせるかどうか不安で仕方なかったわけ。

2次会を終え、一人淋しい下宿に帰ってストーブに火を点けた後、乾いた洗濯物が山のように積み上げられた作業用デスクを片づけた。いうまでもなく、iPod用スピーカーをデスクの上に載せて操作するためなんだけど、やっぱり音が鳴らない。よく分からんのですよ。ACアダプターがついているのに、スピーカーの裏側に電池を納めるボックスがあって、蓋をとると単四電池4本入れるように指示してある。おまけに電池別売だって。家のなかから単四電池4本探し出すのは大変なんだな。もう、部屋中掃除する覚悟で整頓をはじめたら、みつかりましたね。単四電池が8本でてきた。
品名をよくみると、「iPod用スピーカー+充電」とある。この「充電」の意味もよく分からなかった。わたしはてっきり単四電池を充電してくれるものかと思っていたんですが、ありえませんよね。
車内で使うアダプターと同様、iPod本体を充電してくれるにきまってる。
電池を嵌めてから(電池は[たぶん]要らないだろうけど)さらに半時間以上費やして、なんとかかんとかスピーカーから音が出るようになりました。やっぱり嬉しかったね。音質の良し悪しは別にして(あきらかにヘッドフォンのほうが上です)、やっぱり嬉しかった。最初に流した曲はヨークの「
レッティン・ゴー」。何度聴いても良いな・・・魂が癒されます。
とりあえず、大学用に使ってみます。多謝!!
さて、ゼミのOB諸君からも続々お歳暮が届いております。今年もまた「北から来たの」さんより
デンドロビューム蘭が届きました。西河夫妻からは奈良に「寄鍋セット」、大学に「なだ万のカステラ」と「アサヒ・スーパードライ」の3連発。タクオさんからは家内の好物「エビスビール」等々。
みなさん、どうもありがとう!
- 2009/12/21(月) 00:00:13|
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こんにちは! きっかわです。
12月17日(木)、午後17時、ゼミ室にて………
朝日放送さんによる纒向遺跡建物群復元についての取材のはじまりです!
11月2日から始まって、続々とメディアを賑わせた纒向遺跡大型建物群の復元ですが、こんどは朝日放送さんのお正月のニュースで放送していただけることになりました。この日は夕方から先生がようやくフリーとなり、ゼミ室で図面作成作業中の風景を撮影していただいたのですが、やはりカメラの前だと緊張しますね……撮影スタッフの方に「いつも通りに」とは言われたものの、本を開く手もなんとなくぎこちない……。
最初に先生がパワポを使って復元に関するミニレクチャーをされたあと、いざ撮影へ。
先生、タクオさん、エアポートさん、部長さん、私で、図面作成場面と、青谷上寺地遺跡のデータベースから部材を照合する場面を撮影。青谷上寺地遺跡の出土建築部材を検索していて、あらためて青谷上寺地建築部材の出土量のすごさを実感……。復元作業中、このデータベースに助けられていましたが、振り返ってみてみると、7000点の建築部材、しかもこんなに多岐にわたった種類が出土されているなんて本当にすごい遺跡なんだなあ、と思います。
今回の復元について、そして青谷上寺地遺跡について話をしていたら、あっという間に時間がすぎて、図面作成作業の撮影は完了。
その後は、先生お一人で、今回の復元に関するインタビューを受けられていました。先生は、すらすらとお答えになっています……。さすがです。
こうしてテレビや雑誌で取り上げていただけることは、本当にすごいことだと思います。放映が楽しみでもあり、自分が映っていることを考えると照れくさくもあり。1月5日の放送予定とのことですので、是非ご覧になっていただけると嬉しいです! (3年 きっかわ)

*この取材については環境大学HPの「
TUESニュース」でも紹介されています。
[朝日放送「NEWSゆう+(プラス)」の取材]の続きを読む
- 2009/12/20(日) 00:24:28|
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先生は無茶苦茶です……面白いブログを書かなきゃ大変な事になるなんて。
12月15日(火)、研究室の打ち上げ兼忘年会が「たくみ割烹」で盛大におこなわれました。
「たくみ割烹」さんは、しゃぶしゃぶの原点と言われる「因伯牛のすすぎ鍋」を味わえる鳥取の名店。もちろん、いただいたのはしゃぶしゃぶ…否、「すすぎ鍋」の食べ放題!
