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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

楊鴻先生と語る(Ⅰ)

 1992年の4月から7月まで、わたしは学術振興会の特定国派遣研究員として中国に短期留学していた。北京の中国社会科学院考古研究所(考古研)を拠点として、「中国早期建築の民族考古学的研究」というテーマに取り組んでいたのである。そのときの指導教官が「大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観」シンポジウム(2010年2月10日@倉吉未来中心)の特別講師として招聘する楊鴻先生であった。
 楊先生は1931年の生まれで、清華大学建築系を卒業後、考古研の初代所長、夏鼐先生に請われ考古研に入所した(現在は「名誉教授」に相当するポストだが、中国の場合、退職後も「教授」と呼ぶのが通例である)。過去も今も考古研で唯一の建築史学者である。考古研においては遺跡から出土した建物跡の復元をミッションとされ、「建築考古学」の分野で圧倒的な存在感を示している。緻密な考証に加えて、芸術作品にも劣らない迫力ある復元パースに読者は度肝を抜かれる。その成果をまとめた最初の専著が『建築考古学論文集』(文物出版社、1987)である。
 わたしは大学院在籍時代に「民族建築学」を専攻し、西南中国少数民族建築の研究を進めていたが、1987年の奈良文化財研究所(奈文研)入所と同時に平城宮跡の発掘調査に携わるようになり、自ずと先史・古代の「建築考古学」的研究に手を染め始めていた。自らの研究史を振りかえるとき、考古研での短期留学が「民族建築学」から「建築考古学」に方向性を転換する決定的な契機となったことは間違いない。その時期に指導をうけたのが楊先生だったのである。
 その後、楊先生は奈文研や京都大学の招聘により、いくたびか来日されるようになった。長期来日の場合、奥様の王秀蘭先生をよく同伴された。わたしが拙い中国語で通訳を務める機会がしばしばあり、私的にも家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていたのだが、環境大学着任とともに、その交流が途絶えてしまった。わたし自身の興味が東南アジア、シベリア、ヨーロッパへとひろがる一方で、訪中の機会は著しく減ってしまったのである。2002年、テレビ番組の収録で雲南省を訪問したのを例外にして中国の地に足を踏み入れることはなくなり、それは2007年末の両広訪問まで続いた。時流とは不思議なもので、ここで途絶えていた流れが復活し、2008年秋には北京で開催された日中韓建築学会合同の「第7回アジアの建築交流国際シンポジウム(7th ISAIA)」に出席。このとき、楊先生との8年ぶりの再会が実現した。
 2008年10月16日、学会での司会を終えたわたしは二人の同僚(C准教授・Y助教)とともに楊鴻・王秀蘭ご夫妻と夕食を伴にした。会場は景山公園前の「大三元」である。

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 8年ぶりの再会

楊: ほんと久しぶりだね。いったいいつ以来の再会になるのかな?

A: たぶん2001年の1月ころではなかったかと思います。あの年は奈文研と考古研が共同で進めていた漢長安城桂宮発掘調査の最終年度で、わたしは調整係のような仕事を任されていて、年に3度のペースで中国に出張していました。すでに環境大学への移籍が決まっていたのですが、当時の部長が「考古研には挨拶に行っておいたほうがいいよ」と薦めてくださいまして、そのお言葉に甘えて北京まで同行し、考古研の皆様にご挨拶させていただきました。そのとき、別の席で楊先生にもお目にかかった記憶があります。

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  1. 2009/12/04(金) 00:00:30|
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