それもこれも、推定「卑弥呼の館」で頑張ったみんなのおかげです。アーエラかった、AERA。みなさん本当におつかれさまです。
さてさて、今回久しぶりにブログを書くことになった私(武内)ですが、選ばれた理由が、
「武内はヒドイな、若桜街道に行けって言っても分からないんだから。
本当に鳥取の人間か? お前今日のブログ決定だ。」
申し訳ない。でも、若桜街道と智頭街道くらい分かりますよ? 分かってるつもりなんです。
「面白いブログ書かなきゃお前の秘密をばらす!ゴニョゴニョゴニョ……。」
なんて良い記憶力を持ってらっしゃる。半年前の話をなんとまあ。
そんなこんなで書かせていただきますが、やっぱり打ち上げは楽しいです。料理は美味しいし、皆も先生も上機嫌だし。「来年に向けての抱負」なんて言っちゃったりするし。
[「たくみ割烹」で Happy Birthday!]の続きを読む
- 2009/12/19(土) 00:18:25|
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1000円で買った
VANのギターを預けているlevanteさんから何度か修理状況に関するレポートを頂戴している。わたしたちは建築の修復家だが、levanteさんはギターの修復家だ。ブレーシング(筋交)とか構造補強とか、建築と同じ用語が頻出し、フレットやナットの解体修理が始まっている。大変な作業だとは思うけれども、文面の行間には楽しさが溢れている。ちょっとご紹介したい。
----- Original Message -----
Sent: Thursday, November 05, 2009 8:12 PM
Subject: Pearl のギターについて
(略)
さてギターですが、大変良く鳴っています。
チェックしたところ、以下の点で問題がありそうです。
1.フレットの減り 現状で既に音が詰まるフレットがあります。要全交換。
2.指板に塗装が乗っており、フレットを打ち替えるとそこの部分が剥げます。
塗装が必要でないなら、剥いでしまっても良いかと思うのですが、どうしましょう。
3.弦を外していないためブレーシングがどうなっているか未チェックですが、
腹が少し起きて、反作用としてホール側に沈みがあります。
このためブリッジがホール側に引っ張られオクターブが狂っています。
ボディを矯正してどうなるかしらというところですね。
上手く矯正できれば、弦高が0.5~1ミリ下がると思います。
フレットが今より高くなると、弾きやすくはなると思います 。
4.ナットは結構高いので一部修正すれば再使用可ですかね。
以上を矯正するのに、フレット代はかかります。(笑)
ナットは、フレットの高さ次第ですが、現状では随分隙間があります。
3弦の溝に牛骨を埋めてみて、詰まるようなら交換ってことですかね。
交換しても数百円かな。今のところかかりそうな費用は3千円ほどですが、
時間はちょっとかかりそうです。年末くらいまで時間をいただければ、
何とかなると思います。
指板の塗装の件についてはご希望をお聞かせ願いたいです。^^
また、弦を外してみてブレーシングがどうなっているか調べた上で
作業することになりますので、その部分に何か問題があればまたお知らせします。
>
> 思う存分リペアしてやってください。
>
> 塗装はがしてください。
> よろしくお願いいたします!
>
----- Original Message -----
Sent: Thursday, November 05, 2009 10:21 PM
Subject: Re: Pearl のギターについて
承知しました。
弦を外して内部画像を撮ってみたら面白いことが分かりました。
まぁ予想通りと言いますか・・・。^^;
ブレーシングが、横に一本しか入っていません。さながらウクレレですね。
鳴りが良いわけだ。^^
従って、そこを基点に持ち上がった分だけホール側が沈むと・・・。
センターにブレーシングを追加すれば沈みが小さくなりますので、
ちょっと考えてみます。
----- Original Message -----
Sent:Sat, 28 Nov 2009 11:25:51 +0900 (JST)
Subject: 進捗状況について
(略)
現在のところまでで表甲の矯正が終わり、構造補強を行い、
暫くの養生期間を取っていました。
今朝弦を戻してみて、先ほど弦高を測定したところでは、
12F6弦2.5ミリ弱、1弦2.2ミリ程度といったところで、
このまま落ち着いてくれれば問題なさそうなレベルです。
若干動くとは思いますので、構造補強が適切だったか暫く
このままにしてみて様子を見たいと思っています。
1週間ほどして問題が無いようなら、フレットを打ち換えたい
と思います。(フレットが抜けるか問題ですが・・・。)

↑補強前 ↓補強後
[VANギターの修復]の続きを読む
- 2009/12/18(金) 00:00:44|
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優勝の行方 日本代表に期待していないわけではないけれども、W杯において、WBCのようなドキドキ感を味わえるはずはないのでありまして、そこに期待をひろげても結局は落胆するだけじゃありませんか。やっぱり強豪同士の激突ですよね。どの国が32チームの頂点に立つのか。
巷では、スペインの評価が高いようですが、わたしはベスト8~ベスト4どまりだろう、と思っています。良い参考となるのがオランダですね。これまで、オランダは何度も世界最強のチームと評価され、ユーロも制してきましたが、W杯では勝てていない。クライフは準優勝、レンセンブリンクも2度準優勝、ファンバステンは16強、ライカールトはW杯になると不調この上なく、ダーヴィッツ擁するヒディンクをもってしてもベスト4どまりでした。今回のスペインもたぶんどこかで転びます。たぶん準々決勝のイタリア戦、遅くとも準決勝のドイツ戦で敗退するのではないか。いずれにしても、世界を制することはないでしょう。
なぜかって、W杯で優勝する国は開催国か優勝経験国に限られているからです。今回もこの伝統は守られるでしょうね。とはいえ、開催国の南アフリカは論外なので、優勝は優勝経験国に絞られる。その優勝経験国は、
・南米 ブラジル アルゼンチン ウルグアイ
・欧州 イングランド イタリア フランス ドイツ
の7カ国だけなんですね。このなかでまずありえないのが、ウルグアイとフランスでしょう。アルゼンチンも厳しい。北京五輪でアルゼンチンが優勝したとき、南アW杯もアルゼンチンがもっていくだろうと思ったものですが、なにかの間違いでマラドーナが監督になってしまった。メッシという世界屈指のスーパースターを抱えているのに、マラドーナが監督のままだと優勝なんてありえませんよね。切りたいのに切れない監督、という点ではジーコJAPANとよく似てます。今の浦和レッズもそうだけど(環大も似たよなもんですかね??)。
W杯の優勝国にはもう一つ鉄則がありまして、「アメリカ大陸で開催されるときは南米の国が勝ち、欧州で開催されるときは欧州の国が勝つ」のです(例外は一度だけ)。今回はやっかいなんだな。緯度でみれば南アは南米と同じグループだけれど、経度でみればヨーロッパと同じグループになる。中立地という点では日韓W杯がそうなんですが、あのときはブラジルが勝っているので、今回はヨーロッパではないか、という気がなんとなくしています。
ブラジルはコンフェデを制して勢いがあるけれども、4Rを抱えたころのスーパーチームに比べればかなり見劣りがしますね。カカを抑えれば、あとはスターと呼べる選手はいませんから。
[大予想! 南アW杯(Ⅱ)]の続きを読む
- 2009/12/17(木) 00:46:26|
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グループリーグの悲劇 抽選会からもう10日過ぎちゃったんだな。そろそろ重い腰をあげて、コメントしましょうかね。
まずはいつものように自慢話ですが、2006ドイツW杯、わたしは本ブログ上において「日本は勝点1のグループリーグ敗退」及び「イタリア優勝」を
予想し、結果はそのとおりになりました。さて、2010南ア大会はどうだろう?
正直、サッカーに関する情熱が失せていましてね。自分がミニゲームを楽しむのは良いとして、プロスポーツとしてのサッカーにあんまり触覚が動かなくなっています。唯一例外だったのはユーロ2008ですが、それ以外でサッカーを堪能したっていう経験を思い出せない。だから、あんまり自信はありません。
しかししかし、それにしても、日本は最悪の組に入っちまいましたね。E組はオランダ、デンマーク、日本、カメルーンだって。北朝鮮のいるG組もきついけど(ブラジル、ポルトガル、北朝鮮、コートジボアール)、E組ほどではないね。今回の抽選は、シードから外れたフランスとポルトガルがどの組に納まるかに注目があつまっていましたが、どっちもそんなに強くないよ。両方とも監督が良くないからね。ドメネクとケイロスでしょ。いずれ自爆は免れないでしょう、この両国は。それにくらべたらデンマークはかなわんな。ここは強いでしょう。組織力があるし、速いし、高いし、日本が勝点をとれる可能性はきわめて低い。カメルーンもヤだね・・・エトーを抑えられるディフェンダーは日本におりません。
ここで 日本の勝点=x とおけば、
0<x<2
というところが無難な推測でしょうね。つまり、3戦全敗か、1分2敗か、2分1敗でグループリーグ敗退・・・もう一歩詰めて予測すると、前回に続き「勝点1でグループリーグ敗退」じゃないかな・・・勝点2以上とれたなら大成功ではないでしょうか。
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- 2009/12/16(水) 00:00:04|
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サロマ湖の牡蠣(Ⅳ) 今回のブログはミッキーが担当します。今回のプロジェクト研究は、研究室の皆さんが修復している加藤家住宅で、今まで自分たちが調べてきた資料をワードでまとめ、簡単なプレゼンを行いました。そして、先生や先輩方のはからいで、発表後「
サロマ湖の牡蠣」までいただきました。牡蠣についてはプロ研の報告後に触れたいと思います。
今回の発表会の内容は以下の通りです。レポート形式でこれらの内容を掲載します。
(1)序 (2)摩尼山摩尼寺 (3)不動院岩屋堂 (4)岩屋山千手院
(5)霊石山と最勝寺 (6)まとめ
序 1年生のFさんが「修験道」「密教」の基本を概説し、山という漢字を「セン」と読む鳥取県の分布図を示しました。私を含めた全員が、修験道、密教という複雑で難しいテーマに苦戦しているのを感じられた先生が、認識の不透明な部分を、丁寧に噛み砕いて話してくださいました。
修験道とは、日本古来の山岳信仰に神道や仏教など、さまざまな要素が混じり合ってできた日本独自の宗教である。ただし、ここで勘違いしてはいけないのが、神道や仏教は古来の山岳信仰よりも後から導入もしくは成立したものであり、修験道はそれらの融合として平安時代以降に成立したとみなされがちですが、その大元にある山岳信仰は神道・仏教以前の信仰形態だということでしょう。修験道にとって最も重要な変革点は、6世紀前半に百済からもたらされた仏教が山岳信仰と接触した時でしょう。一方、神道はといえば、仏教勢力の増幅に対する反発として天皇家を中心に日本古来の祭祀を体系化したものと考えられますが、宮中祭祀の影響が濃厚であり、宮中祭祀を媒介として中国の陰陽五行・易・道教などの諸思想が神道に含まれるようになったと考えられます。修験道は山岳信仰と仏教が融合する段階を出発点として、その後、神道の影響も受けるわけですが、神道がもっている陰陽五行・易・道教の要素も修験道に含まれるようになっていくのです。

密教についても発表がされましたが、これもまた複雑でした。キリスト教などの宗教は超越した対象物を信じ、すがることで幸福を招来するという性格をもっています。しかし、本来のインド哲学(古代仏教)はそういうものではない。「宗教」とは少し異なるものなのです。仏教とは古代インドの哲学であり、根本は誰かを信仰するということではありません。人間はみな「仏性」を備えており、その仏性を高めるために個々が修行する。修行の頂点にあるのが解脱、すなわち「悟りを開くこと」であり、それにむけての修行を「実践」することこそが重要なのです。
インドで7世紀ころにおこった密教は、釈迦という存在を宇宙の普遍的原理の一つのサンプルにすぎないとし、普遍的原理の中心にあるのは「大日如来」だと説きます。アインシュタインの相対性理論にも似た宇宙論を密教は説いているそうですが、経典の解釈に偏る文献研究を忌み嫌い、真理を会得するためには秘密の「修行」が不可欠であると考えています。おいもしろかったのは、Fさんが「密教は仏教の一派」と説明したことに対して、先生は「中学・高校ではそう習ったかもしれないが、密教の側がら言えば『仏教が密教の一派』というべきなんだ」と指摘されたことです。
鳥取県の「センと読む山」について、分布図も発表されました。鳥取県をはじめ、中国地方には~山を「ヤマ」「サン」ではなく、「セン」と呼ぶ山が多く存在するそうです。たとえば、扇ノ山,氷ノ山,那岐山,大山など。「セン」は呉音であり、隋唐以前の南北朝期における南朝の仏教が鳥取を初めとする中国地方の山岳信仰に影響を与えていた証拠となるようです。注目したいのは、仏教のユートピアをさす「(須)弥山」もまた山を「セン」と読むことですね。
摩尼山摩尼寺 「奥の院」についての資料がなかなか見つからないようです。開基伝説も竜女伝説と円仁縁起の両方があって、歴史的にみると前後関係に矛盾がみとめられます。ご住職や郷土史家などにヒアリングを行うことによってデータを充実させるという今後の課題が見えてきました。
不動院岩屋堂と岩屋山千手院 この2つはとても関係の深い縁起をもっています。両方とも文献だけでは研究が進行しないので、ブログにもコメントが入っていますが、まずは黒住教関係のヒアリングを始めようということになりました。
[第11回「修験道トレッキング -山の歴史を歩く-」]の続きを読む
- 2009/12/15(火) 00:04:28|
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ずっとソファで眠っています。
土曜日の昼、ホームドクターの検診をうけ、家に戻って薬を飲んだ。以後、記憶があるのは、天皇杯「仙台-川崎」戦と夕ご飯を食べながらみた「
ヒーロー」映画版だけ。あとはずっと眠っています。黒猫が送ってくれた加藤家住宅構造補強図もチェックできないまま、「下書」にたまっている新しいブログ記事もアップできないまま時間が流れていくので、事情を説明することにした次第。
肩が痛くてね・・・肩というよりも、肩に近い背中の筋なんだけど、ひと言でいうなら「けんびき筋」か。けんびき症状のときは、体の筋を根っこから引き抜いてしまいたくなる。根っこからツリー状にひろがっているけんびき筋を引き抜いてお湯につけ、若布のようにぶよぶよになるまでほぐし体にもどす。
こういう治療をして、けんびき筋の痛みや凝りをとらない限り、睡魔は消えないだろうね。
- 2009/12/14(月) 00:00:44|
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昨日、「サロマ湖の牡蠣」を炉端でいただいていた時、大阪のテレビ局から電話あり。正月5日のニュースの特集に、推定「卑弥呼の館」の復元を使いたいとの申し入れがあって、もちろん快諾し、準備に奔走し始めたところです。
さてさて、講演会もすでに決まっています。本日、事務局に電話連絡したところ、来週にはチラシ2000枚が刷り上がるそうです。ブログのネタも切れてきましたので、一足お先に「予報」としてお知らせしておきます。
主催: 智頭枕田縄文遺跡の会
日時: 正月17日(日)午後2時~4時
会場: とりぎん文化会館第2会議室
講師: 浅川 滋男
演題: 推定「卑弥呼の館」をめぐって
-青谷上寺地の建築部材による纒向大型建物の復元-
前回の
公立埋文協の講演は専門家を対象としたものでしたが、今回は一般公開の講演です。
多数のご来場をお待ち申し上げております。

↑それでは、またまた未発表のサービス・ショットを1枚。もちろん転載はみとめられませんので、ご注意ください。
- 2009/12/13(日) 00:00:40|
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![広州ふれあいウォーク・白雲山大会(2009[1].11.29開催)のコピー](https://blog-imgs-35-origin.fc2.com/a/s/a/asalab/20091211014144fb1.jpg)
「開平の望楼と村落」を視察した翌日、「白雲山ウォーキング」を迎えた。旅達会員限定ツアー「ふれあいウォーク」シリーズは年に8~9回、アジア各地の名勝地を現地の人びとと歩くツアーでして、複数の添乗員だけでなく、エグゼクティブまで参加するANAが社運をかけた取り組みのようです。常連客が多いみたいですね。
わたしがこのツアーに参加したのはただ世界遺産「開平の望楼と村落」をみたかったからだけで、白雲山ウォークはおまけにすぎなかったのだが、ツアーの主旨は真反対で、前日の世界遺産見学がおまけなのだということを知らなかったんですね。スタート地点の記念撮影(↑)をご覧ください。大盛況でしょ。日本からのツアー客、現地参加の日本人に加えて、ANAの幹部とガイドさん、広州旅游局の幹部、さらには広州外語学院日本語科の学生50名以上が参加する大イベントでした。
会場に着いたら大変な人だかりで、スピーチは長いし、記念撮影はあるし、おまけに「外語学院の学生とペアを組んでください」との指示まで頂戴しました。外語学院の学生さんは9割が女子なのね。女子大生ばっかり。
顔が蒼ざめましたね。わたしは身を翻し、脱兎のごとく、先陣を切って孤独の旅路を歩み始めたのです。勘弁してくれよ・・・この世の中で苦手なものは「歯医者とキウリ」だと公言している小生ではありますが、本心を打ちあけますと、さらに苦手なものは女子大生でしてね。「世代の差」というのは、如何ともし難い。話が通じないんだから。長続きするわけないんだから。大学において、1対1で女子大生と10分以上お話しすることなんてないのに、初対面の中国人女子大生と2時間以上も、いったい何の話をするんだ??
おまけに、今回のお相手は中国の一人っ子たちですよ。「小后妃」として育った中華思想の固まりのような娘さんたちです。いくらわたしの中国語が下手くそだとはいえ、中国人学生の日本語よりはましだから、話がやっかいなってきたら中国語の会話に変わっちまうに決まってるんだ。勘弁してくれ・・・お願いだから、おれを一人にしてくれ、自由に歩かせてくれ・・・と歩を速めていたところ、後ろからANAの女性添乗員(日本人)が猛烈なダッシュでおいかけてきた。そして、「すいませんが、こちらの学生さんとペアを組んでください」との詔。(あなたとのペアならいいですが)と言いたいところをぐっとこらえて、にこやかに笑みを浮かべ、「はい、分かりました」。

ペアを組んだのは、3年生の朱さん。いい方でした。中華思想をあまり感じないので、不思議に思っていたところ、「3人兄妹の真ん中」だとのこと。彼女の説明によれば、親が罰金を払ったそうです。でも、ちょっとおかしいな・・・ひょっとしたら、彼女は漢族ではないのかもしれません。広西から広東にかけてチワン族がたくさん居るし、回族の可能性もある。少数民族の場合、出産制限はないのですよ。
驚いたことに、彼女は3合目あたりで早くも息を切らし始めた。8キロを2時間で歩くウォークとはいえ、緩いゆるい車道である。高齢の参加者でさえ元気に歩いているのに、彼女は息もたえだえ。どうやら、勉強しすぎて運動不足らしい。1週間後に日本語の検定試験が迫っているので、どうしてもこの日は生の日本語に接したかったそうだが、往復16キロのウォークにはげんなりしている(日本人のみ下りはロープウェイ)。
わたしは歩を緩め、少し休んで、彼女に日本からもってきた「男梅」のキャンディをさしあげた。あとで教えてくれたのだが、「男梅」を舐めてから体調が回復していったそうだ。

↑白雲山古寺遺跡。宋代開基の仏寺を日本軍が破壊した。
[ふれあいウォーク広州・白雲山大会]の続きを読む
- 2009/12/12(土) 00:21:45|
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一昨日、買ったばかりの『アエラ』1
2月14日号を企画広報課にもっていったら、カウンターのまわりにちょっとした人だかりができて、みんな大きな復元CGが掲載されていることを喜んでくれた。話が弾むなか、わたしはカウンターにおいてあった一つのパンフレットをみて目が点になった。あれっ、表紙にオレの写真が使ってある。なに、これっ? 聞いてないよ、聞いてませんよ・・・
そのパンフレットは『鳥取環境大学研究図鑑』と題してあり、その下に「10月4日(日)オープンキャンパス開催」という副題がついている。ということは、9月ころから配布されていたんだろう。
そうか、そういえば、
8月4日のオープンキャンパスでリクルートの取材をうけたぞ。研究科長という重い職責にありながらアロハシャツで受け答えしたのがまずかったのかな・・・何の連絡もないし、たぶん取材記事はボツになったんだろうと思いこんでいたのだが、こんなところで使われていたんだ。
で、ある女子職員がおっしゃるのです。
「スリムですね!」
ほんとだ、スリムだ。あごの下にぶよぶよの肉がついていないし、肩幅も狭い。学科コーナーの写真をみてもウェストが「ある」ではないの・・・あのころ、わたしはこんなにスリムじゃなかったよ。スロージョギングやミニサッカーに精を出していたのはたしかですが、やっぱり
マラドーナのように太っておりました。
ということはですね、これは修正写真じゃないでしょうか。フォトショップか何かで、デザイナーさんが整形してくださったとしか思えません。
というくだらないお話でした。
- 2009/12/11(金) 00:00:18|
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十数年前に広州の陳氏書院を訪れた際、1本15元で印鑑を作ってくれるというので、猿鈕の角印(陰刻)を注文した。以来、それが事務処理におけるわたしの公印になった。その印も歳をとった。床に落としたり、机の縁にあてたりして、角が欠け、文字の一部が失せている。
先月の
広州ツアーでも陳氏書院を訪れた(↑)。すっかり修復が進み、かつてのさびれた面影はなく、広州陳氏の大宗廟として訪問客を圧倒している。印鑑も売っていなかった。ところが、ツアーバスのなかで、瑪瑙の印鑑を1本1000円で売るとガイドが言いだした。何文字彫っても千円なのだそうだ。大半の客は興味を示さない。中国旅行を経験しすぎていて、すでに何本も印鑑を作っているからだろう。わたしも、おそらく中国で彫った印鑑を10本ばかりもっている。しかし、事務処理用の印はそろそろ代替わりしないといけない。丸い陰刻を注文することにした。
印の字体を決めてから、またしばらく考えた。そうだ、研究室の印も作ろう。何文字でも千円なのだから安い買い物ではないか。ということで、できあがったのが下の印である。正直、フォントに不満があるが、ローマ字の字体までは選べなかった。
増し刷りした報告書の領収書などに使えるだろう。
- 2009/12/10(木) 00:00:18|
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11月2日から始まった「卑弥呼」騒動といいますか・・・「纒向」騒動・・・研究室ではすでに過去の出来事となって、各スタッフは本来の仕事に戻っておりますが、復元研究の第1ステージにピリオドをうつ『アエラ』12月14日号が7日(山陰では8日)に発売されました。
表紙は秋吉敏子の旦那、ルー・タバキンじゃなかった、イケメンの玉木宏でして、目次には、な~んと、
卑弥呼は「奈良」にいたの大見出し。さらに52ページをめくれば、
卑弥呼が住んだ「太陽と水」の宮殿
-精密CGで邪馬台国の中心部を再現-の記事。ごっつう大きなCGが紙面を占拠しております。ここから4ページは「纒向=邪馬台国」派の記事でして、55ページには「『卑弥呼の宮殿』大胆に復元」のコラムがあり、ASALABの復元方法が紹介されています。今回は私のたっての希望で「青谷上寺地遺跡の建築部材による復元」であることを強調していただきました。
56~57ページは「吉野ヶ里それでも徹底抗戦の理由」の見出しで、「北九州=邪馬台国」派の反論がずらりと並んでおります。どういうわけか、九州派が反論するページにもASALAB制作の大きなCGが掲載されております。わたしは、邪馬台国の所在地について一定の主張をしたことはありませんが、九州説の論客の顔ぶれをみるだけで「駄目だな」と思いますね。名前だけは知られているけれども、考古学者とはとても言えない人たちがヒステリックに反論しているだけ。「魏志倭人伝との整合性がなにより重要だ」なんて、中国史を知らない素人の発言としか言いようがない。倭人伝の記載が正しいのか否か、その史料批判こそが重要なのであって、記載を「事実」として、あるいは「前提」として受け入れていること自体、「歴史学が分かっていません」と吐露しているようなものでしょう。
以上、6ページにわたる特集に掲載されている大判の復元CGは、これまで
朝刊や
夕刊に公開してきたものとはまったく異なる最新バージョンです。
ぜひともお買い逃しなきよう、本屋さんにお立ち寄りください。税込み380円。安いね!

↑それでは、アエラには未掲載のサービス・ショットを1枚。もちろん転載はみとめられませんので、ご注意ください。
- 2009/12/09(水) 00:21:51|
- 研究室|
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12月3日(木)。この日は天候が悪く、雨が降っていたので、鳥取県立図書館に行きました。行く前に先生や先輩たちばかりに頼ってばかりでなく自分たちでやることを考えるようにしないと駄目だと先生に言われ、本当に頼りっきりだなと反省しました。
図書館で調べる前に図書館横の広いロビーで1・2年、3・4年に分かれてこれからのことについて話し合いました。私達が話し合っている間、先生と院生のエアポートさんはどこかに行かれて、別のミーティングをされているようでした。ミーティングも自主的にせよ、という暗黙の指示ですね。
最初に、発表会に向けて一人ひとりの役割分担を決めました。
(1)序章(2)摩尼山・摩尼寺(3)不動院(4)千手院(5)三角山・霊石山(6)まとめ
という構成で決まりました。
それぞれ決まったテーマについての文献を探したり、わからない単語を調べたりする作業をすることになりました。あとから、先生が再び合流され、話し合いの結果についてコメントされました。たとえば、それぞれの役割分担がある中で序章は興味を持たせたりするようなものを作らないといけないとのことで、それぞれの内容とともに重要な役目をするものだと思いました。序章に続き興味や関心を途切れさせないようなものができるように頑張ろうと思います。
そして、来週からのスケジュールについては、自分たちで決めたことと先生の意見を参考にしてして話し合い、来週は役場などにヒアリングに行ったり、実地調査をしたり、そして再来週は年内最後の活動になるので大まかな構成など含めた「ミニプレゼン大会」を加藤家住宅で開催するということになりました。「大会」と名付けられ多少楽しげに聞こえるのですが、プレゼンするのは苦手なので正直気が進まないなと思いました。
年初は先輩たちの発表をするそうなので楽しみです。それから発表本番前のプロ研については、本番のリハーサル的な練習をすることに決まりました。
県立図書館は市立図書館に比べ、本や資料の数が多く、沢山借りている人もいました。また来て今回見つけたもの以外にも何か参考になるものを見つけられたらと思います。まだ歴史や宗教などについて、理解できてないことが多いので、発表までにはそれぞれ言葉の意味や内容、つながりなどが分かるようにして、印象に残る発表ができるようにしたいです。(環境デザイン学科2年 M.H)
- 2009/12/08(火) 00:30:48|
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第13章 劉ばあさんの口から出任せp.78-81:岡垣訳
1.平児が庭から戻ってくると、劉ばあさんが板児を連れてまた来ていて、おまけに
新鮮な野菜や果物をいくつか持ってきているのが見えた。周瑞の妻(王夫人の
侍女)が劉ばあさんとおしゃべりしている。劉ばあさんは平児が入ってきた
のがわかると、あわてて床に飛び降りてご機嫌をうかがった。
2.しばらく話をした後、劉ばあさんは挨拶してその場を立ち去ろうとした。
この時、鳳姐(王熙鳳)はちょうど賈母のところにいて、周瑞の妻は劉ばあさんを
接待しつつ、賈母と鳳姐のところにいって一声かけた。
【セリフ】
劉ばあさん:「遅くなりましたし、私たちも帰りましょう。」
3.しばらくして、周瑞の妻は戻ってきて言った。
「おばあさん、あなたは実に幸せですね。老婦同士の縁で、賈母様はあなたに
来てもらいお話がしたいそうですよ。」
4.劉ばあさんと板児は賈母の部屋にやってきた。宝玉と姉妹たちが賈母を取り
囲み、すぐそばでおしゃべりをしている。劉ばあさんは家中の花枝がゆらぐ
ほどの美人をみて、思わず目がくらんだ。榻(長椅子)の上に一人の老女が横
たわりながら、下女がかたわらで、彼女の足をたたいていた。
5.劉ばあさんはその老女が賈母であることがわかると、あわてて前に進み出て、
愛想笑いをして言った。
「長寿の奥様、ご機嫌いかがですか。」
賈母は、腰をうかせて挨拶し、人を呼んで劉ばあさんに茶を出し、席を譲らせ
て言った。
「今日は親戚の対面をしたわけですし、お嫌でなければ、ここに2~3日泊まり
なさいよ。」
6.鳳姐も言った。
「おばあさん、2~3泊していってくださいよ。あなたたちのところの最近の
話題を賈母様に聞かせてちょうだい。」
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- 2009/12/07(月) 00:05:07|
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世界自然遺産ハロン湾の文化的景観楊: 君は中国にはさっぱり来なくなってしまったけれども、海外ではどこに行って調査をしていたの?
A: ここ3年ばかり、ベトナムの世界自然遺産ハロン湾の水上集落について調査を続けています。「文化的景観としての水上集落論-世界自然遺産ハロン湾の地理情報と居住動態の分析-」(2007-09年度科学研究費補助金萌芽研究)によるものです。ハロン湾は世界自然遺産に登録されているのですが、湾内におびただしい水上居民がいて各地に水上集落を形成しています。家船や筏住居からなるその集落が自然遺産の海面景観の質を高めているんです。水上居民の集落を含む場合、それは「自然景観」ではなくて「文化的景観」と呼びうるものなんですが、水上居民(漁民)の生活の変化により文化的景観も不断に変化し続けています。その景観をどのように管理していくのか。そういうテーマで調査研究に取り組んでいます。
楊: 水上居民というと、中国では両広(広東・広西)の「蛋家」が有名だけど、ベトナムの水上居民も同じようなイメージで捉えてよいのかな?
A: ルーツを辿れば似たようなものかもしれません。東アジアの沿海域や大河川に水上居民はひろく分布していますから。
楊: 「蛋家」や「蛋民」と呼ばれる船上居住者はかつて広州や香港に溢れていたけれども、いまは政府の方針もあって陸上がりが奨励され、純然たる水上居民はもうほとんどいないんじゃないだろうか。
A: えぇ。ところが、東南アジアは今でも水上居民がたくさんいます。とくに、ベトナムでは水上居民の人口が微増の傾向を示しています。
楊: それはまたどうして?
A: ハロン湾の場合、世界遺産になったことで観光客が増えました。それが一つの収入源になる。もう一つは漁撈から養魚・養殖へ生業が転換していったことで、漂泊的な生活から定住化が進んでいきました。収入も安定してきて、水上集落にカラオケ店とか蒸留水の販売店などが入り込んできて、ちょっとした都市化の様相すら見え始めているのです。また、漁民たちは「陸あがり」を警戒しています。陸にあがっても自分たちができる仕事がないし、知人もいないからです。
楊: 都市化が進むと、自然遺産の景観に悪影響を与えるんじゃないかな?
A: そのとおりです。ですから、景観をコントロールするための制度や計画が必要になるわけです。ハロン湾の遺産管理局は、水上居民の住宅性能を向上させながら環境汚染を防ぐ方法を呈示しているのですが、そこに「景観」という視点が抜けている。景観の重要性をなんとか居住者や行政に理解してもらいたいと思って活動しています。
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- 2009/12/06(日) 00:00:27|
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文物・博物・考古関係論著の全国第1位!楊: そうそう、君が中国に来ないあいだに大きな賞をもらったんだよ。
A: そうなんですか。先生が受賞されたと聞いても、当たり前のことのように思えてしまうのですが、このたびはどんな賞を?
楊: 国家文物局の機関誌『中国文物報』を知っているでしょ?
A: はい。
楊: 2001年にね、『中国文物報』が「20世紀でもっともすぐれた文博考古図書の全国人気投票」を公開でおこなったんだけれど、わたしの『建築考古学論文集』(文物出版社、1987)が「論著類」部門で第1位に選ばれたんだよ。
A: 文物・博物・考古の全分野のなかの全国第1位ですか!?
楊: そう、歴代の全国1位さ。郭沫若が6位、夏鼐先生は4位で、わたしが1位だったんだ。
A: (絶句して)・・・それは凄いことですね・・・
楊: ほら、ここに新しい『建築考古学論文集』をもってきてるんだけどね。
A: あれ、ずいぶん厚くなって装幀が変わりましたね。
楊: 受賞を記念して、2008年に清華大学出版社から増補改訂版が出たんだ。これは君に贈呈しましょう。
A: ありがとうございます。(しばしページをめくり)659ページの論文集ですか・・・まいりますね。日本語に翻訳したら、軽く1500ページを超えるでしょう。わたしも、最近の研究成果をもってきているんですが、恥ずかしいなぁ・・・133ページの研究報告書です。
王: なに言ってるの、あなたはまだ若いわ。主人の歳まで、まだ25年以上あるじゃない。

左:『建築考古学論文集』初版本(1987:331p.) 右:『山陰地域の弥生時代建築に関する実証的復元研究』(2008:133p.)
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- 2009/12/05(土) 00:08:37|
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1992年の4月から7月まで、わたしは学術振興会の特定国派遣研究員として中国に短期留学していた。北京の中国社会科学院考古研究所(考古研)を拠点として、「中国早期建築の民族考古学的研究」というテーマに取り組んでいたのである。そのときの指導教官が「
大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観」シンポジウム(2010年2月10日@倉吉未来中心)の特別講師として招聘する楊鴻先生であった。
楊先生は1931年の生まれで、清華大学建築系を卒業後、考古研の初代所長、夏鼐先生に請われ考古研に入所した(現在は「名誉教授」に相当するポストだが、中国の場合、退職後も「教授」と呼ぶのが通例である)。過去も今も考古研で唯一の建築史学者である。考古研においては遺跡から出土した建物跡の復元をミッションとされ、「建築考古学」の分野で圧倒的な存在感を示している。緻密な考証に加えて、芸術作品にも劣らない迫力ある復元パースに読者は度肝を抜かれる。その成果をまとめた最初の専著が『建築考古学論文集』(文物出版社、1987)である。
わたしは大学院在籍時代に「民族建築学」を専攻し、西南中国少数民族建築の研究を進めていたが、1987年の奈良文化財研究所(奈文研)入所と同時に平城宮跡の発掘調査に携わるようになり、自ずと先史・古代の「建築考古学」的研究に手を染め始めていた。自らの研究史を振りかえるとき、考古研での短期留学が「民族建築学」から「建築考古学」に方向性を転換する決定的な契機となったことは間違いない。その時期に指導をうけたのが楊先生だったのである。
その後、楊先生は奈文研や京都大学の招聘により、いくたびか来日されるようになった。長期来日の場合、奥様の王秀蘭先生をよく同伴された。わたしが拙い中国語で通訳を務める機会がしばしばあり、私的にも家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていたのだが、環境大学着任とともに、その交流が途絶えてしまった。わたし自身の興味が東南アジア、シベリア、ヨーロッパへとひろがる一方で、訪中の機会は著しく減ってしまったのである。2002年、テレビ番組の収録で雲南省を訪問したのを例外にして中国の地に足を踏み入れることはなくなり、それは2007年末の
両広訪問まで続いた。時流とは不思議なもので、ここで途絶えていた流れが復活し、2008年秋には北京で開催された日中韓建築学会合同の「第7回アジアの建築交流国際シンポジウム(
7th ISAIA)」に出席。このとき、楊先生との8年ぶりの再会が実現した。
2008年10月16日、学会での司会を終えたわたしは二人の同僚(C准教授・Y助教)とともに楊鴻・王秀蘭ご夫妻と夕食を伴にした。会場は景山公園前の「大三元」である。
8年ぶりの再会楊: ほんと久しぶりだね。いったいいつ以来の再会になるのかな?
A: たぶん2001年の1月ころではなかったかと思います。あの年は奈文研と考古研が共同で進めていた漢長安城
桂宮発掘調査の最終年度で、わたしは調整係のような仕事を任されていて、年に3度のペースで中国に出張していました。すでに環境大学への移籍が決まっていたのですが、当時の部長が「考古研には挨拶に行っておいたほうがいいよ」と薦めてくださいまして、そのお言葉に甘えて北京まで同行し、考古研の皆様にご挨拶させていただきました。そのとき、別の席で楊先生にもお目にかかった記憶があります。
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- 2009/12/04(金) 00:00:30|
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千手院窟堂の再調査 11月26日(木)。
第5回のプロ研で大きな岩窟と平坦面を発見し、その後は3・4年生が測量を続けている「千手院窟堂」を再訪し調査をしました。天気は晴れで温かく、外で活動するには丁度いいと思いましたが、現場に行くと空気が冷たくてかなり寒かったです。行く前に先生が「温かい格好で行かないと向こうは寒いからねぇ」と言っていたし、1年生の一人がニット帽・マフラー・手袋を装着していて「そんなに寒いかなぁ?」と疑っていましたが、ホントに寒かったです。
今回は2グループに分かれて活動しました。1年生は歩測によって、千手院の周辺に棚田のように広がる石垣に囲まれた平坦地の範囲と位置を確認し、簡単な測量図に描きあらわしていく作業をしました。

一方、2年生は千手院の「窟堂」に行き、先輩が測量をしている中に混じって岩窟のスケッチをしました。岩窟を描くのは難しくて苦労させられました。
途中から先生が到着されて作業のチェックをされたのですが、一通り全員のしていることを見たら、
「私は中華人民共和国に行ってきますからね」
と言い残して立ち去っていかれました。その時は冗談かと思っていて、後から先輩に聞いたら週末、ホントに中国に行くということだったので、海外に出かけられる仕事をされているなんてスゴイと思いました。
先生が帰られてからも、それぞれの作業を続けていましたが、測量の機械でプリズムと呼ばれる反射鏡が見えづらいようで、2人の先輩が、かなりすごい体勢で何本もの障害物となる木をどかしていました。機械で見ながら指示を出していた先輩が「面白い光景だな」と言っていたのが印象的で面白かったと同時に、僕はそんな体勢になりながらも測量を頑張っている先輩に負けないようにスケッチを描き進めていきました。17時を過ぎたころに測量の撤収作業が始まったので引きあげました。最近は17時くらいを過ぎたら一気に暗くなっていくので、少しでも作業が伸びたりしたら辺りが見えなくなるので、車まで戻るのが大変になってきています。
[第9回「修験道トレッキング -山の歴史をあるく-」]の続きを読む
- 2009/12/03(木) 00:00:31|
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